資本主義主義論
資本主義(自由主義)論
「2025年の世界予測」中原圭介の感想、資本主義で貧困層は増えない、量的緩和は株高にする
資本主義が終焉しない理由
『資本主義の終焉』批判
1,経済ゼロ成長というまやかし
2,なんにでも終焉をつけるのは、全共闘のトレンド
資本主義の可能性 貨幣なしの資本主義も理論上ある
資本主義は残る たとえ社会思想が活力をもたなくなっても
里山資本主義の正体 薪発電のこと
里山資本主義の正体 実はバイオマス発電 補助金づけ必至
新自由主義
社会主義とは?
100人の村がある。その代表の1人が計画を作り、運営する。他の99人は、その命令を聞いて、働く。残りの99人には何の決定権もない。なぜ、1人だけにしか統治権がないか? 2人いたら、2つのリーダーが統治することになり、村が分裂するからだ。何を決めるのも、1人。だから、独裁なのだ。
他の99人の主権を奪う社会といえる。100人のうち、1人が王で、99人を奴隷にする社会。100人のうち1人の意志を認め、99人の意志はなきものにする社会である。1人の統治権を認め、99人のそれを制限する。1人の社会的な自由を認め、99人の結社の自由を認めない社会である。1人の資本家と99人の労働者という制度である。
自由主義とは?
100人のうち、100人の自由を認める制度だ。100人のうち、100人が好きなことをできる制度である。100人の創造性が社会を発展させる。
日本は、結社の自由が名実ともに認められる。企業や会社を自由にたくさん作れる。よって、日本はけっして社会主義ではない。
さえない経済学者が、『日本は社会主義だ。』と、デタラメなことを言う。社会主義のなんたるかも知らない輩だ。日本が社会主義ならとっくに企業は廃止され、全て国営である。企業があるうちは、部分的にも社会主義にならない。
さて、自由主義と社会主義とどちらが優れているか?
社会主義は、旧ソ連のように、巨大な不効率な組織である。個人の人権(結社の自由)を奪うことで、成立する。そこで、グループ活動が自由にできない。常に、国家の許可と指示が必要である。国に命令されてばかりいる会社は、必ず破綻する。こんな社会主義国家では滅びこそすれ、発展できない。
自由主義では、個人は自由に活動できる。会社(組織)を作ることもできる。それら大小たくさんの会社・個人が活躍して、全体的にバランスがとれる。個人個人が創造性を発揮できる。それで成長も早い。社会主義では、中央の目が届かない地方からすぐにさびれた。が、自由主義の国では地方もそこに住む人々が自由によくしようとするから、活気が保たれる。多くの活気ある組織が、国の中にたくさんあるのが自由主義国だ。自由主義のほうが社会主義よりも、優れている。
社会主義の効率性の悪さをコンピューターを例に説明する。すべての情報を国に集めて、そこで決定するのが社会主義だ。いわば、大型コンピューターで、国内のあらゆるデータを集めて、判定してゆく。そして、それを、命令系統に沿って、各地に伝えるようなものだ。これは一見、便利に思えるかもしれない。が、中央コンピューターが壊れたり、1つ判断を間違えると国全体が間違えるといったことがあり、リスクが大きい。
最近、主流のプライベートのコンピューター。PC。こちらは一人一人にコンピューターを与えて、それぞれに情報処理する。判断する。今は、インターネットで世界中のPCがつながっているが、こちらが主流だ。誰も、どこかの大型PCの判断を伺おうとはしない。各自、手持ちのPCに計算させる。そちらが使いやすいからだ。もし、本当に社会主義が理想なら、大型コンピューター1つあればよい。個人は、通線回線で情報を中央にあげる。中央のコンピューターが判断して、命令を個人に送る。という体制になっていたはずだ。個人ごとにコンピューターをもたせたネット社会にならないはずだ。
なぜ、このコンピューターの一極集中体制は、効率が悪いか? よくないのか?
様々に考えられる。個別にコンピューターをもたせてると、分散処理できる。これは、効率がよい。宇宙人を探すソチという計画があった。宇宙電波を分析する。大型コンピューターを使うと金がかかる。が、それを100-1000個くらいの作業に分けて、有志のコンピューターでも部分的に分析させることができる。すると、低価格で計算できる。
全ての情報処理を1つの大きなコンピューターに全部やらせると、膨大な処理になる。コンピューターが高度になるが、フル稼働しなくてはならないし、高機能なものが要求される。それに、国民からデータを受け取る回線を張り巡らさなくてはいけない。こういうことがたいへんだ。また、1つ計算を間違うと国単位で間違うことになり、リスクが高い。壊れたら国家が停止するなどある。またいちいち、書類を中央の書式に合わせる必要があり、面倒なものである。役所手続きをコンピューターでするようなイメージではある。
社会主義者は、現代風に考えると、大型コンピューターによる支配を夢見ているのだ。昔、映画に1つの巨大な意志をもつコンピューターに人類が支配されるものがあった。あれと社会主義者は発想が同じなのだ。やがて、その意志をもつコンピューターは、暴走して、人類を苦しめ、奴隷(労働者のこと)にする。大型コンピューターによる支配は、必ずそのプログラムが狂った時に、大きなダメージを社会は被る。社会主義国、共産国そのものである。
まず人間はいくら頑張っても、大型コンピューターになれない。一日に考える物事は多くはない。国民全体が行う多数の「判断」を、国の少数の支配者が全て行うことは不可能だ。というわけで、社会主義は、人間にはそもそも無理なのだ。もし「マモー」みたいな巨大脳があるとできるかもしれないが、本当に実現しても、自由主義体制(小型コンピューターの分散処理の体制)よりも劣ったことしかできない。
小型コンピューターによる分散処理=自由主義
プライベートのPCで、各自が判断する。こちらが、人間にあう。人間の頭脳も、小型で、現在の優秀なコンピューターと似たような判断しかできないからだ。人類は、そもそも人間が多数集まる。これと同じシステムは、PCをつなげたインターネットの体制だ。人類社会により近い体制が、分散処理の体制なのだ。社会主義は人間からは遠いのである。
これはなかなか強靭である。なぜなら、1つが壊れても、全てのPCが停止しない。他のPCが動く。大型コンピューター1つに頼るのでは、それが壊れたら、終わりだ。が、そうではない。リスクに対応する力がある。コンピューターを使う個人が、いろいろ工夫ができる。いちいち、国や社会の許可を受けなくても、自由に活動できる。インターネットは、それで個人の活動の場がたくさんできて、活気あるものとなった。もし、政府管理のネットなら、常に公開されるのは望ましい「国民の声」だけだろう。国の審査を通ったものしか表に出ない。社会主義のメディアみたいな退屈なもの、暗黒になる。
個人用コンピュターのほうが、どうやら使いやすく、優れているらしい、とだんだんと大きなコンピューターは特別な場合をのぞき、使われなくなっていった。このように、コンピューターの世界では、中央処理型の社会主義は駆逐されて、分散処理の自由主義が標準的なものになっていったのである。
こういうことを思想的に、哲学的にさらりと語ることができたら、社会主義への幻滅はさらに加速されていくだろう。なんにせよ、コンピューターにせよ、社会主義モデルは、ますます非効率であるというのが、現代科学の常識なのである。コンピューターの世界では、社会主義はすでに駆逐された。これからは、人類におけるそれが始まる。
人間というのは、1人1人が自由に判断して、自律的に行動する。自由主義的である。資本主義的である。人間は一人ひとりが考える葦なのだ。こういう人という動物が集まる社会は、当然、資本主義体制でなくてはならない。それは生物学的に正しい。社会主義というのは、中央の命令を個人が受け取り、それを何も判断しないで行動することだ。それは、肉体と似る。脳だけが判断する。その他、器官は脳からの信号を受け取り、動く。日本共産党が、党員を細胞と呼んだのは、社会主義として、あっている。党組織は中央独裁で、党員には何の自由もなく、自ら判断しないという組織の体質をよく表す呼び名である。
人間は社会的動物か?
社会を作って行動することを好む。そのほうが効率的だからだ。種の存続として男女は結びつかないといけない仕組みだ。最低単位は2名だ。雄のメスを獲得する争いは動物ではとても激しい。人間はそんなもので闘争を過激に繰り返していたら、エネルギーの浪費だ。それで、男女の結婚という制度で、一度、結ばれた2人に他人が介入しにくくする制度とするのは、合理的だ。これが社会の一つの組織となる。こういう必然があって、社会は形成される。
社会的動物だからといって、1人か少数だけが命令して、社会を動かし、その他大勢は、自分の意思もなく、それに従うという独裁的な体制。それを社会主義の制度と呼ぶ。が、それは、人間には合わない。人間から自由意思を剥奪して、中央政府からの信号に無条件に従うロボットにしない限り、社会主義にすることが、ソ連やカンボジア、北朝鮮のような悲劇となる。人間は、自律的に考え、判断する。命令だけに従うのは、あまり好まない動物だ。
人間を社会主義の中に閉じ込めると、各自の自由な意思の活躍の場がなくなり、そこから不満が生じる。人は社会主義の中では、耐えられない。社会主義は、よつて、人間は脳を1人1人にもつことから、自然と破綻される。社会主義が潰れるのは、生物学的に必然なのだ。
今日は、ざっとそんな所。
以上
世界資本主義の時代
92年に冷戦は共産ソ連が瓦解して、自由主義陣営が勝利して、終結。それから27年、世界に残る共産国は4つ。そのうち、中共とベトナムで市場経済が採用された。市場経済を拒絶して、計画経済を残すのは、草も生えない荒れ地の北朝鮮とキューバのみ。今や、世界の隅々にまで資本主義の豊かさが届く。
世界中をマネーが流れる。投資家の光が当たる土地には、資本が投下され、開発が進む。ビルや工場が建つ。労働者が賑わう。町が活気づく。後進国のアフリカも、停滞した中南米も、活気づく東南アジアも、しだいに働き口は増え、金をもつ労働者は物を買い、物はあふれ、家が建ち、町は新しくなり、発展する。資本主義・市場経済があるところは、かつてジャングルや荒野、砂漠、原っぱ、山奥だった所にも、道路が作られ、商店が出来、売り買いが盛んになり、どんどん開発が進む。
かつてのアメリカの豊かさ。それが、日本、韓国、ヨーロッパなどの先進国だけでなく、中国、インドネシア、ブラジルなどの国々でも、みられる。貧困は、しだいに姿を消してゆく。まだ十分な発展がなされてない地域もあるが、それも豊かになるのは時間の問題である。これらの豊かさは資本主義がもたらした奇跡である。市場経済、万歳である。
By 中国人
これら開発から取り残されたのは、鎖国をしたも等しい北朝鮮、キューバくらいである。不毛の大地、壊れた工場。数十年前と変わらないボロ屋に住む人民。哀れである。
盟主アメリカが自由を守り、目を光らせる。社会主義に逆行する国は、例えばそれを試みたベネズエラルは包囲され、経済封鎖され、経済破綻した。政権が変わるまでそれは続く。北朝鮮も同じ。もはや市場経済を捨てて、社会主義に退行することは許されない。
資本主義が世界を覆った。地球は、資本主義の惑星となった。この豊かさは、永遠につづくだろう。世界資本主義は、繁栄が止まりはしない。
経済学を中途半端に理解した人が、定義する資本主義は、投資する時に資本(金、人、機械、土地)を集めて、利潤を上げること、という。ドイツの重商主義の頃に、そのタイプの資本主義国家の経済力を高めたとそんな経済史を話して、もっともらしくいう。
簡単にいうと、資本主義とは新しく事業をはじめる時に、資本を借りて、土地を借りて、工場を作り、人を働かせることだ。この定義では資本主義は新しく社会活動をする時に資本を投資することだ。
利潤をあげることが大事だという人がいるが、資本主義の制度では、利潤をあげる企業もいるし、赤字になる企業もいる。赤字の企業もまた資本主義の一つである。よって、利潤をあげることを目的にすることが資本主義の条件ではない。利潤をあげなくても、資本をもとに新たに事業を行うのは、資本主義なのだ。それが資本主義の定義である。
利潤をあげるかは、副次的なことだ。
さて、これは資本主義に特有の現象だと、ある経済学者は言う。共産主義や社会主義ではそういうことをしない、と。しかし、それは誤りである。よく考えよう。新しいアイデアを思いつく。それがうまくゆくと見当をつける。すると、もってない人は、他人から機械や土地を借りて、人を集めて、工場を作り、生産をはじめる。そして、売る。
朝ドラで、塩つくりをしているが、資金は足りない分は借りた。労働者の若者を集め、土地(ちょうど借りていた)と材料(鉄板など)を用意して、塩を作る施設を作った。そして、生産した。まさに資本主義だ。が、こういうことは日本や米国、西欧など自由主義諸国に限らず、中国やソ連、北朝鮮でも、どこでも行われている。
共産国の社会主義経済でも、ほぼ同じことをする。
北朝鮮が新型ロケットを作りたくなった。ウクライナや旧ソ連からロケット技術者を雇った。ロケットの部品は、日本などから密輸した。燃料は海上で調達した。そうやって、資本を揃えて、自国に工場を作り、生産した。資金は、国庫から出したのだろう。そして、ロケットは飛び、成功して、北の安全を高めて、成果をあげた。もちろん量産化したロケットはキューバや中東に売って、大儲けした。
北朝鮮も、新しい事業を行う時は、資本を集めて(他からもってきて)、生産した。これはさっきの定義では資本主義といえる。社会主義や共産主義では、お金で利益をあげることを目指さないから資本主義ではない、というのはさっき説明したように詭弁である。資本主義かどうかは、利益をあげるか損益になるかにいかんに関わらず、資本を投資することで、成立する。
北朝鮮は、明らかに金を出して、人を雇い、材料を買い求め、それを工場で製作して、ロケットを作った。売り先はかつてはキューバだった。それで儲けた。まさに資本主義である。新しいアイデアを思いついて、それを具体的なものに仕上げる時は、何もないところで何かはじめる。資金、材料や生産機械、土地、工場、人などがいる。必ずいる。それを用意することが、資本主義だ。
この資本主義は、あらゆる新しい活動には、つきものである。新しいアイデアは、まだイメージだけだ。が、それを現実にして、形・モノにする時には、必ず製造しなくてはならない。イス、机、車などを作るには、まずはお金、そして材料や人、土地、工場など資本がいるのだ。
この資本主義は、永遠になくならない。もし、それをなくすと、新しいものを作れなくなる。新しいアイデア、構想を資本を投下して、形にすること。資本主義の原理である。
資本主義をやめるとどうなるか?
共産国では、あらゆる資本主義が禁じられる。共産国で、経済論を純粋に考えられる頭のよい人は、こう考えた。新規事業をたち上げる時には、予算を組んで、人や機械、土地などを用意する。それはまさに資本家の活動だ。もしばれたら、共産国では許されない。
資本主義に似た行為が一切、禁じられた共産国では、たまに少数がこういう資本主義の本質に気づく。すると、新しい事業は何一つ始められなくなる。だから、社会は新しいことを始められず、停滞する傾向にある。
共産主義の騙しに気づかない者でも、予算を獲得して、新しい事業をゼロから工場を建てて、生産を始めるたびに、それは資本主義と近いことをしているとしだいに自覚する。あまりそういうリスクを犯したくない。
よって、共産国は常に、機械は使い回し。新しいことはしない。新しいことをするために、予算を組んで(資本を借りて)、工場を建ては(投資)しない。
共産国では資本家のごときのことはしなくなり、しだいに新しい事業は行われなくなる。設備は老朽化して、古びる。やることはマンネリとなり、しだいに衰退してゆく。ソ連、北朝鮮、キューバがそのように過去の遺物をいつまでも使い続けることになった。それは、資本主義を純粋に排除することで、必然的に起きた。
社会の発展は止まり、停止した。古いものは、時間とともにどんどん古びて、使えなくなった。そうやって、資本主義を完全に否定した共産主義は、終わった。
資本主義の原理とは、新しいことをはじめる時に、何か資本をそこに投下することだ。これは新しい活動にはつきものだ。アイデアを形にする。新しい製品を生産するとはそういうことだ。生産・製造における永遠不変の原理なのだ。それを人類がやめることはできない。
それをやめると、社会の成長は止まってしまう。新しいアイデアをひらめいても、それを形にすることは一切しなくなるのだから、何も新しいものが生まれない。
もうひとつ、資本主義を否定する形がある。
資本主義を一切やめるならば、新しいアイデアを一切、生産して、製品にしなければよい。しかし、それだと社会成長はなくなる。それはまずい。それで、資本主義をごくごく薄める事を考える人もいる。例えば、新しいことをする時に、資本を極力必要としない体制を作れば良い。そんな資本を極力少なくした資本主義もある。
ドイツのやっていることだ。インダストリアル4.0である。これは、新しい製品を作る時には、新しい機械などは必要としない。3Dプリンターがあるから、なんでも作り出せる。それがあると、労働者も新たにいらない。材料は必要だが、費用は安くつく。しかも、ネットで設計図を送ると、世界どこでも作れる。新しく工場を作る土地もいらない。
新しく必要とする資本をそうやって極力、減らす。土地、生産機械、人もいらない。工場は使い回し。材料費と設計図さえ用意したら、生産できる。新規事業にかかる費用は大きく下がる。資本、つまり初期費用が小さくなる。こうすると資本主義が色濃いものではなくなる。ただし、これは資本主義が終わる予兆ではない。
これは資本主義の新規参入ハードルを低くしたものであり、誰でも資本主義ができる体制になってゆくことではある。従来のように、お金持ちだけが、新規事業ができるわけではない。小金持ちでもアイデアがあると、誰でも資本主義ができるのだ。つまり、これは資本主義の底辺の拡大である。
資本主義とは、アイデアを形にする時に、資本がいるというだけのこと。それは社会が新しいものを生産する時には、必ずしなくてはならない工程だ。それをなくすことは、人類の発展をやめることに等しい。資本主義は、生産における人類普遍の原理なのだ。
この資本主義は、とってかわるものはなく、消えることもない。発展する人類は永久に行う。社会主義にとってかわられることもなければ、共産主義に変化するものでもない。ここまで了解しただろうか。
定義にもとづく資本主義の反対は、共産主義でも社会主義でもない。この資本主義は、新規事業の話なので、反対語は、従来からの事業で、既存事業である。旧来の生産体制である。ここまでの議論でわかったと思うが、資本を集めて、投資することが資本主義だと定義する人は、社会主義に対立する資本主義を論じてはいない。
資本主義は、資本を借りて、投資して、利潤をあげること。歴史的に、資本主義と呼ばれたのはドイツの重商主義うんたら、とうんちくをたれ、得意がっている人は、何か資本主義について、大きな勘違いをしている。彼らは、経済の理論をよくわかってない。
彼らは現代の資本主義社会を論じる。社会に主義に対立する資本主義を論じてもいるつもりだ。が、彼らが、資本主義の定義にこだわる限り、現在の自由主義体制の話をまったくしてないのだ。現在、資本主義として論じられるのは、社会主義に対立する資本主義、すなわち民間の活動をさすので、自由主義のことをさす。中央集権的な社会主義体制に対する分権的な民間の体制をさすのである。
資本主義と自由主義とは、これまで混同して語られてきたが、純粋な定義にもとづいて話をするならば、それは別物なのである。資本を投下して、利潤をあげるといううんたらの話は、社会主義体制、自由主義体制を問わず、あらゆる新規事業をはじめる時に行われる。それを自由主義社会の特色というのは、誤りも甚だしいのである。
つまり、初期の定義による資本主義をいくら論じても、現代の自由主義体制について、何ら有用な視点は得られないのだ。
新規事業における初期投資がどうだか、と議論しても、実にミクロ(企業内)の話をしているのだ。企業の新規投資が減ってきたか、増えてきたか。それは経済学の議論としては、別のものだ。それは投資しないと成長が見込めない。その投資額は、これから起きる近未来の社会の成長をはかる指標になる。そういうことでしかない。
資本主義が弱まるということは、新規投資が減ってきたということで、成長が低くなる。その程度のことだ。もちろん北朝鮮でも投資はある。ロケットだけではなく、平壌の建物を立派にするために多額の投資をしてる。また兵器に結びつく科学技術や新しい産業へのと投資はしている。中国でも、様々な分野に投資している。例えば、チベット鉄道や地方にゴーストビルを建てたりする。
この投資をしなくなると、社会全体の成長が止まる。どの国も投資を怠ったりはしない。というわけで、資本主義(資本の投資)が弱まることが、資本主義(自由主義体制)の終焉に結びつき、社会主義に替わることではない。社会の成長が鈍る、ということに至る。
だからといって、資本主義(投資)をやめると、さらに成長が鈍る。そこで、社会の成長を再び、取り戻すためには、資本主義(投資)を強めようと、国や民間が掛け声をかけることになる。定義に基づく資本主義を語ると、この程度のことしかいえない。自由主義体制に関わる重要問題にならない。要は、資本主義と自由主義体制を混同すると、こういう視点が偏る議論となってしまう。
まとめ
これからは、自由主義体制のことを、資本主義とは言わないようにしたい。資本主義には2つの意味がある。資本投資と自由主義体制。両者は別々の観点である。人々はよく混同する。議論を正確にするためには、別々の言葉を使うべきである。これは、NHKも間違えているが、全共闘全般が特に間違う。彼らは社会経済を語るが、ろくにわからない。
7つの反資本主義論への反論
日本では、資本主義に反対する論が、全共闘世代によって、左派メディアでよく取り上げられる。共産主義が間違いだといまだにわからない者達が、いつまでもその幻想にとらわれて。彼らは資本主義が終わると思っている。共産本にもうそれを描くものはない。あっても、すでに反駁されているか、信じるに足るものはない。
それで、新しい理論で、資本主義を打ち負かすことができないか。新左翼は、その候補が現れる度に、その新しい反資本主義論が真実のものかを世に問う。資本主義の優位さ。その自由の高みを突破できる左翼論が一つも過去になかった。それにいまだに共産信者が挑戦する。哀れな試みである。2018年の日本で、アングラな社会観からいまだに抜け出られず、自由社会に挑み続けるのがいる。どんなものがあるだろうか?
1, 水野和夫の「ゼロ成長は資本主義の終わりだ」論
2, 新自由主義の行き詰まり論
3,
生産力が上がると安価に。貨幣がなくなる。資本主義もなくなる。
4,
独占によって資本が統一され、競争が働かなくなり、解体する、解体する、という旧来の資本主義の限界説
5,
資本主義では格差が増大する。それで社会が分断して壊れるという説
6, 銀行合併、企業合併による資本の統合で、資本の分散がなくなる説
7,
共有ブーム。それが社会全体に広がると、共産社会だ説。
8, 物を貨幣価値にすることがおかしいという説。究極、物々交換まで否定する。
1,
水野和夫の「ゼロ成長は資本主義の終わりだ」論
現在、成長率が先進国で下がる。重工業国になるともっとも成長率があがり、やがて、軽工業、情報産業などが台頭してくると、成長率が下がる。社会が成長するから、その制度を社会は使う。が、資本主義は先進国で経済成長をほとんどもたらさなくなった。だから、社会は資本主義制度を捨てるであろう、というのが水野氏の考え。
反論は、簡単。資本主義は、世界全体で発展している。先進国は、後進国の工業化で成長が鈍っている。が、全体的に成長していないわけではない。成長率が低い国だけを並べて、成長率が落ち込んだとするのは、公正ではない。資本主義の国家全体を見て、成長しているかを調べるべきだ。なお、共産国は、全体的に成長が止まっているか、微々たるものだ。ソ連の荒廃は著しかった。ただし、中国は資本主義を取り入れたために例外である。
経済成長は、真の成長を示していない。GDPは下がっても、商品の品質は日々上がる。先進国は、コンピューターもよりよいものになってる。つまり、貨幣に基づく基準--GDPが正しく社会の発展を数値化できていないのだ。これは貨幣の限界というべきで、資本主義のそれではない。貨幣の価値が下がるのは、生産力があがり、商品価格が安くなっていることがあげられる。
もう一つの反論としては、代替制度がない。自由経済にかわるものがない。また貨幣に変わる制度も現在は開発されてない。よって、資本主義は制度疲労気味だが、変えようがない。成長率が低くなっても、資本主義は終わっていない。なぜなら、代替制度がないからだ。まだまだ使える。限界ではない。
2, 新自由主義の行き詰まり論
忘れたので、飛ばす。
3, 生産力が上がると安価に。貨幣がなくなる。資本主義もなくなる説
古い経済論だ。生産力が高くなり、やがて無限になると、商品の価格はどんどん安くなる。理論上はそうなる。原子転換技術が開発されると、土砂から金銀、レアメタルやどんな元素も作れる。鉱物価格が暴落する。原子レベルの合成技術があがるほどに、化合物の価格が安くなる。そして、食品などは安くなる。
エネルギーも時空ドアが開発されると、重い物を床穴に落として、天井穴から再び出すと、永遠に循環する位置エネルギーがとれる。それで無限に発電できる。重力制御ができると、簡単に重いものを動かすことができ、それでも発電できる。
数百年もかからないで、この程度の技術は手に入る。その頃には、エネルギーはただ。機械による合成物はかなり安価になる。育成に時間がかかる植物か、人間の芸術作品くらいが高額商品となる。そんな近未来では、ほぼ高い商品がなくなるから、貨幣がなくなる。すると、資本金がなくなる、という仮説。
この反論は難しくない。貨幣はなくなるかもしれない。が、個人や集団活動の自由は認められる。よって、生産を国家が独占的に管理するようにはならない。自由な生産体制は継続する。それは資本主義と同じだ。そこでは貨幣が使われない資本主義体制となる。それは貨幣がなく、資本金もなく、資本主義とは言い難いだろう。自由主義の社会と言い換えられる。それは続くのだ。
なお、この高度生産性社会では、社会主義も不要となる。労働価値などほぼゼロだ。なぜなら、ほぼ無限の生産力、安価なエネルギーによって作られた商品が出回る。労働価値がゼロなので、社会主義も崩壊する。
あえていうと、国が労働を管理する社会主義体制は、民間が自由に労働を管理する自由主義社会に効率などで劣る。劣るものが採用されることはない。
4, 独占の問題
独占禁止法ですでに解決ずみ。一つ加えるなら、資本主義国には、独占禁止法がある。が、共産国は、独占禁止法がないため、共産党の独占が行われ、社会は悪化する。
5, 資本主義では格差が増大するという説
この考えの持ち主は、金持ちがどんどん豊かになり、社会を支配する。貧しい労働者はどんどん貧しくなり、最低の暮らしを強いられる。その体制が永遠に続く、という。簡単にいうと、これも間違い。これだと大勢の労働者が貧しく暮らす。そんな社会では発展できない。まるで共産党が人民を支配する共産国のようだ。共産党が贅沢をして、労働者は貧困に陥る。そんな北朝鮮は荒廃した。
格差論者はそんな社会になることを危惧しているようだ。資本主義の国がこのままでは、共産国とうり二つになり、富める者(共産党)と貧しい者(金銭的にも芸術文化的にも貧困の人民)に分離する、と。この想定は安易だ。
資本主義は、同時に、民主主義国だ。共産国のような独裁国家ではない。あまりに少数が富が独占したら、大衆が新しい独占禁止法を制定するだろう。それで少数による富の独占は終わる。
その機能がなかった共産国では、何十年も富める共産党が金、生産物、土地などすべてを独占した。が、資本主義の国は民主主義であり、大衆が力をもつ。何らか下層に対して、お金が回るようにするだろう。富の分散はどんな制度によって行われるかは、今は思いつかないので省略。
6, 銀行合併、企業合併による資本の統合で、資本の分散がなくなる説
これは私の考えだ。だから、そこいらの反資本論とはわけが違う。今、銀行や企業の合併が進む。アマゾンなど巨大企業も登場した。すると、資本金は一箇所に集められる。資本主義では、企業ごとに資本金をもち、自由に使っていた。そんな資本が分散する体制だった。が、銀行が統合される。企業も合併、統合する。すると、統一資本というものが生じる。それを何らかの窓口を通じて、企業にわけ与え、分散させる制度となる。
この光景は、国家が経済を掌握して、事業分野別に運営するのと近い。資本はほぼ一つか複数に集中する。まるですべてのマネーを一つに集める社会主義国家に近い。資本金は一つに統合される可能性はある。
しかし、これは社会主義ではない。なぜなら事業主体は一民間企業、個人などだ。個人や企業の自由は侵害されない。中央に集められた資本を、各企業が受け取って、自由に活動する。それは資本主義の形態である。それは、崩れてはいない。
銀行や企業の統合で、資本が国家、国際的に統一される。そして、その資本はその系列グループの中で、分散する。それは国家、世界社会主義に近い。そう勘違いする短絡的な人が現れやすいので、あえて説明した。国家社会主義では、事業をするのは国家なのだ。個人や民間ではない。資本主義では、資本が統一されても、事業をするのは民間や個人なのだ。だから、資本の統一が起きても、資本主義は保てる。
7, 共有ブーム。シェアハウス。これは共産社会の到来?
自動車を共有する。家を共有する。最近、物を所有するのに金がかかり、借りてすます人が増えた。一つのものを大勢が所有する。そして、必要な人が使う。共有なのだ。
この共有ブームがあらゆる分野に広がると人類は共産社会になる、と期待する少数がいる。共産思想がいままさに絶滅しかけ。そんな最後の時に、ふってわいたような「共産」でなく、「共有」ブーム。それにすがりつきたくなる哀れな共産主義者はいる。
このシェア運動が民間から、国家レベルまで拡大すると、共有国家となる。公共トイレに共用があると、なんか共産主義的なのだ。共産党員は、このブームに一縷の望みをかける。これこそ共産ではないか? と。
この制度をよく考えよう。国家ではなく、民間や個人が車や家をシェアしている。つまり、それは民間の活動だ。すると、それは資本主義の制度なのだ。これは、資本主義がなくなるわけではないが、その一部に、共有(共産)制度ができるというお話だ。
これはあらゆる分野には広がらない。個人としてすべて借り物で生活するわけにもいかない。それで、自分のものは所有するものだ。すべてを共有することはできない。社会公共物は、もともと共有されているので、それは同じ。
この共有社会において、個人やグループがその共有制度を運営すると資本主義だ。国家がすべての生産を管理して、国が指定した人だけが、生産ができるなら、国家社会主義だ。
ブームとなった制度は、北欧などで行われたもの。つまり、この商品共有は民間の制度で、資本主義の中の一部。資本主義の中の共産体制である。これを国が一律管理して、民間にやらせないようになるなら、それは共産社会になる。が、いまのところ、この民間のシェアブームは、いつまでも国が出てくる気配がない。国が社会主義国家のように管理すると、効率が悪くなり、制度として崩壊するだろう。民間がやるからこそ、成立する。共産主義にはならない。だから、共有制度が広がっても、国の管理にならないから、社会主義や共産社会にならない。
共産の連中は、共有ブームを新しい共産運動だと勘違いして、喜ぶ。むなしい。実際は、社会が安全になって、物を入手する手間が小さくなって、所有の概念が弱まっただけ。
まとめ
反資本主義論は、たくさんある。それは一つずつ反駁されて、つぶれてきた。これらの中に残るものはないだろう。資本主義が、社会主義に原理的に優れている。これはすでに証明されている。だから、資本主義は終わることはない。自由を国が取り上げることが今後、発生しないのだ。
『2018年資本主義の崩壊が始まる』(野田聖二著)。これはひどかった。里山経済みたいなものが始まって、資本主義が終わるという。
理論的に反論しておく。私はもう一つの本を同時に読んだので、こちらにかいてあったかは、はっきり覚えていない。
一つ。「技術革新が生産性を低下させる」 確か、生産性があがると究極、すべてがただでできるという。貨幣の価値がなくなって、資本主義が成り立たなくなる、という主張だったと思う。
残念だが、資本主義の基本がわかってない。資本主義の反対は社会主義計画経済。お金を使うかどうかではないのだ。すべてが無料になっても、資本主義は生き残るのだ。資本主義の反対の社会主義は、権限を一つに集中させること。資本主義は権限を分散させること。これが正しい定義だ。「資本」にとらわれると、資本主義の本質を見失う。
資本主義は、その拡大と共に、企業が自由に経済活動できるようになり、小さな企業がそうなり、個人もそういう経済的な自由を勝ち得る。このように、自由な経済活動ができる主体が、どんどんボトム、ミクロへの拡大する。それが資本主義の発展といえる。この先に何があるかよく考えよう。それが資本主義の先というものだ。
反対の共産主義の発展では、あらゆる分野のものを中央集権化することで、達成される。最初は、生産機械や工場、土地。次に、人々の能力、やがては監視社会になり、メデイアだけではなく、盗聴して人々が話しまで管理した。すると言論の自由が日常生活まで完全になくなった。それで人々は窮屈な生活になり、もう人間としての営みまで監視され、規制されるのはいやだと、共産政府を捨てた。
「資本」=お金主義という発想で考えたのだろう。しかし、それがそもそも間違い。貨幣は、いずれなくなるだろう。その弊害は大きいからだ。だが、資本主義は残る。貨幣にかわり、新たなる価値の指標ができて、それにもとづいて、資本主義形態の社会となる。つまり、資本主義=自由主義と考えればよい。貨幣がなくなっても、資本主義は残る。自由は残るのだ。
金が使われなくなると、資本主義が崩壊するというのが、そもそもの間違い。貨幣が使われなくなると、「資本金」もなくなり、資本主義社会が終わりだというのは、幼稚な議論でしかない。
金がなくなると、別の価値指標を使って、人々の自由を基本にした社会となる。それだけの変化だ。資本主義は生き残る。なぜなら、資本主義の原則である個と集団の自由が残るからだ。資本主義の本質は、個と集団が自由であること。その制度さえあると、資本主義といえる。社会主義(自由を奪って、国か社会に権力を集約すること)にはならない。
資本を投資して、回収する。それは言葉に囚われ過ぎなのだ。現在、自由主義諸国を資本主義社会と呼ぶならば、それは、自由主義の制度という意味あいなのだ。資本金で事業をなし、収益を確保する民間企業の国家制度というのは、副次的なことだ。二つ、自然でない価値(値段)をつける。それがおかしいという論点もあったと思う。まつたけが高いのはおかしい、というような話だったと思う。需要と供給によって価格が決まる。これは不自然だと彼はいう。これはいちいち反論するまでもない。
これは貨幣制度の問題であって、資本主義の問題ではないからだ。彼は貨幣制度を批判したら、資本主義批判につながると思っているようだ。が、それは初歩的な間違いなのだ。資本主義とは、権力(権限)の分散の体制であるからだ。違う違う。食料と美術品を同じく「貨幣価値」で置き換えることを彼は問題にしていた。そこはよいと思う。私も、電力と食料を同じ基準、「価格」で考えるのは、あまりよくないと思う。
だが、労働価値という共産理論の根幹なすものも、そもそもそんな理論である。労働がどうして金銭になるのか。それもおかしいと言わなくてはならない。貨幣というものを批判するなら、それは共産の労働価値説をも、否定したことになる。彼はそこがわかってなかったのが、彼の限界にみえて、悲しかった。
貨幣の弊害を語り、資本主義批判で得意になっていた。が、それは同時に、共産理論をぶったぎったことも、理解してほしかった。貨幣の理論を否定すると、共産主義も大方、瓦解する。物々交換なしで、社会を成立させようという考えは悪くはないのだが、彼はそのシステムを提案できてなかった。
三つ、資本主義が分断を生じさせるという。労働者と資本家と。これは間違いだ。究極、労働において、経営者と従業員は同一だ。工場管理者も労働者だが、それは経営者と同じ。労働者と経営者とは、分断されてはいない。社員と社長が分断していると考えるのは、あのマルクス特有の階級論だ。確かに19世紀は、社長と一般労働者とは社会階層が違うように見えただろう。しかし、それは正しくはない。共産党員は、資本家たちと労働者が分断していると思い込む。が、それは真実ではない。
平均年収1700万円のNHKの社員と年収500万円もないような町工場の社長が、社会の中で分断しているとは思えない。いや、分断しているかもしれない。大企業やNHKの社員は上流で、町工場の社長も従業員も下層になってる。が、現在21世紀では経営者と労働者が別個の世界を作り上げているというのは、無理がある。個人事業主は、社長であり、労働者である。こういうのはどちらに所属するかも、問題となる。
現実をみると労働者と経営者に明確な線はなく、共産の階級論など19世紀の錯覚とわかる。そんなものにころっと騙されて、その見解を採用する。分断という流行語を、共産理論にあてはめて、適当に言えば、それは共産主義者なみのおつむということだ。がっくりぽんである。
四つ、「つながり回復」こそ、新たな時代のパラダイム
お粗末すぎて、話にならない。失笑モノだ。「つながり」ブームを社会論に用いる若者が現れた。人が「つながる」ことが資本主義を超えるらしい。人のつながりで、集団ができる。その組織形態が、どうあるべきか、というのが資本主義や社会主義の違いだ。つまり、つながりがどうなっているか、それを問わなくてはならない。彼は、彼独自の社会組織論でつながりを記すべきなのだ。つながりは、人間関係の初歩なのだ。そんな人のつながりがあると、資本主義を超えられるというのは、人が関係をもち、集団になると、資本主義を超えるといっているに等しい。そんなの一瞬で、いい加減な話だとわかる。私が試験官なら、こんなブームや流行の言葉を使えば、新しいことを言っているという発想は落第だ。
つながることで、孤独な社会、老人の孤立などを憂うのはよい。それを解決するために、インターネットなどある。絆の回復とか、人間関係を密にするのは、現代日本では大切だ。が、資本主義の先にあるものではないことは明々白々だ。資本主義が核家族化を招いたのではない。あれは生産革命による都市の工場労働者の増加が核家族の社会にした。資本主義社会とは関係がない。社会主義国ではそれは国家事業に駆り出され、村の人間関係は封建制度としてバラバラに解体された。家族も封建的と親の言うことをきかない子供が全共闘として増えた。社会主義は、人のつながりが希薄になる点では、より顕著だった。
そもそも、多くの日本人は伝統的な家族が好きだった。が、全共闘という世代だけが、いまだに親を嫌い、大家族に会わず、親戚づきあいもしない。革命を目指して、冷酷な闘争を追い求めて、つながり(人間関係)を破壊する。共産主義者の性質である。日本人のつながりを回復させるのは、簡単だ。こういう人間社会を破壊する特異なイデオロギーである共産主義をつぶすこと。もしくはその信者である全共闘世代が姿を消すこと。すると、自然な人間関係が日本に戻るだろう。
まとめ
彼は流行の言葉、観点をを並べているだけ。そんな印象が強い。意欲的なのだけど、共産主義を信じているようでは、ソ連の失敗を重ねる。共産主義批判もできないようなのは、新しい社会を描くのはとうていできない。彼に期待するものはない。ただ、ゲンダイ用語をむやみに、採りいれた資本主義批判はわりと、私のような40代にとっては面白くはある。中身は貧祖でも。
ややまとまりはないが、国民に政治がわかる人がほとんどいなかった古代から、少しずつ政治がわかる人が増えて、現代のみなが政治を語れる市民社会になった、というお話である。市民社会とは、国民一人一人に経営の才(政治を理解する才能)がなくては、成立しないことがよくわかるようにした。
社会の発展とは、より自由主義になることである
社会主義から、自由主義に人類は、何千年もかけて社会を進化させてきた。まず村ができて、支配者が統治した。支配者は一族であり、他の部族を従えた。王と国民の国である。これは一人が統治する点で、社会主義に最も近い。日本では、貴族制の始まる前の古墳時代まではこの体制である。王と側近だけが統治に関わる。残りは、王の命令に従い、働く。税を納める。
なぜこういう制度か。庶民は農耕して、狩猟して暮らす。無学だ。国全体のことなど考えることもできない。政治に関われない。王と側近だけが国を考え、政治をした。必然なのだ。この段階では、最も主権をもつ者達が少なかった。よって、独裁に最も近い。個人が参政権をもつ現代の自由主義の体制の対極にある。統治者が極度に少ない国家なので、社会主義に近い。
やがて、王を補佐する貴族が台頭する。大臣が力をもちはじめる。平安時代だ。貴族が政治に関わる。この頃では、天皇と貴族という体制で国を納める。王よりも貴族、藤原氏が実権を握ることもあった。それまで王の専制だった。が、それに貴族が加わった。政治に参加するメンバーが数倍に増えた。主権者が増えた。少しだけ、自由主義に近づいた。社会主義からやや遠ざかった。これは貴族社会である。
その後、武士が力をもつ。それまでの貴族と王の支配が、武士も政治に口を出すようになった。平家の台頭である。この時、王と貴族と武士の3つの職業が主権をもった。さらに武士が力をつけ、数が増すと、武士は貴族と王を追い出して、武士の政治を始めた。武士は数が多く、また貴族のような優雅な生活もした。鎌倉から江戸時代までの段階では、武士・王・貴族という3つが主権をもてたといえる。王だけが主権をもつ時代から、だいぶ進み、社会の上層だが、より大勢の支配者が主権をもつようになった。
ドイツでは、力をもつ領主ではなく、商人がしだいに力をつけた。日本では商家は政治に関わることは許されなかった。が、商人もだんだんと政治に関わるようになる。この頃には、政治に影響をもつのは王、貴族、武人、商人という階層になる。どんどん増えている。が、まだ市民は含まれない。
そして、明治維新だ。やっと市民も参政権をもつ。最初は、経済や地位をもつ人のみに参政権は与えられた。が、しだいに無条件に大人は与えられる。主権は王、貴族、軍人、商人、市民と全階層に及んだ。
このように、人類は最初は、王による政治を始めたが、貴族政治になり、武人政治となり、しだいに主権者を増やしていった。最後に、市民にも主権を与えるようになった。
主権とはある意味、自由をもつことだ。それを行使するには、政治的才能がなくてはならない。国はそれが市民にもあると認めた。明治を過ぎてから、やっと国民は、国家運営の才を養った。古墳時代には、政治のことなどつゆもわからなかった国民が、1500年かけて、政治がわかる人間に育った。そういう基盤の上に、市民政治がある。
政治的な才能とは一般教養ではない。たくさんの知識があると、政治がうまくやれるわけではない。科学の知識でもない。社会の問題を解決する才能で、主に社会運営の能力である。国家経営の才覚である。純粋には、経営の才をさす。
この市民社会というのは、ローマやギリシアで行われた一部の市民による政治ではない。その後、時代が進み、教育が普及したからこそ全国民が市民になりえて、実現したものだ。市民社会=個人に主権がある=自由主義社会なのである。で、反対に、市民に主権を与えない体制こそ、王政=独裁=社会主義というもっとも原始的な体制なのだ。
社会主義とは、市民の政治関与を排除することで成り立つ。自由主義は、市民参画によって成立する。自由主義とは、こういう政治がわかる国民全員が政治に関わり、国をよくしようという制度である。反対に、社会主義とは、国民には政治に関与することは一切許さない、一人(独裁者かそんな党)が全部を決めて支配するという制度である。
社会主義とは、専制政治であり、それは退行だと理解できただろうか? 自由主義こそが、全国民に経営の才がある現代、未来にも必要な制度だと、おわかり頂けただろうか?
資本主義の発展 -- 資本主義はまだまだ改良の予知がある
新自由主義で、新興国がどんどんの発展中。だが、先進国の経済が思わしくなく、資本主義が終焉みたいな短絡的なことを言う経済学者は、本当に視野が狭い。それまで新興国に輸出していた分などがなくなり、また新しい国々が軽工業や重工業などを整えて、それまで先進国の独壇場が崩れる。先進国は情報産業への参入に遅れた国から脱落する。それはEUを見ても、スペイン経済にかげりがみられた時からのわかることだ。新自由主義の行き詰まりは、単に、先進国だけを見ているから、そう感じられるのであって、世界全体を見ると、中国やブラジル、インドネシアも活気づいており、まだまだ発展する余地は十分にある。
資本主義の制度としての改良
資本主義とは、資本で会社を作り、生産する。そういう制度だ。これまで、新しいアイデアで起業したい時、資本をどうにか工面しなくてはならなかった。金持ちは自前で資金を用意できる。が、貯金がない人は、親戚・友人、銀行やファンド、国から借りる。
資本主義は、この起業のしやすさが大事だ。が、これまでは、お金を借りる時は多大な手間ひまがかかった。銀行は担保を求めたりする。これは容易に借りられるシステムが必要である。それが、『ファンド』というものだ。専門家がそのアイデアは商売になるかを審査して、いけそうなら貸す。
また事業に失敗しても、起業家の負債とならないようにすることも大切だ。なぜなら、一度失敗したら、膨大な借金を背負い、2度と立ち直れないようでは、起業のリスクが高いからだ。そういうわけで、失敗しても、清算して本人の借金として残らないようにする制度が必要である。
資本主義では、毎年、新しいアイデアが何百、何千と製品になり、そのうち1割でも有用なものとして残ると、十分である。人々の創造性を、社会が採用して、実用化する。これの効率を高めなくてはいけない。システムは、そのために、できるだけ、ムダや不効率な部分、過度に高いリスクなどを取り除くことが大切である。アメリカではファンドが資金を提供するシステムが整っている。が、まだ日本はクラウドファンドなど、十分とは言い難い。資本主義の発展のために、こういうのをもっともっと、充実させてゆくことが肝要である。
反資本主義の言論が町にあふれかえる。『資本主義の終焉』、『資本主義は終わった』、『資本主義は限界だ』などなど。資本主義が、最高の社会制度だということを理解できない元全共闘のような左派経済学者が唱える。こういう輩は共産シンパなど、いまだに滅んだ社会主義や原始的な共産主義がこれからはじまる、と暗黒社会を夢見る。彼らの愚かさに騙されてはいけない。資本主義を見直すために、その価値を再認識しよう。この資本主義社会に生きていることのすばらしさを思い返すために、資本主義論を書くことにした。
資本主義の理想とは?
個人に最高の自由が与えられ、最大に活躍できる社会にすることだ。人権を最大に達成して、さらに経済的に個人が活動しやすいような制度を充実することで、そういう社会にいたる。豊かさを最も手に入れる唯一の制度だ。素晴らしい。
社会主義では、国が与える仕事しかできない。自分の仕事はできない。私有物も制限される。共産国では、土地も持てない。移動も制限される。知識や情報も国に管理される。そういう個人の人権や自由を制限しないと維持できない悪の独裁者がいる社会とは反対である。共産国は暗黒である。私有物が禁止されるなど、自由が最も下がる。
資本主義社会では人権が守られる
移動、言論、結社、私有物をもつ自由がある。拘束・拷問を受けない。なぜなら、自由主義では、個人の活躍が基本となる。それを妨げるあらゆる習慣や制度は、悪いものだ。そういう不自由にする制度は撤廃される。
社会主義では、そもそも結社の自由がない。新しく会社を作ると、国から分離して、反逆したとみなされる。さらに、手の込んだ社会主義では、結社や組織運営のノウハウがない。それを国民がもつとあちこちで会社を作るからだ。経営学が否定される。学問、特に社会学が歪む。社会主義では独裁体制をつつげるために、政府批判を禁止する。中国の言論統制が有名だ。教育やメディアはそれに従う。ここでも、国民の社会的な能力が低下する。社会主義では不自由なことがあちこちにある。
資本主義では自由度がしだいにあがる
資本主義社会は進むほどに、人権の保護が充実する。資本主義では、人権を個人に渡すことが基本だ。発展するほどに個人の自由度はあがる。社会主義国では、長くたつほどに人権が失われるという現象が起きる。やがては私的な会話すら話せなくなる。そんな人権のない社会とは反対である。社会主義とは、人権を個人から奪い、政府に集中させることで成立する。その度合はきつくなる。
資本主義社会では規制や役所の手続きが減る
国民の自由をさまたげる規制は、小さくなる。科学の発展と共に、人間の行動範囲は広がる。政府の規制も、そんな生活の進歩にあわせて、小さくなってゆく。人々はより遠くに、より早く、より多くのことができるようになる。社会主義では、規制は減らせない。個人が自由に活動できるようにすると、社会主義という制度が破綻するからだ。だから、様々な規制が残る。暮らしにくい国となる。
個人の開業資金など融資が発達する
個人がより活発に活動するために、お金がいる。それを援助する制度は、しだいに充実する。一度の失敗で大きな負債を負い、2度と立ち上がれなくなるようなこともなくしてゆく方向にある。個人の活躍に社会の発展がかかっているからだ。お金という障害は小さいほうがよい。
教育・インターネットも発展する
自由主義では、個人の活躍をあげるため、よい教育を受けさせる。インターネットなども自由に世界の情報に接することができる。個人の活躍が大切なので。社会主義では、独裁者の統一見解を強制される。一人、あるいは共産党の支配を正当化するために、あらゆる嘘が使われる。
社会保障の充実
資本主義とは、国家制度。国を富ませるために、個人の自由を与える。病人、飢えた者、無教育、銃器世がない浮浪者、無一文は活動が低い。飢えて動けないなら、移動の自由がない。病で何もできないなら、活動や言論などの自由がない。教育がないなら、狭い選択しかできず、思想や信条の自由がない。無一文は電車にも乗れず、自由に行動もできない。それは自由の否定である。資本主義国家にとっては、理念上、いてはならない人物となる。だから、社会保障を充実させ、彼らを健康にして、住居を与え、知性を養わせ、自由に活動できるようにする。
社会保障の発達は、資本主義の必然である。勝ち組がいて、負け組が出るのは、市場の話だ。市場の話だけに目がゆくのは、視野が狭い。資本主義の国家としてどうあるべきかを考えなくてはいけない。資本主義国家は、個人の自由度をあげる責務を負うから、社会保障は積極的に取り組む。それが原則である。このようにして、資本主義国は、個人の自由を高め、国民の活動を高める制度を充実させてゆき、発展する。これら資本主義の理想はまだ実現できていない。資本主義は、まだまだ先が長い。
資本主義の問題はいくつかある。1, 個人の無法化、(犯罪者、無政府主義者)
2, 市場の失敗だ。自由主義だ。個人が自由に活動すると、規律や法を逸脱して、犯罪を犯す。自由を履き違えて、法や、慣習に従わないのも出てくる。社会主義では、そもそも自由がなく、恐怖支配だから、そういう過度に自由を求める者達は、出にくい。
が、制度上、規則が厳しく、自由がない分だけ、その『独裁国家の秩序』を乱す者達は多くなる。自由主義国はまだしも寛容なのだが、それすら守れない『ならず者』、『共産党員のような国家転覆者』は現れる。
『市場の失敗』
資本主義は、「勝ち組がリッチになるが、負け組は貧困に転落する。それで格差が生じて、不平等になる」、と左翼はわめく。最近のネトサヨの半分はこういう話しかできない。とはいえ社会主義にすると、すべて国有化され、共産党の独占となるから、やはり所有者がより『極悪で陰険な支配者』にかわるだけで、格差はなくならない。
資本主義の中で、改良するしかない。
こういうのは『市場の失敗』という。よく知られているのは『独占・寡占』。最近、話題になるのは『格差』である。大切なのは、資本主義の国家は『市場』をコントロールできることだ。それを通じて、こういう問題は解決できる。極端な人は、『問題があるなら、市場をなくせばよい』という。これは頭が悪い左翼の発想だ。「資本主義に問題があるなら、資本主義ごとつぶしてしまえ。」
「問題があるものを全て消し去ると」解決すると思い込むあたり、実に短絡的だ。彼らは問題がある人間を平気で殺してしまうから、要注意である。世の中、なくしてはならないものはある。CO2増えて温暖化になったからといって、地球の空気を一度全て、なくすことはできない。「市場」もその1つだ。なくしてしまうと、市場を自由に開けなくなる。自由に物を売れなくなる。お金がない時に、庭の果物を売ることもできない。コンサートを開く時、チケットを自分で売ることもできない。小銭が手に入らない。オークションや友達に物を売ることは禁止される。そうなると不自由極まりない。
資本主義では、国が「市場」のルールを決められる。問題があったら、ルールを変えて、改良する。「市場」で競争があり、商品が日々、よくなる。市場がなくなると競争はなくなり、不便なだけでなく、社会の成長は止まる。それでは、人類は成長しない。
独占の問題
かつては、財閥が産業の多くを支配した。財閥の家系は大金持ちで、政治家も輩出して、重商主義のように支配を強めた。庶民はそれほど給与がもらえなかった。が、独占禁止法という解決法が登場した。それからは、あまりに独占して、暴利をあげることはできなくなった。もうこの点で、誰かが貶められることはない。市場の独占は、もはや解決ずみだ。
格差の問題
勝ち組が金持ちになる。負け組は貧困層になる、という。巷を賑わす最も大きなテーマだ。が、実際は、中間層が大多数で、一部の金持ちと少数の貧困層という格差で、日本では大きくない。
この解決は別に難しくはない。金持ちは「資産制限」するとよい。例えば、個人が1000億以上はもてないようにする。それより上は税金をしこたまかける。没収はさすがによくないから、しない。マネーがそのように一部資産家に集中しないようにすることで、分散化できる。中間層を増やすことができる。1000億以上のプロジェクトは国か会社が行うことで、続けられるだろう。当然、個人の資産は、どこかの会社の管轄下に移動する。大金持ち達の資産がなくなるわけではない。が、それによって、より運用などはされるようになる。
次に、貧困層にはベーシックインカムを行う。自由主義では個人の活発にすることが、その成功の鍵だ。社会は、個人の活動を最大に高めなくてはならない。よって、病気、飢え、住居がなく、服がなくて働けない個人は保護する。従来の市場原理では、給与が低すぎて貧困に陥る者、仕事がない者は、一定の保障を与えなくてはならない。
格差が生じるのは、資本主義や市場原理が全て悪いという考え方はしない。少し制度を変えて、欠点を修正する。給与などの所得の配分を調整することで、解決できる問題である。これが、資本主義という原理を残したまま、格差を解決する唯一の手段だろう。格差の是正、ベーシックインカムの導入は、個人の自由を保障する資本主義の新たなステージである。社会主義的と思われてきたが、個人の資産=私有物を増加させ、個人の自由な活動を高める政策なので、実際は、資本主義の目指すものに合致する。資本主義的な政策である。
注--社会主義的なのは、厳密には、金持ちの資産や企業の資産を貧困層に回すために、取り上げる部分である。国家が国民の富を奪うから、実に社会主義的だ。そこまでがベーシックインカムの社会主義的な面だ。それ以後、個人に富を回すというベーシックインカムの本質的な部分は、個人の私有物を増やす政策なので、自由主義的な政策だ。
ベーシックインカムはどこに国のお金を回すかという政策。前半の財源は、従来の税でも可能なので、とりわけ財源がどこにするかという制度ではないから、社会主義的なものとはいえない。後者がメインなので、資本主義の制度といえる。国の政策という意味で、経済学者はすぐに社会主義的とみなすが、制度で考えると、資本主義を促進させるものなのである。
安倍内閣、子供の貧困対策を打つ。
子供の貧困は社会問題になっている。政府は昨日、対策を発表した。具体的には資料がないので、後に分析する。
『中流崩壊』(榊原英資)
立ち読みする。元財務官だから、見識があるかと思えば、水野和夫氏の資本主義崩壊論やピケティなど、保守系雑誌(蒟蒻問答)で蔑視される3流説を引用する。残念な本。できる経済学者なら、鼻にもかけない理論を彼はありがたがる。彼は経済理論が得意ではないようだ。官僚の好きな統計が多くあるから、自分で考えられる構成にはなっている。
タイトルとは裏腹に、【中流崩壊】の説明はほとんどない。反アベノミクスの論調は6-9割間違いだが、それを統計的にぼんやりなぞる代物。左派系のマクロ統計のような印象。
中流が弱体化したのは、統計的にそうらしい。が、実態かはつかみづらい。また原因もあいまいだ。老人が日本の財産の80%近くを確か持っていた。そんな踏み込んだことは書いてない。若者、中流が損しているのは、デフレのせいということもはっきり書いてない。インフレになっていたら、100万円は平均給与が高いはずなのだがね。公務員よりも民間のほうがよかったはずなのだが。
そういうわけで、経済的に鋭い人には、本には書かれてないが、当然もつであろう日本の経済問題について、たくさんの疑問が残るような構成である。統計でもって人を説得する話ぶりは、官僚らしい。官僚らしさをかいまみる。
ただひとつ、彼は勘が鋭いのは確かだ。彼は水野和夫氏の「資本主義は利率ゼロで、終焉』ということを紹介するのだが、一方でこんな歴史を指摘する。「イギリスは利率が低くても大きく繁栄した歴史がある。日本もGDP成長率にとらわれずに、発展を目指そう。」(原文とは一致しないが、こんな旨)と。これは、もっともらしく聞こえる。
彼は、あまり気づいてないのだが、イギリスではゼロ成長でも発展した、という資本主義の歴史がある。それは「資本主義は利率ゼロで、終焉』というのは大きな間違いだ、と言っているに等しい。彼は、水野和夫の資本主義終焉の根拠の一つを見事に、歴史的な事例で、反証していた。成長率ゼロで、日本の貨幣経済が崩壊の危機にあるわけでないし、水野和夫の間違いは誰にもわかることなのだけど。経済学者はなぜか大きな声で言わない。
資本主義は、低成長でも発展する。それが歴史的に明らか。彼はその箇所で、そう国民を励ましているように、私は読めた。もともと資本主義の危機のほうは誰も信じてないが、低成長でどうなるかの不安はある。それに答えているようだった。水野の危惧(資本主義の終焉)など、まるでどうでもよいといわんばかりに。
彼は財務官になったくらいだから、実務に長けていたのだろう。彼のとりあげた経済理論はまがいものくさかったが、日本経済への処方箋は官僚としての質は保っていた。だが、彼はミスター円と呼ばれたとしても量的緩和をしなかった側の人間。どうも経済学のセンスのほうは疑わしい。それはこの本を読んではっきりした。並の経済学者よりも、力はあるが・・・・
「2025年の世界予測」中原圭介・ダイヤモンド社 の感想
ざっと立ち読みした。中原圭介は個別の経済論は基本的でしっかりしているが、アベノミクスに反対で、資本主義の終焉を考えるから、マクロ経済は苦手のよう。彼の結論は、いつも???だ。なぜか、最後の最後で結論がひっくり返る。
面白い視点はある。GDPでものを考えないようにしようという。人口減少なので、家計が大きくなることを目指す、という。よくある発想だ。
物価はエネルギー価格で決まる、という。これはどうかな、と思うが検証しだい。ならば、原子力をやめて、風力、バイオマス、太陽電池にすると、エネルギー価格があがるから、物価が上がることになるはずだ。実際はどうかな? 彼はガス・石油価格が下がることを好意的な目でみている。しかし、それは民主党が消極的で、自民が積極的に行ったことではなかったかな。
資本主義の誤解を解く
格差が拡大して、中間層が減ることから、資本主義の失敗という論を彼も採用している。それは、間違いだろう。そもそも資本主義の社会では、失業率が大問題。中間層を育て上げることが課題だ。民主主義的なので、貧困を減らすことにこそ関心がゆく。それはつまり、貧困層の中流化こそが、資本主義の最大のテーマとなる。政治権力をもつ大多数の庶民に、金持ちがかなわない。だから、資本の独占は起き難い。それが資本主義社会である。
基本的に金持ち(貯金を使えないほどの大金をもつこと)や企業の利潤の意義を彼は理解していない。それは、社会資本に回る、ということを。彼らはお金を使いきれない。
すると企業や株、国債を買ったりする。それはもう、金持ちのマネーが社会資本に化けてしまったのだ。国債は国の財政だ。企業は、大企業ほど社会的な活動をする。株は、その企業を支援するお金だ。お金持ちは、そのお金の大半は銀行に預ける。それは銀行の使うお金で、融資の資金となる。マンションを建設するならば、それは他人の住宅を作っているわけで。金持ちのお金は、本人が使い切れない分は、社会のために使われる。
社会資本に回る。ということは、富の格差が極限になるというイメージはかなり間違っているということだ。支配者と被支配者という世界になり、非民主的になることとは違うのだ。超お金持ちのお金は社会資本になってしまう。そのへんのビルや工場に化けている。よって、金持ちの拡大は国家・社会の資産の増大となる。こちらが、より現実的な理解だろう。金持ちがその大金を個人として溜め込み、個人のためだけに使うと考えるのは、経済学者がそうイメージするなら、実態とかけ離れている。庶民はそう思いがちだが、本当はそうではない。
彼ら金持ちがその社会資本の所有者ということで、その利用料として得る金とは、ある意味、税金と類似したものとみなせる。国家に払う税とは別の。それが経済の発展のために、どこまで許容されるかは、数字がある。国の税金は4割を超えると社会が停滞する。3-4割以下だ。それら資本家に払う金も、国の税とあわせて、3-4割以下にしなくてはいけないだろう。それさえ、守っていれば、超金持ちがいくら増えても、経済に支障はない。
また中間層がなくなり、貧困層が資本主義下で増加する、というのは頂けない。間違いだ。そういう仮定はできない。それは自由市場の基盤にかかわるからだ。
自由経済においては、貧乏人があまりに増えることは許容されない。なぜなら、それは貧乏人ではものが買えないから、購買者がいなくなる。それは市場の消滅を意味するからだ。それは自由市場の衰退である。資本主義の論理では、資本主義が生き延びるよう力学が働くため、そういうことはしない。
いくら貧困層が増えても、それは市場に悪影響をきたさない程度に抑えられる。それが自由市場を維持するために必要なことだからだ。物が売れない社会では困るのだ。誰も買うためのお金がないままでは、その資本主義社会は、困るのだ。よって、生産者に後押しされて、政策者がその貧困層の増大を解決するために動く。どういう処置がなされるか? 短期的には、バラマキである。長い目でみれば、職業・就職支援である。給料の引き上げ(補助金で)もある。
よって、自由市場そのものの存続のために、貧困層の増加はある段階で止まる。市場を支える中間層は一定の量を確保するようにはからう。それが資本主義の要請で、その社会もそのように行う。中間層は維持される。これが新しい、貧困と資本主義の理論である。
資本主義下で、中間層が減り、貧困層がとめどもどなく増加するというのは必然ではない。それは資本主義がわかってない者のセリフである。
経済学者は、これらをわかりやすく提示してほしいものだ。
経済学者には三タイプいる
1つは、デフレ支持派である。アベノミクスの反対論は、すぐにインフレ政策は破綻するから、デフレにせよ、という。この手のは、政界からは姿を消したが、社会評論家として生き残っている。私はこの手の日本を不景気にした者たちの言葉を聞く価値はないと思う。
2つは、消極的量的緩和派だ。白川派と呼ぶ。彼はデフレの張本人だ。また時々、量的緩和を行ったが、アメリカがさらに量的緩和をすると、すぐに円高に引き戻されるという失敗を繰り返した。経済評論家で、量的緩和の効果を認めつつ、アベノミクスに反対するのは、たいていこのタイプだ。日本経済をだめにした日銀の元白川総裁と同じむじな。
3つは、積極的な量的緩和派だ。黒田派とする。アメリカ・ヨーロッパ並の量的緩和を行い、インフレを目指し、円安にする。これこそが行き詰まっていた日本経済を取り戻す唯一の解決策だった。これを支持するのはアベノミクスにもほぼ賛成する。
最近は、二つ目の白川派のような経済学者がふてぶてしく、アベノミクスを批判する。君達は、デフレすら解決できなかったではないか。さらに今でもデフレがよい、と言う。もう消えてくれ。
量的緩和で物価高はなく、株高に
量的緩和をして、大量に市中に流した円は、どこに行ったか? インフレにならなかった。物価や物のの値段は、相場があり、家計があり、様々な制約があり、あがらない。それらは、かなり株式に回ったようだ。これは統計的にもよく言われる。
ここは大事である。ヨーロッパの株式は、95年頃からどんどん上がり、4万円とか、そういう高値にいたった。その理由として、西欧の企業の収益率が高いから、という分析がある。日本は労働者にも配分が多く、収益が低いから、上がらなかった、という。しかし、私は、それだけで説明できない、と考える。西欧は、量的緩和した。それが株式市場に流れ、それが積み重なって、株高をもたらした。そう考える。
大量のマネーを流しても、生活用の商品の値段は上がらない。そちらに回らずに株式に回る。そんな分析は多い。西洋ではそうだったなら、日本でもそれは同じだ。量的緩和でもっともあがるのは株だ。
日本の経済学者も薄々、それに気づいている。盛んに、株が上がったという。資本家が儲けたと。量的緩和は、株高をもたらす。物価には反映しにくいようだ。
アベノミクスは株高にして、日本の企業を元気にする政策なのである。それが給料になって、跳ね返る。そういう仕組みだろう。
日本の停滞から、資本主義が終焉すると、考える人はいる。一橋大名誉教授の中谷巌も『資本主義以後の世界』というそんな内容のタイトル本を書いていた。
しかし、ブラジルやインドネシアはまだまだ20年は資本主義で発展する。アフリカ諸国はそれで、30-50年は発展しなくてはならないだろう。こういう世界各地で、長期間かけて、資本主義が発展して、町が都市になり、ビルが建ち、工業化して、先進国の様相になる。
それを忘れて、日本国内で不況風が吹いたくらいで、『資本主義の終焉』と言い出すのは時期早々、いや、お角違いだ。全共闘のマルクス幻想が浮上したようにしかみえない。
そんなのは、30年後に再び、もっと世界中に資本主義が満ちた時に、考えたらどうか。資本主義はまだまだ何十年と続く。それだけは確かである。ケニアの首都ナイロビにはどんどん高層ビルが建っている。あれこそが、アフリカにおける文明、資本主義の象徴だ。あのビルが、資本主義の崩壊とともに、まもなく廃墟ビルになるのだろうか? いや、けっして、そんなことにならない。
資本主義国家とは、大きな組織の中に、個人と企業が自由に活動できる体制である。国家の中に小さな民間企業がたくさんある、という組織形態である。企業が分社した後にそんな姿になる。一つの企業グループの中に、たくさんの企業がある。ナショナルグループのような感じだ。その国家規模のものである。
社会主義国家の組織形態とは
そういう自由な活動ができる民間組織がない。全体主義的な独裁国家(集権制組織)をさす。すべて国有化されている。そこでは、国家がすべて末端まで統制する。
この全体主義(社会主義)では、自由な活動が許されない。自由活動をすることは、定義上、社会主義ではなく、資本主義だからだ。中国は社会主義の顔をした資本主義ともいえる。組織形態では。
資本主義が終焉するとは、組織形態においてはどういうことか?
話すを簡単にする。資本主義の組織形態以外には、社会主義(全体主義)しかない。資本主義が終わるときは、私はそんな未来はこないと考えるが、すると全体主義になる。この全体主義は、民間の活動を全て禁じる。なぜなら、それが統制経済=社会主義だからだ。
資本主義が終わり、改良された資本主義になるときは、それは資本主義は終焉してない。ある特殊な資本主義が終わっても。社会主義は、社会組織や個人の自由活動(生産や販売など)を禁じる。資本主義の体制を終わらせるには、その二つの活動を禁じるしかない。具体的には、企業は国有化される。個人は、国家に所属する。そこが社会主義だ。
つまり、資本主義社会の終焉時には、
一、企業活動の自由が剥奪される。二、個人の自由な経済活動が禁止される。そして、全てが国有化される。
資本主義が終焉するとは、そういうソ連によって破綻することが証明された社会主義体制に戻ることだ。集権的な組織形態に逆戻りすることである。
社会主義化すると?
もう社会主義国家がどんな恐怖政治が敷かれていたか。そんな冷戦の教訓をもう忘れたか? 中国がいまだ政治的には行っている。ソ連の体制を思い出そう。社会主義国家では、個人の自由がない。社会活動の自由はない。メディア・テレビは国営だ。国家がふさわしくないとしたものは、一切、新聞に掲載されない。報道もされない。生産は、すべて国が決める。農業も工業もだ。
市場のニーズに応え、製品を供給するという市場経済はない。国家が計画して、生産量を決める。それを国民に配給する。これが暗黒社会なのだ。ソ連もそうだし、キューバも大方そうだ。そんなひどい国家は、すぐに停滞する。物が不足して、製品の品質が落ちて、適時に不足したものを配給することはない。それが計画経済が破綻したソ連で実現した社会だ。
どこも共産国は似たようなものだった。もっとも大事なことは、それら社会主義国に自由がないことだ。すべて国が決める。官僚と政治家が決めてしまう。共産の独裁体制が国を支配する。国民はそれに従うだけ。そんな共産・社会主義国家には、喜びも楽しみも、国民の幸福も未来もなかった。
この社会主義国家のトップ政治家は王様で、彼しか自由に活動できない。国民は抑圧され、奴隷ようだ。社会主義とは、王様と奴隷しかいない制度だ。組織形態ではそれは明らかだ。全体主義国家とは、そういう集権国家だからだ。これが暗黒社会なのだ。ソ連もそうだし、キューバも大方そうだった。社会が衰退に向かい、破滅する。そんな資本主義より劣る体制である。
まとめ
またソ連が崩壊した1992年に、国民と企業に自由活動させることを禁じて、社会主義体制にしてはいけない(資本主義体制はやめてはならない)、と人類は決定的に学んだ。全体主義の間違いを人類は学習した。もう、個人の自由を捨てて、資本主義を放棄することはない。
資本主義の組織形態は、これ以上よいものがないから、それが永遠に維持される。それが現実である。それが真の未来である。資本主義という組織形態は永劫に終わらない。資本主義が終わると、と軽々と言うべからず。冷戦から何も学んでいない世界の趨勢から取り残され、まだ冷戦期の思考を宿していると西欧からみなされてしまう。
以上
経済体制における資本主義はまた別項で論じる。それは今、勉強中。
配給では考えない。配給で考えると見落とすものが多々ある。配給が完全でも、自由がないと、そこは死んでいると同じだ。社会は発展しない。それはまた後で。今は、組織形態で論じている。
社会はそれを採用して、実行に移す。すると、社会はカイゼンされ、やがては変革する。大きな変化がおきると、革命という。そのようにして、社会は古いものを壊し、新しくなる。それが社会の成長だ。
社会が成長するためのアイデアの量とは
社会の変革には、いかほどの新しいアイデアが必要だろうか? そのアイデアの量は、今回は数えない。たくさん必要だ。少ないほど、その社会は発展しないで、停滞する。ひどい時は衰退、退化する。現在、日本の企業が進歩するには、日本国全体でこのぺースで成長するには、何人、何万人の人々が、新しい方法を考え、それを実行して、改革しなくてはならないのか? その統計は知らないので、省略する。
資本主義における創造性
資本主義社会では、自由がある。個人と会社が、それぞれ自由にアイデアを持ち寄り、よりよいことを追求する。QCサークルで品質を工場させる。新しいアイデアを思いついた人は起業して、社会に問う。企業は独自に研究開発する。それは自由で、あらゆる分野に及ぶ。大学でも、自由に研究される。偏らない。それで、新しい製品は無数に発表される。新しい文学や芸術も現れ、テレビでは面白いエンターテイメント、映画、ドラマが作られる。そうやって、資本主義国では、あらゆる階層、あらゆる産業において、人々は創造性を発揮する。それが社会全体で活用される。社会全体が新しいものを人々は求め、作り出し、大きく発展する。
社会主義における創造性
基本的に自由がない。計画経済だから。独裁者は人民を思い、国家のために計画する。官僚も独裁者の命令を達成しないと、命が危ういからそれを満たすような計画を立案実行する。地方の工場も、計画通り生産しないと、更迭されるから、文字通り、必死に働く。国の命令が創造を促し、国家機関は計画をなしとげる。
しかし、個人に自由はない。民間企業にも自由はない。独裁者は常によい意味でも悪い意味でも、創造性あふれる。彼らが国を導くリーダーである。わずかな役人と公務員が、独裁者の気に入ることをするために、創造性を発揮する。独裁者と官僚と役人だけのわずかな創造性だけが、国家を発展させる。
そこの創造性の量はあまりに少ない。それで、社会の末端には行き届かない。都市の政府庁舎は立派になる。が、都会の隅々は黒く暗くなる。地方は、どんどんさびれてゆく。昔のままだ。何も新しく変わらない。まるで都市そのものが、国家そのものが、しだいに過去の遺物のようになる。誰も新しいことを、トップの了承なしにしてはならないからだ。
農業は衰退する。しだいに生産が小さくなる。農地改良は、畑ごとにしなくてはならない。が、中央の役人が統一的にするために、不適切になことが行われ、農地が荒廃するからだ。また農民もしだいに意欲を失う。工業は、新しいアイデアが大量に必要な分野だ。が、官僚が命じて設計していたのでは、足りない。どんどん資本主義国に遅れをとり、やがては何十年も差をつけられる。国営工場の進化が微々たるもので、新しいことはほとんどなされないからだ。
社会主義は、国民の創造性を押さえつけ、殺す。それを生かして活用する体制ではない。よって、その成長は遅く、やがては停滞。果ては衰退か、退行してしまう。社会主義は、民間部門や国民の創造性を取り込まない体制のため、必ず失敗する。そして、言う。昔のほうがよかった、と。世の中、個人や企業の生産の自由を認める社会主義はない。それは社会主義の定義(国がすべて統一的に行う、社会主義に民間がない)に反するからだ。その社会では、創造性があまりに低くて、現在の発展を維持できない。
まとめ
よって、資本主義の体制で発展している人類は、現体制を放棄して、社会主義に後戻りしない。ソ連のような成長鈍化、退廃を再現しない。社会主義は、個人のアイデアを殺すことばかり行い、その創造性を取り込まない独裁的な体制だから。資本主義の未来は、また資本主義的なものである。資本主義以上に、創造性を社会に吸い上げる制度はない。もしそれはあっても、定義上、社会主義ではない。それは資本主義の中にしかない。
神のような英知で、完璧に配給したら、誰も飢えることがなく、人々は幸福なのではないか? 今は高度なコンピューターがあるから、それでニーズなどを探り、生産量も間違えずにやれば・・・ 社会主義もなんとかなるのではないか。 これが頑迷な彼らの最後の主張である。
人間がその配給と生産をやれば、必ず失敗する。社会主義国家ソ連で、それは実証ずみだ。よって、それを行うのは、コンピューターでなければならない。そこは、ほとんどがコンピューターによって成立する社会主義国家であることは、認めなくてはならない。
どんなコンピューター社会主義国だろうか?
ソ連の巨大な官僚機構が、巨大で高度で優秀なコンピューターにすり替わったと考えればよい。巨大なコンピューターが何から何まで、政府の指示に従い、人間のほしいものを探り出す。これは、完璧な配給をする社会の想定なのだ。だから、国民のニーズをとらえるセンサーに誤差などない。だから、誰に何がどれだけ必要かは、正確に調査される。その膨大な情報をもとに、政府は人間かロボットに生産させ、配給する。生産過剰も不足も生じない。そこでは、確かに飢えない、貧しい者はいない。
何もかもが政府のコンピューターがやってくれる。誕生日にはケーキも贈ってくれるかもしれない。職場も、政府のコンピューターが適材適所として決めてくれる。何しろ、そこは国営企業しかないのだから。みな公務員である。集権体制の中央に巨大なコンピューターがある。彼が、国民のニーズをとらえ、適量生産させる。またそのコンピューターが余らないように、無駄をなくすように、流通を行い、配給する。コンピューターの指示通り人々は活動する。全て、その中央の命令通りに動いている。
社会主義なので、定義上、民間や個人の自由活動は禁止される。それはいくらなんでも不幸だから認めよう、というのは社会主義はだめだから、資本主義にしよう、という意見だ。そんな自由を認める制度は社会主義ではない。そこでは、個人の自由や自主的なグループ活動は一切存在しない。社会主義者の最後の砦とは、こんな独裁者が、巨大な官僚のかわりに、高度なコンピューターとセンサーを使って、完璧な配給と生産をなしとげる社会だ。
これが素晴らしいというのかい? どこが? 何が?
配給は完璧だろう。だが、そこは政府のコンピューターが管理する恐ろしい世界なのだ。人間の自由がそこには一つもない。個人は、政府のコンピューターの正確極まる指令に従い、黙々と働くだけだ。自由な活動は禁止される。仲間と集まって、議論が実る。それを本にしたいと思ったとしよう。しかし、本を大量に出版することは、生産活動なので、政府の許可がいる。自由に畑仕事をして、農業を営みたい人がいても、食料が計画外に過剰に生産されてしまうから規制される。
新しいアイデアを思いついた。それは社会をカイゼンするものだ。しかし、それは政府が採用するかは政府しだいだ。勝手に、それを実現してはいけない。何もかも政府の許可がいる。自由にしてよいことなど何もない。この社会主義国家では、自由に物をこの社会では何も作っていけない。また、この社会では発展がほとんど止まる。コンピューターの指令により、配給と生産を行っているだけだ。国民全体の創造性を、取り込む体制ではない。自由にそんなことをしたら、管理が乱れるからだ。
改良など簡単にはできない。なぜなら、それをするには、中央のコンピューターシステムのプログラムを変更しなくてはいけないからだ。働いているのは、政府の政治家と官僚機構とそれを支える巨大コンピューターである。中央集権の体制になんらかわりがない。
庶民は何もしてはならぬ。国民はただだまって政府の指令通り働け。さすれば、飢えも乾きもないだろう。しかし、発展も成長もない。そこに、自由がないからだ。それが、社会主義の最後の砦、理想とはとうていいえない暗黒社会だ。
オイルマネーが潤う国にこんな社会がある。マネーはたくさんある。生活と住居には困らない。教育は大学まで無料だ。医療もただだ。若者は、そこで何をしているか? 何もしていない。職場がない。彼らは退屈で、暇をもてあましている。
こんな窮屈で、自由に何もすることができない社会に住みたいのだろうか? 人々の喜びもない。自分たちで社会を動かす? そんなことは政府トップの人間たちにしかできない。そのほかは、皆、命令されて動くロボットか労働者だ。創造性を発揮できない職場は、毎日、命令ばかりこなすのみ。やりがいもない。最初はあっても、、しだいにその定型的な仕事は飽きてくる。これはコルホーズ(集団農場)が行き詰まるのと、同じケースだ。人間は創造性のない、成長することもなく、上からの命令された仕事を何十年とできないのである。
コンピューターか、それに近いような人間が支配する冷徹な完全配給社会。食い物・衣服、住処は困らない。が、そこには何一つ、自主的に活動する自由がない。当然、昨日の議論のように、その社会は創造性が極端に乏しく、発展速度はきわめて遅い。
そんな究極の社会主義では、ずっとずっと永遠に、それらトップエリートに支配されて、誰も自由にものがいえなく、過ごす。そんな最終的な社会主義国家を誰が望むのだろうか? 配給さえ完璧にすれば、社会主義はなんとかなる。それは間違いだ。美点は配給のロスがないことだけで、そこはどうにもならないほど、自由がなく、その喜びもない死んだ社会なのだ。
そう。それはまるで、愛と喜びと子供の笑い声がない、単に施設として完璧な人がいない保育所のようなところだ。死なないだろう。だが、そこは大勢にとって、何も自ら進んでするものがない、生命力がない鬱屈した社会なのだ。
資本主義という自由を捨て、社会主義になると、人類はそこで止まる。社会主義の完璧な配給社会は、暗黒だ。そこは清潔なだけの人類の墓場である。社会主義は、もし、謎の英知によって完全な配給を成し遂げられても、そこに暮らすに退屈すぎる。社会主義はもはや終わっている。そんな社会に何も希望はない。自由がなければ、何も成長しないのだ。
以上
「ゼロ成長社会」への道筋 水野和夫は、前半の歴史は意味不明。専門の経済史を書けばよいものを。たとえば、過去に「資本主義の終焉」と言った経済学者を列挙して、その予言がいかに外れたか。詳しく書けば、面白かったのに。
ゼロ成長社会について、彼は1000兆にのぼる日本の借金が返せないとしきりに吼えた。まじめにこつこつ返済しては返せない額だ。ならば、経済学者なら、そういう返済不能を長々と詳しく分析しても、どうかな。そんなみえすいた予測は誰でもできる。その程度のことを、得意げにすることはない。経済学者ならば、どう解決するか? そういう大局的なことを述べなくては。
全体的に、マル経教授に、「ケインズなど経済学で資本主義の終焉を導き出せ。」とお題目を与えられ、それを嬉々として、全共闘気分になって、やってみせた、という代物にしか見えない。「ゼロ成長のなんたるか? を事細かく記せ。」というアメリカ経済学者からの課題はなかったのかな?
しかし、ゼロ成長社会論には、落とし穴がある。名目成長で考えると去年の値段と今年の値段はインフレ率の分だけ、違う。だから、実体を知りたいならば、実質経済で比較しないといけない。経済学の常識だ。
ただ、経済学諸氏は、あまり重大視しないが、゛実体経済を測るためには、もう一つしなくてはいけないことがある。それを補正しないと、生活が向上したかどうかはみえてこない。それは、外国の物価安を計算しなおすことだ。それをしないと、真にゼロ成長か判別できない。生活は安い輸入品を買ってよくなるのに、統計上は家計が低くなるからだ。それをクリアして、ほしかったものだ。
購買力平価で思い出した。外国の安い産品を日本人は買う。日本で、100円するりんごは、アメリカの輸入品となると、20円になるだろう。
もし、純粋な実体経済を計算したいならば、同じものが100円と30円で計算してはいけない。日本の価格に補正し直さなくてはいけない。
が、経済学者は、そういうことをしない。円高となり、安い輸入品を買えた時に、実質GDPを示して、日本の成長率はなんぼと出した。だから、この統計の数字が、生活実感とややずれた。
本当の国民の生活が向上したかを判定できてないからだ。
100円ショップで安くてよいものはたくさん買える。それは円高のおかげだ。他国が物価安だから、安い商品がある。円高日本は、そのおかげで、お金は少なくてもよい暮らしができた。実質経済では、そういうことは数字に出なかった。統計の偽り。そういうのをできるだけ、小さくして、計算しなくてはいけない。
今後、世界各国は先進国並になってゆく。どんな辺鄙な国でも、50年かけてそうなる。すると、資本主義はその間、発展し続ける。世界のGDPはあがる。大事なのはその先だ。世界中が先進国並になると、世界の物価がほぼ同じになる。そうなった時に、本当に経済は成長しているか? 考えられる。そこまで、真の実体経済が数字に表れない。その時まで、正確なことがわからないではいけない、と思う。
物価が安い国の産品を買ってくる。その製品価格は低くなるから、そういうものが増えると、GDPが下がる。すると生活は過去と同じでも、成長率が減ったように見えてしまう。人口減の問題もあるのだが、輸入物価補正をしないと、正確にはいえない。実質GNPは、概算としては使えるかもしれないが、数パーセントの誤差は出るはずだ。
そういうあまりあてにならない数字で、ゼロ成長と危惧するのもどうかと思う。実質GDPにおけるゼロ成長の意味をもっと詳細に検討しなくてはいけないだろう。本当に、生活は向上してないのか? 単なる数字のまやかしなのか? を。もし、偽りの数字ならば、ゼロ成長でも、実体経済は向上していたかもしれないし、低下していたかもしれない。それでは、適切な対策も打てない。今回 経済ゼロ成長論は、あまり根拠のない統計からきている、という疑義を提言した。
『テクノロジーが雇用の75%を奪う』の感想 (朝日新聞出版社 マーティン・フォード著)
雇用は、機械化、電子化によって、75%は今後奪われると彼は2009年に予測した。この本はなかなか面白い。低賃金の労働者だけでなく、ホワイトカラーも仕事を失うという。すると、労働市場が縮小する。給与の総額が小さくなる。
すると、自由市場で、買う人が減る。企業が人に販売する額は減る。企業相手の売買が増加する。彼は、そこまで言ってなくて、自由市場が縮小すると書いていた。ここが私には目新しく思えた。で、市場を保つためにも、失業者には給付金を出すことになるだろう、という。彼はベーシックインカムを知らないようだ。それが機械化によって、それをしなくてはいけなくなるほどの大失業時代が来るらしい。
その根拠としては、機械化によって、労働者が減る。給料が減る。すると、人が物を買えなくなる。すると、様々な市場が小さくなる。みなお金もってないから、という。しかし、企業間の売買は相変わらず盛んだから、どうかな。そちらが大きくなるはずだ。全体としては、バランスがとれる。だから、市場自体も大きさが変わらないだろう。
人間が使う消費財は、市場が小さくなるとしても。
これで、給与格差が生じるという。企業は儲ける。が、ほとんどは機械での生産となるから、どんどん労働者の割合も減る。給与も小さくなる。社会全体でそういう流れになる。だから、労働市場も縮小する。一番の問題はそこらしい。
私は昨今の格差拡大という主張に納得していない。そうなった必然性を見出せなかった。今回、少しだけ見えた。テクノロジーによって、給与総額が小さくなる。労働者の取り分が全体的に減る。労働市場が小さくなりつつある。消費者の購買力も失われている。理論上、全体が小さくなったから、個別の給与も下がるはずである。
とはいえ、そんなことで資本主義の破綻というほど、彼は無知ではない。この失業者達には、給料を働かないでも与える、という制度によって、解決されるだろう、と提言する。安易な経済学者と一線を画しているから、私は彼を評価しよう。
資本主義の破綻という人は、本当の問題がみえていない
おやじギャグが好きなのは、おやじだから。他人の気持ちに鈍感なのは、おやじだから、となんでも『おやじ』が原因とすれば片がつくというように話す人は、おやじの何が問題なのか、本当の理由を知らない。
トヨタという大企業が儲けるのは資本主義だから。経営者の給料が高いのは、資本主義だから。なんでも資本主義とつければ、賢そうに話していると錯覚する人は、要は単に全共闘のトレンドを語っているだけで、本当のことは知らない。
『ゼロ成長だから、資本主義の破綻だ。』、『格差が拡大するから、資本主義の終焉だ。』 なんにでも『資本主義の終わり』と最後に付け加える人は、そうすれば左翼にとって知的にみえることをよく知っているのだろう。右派から見ると、マルクスにかぶれている危険人物としかみえない。こういう人たちの本心は全共闘から喝采を浴びたいのだ。せいぜいそんな小心なのだ。
それは、資本主義体制のどこに問題があるか、わからない人が使うセリフである。わかっていたら、資本主義全体をぼんやり指摘することはない。的確に経済体制の問題を論じられる人は日本にいないのか。
私は貧乏なので直接、訳本を読めないから。ネットの解説を読んでそう理解した。当時、話題になった頃には、あまりたいした本ではないと思った、と記憶する。あの資本主義終焉者たちが問題にしたのはこの本で、技術革新がすぐに儲けにつながらなくなった、という箇所だった。
家電の三種の神器は、家庭に大型の機械を持ち込んだ。洗濯機は労働を減らして効果が大きかった。テレビも新鮮で必需品となった。冷蔵庫も一家に一台必要だった。それらをどの家庭も大金をはたいて買った。それが家計を押し上げた。それが経済全体を押し上げ、成長させた、と彼らは強調した。
今は、新技術の製品は、そんなに経済効果が大きなものはない。GNPの増大に寄与するものはない。新しい技術が即、巨大な経済市場になり、GDPを押し上げるものはない、と彼らはいっていた。それでもって、経済成長はさらに鈍化してゆく、という根拠にしていた。本当だろうか?
現在、大きな市場が見込める新規産業はあるか?
これがないと、GDPは大きく上がらない。新しい技術が現れて、成長産業となり、大きな市場を作る。すると、経済全体も成長する。資本主義だろうと、社会主義でも、どこでも経済成長はこれにかかっている。彼らは資本主義に限定した問題だというが、社会主義でも貨幣経済にすると、同じことが起きる。彼らの論ではどちらも貨幣を使うことを前提にしているから資本主義の終焉は、すなわち社会主義の終焉である。
話を戻そう。経済成長をもたらすようなインパクトが大きい新技術はあるだろうか?
PCは登場した88年から現在にいたるまで、新しい巨大な市場を開拓した。が、今は、もう飽和状態。PCゲーム市場も、任天堂などが勃興したが、ピークをすぎた。携帯電話は新しい市場で賑わっている。資本主義終焉者がいう。そんな生活の必需品となるような新しい道具が登場することは今後期待しにくい。それでもって、資本主義は20世紀ほどに今後、成長しない。それで、資本主義が終焉だ、という論陣を張る。
彼ら悲観者は、新しい市場がもうない、という立場のようだ。実際はどうか? そんなに経済を向上させる未来技術や新製品はないのか?
ロボット
この経済効果は莫大だ。家庭に1台の30-50万円のロボットが入る時代はまもなくくるだろう。3台でも必要だろう。これは、家電の三種の神器と自動車ほどに匹敵する市場になりうる。これだけでも、家計は倍になる可能性を秘めている。
宇宙旅行
これも、大きいかもしれない。しかし、実際は海外が宇宙にかわるだけで、旅行費自体が増えない。旅行費用自体は低く押さえられるだろう。大きな市場は生まれない。しかし、そのインフラは莫大な予算がつぎ込まれる。宇宙までゆくロケットは、自動車・飛行機より高価である。これもまた成長産業だ。
遺伝子産業
これも大きい。しかし、医療費は高止まりで、限界近いから、市場規模は大きくならない。質だけがあがる。
自動車
台数は増えても、標準化(コモディティー化)するから、やがて単価は下がる。しかし、アフリカや南米、イスラム諸国で、需要が高まる。人口も増加する。今後、40-50年は生産台数はあがり調子だ。
霊との交信機
未来を考えるから、このくらいはあってよいだろう。しかし、ネット電話程度の価値しかなく、既存のテレビに小さな電子部品をつけて、できるだろうから、大きな市場にはならない。
生体監視装置
これは本人の状態をすべて記録しておく装置。あらゆる思考も記録されるから、日記をつける手間もなくなる。これはせいぜい10万円。
新産業のまとめ
ロボットと宇宙旅行が大きい。その他は、PCゲーム程度の市場にしかならない。機械製品が来て、電子製品がやってくる。それが今後、さらに複雑化しても、単品としては高くて10万円くらいにしかならない。1台数百万円の車にかなわない。
今後、大きく人類の生活は向上しても、それを支える個々の製品が小さな市場をもたらすとしても、新しい大市場になるのは少ない。当面は、それで経済成長は期待できる。現在は携帯の電子製品が家庭に入り込む。それが世界経済を牽引している。しかし、いかんせん市場規模が小さいのだ。これでは、先進国の経済が大きく伸びない。ロボットが生産されるようになると、状況は変わる。経済はのぼり調子となるだろう。それまでは成長率が低いことを我慢するしかないようだ。
彼らが言うこと、今後、新技術・製品が大きな経済成長要因にならない、はさほど的外れでなかった。しかし、ロボットの影響を彼らは過小評価している。さて、ここまでみてきて、わかっただろうか?
人類は技術革新をたえまなく行う。生活の質はどんどんあがる。未来には、新しい技術が夢のようなことを実現してくれる。いまや人々の創造力は、20世紀初頭の何十倍も社会を豊かにする。そんなに人類は成長速度を大きくあげた。
成長はアイデアの数にかかっている。それは特許の数で表される。特許出願数はいまや過去最大だろう。おそらく。しかし、経済学の手にかかると、それでも人類はゼロ成長、という。まるで狐につままれたような話だ。ここまで、読んで、何がおかしいのかわかっただろう。資本主義か? それとも経済学者の見方か?
資本主義は問題ない。自由経済によって、社会は順調に発展している。それ自体に陰りはみられない。私は、貨幣を指標とする態度(経済学の分析法)が新しい現実についてきていない、と思う。資本主義社会は薔薇色の未来が待っている。が、経済学でみると、成長が止まっているように映る。つまり、問題は現行制度ではなく、"経済(マネー)"による価値判断にある。
彼ら資本主義終焉論者は、セクハラが止まらないのは日本社会制度のせいだ、という。私は、セクハラ部長のせいだ、と言いたい。社会が成長を止めたわけではない。経済学でそう見えるだけだ。悪いのは、経済的視点だ。資本主義体制ではない。
私は大阪市立大学の経済学部卒だ。マル経は講義に出なくても、必須だから試験に貨幣論を書いて合格してやった。あまり経済史や詳しいことは忘れた。最近の経済学者はいい加減な感じを受ける。非主流派が大きな顔をしている。
私は入学して、三ヶ月で経済学に見切りをつけ、経営学ばかり勉強していた。が、まるっきり知らないわけではない。昨今の経済学者の過ちを、経営学(組織形態論)の観点からではなく、経済学的にも、あばいてみたい。うまくゆくかな。
成長率が低い、ゼロ、と一部経済学者は騒ぐ。このままでは資本主義が終焉する、と。が、私には強い違和感がある。この日本人経済学者の主張は、視野狭窄ではないだろうか? 本当に経済成長率が止まったのだろうか? これは簡単に検証できる。経済成長(GDP)の長期見通しをみればよい。現在から、GDPが将来も変わっていないならば、ゼロだ。
イギリスのPWCの調査『2050年の世界』(2013年度)では、日本が2011年に4531*(10億ドル)、2030年に5842、2050年に8065とほぼ倍増する。購買力平価ベースの計算らしい。日本人の一部経済学者は成長してないと悲観的だが、イギリスでは日本は成長している、とみているようだ。
実質成長率かどうかが、問題なのだろう。しかし、実質成長とは何か? 経済学においては、名目成長率と実質成長率がある。名目成長率とは、物価上昇分を含めた成長率。なので、実質成長率が、本当により経済的に豊かになったかを示す値だ。購買力平価ベースとは何だろう? ちょっと忘れた。物価上昇を含めるのかな。含まないのかな。成長率は日本が2%だった。
どちらにしろ、経済学の"実質成長率"はあてにならない。年々よりよいPCが開発されている。が、ほとんど新しい製品も同じ値段で買える。安くなるもののほうが多い。経済学ではそれは、価格安なので、衰退となる。進歩しても、衰退とみなされてしまう。ゼロ成長だから、経済は発展していないという主張は、値段だけみている者の言葉だ。実質経済では、とらえられない製品の質の向上、社会の進歩はある。
社会が実際に成長しているか、貨幣ではっきりわからない。これを『実質成長率の罠』と呼んでおこう。インフレでもデフレでもないのに、同じ値段で買えるものが、現実では日々品質向上する。同じ値段のお菓子が、菓子職人の工夫で、少しずつうまくなっている。もしくは材料費が上がったから、菓子は安上がりに作ったかもしれない。
経済学のいう実質成長率では、それは数字に表れない。実質成長率ばかりにこだわると、真の成長やマイナスがみえなくなる。そして短絡的な判断をしがちだ。実際は社会は創意工夫して、改善するから、全体的に少しずつ商品の質をあがる。社会は成長する。
特に、経済成長がゼロと盛んに言い立てて、資本主義が終焉すると単純にものを言う輩は、こういう金にならない質の向上は捨象しがちだ。実質成長率をそのまま社会の成長率と信じこんでしまっている。社会は毎年いい製品が手に入るようになった。生活は便利になった。しかし、経済学者だけは、GNPが変わってない、去年と何も変わってない。生活はよくなっていない、と騒ぎ立てる。彼らの言葉は信用できなくなっている。
経済学者もこの程度のことは知っている。だが、つい実質成長率が低いから、社会の成長は止まった、と言いたくなるらしい。資本主義は終焉、とそれ一筋で、世間を騙してしまう。悪い癖だ。世間に何かそれで印象づけることはできる。が、そんな物言いは、経済学の同業者には通じない。それもまた経済学者はわかっている。
しかし、実質ゼロ成長だから、社会の進歩が止まっている、と経済指標の誤解みたいなのを、さも正しいかのようにいつまでも言っていたら、信用されなくなる。そんな安っぽいことを言い続けたら、いずれ経済学が現実をとらえきれないから、不要ということになってしまうだろう。まだそこまで見抜いて発言する人は現れていないようだが。経済学不要という極論に至ってないが。
ゼロ成長=資本主義の終焉、と言う経済学者も、その見解の根拠が弱いことは自覚している。だから、その理論的な欠陥を補うために、彼らはいろいろ根拠を別に探している。一方では、経済学が社会の進歩を本当に現すか? それを血眼になって検証している。『大停滞』の話だ。結局はここにゆく。これは今度にする。
今回は、世界経済は成長している。それは数字では明らかだ。2050年までずっと拡大する。名目とか実質とか、あまり厳密に区別する必要はない。成長していれば、それで成長だ。なぜなら、経済学では本当の成長は数字に出ないのだから。
極度のインフレでなければ、それで世界経済はうまくいっている。経済学は本当は、大雑把でよいのだ。家計や財政ではあるまいし。その間、世界は成長しているとみてよい。先進国が停滞しても、世界の資本主義は年々拡大している。よって、まだ、資本主義の終焉を唱えるのは早い。これが結論である。
彼はその部分の施策の可否をいうならともかく、それに全体的に反対するとは、水野はよほど世界の経済常識を知らないのだろう。だが、どういう根拠で反対するのか? 私はよく知らない。で、彼のものを読んでいる最中だ。今わかったことを述べる。
彼は新潮45(2015/1)で『アベノミクスの終焉・資本主義の終焉』を書いた。そこで、『日本で資本主義はすでに終わっている』、というようなことをいう。どうやら彼は経済の細かい数字をみすぎて、全体がみえてない。彼の考えでは資本主義の経済は、『利率』でどういう状態かわかるらしい。成長率=利率なのだろう。ふつう経済学者はそう考える。利率が低いから、経済成長が止まった。それで彼は、資本主義が終わった、と短絡的な結論を導いた。
しかし、統計上の成長がみられないからといって、資本主義が終わったと考えるのは間違いだ。経済学者の陥りやすい典型的な罠だ。携帯電話やコンピューターは進化しているし、自動車も日々改良されている。住宅もよくなっている。食べ物や衣服まで、毎日よりよいものが着れる。それら社会の発展は資本主義のおかげだ。もし、社会主義だったら、そんな良品は国から配給されなかっただろう。資本主義の体制は、いまだに多くの人々の創造性やアイデアをうまく採り込み、社会を発展させる。
経済学者は、統計の数字を見るあまり、経済の実体(理論上の実質経済ではなく)に疎くなる時がある。新しい製品が次々と世に出ている。テレビは日々、新しいより魅力的で快適なライフスタイルを提案している。町に出て、新鮮な進歩を感じると、日本はどんどんよくなっていることがみえてくる。特に、都会は。資本主義経済は、今なお力強く、発展している。不況感と活況感が混ざり合う日本においてすら。
だが、どこかの建物の研究室に閉じこもり、テレビやインターネットを見ないで、統計をいじくっている。そうすると、特異な世界観に陥ることがある。例えば、統計の数字が小さくなった、GNPグラフの右肩あがりが止まった、人口が減少した、利率が小さくなっただけで、なんだか日本が大きく傾いて、衰退に向かっていると錯覚する。実際、それほど大きく経済は悪化していないのに、一時的なものかもしれないのに、指標が少し傾いただけで、大げさにもう日本経済は破滅の危機だと、考える。
彼はそう思い込こんだようだ。そして、資本主義やアベノミクスは終わった、とあちこちで訴える。彼はその手の学者であることは確かである。野党のお抱え学者ようなふるまいをする。彼は結論が間違っているから、今は検証はしないが、個々の論理も間違いなのだろう。今そこは批判しない。
日本経済は円高不況を終わらせ、やっと曙光を迎え、始まったばかり。その改革の成果が現れにくい時期だしても、日本資本主義の危機でも、アベノミクスの危機でもない。水野の資本主義批判がすでに終っているのではないだろうか?
資本主義が終わっても資本主義。昨日、『新潮45 2015年2月号』(新潮社)を立ち読み。ここは、反アベノミクスのギルド。水野和夫に、藻谷浩介。経済学を使って攻めてくる。その反論。
中国バブル崩壊の日 資本主義の黄昏2/水野和夫
切り札は「参勤交代」と里山資本主義/養老孟司×藻谷浩介
を読んでみた。
資本主義は終わらなくて、バージョンアップ
彼らは、資本主義がドイツの重商主義政策で始まったものとし、市民や企業の自由活動からなる経済体制という。これは独占が生じて、個別企業の自由な活動ができなくなるから、独占禁止法を必要とする。また個人と企業活動だけでは、恐慌、格差の拡大が生じるから、それを国が是正して、貧者の救済、恐慌の防止などするのが、修正資本主義。
経済成長がなくなって、資本主義は発展しなくなったから、終わっている、というのが水野氏の持論である。前に説明したが、彼は間違い。資本主義の反対語は、社会主義だ。社会主義とは統制経済をさす。資本主義では、個人や企業の自由活動が基本だ。社会主義は、それを奪って、国家のみが自由活動をする全体主義社会をさす。
資本主義が終わると、社会主義になるしかない、という説は間違いだ。それは、個人や企業の自由活動を捨て、国家の命令に従うことだ。それは、人権に定められた集会結社の自由と個人の自由を捨てることだ。それら自由権をなくさないと、個人の自由な商業活動はおわらせることはできない。人類は今後、そんな人権の放棄はしない。よって、完全な社会主義にけっしてならない。
人権は剥奪しないのが、多くの人々が理解する共通の未来だ。よって、それを奪うことによる成立する完全な社会主義はけっしてこない。つまり、個人や組織の自由は永遠に残るから、資本主義は終わらない。
そもそも、人間は他人の意志で動くロボットではなく、自分自身の意思をもっている。社会主義のように国家の命令を聞くロボットに人間が完全になることは、不可能だ。人間個人の意思を排除しない限り、無理なのだ。社会主義は、ムーリーである。よって、資本主義=人間の個人の自由意思が集まって作られた社会なので、それは人類が存続する未来にまで永劫続く。単純な論理で、このように資本主義が終わらないことは証明した。
では、水野氏が言う、資本主義の終わりとは何か?
彼のいう、資本主義はいろいろあって、最初の資本主義、修正資本主義、新自由主義かもしれない。彼は、資本主義がポスト資本主義になる、という話を好む。彼は、資本主義の枠内で、特殊な資本主義は終わり、次のまた別のポスト資本主義になるだろう、と言う。
どういうことか?
広い意味での資本主義は終わらない。が、特殊な資本主義は終わる。そして、ポスト資本主義(資本主義ではない体制でなく、資本主義の一種)になる、といいたいのだろう。彼は社会主義になるとは言ってなかったはずなので。資本主義と社会主義とは、そもそも組織論上の区別だ。自由主義と全体主義と理解するのが正しい。全体主義に人類はならないから、社会主義にもならなくて、いつまでも資本主義のまま発展する。
彼は今の資本主義が終わったら、どんな資本主義が次に登場すると考えているのか? 彼の言う、ポスト資本主義は、どんな資本主義なのだろうか? 彼はそれを描くことはできない。彼は、一方で、経済成長至上主義を批判している。経済成長は、日本が第一に目指すべきものかは、疑問という。経済を成長させなくても、日本がよくなる道がある、と彼は言いたいらしい。しかし、そんなものはない。
彼は、経済を指標にして、その成長を目指す日本政府のやり方がおかしい、と言っているのだろう。が、社会は発展しなければ、停滞、もしくは退行する。それは不況を意味する。民主党時代にさんざん経験したあの先の見えない暗い時代だ。
経済で発展を目指すこと。私には現時点はそれが一番正解と思える。不況がなくなり、好景気にするのが、首相の当面の課題だ。それを強力にすすめないと、日本は失業の増大や暮らしの低下から回復しない。
彼は、アベノミクスの経済成長第一主義を否定する。まさか彼は不況を目指すべきといいたいのだろうか? 経済、経済と政府が言うな、という意味だろうか。経済は聞き飽きたからか? 『福祉』という言葉がいいのか? 『日本農業の再興』か? 経済学者が世相に過剰に敏感反応して、政治スローガンにまで口を出すのは本分を超えている、と思う。
ただ、社会の進歩を表す指標としては、マネー(経済学)は機能しなくなっている、というのは、確かにある。社会は発展しても、経済成長は達成できてない先進国は多々あるからだ。彼は、それを言いたいのかもしれない。それなら、アベノミクスとは関係のないところで、純粋にやればよい。アベノミクスと絡める必要はないだろう。アベノミクスは実は、その点でも、挑戦して、解決策を実施している。国家による意図的なインフレ政策という手法で。それをも、世界はみていることをお忘れなく。
社会主義が資本主義に劣る、という話が大好評。
資本主義の未来はばら色
そもそも資本主義とは?
18世紀のドイツで、民間企業を活用するのが、資本主義のはじまり、とされる。しかし今や資本主義はもっと洗練された。現在は、何が資本主義の定義か?
資本主義の反対は社会主義だ。社会主義とは中央集権の計画主義だ。純粋な社会主義では民間企業がない。
よって、その逆が資本主義だから、民間企業を取り入れるのが資本主義、もしくは、国家が一つの統制社会でないものが資本主義となる。
この定義から、中国の体制が「資本主義を取り入れた社会主義」と呼ばれる。
社会主義は社会組織が一つの国。資本主義は内部に複数の社会組織をもつ国と定義できる。
この資本主義を制度でみると、個人・グループ活動の自由がある国といえる。そのため無数の自由な活動主体がその国にはある。社会主義はそれがない国と定義できる。
資本主義というとき、『資本』という言葉にこだわってはその本当の姿を認識できない。そこが大事である。資本ばかり論じ、その制度の本義を見落としていけない。
経済面はどうなるか?
資本主義だけが貨幣経済をもつ、と思われている。しかし、社会主義でも貨幣経済にできる。よって、それは資本主義特有ではない。
貨幣経済がない資本主義は成り立つか?
社会主義では貨幣なしの配給制度はあった。よって、資本主義でも原則さえ守れば、貨幣なしもありえる。資本主義は貨幣がなくても成立する。その原則とは、民間の自由活動が認められていることだ。貨幣は、流通の手段である。貨幣制度は、古来からあり、資本主義がなくても成立してきた。
また貨幣制度は、その名から資本主義を支える要件と思われがち。だが、資本主義とは、純粋には、組織形態をさす。個人や企業の自由活動さえ、その制度要件さえ認められたら、それはその経済がうまくいこうが、悪かろうが、資本主義である。
よって、貨幣制度がないそれもありえる。貨幣制度が破綻するかいくら議論しても、資本主義の成否に結びつかない。それは民間の活動を停止するか、国有化すべきどうか、という話でないからだ。
経済体制に資本主義と社会主義のほかに何があるか?
部族社会の経済はある。マルクス主義で「原始共産制」と呼ばれるもので、所有がまだあいまいな状況だ。これは大きな社会では、所有を区別するから、成り立たない。この体制は、家族みたいな小さなグループでしか持続できないから、社会や国、人類を考える時には、必要ない。この原始共産制で国作りをすると、どうなるか? 無謀な挑戦をした共産国はいくつかある。その1つが北朝鮮だ。
北朝鮮では、国が1つの家族となった。共産党の代表、金日成が人民のすべての親となった。素晴らしい。人民は彼の子供である。すごいたくさんの同志だ。すると、北朝鮮のように親が何もかも独占する。そして、あの金一族の主体思想まで作られ、かの北特有の共産原始制国家ができた。単に、一族の独裁国家だった。原始共産制は、部族支配に陥る。それは、歴史からみても必然だった。部族社会では、それが大きくなると、部族が集まり、そこから王が出て、支配するのだから。4-6世紀頃に、日本でもみられた。邪馬台国とか、その頃に。
共産というのは不可能で、だいたいは国有となる。共産とはある意味、誰ももたないで、組織(国)が所有することである。こういうのを先進国で行う発想は、家族主義や部族社会を国家にもちこむことで、幼稚である。というわけで、経済には大きく、資本主義と社会主義しかない。原始共産制は論外である。そして、社会主義に貨幣なしの制度があるから、同じく資本主義においても、貨幣なしの制度がありえる。ここが大切。
現在、貨幣制度に陰りが見えている。よって、このまま推移すると、資本主義から貨幣制度が取り除かれてゆくのではないだろうか。それは社会主義ではなく、あいかわらず資本主義である。その社会は一極集中でもなく、統制されることもなく、個人や企業が自由に活動するからだ。これが、資本主義の未来である。
経済学者諸君。貨幣経済なしの資本主義社会を描いたらどうだろうか? その未来がバラ色であることを今度、証明してみよう。
社会イデオロギーの終焉(地球は資本主義一色に) 2015-2-02 校正4/7
社会イデオロギーの終焉
現在、多くの人々が気づいている。イデオロギーは影響力をもたなくなったことを。
「人権が弾圧されない社会はすばらしい。」、と1970年代には思われていた。人々から差別がなくなる。そんな世の中にしたい。人権社会では、人々はその価値を偏見と差別なく認められ、もっと自由に活動でき、活況あふれる。そう夢見ることができた。しかし、40年かけて、人権は日本の隅々にまで浸透した。それがいきすぎて、人権の過剰保護が問題にされるくらいだ。そして、2015年、人権は人類を主導する理念から、陥落しつつある。
「民主主義と自由こそが人民を幸福にする。」 これはアメリカのイデオロギーである。多くの日本人も民主化こそが世界を救う、と信じる。彼らは世界の独裁国家を倒し、民主主義と自由を広めてきた。1991年にソ連は倒壊、東欧諸国も民主化した。それによって、世界は平和になった。進歩が止まり、破滅へと向かっていた共産圏は再び、発展する方向に歩みだした。
民主化しなくてはいけない国は中国、北朝鮮、ベトナム、キューバといくつかある。が、民主化はいまだに一部悪辣な国家の問題を解決するものの、それが世界を大きく改革させるものとはなっていない。自由の効力は低下しつつある。
「資本主義社会の成長神話が・・・」
自由社会において、経済は永遠に発展する。現にそうだ。が、経済学上はそれが数字に表れなくなっている。これも、社会の制度改革が、社会の発展を促さないようにみえる理由の一つである。経済という指標を発展の目安にする限り、これはなかなか改善されないだろう。
つまるところ、社会の制度改革によって、社会が活性化する時代が終わりつつある。社会制度を改良する効果はだんだんと小さくなっているからだ。
これは資本主義経済の終わりではない。資本主義は今後も続く。マルクス経済しか知らない単純な人は、経済は資本主義と社会主義しかなく、資本主義が限界になると、終わり、社会主義になる、と思っている。それは間違いだ。資本主義が永遠に今後何億年は続く。
ここで言うのは、そういうことではない。マルクスも所詮、社会改革しか書いていない。自由主義も社会思想の一つだ。私は、その社会改革全体が、もうゆきづりつつあることを主張している。
どちらも同じ社会制度の思想である。社会イデオロギーそのものが、限界にさしかかっている、とここでは主張する。マルクス(共産主義は)は1992年に完全に死んだ。その後も続く、自由主義国家の制度を改革させて、社会を進歩させるやり方が、そろそろ勢いをもたなくなっている。
社会制度を改革していたら、社会はよくなる、というこれまでのやり方が通じなくなっている。社会改革を目標とするあらゆる社会思想が、魅力ないものになりはじめている。特定の社会思想が時代を主導する原理になりえていない。これは社会制度がなんらか完成しつつあるから、生じる現象である。なぜなら成熟期(完成期)を経ない、と後退局面に突入しないからだ。
人権は社会に広くゆきわたった。自由競争、個人・企業の自由は、およそできるものはした。民主主義はまだ問題はあるものの、世界で広く行なわれる。つまり、社会制度は、大方整ってきている。その改革では、人類そのものの大きな進歩にならないところまできた。
まだ一部貧困の解消、経済的な問題を克服する制度は整ってはいない。そんなベーシックインカム、さらには国家の経済的な問題も解決しなくてはならないだろう。しかし、ようやく人類は、社会イデオロギー闘争の時代を完成させつつある。自由主義は共産主義に勝ったという栄誉を残して。もうすぐ地球は全国家が資本主義一色にそまるだろう。
この手の本は立ち読みする。赤い本は、もっているだけで知性が低下するし、気分が悪くなる(実際にそうである。捨てると心が晴れやかに)。これは、大阪湾や東京湾を、かつての美しい渚に戻そうという話。全共闘向けで、資本論のような共産の用語がたくさんある。が、実際は、資本主義や共産主義とはまったく関係ない。老後に、都会から出て、海の近くに住みたいと思わせる内容だ。
なお、この著者は共産主義が今後、くるような書き方をしているが、それは違う。共産主義は92年に終わった。さらに彼は社会主義も否定する。『労働は賃金と交換するために行う苦行ではなくなった。』と。労働がお金になるのは社会主義の国で起きること。この本では、その社会主義ももう終わる。その後に、人々は海にかえる、という。
この本からわかるのは、人々はイデオロギー闘争から外に出る老後に、海の近くに住む。すると、海辺の資本主義的なにぎわいを見い出す、ということだ。里海の資本主義とあるから、魚業について詳しいレポートがあるかと思えば、そうでもない。これは漁村の新しい商売の話でない。海辺をきれいにするようなNPOのようなものとか、そんな活動が記されていたように思える。
だから、漁業者や沿岸の自然回復運動を本格的にする人に参考にはならない。変な理想を描いて、海の自然保護などする人が興味をもつかもしれないが。そんなケースを印象的に描いて、それらが海辺のユートピア幻想を抱かせるものである。文章表現は凝っている。が、海辺に郷愁感をいだくご年配しか共感できない内容である。とはいえ、人々の目を漁村に向けさせるから、漁業の振興を目的とするものだ。前の里山資本主義は、農村林業の振興本だった。地方創生の時代なので、それに一役買う。こういう左翼系中高年を海辺にいざなう書物もありなのかな、と思う。
あくまでも、これは社会・共産主義幻想が滅んだ時代、権力闘争がいやになって、自然に帰る。すると見えてくる海の景色である。若い人にとっては、あまりリアリスティックな話ではないと思う。全共闘の引退後の参考本なのだ。共産主義を捨てた者達が、田舎でやり直す。海の町で見出すであろう漁師町の資本主義の光景。それを描いたものだ。私は共感はしない。が、今は公害で汚いが、江戸と大坂が自然豊かだったこと。そういう未来の景色だけは見いだせる。
だが、『資本主義』という表題から共産主義シンパの全共闘が好むタイトルから、赤い面が色濃く感じられる。期待しないほうがよい。漁村はこの本のように潤わない。全共闘老人の海辺案内本という価値しかない。
藻谷浩介と養老孟司の対談の感想
里山資本主義は、確か、まきを燃やすと燃料(石油)購入費が浮いて、その分、地域経済に回せる。薪をとるために企業活動が必要で、それら地域産業が地域活性化の切り札の一つ、という農村再興の話だった。これは小さい小さい夢。日本人はこれに希望をもてない。
原子力発電に限界を感じ、再生エネルギーブームとなった。太陽光発電、藻から石油をとる、風力発電など、電気を起こすのが注目された。そんな代替エネルギーに脚光が浴びた時に、山のまきで発電して、地域の電気需要を満たす、というのが、里山資本主義のウリだった。しかも、里山の管理も出来るし、その雇用もあるし。地域が潤う、という。私はNHKの特集をちゃんと見た。
正直、イスラエルの荒野、山林のないイギリス、砂漠が多いアフリカ地域など、里山がない地域ではできない。世界の問題を解決することはできなくて、日本限定のお話。山の林が多い日本、カナダ、シベリアくらいなら、一部でやれるかもしれないが・・・
里山資本主義では、世界のエネルギー問題を何も解決できない。つまり、里山資本主義に世界進出はない。日本で小さく、ぼちぼちやるしかないのか? 北海道では必要ない。なぜなら、ボタ山の石炭がまだ使えるからだ。山林を燃やすよりは、石炭のほうが効率がよい。地熱発電があるところも、電気があるからいらない。
太陽電池が田畑におかれた地域も、もうそんなマキ発電はいらない。そこも進出できない。まきをとってくる手間も面倒だし、太陽電池で十分間に合う。山林が多く、山林組合がしっかりした所で、廃材が多く出る所でなら、なんとかなるかもしれない。まき燃料発電は、やっと活躍の場をみつけた。山林の近くの過疎村だ。大勢の人に回す分の電力は発生できないから、町は無理。村にこそ活躍の場が残されている。
過疎の山林でしかできない里山資本主義に夢がある?
実はない。代替エネルギーに未来がある、と思われた。が、太陽光発電は発電量が少なくて、そのままでは電力が不足するとしだいに現実が見えてきた。自然エネルギー先進国のドイツが電気を隣国からもらっていており、芳しくないからだ。風力発電も日本は設置場所が少ない。自然エネルギーの発電は、多くは望めないし、もう大きな期待はできない。
自然エネルギー幻想はついえかけている。本質的には、里山資本主義=まき燃料発電だ。それも先行きが明るいわけではない。小さく細々と局地的にやっていけるかどうかだ。
計算してみよう。
確か、設備は5000万から1億。せいぜい2億以下だったと思う。確か、2000軒の電気需要は満たせなかった、と思う。多くて600軒くらいだったように思う。こういうものは元がとれるのは10年。自然エネルギーはそんなものだ。すると、年間500-1000万円くらの収入だ。2人分の雇用にしかならない。
こういうのはどこかにあるはずだ。日本全国で500設置されたとしても、初期投資が1000億。その後は、毎年100億の電気代をとれるとして。100億の産業だ。これが、ばら色と思うか? 日本の未来の産業を救う"まき発電"だと思うか?
私は思わない。こういうのが現実なのだ。
藻谷さんは経済学者だから、きっちりと計算できているのだろう。利益は十分とれないことを。
そもそも、燃料革命では、未来は明るくない。石油。火力発電は最大規模だ。原子力発電も大きな市場がある。これらは20世紀の一大産業となった。が、代替エネルギーはそれらより市場規模が劣る。太陽光発電は最大の産業となったが、石油やガスに比べられないほど小さい。そのほか、水力は長くダムは建設費がたくさん使われた。が、風力の産業規模は小さい。まき発電(里山資本主義の根幹)は、全国展開は無理なので、さらにさらに小さな市場。そんなに小さな猫の額ほどの市場しかないものに、夢を託せと言われても・・・・
薪だよ。薪。平安、江戸時代から続いている薪。再利用というか、見直しというか、そんな古くからあるものでは、いくら用法を少し変えたところで、社会は発展しない。シェールガス、シェール石油のシェール革命は、アメリカを元気づけた。しかし、所詮、石油にガスだ。生活は変わらない。薪がいくらがんばっても、国家を浮上させる力はない。村興し程度だ。
この現実を見よう、と思った。里山資本主義に、村興しくらいの希望しかないのだ。そこには山林組合が寄ってくるだけだ。町や都市の人も近寄らない。それが限界なのだ。里山資本主義はそんなに夢がない。ムシのいい話ばかりしてないで。
そもそも、山地で発電するなら、水車のほうがよっぽどいい。薪は発電のために燃やすよりも、暖をとるために、風呂を沸かすためで、十分だ。里山資本主義は、発電をするところで、私は耳を疑った。電気のために、そこまでするか、と。発電にそんなに夢はない、と思ったものだった。
(記 薪発電は、ドイツですでに行われ、補助金を出して、規制をかけないと、産業として成立しない、という結果が出た、とクローズアップ現代に。それが次の評論。)
里山資本主義は、規制と補助金なしに成立しない。昨日のNHKクローズアップ現代に「バイオチップの発電」を特集したものがあった。ドイツはその手が進んでいる。そこでは、5000kWの発電でしか採算はとれない、という。その発電が行なわれる北海道下川町では、電気代が安くなったという。
以前、里山資本主義の放送では、500kWの試行ケースだったのに、大きく様変わりしていた。しかも、薪から、バイオチップ(廃材を粉砕して細かくしたもの)に。資本主義らしく、進歩していた。これへの参入は全国30業者。が、岐阜では燃料のバイオチップがすでに不足している。5000kWは国内の木材の量では、1県に1つしか稼動できない、という。それを以前から使っていた製紙工場は、新たなバイオチップの消費の増加によって、確保できなくなり、輸入するはめに陥った。
しかし、そんなもはや過当競争下にある名古屋周辺だけでも4-5つくらい新たに、バイオチップ発電設備が建設中。このままでは、バイオチップはほとんど輸入するしかないようだ。里山資本主義は、どうもバイオマス発電に対する過剰な幻想を人々に与え、参入過多になったようだ。
この発電の先進国というドイツでは2800億円市場になっている、という。たいしたものだ。5000Kw発電は採算はそれしかとれないが、たくさんそんなところが作られ、発電資材の不足で破綻したそうだ。そのため、ドイツは小規模発電にさせた。そして、バイオチップの不足が生じないようにした。さらに、バイオマス発電は電力の買い上げ価格をあげて保護した。すると、ようやく木材チップの不足はなくなり、安定的した、という。
結局、ドイツは2800億円規模となった。日本は森林面積が大きいから、もう少し大きくなり、4000億円くらいか。大きい市場というべきだろう。しかし、これは太陽光発電と同じで、保護しないと採算がとれない補助金づけ産業。里山資本主義とは、とてもじゃないが、いえない。
それがNHKを見た私の結論である。もう結果を予測できる資本主義の市場である。このままでは、日本もドイツの轍を踏み、現況の5000kWの大型発電は破綻する可能性が大だ。
ただ、4000億円は聞き捨てならない市場だ。それによって、山間部で仕事ができるなら、保護する価値はあるだろう。(資本主義は自立的で社会に面倒をみてもらってはいけないのだが、)。なぜなら、年収500万円くらいとして、8000人の雇用が生まれるからだ。林業のある村では、期待される。
もうそろそろ、里山資本主義という過去の夢から覚めるべきだ。それは、保護(補助金)なしに、成立しない産業で、資本主義の自由市場にはなれなかったのだから。バイオマス発電の現実を受け入れるべきだ。
新自由主義に反対する者は、一方でグローバル化に大賛成。国粋主義者は、トヨタの車を海外でばんばん売れと言いつつ、一方で日本の農業が壊滅的になるから、TPP反対と叫ぶ。国益としては一貫しているが、交易についてはちぐはぐな主張になる。この二律背反の輩は、強い産業ではグローバル歓迎で、弱い産業では反対で、あっちこっちにいったりきたり、定まらない。日本では、農協と農家の宣伝が功を奏して、反新自由主義のムードが強まる。これは騙されている人だ。なぜなら、世界の潮流は新自由主義、グローバル化である。世界の潮流に敏感ならば、俺は新自由主義と共に日々、国際化している、と自覚できる。
EUという単一経済圏はどんどん拡大している。国家間の貿易はますます増える。世界はますます密接に結びつく。それを誰も止められない。世界がますます自由になる。それに反対するとは、よほどの引きこもり、孤立、鎖国志向である。が、実はそんな極端な考えはなく、自分たちの利権を死守しようと必死になっているのみ。それは、地球的な視点からは、時代の流れに逆らう人間である。だが、彼らは他の面では世界との交易が広がることを望んでいる。これはTPP反対論者である。彼らは、すべての新自由主義に反対しているわけではない。
新自由主義のすべてに反対するのは、異質である。まるで世界の発展に逆らい、小さな殻に閉じこもったかつての共産主義者に似る。この主張者の真の姿は、政府の保護を求める産業界の代理人である。もしくはその扇動にまるめこまれた人間である。反新自由主義のほうが時代の流れと思っているのは、一部の過激な運動(西欧の極右翼は移民排斥、共産国は貿易の停止、)の影響を受ける『定見のない者』なのだ。
現在、世界構造の発展の方向性に、すべての国家は飲み込まれてゆく。それに抗するのは、大嵐に小舟を漕ぎ出すがごとし。日本では、反TPP論者が盛んだが、かわいいものだ。本物の反TPP論者(孤立主義者)は、ブロック経済、保護貿易、経済的孤立、鎖国。そんな閉鎖的な貿易体制が大好きである。それが自分たちを守る、発展させると本気で思っている。そして、貿易の自由化に反対する。こういう自らの利権を守るために、世界の発展を妨害するのは、自由主義の敵ではある。だが、ほとんどの反新自由主義者は、本当は自由主義が大好きである。
反TPP論者と自称する者達には気をつけよう。彼らは常に、農協の味方とは限らない。彼らはトヨタの車のことになると、『アメリカは関税を撤廃せよ。保護貿易は反対だ。』なんて、身も蓋もないことを平気で言う。えっ、まさか。アメリカが日本車に5%の関税をつけることは、当然だと思っているのだろうか。韓国は0%なのに。中国は、日本の優秀な工作機械をどんどん買う。彼ら経済学者はいかに中国との貿易がさらに発展することを願う。中国人旅行者がより多く来日するように、ビザ要件を緩和することも大歓迎だった。これもまたグローバル化の一つである。日本政府に、それを強く要請してきたのも、同じ経済学者である。
経済学者は、日本の強い産業では常に、新自由主義の立場になる。が、衰退産業か、世界に通用しない産業の話になると、突然に、反グローバリストになる。例えば農業の話。外国人労働者の池入れの話である。この2つに限っては、突然、反グローバル主義に鞍替えする。
たったこの2つの産業分野でのみ、反グローバル。だが、車、機械、電気、鉄鋼、情報通信(インターネットやマスメディア)などは保護主義(海外と断絶があること)はもっての他だと思っている。
だから、農家の保護のために、農業の特定の産物だけは、関税などつけて保護したいのだが、情勢しだいなのだ。ずっと日本の農家を過度に保護しようとは思ってもいない。農家は経済学者が、自分たちを守ってくれるとは思わないほうがよい。なにしろ、日本の農家の高齢化、補助金づけなど、あまりの退廃ぶりをなんとか解決したいのが、経済学者の本音だからだ。経済思想にはまりこんだ共産党も、農家を守る気はない。
だが、反TPP論者すら、全体的には新自由主義におおいに賛成しているようである。彼らは本当は、大部分で新自由主義の支持者なのである。そう思って、日本中の社会評論家を見なおしてみると、新自由主義の信望者が比率的には多いと、わかる。口先で、反TPP、反グローバル化と言っているのは、かなり限定された話なのである。日本人は、扇動で混乱しているが、新自由主義をおおいに支持している。それは事実である。
なぜなら、大企業のサラリーマンは多くが新自由主義だ。商社もそうだし、映画会社もテレビ局もそうだ。インターネットや通信産業で働く多くも、海外との連携を模索している。観光地も海外のお客の獲得に忙しい。
多くの会社では、海外の顧客がくることを心待ちにしている。新自由主主義さまさまなのだ。どうして、そんな世界との交易を求める人々が、新聞・雜誌に少しくらい反TPPがあるからといって、新自由主義を否定したがるのだろうか。こういうところが、日本人は弱いのである。農協の扇動で、自身の経済主義の立場も正しく位置づけられない人々が増えたのは、嘆かわしい。今日はその苦言である。
安倍首相とは?
「美しき国」で登場した自民の安倍首相は、ラッキーボーイとか、平成の是清とか呼ばれる。実際、彼は何者だろう?
彼は優れたコンサバティブである。彼の政策は「グローバル成長戦略」からくる。それを二度目の首相で実践した彼は大きく成功させた。彼は、規律を大切にするグローバリストである。進取の気概があふれている。けっして、反動主義ではない。
2012年末に彼は首相になるや、「日本取り戻す」改革を始めた。民主党政権の決められない政治。構造改革の遅れ。電器会社の経営危機。超円高。問題は山積していた。彼はそれらに果敢に取り組んだ。躊躇している時間はなかった。
不況の是正が最初の課題だった。彼は不可能と言われてきたインフレ政策を掲げた。日銀総裁に黒田をすえた。欧米に送れること20年、ついに日本も欧米と同じ量的緩和を行った。それは金融政策が無能な日本というイメージを払拭した。円安になり、株価が上昇した。日本企業の流出、空洞化が止まった。傾きかけていた日本は正常化しだした。2013年には、TPP交渉にも参加した。円安のおかげで、中国や観光客が増えた。経済効果は大きく、日本は活況を取り戻した。が、いまだ、デフレである。この政策は終わらない。
2014年に、社会保障費の不足のため、消費税を8%に引き上げた。だが、その恩恵を受ける老人の全共闘は、これに反対した。
反対の性は抜けない悲しさ。日本の法人税率が高いと、国際競争で不利という経済界の要請で、法人税を下げた。これら税制改革で、欧米の税制度に近づけた。が、増税で景気は落ち込む。
2012年から中国の脅威は明白だった。尖閣で海上保安庁の船に中国船はぶつかってきた。日本商店・工場の焼き討ちもあった。中国内の反日運動に恐ろしさを目のあたりにした日本人は中国を警戒した。彼は中国の国際秩序の逸脱に厳しかった。彼は中国包囲網を敷いた。2015年に、集団安保を成立させるつもりだ。なおそのアイデアは、アーミテージレポートによる。日本の孤立化を防ぐことになる。これもまた、世界の安全保障に関与するという日本の意思である。
「第3次アーミテージ・ナイレポート」(The U.S.-Japan Alliance――anchoring stability in asia)
http://csis.org/files/publication/120810_Armitage_USJapanAlliance_Web.pdf
彼は1, 量的緩和 2, 法人税下げ、消費税高 3,TPP交渉参加 4,集団安保で、日本をグローバル化して、欧米の普通の国に近づけた。
彼は規律も重視する。
国際法を守らず、アジアの平和を脅かす中国に対して、安倍首相は戦略的互恵関係という敵対しながらも、個別問題ごとに対応する。彼は中国包囲網外交を行い、諸国とインド、ロシア、フィリピン、ベトナムとは連携する。アジアの秩序を維持しようと努める。尖閣諸島の中国船の侵入には目を光らせる。日本の安全保障を個別から集団へと高めようとする。
彼は日本の秩序も守る。まずは国家秘密がスパイに漏れるのを防ぐために、特定機密保護法を成立させた。日教組が子供から道徳を奪うことへの対策として、道徳教育を復活させた。日本の道徳は仏教、儒教、武士道からなる。神道に高度な規律はなく、その面は薄い。穏やかでのどかな精神性や自然を愛する感覚は強く、和歌にはあるが。
中国の嘘を信用する中国人はいない。世界の人々も中国を信頼しない。が、日教組だけは中国政府の発表を子供にそのまま教えた。彼は、歴史教育に混乱が生じていることに危機感をもつ。
日本は借金大国である。その財政規律を守るため、彼は国債を中央銀行に買わせ、日本の借金を減らした。インフレは起きずに、いまだデフレである。EUは早速、この手法を真似した。
彼はモラリストであり、1,東アジアの秩序
2,国内の治安(スパイ対策) 3, 道徳教育 4, 財政規律など秩序や規律を回復させようとする。彼は正義が正しく行われる社会を構築する意思が強い信念の人である。
彼は復古主義者ではない。彼は世界と国家の秩序を守り、21世紀の新自由主義世界・グローバルな世界を構築するチャレンジャーである。
新自由主義の時代にそれを肯定的に受け止められない者達
世界は新自由主義まっさかりだ。企業のグローバル化は進む。国境はどんどんなくなる。EUの拡大は緩やかに進む。相場は世界の証券と通貨を求めて、動き回る。地域共同体はしだいに拡大して、最終的には夢の世界統一が実現するだろう。
世界が統一したら、より平和になる。孤立した国々はなくなり、共産国は消え、イスラムにも豊かさがくる。暴発リスクが減る。資本の流動により、富は世界中にゆきわたる。国々はどんどん発展して、後進国は軽工業から重工業、電子産業へと発展して、先進国の仲間入りを果たす。世界のどこにももう未開な国はない。世界中の全国家が先進国並の豊かさをその時には享受するだろう。それを強く推し進めるのが、新自由主義である。
この新自由主義は、南北の格差を解消して、どこにも貧困がないという夢の地球をもたらす。それがあなたがたを待ち受ける未来である。いくら抵抗しようが、誰も止められない。経済発展予測では、2050年にはアフリカの経済成長が予想され、彼らも先進国に加わる。その未来の地球は、希望が輝く。全人類が自由という名の統一共同体をもつからである。
発展途上国を経済封鎖して、新自由主義に逆らわなければ・・・ 新自由主義を否定して、頑なに国家の障壁を保とうとしなければ。
しかし、こういう自由主義の必然の帰結すら予想できない者は、ボーダーレス、経済のグローバル化の目先の問題しか見えていない者は、すぐに新自由主義に反対する。こういう狭量な者達には主流の経済学もわからず、経済予測もできないとしたものだ。2050年の経済予測を読み直したらよい。そこがどんな世界なのか? 具体的に想像してみたらよい。アフリカが現在の中国のように発展している。中国やインドはもはや先進国の大国である。もう貧しい国々はそこにない。世界中が、豊かになっている。
反対論者は、TPP反対に多く、経済のグローバル化が地域の弱小産業(非効率な産業)を破壊する、という。競争が激化して、格差が広がる、という。弱いものがますます弱くなる、と。
これは、新自由主義の定義に反する論である。新自由主義とは、自由競争の中に一定の制約を持たせて、社会をよりよく発展させようとしたもの。特に、国家による社会保障などを充実させるのが、新自由主義だ。従来の自由放任の経済では、弱肉強食となり、格差が生じる。それを修正して、競争に取り残された者を救済するのが、新自由主義である。
だから、弱肉強食で才能のない者達は、どんどん下層に追いやられるというのは、新自由主義ではなく、古い自由主義のあり方といえる。新自由主義では、格差の拡大は抑制される。(新自由主義のさらなる改良版も考えてみよう。それこそが次なる自由主義の段階である。)
そもそも格差論者の間違いは、新自由主義では社会保障がなくなる、という思い込みである。新自由主義でも社会保障はなくならない。アメリカには一部そういう発想もあるが、多くの国々はそうではない。特に、日本は。
社会保障の最も基本的なものは、人権の保護である。いくら自由経済でも、金持ちだけが自分のお金で体、言論、社会関係、居住を守るわけではない。それは国家が人権の名において行う。現在の国家では、個人に最低限の保障を与える。その上で、自由競争させる。それが、自由主義の古いタイプである。新自由主義では、古い自由主義よりも個人はその保護が強まる。
社会保障の充実と国家の発展は比例する
格差を気にする人は、下層に落ちた時のことばかり心配する。よくそれを考えよう。まず貧乏な国は底辺の人を守る資金がない。社会保障も薄い。豊かな国だけが底辺の人にも、最低限の生活をするに十分なお金を与えられる。社会保障は、進歩した国ほど手厚い。
社会保障は新自由主義とは関係ないと思うかもしれないが、大ありである。社会保障の充実と国家の自由経済の発展は比例する。非効率な国で下層民は楽な生活はできない。かつのソ連などの国のように、下層だけでなく一般ですら、貧素で貧乏くさい生活を強いられる。社会主義の配給のなさと、豊かさが程遠かった生活を思い出そう。また社会保障が充実していると言われてる国も、国力が乏しいと年金などの額は低い。新自由主義を採り入れて、どこまでも効率化した国のみが、手厚い社会保障を国民に分け与えられる。
最近、日本で浮浪者に生活保護を受給させ、どんどん減った。そして、家ありの貧困家庭をどうするか? という課題をもつ。日本は借金しても、国の財政が豊かだから可能だ。浮浪者に生活保護をまんべんなく受給させるほどの財力がある日本のような国は、そんなにない。これは、自由主義を進めて、国家全体が効率化して、余分なムダをそぎ落としたからこそ、実現したものだ。賄賂でGDPの何%が共産官僚の懐に入る中国では、社会保障に使うお金はそちらに回るのである。
さらに新自由主義によって、日本を効率化すると、さらなる社会保障も可能である。一般論としてはこれは正しい。だから、社会保障をたくさん受け取りたい人は、さらに国家全体が新自由主義で効率化することを、望めばよい。例えば、問屋で儲ける人が減ると、それら流通の中間費用が浮いて、やがては社会保障などに回るからだ。大雑把だが。
TPP反対としての新自由主義批判もいる。しかし、それは部分を見て、全体を見ない類だ。
日本農業の不効率さが問題だろう。爺さん婆さんに戸別補償を与えて、老人農業を残した。これも一種の農家への保護だが、そのようにして日本の農業をダメにしてきた。というわけで、声高には叫ばれるが、農業を過保護することが正義ではない。しかし、関税ゼロにして競争させるとつぶれてしまう。どうしたらよいだろうか?
こういう保護すべき産業も一部あるが、日本の国際的な産業競争力は新自由主義の恩恵にあずかっている。トヨタ、ホンダ、パナソニック、日立、東レ。彼ら大企業が日本のGDPの大半を占めている。よって、一部、農業を見て、それら日本の産業な主ょうな面を忘れ、新自由主義全体を否定するのは、どうかと思う。
新自由主義が貧困を拡大させる、というのはあまりに一面的な発想である。それにだまされないようにしたい。新自由主義は国家間の競争を加速させるため、国家を発展させる原動力なのである。福祉の充実も新自由主義にかかっている。それを忘れてはいけない。
集団安保とゆきたいところだけど、日本の新自由主義論が歪みつつあるから、正す。これは、総合的な論文としてまとめると、世界でも通じる。
新自由主義の5段階と今後の見取り図
新自由主義とは、私の理解では、東西冷戦が終わり、その後に始まった世界経済をさす。そのテーマは南北問題の解決である。後進国が発展して、先進国に仲間入りしてゆく流れがある。これは世界的な格差の解消である。新自由主義の課題とは、南北格差の解消である。先進国が土着民族にまで後退することはない。が、土着民族は成長すると、先進文化をもつことはできる。つまり、この流れのゆきつく先は、世界総先進国化である。
新自由主義では、後進国が発展することが大きな問題を引き起こす。例えば、先進国の地位が危うくなることだ。EUでは、スペイン、イタリア、英国の凋落が見られた。先進国は経済成長が遅いと、後進国にその地位を奪われる。そして、国の工業力が序列を決める指標となる。先進国はその地位が落ちないように、さらなる改革をする。貨幣の量的拡大をする。そうやって、自国通貨が高くならないようにして、安価に供給できるようにして、先行有利でしのぐ。1990年代からはそれが日本以外で、熾烈に行われた。
今後は、世界中の後進国が先進国に近づく。つまり、各国の経済の体制を同一化してゆくことも課題だ。それはEUにみられる。またロシアも近年は地域経済を模索している。太平洋ではTPPという枠組みが作られつつある。世界各地で地域経済圏は生じつつある。それを、拡大させ、世界の単一市場を形成する。そういう世界の市場統一化の流れがある。
新自由主義では、いくつかの段階がある。
1、冷戦時代のような段階 1992年以前
先進国が少数の場合。また後進国もそう数が多くない場合。大量の後進国は、ソ連圏の中に閉じ込められて、資本主義諸国に強い影響をもたらすことは、少なかった。中国は例外だった。先進国は、技術優位で工業国として君臨して、繁栄を謳歌できた。
2,冷戦以後 1992年以後
後進国や中進国が勃興して、それらを先進国が支援しつつ、育成する段階。EUなど経済圏が生じた。この段階では、韓国、台湾、中国など新興勢力がかつての先進国の牙城を脅かした。それに対して、欧米は量的緩和で対抗した。日本だけが為替で不利な状況に甘んじたために、それら国々の台頭を許した。東アジアの発展につながった。この段階では、金融の効果が大きい。
3,現代は3の段階である。2000年を過ぎて
先進国のうち、いくつかが優秀な後進国に追いつかれ、追いぬかれてゆき、脱落する。中国がついに日本を経済規模で追い抜いた。またスペインやイタリアなどは不況風邪吹いた。新興国にその座を奪われつつある。
国力そのものが定まる。多くの中進国が大量に生じている段階で、一部はヨーロッパ諸国の下位を抜いた。現在はこの状況だ。先進国のいくつかは、かつての栄光を失っている。
この段階では、工業力で国力が決まる。ドイツ、日本、中国、アメリカなど真に工業力が高い国が、トップに立つ。金融による力は低下しつつある。
4,2020年以後
中進国のかなりが先進国と同等になる。またイスラム、アフリカに残っていた非現代文明の国が発展途上国になるか、中進国となる。この段階では、世界の文明ごとに地域経済圏が生じているだろう。やがて、一つの経済圏にまとめられる。世界は経済的には統一的である。が、各国の経済はあり、世界経済が単一化してはいない。この段階では、イスラムと西欧の壁は取り払われている。すべては自由主義国であり、共産国は存在しない。
5,2030年ころ
すべての国家が中進国や先進国と同等となる。この段階は、国家の工業力によってのみ、ランク付けされる。世界は共通通貨か、EUの世界版のような枠組みがあるだろう。グローバル化の最終形態がここにある。ボーダーレスだが、各国の政府はある。
このようにマクロ的に世界経済は発展する。現在は段階3だ。世界の資本は、大量に生じた中進国のインフラ整備に注ぎ込まれる。そのため、先進国では成長実感がない。これら、後・中進国の育成に資本が流れこむことが、弱まると、再び先進国経済は、人類発展における平均的な成長率を取り戻す。
まとめ
現在、成長率が低いと騒がれる。が、それは資本主義の末期症状ではない。世界でたくさん生じている後進国の育成に、なんらか先進国の資本が流れてゆく現象である。中進国が先進国に近づくと、成長も鈍くなる。すると、インフラや家電・車の購買のために資本がそちらに流れなくなる。すると、また先進国は本来の成長を取り戻すだろう。
また、さえない先進国が不況になるのは、中進国が新たにその地位につくからだ。そして、その地位を奪われるからである。イギリスはそういう憂き目にあっている。この時代の尺度は、工業力である。地位を落とされるとは、その国の工業製品が売れなくなるということだ。豊かで強力な国のみが、上位でいられる。そんな国が一部で、繁栄する。それは現在、はっきりと区別できるのはドイツ、日本、中国、アメリカである。その他の国々は、いかに生産力(量ではなく、質)をあげるか。それが課題となる。