論考 2015年12月

日本の10億円の拠出「少女像移転が前提」 とはいかに 2015-12-30

慰安婦の日韓合意
 日本の10億円の拠出「少女像移転が前提」アサヒ新聞デジタル、ヤフーニュース

 これが事実なら、これまでの弱腰政権と違って、安倍首相は外交におけるお金の使い方を知っている。世の中、お金を出すほうが強い。もうお金を出しても弱い立場に終始した愚かな日本政府ではなくなった。

 慰安婦が韓国で日帝の犠牲者になっている。が、大金を受け取って商売したから、実は日帝の協力者。韓国は親日派の財産が没収される悪法がある。強制連行されてもいないのに、されたと嘘をつき、それに韓国世論は騙されたから、今は被害者ぶることができる。が、真実さえばれたら、慰安婦もその日本の協力者として、処罰の対象になるのではないだろうか。

 もし、従軍が真実なら、ほとんど軍に買われていたも同じで、「従軍」慰安婦は軍の側にいた協力者である。そして、戦地で高給取りでいいめをみている。どうして、今だに被害者ぶることができるのだろうか。私には不思議でしょうがない。

 韓国では、権力者が威張れるのは、大統領でもわずか4年か8年で長くない。あんなに高飛車で増長して傲慢な慰安婦は、いつまでも権力者のように振る舞うことはできない。韓国民は、そんな実力もないのに、一時的に何かで得た地位を盾に威張る者ほど早く嫌う。私は彼女たちが長くもたないと思う。

 韓国国民は扇動に弱い。韓国民が彼女たちの真実を知ると、彼女たちに嫌気がさす。すると、あっけなくこの問題は解決して、彼女たちのことは忘れるだろう。誰も触れたがらなくなり、彼女たちは静かに余生を過ごすことになる。

 

現実主義の安倍政権--日韓政府が慰安婦で合意  2015-12-29

  なんとも現実的な政治決着だ。『最終的かつ不可逆的に』解決というからには合意文書は必要だろう。書類を盾に、次からはこの件でどんな要求も突っぱねられる。岸田大臣が『当時の軍の関与のもとに、多数の女性の名誉と尊厳を傷つけた問題であり、かかる観点から日本政府は責任を痛感している』と謝罪したことは、残念である。慰安婦=売春婦であり、それは当時も職業上、自発的に行うものである。高給目当てだった元慰安婦が、名誉と尊厳を傷つけられたのは、日本政府の責任だろうか。

 極貧から抜け出したくて、お金ほしさにその職を選んだ女性は、自身の責任である。元慰安婦が心を傷つけられたというのなら、慰安婦という職業を見下げ、侮辱する韓国の偏見にその原因がある。韓国社会の売春婦への差別意識が彼女の苦しみの元にある。慰安婦の銅像を立てて、一方で英雄視するわりには、韓国の多数が彼女たちを卑しい女と蔑視する。それがいまだに彼女たちを苦しめる。

 政府は慰安施設の衛生などの管理しただけで、業者が募集などは行った。韓国にも戦後アメリカ軍の慰安施設があった。が、そこで行われた売春婦達が名誉と尊厳を傷つけられたのは、管理する韓国政府に責任があるのだろうか。私は以上の点から、慰安婦の尊厳と名誉が傷ついたことに、日本政府にすべての責任を押し付けることにはひっかかる。

 安倍政権は日韓の和解を早急に実現したいのだろう。10億円とリップサービスで、朴恩恵に花をもたせた。これで海外での韓国政府の反日アピールが止まるなら安いものだ、という算段である。あいかわらず、契約社会のルールに日本は弱かった。

 

  哲学のお話-- 正義と友愛  2015-12-29

 アリストテレスの『ニコマコス倫理学』によると、『正義は共同体における基本的な徳である。人々に正しく配分するという面からみれば、それは『配分的正義』であり、違反・刑罰・補償の関係でみれば、『強制的正義』である。友愛は共同体の理想であり、正義以上のものである。』(「年表で読む哲学・思想小事典」76頁)

 正義は社会的なものであること。確かに、正義は社会問題を正しく解決する方法をさす。個人の問題に正義はない。社会的な行動にしか正義というのはつかない。例えば、子供のけんかでの正義、環境問題における正義などなど。

 正しく配分する正義は、やや社会主義的な話で、辞典にとりあげるほどのものかはともかく、社会的なものだ。矯正の正義は面白い。悪い人間には、その過てる考えや行動、犯罪志向を改めさせる。確かにそれも正義だ。犯罪者を刑務所にぶちこむことは、警察の正義である。これは大きくは社会の構成員の質を確保する問題である。

 さて、気になるのは『友愛は共同体の理想であり、正義以上のものである』という箇所だ。
 市民同士は、友愛でつながっているという。当時のギリシアには、市民と奴隷がいた。市民は友愛を持ち合い、それが共同体の市民間の関係を保つ力だったということだろう。現代日本で市民は他人どうしで冷たい。現代ではそんな殺伐した人間関係だ。が、ギリシア時代は、友愛を感じられたようだから、当時は人間関係が濃く良好だった。少人数の社会なら、可能かもしれない。

 『友愛が正義以上のもの』というのは、正義は規則、規律である。それは社会の秩序に必要不可欠だが、それとは違う面で、人々の結束を高め、信頼関係を作り、人間関係を良好にする友愛は、大切とアリストテレスは力説したいのだろう。これは、韓国への土下座外交など、正義を失い友愛に走る鳩山元首相をほめる言葉ではない。

 

 橋本徹氏の首相は時期早々  2015-12-28

 大阪維新の会が来年のイデオロギーなどテロ政党の壊滅現象のあとに、活躍することを私はおおいに期待する。彼らがいないと、憲法改正もままならない。だが、彼が次か次の首相になるというのは時期早々。理由は、彼は石原慎太郎戦術を使っているからだ。石原氏は2013年に選挙に出馬しないと発表したが、翻して立候補して、大勝した。橋本氏はこの選挙戦術に感化されたようで、選挙の時は『2万パーセント出馬はしない』と同じ手口を使うようになった。いつもそうやってはぐらかす。これは選挙戦術としては、有効だろう。

 が、それでは政治家としての信用が大きく落ちる。政界のアウトサイダーだった時点の石原氏なら、そんな奇抜なことをしても許されただろう。しかし、王道を歩むことが求められる日本の首相が、そんな奇襲じみた作戦を繰り返してのしあがった人物では頂けない。

 要は、朝令暮改を乱発すると日本は混乱する。日本の信用も落ちる。そうならないよう彼はさらなる政治の中枢に上がるには、発言に継続性と、口から出たことはマニュフェストとみなし、一貫した行動をすることが今後の課題である。共産党みたいに方針転換をイケシャーシャーとやって誰にも恥じないのは論外である。支持者に対して申し訳ないだろう。

 在特会との怒鳴り合い会談も印象に残る。かなり言葉が乱暴だった。丁寧な国会討論が求められるのが首相だ。彼が国会の委員会で、冷静な返答を連発する姿が想像できない。おとなしく上品に振る舞わないといけない東京での支持は得にくい。まだ若く、そんな片鱗は身につけてない。これも国政進出の課題である。

 首相になるには、どこか懐の深さをもちあわせてないといけない。彼は大きくなった。が、そんな大器を感じさせるにはまだ一伸びしなくてはならないだろう。石原氏は運輸大臣にまでなった。橋下氏も大きく飛躍して、大臣まではなれるだろう。が、首相は言葉の重みを理解した人でないと、務まらない。橋下氏が首相になるのは、当面は難しいのではないだろうか。大阪維新の会は、大阪の誇る保守の切り札である。が、彼が早々に首相になるのは持ち上げすぎである。まだその器ではない。彼は国政に進出した後は、長らくサブである。一皮向けて、おお化けすると首相もありうる。

 

 哲学のお話-- 反対語はあまり真に受けない  2015-12-28

 暑いの反対が寒い。暑いとは、体温より高い温度で、寒いのは冷たく感じることで、適正より低い気温だ。だが、暑いと感じるのは、wikiによると、ルフィニ小体。そこが刺激されると暑いと感じる。寒いと感じるのは、クラウゼ小体である。このように感じる器官が異なる。どちらも温度を基準に反対の感覚とするが、実際は、別個に2つの器官がある。暑さの度合いを感じる器官がある。暑さは単独の指標である。寒さも同じだ。

 空腹と満腹も、人間はセンサーが異なる。空腹はどこかは知らない。が、満腹は満腹中枢が感じる。両者を感じる部位は異なる。このように、反対語を並べて得意になっていると、現実を見失うことがある。それぞれに対処しなくてはならない。簡単には、塩からい紅茶に、甘い砂糖を入れたら、塩からさがなくなることはない。そういう話である。

 一つの基準で測定したら、それで十分だというのもおかしいのだ。人間の場合は。常に、人間を基準にして、より過剰、多いものを感じるセンサー。人間より少ない刺激、少ないものを感じるセンサー。その2つは別個に設けなくてはいけない。

 愛の反対が憎むことなど、こういう反対語を得意になって言っても、実際はあまり役立たない。それぞれ単独の感覚で成り立つからである。愛が強いか弱いか、憎しみが強いか弱いか、そういう判定だけでよいだろう。愛が憎しみに転化するといったような話は、違うのである。

 

 ブレブレ共産党--天皇制でまた方針転換 2015-12-26

 これまで天皇に挨拶するのを拒み出席しなかった国会の開会式に共産党が来年1月4日に参加する、とこれまでの主張をひっこめた。(産経ニュース)

 過去には、2014年5月6日は皇室が出席した「千鳥ヶ淵戦没者墓苑拝礼式」には小池晃が参加していた。(産経ニュース)

 これほど党員の天皇制反対の意見などを無視して、トップが暴走する政党が、従来の方針を大きく転換しても、イケシャーシャーと『共産党は一貫しています』とのたまうのは許してよいのだろうか。党首がそんなに重要な問題でぶれたら、党員がついてゆけなくて、困るだろう? これを、ブレブレという以外になんと言えばいいのだろうか。

 

 哲学のお話-- 成功とは 2015-12-26

 ありふれたビジネス書のタイトル 『成功』。大勢のサラリーマン、経営者が成功を夢見る。学者は偉大な発見をして、ノーベル賞をとること。経営者は自分の会社を大企業にして、財をなすこと。サラリーマンは、年収の高い仕事につき、ばりばり会社で仕事して、家庭でも幸福に過ごし、一生充実した人生を過ごすこと。宗教家は、信徒を多数擁する大教団を作り上げ、その法で世界から評価されること。

 大きな夢から小さな夢まである。ここで気づくのは、ビジネス書の成功とは『大金を得ること』や『高い社会的な地位』、『社会的な影響力をもつこと』と、一時の繁栄が多いことだ。
 サラリーマンは、夢を実現させるとか、仕事関係での成功が多い。日本人の主婦は『家庭の幸福』と小さな小さな目標であったり、実にかわいい。そんな個人的な小さな夢もある。

 そんな小さな人生しか送れないのが大半だとしても、夢は大きく持ちたい。『人類に貢献する』という大きな夢。それをなしとげるのが自分にとっての成功というのは、大きな人だ。首相になる人、一流の学者などは、そんな大きな成功を夢見ている。

 『成功願望』からは、それぞれの夢、達成目標をみえてくる。それが人類を大きく変える仕事になる人、小さな町の片隅の幸福という人、地方の会社での達成目標という人、国家をよくするという大志をもつ人。人さまざまである。人生いろいろ。大きい夢、小さい夢。それらは人類の1ページである。

 

 労働団体は利権団体である 2015-12-25

 共産主義者は何か勘違いしている。労働者は万能性があり、政治を行えると。しかれる。労働者とは、工場における雇われ人。経営者がいて、それに雇われた労働者がいる。労働者団体は特定の立場を代表する。すべての国家国民の意志を代表することはない。

 よって、彼らに政治を任すと、彼らの利権に走る。政治が偏る。労働者を名乗る党に、政治を任せる。それは完全な利権政治となる。名ばかりの労働者の理想を追求する。労働者への補助金ばかり増やし、やがては国家財産がつきて行き詰まる。

 労働者だけがあふれるが、自由も何もかも奪われる。ソ連のようにすべて工場の労働者に強制的にされ、住居も奪われ、仕事も自分で選べず、自由に自分がしたいこともできず(労働者は本来そういうもので)、人間性が失われ、ゆきづまる。生産性がない人間は牢獄に送られる。そんな人権侵害も著しい国となる。

 すべての活動は『労働』とみなすことができる? だから労働者しかいないから、それで者以下を作ることはいい? 何寝言を言っている。家事、育児も労働で、教師も労働で、政治活動も労働だと? はっ? そんなこと言うのは、共産党における『労働の定義』を知らない輩だ。

 労働者でないものには、『資本家、経営者、政治家、教師、文化芸術の者、さらに農奴、宗教家』などブルジョワジーその他がいる。簡単にいえば、特権階級は、すべて労働者でない。そんな者達の仕事は、すべて労働とはみなされない。労働は、工場労働などに限定されるのである。

 だから、そんな労働者の国では、工場経営も、工場の所有も、政治も、高度な文化の創造も禁止され、果ては政治学まで否定される。そんな国に未来はない。

 労働者の理想は労働者が仕事で楽できる国であり、単に楽な仕事で給料のよい会社という意味である。市民や国民国家の理想、豊かで文化が多様で、高度に統治される社会とは大きく食い違うことは、理解しておきたい。だから、彼らは工場で働く姿を誇っても、国の豊かさや文化芸術を誇ることはけっしてできないのである。さらには徳、精神性など優れた者は、宗教的や道徳的だと忌み嫌われる。

 労働団体は自分たちの給料さえ確保できたら満足で、自然や社会の全体の豊かさ、国富や精神性もなく、高度な規律を考えるほどの視野がなく、狭いのである。
 これは一般論であって、共産主義から遠い労働団体ほど特殊性や過激さは薄まり、ましになる。

 労働団体は、教師の団体、医者の団体、自動車産業の団体のように、特定の利権を代表する。それ以上のことはできない。彼らに国を任せるのはもっての他。

 

 2015年の安倍内閣は優 2015-12-23

 最近、安倍首相の優秀な点を書けない右派ブログか増えた。がっかりだ。年末総決算の時期なので、彼を見直す視点を提供する。彼は、臆病な日銀の改善をして、欧米並の量的緩和を断行した。そのアベノミクスの真髄だけでも、歴代政権の中では光るものがある。次に、民主党政権が決めた消費増税をやりとげたが、福祉・医療の増大のためだった。これで支持率を落とさなかったことが巧みだった。

 3つ目に、安全保障を一歩進めて、集団安保にして成立させたことだ。小渕氏のように何かで騒がれた時期に、ドサクサに紛れて行ったのではなく、正々堂々と世に問うた。これら制度は、日本独自のものではない。安倍政権の特殊性ではない。すべてヨーロッパ諸国で、どこも広く一般的に行われている。消費税も軽減税率も、集団安保(NATO)も、量的緩和もしない西欧の国はない。これらで、日本は遅れを取り戻し、やっとドイツやイタリアにおいつくことができた。憲法改正は残る。

 しかも、失業率を最低水準にまで下げた。貧困が増えたというのは統計的なまやかし。生活保護を広げ、多くの路上生活者は、寒空の下で野宿することはなくなり、今やどこかの簡易宿の中で、ぬくぬくと過ごす。
 TPPも参加して、世界の市場統合に、日本も加わった。これで日本はグローバルの流れに再度入った。アジアの先進国の日本が加わらなかったら、このTPPは中身がないものだったのだ。農協の反対を乗り越え、それを合意した。なかなかの外交・内政手腕である。改めて、こうして安倍首相の活動をみると、彼は、着実に日本の課題を一歩ずつクリアしてきたことがわかる。

 集団安保反対とか、TPP反対とか言うのは、ちっちゃい輩だ。経済は停滞気味だが、それは日本の富で海外を発展させているからだ。日本の資本流出が、日本人の暮らしが豊かにならない理由である。もう一つは、老人の介護にお金が回りすぎる(消費増税)ことだ。そこを自覚すると、海外への資本流出規制などで、日本も少しは豊かになるだろう。ただそれは、貿易の自由化を促進しつつ、日本から富が流出しない構造でなくてはならない。アベ政治のおかげで、日本はよく構造改革して、一歩進んだ一年だった。

 

 哲学の話--- 「道」から「方法」に 2015-12-23

 パルメニデス、紀元前504-470年。「哲学入門のための『道』という概念にかわるものとして、『方法』という概念が現れる」(哲学・思想小事典、37頁) この変化は結構大事である。日本では、武士道、剣道、武道などなんにでも道というものをつける風習が残る。その道を極める、と。だが、『方法』というように個別の技術を区別したのがギリシアでは前5世紀。

 『~道』から『方法』に変えると、技能が普及しやすくなる。日本で『〜道』といわれているものは、まだまだ一部熟練者だけが習得できるものといった感じが強く、合理化が足りない。誰もが理解できるものになってなく、一般化されてはいない。もし道に入った人でしか習得できない一部技術が、誰にでも開かれたものになるとどうなるか? より大勢がそれを学べるようになるだろう。日本全体の技術水準が上がる。

 師匠は、なんとかの達人と呼ばれなくなり、『専門家』と学者のようにみなされる。日本のあらゆる『~道』の人は、みずらかの専門分野をそのような科学的な代物に変えなくてはならない。そうしないと、継承者もいなくなると、技術が途切れてしまう。そうすることで、日本の技術の閉鎖性はなくなる。ますます日本の技術に磨きがかかるだろう。日本の埋もれた技術が、広く理解される。日本の発展が期待できる。

 

 世論から遠ざかる朝日新聞 2015-12-22

 朝日新聞の世論調査では、軽減税率を評価しないのが47%で、評価するのが39%より多い、という。(アサヒ新聞デジタルより) 私はこれをイカサマの数字(実態を反映しない)とみる。朝日新聞はせいぜい、軽減税率に反対してくれ。そのほうが「あさひの民意」らしい。これで、どんどん世相から朝日が離れてゆく。

 

 誰も戦争で殺させない?の間違い3つ 2015-12-22

 まずこれを言う左翼の間違いは、戦争は外交戦に武力で勝利することであって、人を殺すことが第一目標ではないことに気づいていない点だ。これを言う左翼は、戦争で、敵国兵士を武力解除して、捕虜に捕らえるのはよいというわけだ。戦争肯定なのだ。これを言う左翼にとっては、人を殺さない戦争は問題にはならない。そういう戦争も現代ではある。これを言う左翼戦争反対論者は3つも論理破綻。

 

 哲学の話--- ソロンの改革 紀元前594年頃 2015-12-22

 「彼は個人が家族にのみ属するという考えに反対し、個人を国家に属する市民とした。・・・これはおそらく民主主義の発端で」(「哲学・思想小辞典」30頁) 家族制度が強固な地域では、民主主義は成立しにくいという。中国の氏族が強いところ、イスラムの部族が強いところはそうだろう。日本は、江戸時代は藩に仕える武士であり、明治維新後は天皇に忠誠する臣民で、戦後は国家の国民となった。家制度を守りつつも、国民という概念はある。

 

 買ってはいけない子供雜誌「ジュニアアエラ」2 2015-12-21

 反安全保障法案ばっかり強調される。子供に、左翼の論理はわからない。私の時はほとんど左翼教師だったが、私は彼らの言うことを全部、つまらないから信じなかった。
 覚えているのは、国家は三権分立で、国会議員の定数や、ロシアの王子が重傷を負っても政府の圧力にくっせずに、法律は守るという話。田中正造は天皇に直訴とインチキくさく、労働運動の手先で反社会的で、評価ががた落ち。

 プロレタリア文学は共産主義で怖く、戦前のソ連スパイのような連中で、哀しいとか。アンダーグラウンドな共産・左翼ものは、私はほとんど覚えてない。子供は賢いから、間違ったものは受け入れない。ジュニアアエラは労働運動、反政府のアンチな視点ばっかり子供に教えているけど、そんなの読ませると、時代錯誤の人間になる。明るい未来への希望がまったくなくなる。労働運動や左翼に未来はないからね。あの貧困の大国、ソ連や北朝鮮の心を宿してしまう。子供の可能性を摘むようなものだ。

 

 「戦争で誰も殺さない」=「刑務所でならいい」 2015-12-21

 「誰も戦争で殺さない」 そんな標語がいまだ否定されずにいる。これは、否定する方法がある。例えば、殺人事件で、家族を四人殺されたとしよう。その犯人を、日本では死刑を処する。これは、当然と思われている。

 では、戦場ではどうか?
 敵のゲリラが海外にいる日本人を何十人、何百人と殺したとする。いや、国内でテロを行い、何十人と殺したとする。その敵のゲリラをひっとらえて死刑に処す(殺す)ことが正しくないといえる人はいるだろうか? 日本の法律では死刑となる。死刑とは合法的に、殺すことだ。死刑はよくて、それを戦場で報復で行うことは、いけないことなのだろうか?
 

 きっと、この左翼のニセ平和論者はこう言う。「戦争ではいけないが、国内法では可能だ。それは戦争で殺したことにはならないからだ。」 というわけで、日本の左翼の正当な犯人処罰は、「犯人のテロリストを、外国か日本で捕らえ、日本に護送して、日本で死刑に処すること」である。まわりくどいから、短くすると、「犯人のテロリストを死刑に処することだ。」左翼も、場所が戦場か刑務所かの違いだけで、犯人を最高刑で処罰する点でたいした違いはない。戦争嫌いは、刑務所に叩き込み、裁判にかけ、じっくりやるのがお好きなようである。

 なんとかジョンというISに死刑執行人がいた。国内でテロがおきたら、もうそれは戦争にまきこれたという連中がいる。しかし、テロは爆発や殺傷であり、左翼の論理では、それは事件であって、戦争ではないはずだ。テロを戦争という左翼は、論理矛盾をきたす。

 

 哲学の話--- カイロス 2015-12-21

 「何かがなされるべき時になされる」というのはギリシア哲学者タレスの発案でカイロスからくる。あの前髪が長く、チャンスの神として有名なカイロスである。こんなことわざも西洋では信じられる。ドラマ「下町ロケット」でNASA帰りの社長が、よくしゃべっていた。「勝つべくして、勝つ。」と。カイロスの応用である。

 

 日本の左派の寿命 2015-12-19

 ソ連の崩壊によって、急激に荒廃したのが北朝鮮。それまで後ろ盾があり、国民が飢えて、経済破綻するような国ではなかったという印象がある。日本の左派も、バックに中国・北朝鮮が控えている限り、いつまでも資金はつきない。が、赤い帝国がなくなると、もはや風前の灯火となるだろう。朝日新聞は、人民日報や朝鮮メディアの下部組織のようにあちらのニュースをそのまま流す。そんな日本の宣伝・工作拠点だけがつぶれることもないだろう。元を絶たなくては、いつまでも消えない。

 彼らの寿命は、中共や北朝鮮がつづくまで。その後、現在の北朝鮮のように極度に疲弊して、速やかにその影響力を失うだろう。中共は経済崩壊が近いから、2020年まで存続しえるかが怪しい。もし、それまでに上手な統治で政府をもちこたえても、内乱が加速して、20年代に共産政権はソ連のように内部崩壊するだろう。そして、民主化する。私は2025年に中国も野蛮な国でなくなっていると信じる。それまではどんなに批判しても、ゾンビのように日本の左派は、蘇る。中身がない希薄なメディアに変化しつつも。

 

 哲学の話--- 二元論 2015-12-19

 善と悪があるというのが二元論ではない。神と悪魔がいるという話だ。これは性善説と性悪説があるという話に近い。性善の究極が神だ。性悪の極めつけが悪魔である。そういう性善説と性悪説を極めたような生物が、この世界を支配するという宗教じみた話である。二元論はゾロアスター教からきている。それが、現イラクでユダヤ教に取り込まれ、イスラエルのユダヤ人達も信じるようになった。それで神と悪魔の二元論がキリスト教に混ざる。

 人間は悪でない、悪にならない、と性善説で説明した。そもそも、悪とは何か? 善とは何か? 最も悪いことは死であり殺すことだ。生まれた時から、生きるために泣いて、食べて、排泄して、成長してきた。勉強も運動も、学習もそうである。死なないための体系なのだ。生きるための体系なのだ。ただただ死なないために、生きてきた。その人生のすべての苦労を水泡に期すのが、死である。

 もっとも善いことは、もっともよく生きる行為である。善悪は、このように方法についての評価だ。人間によいものは善で、悪いものは悪なのだ。実は、相対的である。生きるという目的がある。そのために無数の方法がある。その中で、良い方法が善で、悪い方法が悪。病気をもたらす毒を飲むことは悪。食事するのが善だ。

 アイススケートでこけるのが悪いこと。成功するジャンプがよいことだ。良いことをするのは、本人の実力がなくてはできない。囲碁などは、最善手以外は全部、悪手だ。最初から最後まで間違えなく打つことは、プロでもなかなかできない。

 悪人は、本人の頭が弱くて、正しく良いことができない。性善説で説明したように根っからの悪人はいない。本人の考えが間違っているか、正しい方法を知らないのか、頭が悪いのは確かで、それで良いことかできないのである。いつも正しいことができるのは、究極的には神様しかいない。人間は才能が不足するため、間違え、悪いことをしてしまうからだ。

 悪魔はいつも悪いことをする。こんな生物は性善説で説明したようにいないのである。もし究極の悪がいたら、最大の悪いことをするので、つまり自ら死ぬ。悪魔は消えてしまう。悪に徹し切ることはできない。徹してしまえば、死んでしまう。

  究極の悪とはかっこよく聞こえるかもしれないが、簡単に言うと、究極のバカである。アホを極めても、だらしなく、みすぼらしい。1+1も悪は正しく答えてはいけないので、間違えなくてはならず、間抜けもいいところである。

 悪魔は、一時的に悪い考えにとりつかれた人間である。例えば、共産運動家。大人になって頭の悪いことが災いして、マルクス主義を信じ、破壊が正しいと信じこむ。しかし、いずれはそれも間違いと気付き、更生する。悪魔はこのようにして、消えるか、自ら修正していなくなる。が、神のように善なる者は、永遠に生きるから、いつまでも残る。つまり、二元論の世界は、悪が消え、神だけが残り、収束する。

 また二元論では、悪魔と神が相争う。しかし、悪は効率の悪いもの、悪い方法だけを知る者。つまり、がらくたのような不良品に囲まれ、何ら問題解決できない、愚かな者だ。悪とは、正解を知らないことで、そんな者は、技術力もない。正しい理論も知らない。こんな愚かな悪が、すべて正しい理論と技術を自在に使える神に対抗できるわけもない。神と悪魔が戦うと、悪魔の連戦連敗。すぐに消滅する。悪は神と較べて、微々たる力しかもちえない。神が9割9分支配して、悪は残りわずかしか支配できないのである。未来になるほど、悪の支配圏は狭まるばかりだ。やがては、ほぼ神の支配となる。二元論は、現実には偽りである。1元論こそが正しい。二元論は、このように間違いだらけ。信じないほうがよい。

 

 産経新聞の支局長が韓国で無罪判決 2015-12-18

 朴大統領を少々批判した記事で、有罪となったら、その国に言論の自由はないだろう。韓国が面白いのは、裁判所に政治判断がもちこまれることだ。政府の要請を公にした上で、裁判官はそれに従った。ここれ韓国人らしい事大主義だなと思った。韓国の裁判官は世相をみて、どちらにつくべきかをよく心得る。
 日本では、頭の硬いのがいて、司法独立と宣言して、政府の圧力に屈しないと反抗じみて、わざと国を困らせる判決を言い渡す赤いのが少なからずいる。こちらは法に忠実ならいいのだけど、裁判官の信じるおかしなイデオロギーや所属団体の権益に走り、法を歪めるのは困りものである。
 政府の圧力によって法を曲げるのも、本人の信念によって法を歪めるのも、どちらも裁判官としては、不良品である。今回の韓国裁判官は、言論の自由という基本人権は守ったからよし。

 

 大震災と日本 3 左派世論が震災を招く 2015-12-18

 陰鬱な暗い日常がこれから数日後にはじまる。震災とともに明るい世相は一転する。せっかくアベノミクスで回復した淡い希望が、また沈み込む。地震と左翼の増大とは関係する。神戸大震災は村山政権だった。311は、民主党政権だった。

 左翼政権は震災前にあらわれる。日本人は、大多数は保守だ。が、震災が近づくと、左に傾く。大地からの電磁ノイズで、頭が悪くなるのだろう。日本人全体が、嘘もデマもみぬけなくなり、冷静さを失う。そして、選挙で左派の扇動を選ぶ真に受ける。すると、そんな左派首長がつく。これだけでも、日本の危機だが、そんな時に限って、震災が起きる。その無能首相が、震災対応を間違え、日本はさらなる苦境に立たされる。震災が左の世論を育て、地震が来た時に、左の首相が震災を大きくする。これが今までの震災の3悪(左世論、地震、左の無能首長)だった。

 今年は、様相が異なる。右の安倍首相が持ちこたえたから国土も安泰だ、と早とちりしてはいけない。シールズや反安保で左派が盛り上がること甚だしい。左派は支持率か低いくせに、このまま安倍政権を妥当すると、幻想をいだく。実に、震災の兆候だ。震災は近いのである。

 日本は、本当は危ない。メディアが左派に支配されたのだから、これこそが、神罰のくる理由となる。アカの犯罪の電波犯罪を誰も報道しないことが、最大の罪ではあるが。左派社会が震災を招くのか、地震が左派を好むのか。それは、震災前に強まる電磁ノイズと大地のゆらぎから、広範囲に起きる不安感が生じる。それが、左派をもたらすのだろう。左派の台頭した年は、大地震に注意である。

 そういえば、沖縄はずっと左派に支配されている。これは、大津波で沖縄諸島が流されるという予兆なのだろうか。私はそれを予知はしてないが。明るい日本を堪能できるのは残り2日。思う存分、楽しもう。

 

 哲学の話--- ベストラセラーに「バカ」話題の理由 2015-12-18

 日本の有名なベストセラーは、「バカの壁」養老孟司である。もう一つは百田氏の「大方言」。こちらもバカの話題が盛りだくさん。どちらも、知的に新しい「おバカ」を語る。どうして、日本人はこうもバカ好きなのだろう。若者や中年が新しい少しマヌケな生活スタイルをはじめる。どちらもその「お馬鹿」具合を解説する。

 ここから売れる本の形式は、理解できる。まずは、体験や事例に1-2ページ使う。その後に、それを批評的に解説して、おバカとしめる。それを何話も続ける。私が気づいたのはたったこれだけ。私が「被害日記」を書く時には参考にしようと思った。

 日本人はなぜバカな人の話を読みたがるのか? 私は読まない。できるだけ使える知恵がたくさん書いてある本を買う。今は、新しい経営手法を年1冊買って、あとはほとんど専門書である。それを2冊読むと、その分野のことが一通り学べるものを選ぶ。精神論では、山田かまちくらいだ。他は、今はみつけてない。「お馬鹿シリーズ」は実用書でないから、私の関心外である。

 が、それを日本人は買う。なぜだろう。それは新しいお馬鹿の解説書だ。私はもっと著者の分析がしっかりしていたら、読んだだろう。しかし、私の心に響くほどの代物ではない。だから、10-20ページで飽きる。が、日本人はその程度の軽く浅い内容で、いいらしいのだ。それで、現代社会の仕組みや、人の心のあり方などなどを読者に、わかったつもりにさせる。具体性のない話ですまない。酒屋で深い話くらいが、日本人にちょうどよいらしい。名文でなくても。

 

 共産党の主張を教室で教えるのは教育の中立性に違反する思想教育 2015-12-17

 「公立中教諭が教室で赤旗コピー配布 シールズの反安保デモを持ち上げる 市教委が「政治的中立欠く」と処分検討 埼玉・春日部」産経ニュースより

 共産党に投票するように教師が誘導してはダメだ、ということは主権教育でも、徹底しなくてはならない。共産党の主張を教師が教室で繰り返し呪文のように唱えるのはもっての他。私の会社ならこんなアカい教師は解雇する。

 

 夫婦同姓について  2015-12-17

 歴史上の王族は妻も王様とほとんど同じ名字なので、夫婦同姓が最もよいだろう。別姓とするのは一部例外としては認めてもよいだろう。が、どこどこ家の人間かと区別する上では、わかりにくい。家柄や血縁は今後、どんどん社会的な意味が小さくなる。だから、母方や父方の姓にこだわるのはそんなに重要ではなくなる。これは同姓にする意味がないという理由に使われる論理だ。が、別姓についても同じで、別姓にする意味がないことになる。家の名前は統一したほうがよい。すると、偉人の名を覚えて、その妻や夫が同姓ならわかりやすい。配偶者が異姓ならわかりにくい。夫婦は名を残すほうの姓を名乗るべきだ。私は結婚しても、大野でゆく予定。

 

 哲学の話--- 自己の位置 音空間 2015-12-17

 昨日は、自分自身はどこにいるかという話をした。両目の間の奥である。ほとんどの人はそこに自分がいる、と思っている。脳の位置ではない。しかし、目の見えない人は、そうは考えない。彼らは耳で自分の位置を決める。目をつぶってみよう。音はどこから、聞こえるだろう。まずは左耳をさわる。聴覚神経は内耳にある。左耳よりは、自分は内側にいると感じるはずだ。右耳も同じ。だから、だいたい鼓膜(内耳)あたりに自分がいると思うのが普通。右耳と左耳にこまくがある。その間ではないだろうか。

 ただ、思考こそが自己と思う人もいる。それは私は違うと考える。思考は脳の外から発せられるからだ。思考はどこから聞こえてくるか? 声は、喉から発せられる。声帯から。思考はどこか? これは頭の中と思ってる意人が大半だが、本当は、喉である。思考とは小さな小さな声である。だんだんと声を小さくしてゆくと、思考になることに気づくはずだ。思考は声としてはっきりと音に出さない音(声帯の声の一種)なのである。また目をつぶって、思考すると、頭より下の喉あたりから聞こえてくることがわかる。何度かやってみよう。いずれわかる。

 というわけで、多くの人は勘違いしているが、「思考」を発する場所は、声帯なので、自己ではない。自己とすることはでない。なぜなら、声のある喉を自分の居場所と思うひとはいないからだ。というわけで、視力がない人は、自己が2つの内耳の間にある。また思考の発せられる場所も自己のいる場所でない。

 考察1、一般人の「自己空間」

 自己の位置は、視力をもつ人は、両目の間の奥。その時、音は自己の両脇から聞こえてくる。思考は自己の下から聞こえてくる。そんな構成となる。

 考察2、脳と感覚器の関係

 ただ本当の自己は、脳全体の機能である。脳は感覚なしに、自分の位置をとらえることができない。脳は、感覚情報によって、自己の位置を決める。脳の保護上、感覚が指し示す「バーチャル自己」と脳の位置を一致させる必要がある。そのため、感覚器は脳の回りに配置される。

 これであなたは、「自己の空間」により詳しくなった。

 

哲学の話 - 正確に自分はどこにいるか? 2015-12-16

 自分はどこにいるか? 厳密に考えてみよう。鏡をみると、自分が写る。自分の肉体がある。自分がいる。さて、「自己」はどこにいるだろうか? 手の中に自分はいない。足の中にも自己はない。手足は、体の一部でも、自分自身ではない。胴体もそうだ。胴体は考えない。というわけで、体の中にはある。が、手足、胴体ではない。残るは頭だけ。自分自身は頭のどこかにいるとわかった。頭のどこに「自己」はいるのだろうか? 目か? 違う。耳か? 耳は違う。口か? 口も違う。顎でもない。というわけで、自分は目、耳、口、顎の中にいないことがわかった。毛の中にもいない。また頭の皮の中にもいない。

 では、どこにいるのか?
 残るは脳の中だ。そこに自分はいると考えた人は、正しい。が、正解ではない。脳のどの部位にいるのだろうか? 前頭葉か後頭葉か間脳か 小脳か? 今日はそこまで詳しく考えない。「自己」のひそむ場所をつきとめるのだ。空間的に。

 右目と左目がある。自分は両目の間にいるはずだ。右目に近いところにはいない。それは左目は自分から遠くて、右目のほうが自分の近くにあると感じる人はほとんどいないからだ。というわけで、自分は両目の真ん中あたりにいる。これがほぼ正解である。

 しかし、もし右目が見えない人は、左だけで生活している人は、自分が左目の奥にいると考えるだろう。いつも左目の景色が自分の正面にみえるからだ。というわけで、正確には、自己の居場所は、目の後ろあたりなのだ。両目を使う人は、右目の後ろでも左目の後ろでもない。ちょうど、両目の中間の後ろあたりだ。なぜなら、右目は自分より右側にあると人は考える。左目は自分より左側にあると人は考える。

 高さはどこか? 目より下側か?
 おそらく目の焦点あたり高さに自己がいる。網膜あたりだ。というわけで、ふつうの人は、焦点となる網膜の高さに自己がいる。

 奥行きはどのくらいか? 自己は眼球のどのくらいの奥行きの位置にいるか? おそらく、目の焦点あたりの奥行きのところに自己がいる。目の後ろに自己がいる。焦点よりやや奥ではないだろうか。これは推測である。厳密ではない。というわけで、だいたい目の焦点に網膜がある。網膜のあたりに自己がいる、と考える。

 答え、
 右目と左目の眼球の焦点。その両目の網膜の間あたりに自己がいる、と大勢は思っている。

 これは嘘ではない。大勢は脳がある場所にい自分がいると考える。が、それは大勢が自己の居場所と思っている位置としては、正しくはない。なぜ違うか。まずは夢のケースだ。夢の中で、自分は見たと思う。だが、夢は半分くらいは自分の体験でない。全部が、その時間の自分の体験ではない。タイタニック号の沈没を夢に見た人が、それに乗船せずに助かった、という話がある。これが事実として伝えられている。本人は自分がタイタニック号の沈没を見たと思っている。しかし、絶対に本人は現場にいない。

 こんな極端なケースを考えなくてもよい。夢でどこかにいた話で十分だ。眠っている間、本人は、ベッドか布団の上に寝ている。しかし、夢の間だけ、知らない人と一緒にいたり、本人はどこか遠く離れた場所にいたと思っている。

 ここからいえることは、本人は、見た景色の中にいると思い込むことだ。ほとんどのケースで本人の脳はそこにない。つまり、自分の居場所を決めるには、視界が重要なのだ。目の位置が。人間は、脳や頭の場所より、目の位置で自分の居場所を決める性質がある。
 
 目が飛び出た麒麟は、自分が体から離れて高いところにある目玉のそばにいると思っている。ただし、目が2つ飛び出た昆虫が、自分が2つの目の間にいると考えているかははっきりしない。

 

 左派メディアは軽減税率反対か? 2015-12-15

 どういうわけか、軽減税率に走る自民党の姿を批判的に描くのが、ニュース23や左派などにみられる。左派はこれまで庶民の味方みたいな顔をしていた。が、どうやら今は軽減税率に批判的で、庶民の敵だ。

 消費増税は、来年にはないだろう。私は大震災でそれは延期されると信じている。それで、軽減税率ものびる。とはいえ、今、この議論をしなくてよい、という話ではない。政策は一度決まると、いずれその形で実施されるからだ。

 軽減税率は消費税が高いほとんど国でやっているもので、ごくごくふつうの政策。私は、アメリカで子供の頃、消費税のせいで値札より高くて、スーパーでお金が足りなかったことがある。計算が面倒だし、その頃から好きではない。今でも、値札と実際の価格が異なるのは、よくないと思う。買う側にとっては特に。

 消費税の話の値段の表示の話を聞いていると、商売人の都合ばかり聞こえてくる。値段は、買う時の値段をそのままつけるべきなのだ。値段が高いのは店のせいであって、国家のせいではない。私はそれをしない商店には、不買運動を起こすべきだとも考える。

 

 哲学の話--天才の作り方 2015-12-15

秀才はたくさんの知識をつめこみ博識である。天才は、そんなことはしない。わずかな現象から真理を見出す。ニュートンがりんごの落下を見て、万有引力に気づいたという。彼は、学校や数学、物理のの本の知識が頭の中にあるわけではない。彼は、自然のモデルをよーく理解している。そこから結論を導き出した。

 知識や体験が少ないのに、たくさんの真理を彼独自の観察から理解しているのが、天才である。それには、現象のモデル化(パターン)をする才能がなくてはならない。数理的な計算には長けているとよい。すると、僅かなデータや自然現象から、あれこれ自分1人だけで考えて、大きな発見ができる。

 よって、知性を誇っているのが真に賢いわけではない。それは秀才型であって、本当はあまり賢くはない。多く知っているにすぎない。本当に賢いのは、物理世界を見て、法則をつきとめる。また、そういう実用的な見地から、多くの物事を区別しえる者である。だから、天才・真の賢人を育てる方法は一つ。自然現象から、多くのパターンを見つけ出して、それを探りなさい、と教えることだ。

 

  哲学の - 品格について 2015-12-14

 国家の品格、政治の品格とか、一時ブームになったあの「品格」だ。下品なよりは上品がよい。あまりに低劣になった国家政治家やメディアに、品ある振る舞いを取り戻す提案だろう。 品格とはwikiによると、「品位とは、気品や品格、人品などともいい、個人ないし特定の団体が、礼儀や節度や 人徳、気高さに富む様をいう。またそうした、品位の保持は人々より尊敬或いは信用を 受けるとされる。」という。

 さて、内面的なものよりも、言葉、振る舞いやマナー、作法など外面的なものだ。いってみれば、外面(ソトヅラ)である。品格を求めるのは、メディアや政治家があまりに品位や規律がなくなったからだ。だが、品位が多少身についた人は、さらに品格を磨く必要はない。紳士的な人は、そう政治や国家は中身が大切なので、そう品格にこだわらなくてよいだろう。現代のメディアやネット上の言論は、左翼は低劣になりすぎるきらいがあり、常に品格は求められる。

 

  軽減税率のお手柄は誰のもの? 2015-12-12

 軽減税率で、自民党が1兆2-3千億にするというのは頷ける。そもそも、食料品や外食は庶民の生活。そこに税金を高くかけるのは、庶民いじめでしかない。それをやめるという話だから、歓迎しよう。左派ニュースが外食を軽減にしたのは、金持ち優遇だと言うが、市民はそんなデマを真に受けない。外食が安くなるとよい、とサラリーマンや一般家庭は誰でも思う。金持ちはそもそも食事代など支出として少ないから、金持ちのためのものにならない。

 誰の手柄か? 自民党の議員の一歩上をゆく提案という印象は残った。今回の件で、自民党の支持は上がることはあっても下がることはない。軽減税率で疑問に思うのは、経済学者風の人間がこれに反対すると言っている点だ。私は経済学部卒だが、軽減税率には賛成する。諸外国はみなそうやっ食料品は低めにする。日本の経済学者はどうやらこの税制に詳しくないらしい。

 

 教師に政治圧力をかける共産党小池議員 2015-12-12

 彼は、「先生が堂々と自分の考えていること、信じていることをしっかり言って、それを生徒がどう受け止めるかということが教育だ」と(産経ニュースより) しかし、先生のお仕事は、そんな我流の意見を生徒に押し付け、洗脳することではない。先生の仕事は、法律でも決まっているが、教育科目を教えることだ。特定政党の主張を、特定メディアの意見を生徒に信じこませることではない。

 日本共産党が、教育に圧力をかける。特に、教師に政治的圧力をかけようと意図した会見だ。こんなことが、野党として許されるのだろうか? なお、小池氏は記者からの批判的な視線に耐えられなかったのだろう。「もちろん・・・『共産党に一票入れなさい』というのはダメだ」と、わかりやすく本音も漏らした。

 ・・・なるほど。会見中に小池議員はこんな指示を共産党員の教師に出したのか。「共産党に一票入れてはダメ」ということは教えろ、と。ともかく、共産党は長くないといっても、ブラック教師、レッド教師(レッドティーチャー)を奨励するのはいかがなものか。

 

 哲学の話 -「性善説と性悪説」の論争 2015-12-12

 日本人の中にある哲学的迷信をいくつか、否定してみせよう。人間は元来、性悪説なのか性善説か。こんなくだらない論争はない。あまりにも自明だ。善はよいことで、それは生きるという至上目的があり、その中でより善い方法をさす。悪は破滅で、死をもたらす方法である。その体系である。生物は、生きようとする。だから、生物全体が性善説だ。人間も同様に、性善説だ。人間は死を嫌がるからだ。

 もし性悪説になると、人間は死のうとする。人間が進化するほどに、その死は早まる。寿命は短くなり、病気は増える。性悪も究極になると、受精の何秒か後に死ぬだろう。だが、人間の寿命が伸びる。それは人間や生物は、性善でできているからだ。より良く生きようとしているからだ。

 性善説を人間に強いる肉体の仕組みがある。それは、「苦痛」、「空腹感」、「乾き」、「暑い」、「寒い」といった感覚だ。これらは悪である。それらに耐えられなくなると、痛みを和らげ、食べ、飲み、暑さを和らげ、体を温める。それが善である。そうやって、快適に過ごそうとする。そうやって善く生きるのが人間である。

 性悪説だと、それが極大まで進んでも平気だ。苦痛、飢えで、水分不足、暑さ、寒さで最後にはなくなる。悪いことをしたい人間なら、それを進んで亡くなるだろう。が、人間はそれらを苦痛として感じて、避けようとする。これが生きるための肉体の防御反応といえる。人間は、性悪になりにくい体をもっている。

 もし、性悪説の肉体になるには、これら感覚を取り除かなくてはいけない。つまり「無痛」になる。また、悲しさや喪失感など感情も消さなくてはならない。性悪に徹しきることができないからだ。しかし、そんな人間の本性を歪めて、冷酷で何も感じないテロリストになるような訓練は、よいことではない。

 人は、性善説で生きている。他人も、性善説で生きていると考える。社会全体が性善説だ。一部犯罪を好んでする人を見て、彼らは性悪説だと人間の基本を忘れることがないようにしたい。

 性善説の誤解、その一 「人間は性悪説と考えて統治したほうがよい」

 この性悪説信者は、人間は放置すると勝手に悪いことをする。それを前提にして、悪事をしないよう規則を作って統治しろ、という。罰則や禁止事項をもうけろ、という。すると、悪さしないから、うまくゆくという。

 はて、何が言いたいのだろう。性悪説ならば、悪事をしないように取り締まることはできないはずだ。例えば、禁止事項と罰則をもうける、としよう。善人なら、それをそれを破らないように守るだろう。が、悪人は進んで、それを犯す(違反する)だろう。性悪なら悪いことを禁じると、逆に悪いことを明示することになり、悪さする方法を教えることになり、統治が困難になる。性善だから、悪いことを禁じたら、それを人々は守るのである。

 なお、法では、悪事はすべて列挙されて禁じ、罰則がある。性悪説に基づく統治と、なんだかおかしな言い方をしているが、簡単にいえば、ふつうの法治である。いや、正確には性善に基づいた統治である。

 性善説の誤解、そのニ、「子供は見てないとすぐに悪さをする。だから、子供は性悪なのだ。」

 子供は無知なので、善いことをしているつもりでも、オトナの基準から見ると、悪いこと、というのが往々にしてある。それを性悪というのは、問題である。この考え方は偏見そのものである。無知な相手は皆性悪というのでは、「原始人は性悪」、「田舎の人は都会では性悪だ。」という話にまでなる。知的に、文明的に、学力で差がある相手をどうしようもない根っからの悪人と決めつけることに等しい。これを差別的な発想だと気づかないで、今まで語っていた人は自らを恥じるべきである。

 反論にはもう一つある。簡単だ。大人がこれこれをやってはいけませんと教えた途端に、性悪な子供は、それをするだろう。子供はたいてい言われたら悪いことはしない。だから、性悪ではなく、性善なのである。子供の過失をもって、それを子供全体の性質とみなすことはできないのである。

 性善と性悪の区別。人間は性悪でないということを子供のうちに見抜けないのは、よほど人間の根本の理解が弱い。これは、アフリカ好きなクリスチャンへの批判ではない。性善説と性悪説についての日本人一般の思い違いを軽く反論してみた。

 

 精神医学は宣伝が上手 2015-12-11

 最近、精神医学の問題点を研究する。そもそも、薬を飲ませすぎる。病気なら10錠も飲むと治るもの。大病でないかぎり。それが、何ヶ月もだらだらと薬飲ませて、治りもしない治療を続ける。医学としては最低ランクだ。大病でも入院一ヶ月で治せなくては、現代医学とはいえない。

 またこの連中は宣伝上手。なんでも病気に仕立てあげる。今朝は「女性うつ病」みたいな新しい病をNHKは特集した。精神科に行かなくてもいいような症状でも、「病」とつくと、みないきたがる。精神科は、診断しても病名を言わないことが多い。金払って、診断で病名すらわからないのは、ひどい。精神薬はたいてい頭を鈍らせる薬で、飲むとバカになる。精神医学は、どうも他の医学とくらべて、著しく質が低い。

 

 哲学の話 - 主観と客観を使う人は科学的ではない 2015-12-11

 これを大事だと思ってる人は、世界が狭く、遅れている。客観を心に確立した人は、すべてを客観的に説明しえるから、主観的な世界・考えすら、その人は客観的にみることができる。そんな人達にとって、主観と客観の違いは、重要ではなくなる。その時、主観は特殊性となる。客観は一般性となる。よって、「主観と客観」という区分は、「一般性と特殊性」という区分に置き換えられる。後者の考えをもつことが、より現代的で優れている。

 主観とは、特定個人の世界観からくる判断である。物事の見方である。客観とは、大勢がそう判断するような歪みのない観点をいう。主観と客観があり、人は客観的にならなくてはいけない、という。主観とはたいてい狭い考えをさす。「共産主義こそ社会正義」というのはもはや、当初からそうであったが、一般性のない考えで主観である。共産主義者は、マルクスの主観にいまだとらわれているわけだ。客観とは、できるだけ広い見地をもつ人をさす。科学者は客観的だとされる。科学の検出は誰がしても同じだからだ。科学者は、科学という宇宙全体で通じる概念を信じるため、客観的である。

 何かといえば、君の独善、主観と決めつける人達がいる。こういう人たちは、実は、心の中に一般性のある概念を持ちえていない人である。心の中に科学を確立していないのである。なぜなら、客観基準が心の中にあると、主観的かどうかは気にならないためだ。

 客観を持つには、誰がはかっても同じ尺度を使うとよい。メートルやキログラムなど。すると、人毎に違う値になることは避けられる。というわけで、現代は、距離や重さ、長さなどで主観が生じない。こういう共通の尺度を使うことで、個人差がなくなる。すると、すべては客観で計られることになる。

 さて、すべての個人の感覚(重さ、軽さ)も、公的な基準で計ることができる。個人の主観で重い軽いと言ったとしても、客観的な値になりうる。つまり、個人の感覚的な主観は、客観的に測られる。この場合は、重さ、軽さ、高さ、低いなどのものだ。こうなると、客観と主観の区別は重要ではなくなる。

 言葉も、個人的な独特の用法は主観的だ。が、それも一般的な定義に言い換えることはできる。よって、その独特な言葉使いを使い続けても、主観的だとみなすことはできない。

 考えも同じだ。個人の主観的な考えを述べたとする。それを主観的というのはあたっている。が、しかし、その個人の思考も、客観的な考えで、説明できるため、特に主観的であろうが、会話では問題にならない。このようにあらゆる主観は、客観で説明しえる。よって、客観的な基準をもつ人にとっては、主観と客観の区別は重要ではない。

 主観とは、特殊な考えである。客観とは、より一般性のある考えである。科学では、一般法則となる。主観は特殊な考え、特別な事例における考えとなる。科学的な物の見方をするためには、主観は特殊論、客観は一般論として、理解したい。できるだけ、特殊な思考から脱して、一般的な観点をもつことは、大切である。視野が広くなる。井の中の蛙になることはできるだけ避けよう。広い世界を見よう。

  以上、主観と客観という言葉を使う人は、心の中に理性(一般性のある概念で物事を理解する心)が確立されていないことが、判明した。

 

 本「僕らの民主主義なんだぜ」の批判 2015-12-10

 朝日新書で高橋源一郎著作。デモする若者に民主主義は、僕ら若者のものなのだ、と呼びかける本。民主主義は左派デモをする市民活動家のものだ、と全共闘気分を若者も謳歌しようとでも言いたげなこの本のタイトル。それは間違っている。

 どうも、この著者は民主主義をはきちがえている。この人物は、デモ、アジ演説など「反政府運動」こそが、民主主義であるかのように言う。それは民主主義ごっこである。デモや反政府運動は言論や活動の自由があるからできる。正しくは、「僕らの反政府的な活動が取り締まれないのは民主主義ではなく、人権の自由があるためだ。僕らの"人権"なのだ。」と言わなくてはいけなかった。著者は、「人権」と「民主主義」と言い間違えたのである。

 なぜなら、民主主義は、左派の活動家のものではないからだ。若者のためにあるものでもない。国民全体のものだ。市民やメディアが問題提起をして、学者が図り、議員が多数決で決める。そして、官僚が行政を采配する。民主主義とはそういう意志決定システムである。民主主義は広く国民の声をきく。一部、左派の占有物ではない。

 もし、左派の勢いがある市民派の所有物になったらどうなるか? それが菅直人内閣である。忘れたのだろうか。彼は、活動家らしい出で立ちで国会に入り、やがて左派のコートを取り外した。彼は議員になるとすぐに現実の政治は左派の活動家みたいな安易な振る舞いではできないと悟り、左派的なあり方は自らの手法からは捨てた。彼は元来、市民派保守なのである。左派系はあまり使わずに、民主党の保守に近い政治家に仕分けさせたが、官僚の抵抗にあい、挫折する。すると、今度は学者会議をたくさん開き、政治をよくしようと試みた。

 が、それも失敗した。国民はこれら一連の素人の政治参加、その行き詰まりから、政治家に政治をさせるのが一番いい、という結論に達した。保守系の政治家 野田に託すことになった。「僕らの民主主義」のような若者の新左翼運動のノリで政治をやると、わかりやすく言うと首相をやると菅直人内閣の二の舞いである。民主党政権で何も学ばなかったとは、情けない。

 

 哲学の話--唯心論からの解放、心の中に神様はいない 2015-12-10

 唯心論と唯物論の論争で、神様は科学的に検出できないと指摘に窮して、苦し紛れに信者がこう答えた。神様が心の中にいる、と。そんなことが可能だろうか? それを哲学的に考察する。心とは脳である。脳の中に、どんな生物が入り込めるかを考える。神様は知性をもつ生物である。「神様は心の中にいる」というのは、脳の中に知性をもつ生物が入りこんでいる、ということだろう。実際、それが可能なのか、検証しよう。

 知性をもつ生物は、どれほどの大きさになるだろうか。脳は、人間の場合、1200-2000gである。脳の比重は、男1.0561, 女1.0508だ。脳の体積は1.2-2リットルである。脳のサイズと知性は比例する。猿は人間より脳が小さい。神様は、人間より賢いから、1.5kg以上で4kgもないと思われる。あまりに重いと、体積もかさばり、頭でっかちの神様になってしまう。そんなのは無様だ。脳のサイズは小さいわけがなく、あまり大きくないと想定した。

 また、知的生命体は、頭だけでは生きていけないから、同体や手足ももつ。それは効率化できるとして、あまりに手足が短いと奇妙である。神様も人間と同等かそれ以上である。神様のボディは、だいたい60-100kgとしよう。人は水に沈むが、空気を吸うと浮くからから、比重は約1強。正確には、身体 密度 D=1.0923とされる。60kgの人間はほぼ60Lである。神様も人間と同じような物質でできているだろう。よって神様の体も同じ体積、重さと考える。人間よりは大きめとしても。

 唯心論者は、こんな60リットル体積の神様が、脳の中にいる、という。しかし、頭の中に60リットルの生物をぎゅうぎゅう詰め込むことはできない。それは、物理的に不可能だ。重さは考慮しないのは、神様は見えないから、希薄な物質で軽いはずだからだ。よって、神様は脳の中に入れない。神様は、脳の中におさまるサイズではないことは、確かである。

 脳の中に生まれた時から死ぬまでいては、なんら運動もできないし、知的活動ができないから、神様は成長しない。知的に成長しないことをずっとしていて、神様はつとまらない。よって、神様は脳の中という狭い空間にとどまってはいない。つまり、神様は心の中にいない。

 こういうわけで、神様は心の中にいると信じた唯心論者は、こういう科学的知見に打ちのめされる。「私の心の中に神様はいない。」 それは実際に正しい。

 小賢しい反論として、「心の中に空間があって、そこに神様がいるんだよ。夢のように。」というのが考えられるだろう。しかし、もし脳の中に極小空間があるとしても、もしその中に神様はいない。極小空間の中は、狭くて小さいからだ。そこが、もし広大な空間で、神様が入れるくらいならば、それは脳とつながるどこか別の空間なのだ。それは脳の中ではない。心の中でもない。つまり、心の中に神様が入れる空間はない。よって、神様は脳の中にいない。

 唯心論が華々しく、物理世界論(唯物論は無神論なので、ここではそういう立場ではない。)に負けてしまった。なお、心の中に神様はいなくても、「心の中に神様の声が響く」ことはあるし、「神様が心を通じて人を導く」こともできる。「心は神様の影響を強くうける」ことまでは、否定しない。それはまた別の問題である。以上、前回に続いて、唯心論をダブルにメッタ斬りした。

 

 哲学の話 - 「自分が死んだら世界はない」の反証 2015-12-09

  日本人の中にある哲学的迷信をいくつか、否定してみせよう。唯心論の否定その一。「自分が死んだら、世界は自分にとってない」、「自分が死んだら、世界に意味がない。なぜなら、自分はいないから、世界そのものを感じることができないからだ。それは世界がない、といえる。」ともっともらしいことを言う。

 これは日本のリアリティ論者や唯心論者がよく使うセリフ。仏教の発想にもある。自分が死んだら、自分にとって存在する世界はなくなる、と。ふつうは、死ぬことと眠ることは似ている。寝ている間でも、世界は動く。世界はつまり、寝ている間も自分にとって意味がある。死んでも同じで、死んでいる間でも、世界の動きは何らか意味がある、と考える。が、唯心論では、その逆のことをいう。自分が死んでいる時、世界は自分にとって意味がない、と。

 この唯心論の観念は、逆の発想なので、違和感が強い。でも、これまで上手に否定した人がいないらしく、この物言いは、多くの人に語り継がれてきた。私は、それに終止符を打つ。あまり知的でない人が、哲学を知ったかぶりで語る時に、たまに言う言葉だ。「しかし、私は言いたい。あなたが死んでも、世界はなくならない。君の死後もなおかつ、世界は君にとって意味がある、と。

 このリアリティ論者の思い込みは、死んだ後、蘇らないと思っているという単純な間違いからくる。人間は死んでも、時々、蘇生する。すると蘇った後に、死んだら、意味がないと思っていた世界が、実は死後も大きな影響を自分に与えていたことに気づく。

 誰かが君を蘇らせてくれるのだ。死んでいる君にとって、何の価値もないと思われた外界の存在、他者が君を治療して生き返らせるのである。つまり、君は死んでいる間も、その外の世界によって影響を受けるわけだ。死中ですら、外界は君にとって大きな価値があるということだ。

 本人が死んでいる間、君にとって何も価値がないと思われていた外部の世界に、何か意味がある。証明はこれで完了だ。「自分が死んだら、世界も終わり」ではない。世界は終わらずに、動いている。そして、運がよければ、君をまた起こしてくれる。

 外の世界が君を蘇生させられなかったらどうなるか? その時は、世界も価値がないといえるではないか? と小賢しい反論をする人もいるだろう。しかし、治せるかどうかということが、死んだ後に問題なら、それは死んだ後に世界はない、という話ではない。死んだ後にも、君にとって世界は何らか君に影響をもたらす日の可能性をもつのである。可能性があるということは、意味があるということだ。

 正しくは、「君が生きてても死んでも、君にとって世界はある。」 そういう世界は生きている間も死んだ後も、普遍的に君にとってある(存在する)。そう一般化できる。

 

 哲学の話 -共産主義がない平和な未来 2015-12-08

  一言。世界に共産主義がなくても、人権はよくなり、世界は平和になる。ソ連がいなかったら、さぞかし戦後、世界が平和だったと思えるからだ。共産主義こそが、大戦後の混乱である。朝鮮戦争、チェコの弾圧、アフガン侵攻、ベトナム戦争、キューバ危機。南米左翼ゲリラ。大きな戦争の芽は、すべて共産主義からくる。それら戦争がなかったら、なんとしずかで平穏な時期だっただろうか。

 共産主義は拡大して、すべてが共産体制になるという偽りの歴史観に騙されてはいけない。共産主義は、現在のようにしだいに縮小、消えてゆく。そして、共産主義が消えた時こそ、自由が残る。資本主義国が全世界を覆い、世界は豊かさと自由の輝きに満ち満ちるのが歴史の必然である。

 国民すべてが資本家(総合技能者)となることで、社会性を追求することを完結させる。社会性の段階を終える。労働者=単独技能者に、とどまって進歩が止まってはいけないのである。共産主義のない未来を考えよう。どれほど、そこはイデオロギー地下闘争がなく、自由に満ちて、独裁者がなく、物資にあふれ、穏やかで平和なのか、と。

 

 2015年12月 池田市長選挙結果 2015-12-07

 池田市長選挙が昨日あり、無所属の旧市長の倉田薫が16893票で当選した。前市長の小南修身(助役あがりで自民党推薦、14200票)と共産党推薦の無所属山元たけし(4863票)を下した。私はもちろん、倉田薫に投票した。伏尾台で150m西に住んでいるし、??の友だちの父親だから。10年以上市長を経験した倉田人気は親子ともに根強い。

 素朴な疑問。なぜ共産党市議だった山元が共産党推薦で、無所属になりうるのか? 共産党員をやめたのか、と思ったが、そうでもない。党派(市の会派)として無所属ということらしい。山元たけしは無所属なのに、共産党員で共産党推薦とは、まぎらしいことこの上ない。無所属なら、共産党をやめてから名乗れ。共産党員はこんな筋の通らないような選挙をするな。と思った方は、どうぞ声をあげてください。

 

 雑誌『世界』2015年12月号批判 2015-12-07

 この雑誌は『共産主義』を否定しはじめた。随所に、共産主義の危険性を示唆する言葉がある。例えば、『レッドパージ』など。民主党の票を奪う共産党を敵とみなし、排除に動き出した。労組系も2周遅れで、ようやく私の戦略にのっかってきたようだ。

 バーニー・サンダーズの台頭--イギリスの過激社会主義者コービンと同じようなのが、アメリカ民主党にいたようで、『異端の過激な左派』というレッテルを貼られた男らしい。『社会民主主義は米国の正統的なツール』という。が、社民は米国ではアカとなるが、そうなったら、政治生命がおわる。この著者はアメリカの実情を知らない。

 片山善博の「日本を診る」---「辺野古審査請求からみえてくる国家のモラルハザード」。そのタイトルは民主党議員がつけてはいけない。政治のモラルハザードを起こしたのは民主党政権だったのではないか? 中韓関係悪化、超円高で国内空洞化、震災無策、復興遅延、マニュフェスト違反。官邸のモラルはあの頃、どこにあったのだろう。

「木質バイオマスと地方創生」--左派は勘違いする。左派系が喜ぶ経済学者の藻谷氏が書いたのは「里山資本主義」。資本主義を寒村に持ち込むアイデア。それは国家の補助金をあてにするような社会主義な態度をやめて、大阪商人的なノリで自立して山村を再生しようというもの。左派も、中国をまねて、資本主義バンザイとやる時代なのか。

 「市民社会の価値とTPP」-- どこか歪んだ人権意識が往年の左派っぽい。特許が切れた安い薬を使って生きながらえる人が多い。彼らのためには、特許期間を長くしてはいけない。だが、アメリカは製薬業界の利益代弁者のように動き、長めにしようとした。それを一つ問題提起していた。それは、貧乏人や途上国目線ではある。

 だが、日本の甘粕大臣は、この件ではアメリカに「ゲームをするな」と注意したという報道があった。日本は特許期間を長引かせることに賛成をしてない。あまり新聞を読んでないようだ。文句を言うなら日本政府ではなく、アメリカに。

 もう一つ「人権侵害国家と貿易するとはとんでもない」という。人身売買をするマレーシアとは自由交易するな、という意見が引用される。しかし、マレーシアより先に、共産独裁国家のベトナムだろ。強制収容所の数さえ隠す、内部がまったくみえない人権のない闇の国が先。

 また中国もTPPに入りたそうな顔をしている。人権侵害国を問題にするなら、共産国からすべきだろう。そういう人権蹂躙の共産国をあえて話題にせずに、マレーシアなどの小さな問題を大げさにとりあげるあたりが、古典的な左派人権派らしかった。

「崩れゆく市場と国家の秩序からの解放」 内山節
 タイトルからして、おかしい。「崩れゆく市場」は、どこの話かとんとわからない。それはは中国の市場くらい。「国家の秩序からの解放」はグローバリズムか、秩序を乱すアングラな世界に落ちることを意味する。労働運動家はそんな世界にいると、暗ににこの雜誌を批判しているのだろうか。彼は冒頭から間違える。「あらゆる秩序的思考が有効性を失っている時代〜〜 新しい社会思想や政治思想を生み出し」、とある。

 現実、社会秩序はますます整う。希望がないのは左翼の世界だけで、社会保障の充実するし、経済政策も日々洗練される。著者はこの現実が見えてないようだ。「権力喪失」でイデオロギーの影響が低下しているのに、まだそんな社会運動にこだわる。新しい思想には、この縁がない人のようだ。

 「成功体験にしがみつく保守の結集」とあった。「失敗体験しかない左派の分裂」が他方にあるという意味なのか。「過去の成功体験にしがみつく」なら問題だが、アベノミクスはあまりに斬新でそうではない。政権批判のつもりだろうが、保守の優秀性をひがんでいるようにしか聞こえてこない。

 だが、ここでも、里山で資本主義をやればいいみたいなような話で終わる。左派は、なぜ、小さな資本主義が好きなのだろうか。やっと資本主義のシステムを理解したということだろう。国家単位では資本主義社会を正しく評価できないとしても。というわけで、崩れゆく左派活動家が、何をあがいているかと読んで見たら、社民党と同じ低レベルだった。

 

 哲学の話--理論優位 2015-12-07

 単純な原則。理論的優位。理論が優れたほうが正しい。よくある話。自由主義と社会主義。優れているのは自由主義。なぜか? 人間は個人個人が自由に活動することで、成長する。動物は基本的に1人ずつ頭脳をもつ。例外的に、植物に集団で活動する粘菌などいる。

 人間社会は、個人の集まりだ。そこで、社会はそんな組織形態だとみなして、研究するのが、自由主義だ。社会主義では、個人がないがしろにされ、全体が優先される。個人は機械の一部のように扱われる。物言わない「細胞」のように。社会さえよければ、個人の思想、テリトリー、生命は犠牲にしてもよいとする考えだ。いや、個人の頭脳を基本的に認めないのが、社会主義である。脳は、首都に一つ巨大なものがあってそれが完璧な命令を下すと、すべてがうまくゆく、という今は受けない仮説である。当然、生物の基本(個別に自由に活動する)に反する統治法で、やがてはそんな不自然な社会は生存の危機にさらされる。

 簡単にいうと、自由主義は社会主義(共産主義)より優れている。たったこれだけ。それが理論優位だ。というわけで、社会主義でいくら立派なことを言おうとしても、自由主義にはどんなに頑張っても勝てない。逆に、自由主義はどんなに簡単な理論でも、社会主義のどんな複雑な理論よりも優れる。この原則を知っていると、左翼に対しては、保守自由主義者は優越的に振る舞える。何も言わなくても、その存在だけで、その本質が勝っているからである。

 それはソ連人とアメリカ人が対峙したような感じである。ソ連は何やら小難しい共産理論をぐだぐた述べる。アメリカ人は、自由な世界で蓄えた富をみせつける。それだけで、貧しく国家に虐げられ自由も物資もないソ連人は圧倒的なアメリカの豊かさの前に、敗北感を味わう。

 さて、自由主義が死ぬ時、終わる時はない。なぜなら、それは1人1人ひとりの脳がなくなることを意味するからだ。自分で決めて行動でする社会を人間は好む。自分の脳が、中央の指令通りに動く社会など、こりごりだ。政府に自分の脳を支配させないだろう。人類は永遠に脳を個人にもたせるだろう。よって、その自由意志の社会は変わらないし、終わらない。自由主義の次はないのである。共産主義の発展論は、偽りなのである。

 

 アベノミクスで貧困が広がったというのは嘘 2015-12-05

 ニュース23は新しい貧困をとりあげている。老人が公団に住み、年金暮らしで貧しいとか、家持ち車持ちで妻の介護で仕事をやめて極貧になったとか、フードバンクを訴えるものが続いた。昨日は、実家でひきこもる若者だった。こういうのを発展途上国の人が見たら、『家があって贅沢だ。どこが貧困なんだ?』と憤ること間違いなし。彼らから見たら、貧困とはとうてい呼べない。

 日本では浮浪者がいなくなって、そんな底辺はもう社会問題化していないということだろう。路上生活者は生活保護を受けて、慎ましく貧しく、屋根の下で暮らす。そして、浮かび上がった新たな貧困。それが家持ち貧困である。食い物が足りないというのは、対策はフードバンクを与えるしかない。それを充実せよ、という訴えなのだろう。

 それ自体は悪くはない。だが、左翼は、これまでは貧困とみなされなかった者達を含めて『新しい貧困』と呼び、『貧困層が広がった』というのは、詭弁である。貧困の概念は広がっても、貧困者は減ったのである。これは統計的に確かめられる。実際は、失業者が減り、貧困者数は減った。もし、貧困が増えたなら、失業者が増加するが、それはない。もう一つは生活保護の受給者の増加である。それまでそれすら受けられなかった『路上生活者達』が、ようやく月々の支援をする受け取ることができるようなったのである。これぞ、貧困(極貧)からの脱出である。まぁ底辺にいるのは確かではあるが、屋根の下に住み、明らかに生活は向上しており、無駄使いしなければ、食することもできる。

 というわけで、左翼が『アベノミクスで貧困層が広がった』とよく言うが、失業率の低下と路上生活者の減少で、それは真っ赤な嘘だとわかった人は、震災で無一文にならないため、私の地震予知サイトもご覧ください。

 

     2015年12月 世界情勢の裏読み 2015-12-05

 戦闘機を領空侵犯で撃ち落とされたロシアは、そのトルコがISの石油を購入することについて、非難する。その石油売買の噂は、私はよく聞いていた。これはIS包囲網を築く、西側諸国がまず行わなければならなかった。ロシアにやらせている感が強い。西側がトルコと関係を良好にしたいからだろう。ISは興味深いイスラム過激派で、英米ドイツに甘く、仏露にきつい。アルカイダが英米をもっとも敵視していた点と大きく異なる。とはいえ、米国もイスラムテロが起きたから、安穏とはしていられなくなった。

 

  哲学の話-人工知能より知性が劣る人類のあり方 2015-12-05

 囲碁はまだだが、将棋やチェスではPCのほうが人間より強い。部分的に人間より賢くなった人工知能が現れた。まだ映像を見て、行動するのは人間のほうがややできる。が、工場のように決まった行動をするだけならば、もう機械にかなわない。人工知能による自動運転は、初心者や老人のへぼ運転よりも勝り、やがてはレーサー並になるのは時間の問題だろう。もう20年もすると、機械任せにして、主婦・老人の運転など怖くて乗れない人が多数派になっているかもしれない。

 人類は今まで、自分より高い知性と直面したことはなかった。人間以下の動物、さる、狼などと闘っていた。それで知性を誇っていた。が、人間が最高の動物というのは、人工知性の登場によっておしまいだ。やつらは、生まれた途端に知識を頭の中に詰め込まれて、一瞬にして人間より賢くなる。そんなのが大量に生産される。これからはそんな目上の機械によって、人間は管理される時代となる。

 コンピューターはただ賢いといっても、自ら進歩しない。特定の方面には極限まで突き進むことはできる。しかし、全体的な進歩は今のところできない。だから、機械に支配されると、人間は成長しなくなる。が、性能が悪くても人間は成長できる。結局、人類社会の発展を主導するのは人間だ。今後は、人間と機械の間で、知性がどうのこうのという争いはなくなるだろう。機械に人間は必ず負けるからだ。創造性がある人間のほうが優れているという話に進むのではないか。

 

 ニュース23が潰れる理由 2015-12-04

 私は、電波犯罪を2001年頃、筑紫哲也がいたそこに訴えていた。結局、報道しなかった。今も報道しない。それが、左翼系犯罪組織を擁護する結果につながる。私はこれが原因でこの番組はつぶれると信じている。調査力がなく、裏がとれなかったなら、この番組が責任をとらされることはないだろう。反社会勢力に恐れをなしたのかもしれない。それなら自称左翼ジャーナリスト失格である。

 もし知っているのに、告発しないなら? 私はその可能性を疑っている。だから、みんなこの番組から逃げ出すタイミングを計っているのである。来年4月には、電波犯罪が告発される。私にとって、それは真実である。日本の右派のたいていもこのことは知っている。電波犯罪をメディアが隠蔽していることを。それもわからない裏世間知らずな人は、これは東京地震が発生するのと同じくらい確度が高い情報と思ってほしい。

 筑紫哲也は『TBSは死んだ。』と言った。彼によると今のTBSは生きてないのだろう。人間ではないのだろう。人間に非ず=非人間、いや非国民なのかもしれない。

 

 哲学の話 共産主義は古い経営学の亜流2  2015-12-04

 左翼活動家は労働者の職場環境の改善や高い賃金を経営者に要求する。つまり、経営に口出しすることを、半ば本業とする。それは本来、労務(人事部)がする仕事である。

 それは経営学の一分野だ。会社の経営についての専門的な見地は、すべて経営学といってよい。労働者の待遇などもそうである。まれに法律も関係するが、それは経営の一部の法務となる。共産主義は、経営学の古い古い一つの一側面なのだ。労働者のあり方に関する規定なのだから。労働者とは、工場や会社があってはじめて成立する概念である。労働は経営の一部なのだ。マルクスが作り、以後ほとんど改善されなかった出来の悪い理論なのだ。

 経営者はこういう労働団体の要求には、経営学の一範ちゅうであるからして、知識もたくさんあり、冷静に対処できる。共産主義者は、経営を理解できないか、外側におく。それに対して、経営学では、共産主義も亜流の理論として、内部に取り込める。これが、経営学とマルクス主義の学問としての差だ。

 マルクス主義は、労働者のあり方に特化された経営の一分野の古典的な邪論である。経営学と同等なものでも、経営学と対峙するような特別なものではない。経営学の一分野で、しょうもない理論なのだ。経営学は、はるかに共産主義を上回り、巨大な体系になった。社会学の一分野として確立した。それを学ぶ者には、共産主義などはガキのたわごとのようである。

 よって、アルバイトしか知らないような経営にも無知な若者は、マルクス主義に触れると新鮮で、そこから会社を見る目を見出すかもしれない。が、経営学を学んだ者は、そんな使えない理論を今更・・と、蔑視することになる。これが現実だ。

 私はだから、経営学を小学生にも学ばせたいと思う。人間関係を作るのが下手になった。友達つくり程度のことしか言えない子供が多い。もっと人間をグループ化して、どう扱うとよいか、広く学ぶべきなのだ。それには経営学がうってつけだ。

 経営学ではなく、株の売買を学ばせるという試みはある。これはお金の扱いなど学ぶので、数学で足りる。社会の勢いがある産業や起業は知ることができても、人間を知ることができない。株ごっこは子供にはふさわしくない。

 が、経営はそうではない。組織作りは、社会秩序である。それを守る方法や維持する方法を学べる。効果もある。会社に就職して、会社の基礎知識があるから、会社の人間関係などにすぐになじめるだろう。実学でもある。

 

 正論 2016年1月号の感想 2015-12-03

 韓国の朴政権は国定教科書に (産経ニュースより)
 正論1月号を立ち読みする。朴政権は日本で評判が悪い。外交が大人ではないことは韓国びいきの私も認める。が、久々によいことをしたので、報告する。日本の右派は、この件に関して鈍い。が、正論が特集を組んでとりあげるくらいだから、とても素晴らしいことだ。
 彼女は、教科書を国定にした。韓国はこれまで左翼の教科書が14くらいあって、右のが1つ。日本と同じようないびつな状況だ。その内容もかなり左に傾いていた。
 例えば、朝鮮戦争は北朝鮮の一方的な侵攻が事実だが、韓国にも責任があるような書き方があるという。北朝鮮のシンパを育成するような内容だ。また左傾教科書は、共産主義かつ、主体思想の浸透を狙い、韓国文化の破壊を目指す。それは許容できなくなったようだ。韓国には日本の日教組のような左の教職員組合が2つある。立ち読みなので、覚えてないが。

 私は韓国のこれまでの教科書は、北朝鮮の影響が濃いと考えた。韓国が反日なのは、こういうことに原因があるのではないだろうか。韓国は教科書を自ら変える必要があった。朴うねはそれをやってのけた。賞賛すべきことだ。反日も少しはやわらぐだろう。新しい教科書で育つ子供は、世界観・歴史館がすこしはましになるだろう。

 この国定強化書は、韓国の左傾化にストップをかけ、反日教育に終止符をうつきっかけとなりうる。実にいい政策である。日本の文部省も、あまりに日本の教科書が左になったら、国定化することも検討してはいかがだろうか。

 トルコとロシアの情勢は面白い展開だ。
 ロシアの戦闘機をトルコが撃ち落とした。報復でロシアは、シリアで石油を運ぶトルコのトラックを爆撃した。ISの石油を買うという疑惑をもたれたトルコの大統領は、それら取引に関与していない、と言った。彼の息子がそれをしているというのは有名な話だが。ISの石油をトルコが買うことは、今まで誰も止められなかった。ひょんなことから、ロシアがそれを世界的なニュースにしてくれた。プーチンは策謀家としては、見事だと褒めるべきか。それとも、ロシア機撃墜からはじまりる一連の流れそのものが、こういう帰結になることが必然だったのか。ISの資金源の一つが、追求されることになった。もう一つは湾岸諸国からの支援だが、それはいつ終わらせるよう圧力がかかるのだろうか。

 

 水木しげるは反戦活動家で左翼が好んでとりあげた 2015-12-03

 別にいいと思う。ゲゲゲの鬼太郎も、彼のラバウルの漫画も。得たいの知れない薄気味悪さが満載で。左翼の世界そのものだ。彼らは革命のためには暴力闘争、地下アングラな世界の中に住む。ふつうの市民生活を送りながら、彼らはゲゲゲの鬼太郎と同じく、貧困や差別、内ゲバ、暴力革命、無秩序、人権侵害など社会の暗い暗い側面ばかり見て、暮らす。しかも、普段読むのは、19世紀のマルクスが書いたような古典。

 彼らは、現代の先進的な世界や考え方とは無縁。だから、水木しげるに左翼が親近感を感じるのだろう。妖怪ウォッチをみる子供には、もうわからない世界なのだが。ただ、私は日本昔話のアニメを見たほうだから、妖怪やもののけの世界も、美しく人間的で、平和でのんびりしたものが本当だと思う。ゲゲゲには変な現代性があり違和感があった。鬼太郎や耳なし法一のような怪談じみたものは、あまり健康的ではない。左翼好みだとしても。

 

 哲学の話 -- 共産主義は経営学の亜流 2015-12-03

 共産主義とはいったい何なのか? ずっとわかりにくいものだったが、やっと最近わかった。それは、工場経営の理論なのだ。農民から町に仕事に来て、工場で働く。18-19世紀のことだ。それら工場労働者が町に大勢現れる。そんな彼らが豊かな暮らしをするための、歪んだ方法論なのだ。

 労働者の理論というが、本当のところは、工場経営の一面である。工場で働く労働者の給料や待遇、地位などを書いたものだ。つまり、共産主義とは、18-19世紀の経営システム(労働者の管理を書いた)なのだ。共産主義は経営学の一分野、というのは驚くかもしれない。が、妥当なところだ。古い工場労働の腐った教科書みたいなものだ。18-19世紀の工場の労務管理。

 19世紀や20世紀には工場は花型の職場だった。その経営論は、知識人でも輝いて見えたのだろう。それを少し改善したような体裁の共産主義(一種の経営論)はなおさらだろう。それで、多くの人々が労働者の暮らしがよくなると騙された。現代の経営学からすると、ひどい質で誰も見向きもしないのだが。

 共産主義は、古臭い経営管理論だとはわかっただろうか? 古いできの悪い経営管理論だ。しかし、19世紀には新鮮に見えたのだろう。その共産のシステムで、国家そのものを運営できると革命を起こしたのもいる。しかし、所詮、経営の実務経験すらないマルクスが考えたもの。国家に適用できるほどの一般性もなく、そのシステムの国家は次々と破綻に追い込まれる。かろうじて体裁は保っていたが、1992年にはつぶれた。

 結局、共産主義者がしていたことは、古典的な経営システム(労務管理主体の論)で、社会、国家を統治することだった。それで失敗する。当たり前である。彼らは、経営ごっこをしていたのだから。経営をブルジョワジーの学問として、否定したから、彼らはこの真実にいまだに気づいていない。そこが、愚かである。

 共産主義は経営学ではない、というのには、反論しておく。経営のよしあしを論じるのは、すべて経営の範ちゅうである。それは、経営という分野におさめることができる。つまり、経営学である。共産主義は、経営学の亜流だったのである。本流が成功して、亜流は行き詰まる。これこそ歴史の必然である。

 

 2016年はじめの日本の課題3つ 2015-12-01

 日本の歳入があがらないこと
 各国の歳入のグラフを見た。先進各国は10年で1.5-2倍になっている。が、日本だけはまったく伸びてなかった。これは税収の増加がないことを意味する。ここから改革しなくてはいけない。資料も探して、原因と対策について、また今後考えてみたい。日本だけ、どうして税収があがらないのか。

 日本の株価があがらないこと
 これも日本の特異性だ。ヨーロッパは1992年以後に、3-4倍にあがった。が、日本はその頃から2倍も上がってないと思う。円高も解消されつつある。が、どうして上がらないのだろうか。ここもまだまだ経済政策でなんとかしなくてはいけない課題だ。やがて詳しい分析をしたい。

 労働者不足が深刻と危惧されるが、一方で収入なく貧困が目立つ
 ニュース23の貧困特集を見ると、みな家持ちである。老人や母子家庭が多い。以前は、浮浪者の貧困が目立った。が、それはなくなった。日本の社会保障の向上がみられる。
 それら給料がない。収入がない、と貧困家庭者はいう。が、一方で医療関係では看護婦や医者不足が深刻。介護する人も不足する。日本は労働者不足だ。働くと金が入る。仕事が余っているのに、かたや仕事ができずに貧困である。これはどうしたことか。
 仕事があるのにできないのは、就職の斡旋がよくないからだろう。仕事紹介(職業安定所)が、どうもお役所すぎるきらいがある。貧困者など緊急を要する者には、特別にもっと親身で手厚いものを提供する必要がある。

 彼らが生活保護を受けない者もいる。そうなのは、車を持てなくなるからだとか、自宅を手放さなくなるからだとか、何か生活上必要なものがなくなるからという。生活保護の生活保護の条件が厳しすぎるのがよくないのだろう。それを緩和することが求められる。アメリカのように収入と財産で審査するのが一法。他に、貧困での所持品をゆるくするのが2法。

 生活保護や職安を改良すると、貧困はますます減る。

 

 哲学の話 - 2016年の文明の対立は小規模に 2015-12-01

 2016年は再び、文明の対立だ。パリテロで、ヨーロッパとイスラム過激派の対立は鮮明になった。ヨーロッパはシリア難民など外部の脅威という認識は一致させつつある。今後それは加速するだろう。今は、ヨーロッパ対西アジアという構図が出来た。ヨーロッパ対中東という構図には至ってない。なぜなら、シリア難民とヨーロッパだからだ。イスラム諸国のイランやサウジは遠く、蚊帳の外。

 このペースでは文明の対立にいたる。あの悪夢の繰り返しだろうか。いや、懇意はそれほど大規模ではない。911は、テロリスト集団イスラムのアルカイダとアメリカの戦争だった。その頃は、集団主義(地域主義の)段階だ。テロも集団的になる。が、今は、個人主義の段階。テロも個人の集まり。パリテロのように個別化したテロリストと戦う。これは七面倒だが、脅威としては小さい。

 分散化しすぎるために、911のような同時爆破テロも、規模が小さくなる。戦争自体も、アメリカが国家の威信をかけて、アフガンやイラクをつぶしにかかることにはなりにくい。なにしろ、IS自体がそれほど大きくならないからだ。個人を主体とする組織だから、トップの個人を叩くと、解決するという側面もある。2016年からの文明の対立は、大きな戦争にはなりにくい、といえるだろう。

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