評論 社会主義批判

社会主義批判 基本から応用に

 

自由主義と社会主義の違いを100人の村で考える

大型コンピューターが社会主義、PCの時代は自由主義

 

社会主義批判

社会主義は人に合わない 人は他人の命令で動く動物でない
社会主義も自由の拡大によって発展する
社会主義の終焉


社会主義の失敗1 生産は資本主義より圧倒的に貧素
社会主義の失敗2 統治は民主主義に負けた
社会主義の失敗3 「配分」は資本主義に劣る
社会主義の分配では分配の自由がない

 

社会主義は勝者(共産党)は富を独占し、貧者ができる
現実の社会主義は資本主義より強欲で弱肉強食

社会主義の終わり-資本が集約されても社会主義ではない
社会保障は社会主義的ではない、資本主義に不可欠

社会主義にならない理由-組織形態が非効率

 

個人主義のフランス人が社会主義を好む理由

社会主義は資本主義に負ける理由

国に何もかも依存する社会主義は国民を低能にする

 

究極の社会主義 個人のニーズが監視され、より陰鬱に

リスク分散の観点でみると、社会主義は破綻確実な国家制度

 

 

自由主義と社会主義の違い 100人の村で考える 2016-08-18

 

 社会主義とは?
 100人の村がある。その代表の1人が計画を作り、運営する。他の99人は、その命令を聞いて、働く。残りの99人には何の決定権もない。なぜ、1人だけにしか統治権がないか? 2人いたら、2つのリーダーが統治することになり、村が分裂するからだ。何を決めるのも、1人。だから、独裁なのだ。

  他の99人の主権を奪う社会といえる。100人のうち、1人が王で、99人を奴隷にする社会。100人のうち1人の意志を認め、99人の意志はなきものにする社会である。1人の統治権を認め、99人のそれを制限する。1人の社会的な自由を認め、99人の結社の自由を認めない社会である。1人の資本家と99人の労働者という制度である。

 自由主義とは?
 100人のうち、100人の自由を認める制度だ。100人のうち、100人が好きなことをできる制度である。100人の創造性が社会を発展させる。 日本は、結社の自由が名実ともに認められる。企業や会社を自由にたくさん作れる。よって、日本はけっして社会主義ではない。 さえない経済学者が、『日本は社会主義だ。』と、デタラメなことを言う。社会主義のなんたるかも知らない輩だ。日本が社会主義ならとっくに企業は廃止され、全て国営である。企業があるうちは、部分的にも社会主義にならない。

 さて、自由主義と社会主義とどちらが優れているか?  社会主義は、旧ソ連のように、巨大な不効率な組織である。個人の人権(結社の自由)を奪うことで、成立する。そこで、グループ活動が自由にできない。常に、国家の許可と指示が必要である。国に命令されてばかりいる会社は、必ず破綻する。こんな社会主義国家では滅びこそすれ、発展できない。

 自由主義では、個人は自由に活動できる。会社(組織)を作ることもできる。それら大小たくさんの会社・個人が活躍して、全体的にバランスがとれる。個人個人が創造性を発揮できる。それで成長も早い。社会主義では、中央の目が届かない地方からすぐにさびれた。が、自由主義の国では地方もそこに住む人々が自由によくしようとするから、活気が保たれる。多くの活気ある組織が、国の中にたくさんあるのが自由主義国だ。自由主義のほうが社会主義よりも、優れている。

 

 

 大型コンピューターで管理するのが社会主義、パーソナル・コンピューターの時代は自由主義 2016-08-29

 

 社会主義の効率性の悪さをコンピューターを例に説明する。すべての情報を国に集めて、そこで決定するのが社会主義だ。いわば、大型コンピューターで、国内のあらゆるデータを集めて、判定してゆく。そして、それを、命令系統に沿って、各地に伝えるようなものだ。これは一見、便利に思えるかもしれない。が、中央コンピューターが壊れたり、1つ判断を間違えると国全体が間違えるといったことがあり、リスクが大きい。

 最近、主流のプライベートのコンピューター。PC。こちらは一人一人にコンピューターを与えて、それぞれに情報処理する。判断する。今は、インターネットで世界中のPCがつながっているが、こちらが主流だ。誰も、どこかの大型PCの判断を伺おうとはしない。各自、手持ちのPCに計算させる。そちらが使いやすいからだ。もし、本当に社会主義が理想なら、大型コンピューター1つあればよい。個人は、通線回線で情報を中央にあげる。中央のコンピューターが判断して、命令を個人に送る。という体制になっていたはずだ。個人ごとにコンピューターをもたせたネット社会にならないはずだ。

 なぜ、このコンピューターの一極集中体制は、効率が悪いか? よくないのか?
 様々に考えられる。個別にコンピューターをもたせてると、分散処理できる。これは、効率がよい。宇宙人を探すソチという計画があった。宇宙電波を分析する。大型コンピューターを使うと金がかかる。が、それを100-1000個くらいの作業に分けて、有志のコンピューターでも部分的に分析させることができる。すると、低価格で計算できる。

 全ての情報処理を1つの大きなコンピューターに全部やらせると、膨大な処理になる。コンピューターが高度になるが、フル稼働しなくてはならないし、高機能なものが要求される。それに、国民からデータを受け取る回線を張り巡らさなくてはいけない。こういうことがたいへんだ。また、1つ計算を間違うと国単位で間違うことになり、リスクが高い。壊れたら国家が停止するなどある。またいちいち、書類を中央の書式に合わせる必要があり、面倒なものである。役所手続きをコンピューターでするようなイメージではある。

 社会主義者は、現代風に考えると、大型コンピューターによる支配を夢見ているのだ。昔、映画に1つの巨大な意志をもつコンピューターに人類が支配されるものがあった。あれと社会主義者は発想が同じなのだ。やがて、その意志をもつコンピューターは、暴走して、人類を苦しめ、奴隷(労働者のこと)にする。大型コンピューターによる支配は、必ずそのプログラムが狂った時に、大きなダメージを社会は被る。社会主義国、共産国そのものである。

 まず人間はいくら頑張っても、大型コンピューターになれない。一日に考える物事は多くはない。国民全体が行う多数の「判断」を、国の少数の支配者が全て行うことは不可能だ。というわけで、社会主義は、人間にはそもそも無理なのだ。もし「マモー」みたいな巨大脳があるとできるかもしれないが、本当に実現しても、自由主義体制(小型コンピューターの分散処理の体制)よりも劣ったことしかできない。

 小型コンピューターによる分散処理=自由主義
 プライベートのPCで、各自が判断する。こちらが、人間にあう。人間の頭脳も、小型で、現在の優秀なコンピューターと似たような判断しかできないからだ。人類は、そもそも人間が多数集まる。これと同じシステムは、PCをつなげたインターネットの体制だ。人類社会により近い体制が、分散処理の体制なのだ。社会主義は人間からは遠いのである。

 これはなかなか強靭である。なぜなら、1つが壊れても、全てのPCが停止しない。他のPCが動く。大型コンピューター1つに頼るのでは、それが壊れたら、終わりだ。が、そうではない。リスクに対応する力がある。コンピューターを使う個人が、いろいろ工夫ができる。いちいち、国や社会の許可を受けなくても、自由に活動できる。インターネットは、それで個人の活動の場がたくさんできて、活気あるものとなった。もし、政府管理のネットなら、常に公開されるのは望ましい「国民の声」だけだろう。国の審査を通ったものしか表に出ない。社会主義のメディアみたいな退屈なもの、暗黒になる。
 
 個人用コンピュターのほうが、どうやら使いやすく、優れているらしい、とだんだんと大きなコンピューターは特別な場合をのぞき、使われなくなっていった。このように、コンピューターの世界では、中央処理型の社会主義は駆逐されて、分散処理の自由主義が標準的なものになっていったのである。

 こういうことを思想的に、哲学的にさらりと語ることができたら、社会主義への幻滅はさらに加速されていくだろう。なんにせよ、コンピューターにせよ、社会主義モデルは、ますます非効率であるというのが、現代科学の常識なのである。コンピューターの世界では、社会主義はすでに駆逐された。これからは、人類におけるそれが始まる。

 

 

 社会主義は、生物学的に人間に合わない。人間は自律的だ。人は意思をもたないで、他人の命令に従う動物ではない。 2020-07-16

 

 人間というのは、1人1人が自由に判断して、自律的に行動する。自由主義的である。資本主義的である。人間は一人ひとりが考える葦なのだ。こういう人という動物が集まる社会は、当然、資本主義体制でなくてはならない。それは生物学的に正しい。社会主義というのは、中央の命令を個人が受け取り、それを何も判断しないで行動することだ。それは、肉体と似る。脳だけが判断する。その他、器官は脳からの信号を受け取り、動く。日本共産党が、党員を細胞と呼んだのは、社会主義として、あっている。党組織は中央独裁で、党員には何の自由もなく、自ら判断しないという組織の体質をよく表す呼び名である。

人間は社会的動物か?
 社会を作って行動することを好む。そのほうが効率的だからだ。種の存続として男女は結びつかないといけない仕組みだ。最低単位は2名だ。雄のメスを獲得する争いは動物ではとても激しい。人間はそんなもので闘争を過激に繰り返していたら、エネルギーの浪費だ。それで、男女の結婚という制度で、一度、結ばれた2人に他人が介入しにくくする制度とするのは、合理的だ。これが社会の一つの組織となる。こういう必然があって、社会は形成される。

 

 社会的動物だからといって、1人か少数だけが命令して、社会を動かし、その他大勢は、自分の意思もなく、それに従うという独裁的な体制。それを社会主義の制度と呼ぶ。が、それは、人間には合わない。人間から自由意思を剥奪して、中央政府からの信号に無条件に従うロボットにしない限り、社会主義にすることが、ソ連やカンボジア、北朝鮮のような悲劇となる。人間は、自律的に考え、判断する。命令だけに従うのは、あまり好まない動物だ。

 人間を社会主義の中に閉じ込めると、各自の自由な意思の活躍の場がなくなり、そこから不満が生じる。人は社会主義の中では、耐えられない。社会主義は、よつて、人間は脳を1人1人にもつことから、自然と破綻される。社会主義が潰れるのは、生物学的に必然なのだ。

今日は、ざっとそんな所。

以上

 

 

 社会主義も、実は、自由の拡大によって発展する 2020-07-20

 

前の投稿を分割した。

社会主義も、実は、自由の拡大によって発展する。まずは、社会の意思決定は、中央集権型か、資本主義のような分散型か。どちらが優れているかを、純粋に考えてみよう。

パーソナルコンピューターの時代
現在は、単一の大型コンピューターがすべてを判断する体制のほうが、不効率とわかった。なぜか。大型コンピューターは修正が簡単にできない。個人ごとに違う要求をこなすには、一つの大型コンピューターでするよりも、多数の小さなコンピューターで分散処理するほうが効率的だからだ。

 企業では、1人1人に小さなコンピュターをもたせて、分散型に情報を処理したほうが、安くつくし、全体的に効率的で、そうしている。会社で大型コンピュータを一つ用意して、全ての演算をそれにやらせるようなことはしない。

 大きなコンピューターが一つが全てを判断する場合、それが壊れたら社会が麻痺する。多くの小型コンピューターがそれぞれの仕事をこなしていたら、一つくらい故障しても、影響は小さい。よって、人間を社会的に管理する時、1人1人ごとに情報処理させるほうがよい。必然的に、分散処理になる。

 社会主義(大型コンピューターですべての情報を一括処理する体制のこと)は、情報学の見地から非効率といえる。

 大型コンピューターすら、分散処理する
 大型コンピューターで一括管理するのが最もよいというのは、苦しい主張だ。では、大型コンピュターはどうなっているかみてみよう。実は、大型コンピューターも、様々に内部で分散処理するような設計だ。大型コンピューターの内部には、演算を行う多数のチップがある。大型コンピューターは分散処理の極地なのだ。

 つまり、単一の巨大な意思を作ろうとしても、やはり、原理的にみると、分散処理になる。大型コンピュターすら、効率を追求すると、分散処理になる。個人ごとに自律的に判断させる。その個人が社会を形成する。それがもっとも優れた情報処理の体制、社会であるといえる。大きな社会では、個別に人が判断する体制。各自の判断をうまく集約する社会が優れる。それはすなわち、資本主義、自由主義の社会のことだ。大型コンピューターすら、分散処理。資本主義や自由主義なのだ。

 社会主義は発展するほどに分散処理となる

 社会主義を詳しく考える。社会主義はソ連のように独裁で始まり、最後は官僚社会にゆきつく。それぞれの官僚が個別に判断する。官僚組織では、首相や大統領・書記長が単独で判断しているわけではない。それは分散処理だ。分散処理とは、各自に権限をもたせて、自由に判断させることだ。

独裁国家

大きな組織は発展するほどに、様々に分化する。最初は中央集権的になる。1人かごく少数がすべての決定をする独裁だ。この時、自由をもつのは大統領や書記長だけだ。その他は、命令に服従する。その独裁体制で、国が大きくなると、末端の対応ができなくなる。それで、統治の混乱が起きる。

分権化

 それを回避するために、分権をする。地域や民族ごとの政府を作る。これでまず最初の意思決定(情報処理)の分散化が行われる。この時、一定の範囲で、自由に判断できるのは、地域や国家ごとの代表達だ。それぞれが当初は独裁である。権限を下ろすこと=情報処理の分散化=自由の付与である。

官僚組織

 この次にはしかし、地域ごとに組織を分割しても、トップにいる人が無能ではうまくいかない。財務・経理、生産、労務などの専門家が必要となる。専門家はやがて部門(官僚組織)を作る。ここでは、大きな組織が専門分化が行われる。第2の分化である。官僚には、それぞれの分野でプロとしての自由な判断が許される。組織はさらに、細分化され、専門的に分散処理する体制となる。

 ここで専門家は自分の狭い分野の判断しかしなくなる。いわゆる専門バカは、全体的な見地をもちえなくなる。部分の最適にこだわり、全体的なバランスを欠くようになる。それが組織を歪ませる。

社会主義内資本主義、ソ連崩壊と民族国家の勃興

 それで、官僚組織は解体される。マルチな才能が求められる。専門家が集まって、一つの総合的な判断ができる小さなグループを作る。ここで、巨大組織の内部が、多数の小さな組織に分割される。

 大企業は、小さな会社に分社して、全体のグループを形成する。ソ連では、耐えられずに崩壊して、民族国家が乱立した。中国では、社会主義内資本主義という形で、私有企業を認めた。このように、組織はさらに分割されて、小さなグループが自由を得た。中国は、この体制でおおいに発展した。ただグループにしただけでは、集団内での役割が固定化される。新しい社会問題にすぐさま対応できない。それには、個人が固定した役職や地位につけていては、できない。

個人に自由をもたせる、個人主義やティール組織

 それで、今度は個人が単独でより自由にグループ内を動き回れる体制とする。1人1人が個人事業主のように総合的な判断ができる。それで、お互いにコラボレーションしながら、新しい企画などを実現する。そんな個人の自由を最大限尊重した組織が現れる。これがティール組織というものだ。とうとう、社会の単位は、個人にまで細分化された。その個人には、全ての判断を要求する。これが現在、先端の最も効率的な社会体制だ。ここからは、社会主義は、最終的に個人主義にゆきつくことがみえてくる。

まとめ

 社会主義でも、権限をおろし、末端を自由にすることで発達する。社会主義は内部で自由をより増やし、広げることで、発展することができる。社会主義は、自由主義に近づくことで発展する。つまり、社会主義は、自由主義になることで、役目を終えるのである。いろいろな理由で、社会の意思決定者を単一にする社会主義モデルは、破綻する。社会主義は多様性、自由、人権を否定するいやーなイデオロギーである。それがつぶれて、自由主義に変わる。それこそが社会主義の終焉である。

 

 

 社会主義の終焉 2020-07-23

 

ツイッターに投稿した。7月21日から23日のもの

大野 翼 @tasuku43t 7月21日
資本主義の終焉を待望する左翼は、大きな勘違いしている。ソ連の崩壊で社会主義はすでに消えた。資本主義までなくなったら、イデオロギーがなくなる。社会主義の勝利ではない。左右の社会思想が終わるんだよ。
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7月23日
資本主義の終焉すると?
 社会主義はこない。1992年に崩壊した。資本主義が終わるというのは、自由主義が世界の隅々にまでゆきわたり、これ以上に広がる余地がなくなる、という状態。資本主義が時代のテーマではなくなるということ。資本主義が永遠に定着すること。
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資本主義の終焉すると
 社会主義が消えて、資本主義が時代を主導しなくなると、社会イデオロギーの時代が終わる。近代のテーマは理性。現代は社会。理性はヘーゲルが終わらせた。では社会は誰が終わらせる? 社会思想を完成させる?
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資本主義の終焉
 社会思想を誰かが完成させないと、イデオロギー闘争は永遠に終わらない。かつては西と東、米ソの冷戦。今は中国グループと自由民主主義の戦い。その対立を解決する画期的な社会理論とは?
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社会思想は、いく種の独裁の体制が破綻することで発展した。最初に、ドイツ、日本など軍事独裁国家が1940年代につぶれた。次に、ソ連の共産社会主義独裁国家が1992年に自壊した。次は中国の独裁国家の破綻だ。それはいつになるだろう?
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つまり、社会思想の発展は、社会主義の崩壊によって、生じる。人類に社会主義が残る限り、次のステージに上がれない。人類の次なる進歩とは、中共の崩壊である。中共とは社会主義内市場経済体制のことだ。制限された私権は、人類に必要ない。
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社会主義の反対は、自由主義だ
 20-21世紀初頭にかけて、自由の拡大によって、人類は発展した。民族主義(自治権)、新自由主義などなど。自由が世界を覆い尽くすまで、それは続く。人類は、社会主義を捨て、自由主義を選ぶ。それが成長である。
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社会主義が崩壊するほどに、人類は発展した。1945年に国家社会主義のナチス。1991年に官僚帝国のソ連が倒壊。両国領土で多くの民族が解放された。次は、社会主義市場経済の中共だ。
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失敗した社会主義とは
単一民族支配の国家社会主義ドイツ。多民族支配かつ共産主義のソ連。これから失敗するのは企業支配型の中国。個人を自由にして管理する社会主義が残る。最後のはいわゆる人権を国が管理するタイプ。
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@tasuku43t
社会主義の終焉 最後の社会主義(社会主義市場経済)が死んで、自由が残る。それが社会思想の末期に起きる。社会思想の統合理論の登場で、時代は完結する。
午後6:27 · 2020年7月25日

 以上

 

 

 生産では社会主義が資本主義に圧倒的に劣る - 社会主義(共産主義)の失敗その1 2019-04-13

 

ソ連が崩壊して、共産主義がまったく役立たずな制度であることを人類は学んだ。が、それを完全に理解していない人たちは日本で、いまだに共産革命や社会主義化を性懲りもなく、目指し、徒労。アカと呼ばれる者たちである。彼らはソ連の失敗から何も学んでない。では、共産国家の代表だったソ連は何を失敗したのか? 今回それを確認したい。

一、社会主義の生産体制が失敗した。資本主義に負けた
二、共産独裁が失敗した。民主主義に負けた。
三、物品の配給は失敗した。が、社会主義的な給与制度はまだ完全な失敗ではない。

 私が思うに大きく2つ失敗した。社会主義的な生産と共産独裁の中央集権(民主集中)制である。社会主義や共産社会を語る日本人は、たいていまず『配給』の平等を唱える。それは最後に考えよう。まずは配給するものをいかに生産するか? 生産の体制について、まずは考えたい。共産主義の生産は、無限に発展するのか? しないのか?

一、社会主義の生産体制は、なぜ資本主義に劣るのか?
 共産主義にすると、労働者は搾取されないで、適性や能力に応じた仕事につける。労働の喜びがそこにあり、無限に発展する。これは嘘っぱちで、もはや誰も信じない共産党のプロパガンダである。これに騙されたのは1900年頃にいたが、ソ連が崩壊した1992年以後にいない。共産社会を実際に行うとどうなるか。みなが現実を知ってしまった。

 まず共産国の工場は、年と共に古ぼけてゆき、20-30年もすると使い物にならなくなる。旧態依然とした工場のままとさびれ、廃墟になる。これは必然なのだ。共産主義下で、工場がしだいに動かなくなり、生産が低下して、最後には生産が止まる。それにはいくつかの理由がある。1, 搾取させない 2, 中央集権体制、3, 経営学の否定 3, 計画経済などだ。一つずつみてゆこう。

1, 搾取させない
 最も肝心な理由は、生産施設(資本)のためにお金を出さないのが共産主義だからだ。利益はすべて労働者に分配する。資本のためには一銭も使わない。それでどうやって生産設備を新しくする? 商品を売って儲けた収入。これをすべて労働者に分配する。資本家には搾取させない、一銭もやらない。これは共産主義者の根幹だ。この労働者の強欲さが、生産施設をだめにする。

 元来、工場、生産機械は資本家の持ち物だ。資本家が、利益の一部をそこに回して、工場を改良し、新しく作り、生産を拡大する。機械を買い換えるのも資本家の仕事だ。その資本家の仕事に対して、利益の一部を回すことを、「搾取」と呼ぶ。

 共産主義では、搾取してはならない。資本とは、土地や生産施設などだ。工場を直す、機械を直す、よりよくする。それは資本家がやることだ。そこに商品の売って得た利益を回すことは、搾取にあたる。そういうものに、お金を一切回さないのが共産主義なのだ。

 生産施設にお金を回さない。修理はしたり、設備を新しくするお金はない。生産機械、道具など工場の建物に投資するお金はない。これでは工場のための資金がなく、機械を新しくしたり、修理しようがない。工場や生産設備は必然的に、古くなり、しだいに使えなくなる。

 資本(生産設備や工場)を犠牲にして、労働者が過大に利益を受け取る。共産主義の本質の一つ「資本家の搾取」をゼロにすることで、工場がボロくなる。

 稼いだ利益はすべて労働者に分け与える。搾取の否定とは、工場や生産機械に一銭も使わないことなのだ。こんなことをして、いつまでも生産が続くわけがない。労働者は、自分たちの利益を最大化するが、職場である工場は一つもよくならない。

 設備は次第に古くなり、廃墟のようになる。共産国でみられた工場の光景だ。これは、共産主義、正確には「搾取の撲滅」の必然的な結果である。

 また搾取をなくすと、工場(企業、生産団体、生協)だけでなく、国家もすぐに崩壊することは当然だ。税は搾取そのものだ。税なくして国は成立しない。搾取をなくすとは、社会を崩壊に導く理論なのだ。労働者がぶんどりすぎの理論なのだ。搾取(すべて個人の分け前にしないで、社会の取り分を残すこと)こそが、社会を発展させる。

2, 中央集権体制
 首都モスクワにいる優秀な工場技術者が地方の工場の運営にまで司令を出す。工場は問題が起きたら、現場の従業員が改良して、直して、生産を調整するものだ。現場の人がしないと、うまくゆかない。が、共産党は、工場管理を何も知らない党(元工員か扇動家)が、遠く首都からメチャクチャな命令を出す。工場は、それでは止まる。しだいに動かなくなる。

3, 経営学の否定
 経営管理は、いまわしきブルジョワジーである経営者のしごと。そんなことを労働者が学ぶことは禁止される。いつまでも経営(工場)管理はできない。そんな経営が無能な労働者によって、工場がうまく運営されるわけがない。結果、革命するまで動いていた工場は、管理がいつまでも旧態依然としたままだ。しかも、労働者は元は単純労働者かアジテーター。いきなり工場長になっても、工場管理などできない。それで、工場の経営は非効率で、いつまでも生産性があがらない。

4, 計画経済
 ソ連の計画経済がめちゃくちゃだったことは、多くの本に記されている。作りすぎ。無理な生産ノルマ。それを達成しないと粛清されるから、水増し、統計の不正は保身のために常時、行われた。モスクワからの一元管理は、かなり非効率なシステムだった。計画そのものも、無理なものが多かった。
 1970年台に、社会主義の生産は拡大したというのは、あれはデマゴーグである。ソ連になってから、生産性は落ち続けた。輝かしい生産の実績などない。

 まとめ

 北朝鮮のあちこちで、ロシアのあちこちで、工場は廃墟同然となって残る。中央集権の社会計画経済は、生産体制に向かないのだ。共産国では、ものづくりがあいついでストップ。物不足に悩まされることになる。社会主義の生産体制は資本主義に劣る。これは、明らかである。

 この点、資本主義は、経営者が責任をもって、工場生産をするので、生産ミスがあっても、現場ですぐに修正して、生産を再開できるので、工場は止まらない。収益の一部は賃金に回し、残りは会社の利益にする。搾取と言われようとも工場のために使うので、機械は新しくなり、工場は生産性があがる。しだいに生産技術も発達した。生産力はあがり、生産量は増えて、ものがあふれた。「搾取」ことが資本主義社会を発展させたといっても過言ではない。搾取をなくした共産国は生産を何も発展させられなかったのだ。

 資本主義国はどんどん生産力で、共産国と差をつけた。生産物にあふれ豊かな自由主義国。極貧の共産国。この差は、そもそも計画経済、中央集権体制、つまり社会主義では高度な生産ができないことにある。社会主義は生産体制できわめて劣る制度である。

 これを反省した中国は、生産だけは資本主義を採用して、社会主義内資本主義経済として、生産は民間にやらせた。すると生産力はぐんぐんあがり、総生産で世界2の日本を追い越した。

 生産面は資本主義が圧倒的に優越する。社会主義にすると、生産は悪化するばかり。まずは、当たり前すぎることだが、理解してくれただろうか。

 

 

  社会主義の失敗2、共産党の統治、社会主義的統治(独裁体制)は失敗した。民主主義に負けた 2019-04-21

 

社会主義の失敗には、いくつかある。

一、社会主義の生産体制が失敗した。資本主義に負けた
二、共産独裁(意志決定システム、政治)が失敗した。民主主義に負けた。
三、物品の配給は失敗した。が、社会主義的な給与制度はまだ完全な失敗ではない。

 前回、社会主義の生産、つまり計画経済は劣っていたことを説明した。中国ですらそれを認めて、資本主義の生産に変えた。ベトナムはそれに続き、発展しつつある。今や、社会主義を維持するのは経済崩壊が著しい北朝鮮とキューバくらいだ。それだのに、いまだに計画経済こそが発展をもたらすと信じるのは、よほど現状がわかってない。

 今回は、社会主義の政治体制(意志決定システム)が、そもそも資本主義的なもの、自由な個人による政治体制、民主的なものに劣ることを説明したい。

二、社会主義の失敗とは、共産党の統治、社会主義的統治(独裁体制)は失敗した。民主主義に負けた
 共産国で生産に成功した国がない。1970年の社会主義の計画経済が成功したかのように見えたのはソ連の偽りの宣伝だった。その時にも、生産は事実落ち込み、失敗だった。

 もう一つ、共産独裁という政治体制は失敗する。その理由は、言論の自由をなくすからだ。政策議論が、その社会から消える。党の中枢、奥深くにいる長老だけが、党の政策研究所から上がってきた政策を議論できる。10-20人そこいらのわずかな政治家がすべての政策を決定する。そんな狭い知見だけでは社会の制度がよくなるわけがない。

 民主社会では、社会に問題が発生したら、自由なメディアが告発して、世に喚起する。それで国家内の学者が侃々諤々の論争をして、最善の解決策を探る。それら世論をもとに政治家が、案を持ち寄り、決める。数万、数十万人以上の大勢が関わり、国内の知恵が総動員される。多くの人の見えるところで意志決定がなされるから、歪みも少ない。健全に解決される。人権も保護される。そういう優れた方法で解決するため、社会制度がしだいによくなる。

 が、共産国では自由な個人の意見表明は禁止される。自由なメディアが政策を論じることもない。政治は中央集権的なのだ。そこに民主主義はない。資本主義と民主誌主義とは個人が自由に行動できる点で同じだ。社会主義では、統一体制となるため、一党独裁になる。

 それは隠されたところで、少人数が決定を下す。これでは優れ、バランスがとれた政策を打ち出せるわけがない。賄賂、共産党の特権の保持、権力闘争、利権の保護、党優先で人権軽視が当たり前。共産党ならでは利害も絡む。これで、健全な解決法がとられることはまずない。いびつな解決となる。

 共産国ではこういう歪み、ひずみが積み重なり、しだいに社会制度が鬱屈したものになる。改革が行き詰まる。その度に、大改革をして、新たな試みをする。が、しだいに疲弊する。

 人権など一考だにされないような独善的なものだ。ソ連のように多くは、改革が進むごとに、社会は息苦しくなる。制度も改悪されてゆくため、どんどん行き詰まる。最期に政府が機能しなくなる。ソ連は、そんな時に末端で人の国外逃亡が起きて、制度上、それに対処できないため、とうとう国家ごと倒れた。

 独裁体制は、民主主義に負けたのである。民主集中制は、独裁であり、民主主義に劣る。これも、明々白々である。共産党員でも、さすがに独裁体制は、最悪の政治だという。共産国家の社会制度は日増しに悪くなるのは独裁故だ。これがわからない共産党員は現在いない。

 

 

社会主義の否定 三、資本主義は「配分」が完璧ではない。社会主義の余地が残るのか? 2019-04-25

 

私はこれまで社会主義、共産主義の誤りを説明してきた。

一、社会主義の生産体制が失敗した。資本主義に負けた
二、共産独裁が失敗した。民主主義に負けた。
三、配分はまだ資本主義は「配分」が完璧ではない。社会主義の余地が残るのか?

  社会主義の生産体制(建設)と統治は明らかに失敗だった。が、いまだに社会主義を信望するのは、「配分」が資本主義よりましだろうという。そこに最後の望みを託す。本当は、完全にそれを否定したかったのだが、私はまだその理論をかけてない。しかし、もうこの事を考えるのが飽きてきたので、今あるものは、明らかにする。

三、配分はまだ資本主義は「配分」が完璧ではない。社会主義の余地が残るのか?
 昨今、アメリカで格差が広がる。お金持ちはどんどん金持ちになる。株式投資をする人達は、大金をもつ。が、中下層は、働いて賃金をもらうが、なかなか賃金が上がらない。仕事も機械、人工知能にとられて、数が減る。金持ちはさらに金持ちに、貧しいものはずっと貧しい。中間層が減る。

 ここから、格差の是正を訴える者が増えた。また賃金の回復見込みがないため、下層にベーシックインカムを導入しようとする動きも強い。これらを見て、社会主義の到来だと、うれしがる全共闘が本当に多い。全共闘世代は、社会主義を『分配』でまず考える。

 『生産』のほうは明らかにソ連は悪化して失敗したから、考えたくもないのだろう。生産面で計画経済の失敗を人類は学習した。「生産」で社会主義に逆行して、企業が国有化することはもはやない。

 分配について、共産国の共産党員以外は人民等しく極貧より、資本主義社会はまだよい。が、まだ貧者がおり、豊かな生活を国民の誰もが享受するわけではない。格差、貧困などがあり、資本主義社会の豊かさを国民全員が受け取れる体制ではない。そこは、まだ改良できる。

 分配とは
 大きなケーキを6人に分けると、6つに切り分ける。それが分配である。食べ物などを人数に応じてわけ、与えることだ。単純に、平等な分配とは一人一人に同じ量を分けることだ。
 しかし、老若男女、体格のがたい人もいれば、小さな体の人もいる。平等な分配は、実は理想ではなく、適切でもない。子供に大人の量のものを与えるわけにはいかない。人ごとに必要な量は異なる。それを適切に判断して、そういう与えるのが、平等よりも適切な分配である。人に応じた分配である。

 人に応じた分配は、子供や大人など必要な食事量で決めるのも一つの案だ。他に、能力で決める分もある。一人でたくさん乳搾りができる酪農家には、より多くの牛を任せることができる。能力で決める分配もある。例えば、部下を10人管理できる人には、それだけの部下を与える。何十人といる人を統率できるならば、会社の経営を任せられる。これは統率力、リーダー力による分配である。才能があると大会社では管理職になれる。

 分配には2種類ある。1, 個人が消費する分 2, 社会資本だ。

 1, 個人が消費する分の分配
 まずは本人が必要とする分の分配だ。基本は食べ物、衣服、寝床である。高度社会ほど必要なものは増える。現在では、スマホが一人に一台もたせる家庭が多い。PCを一人に一台もつ。個人が消費するものだ。だいたい「分配」という時には、こちらを多くの人が考える。

 2, 社会資本の分配
 もう一つは、社会的なものだ。田畑は、管理できる能力に応じてもつ。部下の人数も統率力に応じて。また社会的な地位も、国家官僚、地方官僚、公務員の役職も政策、事務能力などに応じる。

 資本主義社会の場合は、まずは民間企業は、金を儲けて、そこから社会的資本を得る。それは収入に比例して多くのものを受け取る。マネー社会では、所持金額に応じた分配となる。資本主義社会では、自分で会社を作ったり、買ったりする。が、こちらはマネーか、能力に応じて、社会資本が配分される結果と等しい。

 資本主義の分配の問題とは

 資本主義社会では、働いた分、生産量に見合った分配がある(受け取る)。「働かざる者食うべからず」という考え方は資本主義的根性だ。不思議なことに、全共闘はここを勘違いしている。彼らが幻想する社会主義では働かなくても全員が食える。働いた者だけが食うことができるのは資本主義だ。が、彼らはこのセリフを愛用する。全共闘は自ら労働して対価を得たことを誇りに思う。そして、働かない者を罵り、そういう。が、その時、彼らは彼らの嫌うブルジョワの価値観にどっぷりつかっていることを自覚していない。また資本家はより多く手にする。それ自体は悪くはない。が、過剰になる時は問題となる。

 参考 労働者だけが賃金を受け取る社会とは
 労働者だけに賃金を与える社会では、働かない者は生きていけない。文明が進んで、障害者など働けない者を養えるにもかかわらず、何も与えないで死に追いやる。働いた分だけ。より多く受け取れる。弱肉強食の世界だ。これは自由主義の過激な考え方だ。

 働かない者、賃金をもらえないもの、非労働者にも、同じ社会の一員として認め、生きるためのものを与えようというのが、福祉の思想である。福祉の考え方は、資本主義だろうが、社会主義だろうが、存在する。孤児などを国家が保護するだけでなく、民間の奉仕はあるからだ。

 この問題を解決するのが、国家による分配である。生活保護は、労働者だけに賃金を与える制度ではない。働かない者にも、一定の給与や支給は行う。働かなくても生きていける。

 賃金という分配
 工場で商品を作る。その売上が会社の収入だ。このうち、機械の費用、人が働いた分、そして、材料費などある。収入が100万円として、材料費が30万円、機械の費用が30万円、人件費は20万円とする。利益が20万円である。4人働いたとする。経営者は別にいて、1人とする。給与は、20÷4=5万円だ。経営者の収入は20万円とする。
 経営者の収入は今後の投資などにも使うので、すべてを本人の給与とみなすことはできない。が、ともかく手にする。売上のわずか5%しか1人は得られない。これを少ないとみるか、多いと考えるか?

 最近では、人件費は売上の10-20%未満が多い。なぜこんなに少ないか?
 漁師や田畑を耕した者は、収穫分だけ収入になる。これは賃金の割合が多い。昔は、売上の大部分が収入になるため、働いた分だけ収入が入るという実感があった。

 ただし猟のために銃を買ったり、田畑に肥料を入れたら、それは経費として、収入から引く。コンピューターを買ったり、土地や店を借りたりすると、さらに経費がかさみ、収入は減る。

 賃金が減るのは機械化のせい

 社会が高度になるほど、一つの商品を作るのに、たくさんの道具・機械を使う。その分、人の仕事が減る。個人の賃金も減る。完全自働化の自動車工場は、作業員は監視や調整などをするだけ。人件費の割合はさらに小さい。人件費=賃金である。賃金が減るのは、機械化のせいである。人の仕事が減ったからだ。今後はAIが登場して、プログラム作りまで行い、医者、弁護士などの仕事も多くはできるようになる。

 給与は減る。これは資本家や企業家による搾取ではない。そもそもほとんど働いていないのだ。人の仕事が減って働いてないから、給与が少ない。それだけのことだ。これは現在の日本では当たり前のこととして受け入れられる。

 共産主義者の強欲さ
 全自働の工場で、機械の運転を監視する労働者が売上を全部よこせと主張しても、通るわけがない。が、共産主義では、そういう厚かましいことが書かれてある。製品を作ったのはすべて労働者のおかげだ。売上はすべて労働者によこせみたいなことが書いてあるのが、共産主義なのだ。資本家は搾取している。工場で作った製品の売上は工場労働者にすべて分配されるべきだと。雇った人に売上のすべてをとられたら、会社はつぶれてしまうではないか。共産主義者は強欲すぎる。

 現在の社会は機械化が進んだ。労働者はそれほど製品作りに関わってないことは自覚できる。昔でも製糸の機械の大きな工場では、人の労働が少ないことは知っていたから、そこから売上を全部、働いた者によこせ、という主張はできないとわかった。よって、共産主義者の主張には、かなり無理があることは、働いた人はたいてい理解した。

 共産主義の「搾取」に騙される人、もっと給料をほしいがためにインチキな考えに飛びつく人

 

 工場で働いたことがない青くさい学生はわからない。それで騙される。労働価値は、正確には工場における「労働者がつけた付加価値」のことだ。衣服を縫う人は、縫った分のみ。衣服を裁断した人は、その分のみ。そのうちの何割かだ。会社が用意したミシンやはさみなど使用した分は会社のものだ。

 労働者は、少しでもたくさんもらえたらうれしいので、どんなおかしい論理でも、給料がそれで上がるようなら、飛びつくワルはどこにでもいる。こちらは確信犯である。共産主義はそういうあくどいのか、生産を知らない青くさいのがひっかかった。

 ここで言いたいのは、昔は、機械の比率が少ないので、それをわざと無視して、すべて労働者が作ったものだと強欲なことを主張しても、多くを騙せた。が、今では、そういうことはない。ほとんど機械が作り、労働分は少ない。当然、取り分も多くはないと、理解できるのだ。

 多少か、かなり経営者が多く利益をとっている。俺たちにもそのくらいを少しよこせ。そのくらいの不満にしかならない。経営者を倒して、工場そのものを奪い取ろうとは考えない。機械化があまり進んでない時代でのみ、共産主義の横暴は生じた。

 機械化が進んだ現代では、人件費が下がる。
 総賃金がGNPの何%かを考えると、どの程度、機械がやっているかがわかる。文明の機械化率である。機械化が進むと、人件費の比率は下がる。賃金がどんどん少なくなる。やがては、働いた分に応じて、給料を決めるという制度では、収入が十分ではなくなる。それで、労働者が貧困になる。

 利益はどこにゆくか? 資本家の懐にゆくか? 正確には、機械の維持費に使われる。ほとんどの収益は、機械の維持、改良などもろもろの費用がとってゆくのだ。

 新しい機械を入れて、その利益が出るまでに、経営がたいへんだという話が多い。世の中、労働者が貧しいのは経営者が儲けているから、と単純に考えるのがいる。が、現実は、機械に使っているのだ。経営者は、新しい機械を入れた。そのために借りた資金を銀行に返済するために四苦八苦しているのだ。日本の中小企業の多くは、このあたりで苦しんでいる。

 現代は、資本家が儲かるのではなく、機械に金がつぎこまれる

 労働者のライバルは、経営者ではない。機械なのだ。労働者にゆきわたらないお金は、機械に使われているのだ。機械が金を食う。機械が利益を奪う。経営者も、余裕がないことが多いのだ。投資(機械、工場への)、投資に、お金がゆくのだ。

 労働者が貧しいのは、会社が利益を機械につぎこむからだ。それをやめると、労働者のほうにお金が回ってくるのだ。会社が労働者に投資するようになると。しかし、それをすると生産効率があがらないので、会社はいずれ生産性が低いままであがらず、倒産する。労働者は、生産性を問題にするな、というが会社は生産性が死活問題なので、下げるわけにはいかない。

 一部、機械を最新のものにして、うまくやった企業は多くの収益をあげる。それで、一部、企業家の中の勝者が、大金持ちになる。それでもって、格差が進むというのは、分析が足りてない。

 会社のお金の大半は、機械に回る。それが人件費低下で、格差が開いた原因なのである。資本家が特に、儲かったわけではない。儲かったのは機械なのだ。機械に意志があるとしたら、今頃、俺様の天下と思っているだろう。労働者を端のほうにおいやった。これを社会資本の増大という。

 人工知能の台頭
 人のかわりに機械やAI(人工知能)=コンピューターが働くようになった。彼らは事務作業ができる。それまで人間にしかできなかった検品作業などもできる。いろいろ分析もできる。複雑な動作もできる。全労働のうち、機械の比率がさらに増す。

 その分、人の労働が減って、総人件費が下がり、一人あたりの給与が減る。全自動の自動車工場では、工員が少なくてすむ。昔は、チャップリン映画のようにたくさん組み立てに働いていた。人件費の比率は、5-8%くらいの職業もあるのだ。労働が人から機械に置き換わることで、それがさらに減る。

 この給料の低下は、資本家が搾取しているからではない。今、そんなあほなことを言うのは、よほど働いたことがないニートだ。人工知能や、機械にお金をとられたのだ。労働者の敵は、機械や人工知能なのだ。それで人ができるような単純労働、最近では知的労働すら、機械やPCが仕事をするようになった。それで庶民が貧乏になっている。賃金はどんどん減る。その分、機械のためのお金が増える。

 では、なぜ資本家が儲けているようにみえるか?
 会社は機械や全自働の工場、人工知能を所有する。その会社は資本家がもつ。よって、資本家が総取りをしてるいように錯覚される。それが、資本家だけが巨大な収入を得ているように思われる理由だ。

 が、実際は、会社の経営者と会社は収入が別だ。経営者の給料は決められている。会社の収益を、個人の収入とすることはできない。だから、社長が多くの収入を得ても、さほどではないのだ。本当は。ゴーン氏が頑張って10億とか稼いでも、それだけではさほどの収入にならないのだ。アメリカの格差は、数百億という話だから。社長が儲かっても、さほどなのだ。

 が、社長が会社を売ると莫大な収入が入る。機械など、会社の資産全部を、現金にすることだからだ。現在は、機械化が進み、会社は資産がどんどんふくれあがる。それらすべてを金にすると大金となる。アメリカで会社を作って、売ると数百億が手に入るというビジネスが最もお金が入る。また社長が株を所有すると、株はそのまま企業を所有することになるので、株の収入も巨額となる。資本家が儲かるのは、おもにその2つである。

 では、この格差とは何か?

 社会資本をもつ者は、お金が増える。賃金しか収入がない者は、下がり続ける。しかし、社会資本で得た大金は、社会資本に大方使う。株で得たお金は、株に使うように。さほど、個人の消費に回らない。資本家が現在、金持ちなのは、社会に流れるお金(公金に近い性質のもの)を得ることができるからだ。方や労働者は、賃金相応の少ない金しかもらえない。それは個人の消費に回る。 

 で、社会資本に使われるお金は、公金と同じなのだ。本人の消費には使われない。資本家が数百億、数千億をもっているとしても、彼のお金(彼が消費する分)は、案外そう多くない。彼らは金持ちだが、実際に彼が自由に自分に使える額はそう多くないのだ。せいぜい数百億だ。けちな金持ちなら数億だ。このことはまず知っておいたほうがよいと思う。

 国家の歳入、企業の会計について、自分のもらう給与と桁が違うと文句を言うのは、やや筋が違うのだ。金持ちは、「公金」と「消費分の金」をもっている。貧乏人は「消費分の金」のみ。これで格差を計算し直したほうがよいだろう。

 今日はここまで。

 

 

 社会主義の分配では分配の自由がない 2019-10-16

 

社会主義の分配の問題点
  近年、格差社会となり、ロボットが仕事を奪い、貧困が増加する。その解決策として、左派が社会主義の必要性を叫ぶ。しかし、彼らの主張は、使えないことを今回、説明したい。

 社会主義の『生産』はあまりに非効率
これまで社会主義の生産は、資本主義に决定的に劣ることを示した。庶民や末端労働者の創造性やアイデアは、まったく生かされない。彼らには生産の自由もない。中国も生産においては、資本主義を取り入れて、発展した。もはや、社会主義の生産と資本主義のどちらがよいかは、資本主義でないとダメなのは明白。それを改めて語るまでもない。

 今回、社会主義の分配を否定する
 まず考えられるのが、ソ連が失敗したような一律の公平な分配というものだ。大人と老人も同じ分量を受け取るので、多い所も少ない所も生じる。この過剰や過小すぎることで、無駄が起きる。しだいに誰も求めてないものを配給するようになる。中央が調査して、配給するものを決める。国民、市民の複雑なニーズに対応できなくなる。こういうことはよく理解されている。

 また一律の給与では、何をしても同じ給与がもらえるので、働く意欲が低下することも、実証されている。これらソ連や中国の失敗、社会主義の分配の第一の問題はよく理解されている。社会主義の分配は、単純ではうまくゆかないことはもはや常識だ。なぜ、そんなものが格差社会の救世主になるのだろうか。いささか疑問である。

 神のように正確に分配する社会主義は、窮屈

 日本ではいまだに、『神のように正確に分配すると社会主義のほうがよい』とか、と性懲りもなく社会主義を信仰する輩がいる。これからそれを反駁する。神のように複雑なニーズにも対応できる分配が社会主義でできたら、それのほうがよいか? 社会のあらゆるニーズを神のように拾いあげ、国が配給すれば、失敗しないといまだに幻想をもつ者たちはいる。具体的に考える。

 資本主義ではこういう流れとなる。家で、夫が味噌汁を飲みたくなったら、母に作ってくれと頼む。母親が用意すると、食べられる。これは味噌汁の分配だ。最初に、ニーズが発生する。そのニーズを提供する母が知り、母は味噌汁を生産して、夫に与える(分配)する。

 これが社会主義ではこうなる。まず夫は国に、味噌汁を飲みたいと訴える。国はそのニーズを受信して、許可する。そして、味噌汁の材料を家に送り、それを妻が受け取って、妻は味噌汁を作る。それを夫が飲む。社会主義になると、今までなかった仕事を一つする。一度、国の許可をとらなくてはいけないのだ。あらゆるものを細部にまで神のように管理する場合は。

 情報や物の流れを見ると、夫→国→配給部署→妻→夫と、国を通す手間が入る。資本主義では、夫→妻→夫ですむ。さらに国家の許可をとらなくてはいけない。これがとても面倒なのだ。要は無駄が多く、非効率だ。非効率なものが理想なわけがない。

 情報や流通の効率性から考えると、社会主義は、なんでもかんでも国を通さなくてはならない。とても不便なものとなる。また流通の効率が悪い。一端、国に集めてまた個々の家庭に配分しなくてはならないからだ。分配とは、いかに分配するか。つまり、流通の問題に置き換えることができる。

 以上から、神のように細かいニーズまで国が見出して、配給する社会は、すべてにいちいち国家の許可をとらなくてはならないので、不効率甚だしい。そもそも、小さな家庭で自己完結する経済活動に、遠くの国家が介入することは、これもまた無駄である。

 最近では、神のかわりにAIがそれをしてくれると考える人もいる。AIが進歩したら、人間の細かいニーズに対応できる。その社会主義では、不満が出ないだろう、というのは安易なのだ。すべての分配において国家に監視される状況になる。すべてにおいて国の許可をとらなくてはいけないことだ。それは、実に非効率だ。

 あらゆる点で上司の許可をとらなくてはいけないのが、官僚組織だった。その手続の煩雑さによって、官僚組織は破綻した。分配も社会主義にすると、何でも国の許可をとらなくてはいけないので、その非効率性によって破綻する。

 また社会主義では、配給の自由がない

 これがどれほど窮屈か。自分の家で作ったものは、すべて国に没収され、国から支給されるまで、使えない。あらゆる細部まで国に管理されたら、庭で作った柿すら食えなくなるのではないか? 国が中央集権的に、生産も分配も決めていては、よくない。

 一度、家庭でやってみたらよい。妻が独裁者となって、夫の小遣いの使途を決めて、その金額のみを与えればよい。これぞ家庭が社会主義になったような状況だ。妻が、小遣いを夫に分配する。

 自由にお金が使えないことを夫は嘆くだろう。会社の経費であるまいし、と。社会主義の分配など、実際にこれまで何度も行われてきた。ソ連でも中国でも。そして、最終的に、その分配制度では、国民生活は窮乏するだけとわかった。社会主義の分配は失敗する。これはもはや常識である。

 次に格差社会を社会主義にしたら解決する、という安直な提言を否定する。まず社会主義にしたら、格差が解決する、という時、共産主義を想定していない。共産主義では、労働に対して正当な対価だ。格差社会の解決として提案された社会主義は、働かない人にも生きる権利分のものを分配する。分配の理由に、働くかどうかはまったく考慮しない。社会主義という名はついているが、共産主義の労働をもとにした考えとはまったく異なることを、理解してほしい。

 この社会主義は、貧困者に無料で与えよという理論である。確かに、貧困者に、生活保護以上の十分な給与をばらまけば、貧困は一時的に解決する。社会主義だから、解決するわけではない。バラマキだからだ。産油国では、教育も医療も無料だ。お金があれば、貧困に起因する問題の大半は解決する。社会主義の制度だから、解決するわけではない。お金が解決している。

 ただし、お金が解決するのは、ここまでだ。共産主義でも、革命をおこして、資本家からぶんどったものを共産党員で分け合った時は、貧乏活動家の彼らに富が集まったのだ。が、その後、経済は革命のときに破壊されたまま、そのまま生産力は落ち込み、どんどん国家は貧しくなり、最後に破綻した。

 ただでお金をばらまけば、格差がすべて解決するわけではない。貧困が一時的には解決するだろう。が、その社会は、持続的に発展できるか。それが問われる。社会主義にして、市民にも一定の高い給与を与えたソ連は、その後、しだいに没落した。そういう持続性がない制度では、解決とはいえない。人類の文明の停滞・退化の始まりとなる。それは、解決ではなく、悪化をもたらしたといえるものだ。

 無料でお金を配れば、格差が解決するか? その社会は持続可能か? 現在の社会よりも発展するか? これらを達成して、はじめて格差社会の解決といえる。このうち最も大事なのは、最後の課題だ。現在の社会よりも、その新しい体制のほうが劣るならば、そのバラマキのベーシックインカム社会は退廃するだろう。それだけは回避しなくてはならないのだ。

 この社会主義では、国は中央集権の計画経済にしない。純粋な社会主義ではないので、社会主義と呼ぶのは語弊がある。無料でお金を政府が貧困者にくばる、せいぜい社会主義的というのが適切な言い方ではないか?

 新しい希望を託された制度はベーシックインカムという。この新しい社会主義は労働しなくてもお金はもらえるよ、という理論で、べーシックインカムだ。

 それを実施すると、一時的に格差は解決するだろう。が、共産主義国が市民に高い給与を与えて、これまで失敗してきた。韓国は最低賃金を引き上げて、産業の空洞化を招いた。高い給与を与えても、生産力がそれにおいついてなかった。フランスも最低賃金が高いせいで、ドイツに負けて、かつての国力は落ちている。国民に高い給与を与えた時、成長が落ちないか。それが長期にわたり持続するかが大問題なのだ。

 経済実体に見合う額かどうかが、厳密に大事なものとなる。つまり、国家の生産力に見合った金額を国民に与えることが大事なのだ。生産力以上にお金をあげると、会社の労働者が売上をすべてもってゆくだけでなく、会社の資産まで食いつぶすようなことになりかねない。それでは次の生産がない。

 社会の成長を阻害しないような分量で、貧困者にお金を与えなくてはならない。これ以上のことは、ややこしいので、また考えよう。格差社会は、社会主義の単純な分配をしても解決しない。と、ここで理解していただければ幸いだ。

 

 

 社会主義のほうが勝者(共産党)は富を独占して、貧しい者が作られる 2016-08-20

 

  資本主義国は一般的に、金持ちはとことん金持ちになれるが、下のほうは無一文に近くになる。これは、正規分布の割合となる。金持ちはいるが、中間層、下層もいる。そういうパランスとなる。だからといって、下層がひどいわけではない。生活保護があるから、社会主義国の配給よりはましな生活をおくることができる。

  共産国は、共産党員が財産を持ち、富を独占できる。が、人民は国家に全ての土地など奪われているため、どう頑張っても貧乏人である。こちらは、党員だけが贅沢三昧で、人民が必ず、半永久的に貧困となる。仕事にありつけた人は、給料はもらえるとしても、それは共産党員以下である。共産党だけが特権階級で、人民との格差はなくならない。

  なお資本主義は強欲というが、社会主義は、制度として共産党に富が集中するという制度としての強欲さがある。どちらが悪質かはいわずもがなである。社会主義のほうは、国民の資産を没収するほどに強欲で、悪質なのだ。なお資本主義は、資本家が多数いないと成立しないから、多くの金持ちや資本家がいる。そのため、平均的に富が分散される。よって、貧困層の分前も多い。

 社会主義国は、国家(共産党員)が富を独占する。個人が多くの資産をもつことは禁じられるため、それらを市民に回すことはない。だから、配給など人民が受け取っても量が少ない。貧困層が受け取る分量を比較すると、やはり社会主義国のほうが理論上、小さくなる。 どちらがひどいか? それはもちろん共産国である。共産党員は、国家のあらゆる資産を独占する特権階級である。資本主義のように、例え金持ちでも、国家の何%の資産を保有できない体制とは、独占度の桁が違う。

  北朝鮮の金王朝は、宮殿のような家に住み、料理人を持ち、北朝鮮各地に別荘を持ち、まるで王家のようだ。エリート共産党員は平城のアパートで何不自由なく、贅沢な暮らし(あれが贅沢なのだ)ができる。地方でも配給はもらえ、足りなければ、人民にいちゃもんをつけて、まきあげることができる。

 人民は、食料配給も止まり、飢えて暮らす。家にほとんど何もない。しかも市場も時々、閉鎖される。この共産党員と市民との格差の大きさは、日本にいても想像もつかない大きい。

  中国の政権の主要メンバーは、蓄財に励む。賄賂が当たり前で、何千億、兆と一族でためこむ。幸い、資本主義経済にしたから、成金が育ってはいるが、まだ給与も低い。資本主義経済をとりいれる前は、市民は国営の会社に努めなくてはならず、その給料だけで生活していた。党幹部と人民との格差は、大きい。

  ソ連は賄賂は禁じられていたが、共産党員は優遇され、特権階級だった。市民は配給のパンもなく、それを求めて並ぶ時もあった。ソ連などは一代限りなので、さほど金持ちにはなれなかった。としても、共産党という唯一の勝ち組が、富を独占したその強欲さは、資本主義を超えて、国家全体の不平等(共産党員とその他の格差)にまで至っていた。

 このように支配者層がどこまでもリッチになり、最下層がとことん貧困になるのが、社会主義である。それは階級として固定され、一生続く。例えば北朝鮮では、反逆者は『収容所』に送られる。社会主義の最下層は、政治的な犯罪者、思想成分、もしくは生まれ(日本にいた者、党員の子)などで決まり、それが変わらない。

 資本主義では、例え貧しくなっても、生活保護を受けられ、社会主義国よりもましな暮らしができる。さらに、やり直すチャンスはある。 どちらがよいか、どちらがひどいかは明白だ。資本主義のほうが貧しい者もよい生活ができるし、抜け出せる。社会主義は、貧しい者はとことん貧しい暮らしを強制され、抜け出せない。

  社会主義においては、最下層は配給を受けられる、というが、現実は嘘である。思想犯罪者として、収容所に送られ、配給などは受けられない。社会主義のほうが格差は大きくなる。ぜいを極める共産党階級と人民の格差は、広がるばかりである。北朝鮮のように。


 貧困者にとって、資本主義と社会主義とどちらがお得か? 

  資本主義における原則論で話す。資本主義では、貧困になっても本人の働きしだいで、抜け出せる。貧困層も『資本』をもつことができるから、金持ちになれる。が、社会主義では、貧困層は『資本』をもって、市場で稼ぐこともできず、永遠に貧困層のままである。社会主義では、貧困層が固定化する。

  北朝鮮の例を出す。共産党員は、全国の畑で作った食物を配給で優先的に受け取れる。だから、飢えて死ぬことはない。人民は配給を受け取るしかない。が、それが時々止まるから、飢えて死ぬことが多い。 もし、市場経済(市場)を出すことが許されたら、そんな飢えた人民も、市場で交換して、食べることができる。が、北朝鮮はそれを何度か禁じたため、それもできなかった。非党員はいつまでも、貧困層なのである。また出身成分が調べられるために、共産党員になれるのは特別な家系のみである。

 そもそも、社会主義における最大の利点である『国家による生活保障』。実は、それがかなり貧相である。日本では10万円に医療費がタダである。北朝鮮では、配給は停止中だ。たまにあるようだが、実質月に5000円くらいだろうか。中国では、社会保障があるのかすらわからない。日本左翼はやたら中国を持ち上げるから、もし最低限の生活のために配給など贅沢にもらえるなら、必ず『中国は下層にも夢の楽園だ』と、夢幻のような宣伝をして、持ち上げる。が、そういう話を聞かない。よって、あったとしても雀の涙くらいだろうか。

 社会主義国では、下層も生活保障が受けられる、というが、住居や医療費はただ(実際は中国でも金がかかる。)といっても、実さいは資本主義国よりもひどい代物だ。そんな『詐欺まがい』の宣伝に騙されてはいけない。 社会主義では、政治(食料生産)の失敗が国民の命を奪う。が、資本主義では、このように市場などでものを売買することで、国民は生き延びることができる。資本主義は、計画経済の失敗を補うことができるから、その分、優れている。

 戦後の食糧難の時も配給だけでは、飢えて亡くなる人があとを立たなかった。が、闇市(資本主義のこと)があったからこそ、食料を手に入れて、それで飢えをしのぐことができた。配給だけでは、人間は生きることはかなわないこともある。よりよい暮らしができないのである。社会主義だけでは、計画がよく失敗して、その度に、食料生産は行き詰まり、人は死ぬのである。資本主義は、それら者達を救うことができる。だから、資本主義のほうが優れている。つまり、社会主義が崩壊した後に、資本主義が始まるのである。

まとめ

 社会主義になったら、住居と医療がタダというのは偽りである。最下層もそれなりの暮らしができる、というのは間違いである。社会主義では、党員と人民との格差は、天と地ほどにも開く。国家全体の富を独占する共産党という特権階級より金持ちはいない。その他は、何ももてない市民なのだ。資本主義を導入していない北朝鮮やキューバの貧困さは、社会主義の典型だ。 資本主義をやめて社会主義にすると、貧困層もよい暮らしができる、というのは嘘である。社会主義の配給よりも、資本主義国の生活保護のほうが、よいものをもらえる。 

 

 

 社会主義のほうが資本主義より、強欲で弱肉強食。現実の社会主義は貧困層にやさしくない 2016-08-20

 

  資本主義の誤解--弱肉強食なら、資本主義と社会主義とどちらが、不平等か?

多くの社会主義者は、よく資本主義をこう批判する。『資本主義社会は弱肉強食で人間の欲望により、勝ち組は豊かになれる。負け組は貧困層に落ちる。勝者が富を独占して、豊かになる。敗者は貧しくなる。逆に、社会主義では、貧困層にも配給が与えられ、最低限の生活は送れる。』という。 これは詭弁である。

 わかりやすく説明しよう。

  資本主義においては、『その弊害、特殊なケース』を話し、社会主義では原則論を持ち出し、社会主義のほうが貧困層にはよい、と思わせるのはインチキだ。実は、社会主義は、人間の欲望がうずまき、弱肉強食の構図がよりひどくなる。社会主義のほうが貧困層にやさしくない。資本主義は勝ち組が豊かになり、敗者は貧しくなる。これは弊害の1つである。が、残念ながら、資本主義に特有の話ではない。社会主義のほうが、これは過酷に起きる。

  日本の社会主義者は、視野が狭く、資本主義社会にのみ起こる格差と思っているようだ。が、社会主義国のほうにも、勝者が富を独占して、敗者は貧しい暮らしを強いられる。実際に、ソ連、中国、北朝鮮で起きた。社会主義者のほうが、資本主義よりも欲望、独占欲、権力欲が強く、勝者は利権を独り占めにできる。それが、国民から資産を没収することができる社会主義なのだ。そして、敗者や庶民にほとんど与えようともしない。社会主義とは、勝者(共産党)だけが甘い汁を吸い、敗者(人民)は残りカスをわずかに与えられるシステムなのである。

 ソ連の共産党幹部は年収も多く、よいアパートを割り当られ、贅沢に暮らした。が、市民は配給のパンをもらうために何時間も並ぶほどだった。特に、中国と北朝鮮では、共産党員かどうかで、待遇に大差がある。中国の共産党員は半端無く金持ちで、兆の財産をもつ大物も多数いる。が、人民はそうではない。主要なポストは共産党員が占めて、残りの安い賃金の仕事などが人民に割り当てる。地方などはほとんど何ももたないで、穴居人みたいに原始的な暮らしをする者も数十年前までいた。北朝鮮のエリート党員は平城に住み、平均よりかなりリッチに暮らせる。が、人民は、地方で飢えるしかない。

  社会主義には『弱肉強食の世界はない』というのは間違いである。社会主義の弱肉強食は、資本主義よりも過酷である。勝ち組の共産党員は支配者として君臨する。そして、国の中のあらゆる富を収奪して、独占する。彼らはわずかに市民に配給して、住居などに回す。共産国では富の集中は、資本主義よりも大きくなる。よって、共産国の特権階級である共産党のほうが、富をより多く独占する。

 共産主義の支配者達の欲望は、資本主義の比ではない。また格差も資本主義よりも大きい。社会主義では、下層はとことん貧乏な上に、自由もない社会主義では貧乏人が下層ではない。もっと下がいる。闘争に敗れたか、思想が問題にされた者が最下層だ。彼ら敗者は、全ての財産を失って、収容所に送られる。長期間そこで暮らす。北朝鮮でもソ連でも、中国でも収容所はたくさん作られた。

  社会主義では最下層にも配給があって、人権は保障される、というのは真っ赤なウソだ。最下層は、人間として扱われることもなく、一切の財産をもつことも許されない。持てる者と持てない者との格差は、このように、社会主義においてもとことん大きくなる。共産国では、その強者の支配は苛酷さを極める。

  どちらがより格差があるか? 資本主義国と社会主義国と、どらちにも『弱肉強食』はある。どちらがひどいか、という比較をしなくてはいけない。資本主義社会では、強い者が富み、弱い者が貧しくなる、と話す時は、社会主義でも、原則論ではなく、同じケースで話さなくてはいけない。

 

 

 社会主義信仰の絶滅の時 --- 資本が集約されても、社会主義ではない (融資制度の巨大化と効率化) 2016-08-23

 

  日本の左翼がもっとももっと間違えているのは、資本を集約して、統一したら、それで社会主義になると思い込んでいることだ。 彼らは、資本主義というのは、資本家や金持ちなどに資本を分散させること。それを全部集めたら、実際には強制的にとりあげたら、社会主義になるだろう、と思っている。

 

   これは勘違いも甚だしい。お金をただ一箇所に集めても、社会主義にはならない。というのは、現在も、企業は自分でたんす預金する以外は、銀行にあずけている。お金は必要な分以外は、ほとんど、大手銀行にすでに集まっているわけだ。銀行はたくさんない。4-20くらいか。それを1つにまとめても、あまりたいした違いはない。だから、既にお金はかなり集約されている。が、実際の日本は資本主義なのである。

  企業にとってはお金はどこから借りても大差ない。国家の計画とは関係なく、自らの意志で事業が自由にできると、自由だ。これが資本主義の基本だ。経済学者で、時々、いる。『資本』だけに目をつけて、資本を分散させるのが資本主義だ、資本を集約すると社会主義だ、みたいに言うのが。それが間違いなのだ。

 社会主義でも、国家事業ごとにお金は回るのである。よって資本は国営会社ごとに分散される。資本主義との違いは、銀行など民間のお金か、国家のお金かの違いしかない。そういう意味での資本の集約である。 しかし、資本主義は、民間の企業や個人が自由に活動できる体制なのだ。資本(マネーのこと)のありか、出処は別にどこでもかまわないのである。国から借りても、銀行から借りても、自腹でも。

 資本主義とは、経営の自主権を持たせる体制なのだ。資本(ここではマネー)の出所が国か民間かはあまり重要ではない。ここがなぜ大事かは、次で説明する。 社会主義信者というのは、個人がそれぞれ持っていたお金は、いずれ1つに集まると思っている。資本の統一、というやつだ。多くはそれを根拠にして、社会主義になると言う。経済学者が陥りやすい錯覚である。

  お金が1つに集まるのは、社会の効率上の必然である。国家で大きな事業をする時は、一度国に大金を集めなくてはならない。大きな事業ごとに、社会からお金を集め、そこに回すシステムがあると、便利だ。今でもそういうのは、銀行の融資、ファンドなど多くある。それが、さらに効率的になると、もっと大規模にお金が集約されて、それがそれぞれの事業に回るようになるだろう。

 地球規模の事業はいくつかあるが、薬の開発、宇宙事業など、一国だけではお金が足りない。世界からお金を集めて、それら大事業に回すシステムが必要となるだろう。AIIBは当然、それは無理だが。この果てに、国家、いや世界統一的な融資制度がみえてくる。このように『融資』制度が巨大化して、さらに効率化すると、同時に融資の煩雑さ、手続きの面倒臭さ、リスクなども解消されるだろう。資本主義の進化の必然といおう。

  社会主義者はここで勘違いする。これは社会主義に近づくことだ、と。それは違う。全く違う。社会主義とは、個人や企業がもっていた自由権(経営権、自主性、権限、自主権)がなくなり、国家に統一されることだ。国家の命令や計画に従うことだ。国家という1つの主体の計画にすべての事業者が従うことだ。

  が、この資本主義が進んだ社会では、経営権は何一つ企業から奪われていない。個人が起業する権利も制限を受けてはいない。いまだに自由にできる。さらに、設立資金(資本)が得やすくなって、自由にな活動しやすくなっている。民間は、いまだ健在なのだ。資本主義がより活発になっている。 資本を集約しても、現在、そういう流れにあるが、社会主義に退化しない。資本の集約は、資本主義の発をもたらす。銀行が巨大化して、統一されても、社会主義にはならないのである。おわかり頂けたであろうか?

 

 

 社会保障は社会主義的ではない、資本主義の発展のために不可欠な制度である 2016-08-24

 

 社会保障は資本主義の発展のために不可欠な制度である。総賃金が低くなって、一人あたりの収入も減った。こんな時に、個人保障をして、最低賃金などを与え、『社会主義政策』をしよう、とのたまう人がいる。実は、これは社会主義でもなんでもない。資本主義の充実というものだ。多くの日本人は間違えているが、『富を分散させること』は社会主義の本義ではない。単に、社会主義にするとそれが可能になる、という架空の話だ。

 真に社会主義になるとは、個人の自由や私有物をまきあげて、企業も国が取り上げ、国が全てを没収して、一元化することをさす。個人の私有物、財産、貯金、資産が何もかもとりあげられる。社会主義になる時は、必ず国民は貧乏になる。だから、みな財産や土地をもつ国民は、嫌がるのだ。

 一部もたない人だけが、その国が接収した分を、あとで一人ひとりに分けてくれと幻想をもつ。社会主義者は、そうやって嘘をついて国家による私有財産の没収を正当化する。が、騙されてはいけない。現実は、共産党がとりあげたら最後、2度と国民にそれらが回ってくることはない。彼らが管理して、わずかに国民が飢えないよう配給がなされ、路頭に迷わない程度に、貧弱な住居が割り当てられる。共産党員だけが、独占して、その国有財産を好き放題に使う。

 社会主義とは支配者になる共産党員にとっては、夢のような楽園である。が、その他、大多数の国民にとっては、誰もが貧困になる最悪の国だ。北朝鮮、カンボジアなどはそうだった。ベトナムやキューバは今でもそんな共産党トップ以外は誰も豊かにならない極貧体制だ。社会主義は富を分散させない。これが真実である。『全ての所有物は共産にする』というのは嘘だ。共産党員の取り分が8-9で、国民の取り分が1-2なのである。平等な社会ではない。

 社会主義とは、公平な分配をする制度ではない。個人の自由を奪い、独裁を行う制度をさす。それが定義なのだ。基本、国家の持ち物を個人に分配して、個人の私有物にするのは、資本主義的なことであって、社会主義的ではない。

 個人の保障は、資本主義のシステムである
 個人保障は、社会主義者の偽りの『平等分配』で起きることではなく、資本主義の必然である。というのは、資本主義下では、個人が自由に活動する。それで、社会の生産性を最大に引き上げる。そんなシステムが必要となる。
 一人が飢えて、住居もなく、野宿をしたら、一人の活動の損失である。貧困者はお金がなくて遠くに行けないし、食い物が少なくて、活動も落ちる。そんなに国民が貧そでは、資本主義の理想、個人が自由に活動して、最大の成果をあげる社会になれない。

 脱落者が負数いるような資本主義社会では、効率が悪い。例えば、1/2の乞食がいる資本主義社会では、生産力が半分に落ちるだろう。それでは、資本を分散させ、個人に自由を与えた効果がない。彼らに衣食住を与えると、1/2の貧困者は自由に働く。国の生産力もあがる。資本主義では、当然、そのような政策を行うだろう。だから、一人一人を保障することは、資本主義的なのだ。

 基本的に、資本主義では、個人や私企業の自由活動を高める施策を行う。よって、個人保障や義務教育は必然なのだ。人権の保護は、個人の自由を基本とするから、自由主義からくるものだ。社会主義国では、教育がとりあげられた。教育を受けない者達が続出した。個人の自由度を高めることは、社会主義では敬遠される。個人保障も、人権も、自由も、義務教育も、資本主義社会の政策なのだ。

 ここでは、リバタリアンの発想は使わない。個人が自由に活動して、全ての責任を負う。貧乏になっても自力ではいあがるべき。国から保護を負う受けるべきではない、という考えだ。これは国家論ではなく、哲学である。国家論で自由主義や資本主義という時は、この発想は使うべきではない。なぜなら、リバタリアンでは、国益を最大化するという国家目標が抜け落ちるからだ。最低限の管理になり、無秩序に近くなる。

 資本主義というのは、個人の生き様をうたうものではない。国家が、個人を自由にさせるか、自由にさせないか。どちらが国にとってよいかを考え、個人や起業を自由にさせたほうが国は繁栄すると、資本主義を選ぶ。当然、国益の最大化が資本主義の課題だ。それで、アメリカや日本の経済政策者は悩んでいる。

 自由主義や資本主義は、国家論の一部であるから、国の繁栄が目標となる。リバタリアンは人間としての生き方を説いたものであり、国家論にはなりえない、国策になりにくい。最近、個人保障の範囲が広がっている。ベーシックインカムが国民投票にかけられた。あれは、社会主義な政策と思ってはいけない。あれは、個人が自由に活動する度合いを高めるための要素なのだ。つまり、資本主義的な政策とみなすべきである。

 逆に、社会主義は、国家に集中させるために、個人の権限を奪い、その活動を低くする。社会主義なら、個人保障も資本主義同様に可能だ。とはいえ、資本主義では、その制度の延長として、行う。が、社会主義では、その制度の目的(独裁と集中)には、反する制度である。社会主義の目標は、全ての富、自由、言論、資産、金を個人から奪うことである。個人の資産は少ないほうがよいのだ。国からはできるだけ個人に与えない。それが社会主義だ。個人保障も最低限にされる。

 が、資本主義では、個人の活動性を高めるために、個人保障は最低限ではだめで、より多くしなくてはいけない。個人保障の充実は、資本主義の発展を左右する。試写会保障は、実は個人の人権を最大に高めるもので、個人の自由をあげるという資本主義的な政策なのである。

 

 

 永遠に社会主義にならない理由-社会主義は組織形態として非効率 2016-08-27

 

 永遠に社会主義にならない理由。 経済学者は社会制度に疎く、国の予算が増える度に、社会主義に近づく、いう。その無知なんとかならないか? 資本主義というのは、自由に活動できる会社があること。独裁でない体制をさす。『権限』、『権利』など自由の有無で、決める。日本はれっきとした資本主義国で、将来においても国民の自由は奪われない。だから、永遠の資本主義(自由主義)である。社会主義に今後、人類がならない理由を1つ、今日は書く。1、社会主義は組織効率が悪い。

1 社会主義は効率が悪い  --社会主義国では、人間の行動に大きなムダがある
  自由主義と社会主義との競争は1950年から本格的に始まって、1990年頃に共産ソ連の自滅で終わった。ソ連の生産効率があまりに悪すぎて、アメリカや西側諸国とあまりに差がついて、とうとう倒れた。社会主義というのは命令を一元化することで達成する。党の命令に全国の党員や人民が従う。それは中央集権体制だ。社会主義が発展するほどに、その一元化する範囲が広がる。生産だけではなく、言論、文化、教育、生活の細部にまで及ぶ。

  完全な社会主義ほど、あらゆる分野が中央集権化される。例えば、社会主義の末期にはこうなる。人が食い物をもらう時に、人は党にどこからもらわなくてはいけないかと尋ねる。人が何か行動する時も、共産党に尋ね、党が与えたスケジュール通り行動しなくてはいけない。こういう人間のあらゆる決断を共産党が支配してゆく。これが社会主義の究極である。人間に脳などいらない。それは共産党本部にだけあればよいのだ。社会主義の未来はこういう『共産党=脳』と『労働者=ロボット』というブラックジョークのような世界となる。

 実際にはどうなるか?  行動するたびに、毎回電話で共産党にお伺いを立てる。共産党の命令をもらう。究極の社会主義だから、こんな未来でよい。本人が自分で判断すればよいことも、中央の指令を受け取る。人間は自主性が許されない。全てにおいて国家の許可か、指令をもらわないといけない。実に、この人間は、これは党に電話をかける分だけ、命令系統が非効率である。

 自分の頭で考え、行動する。自分だけで完結する動作。それをわざわざ、一度、共産党の命令を聞くという余分なプロセスが追加されている。そこがムダである。 社会主義国におけるこういう忠実な人民は、組織論ではなんというか。『完全なるイエスマン』という。社長の命令をだけ実行する社員。で、これを続けると会社は、思いもよらない事態が起きた時に、社員は誰一人対応しないので、つぶれる。ライバル会社をつぶすための手法、とよく言われる。共産国をつぶすために、スパイが潜入しなくても、勝手に潰れてゆくのである。

  自由裁量権を、部下や中間層、末端に与えないと、そんな集権的な組織はやがてつぶれる。が、社会主義では、それができないために、組織形態として非効率なのである。 人類は、特別の理由がない限り、より効率のよいものを使う。社会主義はどうも効率が悪い。個人が行動する時に、いちいち国家にお伺いを立てるというムダがある。自由主義体制のほうは、誰もが自分で決定できる。だから、1つの余分な手間(国家の許可)がなく、明らかに効率がよい。だから、選択肢として、21世紀の現段階、もはや社会主義はもう『社会制度』として選ばれない。今後も、未来においてもそうだろう。

 

 

 個人主義のフランス人が社会主義を好む理由 2016-05-08

 

 フランス人の個人主義が、なぜか社会主義にゆきつく。それはなぜか? 彼らは合理的に物事を考える。フランス・エリートは人をすぐに管理したがる。それで社会主義に偏りがちである。が、フランスでの社会主義は、個人が自由きままにやっていることが、前提だ。そのため、どうも規則を決めてもフランス人は誰も従わないから、うまく機能しない。フランス発の社会制度が多くは杜撰で、日本であまり採用されてないのは、そのためだろう。

 

 

 社会主義は資本主義に負ける理由 2016-05-23

 

 社会主義は全体主義の薄いもの。社会イデオロギーには大きく2種類ある。冷戦で戦った社会主義と自由主義だ。社会主義が敗北して、自由主義が勝った。社会主義とは、個人の自由は捨てて、社会全体がどうすべきを最優先で考える。国家の計画が第一だ。共産国家は、国家がやることに個人が文句は言えない。もし、個人が歯向かおうものなら、社会秩序を乱すとすぐに刑務所に入れられる。計画が大事であって、彼らは個人を大事にしないからだ。

 そんな社会主義はなぜ失敗するか? 簡単だ。国家中枢の少数の権力者が全てを決めようとするからだ。もし完璧に社会運営をすると、失敗しない? そんな程度のことしか言えないのか? だから、社会主義は失敗する。

 不親切な書き方だ。説明する。共産圏では、独裁者達が人民の平和(冷酷な秩序の維持のこと)と幸福(配給の実現)のために思案していた(北朝鮮のような体制維持をしようとしていた。)。一方、自由主義陣営では、政治家も自由と民主主義の発展のために、自由の放送や共産国からの侵攻から世界を守っていたのは、ケネディなどで思い出せる。他にも、企業が社会貢献しようと、作家や芸術家、学者など社会の多方面で、自らの創造性を開花させた。そして、社会をどんどん豊かに発展させた。アメリカのハリウッド映画、明るい演劇、テレビでの新しい生き方がどんどん創造された。

 共産圏では、エリート共産党員が労働者の理想というフィルターで多くの自由芸術を否定して、最低限の暮らしを人民に保障していたことと、大きな違いだ。ソ連は最低にしか発展できなかった。社会主義では、完璧な計画を作り、それを完全に実現できた。が、ソ連が得た果実は西側諸国の豊かさと較べて、僅かだった。技術も文化も科学すら発展しなかった。しだいに西側と東側で圧倒的な差がついて、それを埋めるために、西側諸国の科学を盗むことしかしなくなって、研究開発能力はさらに低下して、自力発展はますます遠のいた。

 自由な活動を禁止して、彼らの技能や才覚の成長を停止させ、人的資源が日々、乏しくなる社会主義国では、いくら計画を完璧にしても、その衰退は止められないのである。その原因は何か? 創造性の差だ。共産党エリート官僚の頭は、確かに独裁国家を運営できたかもしれない。西側が、国民全体で自由に活動して、新しいものに挑戦して、新しいものを作り上げること。両者は創造性の質と量が違う。

 共産主義みたいなインチキな社会論を信じる頭は、たかが知れている。それを否定してさらに進んだ社会論を研究できる西側の人間たち。最初から差はついていた。社会主義における人民全体の『無限の創造』が自由主義において、先に実現してしまっていた。人間は制限しなければ、自ら成長するものである。そして、新しく得た創造性を発揮する場があってこそ、さらなる進化することが可能なのだ。その個人の実権場、社会的な挑戦を極限にまで禁止したのが社会主義だった。だからこそ、社会主義、いや共産主義は負けたのである。

 国民全体が創造性を発揮する体制と、それを制限して国家の一部エリートしか創造性がない体制とでは、創造性の量が違い、その差は歴然。瓶の底に水がわずかにたまる社会主義。瓶全体に水が満ちる自由主義。発展性が少ない国が、発展性が多い国に、どうしても勝てないのである。社会主義を終わらせて、社会主義では禁じられた個人の自由を採り入れなくては、社会が発展しないのである。だからこそ、社会主義は自由主義に劣るのである。
 
 社会運営さえ完璧にしたら、社会主義が自由主義に負けない、といまだに寝ぼけたことを考える人は、共産主義と共に消えてしまう、というお話である。

 

 

 国に何もかも依存する社会主義は国民を低能にする 2016-05-21

 

 権利とは何か? 人権がある、と左派は主張する。その権利とは何か? 日本の学校では正しいことはけっして教えてくれない。神様から与えられたものだとか、人権は普遍的なものだとか、あいまいなことは教える。が、人権のなんたるかもわからないし、権利とはどうして生じるか、という基本的なことも理解しない。だから、権利が無制限にあるかのように思ったり、権利が消えることも理解しない。

 いろいろ哲学・思想を調べてようやくみえてきたことをまとめる。権利とは、『その組織に影響を与える能力。それを行使する特権である』。最もわかりやすい例は、株主である。会社に資金を提供したから、発言権や経営に影響を行使する力をくれと要求できる。権利とは、経営に参加する能力をもつことでその特権である。権利とは、契約に定められたことを要求する権利のようだ。

 50%以上の株をもつと、経営参加の能力をもつとその会社を支配できる。これは民主主義とかわらない。が、50%といわないまでも、数%の株をもつだけで、それに応じた影響を与えられる。日本国を株式会社とすると、国民は1億2000万人いる。国民は1人は国を動かすことで、1/1.2億の株(能力)をもつ。国民は国に対して、そんなわずかな影響力をもつことができる。これが一票の価値、国民の参政権の限界である。投票権ではこれ以上の価値はもてない。なぜなら、倍の権利をもつと、1人が2人分の投票することになるからだ。

 国民は金も払ってないのに、どうして国に対して、そんな特権が与えられるか?  税金を払っているからか? これは厳密には違う。5人の友達がいて、5人で仲良しクラブを作る。囲碁したり、野草を摘みにゆき、遊ぶ。そのクラブが何をするか。1人1人の決定権は1/5となる。国も、1億2千万人の国民が総意で作り上げたものだ。役人には、個人が依頼して社会の運営や維持をやらせている。それで、国民は権利を国に影響を与える権利をもつことができる。国は日本人の作った社会だから、その成員は権利をもてる。

 ここまではたいていの人は知っている。さらにつっこんだ説明をする。まず、個人は1人で生きていく時は、あらゆることをしなくてはならない。家づくり、襲撃から身を守ること(戦闘)、食べ物の栽培などなど、子作りも。これは、全ての権利を他人に明け渡していない人である。この人物は、国家に所属してはいない。国に対して、何の権利ももっていない。そのかわり、自らを守り・戦う能力(軍隊・警察)をもち、子育てや老人を養うこと(福祉)などあらゆることを自分でする。あらゆる生きるための能力を停止して、他人に譲り渡してはいない。これは、完全な権利を自分に対してもつ個人である。

 さて、こういう人が集まって、村を作った。その村は隣村からよく襲撃される。この村の成員はその村から守られる。それは戦闘・防衛しなくてもしても、得られる権利である。なぜか? 1人で生活しても、防衛・戦闘することができる。自分を守って生きることは、必要だ。それが多数集まっても、その社会は構成員を守って、生きてゆく必要がある。社会としての存続がかかっているからだ。別に、個人が特定の能力を社会に預けたから、かわりに守ってもらうという場合ではない。

 が、そういう考えもある。国が代行する。が、個人ではできなくしているものがいくつかある。現代国家では、国民1人が他人に復讐して、罰することはできない。法律に基いて国が罪人を罰する。個人は経済的な損失だけを取り戻す。国民は、物理的な報復の権利を捨ててしまったのである。また正当に罪人を罰するというその判断すらも放棄して、それを国(裁判所)に任せる。国は、警察を使い、犯人を捕まえる。裁判にかけて、適正な罰し方を決める。そして、刑務所で罰する。

 個人で復讐で行うことは禁じられている。代わりに国が行う。こういう制度では、国民は、悪人を罰するように国に求める権利がある。自らできることを禁止して、国に任せる制度でも権利が生じる。この考えの究極は、社会主義国家である。個人は、自分ではなにもしない。親の介護はしない。悪人をやっつけることもしない。食料の生産もしない。病気の治療費も払わない。なにもしない。

 子供を家庭で教育できないし、自由に食料生産はできないし、自由に魚とりもできない。復讐はできないし、老人を自ら介護しない。自分ではそれはしないで、国にたのみこむ。かわりに、国がそれをする。子供は教育が義務となり強制される。老人介護も国に頼む、社会福祉も国にやらせる。社会主義国では、個人がすることを禁止する所もあるが、禁止しない所もある。どちらにしろ、国民は自分でしないで、全て国がやる。

 国がやるのが国の責任だ。我々にはその権利がある、と訴える。自分たちはそのために、それらができない。それを国に任せたのだから、と。国民は自らなにも出来なくなる。無能化するほどに、権利は増え、国の仕事が増える。自助努力しないと、こういう『権利』要求だけが盛んになる。彼ら国家に依存する社会主義者は、完全な権利をもつ人間からは、もっとも遠い人間である。能力が国によってどんどん奪われ、なにも自分でできなくなった哀れな人間なのだ。社会主義国の人間は不幸である。自分で物事をする喜びが国によってとりあげられた。いや、それをする。行使しない。彼らには、国家がすることを国民個人で行う自由がない。

 なお、権利は仕事を依頼することでも生じる。それは多くは金銭と引き換えである。お金でサービスを依頼する。すると相手はそのサービスを行う。依頼者はサービスを受ける権利がある。金持ちほど多くの権利をもつことができる。貧乏人ほど権利は小さい。また才能がある人ほど多くの金をもつから、権利ももてる。ここも大事だ。人権は貧乏人のためにあるかもしれないが、権利は金持ちがうんとたくさんもっている。

 貧乏人ほど権利は少ない。彼は悲しいかな、人頭分の権利しかもてないのである。貧乏人のほうが権利が大きいというのは錯覚である。貧乏人ほど、国からたくさん保護・支援を受ける。貧乏人はそのため権利(人権)が多々行使されるから、目立つ。が、実際は彼らのもつ権利は少ないのである。国家に保障される範囲だけである。金持ちは、お金で様々な権利をさらに獲得できる。

 最近の国家の問題としては、貧乏人が権利、権利と騒ぎ立てることにある。そして、彼らは、自らなにもしないで、国に任せきりになる。国に人権をを要求するとはそういうことだ。自分の能力の放棄をあからさまに宣言しているのである。そう思うと、哀しい人間たちである。国に任せるほどに自分達の活動がとりあげられ、自らの行動範囲が狭くなることに、自覚がない。以上が私が今、考える権利論だ。ホッブズの『リバイアサン』からヒントを得た。

 

 

究極の社会主義は、個人のニーズが何から何まで監視され、より陰鬱 2014-11-22

 

社会主義の究極とは? それは資本主義である
 あらゆる個人のニーズを監視・調査することができるようになると、そんな技術ができたら、適切に配給することができる。そしたら、社会主義の失敗を克服できる。この配給方式になるのが理想だ、という間違った主張はいまだきかれる。これが、共産主義の最後の砦のようだ。この論をつぶそう。

 もしそんな時代になっても、資本主義がなおも終焉を迎えることはなく 永遠に続く。なおかつ、社会主義より優れていることを示そう。上のは、正しく配給することができたら、社会主義は崩壊しない、というだけの発想だ。個人のニーズに即したものを配分し続けたられたら。そしたら、無駄もない、という。これが理想というのは、間違いである。究極の理想の社会主義と、発展途上の資本主義と比較するのは、一方だけ理想、片方は現状。そういう比べあいは不公平である。片方が理想ならば、他方も理想で、どちらがよいか、と比べるのが正しい。

 これに対して、資本主義ではどうなっているか? そもそも究極の資本主義では、自由に人々が欲することができる。この理想は、そのニーズが満たされる状況である。つまり、資本主義の理想では、個人のニーズに応じたものを受け取ることができる。つまり、社会主義の理想(社会配分の究極)=資本主義の理想(社会配分は適切)と一見同じなのである。

よって、資本主義は、共産主義に何も劣ってはいない。また共産主義が、資本主義を超えることもない。共産主義は、この理想を達成するまでは、個人が自ら必要に応じて物品を受け取る資本主義のほうには、かなわない。すなわち、共産主義はずっとずっと資本主義より劣った社会計画を行い、最後の最後でようやく追いついたかのようにみえるわけだ。

 社会主義の究極では、全人類のニーズを測定しうる大型コンピューターのようなものができて、それが個人のニーズを的確に知り、そんな配給をする。それは完全な社会主義で、失敗はない、とかつて共産主義者は、その理想を信じていた。これが実現すると、社会主義のすばらしさがわかる、という。しかし、これにはもう一つの側面があるのだ。自由意志はどうなっているのか? という問題である。

 配給はそれで失敗はないだろう。しかし、その時、社会主義では、個人がやるべきことは、誰が決めているのだろうか? 人間一人一人が自由に決めているのか? それとも中央に位置する巨大なコンピューターが個人の仕事を決定しているのだろうか?

 上の配給だけは上手な社会主義では、当然のごとく個人の自由意思などとうてい認められない。そもそもほしいものは、中央が決めている。それを与えている。当然、物品だけでなく、仕事も中央から回すのである。すなわち、それは中央のコンピューターが、個人の行動を決定している。恋愛相手すら、国が決めて出会いの場を提供してくれる。もちろん結婚相手すら国が選んでくれる。あらゆる個人のニーズを中央のコンピューターが計測して、満足させてくれるのだから。

 こういう究極の社会主義の社会では、仕事は個人が自由に選べない。国が用意してくれるのだ。学校、大学も好きに選べない。国が適切なものを選んで入学の手続きまでしてくれるのだ。すなわち、個人の自由は細部にいたるまでなくなってしまう。職業選択の自由はない。あるのかもしれないが、国が本人が選ぶより先に、適切なる職場を提供してくれる。国家計画なので、個人が選ぶまで待ってくれないからだ。

 また恋愛、結婚が自由もない。表現の自由はあるかもしれない。が、国が先に書くべきことを指定してくれる。個人の食べたいものや服装や生活用品を事細かに知っている中央コンピューターなら、書きたいものの理解して、教えてくれるだろう。いつも先手を打たれ、指定される。表現の自由はあっても、自主的な決定権はなきに等しい。
 つまり、個人の自由意志はあっても、自発性はないがしろにされるのである。これは、どんな社会だろうか? 究極の社会主義では、個人のあらゆるニーズ(食欲、性欲、恋愛欲、表現する欲望、仕事、宗教)は、中央コンピューターに知られ、それを指定され、提供されてしまう。すべての個人活動において国家強制がなされる社会といえる。
 確かに飢えない乾かないかもしれない。しかし、すべての人間活動は中央コンピューターに監視され、そこに自発的な個人の自由はないのだ。

 資本主義の理想では、こうも不気味にならない。個人の自由はすべて尊重される。個人がほしいものが、手に入る。結婚も恋愛も、宗教も思想信条も、自ら自由に決めることができる。自由の尊重が基本原則だから、国家がいちいちそれに介入してくることはない。

 やはり究極の社会主義は理想というよりも、より陰鬱といったほうがよい。この理想を目指し、市民の監視を強化したのがドイツやソ連だった。常に、官憲やスパイが目を光らせて、個人の動向を監視している。配給の理想は達成されなかったが、そのほかの面では、政府が個人のニーズのすべてを知り尽くしたのである。そして、人間が自由に活動しなくてはいけない分野が、国家の管理下になった。じつに生きるのも完全な監視社会になったのである。

 社会主義の理想は、それに近づくほどに、それは国家により統制が個人のあらゆる範囲におよび、息苦しいものになる。それが真実なのである。
 究極の社会主義は、国家にあなたの生活・行動・思考にいたるまで、すべて監視された上でこそ、成立する社会なのだ。ほしいものが的確に手に入る、配給に無駄はない、という一面だけを見ていては、全体が見えてこない。それは個人の自由・権利があらゆる面で侵害されるそら恐ろしい社会なのである。そこではあなたはどんなことも見逃さない中央コンピューターのいいなりになるしかないからだ。

 資本主義の理想はそうはならないのである。個人の自由は永遠に保障されるからである。資本主義には終焉はこない。大型コンピューターが現れて、個人のニーズをたとえ知り、それを満たす配給システムができた、としても、人間は自由意志を捨ててまで、それを選ばないからだ。永遠に個人の自由を保障する社会(資本主義社会のこと)にとどまるからだ。

 さて、問題はここからである。資本主義の理想では、個人がそれらを所有している。共産主義の理想では、それら物品は名目上、社会のものだ。この所有の違いは、大事だ。

 いくら社会主義でも、個人に物品を配分した時から、それは個人のものとなる。結局は、個人所有を認める状況となり、それは資本主義なのである。社会のあらゆる物品が、適切に個人に与えられるわけだから、それはもう社会主義ではなく、個人の所有を原則とする社会= 資本主義社会なのである。

 理想に近づくほど、社会主義は国家による独裁や独占がなくなり、適切なる配分が行われる。中央の権限を下に委譲する。そう理想になるほど、それは所有(権限)が下層にばらまかれ、市民が所有権を得て、資本主義社会の様相に近づくのである。

 つまり、社会主義の理想とは、実質、資本主義なのである。これが、本質そのUである。中国はそのことを実践した。社会主義の閉塞を打開するために、資本主義経済を導入して、共産党の独占をやめて、市民に分権化して発展した。国家がいつまでも権限を独占していいては、社会が硬直するだけである。社会主義の発展においても、分権化が必須で、やがては資本主義同様の、人間個人や個人がものを所有する組織が中心となった。社会主義の発展では、必然的にそのような資本主義社会に似た体制になるのである。何も中国共産党が、間違えたわけではない。

 社会主義が終わり、自由主義にいたる。そして、その資本主義体制は永遠に続く。それが真の発展段階論である。

 

 資料 格差大国・アメリカの後を追う日本 (日経サイトより)

 

 

リスク分散の観点でみると、社会主義は破綻確実な国家制度 2015/3/12

 

 組織形態でみると、資本主義と社会主義の違いは、明確だ。社会主義は企業がなく、国家組織一つがすべてを運営する。つまり、単一組織だ。資本主義は国家が一つですべて行うわけでない。多数の企業が活動する。それは大きな組織の中に、多数の組織がいる形態だ。

 

 その違いの根本は、数だ。国家に一つの組織しかない制度を社会主義という。二つ以上(寡占を禁じるから少ないより多いほうがよい)の組織があると、資本主義となる。そう区別できる。これが正しい定義なのだ。その他の経済主体うんたらは、附属的なものでしかない。

 この優劣を考える。
 巨大な一つの国家組織がすべてやってしまうと、どうなるか? トップが一つ間違えたら、この社会は全体が危機に陥る。食料分野を一つ間違えると、もう数割は飢える。北朝鮮のように。それを複数の組織がやると、どうなるか? 一つの組織が間違えても、他がうまくやれば、なんとか、最悪の事態は免れる。無数の組織がそれをすると、どうなるか? 誰かが多少間違えても、食料の問題はうまく行われる。食料は不足しない。つまり、一つの組織に任せてしまうよりは、多くの組織にやらせたほうが、その国家は生き残る、繁栄する可能性が高い。

 これはリスク管理の観点だ。一社に生産を委託するよりは、10社に依頼する。すると、リスクが分散される。これが、資本主義が絶対的に社会主義より優位なところだ。このリスク分散の体制は、人類は放棄しない。よって、社会主義の制度は致命的な欠陥があるから、人類は採用しない。よって、資本主義の体制は未来永劫つづく。

 生物学では、このリスクの分散をよく研究している。種の多様性という話だ。たとえはこんな話。箕面の滝の側に食い物がたくさんあり、猿の群れがそこだけに集まる。ある日、そこの食べ物がなくなったら、その猿の群れは全滅する。そこ以外の場所で、食物をとる猿の群れが別にいるとしよう。万が一、箕面の滝の食い物がなくなって、箕面の滝の猿は全滅しても、他の猿は生き残る。このように、組織が多様性をもっていると、生存する率が高くなる。

 社会主義は、国に一つしか組織がなく、独裁的だ。一つの方向性に全体が進む。そのため、環境がある日変わったら、それで全滅するリスクが高い。資本主義は、多数の組織が別々のことをしている。そのため、リスク分散している。いろんな可能性がある。それで、環境の変化にも強い。資本主義では、社会が生き残れる。社会主義はあまりに一色になりすぎて、環境変化に弱い。柔軟性がある資本主義のほうがよい。

 創造性の観点からは、この二つの組織にはどういう差があるか?
 資本主義と社会主義の差が最も大きいのは、この創造性だ。一つの巨大組織が、政府中央ですべて決定する体制が、社会主義だ。国だけでなく、市場や企業・個人が自由に決定できる体制が資本主義だ。この二つの体制では、その社会が採り入れる創造性の量に大きな差が出る。

 まずは社会主義。官僚やトップは、日々国中のことを調べ、それを計画する。彼らと政府お抱え学者がアイデアを出す。だが、一般個人や企業は、計画を実行するのみ。創造性は使わない。わずか、政治家や官僚など数千人の知恵で、一国が動く。

 そこでは民間の創造性は、まったく無視される。それを社会で活用することは禁止される。それが社会主義の原則で、企業や個人で商売などしてはいけないためだ。この社会ではトップや政府が進歩の原動力となる。しかし、創造性の量は少ないため、わずかしか進歩しない。政府は豪華になっても、末端(庶民に近いところ)はいつまでも停滞する。そのため、町は進歩がなく、何十年も変わらない。だんだんとさびれて、町は時代錯誤のような過去の空間になる。北朝鮮がまさにそうだ。あの国は社会主義体制の必然だ。

 資本主義は、政府や官僚は国をよくするために考える。彼らは計画主義の国家のように隅々まで采配しない。しかし、膨大な企業や個人が創造性を発揮する。カイゼン、工夫。労働人口分の創造性が、国家全体で活用される。町でも、地域でも、企業も、どこでも毎日のようにそれで進歩、発展する。使用される創造性は、計画主義の何十倍、いや何千、何万倍に達するだろう。それで国家のあらゆる領域で、産業は発展して、豊かに文化を開花させる余裕するある。

 社会主義は、政府しか頭を使わないために、何もかも遅々と進む。現在の人類の成長スピードについてこれない。だが、資本主義では、人類の発展に必要な創造性の量は確保できる。両体制が必要とする創造性の差は、とてつもなく大きい。この差が、資本主義と社会主義の絶対的な差となる。人類はもはや、社会主義体制に後退すると、破滅してしまう。社会は発展しなくてはならず、そんなことにはならない。よって、資本主義の体制は、何が起きても、維持される。

 これでも、まだ社会主義に後退して、成長を放棄することが、今後、資本主義がゆきづまったようにみえた時に起きる、と言うのか? 

 

 資料 格差大国・アメリカの後を追う日本 (日経サイトより)

 

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