社会 

 

 マルクスの弁証法は科学の精神に反する

2015-03-11

 

 『弁証法で、知識は進歩する。よって人間は新しい知恵を手に入れるには、間違いを知らなくてはいけない。』
 これは安っぽい哲学。全共闘のいう弁証法とは、マルクスの共産主義の『弁証法』をさすらしい。あれは、確か、まずは『知る』 → 『それを否定する』 → 『新しい知識を手に入れる』、とこんなもののようだった。私は、この論理は間違いと確認した後、記憶しなかった。
 科学では、新しい法則は『帰納』によって得られる。科学の発展は、常に、自然現象の帰納、帰納、帰納だ。たとえば、ある法則を発見したとしよう。それは自然現象だ。たとえば、地中から電気をとりだす技術を開発した、とする。
 ある日、地面を触ると、びりっと電気が流れる感触があった。静電気ではなかった。それは地球を流れる電気だった。それを偶然、強く感じた。それ以来研究して、地中から大量の電気を取り出せるようになった、としよう。
 彼は、新しい発見をした。が、それまで彼は地面から電気を取り出せないとは思ってなかった。というわけで、新しい知識を得ても、何もそれまでの考えを否定するものはなかった。彼は弁証法に反するわけだ。そして、新しい知恵を手に入れた。何も間違えずに。
 科学法則というものは、自然現象に、共通するパターンをみつければよい。ただそれだけで、いくらでも見つけることができる。よって、科学の発展はある意味、帰納のみによって支えられる。そして、その新しい法則が、それまでの科学の体系の中でどこに位置するかを探る。そして、分岐をつけたす。これを『分化』という。
 科学の発展は、帰納で、法則を知る。そして、体系の枝先で、『分化』して完了する。たまに体系どうしをあわせる『統合』がある。そのようにして発展する。これが、ヘーゲル示した学問の発展だ。それが正しい。科学の発展は『分化』によって達成される。自然を見て、共通のパターンをとらえる。それが科学の発展となる。そう考えるのが、理性的な人の態度だ。

 あの『弁証法』ではどうなるか? 新しい事実が発見されたら、それまでの考えが一部否定される。それは、弁証法における否定、つまり、『間違いを知る』ことなのだろう。だが、厳密には、新しい事実が登場した時点で、その者は新しい知恵を手に入れている。その後に、従来の考えを否定する。つまり、弁証法ではこうなる。
 最初の考え方 → 新しい知恵(例外事象) → 最初の考えの否定 → 新しい知恵を受け入れる。
 自分の考えを否定する前に、新しい知恵を得ている。科学の発展では、より多くがこのパターンである。なぜなら、例外事象が発生した時点で、それは新しい領域がそのまま出現したことになるからだ。科学では、その時点で、新理論の登場(単独の事例であっても、すぐに法則になると考える)なのだ。

では、もう一度、あの安っぽい弁証法をみてみよう。

 最初のやり方 → ゆきづまる → 新しい知恵を求める。
 これは、科学とは少し違う。これは、べたな方法論だ。今までのやり方が通じなくなった。それで代替を求める。その程度のことだ。失敗は成功の母のほうがよい。これは多くの場合は、従来のやり方がゆきづまる前に、新しいより効率的な方法を採用する。現代は特にそうだ。
 コンピューターはそうだ。その問題が明らかになる前に、よりよいものが登場する。世の中、それが失敗する前に、新しい事実や発見がある。それが大量に押し寄せてくる。たとえば、日本人がアメリカに住んだら、その新しい生活文化に直面する。日々、みたことがないものの連続。それで、本人は自分の間違いを一つずつ確認することなく、それらを受け入れ、学ぶ。いちいち、間違いに気づくことは、さほど重大ではない。

 自然の中に生きていると、たいていそうだ。子供を育てる時も、発見ばかりだ。自分の考えを修正するのは後回しだ。こちらが、学問の習得だ。現在の人類の進歩のあり方だ。
よって、人は自分の間違いを知らなくても、新しい知恵を手に入れる。古い弁証法が適用できるのは、一部に限られている。こういう安く半分はインチキな弁証法のようなことを得意になって言うのは、学問の発展、人の成長、意識の発展の本当のところが見えていないのである。この弁証法を使う人は局部しかみてなく、科学の精神がわかっていない。

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