社会 

 

 

究極の社会主義は、個人のニーズが何から何まで監視され、より陰鬱


2014-11-22

 社会主義の究極とは? それは資本主義である
 あらゆる個人のニーズを監視・調査することができるようになると、そんな技術ができたら、適切に配給することができる。そしたら、社会主義の失敗を克服できる。この配給方式になるのが理想だ、という間違った主張はいまだきかれる。これが、共産主義の最後の砦のようだ。この論をつぶそう。

 もしそんな時代になっても、資本主義がなおも終焉を迎えることはなく 永遠に続く。なおかつ、社会主義より優れていることを示そう。 

 上のは、正しく配給することができたら、社会主義は崩壊しない、というだけの発想だ。個人のニーズに即したものを配分し続けたられたら。そしたら、無駄もない、という。これが理想というのは、間違いである。

究極の理想の社会主義と、発展途上の資本主義と比較するのは、一方だけ理想、片方は現状。そういう比べあいは不公平である。片方が理想ならば、他方も理想で、どちらがよいか、と比べるのが正しい。

 これに対して、資本主義ではどうなっているか? そもそも究極の資本主義では、自由に人々が欲することができる。この理想は、そのニーズが満たされる状況である。つまり、資本主義の理想では、個人のニーズに応じたものを受け取ることができる。つまり、社会主義の理想(社会配分の究極)=資本主義の理想(社会配分は適切)と一見同じなのである。

よって、資本主義は、共産主義に何も劣ってはいない。また共産主義が、資本主義を超えることもない。共産主義は、この理想を達成するまでは、個人が自ら必要に応じて物品を受け取る資本主義のほうには、かなわない。すなわち、共産主義はずっとずっと資本主義より劣った社会計画を行い、最後の最後でようやく追いついたかのようにみえるわけだ。

 社会主義の究極では、全人類のニーズを測定しうる大型コンピューターのようなものができて、それが個人のニーズを的確に知り、そんな配給をする。それは完全な社会主義で、失敗はない、とかつて共産主義者は、その理想を信じていた。

 これが実現すると、社会主義のすばらしさがわかる、という。しかし、これにはもう一つの側面があるのだ。自由意志はどうなっているのか? という問題である。

 配給はそれで失敗はないだろう。しかし、その時、社会主義では、個人がやるべきことは、誰が決めているのだろうか? 人間一人一人が自由に決めているのか? それとも中央に位置する巨大なコンピューターが個人の仕事を決定しているのだろうか?

 上の配給だけは上手な社会主義では、当然のごとく個人の自由意思などとうてい認められない。そもそもほしいものは、中央が決めている。それを与えている。当然、物品だけでなく、仕事も中央から回すのである。すなわち、それは中央のコンピューターが、個人の行動を決定している。恋愛相手すら、国が決めて出会いの場を提供してくれる。もちろん結婚相手すら国が選んでくれる。あらゆる個人のニーズを中央のコンピューターが計測して、満足させてくれるのだから。

 こういう究極の社会主義の社会では、仕事は個人が自由に選べない。国が用意してくれるのだ。学校、大学も好きに選べない。国が適切なものを選んで入学の手続きまでしてくれるのだ。

 すなわち、個人の自由は細部にいたるまでなくなってしまう。職業選択の自由はない。あるのかもしれないが、国が本人が選ぶより先に、適切なる職場を提供してくれる。国家計画なので、個人が選ぶまで待ってくれないからだ。

 また恋愛、結婚が自由もない。表現の自由はあるかもしれない。が、国が先に書くべきことを指定してくれる。個人の食べたいものや服装や生活用品を事細かに知っている中央コンピューターなら、書きたいものの理解して、教えてくれるだろう。いつも先手を打たれ、指定される。表現の自由はあっても、自主的な決定権はなきに等しい。
 つまり、個人の自由意志はあっても、自発性はないがしろにされるのである。これは、どんな社会だろうか? 究極の社会主義では、個人のあらゆるニーズ(食欲、性欲、恋愛欲、表現する欲望、仕事、宗教)は、中央コンピューターに知られ、それを指定され、提供されてしまう。すべての個人活動において国家強制がなされる社会といえる。
 確かに飢えない乾かないかもしれない。しかし、すべての人間活動は中央コンピューターに監視され、そこに自発的な個人の自由はないのだ。

 資本主義の理想では、こうも不気味にならない。個人の自由はすべて尊重される。個人がほしいものが、手に入る。結婚も恋愛も、宗教も思想信条も、自ら自由に決めることができる。自由の尊重が基本原則だから、国家がいちいちそれに介入してくることはない。

 やはり究極の社会主義は理想というよりも、より陰鬱といったほうがよい。この理想を目指し、市民の監視を強化したのがドイツやソ連だった。常に、官憲やスパイが目を光らせて、個人の動向を監視している。配給の理想は達成されなかったが、そのほかの面では、政府が個人のニーズのすべてを知り尽くしたのである。そして、人間が自由に活動しなくてはいけない分野が、国家の管理下になった。じつに生きるのも完全な監視社会になったのである。

 社会主義の理想は、それに近づくほどに、それは国家により統制が個人のあらゆる範囲におよび、息苦しいものになる。それが真実なのである。
 究極の社会主義は、国家にあなたの生活・行動・思考にいたるまで、すべて監視された上でこそ、成立する社会なのだ。ほしいものが的確に手に入る、配給に無駄はない、という一面だけを見ていては、全体が見えてこない。それは個人の自由・権利があらゆる面で侵害されるそら恐ろしい社会なのである。そこではあなたはどんなことも見逃さない中央コンピューターのいいなりになるしかないからだ。

 資本主義の理想はそうはならないのである。個人の自由は永遠に保障されるからである。資本主義には終焉はこない。大型コンピューターが現れて、個人のニーズをたとえ知り、それを満たす配給システムができた、としても、人間は自由意志を捨ててまで、それを選ばないからだ。永遠に個人の自由を保障する社会(資本主義社会のこと)にとどまるからだ。

 さて、問題はここからである。資本主義の理想では、個人がそれらを所有している。共産主義の理想では、それら物品は名目上、社会のものだ。この所有の違いは、大事だ。

 いくら社会主義でも、個人に物品を配分した時から、それは個人のものとなる。結局は、個人所有を認める状況となり、それは資本主義なのである。社会のあらゆる物品が、適切に個人に与えられるわけだから、それはもう社会主義ではなく、個人の所有を原則とする社会= 資本主義社会なのである。

 理想に近づくほど、社会主義は国家による独裁や独占がなくなり、適切なる配分が行われる。中央の権限を下に委譲する。そう理想になるほど、それは所有(権限)が下層にばらまかれ、市民が所有権を得て、資本主義社会の様相に近づくのである。

 つまり、社会主義の理想とは、実質、資本主義なのである。これが、本質そのUである。中国はそのことを実践した。社会主義の閉塞を打開するために、資本主義経済を導入して、共産党の独占をやめて、市民に分権化して発展した。国家がいつまでも権限を独占していいては、社会が硬直するだけである。社会主義の発展においても、分権化が必須で、やがては資本主義同様の、人間個人や個人がものを所有する組織が中心となった。社会主義の発展では、必然的にそのような資本主義社会に似た体制になるのである。何も中国共産党が、間違えたわけではない。

 社会主義が終わり、自由主義にいたる。そして、その資本主義体制は永遠に続く。それが真の発展段階論である。

 

 資料 格差大国・アメリカの後を追う日本 (日経サイトより)

 

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