社会 

 

 

『新潮45 4月号』 ゼロ成長社会などの感想 
2015-3-19



 「ゼロ成長社会」への道筋 水野和夫は、前半の歴史は意味不明。専門の経済史を書けばよいものを。たとえば、過去に「資本主義の終焉」と言った経済学者を列挙して、その予言がいかに外れたか。詳しく書けば、面白かったのに。

 ゼロ成長社会について、彼は1000兆にのぼる日本の借金が返せないとしきりに吼えた。まじめにこつこつ返済しては返せない額だ。ならば、経済学者なら、そういう返済不能を長々と詳しく分析しても、どうかな。そんなみえすいた予測は誰でもできる。その程度のことを、得意げにすることはない。経済学者ならば、どう解決するか? そういう大局的なことを述べなくては。

 全体的に、マル経教授に、「ケインズなど経済学で資本主義の終焉を導き出せ。」とお題目を与えられ、それを嬉々として、全共闘気分になって、やってみせた、という代物にしか見えない。「ゼロ成長のなんたるか? を事細かく記せ。」というアメリカ経済学者からの課題はなかったのかな?

 しかし、ゼロ成長社会論には、落とし穴がある。名目成長で考えると去年の値段と今年の値段はインフレ率の分だけ、違う。だから、実体を知りたいならば、実質経済で比較しないといけない。経済学の常識だ。

 ただ、経済学諸氏は、あまり重大視しないが、゛実体経済を測るためには、もう一つしなくてはいけないことがある。それを補正しないと、生活が向上したかどうかはみえてこない。それは、外国の物価安を計算しなおすことだ。それをしないと、真にゼロ成長か判別できない。生活は安い輸入品を買ってよくなるのに、統計上は家計が低くなるからだ。それをクリアして、ほしかったものだ。

 購買力平価で思い出した。外国の安い産品を日本人は買う。日本で、100円するりんごは、アメリカの輸入品となると、20円になるだろう。
 もし、純粋な実体経済を計算したいならば、同じものが100円と30円で計算してはいけない。日本の価格に補正し直さなくてはいけない。
 が、経済学者は、そういうことをしない。円高となり、安い輸入品を買えた時に、実質GDPを示して、日本の成長率はなんぼと出した。だから、この統計の数字が、生活実感とややずれた。
 本当の国民の生活が向上したかを判定できてないからだ。

 100円ショップで安くてよいものはたくさん買える。それは円高のおかげだ。他国が物価安だから、安い商品がある。円高日本は、そのおかげで、お金は少なくてもよい暮らしができた。実質経済では、そういうことは数字に出なかった。統計の偽り。そういうのをできるだけ、小さくして、計算しなくてはいけない。

 今後、世界各国は先進国並になってゆく。どんな辺鄙な国でも、50年かけてそうなる。すると、資本主義はその間、発展し続ける。世界のGDPはあがる。大事なのはその先だ。世界中が先進国並になると、世界の物価がほぼ同じになる。そうなった時に、本当に経済は成長しているか? 考えられる。そこまで、真の実体経済が数字に表れない。その時まで、正確なことがわからないではいけない、と思う。

 物価が安い国の産品を買ってくる。その製品価格は低くなるから、そういうものが増えると、GDPが下がる。すると生活は過去と同じでも、成長率が減ったように見えてしまう。人口減の問題もあるのだが、輸入物価補正をしないと、正確にはいえない。実質GNPは、概算としては使えるかもしれないが、数パーセントの誤差は出るはずだ。

 そういうあまりあてにならない数字で、ゼロ成長と危惧するのもどうかと思う。実質GDPにおけるゼロ成長の意味をもっと詳細に検討しなくてはいけないだろう。本当に、生活は向上してないのか? 単なる数字のまやかしなのか? を。もし、偽りの数字ならば、ゼロ成長でも、実体経済は向上していたかもしれないし、低下していたかもしれない。それでは、適切な対策も打てない。

 今回 経済ゼロ成長論は、あまり根拠のない統計からきている、という疑義を提言した。



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