社会 

 

 

資本主義が終焉しない理由その四 配給を完璧にしても自由がないと・・・
2015-3-24

 

 
 資本主義が終焉しない理由をシリーズ化している。何か、後で役立つだろう。共産が滅んでも、いまだに社会主義信者が残る。その駆除剤みたいなものだ。日本からそういう左翼の論調を消すためには、どうしても必要な作業だ。

 資本主義が終焉しない理由その四 配給を完璧にしても、そこに自由がなく暗黒社会

 社会主義信者というのは頭が固い。共産主義が滅んで、計画経済ではたちゆかないのを見ても、いまだかたくなに資本主義よりも社会主義のほうが優れている、いつかはそうなると、思い込む。それは破滅幻想だ。

 彼らは共産国家が衰退して、社会主義はもう駄目かと、現実を見る。しかし、こう考えて、最後の望みをたくす。

 

 神のような英知で、完璧に配給したら、誰も飢えることがなく、人々は幸福なのではないか? 今は高度なコンピューターがあるから、それでニーズなどを探り、生産量も間違えずにやれば・・・ 社会主義もなんとかなるのではないか。 これが頑迷な彼らの最後の主張である。

 

 人間がその配給と生産をやれば、必ず失敗する。社会主義国家ソ連で、それは実証ずみだ。よって、それを行うのは、コンピューターでなければならない。そこは、ほとんどがコンピューターによって成立する社会主義国家であることは、認めなくてはならない。

 

 どんなコンピューター社会主義国だろうか?

ソ連の巨大な官僚機構が、巨大で高度で優秀なコンピューターにすり替わったと考えればよい。巨大なコンピューターが何から何まで、政府の指示に従い、人間のほしいものを探り出す。これは、完璧な配給をする社会の想定なのだ。だから、国民のニーズをとらえるセンサーに誤差などない。だから、誰に何がどれだけ必要かは、正確に調査される。

 

その膨大な情報をもとに、政府は人間かロボットに生産させ、配給する。生産過剰も不足も生じない。そこでは、確かに飢えない、貧しい者はいない。

 

 何もかもが政府のコンピューターがやってくれる。誕生日にはケーキも贈ってくれるかもしれない。職場も、政府のコンピューターが適材適所として決めてくれる。何しろ、そこは国営企業しかないのだから。みな公務員である。集権体制の中央に巨大なコンピューターがある。彼が、国民のニーズをとらえ、適量生産させる。またそのコンピューターが余らないように、無駄をなくすように、流通を行い、配給する。コンピューターの指示通り人々は活動する。全て、その中央の命令通りに動いている。

 

社会主義なので、定義上、民間や個人の自由活動は禁止される。それはいくらなんでも不幸だから認めよう、というのは社会主義はだめだから、資本主義にしよう、という意見だ。そんな自由を認める制度は社会主義ではない。そこでは、個人の自由や自主的なグループ活動は一切存在しない。

 

 社会主義者の最後の砦とは、こんな独裁者が、巨大な官僚のかわりに、高度なコンピューターとセンサーを使って、完璧な配給と生産をなしとげる社会だ。

 

 衣食住はあるが、自由がない国

 

 これが素晴らしいというのかい? どこが? 何が?

 

 配給は完璧だろう。だが、そこは政府のコンピューターが管理する恐ろしい世界なのだ。人間の自由がそこには一つもない。個人は、政府のコンピューターの正確極まる指令に従い、黙々と働くだけだ。

 

 自由な活動は禁止される。仲間と集まって、議論が実る。それを本にしたいと思ったとしよう。しかし、本を大量に出版することは、生産活動なので、政府の許可がいる。自由に畑仕事をして、農業を営みたい人がいても、食料が計画外に過剰に生産されてしまうから規制される。

 

 新しいアイデアを思いついた。それは社会をカイゼンするものだ。しかし、それは政府が採用するかは政府しだいだ。勝手に、それを実現してはいけない。何もかも政府の許可がいる。自由にしてよいことなど何もない。

 

 この社会主義国家では、自由に物をこの社会では何も作っていけない。また、この社会では発展がほとんど止まる。コンピューターの指令により、配給と生産を行っているだけだ。国民全体の創造性を、取り込む体制ではない。自由にそんなことをしたら、管理が乱れるからだ。

 

 改良など簡単にはできない。なぜなら、それをするには、中央のコンピューターシステムのプログラムを変更しなくてはいけないからだ。働いているのは、政府の政治家と官僚機構とそれを支える巨大コンピューターである。中央集権の体制になんらかわりがない。

 

庶民は何もしてはならぬ。国民はただだまって政府の指令通り働け。さすれば、飢えも乾きもないだろう。しかし、発展も成長もない。そこに、自由がないからだ。それが、社会主義の最後の砦、理想とはとうていいえない暗黒社会だ。

 

 オイルマネーが潤う国にこんな社会がある。マネーはたくさんある。生活と住居には困らない。教育は大学まで無料だ。医療もただだ。若者は、そこで何をしているか? 何もしていない。職場がない。彼らは退屈で、暇をもてあましている。

こんな窮屈で、自由に何もすることができない社会に住みたいのだろうか? 人々の喜びもない。自分たちで社会を動かす? そんなことは政府トップの人間たちにしかできない。そのほかは、皆、命令されて動くロボットか労働者だ。創造性を発揮できない職場は、毎日、命令ばかりこなすのみ。やりがいもない。最初はあっても、、しだいにその定型的な仕事は飽きてくる。これはコルホーズ(集団農場)が行き詰まるのと、同じケースだ。人間は創造性のない、成長することもなく、上からの命令された仕事を何十年とできないのである。

 コンピューターか、それに近いような人間が支配する冷徹な完全配給社会。食い物・衣服、住処は困らない。が、そこには何一つ、自主的に活動する自由がない。当然、昨日の議論のように、その社会は創造性が極端に乏しく、発展速度はきわめて遅い。

 そんな究極の社会主義では、ずっとずっと永遠に、それらトップエリートに支配されて、誰も自由にものがいえなく、過ごす。そんな最終的な社会主義国家を誰が望むのだろうか? 配給さえ完璧にすれば、社会主義はなんとかなる。それは間違いだ。美点は配給のロスがないことだけで、そこはどうにもならないほど、自由がなく、その喜びもない死んだ社会なのだ。

 そう。それはまるで、愛と喜びと子供の笑い声がない、単に施設として完璧な人がいない保育所のようなところだ。死なないだろう。だが、そこは大勢にとって、何も自ら進んでするものがない、生命力がない鬱屈した社会なのだ。

資本主義という自由を捨て、社会主義になると、人類はそこで止まる。社会主義の完璧な配給社会は、暗黒だ。そこは清潔なだけの人類の墓場である。社会主義は、もし、謎の英知によって完全な配給を成し遂げられても、そこに暮らすに退屈すぎる。

 

社会主義は、もはや終わっている。そんな社会に何も望むことはない。自由がなければ、何も成長しないのだ。

 以上  

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