教育論 道徳教育

 

 道徳教育論

 

道徳教育の方法6 教師への尊敬のあり方

 

 2015-1-29 校正 3/18

 

教師への尊敬

 戦前は教師を尊敬した。生徒は、教師の言葉によく従った。が、戦後、教師はしだいに軽んじられるようになった。教師の言葉をきかない子供が増えた。では、再び、子供が教師を尊敬するようになるだろうか?

 私は無理だと思う。もう教師は尊敬の対象ではない。まず、私が教師を尊敬したことがない。一度も。敬意は払っても。


 なぜ、尊敬しないか? これは各自の子供時代を思い返してみよう。尊敬していた人物は誰だったか? 豊臣秀吉? 徳川家康、諸葛孔明? イエス・キリスト?

 私は枚方育ち。西行はため池をたくさん作った。そのため池で夏の日照りの時も、水が不足しない。西行は偉かった、と教えられた。空海は四国の土手工事をした。ため池を作った。さらには寺(一派)を建てて高野山にこもった偉人。西行は空海に劣る、と思った。そう思うと、西行の価値は下がった。こういう人々は尊敬に値する人だ。人格的にも、功績でも。

 それと比べて、教師は? ただ教えるだけではないか。私は女性教師が多かった。男性もいたが、尊敬の対象ではなかった。人格は西行や空海に見劣りする。感情に任せて怒り出して、小人だ。単なる教師ではないか。社会貢献も皆が賞賛するほどのことはしてない。

 尊敬を受けるには、人格的が卓越して、性格だけでなく、能力、さらには社会的にも評価されているなど、総合的な優位性をもっていなくてはならない。今の子供は、テレビでいろんな人物を見ている。教師はそれらテレビの中の芸能人、評論家、キャスター、スポーツ選手と比較される。そして、それでも立派な教師だけが尊敬される。

 昔は、テレビがなく、田舎では子供は優れた人物となかなか会うことがなかった。学校の先生か、医者、お寺の僧侶くらいしか尊敬される人物はいなかった。だから、尊敬された。が、今では、子供も多くの人間を知っている。そんじょそこらの平均的な教師は尊敬されない。よほど優れてないと。だから、どの先生も戦前ほど尊敬されてない。

 

 尊敬されなくても、教師は自分を恥じることはない。時代がそうなのだ。


 敬意を持たれる。これは、部分的な能力が優れるだけでもよい。将棋・囲碁がうまいだけで、その点にのみ尊敬される。人格ではない。教え方がうまい。歴史のことを教師としてよく知っている。スポーツのできる先生。そういう部分的なものだけで、敬意を受けることはできる。教師は、そのくらいの尊敬で満足しよう。欲張ってはいけない。それほどの人格者でもないだろう? ならば、弟子が師匠を見上げるように、生徒が教師を尊敬することなど期待しないことだ。

 ただ囲碁がうまいなら、大阪府でナンバーワンになるくらいならば、それだけで尊敬される。過去に大会でよい成績を残したことがあるなら、それは生徒に伝えるべきである。あまり軽んじられなくなり、敬意を受けるようになるだろう。

 全面的に敬服されるのは、今の時代、校長先生でも無理だ。一介の教師が、まだ人格がそれほど立派でもないのに、社会的な評価もないのに、偶然担任になっただけで、教師として自負があるだけで、それを生徒全員から受けようなど、欲張ってはいけない。

 全ての面で尊敬されなくても、一定の敬意を子供から受けたら、それで授業は成り立つ。それで満足しよう。

 

 尊敬されるこつは、社会的な業績を何か一つひけらかせることだ。大学で学生で五位に入ったとか。そのくらいでよい。教え方でうまいと評価されたいのは、小学生は教師の違いなどわからないから、PTAでの人気取りになる。子供が尊敬するようなことでよいから、それができる、過去にした、というほうがよい。

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