日記 2018年9月18日〜 10月27日

2018年10月27日

 

つきあいの長く、慣れる価値のある人と、今から親しくする準備をする。将来、一過性のつきあいしかない者にはあまり時間をかけない。

 

こっちは霊能力を駆使して、交信している。かなり体力を使う。つまらない無駄話はしない。時間の浪費だ。F人は、嫉妬深いか、間違った見解でも自己主張する、もしくは腹いせもする、ということを伝えたいのなら、私は代わりを要求する。そんなものに関わっても、私の何の得にもならない。

目前に人がきて、雑談しているのと違うのだ。要領のよい会話が求められる。私が無駄話をしていると思われて、向こうも話だしたのだ。ちと違うのだが。

 

 交信ごとに、評価点をつけたレポートを送ればよいだろう。彼らは言い訳ではなくなる。

 

こちらの要望をどの程度こなせるかは、みておこう。そもそも、Fの秘密警察か情報部員と親しくする理由は何か?

 

 万が一、Fで犯罪にあいそうになったら、彼ら警察に依頼して、犯罪を防止することだ。それはフランスの治安維持のためにも役立つから、彼らは進んで協力するだろう。

 

 他には、信頼関係を築いたら、私を襲う犯人の情報を伝えて、彼らの国でとっちめてもらう。彼らの国にとっても犯罪者ならば、容赦しないだろう。

 

 目下、この2件だ。またFの国益に沿うものを、私が提案して、やらせるのだ。まだFの国情は知らないので、何の提案もない。

 

一つだけ何か、有用なものがあった。ケチくさいのがあれを有料にしている。それが、普及を妨げているそうだ。本来、無料だろ。他の国では。それでは、Fのためにならないだろう? 情報部員も嘆いていたぞ。というわけで、無料で配布されるようにしておいた。別に、金をとってもいいんだよ。でもね、国レベルで力が低下しているのに、いつまでもそれではまずいだろう。

 

私は自転車ばかり乗っているので、歩く体力はあまりないのだ。

 

10月は震災はいつ?

 残り3日なので、私がゆくところは、つきとめておこう。

 10/28日は、箕面キューズモールか?

 10/29月は、池田駅と猪名川か。

 10/30火は多田ダイエーなど、多田回りか。川西のフレッツかも。

 10/31水は料理日で、マンダイなど多田回り。

 

10/31しかないね。猪名川の橋を渡るのは。震災予想日はあとは、その日のみ。いや違うぞ。水曜は、台所だ。10/30だ。

しょうがない。予兆が出たら、各メディアに通知しよう。

 

48番まで、何歳? 最初は28才 ぴったり山梨県。

次は? 何歳? 37-41才。 次は茨城県あたりか。

次は、23-25才で、該当するのはインドネシアで、

11番で、ランプン州。ほぼ当たり。

 

11月の地震はなぜか、今のところ当たっているね。

 

 

2018年10月27日

 

なんだ。10/27でもなかったぞ。どうして透視がこう不調なのだ? 妨害がきついのだ。しかし、赤とその仲間の霊能者の妨害をはねのけて、予知しなくてはいけないのだ。

 

あいつらは、赤内では地震情報を回して、自分たちだけ助かり、その他を地震で大打撃を与えようとする。そのため、首都直下地震の情報は知られないようにしている。ただ、私はデビューしないと金が入らず、いつまでも伏尾台にいつく。そうなると、彼らの計画に支障をきたすようで、適当に当てさせて、ここを出ていかせる腹づもりらしい。

 

私は、こうみえても、共産主義のめざす無宗教世界。それを実現するためには、なくてはならない人材のようである。かなり活躍しないといけないらしい。

 

地震予知は、10/31説に。そんなに遅れるとは、露しらず。

 

 

精神論 対人感情 責任感

 

 責任感--責任を感じること。

 その行為や行為の結果に関して、法的な責任、道徳的な責任があるとされる。

 

責任とは、その行為について、失敗をしないようにすることだ。やることなのだ。やらなかったら、いけないとされる。

 責任感とは、任された仕事をやりぬこうとする態度、心づもりだ。親となった時に、子育ての責任感が芽生える。子供を必ず育てなくてはならないという気構えである。

 

 自由意志と責任について

 任せられたことについて、自分の力でやらなくてはいけないので、自由意志を前提にする。組織論では重要だ。部下に権限を委譲して、責任を与える。仕事を任せる。

 

 責任感と無責任について

 責任を果たす気持ちを責任感という。責任感がないことを、無責任というが。

 

責任感は、責任とは区別される。日本語では、悪事を働いた時に、その要因となることを責任があるとはいう。過失などの問題もある。が、それについて責任感があったとは言わない。

 

自己責任。これも責任感の範疇だが、拡大的な意味で、今は述べない。

 

責任感

 これは一定の仕事をやりとげる覚悟である。多くのしごと、困難な仕事を抱え込むことになる。責任を与えると、人は成長する、という。

 確かに、多くのしごとをやりとげようとする決意をもち、そのように考え、行動させること。それにより、人はより大きなことができるようになる。本人の能力があがる。

 

人を成長させるには、責任を与えることだ。それは、仕事を与えることである。

 

私のように無職で、仕事がない者は、成長しないのか?

 大きく成長させるには、困難で大きな仕事を任せ、それを完全にできるように意欲をもたせることが大切だ。

 

 まずは仕事の全体の内容を決める。次に、それを完全に行うように、行動させる。そして、失敗しないように、させる。

 

 無責任にならないようにするには?

 仕事について、たえずやりとげるように圧力をかけつづけ、逃げられないようにする、やりとげられるようにサポートは万全にする。

 

2018年10月27日

 

60億年後の我々と交信

 

2018年10月26日

 

予兆がまだ出ないと焦る午後10時。

 

写真は少しずつうまくなっている。

 

精神論 対人感情

 これを書き続けて、冷静になれるようになった。

 

 罪悪感について

 罪を行ったという自覚だ。これは遵法精神と密接に関係する。法や慣習を知っていて、それを破った、逸脱したという自覚からくる。このうち、罰されるものだけが、罪悪感だ。罰されない違法行為は、恥という自覚となるか、気にしない。

 

他人に悪いことをした、という自覚も罪悪感には含まれるある。これは、相手に何か償わなくてはならないという負債などをもつ場合のものだ。相手に悪いことをしても、自分が何ら詫びて、問い詰められなくて、謝罪して、償う必要のないものには、相手に対する罪悪感はない。

 

何を破るか?

 規範意識(正しいと認識されるルール)がある。法や慣習である。戒律もある。

 

 違法行為を行う。それだけならば、失態などと思う。罪悪感は、このあと罰されるという意識が強い。罪悪感は、刑罰を待つという心境である。これから自分が望まない罰を受けるという考えからなる。

 

 Wikiペディアの罪悪感から考察。

 

 

 罪悪感の本質とは『集団から排除される危険を感じること』という説明があるが、間違いだろう。この説明を考えた人は、罪を犯すと、罪人に転落して、一般人とは別の存在になったという危機感が働いていると思ったのだろう。が、自らの意見や思想、宗教の相違で、ある思想グループから追い出され出てゆく時には、罪悪感は感じない。また罪悪感では、その社会から出てゆく時に感じるものではない。その社会内にとどまるがゆえに、感じる。もし、法や規範が違うグループに移行するならば、前のグループで感じた罪悪感は、新しいグループでも感じる必要があるかは、はっきりしないのだ。

 

 罪悪感は生命の危機感の表出ともあるが、犯した違法行為の刑罰の内容による。軽い罰しか受けない時に、生命の危機感はもたない。ただし、生命の危機感は、度合いがあるので、弱い危機感もあると考える。それならば、刑罰とは、肉体的、経済的に損害を当人に与えることなので、危機感をもつのは、妥当である。

 

 罪悪感は、ある行為が、法を違反していても、規範(不道徳なことをする)を逸脱したとしても、正当化できる時は、罪悪感は軽減する、というミラグラムの実験があるそう。

 当たり前だ。罪の意識は無知な者ほど、法に違反したから重大行為と思い、強くなる。しかし、専門家は、その行為がどれほどの罪かをはっきりと理解する。それを知ると、過度に罪悪感を感じることはなくなる。子供は、小さな過ちをしても、とても大きな失敗をしでかしたと思う。が、大人らかみると、そんなに大きな違法行為でも、不道徳なことでもない。

 

 罪悪感は、一部、負債は他人が肩代わりできるので、そうすると、小さくなる。キリスト教では、キリストが全人類の罪を肩代わりした、と説明する。しかし、それは法について無知な人しか信じない理論だ。

 罪悪感。相手に何かを償わなくてはならない、社会に対して償わなくてはならない、と思うようなものは、他人がかわりに弁償などすると、小さくなる。罪悪感は償い、刑罰の強いものほど大きいので、償いが小さくなると、罪悪感も小さくなる。

 

 罪悪感は、罪を償うと小さくなるのだ。完全に罪を償うと、消える。つまり、罪悪感は、刑罰、償い(補償)の度合い・量によって、大きさが決まる。

 

 ただし、イエス・キリストは口先で罪を背負ったというが、実質的に負債を代わりに払ったわけではなく、空約束に近いので、信者の罪悪感は実質、消えない。気休め程度のものだ。

 

 なお、法について疎い人は、それを信じて、罪悪感が消える人もいる。が、正しく物事を理解すると、再びそれは生じる。

 

 不道徳なことをしたから神による罰を受ける、という罪悪感については?

 神による罰そのものを、正しく理解するとよい。本当の刑罰とは、間違ったことをした場合は、正しいことを覚えることのみだ。

 こう考える。未来社会では、社会がなんでも償う。そもそも個人が膨大な資産をもてない。大きなミスを犯して、ビルが倒れたとしよう。それを立て直すことは、個人ではできない。社会として、壊れたビルを立て直す。つまり、未来では、ビルを壊した本人が、壊したビルを修復しなくてよい。個人は、被害の弁償、補償などはしないのだ。

 

 では、何をするのか? 過ちを2度しないようにする。ただそれだけだ。正しいことを覚える。これが究極の償いなのだ。罰は、受けないのである。受けるとしたら、二度と誤りをしないように、教化されることだ。更生の教育を受けるのだ。それが罰なのだ。つまり、罰とは教育なのだ。同じ過ちをしないようにと、教えられるのだ。

 

 究極の罰とは、失敗や間違いに対する教育と、おわかりになったか? 神は究極の存在なので、究極のもっとも正しいことをする。つまり、罰とは、正しい方法を覚えることなので、神は、正しいことをその人に覚えさせるように、働きかけるのだ。そして、覚えた時には、罰は終わるのだ。

 

反社会性パーソナリティ障害は、罪悪感を抱かない。

 遵法意識が欠如している。反社会的な人格である共産主義者も、罪悪感をもたないだろう。

 

うつ病では、本人と関係ないことまで、罪悪感をもつ傾向はある。

 なんでも自分のせいにしたがる。被害者意識のひどい類。刑罰を受けるという思いが過剰に広がった場合である。

 

罪悪感の消し方

 マイナス感情は消す方法がある。霊能力で、シャムニの次元以上を使う。

自分のせいで人を死なせてしまった、というものは?

 そうでないのに、そう思い込む時がある。それは幽霊に、自分のその後悔の感情記録の断片が、付着している。それを除去すると、自分のせいでという自責の念はなくなる。一部の霊能者にはできる。私はできる。

 

 過度な自責の念(罪悪感の一種)は、その方法でとれる。私は、飼い犬の最後を看取ったが、自分がもっとうまく医学的処置をしていたら、助かったと、長く苦しく思っていた。が、犬の幽霊にそれをすると、苦しさは消えた。今ではかなり気楽に当時を思い出せる。

 

2018年10月26日

 

震災間近だ。とうとう雨になった。震災は嵐の夜。雰囲気が出てきた。あとは、地磁気と地電流に予兆が出ること。飛行機が落ちること。のらむヒョンに出会うこと。

 

私が地震を当てるのは、一発屋ではないのだ。何が評価されるか。

日付はいまいちだったが、連動地震だったこと。長野にきたこと。そして何よりも、被害を正確に予測したことが、認められるのではないかと思っている。

 

北仙台の倒壊ビル。これをぴたっと当てたならの話。スカイツリーのサブアンテナが落ちるとか、東京タワーが使いものにならなくなることや、国会議事堂の塔が壊れること、新幹線の脱線地点が一つ当たること。それらが透視能力がある証となる。

 

首都高速の倒壊、石油タンクの爆発、原発のそれは、震災で予想できること。それらは当たっても外れても、透視とはあまり関係ない。経験による想定なのだ。

 

私の親しき者たちはすべて、地震情報は何らか通知しておいた。それでも、私の空想の中の出来事はどこまで行われているかは、判然としないので、結果で判断する。被災して、亡くなった者がいたら、うまくゆかなかったことになるのだ。

 

海外の人も助けるようにてはずを整えた。日本人全般は、助けすぎと言われるほどに、配慮した。

 

そんなにやれるの? と疑問に思ったあなたは正しい。私は、そんなにやれるのだと思いこんでいる。が、事実はそこまでできないかもしれない。結果しだいなのだ。どれほどできたかは。

 

2018年10月23-24日

 

震災が近い。仙台の子どもたち、老人たちを見たが、死相が出ていたのは1/5-1/8くらいだ。子供は、親の問題で危ないのは、数年先のがみえる。区別しにくいのだが。老人たちにそれはない。そこから1/7くらいが危ない。予知してそういう者たちを助けられるとして、それらの1/10とした。

 

そのあまりの多さに、かつての私なら涙ちょちょぎれするところ。今では慣れっ子。よほどでないと涙一つ出てこない。

 

そうそう、明日は、やっと自動車の回転事故の日だ。高架の。何回も間違えてきて、とうとうその日が来た。すると、その翌日くらいだ。10/25あたりからと予想。

 

また焼けそうな人を見た。ずいぶんと黒い灰にすすけた感じだ。が、彼は二度目の危機は脱する。彼は日本の宝の一人であるから、特別の采配がなされる。火災は、本人の命だけでなく、家財を失う危機もある。これはやばいのだ。本人、気が気ではないはずだ。もう引っ越ししたのだろう。

 

台湾か中国南部の地震としたのは、台湾沖だった。ずれた。透視がこの期に及んで、まだ当たらないとは。震災日まで自信がなくなる。

 

震災は、透視はすでに完了ずみで、場所などは今さら透視しなくてよいので、ハズレない。日なのだ。それだけわかれば、それでよい。

 

あまりに死相がはっきりとみてとれる。その明瞭な異様さに、死相とはこんなにリアルに感じられるものだったのか、と驚いた。ここまでくっきりわかるならば、見た目で判断出来たのだ。他の地震も。

 

2018年10月23日

 

震災間近だ。

 だいたい割合をつかんでいる。およそ住民の0.3-0.5%が犠牲者になる。数字合わせだ。もし予知というものがなかったら、その10倍なくなる。2004年のインドネシア地震を超える空前絶後の大惨事になるところだった。それよりも、小さくなったのが、幸い。

 

仙台の人々の様子を見ていると、その割合はあっているらしい。実際に亡くなるのは死相が出た割合の1/10なのだ。予知のおかげでだいぶ、その人数を減らした。それでもまだ多いというむきもあるだろう。

 

全員を助けたかったら、電波犯罪を震災までに明らかにすべきだった。すると、政府あげて、この震災のためだけに防災を行い、被災者は激減したのだ。しかし、誰も私以外に表だって言わないではないか。私はできる範囲で、最大のことをしている。私はやっている。やっていないのは、地下や裏を知る者たちだ。

 

彼らは、南海トラフが危ないといい、首都直下のことは小さく扱う。私は最大限り、人々を助けるためにやっている。私の手が届かない者たちを助けたいならば、私以外の者がすべきことなのだ。彼らはできることもやりはしない。責められるべきは彼らである。

 

最大の解決法は、簡単だ。疎開しろ。関西にこい。京都や大阪に。いっとき、休め。

 

2018年10月23日

 

精神論 対人感情は?

 

恥とは?

 はずかしいことの一種。自分はそれができないときの感情。それとは、その年令、地位、身分などがしなくてはならないこと。

 恥は、ルールに違反したり、たいていの人ができることができなかったり、集団や社会の失敗をしたと時に、起きる

 

 罪悪感との違い?

 罪悪感は、罪を犯した感覚なので、社会の法や慣習など明確な規則を破った時の受け止め方だ。しかも法をやぶったことで、罰されるものだ。もしくは罰が軽いものでもある。恥は、罰を受けるほどの法や規則を破ったことではない。あるその者に課せられている暗黙のルールみたいなものができなかった、失敗したことに対してだ。罰されるほどではないことだ。恥は、同じような法やきまりを守っている者たちに、対してかく。

 だが、時には刑罰を受けるようなことを失敗する時も、恥をかく人はいる。

 

犯罪を犯した子供は、自らが罪悪感を持つ。それを子の過ちを知った親は、恥をかく。そのような違いとなる。

 

恥の感情は強まり、極端になると、あがり症となる。すぐに、簡単に恥ずかしがるようになる。女性にみられても恥ずかしくなるのもいる。これらは、恥から生じたものではあるが、恥とは関係なく、ただ根拠があまりはっきりしないで(理由はあるのだが、)、恥ずかしい気持ちがすぐに出やすくなる。

 

恥の効用とは?

 有頂天になってる人、唯我独尊の人は、不遜な人、他人が下にみえる人は、恥をかくとよい。自分が、至らないことを自覚するからだ。成長のひきがねとなる。

 ただし、社長などに多い。意気揚々としていたのに、大恥をかいた。それがみっともなくて、恥をもたらす原因となった者(失敗した社員、何かしでかした子供)に対して、問い詰めたり、攻撃的になるのは、よくない。

 恥には2種類あって、自分の責任が伴うもの、自分の管轄外のものがある。子供の失敗は、子供が大人になっていたならば、親の管轄下で、親は責任をとらなくてよい。そういうものを自分の失敗と思い込み、焦るのはよくない。

 自分の失敗ならば、それを認めよう。失敗した部下などに責任転嫁して、それに怒ってもしょうがない。恥をかくのは、あまりいいことではないが、たまにかくのは、いい刺激なのだと思おう。自分は完璧で最上、失敗などしないと思っていたのに、未熟だとわかったからだ。新たに、学ぶ領域をそれによってみつけられた。

 

 恥をかくのは?

 恥はたくさんかくほうがよいのだ。私などは、進んだ宇宙人の前で、恥ばかりかいている。いつも冷や汗ものだ。地球の基準では、こちらは何か素晴らしいことを言ったつもりでも、彼らは冷静に受け止めて、たいしたことがないかのようにいう。小さく恥をかいている。ずっとそういう状態になる。

 

 宇宙人相手でなくても、囲碁の上手の研究会にいくと、私は平身低頭だ。ずっと小さく恥をかいている気分だ。そこで長く過ごすと、うまい手などを覚えられる。自分が向上する。

 

 常に、恥をかくのは、自分より上の人たちがいる場所なのだ。人は、本来、そういう場所で学ぶべきなのである。すると、いつまでも成長できる。まったく恥をかかなくなったら、それは完璧にできると思ったということで、そこにいても、学びはないだろう。成長も止まる。恥をかかなくなったら、終わり。そこから出よう。恥をかける場所を探して。

 

今日は、詳しく吟味してかけないぞ。やや適当だ。

 

2018年10月19日

 

最近、復讐を正当化するいやな言い回しがある。人間は、誰かにひどいことをされたら、それを覚えている。やったほうは忘れる、という。あちこちで日本人はこれをさも心理法則のように使うが、犯罪者の心理を肯定してはいけない。許し、心を寛大にすることを忘れている。日本人はいつから、こんなことも見抜けずに狭量になったのか。

 

これは、復讐の勧めであって、悪しき心だ。許しや、幸福になった時に、許しの心が芽生えた時に、そんな過去はどうでもよくなることを考慮しない狭い考え方だ。人間が成長しないことを、前提にする了見なのだ。

 

これは嘘だ。私はアカから1991年からひどい仕打ちを受けている。が、ほとんど忘れたぞ。誰がしたかは覚えているが、どうでもよくなっている。面倒なのだ。

 

 ただし、同じように今もまた悪さをするなら、容赦なく、そいつを合法的に罰する。そういう決意は生じた。が、いつまでも、覚えているというのは、嘘なのだ。

 

 復讐は、何度も思い返すことで、記憶され、継続する。それをする必要がない私などは、妨害さえしなければ、どうでもいい、ということになる。古傷を思い出すと、その分は返してもらおう(被害補償をとり、妥当な範囲で罰する)と考えるのみ。

 

しかもだ。いいことに私は覚えてなくても、ちゃんと誰かさんが記録してくれるのだ。

 

日本の最近の言い回しに、馬鹿げているものがたくさんある。心理法則のように言っているが、間違いなのだ。その一つを批判、訂正させる。

 

基本、私はのけものにされた。それによって、大きく成長することになったのだ。これが真実ならば、別に、恨みはしない。

 

 

2018年10月19日

 

対人感情 共感と非共感

 

 町を歩いていて、共感するものを感じた。これは視野が広がる体験だった。あらゆる物体を感じ取るのだ。共感するものとしないものを。共感が強いものと弱いものを。

 

簡単にいうと、

 自分は人間という物体であるので、山、石、家、木などとは物体として共感する。共感とは、ここでは周波数上の同一のものとする。共振するものなのだ。で、この観点では、共感しにくいものは、共感の薄いものは、空気なのだ。幽霊や真空もそうだが、町を歩いて、それはみかけない。

 

 次に共感するものは、動くものだ。自分は動物なので、よく動く。動く人間をみかけるとよく共感する。動くヤギも。

 家、自動車なども共感する。これは人間が作ったものとして共感する。私は衣服などそういうものをまとっているので。

 木々や動物は、細胞をもつ生きているものとして、共感する。動物のほうが強く共感する。さるのほうが犬よりも強く共感する。

 

 で、目に見えるありとあらゆるものに共感することに気づく。夜空の星にもだ。大地にも。が、共感にも度合いがあって、もっともよく共感するものと、あまりしないものがある。石などは共感しにくいのだ。人のうち、最も気が合う者にもっともよく共感する。

 

 ここまでが共感だ。その理論だ。共感を感じていると、孤独ではなくなる。もっとも基本的な、信頼をこの体験で得ることができる。

 

次に、共感の強さと弱さがある。遠く感じるもの、自分と違うと感じるものほど、共感が弱くなる。

 

注意点は、ほしいものは、また別の感覚で感じ取れる。女性、友人、ケーキ、食い物など。それは欲求の対象なのだ。共感する時は、こういうものを強く感じてしまうので、注意すること。それはほしいものだ。

 

共感を感じている間は、避けるものはなくなる。きらいなものはないのだ。

 

なお、これは発達段階における『耳』のテーマでもある。音の共感を感じ取る段階だ。ちょうど私は48才と半年と8日すぎ。共感は昨日、10/18のテーマだった。今日は非共感がテーマらしい。

 

さて、次に非共感について。

 共感の強さと弱さがある。非共感とはまったく共感しないこと。これは存在するものは、すべて共感する。それで、まったく共感しないものは、存在しないものとなる。非共感するもは、町を歩いているくらいでは、みつからない。

 

そこで、共感の度合いに着目する。すべてのものは、共感の度合いがある。弱い共感と、強い共感。それを裏返して、弱い共感は、強い非共感(卑怯な感じではないよ)、強い共感は弱い非共感とする。

 

ただ裏返しただけで何がかわるか?

 非共感とは、まったく関心がないことだ。共感は、関心をもつ者には、共感の度合いで強くなる。非共感するものとは、自分がまだ取り込んでいないものだ。学んでいないものだ。それを非共感の度合いで、自分が習得してないものがわかる。

 

当然、最も優れた人が、共感度のマックスとすると、それは、全ての物体に対して、完全な共感をすることではなく、相応の共感度となる。それが最大の共感度なのだ。それより劣る共感度が、学習してない分だ。

 

関心をもてないものが、たくさんみつかるだろう。それは自分の欠如なのだ。学ぶべき課題でもある。無関心はこころの欠如として、非とされる。が、無視はもてはやされているが、それを学習する意欲をなくすことで、たちがよくない癖なのだ。

 

ただ共感するものを感じてみよう。

 この訓練がよいのは、好き嫌いというものを超えて、すべての物体を感じ取ろうとすることだ。嫌いなものに目をつぶり、感じようとはしない習慣。それを打破して、子供の時のような素直な感受性を、取り戻すことができる。

 

 共感は、基礎的な感情なのである。

 

非共感からは、『存在』と呼ばれるやハエの妻の思想の一端をかいまみることができるだろう。

 

2018年10月17日

 

友達に慣れる日

今日は、ユイ似をみかけ、金鉢似は声だけ。それから誘導係と話し。あのレジの姉さんも見たし。若い者たちをたくさんみかけた。アパレルの気の強いおなごさんも見た。友だちと慣れるような1日だった。全体的に若いのがポイント。多田の猪名川でみかけたヌートリアまで若かった。ようやく老けた世界から脱出か。

 

いつ本当の友達ができるか。まだまだ先のようなのだ。少しずつ慣らす計画らしい。

 

2018年10月17日

 

精神論 対人感情

 親しみにはいろいろなものがある。同じ体験をするものとして。過去に同じ体験をした者として、同じ興味をもつ者として。なぜか似ているということに関して。

 夢で相手の体に入ったからという親しみ。守護霊のグループの親しみ。赤い糸の親しみ。

 

たくさんある。親しみの全種類を明らかにして、個々の違いなどは、いずれ明確にせねば。

 

2018年10月17日

 

新しい若者(ハゲの彼に似ている者)と結のような子と出会う。

 

彼に聞かれたこと。

 

死相の科学

 死期を超えた者が、黒シミをもつ。その周波数?

 それは4+9つくらいの次元がある。それらの本人を事故予知して、活かしたらよい。が、そのうち4つが天国の装置だけでは操作できない次元である。宇宙人から、操作技術を借りるしかないようである。初期の宇宙人でよい。

 

やっておこう。

 

彼らがエジプトの親しい者たちに属するので、ほっとした。いつも、遠くの関係に会っている。たまに近い者と出会うとうれしくなるのだ。あまり気を使わなくてはよい。自然と、相手に合わせられるのだ。

 

最初の出会いは、緊張して、他人行儀でも。

 

 

 

2018年10月17日

 

32億年後の我々

 

2018年10月15日

 

現在の思考力で、何もかも精神論でクリアに語れると思ったが、あまりそうではないらしい。

 

スマトラは外したかな? 映画の予告のシンボルはスマトラだったのだけど。

 

2018年10月15日

 

精神論 対人感情

 親近感、親しみ

 これは親しいという感覚だ。親しいとは、身近に感じることで、自分と深い関係があると感じること。辞書の意味はわかりにくい。

 自分は他人に、共通のものを感じる、同じものを感じる。傾向、興味、体験、表現法が似るか同じこと。すると親しみが湧く。

 

 親しいとは、馴れ馴れしいということで、仲良くて、高度なコミュニケーションが可能な関係。深い関係をもっていること。多くは、お互いをよく知っている、セックスなどをした、長く共に生活して、行動、思考が似ている。そんなコミュニケーションができる。

 

 親しいと反対は、距離を置く関係。疎いともいうし、知らない関係だ。

 

 私は親しい人は、あまりいないというか。あまり親しくしない。池田に長く住み、ここの人間は親しいとはあまり感じないからだ。私は枚方出で、百済神社の側なのか、韓国人のように親しい振る舞いはできる。親しくすると、冷たい池田の人には、べたべたすると思われるようだ。が、韓国では男性同志もそれで当たり前だ。韓流ドラマをみていたら、そんなのがよくいる。私は、人との距離が短い関係が、保てるのである。

 

が、相手によりけりなのだ。池田の中で長くいたため、親しくする技が上がらずに、いまいち上手に親しく振る舞えないことに、少し劣等感をもつ。池田の人の平均的なものよりも、はるかに親しくふるまえるのだが、それでも枚方の大人の平均に劣るのだ。

 

また孤独が長すぎたものだから、親しくすると、距離を起きにくくなる。適切な距離をとる方法がいまいちうまくない。そこいらで、親しくふるまうのがうまくないのだ。

 

 対人関係が充実して、私がうまく行動できるようになったら、作り直さなくてはいけない。親しい振る舞いについて。メガネを外してからのことだ。女性の相棒ができてからのことだ。しっかりとして男性の友人ができてからのことだ。

 

私が親しく感じるのは、自分と似た発想をもつ者だ。自分がそこにいたと感じる人もいる。夢で、彼の視点を体験したのだ。ただね、同一はいやなのだ。必ず、友は私と違った視点をもたなくてはいけない。

 

私のようなのが二人いたら、地球では仕事が重複してしまう。

友人は、親しいのかどうか。友人は、私には自分をひっぱってくれる者と、私についてくる者の2タイプいる。それが7:3とか、2:8とか。最近は、私についてくるのは、当面はいらないのだ。私はまずは社会性を身に着けなくてはいけないのだ。何か新しいことを体験させてくれるのがよい。

 

 親しいのは、同一感がかなり濃いという感覚だ。完全に同じならば、同一と感じる。やや違うと、少しずれていると感じる。似すぎると、奇妙に見える。それは、あるものが他にある割合で似ると、怖くみえるという法則がみつかった。不気味の谷現象という。似すぎていると、その友は怖くみえるだろう。一定の比率で似てないならば、親しく感じる。

 

 親しみは、またいずれ詳しく明らかにする。

 

2018年10月15日

 

まじかよ。なぜ当たらない。これほど、日常生活は当たるのに。

 

海外の曲を長く聞いていた。日本のチャート順位を見たら、新しい曲が入ってなかった。日本はなかなか変わらない。

 

30億年後の我々

 

2018年10月15日

 

池田の猪名川で寝そべって、対岸のJRの写真をとった。すると、寝転ぶと気持ちよかった。座ると、腹痛電波がきつかった。

また、とある芸人? 男優の芸術が細かく、宇宙中心の技能の片鱗をもっていることに気づいた。こんな感じになるのかと感心。

文明が進んだ者はどうなるか、わかる。が、初期の惑星では、どういうふうになるのか、いまいちわからなかった。その初見。

 変な姿になりやすく、変に芸術的になるらしい。「変」というのは、宇宙中心の才能をもつ者の特徴かもしれない。

 

シトラスの香りを入手。効果を確認中。

 

 

 

2018年10月15日

 

そもそも、私は野球に興味をもつ様になってから、どこかの球団から電波攻撃を受けた可能性が強い。それは犯罪ではあった。

 

精神論 対人感情

 嫉妬や妬みは、分捕り合戦の感情だとはわかったところ。

 羨望やうらやましい気持ちをもつことはよい。またそれは能力をあげて身につけるという向上心につなげよう。相手を貶めて、自分が相手と同じような得をするということをするのは、不当なものならば、悪いことなのだ。

 

 道徳教育に、なぜ悪しき感情をコントロール方法が入ってないのだろうか?

 切れる子供。いらいらする子供。短絡的な子供。それらに忍耐力をつけるには、感情を操る才能を身に着けなくてはならない。

 嫉妬深い子供、すぐに妬む子供。そのままで大人になると、手がつけられなくなる。羨望から、妬みに向かわせるのではなく、向上心につなげられるように教えたい。

 嫌悪感をむき出しにして、あからさまに嫌な顔をする子供。しつけがなってない。

 罪悪感を感じないで、罪の意識がなく、遵法精神をもてないまま大人になると、無法者になる。法律を破る悪党になる。

 

感情の一覧をみると、Wikiにある。

 人に対する感情でないものがある。

 安心、不安、驚き、興奮、好奇心、冷静、焦り、不思議、困惑、幸福、リラックス、緊張、欲望、無欲、恐怖、勇気、快、快感、後悔、満足、不満、無念、嫌悪、期待、苦しみ、悲しみ、怒り(自己に対するのは対人)、悩み、觀念、諦め、絶望、希望、空虚、楽観、自責

 

 人に対する感情もある

 感謝、名誉、責任、尊敬、親近感、畏怖、憧れ(憧憬)、勇気、嫌悪、恥、軽蔑、嫉妬、罪悪感、期待、失望する、優越感、恨み、怨み、悲しみ、怒り、憎悪、愛、愛おしさ、好き、心配する、信頼する。性的な興味。

 

 今日のテーマは何にしよう。またこんど。

 

2018年10月15日

 

28億年後の我々

 

2018年10月13日

 

午後6時から9時まで頭が痛かった。電犯がいなくなったら、楽になった。

 

透視が当たったぞ。10月の事故は13日としていたが、本日は確かにやばかった。朝にいつも、その日の3事故を透視しているが、交通事故があった。自転車はやばいので、歩きにした。

 

さてと、その透視では、震災は10月25日。今度は当たるのでは? 10月中だったし。

 

テレビを見なくなってから、時間が残るようになった。その時間は何をしよう。あれするか。3D。

 

2018年10月13日

 

ほんとひどい。舎羅林山でまた腹痛で、野糞させられる。二度目だ。狙われる。鹿はついに目撃できなかったが、草がガサガサと動く音はした。鹿はそこにいた。

 

精神論 対人感情

 嫉妬

 嫉妬は、羨望とよく似た意味だそう。まずは目についたほう、ややこしいほうの嫉妬から。

 

母親がよく妹に愛情をかけるので、姉が嫉妬する。妹をうらやましく思っただけではなく、妹のせいで自分に愛情が向かないので、妹を疎ましく思う。それが嫉妬。

 羨望は、ただ羨ましいと思うこと。悪意はない。嫉妬は、自分と羨ましい者とを比較して、自分とその者が同じようなのに、その者がひいきされている、ずるいとか思うことで、その者を追い落としてしまえという気持ちになることが、嫉妬だ。

 妬みとの違いは、何か。妬みは、他人が自分より何かよい。他人が羨ましいと思った上で、その優れていることをどうにか悪い方法で、なくしてしまい、自分を有利にしようとすることが、妬みだ。

 英語のジェラシーは、恋愛に限れられる。が、日本語の嫉妬はそれだけではなく、妬みとあまり変わらない。

 嫉妬と妬みには、怒りがある。が、それは自分がどうして、不利な状況にならなくてはいけないのか、ということである。これは、怒る先が、親が妹をひいきしたのであれば、妹ではなく、親に向かっている。妹に対して怒っているわけではない。妹が卑怯なことをして、何か優位なことになっているなら、妹である。

 ただし、嫉妬や妬みで、妹を排除したら、自分がよくなると思いつめたら、その時は、妹に対して攻撃的になる。

 

 この嫉妬は何が悪いのか?

 羨望まではよかった。うらやましい、と思うことは悪くない。例えば、金持ちはうらやましい。自分もそうなりたいと思う人は多い。絵や塑像、文章、音楽が上手な人はうらやましい。

 うらやましいは、才能のそのものに対する評価である。才能の周辺のものに対する憧れもある。音楽のプロはテレビに出られる。その羨望もある。

 これがそのまま向上心に結びつくならば、それはよいことだ。精神的に素晴らしい人たち。私も、そうなりたい、と。

 

 嫉妬や妬みは、そういう純粋で自然なものではない。相手を蹴落としてしまえば、自分が有利になれる、というどす黒い考えからくる。分配や、愛情の数など、あるものを獲得する時は、どうしても数に限りがあるから、それをうまくせしめよう、という発想なのだ。

 親の愛情。戦利品の分け前。農業の収穫物の分配。ものを取り合うこと。そう考えて、相手を出し抜いて、うまくやろう、という魂胆の感情だ。

 

 共産主義者が、金持ちがずるい方法で儲けていると思い込み、嫉妬する。嫉妬はまさにぶんどり合戦しか眼中にない共産主義者、特有の感情ともいえる。共産主義は、卑怯なことをしてでも、権力を得て、ぶんどることしか関心がない。嫉妬と妬みの生き物なのだ。共産主義者が闘争本能をむき出すのは、ぶんどり合戦しかしてないからだ。創造性が皆無。

 

 嫉妬や妬みは、ものをとりあうと思って負けた側が持つ感情である。

 

2018年10月12日

 

仕切り直し。13日後に震災だ。そろそろ、気合を入れなくては。防災だ。

 

何か有用なことを言えないかと模索中。やっと政治について何か言う気になってきた。

 

まず世界の問題児、中共を叩いてくれる者が必要だ。アメリカが共和党でトランプ大統領がそれを行う。私は、賛同する。応援もしたい。

 共産国は、北朝鮮、ベトナム、キューバをつぶすのが必要だ。が、ベトナムは反中に利用するために、追求が弱くなっている。ここをしっかりやってほしい。

 旧共産国。ロシアは、残存共産勢力が残り、いまだ世界に混乱をまきちらす。共産世代を早く、影響力を弱めることが大事だろう。ロシアの悪辣ぶり(衰えない秩序破壊)から、民主化してもすぐに良き民主国家にならない、と気づく。

 

 世代交代でなんとかなるとみた。すべてがそうなるだろう。すると、中国が民主化するのは早いとしても、健全化するまであと50年はみておいたほうがよい。それまでは中国、ベトナム、キューバは不活性な状態にとめおかれる。社会主義勢力が政権を担う間は、経済パワーを得られないとしたものだ。

 

 北朝鮮は韓国に併合される。ここは東ドイツのように、政権は保守となるからして、北半分の国民は混迷する。が、国家としては戻りが早いだろう。

 

 ようやく見通しがついてきた。チベットも中国の分裂あとに独立。新国の統治者は共産とは縁がないダライ・ラマの組織から出てくる。それが、長く続く。国家としては、健全化が早い。が、土地の付与。奪われたものを取り戻すべく、中国系列の資産の没収などは、しなくてはならず、混乱はしばらく続く。果敢にやれるだろう。

 

ウィグルは、タジクなど旧東欧諸国とのつながりのため、政権そのものが安定しにくい。モンゴル自治区もモンゴルに吸収される。そこはあまりみえてこないが、社会主義的な面が強いだろうから、どうもゴタゴタするだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2018年10月12日

 

22億年後の我々

 

2018年10月12日

 

海外の曲を聞いていると、時々、日本的なフレーズがある。私の嫌いな『下手な曲の代名詞』というメロディ。それをどのように使っているか。また克服しているか。それを熱心に分析する。日本人は何を間違えて、そんなメロディを使うのか。それがみえてくる。正しいフレーズのあり方が。

 

2018年10月12日

 

精神論 --友情を考えよう

 

友達になるのは、同じ関心をもつ者だ。それは、同じ能力をもち、似たような境遇にあること、それは地位、住所、体験などが同じかだ。

 

被害者は被害と心が通じやすい。特に興味をもつ分野が重なること。共感から友情になる。お互いに遊ぶのもある。

 

私の経験からすると、遊び相手は、サッカー、近所、囲碁がいた。大学に入った時にも。案外、できそうでできなかったのが、思想・哲学の友人、霊能力のそれ、男女のそれ、私の使命のそれ、私らしい星人のそれ。保守思想のそれ、

 

趣味、関心のある分野が一つあると、たいていは友人ができる。同じ興味をもつ人たちの中から、自分と似た志向の者、そこから気が合うのがいたら、友人だ。

 

 私の場合は、だいたい平均的な知性が、国公立の大学にゆけるくらいだ。阪大くらいからだ。大阪市大では学業で苦労しないほどの頭があること。才能があるのに、勉強しないのもいるが、そういうのは大卒でなくてよい。

 

 頭が冴えていないと、私の発想にしだいについてこれなくなるのだ。話が合うのは、やや高度なテーマで、一般論で話ができること。プロでなくてよいのだ。情報が制限されている中で、最善みたいなものが出せること。よく知っていて、その答えが出せるのは専門家である。が、そうではなくて。

 

 詳しすぎる。男女も関係は、私は今は考察しない。どういうのが合うのか、それはあまり知らないからだ。

 

 興味がある分野。そこにいる人達で、頭が冴えている人で、さらに、気が合う人。それが友人となる。

 

 私には、アイススケート、霊能力、電波犯罪被害、囲碁、発達心理、人間の成長(偉大な人格)、思想、社会論(保守)、哲学、地震予知、作曲かバンド、宗教などに関心がある。この中で、それぞれ友人を見つけ出せる。

 

だいたい友人は用意されている。関心が同じになるように、計画されている。親しくなるように定められた人くらいとしか、仲良くなれない。それが現実である。

 

2018年10月12日

 

どケチ大野の大失態だ。累計で数十万円を損した。がーん。まぁいいか。国保の加入者を健康にしたかと思えば。私は、税金には寛容で、国がこちらの満足する仕事をするために、使ってくれたと思うのだ。警察よ。私の税金で働けよ。アカを捕まえろよ。国防をもっと強化しろよ。私は反政府の人間とは違い、心から政府側なのでね。

 

が、少しカネがない窮屈な時期を過ごしてしまった。無駄に。痛い。

 

そうそう人生を終えた時に、手持ちのカネが余れば、それが500万だろうが、1000万だろうが、自分自身には関係ない。私は、その時には、何億と残す予定なのだ。透視で確認ずみ。貯金しだしてからは、多少、お金を無駄にしてもあまり関係ないのだ。使う時に足りなくなければよい。

 

今、お金があったら、もつといい生活ができたのに、それができなかったので失態なのだ。そう考えると実質は11万ほどの損害。貯金していたなら、金額的にはたいしたことがない失態だった。

 

2018年10月10日

 

某球団が和解とは。そんな時期なのか。電波を使った犯罪は、反省すべきだ。あっちはずっと勝てたからね。結局、幸運を呼び寄せたのではないのか? ただし、深いところの取引では、当面は優勝しない。

 

予知は、どうしても私に当てさせないつもりのようだ。いい加減にあきた。誰の細工か? アカの妨害などとっくに突破できるにあるのに、わざと低く貶められている。私の成長が止まったのは、そういう理由なのだ。囲碁も、なぜか止まった。透視能力は徐々に、進むようにされている。誰の計画かは、明らか。

 

 私は、自分がおかしなことをされているのは、自覚できる。成長速度が異常に遅くなるというのは、おかしいのだ。

 

 精神論 対人感情--

 

 哀れみ、同情、かわいそうと思うことは、悲しみを相手に感じること。それは書いたと思う。今回は友情。

 

 友情は、気が合うことにはじまり、お互いを大切にする。一緒に活動する友とみなすことだ。一緒にいると心地よい。楽しい。でも、私は今、友情を感じる相手がなく、どういうものだったか、記憶に探りながら、書く。

 

 友人は気が合う相手を選ぶ。それは価値観がよく似ているということだ。まずは、年齢が似ていること。もしくは、それをはじめてからの経験年が似ていること。

 

 年齢が似ると、発達心理の課題も似て、社会における一定の年齢でやるべきことも似て、同じ関心をもつ。大学生から30代くらいまでは、同年齢は大事なのだ。

 

 異なる年齢を友人にもてるようになるのは、かなり年齢が進んでからと思う。

 

何の気が合うか?

 発達心理のテーマが、似るか近い。年齢差が1年以内が多い。

 学生などは学年が同じで、学習テーマが似る。会社では、勤続年数などで仕事の課題などのテーマが似る。これは技能、学習の進み具合とする。能力が近いと親近感を持てる。

 あとは、哲学が似る。これは発達心理の消化度合いで、精神次元のそれだ。

 思想が似る。守護霊の系列(星系)が似る。先天的な生活習慣が似るのは、守護霊の育った時期と場所が似ている場合だ。

 もしくは同郷であること。育った地域が近いと、生活の発想、論理、言葉使いが似る。後天的なものだ。

 職業が似るのもある。

 

私が今、友情を感じるのは、電波犯罪の被害者の視点をもつことだ。あの悪いやつらと戦う意志があるのは、立派で、彼らに苦しめられたと思うのは、正義の心がある。そういうのを私は好む。

 

私が今友人になりそうなのは、一部の霊能者だ。霊能者としての喜びや楽しさ、技などを語り合いたいので。私は、独学で、霊能者とは誰とも話さなかったのだ。霊や宇宙人とは話すけども。テレパシーではそれはしたことがある。ここは、不思議なことなのだ。

 

 私は哲学でも、発達心理でも、霊能力でも、独学ではふつう到達できない高みにあがった。そのわりに、人とそれを語ったことがない。ここが、おかしいのだ。ふつうは、人と語るでしょ。囲碁は人とよく打ったし、友達もいた。そのくらいはいておかしくない。

 

 私が友達になりたいのは、不思議ちゃんだ。しかもとりわけ賢いの。精神世界の研究者はピンきり。で、私のよう、あの混沌とした世界に、異常なほどの体系(理論)と秩序(確定事項--霊、天国、宇宙人、悪の宇宙人との交信、これらについて正しい知識をもたらし、かなりの迷妄をなくし、精神世界の混乱を収束した。)をもたらした。システムを作り出した。その私の見地についてこれるのがいい。いくつかの分野で。裏の技術で、多少、勉強させたら、一年くらいで、私に追いつくのだけどね。裏に出回る雑多な情報を見て、自力で、教育なしに、その見地に到達した人がいいな。それは無理か。教育を受けてでもよい。

 

 私が友達になりたいのは、社会問題で、明るく語れる人。専門家の細かい話ができるほどのほうがよいけれども、私はそこまでの知識はもってないので、そのクラスでありながら、やや素人めの私とも、意見交換できる人がいい。

 私は専門家ほどではないが、素人でもないのだ。そのあたりなのだ。駆け出しの書生くらい。そんな若手、と雑談を楽しくできそうなのがいい。

 

 いまのところ、こんな人達に興味がある。あとは女性。で、私に人が寄ってこないのは、私に一つ、おかしな要件を満たさないのだ。アカファイルのことを自由に語れる、という要件を、私はもってない。その話を私にすると、アカにひどいめにあうと信じている勇気と正義心のない者たちがやたらと多い。

 

だから、ふつうの人は、話す内容を制限しなくてはならなくて、面倒らしい。

 

というわけで、私は今、自分が関心をもつテーマと似たようなことを考えている人を、関心の一致、その分野における能力が似る、するものを友人にするということがわかった。

 

 

 

2018年10月10日

 

20億年後の我々

 

2018年10月9日

 

イタリアの流行歌をきくと、アメリカポップス的、アメリカポップスのそっくりのイタリア流、やや90年代っぽい古い歌(2流)がある。私が普段、思いつく曲は日本的2流だ。これでは、日本トップ入りはほど遠い。

 

スペインは、スペイン風の世界トップに入るもの、アメリカポップス似、そのスペイン風版と、ラテン音楽の現代版と、古いスペイン音楽がある。スペイン音楽は曲の形式(曲調)は狭いが、唯一、アメリカのトップにくるのが出て、世界ナンバー2だ。

 

2018年10月9日

 

正しいことをしなくてはいけない。

 私の知性を低下させる悪をみつけだし、封印すること。

正しいことを知れ。

 

テレビを見ていたら、大学の講師、教師は楽しいなと思った。気楽で。

音楽家のドラマを見ていても、プロになる気はしなかった。演奏、コンサートばかりではないか。あれが、楽しいとはあまり思わなかったのだ。会社員も、そんなに楽しそうではないのだ。特に会議はつまらない。弁護士も、そんなに魅力をそそられない。流行の雑誌の編集者も。

 

これら職業のどこに同調できないか。忙しいことと、大衆の好みに合わせることが、大きい点だ。特に、営業は。

 

私は心理家なので、人の関心にあわせ、彼らの求めるものを、示すのは、得意中の得意だ。営業は、それなので、訓練するとうまくできる。が、人に合わせることばかりが、つらいのだ。社会の要求には、間違いと正義がある。が、営業では、人の迷いから出る要求があり、それを満たすこと。本人が満足することに重きをおくので、本人にとって最善のもの、正しいものでないものになることが、多々ある。満足させるのが中心で、いかに説得して正しいものを受け入れられるようにして、それをもたせられるか。それが弱くなる。

 

また、最善かどうかではなく、自社の製品の中から、彼の要求を満たすものを、提供しなくてはならない。それはそれで、限られた範囲の中から、最善を見出すこと。できないことではない。が、やや不満足となる。

 

カネばかりで、気楽にはできないのが、どうも、収入の低い中で生きていた私には、すぐにできない。慣れたら、高給のとれることをできるようになれるのだが。

 

いいわけばかりだ。

 

イタリアの歌手は老けてみえる。世界の歌手を探し、今の自分にあいそうなのをみつけだす。アメリカ外は男女問わず。

 

未来の地球人の神について、

 かれの人生は、その人物が神となって、行うべきことも含まれる。モーゼは、王と戦い、決別した。それは、彼が数万年後に神となって、旧王(前神)に対してすべきことだ。

 

さてと、私の人生の中でずつと続くことは、近所の嫌がらせだ。執拗な嫌がらせなのだ。近くにいる隠れた敵から行われる。これも、私があの世ですべき最も重要なことと関係がある、はずだ。様々な面で、私の生活の低下を引き起こそうと、細工してくる。そういうあらゆる妨害を打ち砕き、自分を保てということなのだろう。そして、高みを築けと。

 

 いずれこの体験の意味をつきとめよう。

 

2018年10月9日

 

左翼の皆さんは、「天皇のために」ということが何を意味するか? わかってないね。

 ネトサヨには、戦前、「天皇のために」、命を投げ出せ、働けと言われた。だから、そういう教えである「教育勅語」はいけない、という論陣をよくみかける。

 では、「天皇のために」はどういうことか?

 天皇の財産を増やすためか? それは違う。天皇の権威を高めるためか? 日本国民しか認めない。これ以上は上がらない。違う。日本国の繁栄のためか。そのために「天皇のために」というスローガンを軍人たちは利用した。が、明らかに違う。

 「天皇のために」というのは、天皇個人の利益のために何かすることではない。国王のために、というなら考えやすく、国家の繁栄のために、という意味あいとなる。そのため打ち出された政策に、同意して、一緒に実現しよう、ということだろう。

 「天皇のために」とは、ただ国家のために、といっても、反対する人が出る。それを防ぐべく、反対しにくい人のために何かしよう、ということで、天皇の名と権威を借用したものなのだ。実質は「国家のために」と言い換えることはできる。

 だから、天皇自身のためになることではなく、国家のためになることを、何かさせる時に使う言い回しなのだ。

 「天皇のために」という呼びかけは、「天皇(個人)のため」に何かするわけではないのだ。面白いだろう? 政府のためになることを何かさせられるのだ。つまり、「天皇のために」のいくつかは、嘘なのだ。

 

 戦前の軍人は、そう言って、嘘をついていたのだ。天皇のためにならないことも、政策を強行に押し通すために、「天皇のために」と言ってきた。特に、「天皇のため」とついたのは、合理性がないものが多いと思う。そういう強引な政策は、天皇のためにならないばかりか、国家のためにもならなかったのだと思う。

 

具体的に何かは、私は調べてないが、必ずあると思う。権威を借用しないでも、その理由をただ説明しただけで、人々が納得するものは、天皇の権威を借りる必要がないからだ。そういうのが正当な政策だっただろう。

 

「天皇のために」とスローガンがついた政策は、苦し紛れのものが多かった、といえるのではないだろうか。

 

 「天皇のために」という言葉は、反対者が出ないようにするためにつける習わしだった。正当性を説明できない政策によくつけられた。もしくは、我慢を強いる国民の反対が多くでるようなものに。天皇を崇拝する国民は喜んで賛同した。

 

 が、天皇のためにならない政策も混じっていたわけで、本当に天皇のためになるかは怪しかった。そもそも天皇のために、とつけた政策が、天皇自身のためになるものは、あまりなかった。例外は、天皇への寄付くらいだ。「天皇のために」は、定冠詞のようになんにでもつけられた時期もあった。が、強要のための言葉なのだ。

 

そもそも言うと、当時は実権は政治家が握っており、天皇は飾りものだった。鎌倉以後はずっとそうだ。今となっては、中身がない言葉なので、いつまでも恐れる必要はないだろう。

 

あとで書き直し。

 

2018年10月9日

 

長野地震が起きることに気づいた。地電流のマイナスの波で2回も長野で起きた。山梨だったら、大ショック。2度あることは3度あるで、長野でしょう。

 

震災が10月25日になった。10/23かもしれない。ともかく、時間ができた。

 

左翼のくだらないネットの文言を読むと、保守の論を書きたくなった。というわけで、当面、たまに読むことにした。

 

精神論 対人感情

 優越感。

 私は、よく経験する。囲碁で強い者たちは独特の感覚があって、弱い時にはなかなか相手してもらえないのだ。これは優越感ではないのだけど。

 私が強くなってからは、強い、弱いはあまり関係なく相手しているつもりだ。が、話合うのに限定しすぎているきらいはある。私は弱いから相手しないというよりも、素直ならいいのだ。筋がよければ。楽しければ。合理的ならだ。ただライバルとして意識するのは、同じくらいの実力。

 

 このように純粋に能力で、自分の位置を保つ、人間関係をみているのは、優越感というものではないはずだ。

 が、時々、強い有名な人だけをよいしょするのは、いる。そういうの輪に入るが、下のは相手しないと。これはとりまきという人たち。

 

 この能力差の壁というのが、人同志にはある。それをできるだけ低くするのが、良き者なのだ。下にもやさしく、受け入れられるというか。教化することを楽しみとする人。

 

 優越感には、私はカチンとくる。それは具体的には何か? 下の者に対して、彼らは横柄なのでは? ということだ。上の者にへいこらする者が、下の者に威張りちらすのもいる。ある地位になった途端に、下の人々が目に入らなくなる人もいる。

 

 これは自然なものと、何か歪みか間違いがそこにあるものと2つある。

 

大学生になると、大学での友達と遊ぶようになり、高校生からの友達と遊ぶのは減る。つづく人もいるが、しだいに減る。これは、大学生の優越感ではない。単に、大学の友達のほうが性に合い、楽しいからだ。高校のは、つまらないのだ。

 

が、高校時分の友達は、大学に入って、優越感をもつようになったと思うのである。より広い世界を知って、俺たちは置いてきぼりを食らったと。

 

これは、遊びの能力の問題なのだ。大学生は一般的に遊びがうまく、ほとんど日本人の学生は四年間は遊び呆けている。それで単位をとって卒業できる。必然的に、遊ぶのがうまくなる。

 高卒は、仕事をするようになり、高校時分の遊びの延長のようなことばかりする。遊ぶ能力があまりあがらない。仲間とのつるみ方も。

 で、遊びの感覚、発想。実際は遊びの能力に差がつく。それで、能力差ができて、その差がなかなか埋められないし、心の壁のように感じてしまうのである。

 大学生は、それで高卒のとあまり遊ばないのだ。

 では、高卒はどうしたらよいか? 遊び上手になること。高卒の社会人となって、上手に遊べているなら、社会人らしい遊びも覚えるだろう。ノリもかわる。それは、大人の世界のそれなので、学生の遊びにひけをとらない。これなら、大卒と高卒とか関係なく、能力的に同等なので、お互いつきあいやすい。

 だから、最初は、大卒は遊びにくいと感じても、社会人となって、長くなると、20才頃の遊びの能力差は関係なくなるので、しだいに社会人として全般的に遊び上手になり、差も埋まり、価値観が似てくる。すると、またつきあいだすこともある。それを待つしかない。

 

 優越感といっても、文化差の時もある。日本人がアメリカ人を見て、彼らが親切で日本人のことをよく理解しているのにもかかわらず、よくこう思う人がいる。日本人を侮蔑してないか、軽くみてないか? と。

 社会がアメリカのほうが10-20年は進んでいる。日本はいまだに、共産主義を抜けきれてないが、あちらは赤狩りをして、もう何十年も経過して、自由主義の文化を確立してきた。

 文化に能力差がある時は、相手国民には、優越感を感じてしまうのだ。実際に、日本の社会制度がいくつか遅れてもいる。社会のテーマそのものも。

 彼らのほうが、平均的に社会観において、優れている。社会主義が悪しきものだとは、彼らは迷わず言い切れる。日本人は、全共闘老人やその子供たちはそれも明確に認識できない。それにびびって、しまうと、彼らがやたらすごくみえてくる。そして、彼らが進んでいるように思ってしまう。そして、彼らは優越感をもってふるまっているようにみえてしまう。

 

 これは事実なのだ。彼らは、日本社会の問題点を、よく気づける。日本社会がアメリカより遅れていることは知っている。彼らは優位感はもつ。日本人は、彼らより劣等意識をもつ。そして、彼らは優越感をもつ。しかし、それ自体は正しいもので、それが悪いというのは、現状を知らない。

 

 国が2つあると、両国の発達が同等ではないから、必ず差があり、片方が優越感をもち、他方が劣等意識をもつ。これは自然なものである。

 

優越感(下を軽蔑したり侮蔑したりすることのほう)とは、下の者に対する不適切な認識からくる。

下のものをしっかりと受け入れ、教え諭す、低級者を楽しくみる心構えがなくてはいけないのだ。成長する者は、幼子であれ、喜ぶべきなのだ。

 

2018年10月9日

 

19億年後の我々

 

2018年10月8日

 

18億年後の我々

 

2018年10月8日

 

冷静に考えよう。今日は、町の店の者たちが不安そうにそわそわしていた。本当に、明日か? 東北震災後の恐竜の地震が、映画の予告によると、10/12-15だ。10/9は時期があっていると思うのだが、観測データに予兆がない。

 

精神論 対人感情 尊敬

 

儒教の束縛の一つを解く

 

親をいつまで敬うべきか 厳密に考える--敬うものがないのに、敬うというのは口先だけの嘘だ。

 

 尊敬とは自分よりよいものをもつ者に対して行う。能力の各部で、彼が上なら尊敬や、低いなら軽蔑や侮蔑(悪意のないもの)がなされる。

 

 父母への尊敬は、子供の時は、自分より才能がある点でされる。が、子が親を超えると、それは失われる。親への敬いは、親が優位な間だけだ。子が才能で優れると、親を下に見る。

 

 これはあらゆる全般にいえることで、教師に対しても、それは能力的に優れている間だけなのだ。それ以後は、世話になった人、もしくは世話しなくてはならない人になる。

 

 日本は親への敬愛を一生持つものだと、大勢が勘違いしている。愛は長くもつものだ。が、敬う面は追い抜いた時点で不要である。というか、尊敬できるものがないのに、敬うというのは虚偽の態度にあたる。それは、口先だけの尊敬であり、嘘なのだ。人間は、能力が下のものを敬わないのだ。(別の意味での話は、別の面で能力が上ということであって、別の意味でも下なら、敬わない)

 

 年老いた親に対して、孝行はするものと教えられる。それはしてよいのだ。が、優れた子供は、親を敬うことはない。日本では、『老いては子に従え』という。親が子の世話になる。親は子から学ぶ。つまり、親が子を敬うことになる。

 

 次に、先祖を敬うべきかどうか? いつまで敬うべきか?

 

 生まれたての赤子、まだ幼い子供は、親より劣る。先祖よりも、才能が劣る。先祖という時は、先祖の功績というよりは、先祖の能力で考える。子供の間は、大人も親も、先祖も敬うことが、多くは正しい。

 

 が、現代人の大人は先祖の才能を、たいていは超えてしまうので、先祖は敬わない。現代人は大学に行ってるから、江戸時代の平均的な農民よりは賢い。

 

自分より下のものは、けっして人は敬わない。それが尊敬という感情(今は感情とする)なのだ。

 

 現代人は、平安時代の農民を敬わない。敬うのは一部、優れた才能を発揮した、画家、水墨画、書家、文学者だけとなる。たいていの人は、家系図に先祖がいる。たいていの先祖は当時の平均的な才能しかなかった。現代人は、先祖を下に見る。

 

この考え方では奇妙なことになる。日本は儒教国だ。先祖を敬うべきと教えられる。が、それは、できないことをやれ、という教えとなってしまう。先祖を敬うことは、人間の本性に反するから教えてはいけない、ことになる。

 

 先祖を敬うのは、先人の功績を評価しろ、ということを尊敬させたらよいのか? 

 それは、当時の功績と現代の功績を純粋に能力で比較することになる。ため池を一つ作ったくらいの功績ならば、ダムひとつ作る工事規模より小さく、劣るだろう。それでは、先祖を敬うことにはつながらない。

 

 先祖を敬うのはこの考えでゆくべきだろう。今日は、私は散歩中に考えた。

 

先祖は今もあの世で生きていて、子孫を守っている。先祖は、あの世で能力を磨き、人が想像できないほどに高くなった。だから、先祖を尊敬する。つまり、あの世の観点を用いる。これなら、すっきりと先祖を尊敬できる。先祖は霊界にいて、人よりも才能があるのだから、尊敬できるのだ。

 

 先祖を尊敬しろと言われて、多くの人はそれは間違っていないと思うだろう。が、先祖の生きていた時代のことだけを考えると、先祖はたいしたことをしてないのだ。そこは尊敬できないのだ。敬意をもつことはできる。

 

敬意とは尊敬ではないものもある。敬意には、相手を価値ある存在だと認めることがある。何等かの価値さえ認めればよい。それは自分より上という意味ではない。

 

そうか。もし先祖の生きざまだけを考えるなら、先祖には、敬意しかもてないのだ。

 

というわけで、学校で教えるのは、先祖には敬意をもつ、ということだ。尊敬とは別の意味での敬意だ。これが正しいだろう。

 

 今日考えたのはまた別のことだ。

 

 先祖の霊を尊敬できるのか? 霊の親のことだ。

 

 民族神は、民族の祖となる人たちだ。あの者たちがあの世にゆき、天国から我々子孫を見守ってくれる。彼らをいつまで尊敬したらよいのか?

 

 答えは簡単で、彼らの才能を抜くまでだ。早くて、数百年、遅くて数千年だ。それ以後は、彼らは才能が下の者の一人として、扱うことになる。

 

私は直感的に先祖を尊敬しろ、という言葉に、反発したくなる。それはなぜかと考えた。

 子供時代はさすがに、彼らは天国におけるまぶしい者たちにみえた。が、天国の実情を知るにつけて、しだいに彼らの優位は長くつづかないことに気づいた。

 

 簡単にいうと、子孫ほどよい教育を受けて、賢い。現代人より、10万年先に生まれて育つ者のほうが、はるかに賢いだろう。肉体も改造され、薬もあり、よい教育も受ける。成長も早い。一般論として、子孫のほうが賢い。

 

 ギリシア神話に登場する者たち(当時の民族の祖、生きた人のこと、神ではない)は、私より27000年ほど長く生きる。その分、たくさんのことを天国で学び、賢いのだ。今は尊敬できる。が、彼らは時代から古く、彼らは我々21世紀を生きる者よりは、ゆっくりと成長する。

 

現代人は、彼らの能力に、遠からず追いつき、追い越す。それは目に見えている。つまり、数千年も経過すると、彼らは尊敬の対象ではなくなり、遅れた古代人になってしまうのだ。それは永遠の時の中では、あっという間だ。

 

子孫には、逆のことがいえる。彼らのほうがよい学びをする。賢く育てられ、成長率も早くなる。どんどん我々を追い抜いてゆくことだろう。彼らは、今は下だろうが、やがては尊敬すべき者たちとなる。それは約束されている。

 

 先祖を尊敬しろ、というのは、霊の世界では、一般的なものではない。永遠の時の中では、先祖は下に見るものなのだ。そして、新たに生まれる子孫ことが、尊敬の対象となる。

 

だから、先祖の霊を尊敬しろ、と言われた時に、納得しないのだ。それは、自分が成長するまでの一時のことで、幾億年と生きる時は、そうはならないからだ。

 

先祖の霊は、今は尊敬しても、やがては下にみる。これこそが、正しい考え方である。

 

 

2018年10月7日

 

世の中、焦りは禁物。明日の事故は、業務スーパー手前か矢門。震災の日のものではない。

 

しかし、本当に来るのか?

 

私は枚方に引っ越して、何をするのか?

 地震予知に、電波犯罪の告発。それから、旧交を温める。車の免許とる。白い文化の研究。金儲け。

 ありきたりだな。恋愛は? セックスは? どうなってんだよ。

 

2018年10月7日

 

 服部緑地に行ってきた。台風21号の強風で折れている枝が多いこと。倒木もたくさんあった。まだ落ちた枝がたくさん残って、木々が痛々しかった。

 

やっと、10/7-10 首都直下を送る。心配なのは、本当にスマトラ島の南部かということだ。透視では南と思ったのだ。なにしろ、チラノサウルスがサインだ。あれはジャワの近くだったはず。スモールフットで、シンボルが大崖から飛び降りるので、スマトラ島にするしかなかったのだ。

 

ともかく、予知の通知は完了。あとの仕事は、ブログで地磁気と地電流の異変を、みつけたら、東日本に警告することだ。しっかりやろう。

 

と衛星磁場(チリあたりの上空)を見ると、赤いグラフが異常に太い。大地震の予兆だったかな。困ったな。記憶がはっきりしない。赤線が太くなったら、地震だったかな。首都直下が迫る時期だけに、やばくみえてしまう。

 

カリフォルニアの地震があったはずだ。メキシコ北部か。それかもな。そうだ。そこだ。メキシコでM6-7だ。

 

北海道のち電流が、M型。山梨地震かな。山梨は、透視では、私が八尾勤務中だったはずで、もう諦めたつもりだったのだが。ただね、首都直下前に、山梨か神奈川で大きな地震があって、それは直後の首都直下で省みられることはなくなった、という話がどこかにあった。それかもしれないのだ。

 

メキシコにしよう。衛星磁場に強い反応があるのは、メキシコから中南米で強い地震がある時。思い出したぞ。よし。一瞬、東北かと思った。違うと思ったが、はっきりと区別できなくて、焦った。予定より一日早いから。

 

2018年10月6日

 

この期に及んで、東北-首都直下地震の日を外す。笑えるね。7年で透視があまりあがってないのだ。磨いたのは、文章力、精神論、作曲に、キーボード演奏。

 

肝心の透視が、伸びなかった。確実に練習すれば、向上するものだけをやった感じだ。

 

黙示録の解読がやや進んだ。そのおかげでいくつかは予知できる。

 

イタリア女性に性的な魅力を感じないぞ。そうだったのかな。信仰心が篤い人ほど、そんな気がしなくなる。

 

首都直下地震のこと。黙示録の予言がそろそろ、前章も終わったし、くるはずなのだ。それが最大の確信。

 

アメリカ以外の先進国では、アメリカと似たようなのが流れる。その曲風が韓国とイタリアが似ていたりもする。

 

 

2018年10月5日

 

2-3日前、エキスポシティからの帰りに、流れ星を見た。きらめく尾をひき、伏尾台から西の空で消えた。目前の上空で消えた。

 

今日は予兆がなく、違った。そろそろなのに。東京の人をランダムに想定したら、真っ黒だった。周辺で事故多発だ。震災は間近だ。

 のらむひょん? 伏尾台の男らしい。今日は会わなかった。あれと自転車でぶつかりかけた翌日なのに、飛行機が落ちた翌日なのに。

 

明日かなあ。今日のNHKのアナウンサーはドス黒かった。そこまで気分が落ち込むか? 何があった。昨日は、意欲満々だったのに。

 

教育勅語をとりあげようと思った。

 文部省の大臣が『教育勅語』に普遍的なものがあるから、現代的なものにアレンジして使えるようにする、と。

 

 間違ってはいない。が、発言を聞くと、道徳教育については素人のようだ。そもそも復活させようというのが、間違いだ。その必要はない。すでに教育勅語の徳目は、現在の道徳教育に盛り込まれている。

 

 教育勅語は

(1)父母への孝行
(2)兄弟姉妹の友愛
(3)夫婦の和
(4)友達の信
(5)謙遜
(6)博愛
(7)修学習業(勉学に励み職業を身につける)
(8)智能啓発(知識を養い才能を伸ばす)
(9)徳器成就(人格の向上)
(10)公益世務(世の中のためになる仕事に励む)
(11)遵法(じゅんぽう)
(12)義勇(国難に際しては国のために尽くす)

の12の徳目。』(教育勅語原本確認 「父母への孝行」「友情」「夫婦の和」…再評価の声
2014.4.9 12:39更新、産経新聞)

 

と、儒教をベースにした道徳だ。江戸時代に育まれた武士道で、良き精神と当時みなされたものだ。人間関係をよくするものと、勉学に励見、人格を高めること。そして、法を守り、公、社会、国家に尽くすことだ。仁を博愛とするのは、西洋的だ。要は、教育勅語と呼ぶのは、ほぼ儒教の徳目。儒教の精神である。

 

 教育勅語は儒教に基づき、ほとんど武士の道徳。父母への尊敬、忠臣、勉学、人格向上がある。遵法精神や公に尽くすことを求める。明治に、よき精神とされるものを入れ込まれた。

 いまやっている道徳教育は、さらに世界中の国々でよいとされる徳目、キリスト教の愛も加え、洗練したものである。忠臣、国に尽くすのは愛国心としてある。今学校でなされている道徳には、父母への敬愛はあるし、友情も、博愛もある。

 今のほうが進んでいる。明治の頃によしとされたものだけでは、物足りない。

 

 復活させる必要はない。すでに道徳教育には同様のものは盛り込まれている。さらに時代に合わせて、問題部分は修正されて、さらに洗練した徳目として教えている。

 

 

 

これをもっとよく書こう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2018年10月5日

 

15億年後の我々

 

2018年10月4日

 

明日なのか。本当に明日なのか?

4日前サインはみかけた。正確に数えてないが、それは明日か明後日だ。

頼りの綱は、地磁気と地電流だ。どれが311の予兆としてわかりやすかったか。アメリカや日本のを急いで調べ直す。アラスカは、カレッジとデッドホースがよし。カレッジは、大波後に小波の余波がつづいた。デッドホースは、何やら傾いた。アメリカの地震かもしれないが、そこは不明。日本は茨城県の地電流のみ。

キャセイステーションは大波が一つ。グアムは長い時間、凹んだが、よくわからない。マーキュリーは大波後に余波がつづいた。

今のところ、これら。こんなところか。

 

地震の時刻は、311が午後4時で、今回は10時。6時間遅れ。予兆は2011/3/10 9:00の大波だった。6時間遅れると、15:00となる。大断層なので、破裂に要する時間は似たようなものとする。

 

UTC 15時の波は、午後12時ころに出現する。深夜0時になって、さてどうか、と確認する。それまでは、待つ。

 

2018年10月4日

 

14億年後の我々

 

 

2018年10月3日

 

霊能者が、私に挑む?

 霊能戦はごめんだ。やりすぎた。何も楽しいことはない。

 

霊能力の向上のための話あいなら、大歓迎だ。

 そもそも、君は何とコンタクトしているか知っているのか?

 それは作った映像なのだぞ? 本者の霊でも宇宙人でもない。

 コンピューターの映像だ。コンピューターの声だ。

 それを神や守護霊などと称する偽物やろう。

 悪の宇宙人だぞ。どの星かをつきとめたのか?

 しかも、フェイクニュースしかくれないのだぞ。やつらは。

 こんなのは、私にとって初歩的な知識なのだ。

 

 私に聞きな。

 

 だが、私にもわからないことはある。

 透視をよくみる方法、よく聞こえる方法。このあたりの脳内の知識が不足しているのだ。

 どうして他の霊能者はよく見えるのだ?

 幽体離脱? 夢にはいる方法。こんな初歩的かもしれないことが、できない。

夢を呼び出す? ラマにできて、私はそれもできない。

 

 こちらの伝統的な技がどれもうまくできない。透視が少しみえ、聞こえる程度。

 

 だが、幽霊と霊の声は、正しく聞き分けられるのだ。それだけは、トップクラスだ。

細かいことはわからなくても、ニュアンスはな。

 正しい宇宙人の言葉もよくわかるぞ。他の人はけっして交信できないがな。

 テレパシーもできるぞ。私は。霊能者とはな。ただし固有名詞は聞き取りにくい。 

 

 でも、霊のことなら、私に聞きな。

 守護霊のこと。私はいつでも簡単に見つけ出せる。正しいのをな。

 宇宙人がみせるニセモノでないものを。

 透視で調べ物なら、私に聞きな。なんでもつきとめてみせるぞ。

 ただし透視に時間がかかる。だが、正しさはピカ一だ。

 

 なんでも透視できるのだ。誰よりも正確に。がね、いまいちよく見えてないのだ。

 よく見えてたら、とっくに世界一の透視家の称号を得ている。

 地震など簡単なのだ。

 

 もう少し見えるだけで、私の居場所はかわるのだ。

 誰か教えてよ。

 

2018年10月3日

 

ほんと、きんぽうげを飲まされ、午前中から午後3時まで頭痛で、ひどいめにあった。アカは何様のつもり?

 

精神論 対人感情 劣等感

 劣位の感情で、能力が劣ることだ。自分が他人より、能力が劣ると、劣等感を感じる。それは、相手への尊敬、リスペクトの裏返しである。それ自体を感じることは、自然なことだ。万能であらゆる面で誰よりも優れている人はいないからだ。子供は大人に対して、劣等感をいだく。なにしろ大人は子供にとって大きくて、力が強くて、賢いからだ。

 

劣等感が強い人

 田舎から都会に出てきた人は、そうなる。都会の人は、社交的で、会話がうまく、対人能力も高く、都会をうまく生きている。圧倒される。ただし、自分は何かいい才能をもっているという自負が強い人は、都会にきても、俺は負けてないぞ、と意気がる。この手のは、やがて才能が多くの面で劣るのだが、いつまでも闘志をもつ。いつでも負けてないぞ、とはためには、劣等感が強くみえる。

 この説明は正確でないかもしれない。

 なお、この劣等感は、都会人の才能を身につけることで、和らぐ。それをいつまでも習得できない愚かさが、招く劣等感だ。社交性が低いか、進んだ社会における会話法などを身につけることで、劣等感は小さくなる。

 

劣等感が強い人2

 何をしても、才能があっても、自分は劣っていると自分を低くする人。こちらはよくみかける。兄に対する弟の感覚にこういうのがある。劣等感の固定なのだ。長く、能力を追い抜けないと、永遠にそうであるかと思いこむ。学校のクラスで、能力的に下のほうの扱いが長いと、そういう性格になる。

 

ふつうは、子供のように無能なところから、才能を身に着けて、秀でる。そして劣等感は、優位感にかわる。

だが、潜在的な才能が低いと、劣等の意識が強いままだ。

 

優越的な気分のほうが、うまくこなせる人は、優越的になる。劣等的な気分のほうが性に合っている人は、そういう意識をもつ。

 

私ことであるが、劣等感は強いのだ。私の本来の才能では、あらゆる者を凌駕すると思い込んでいるからだ。自分はこんなに低くない、と。これは、自分の才能がやがて高くなることをつきとめた。周囲の才能と比較して、かなり低いとわかった。そこからきている。

 

ただ、私はたいてい優越的である。実際は、現時点、そんなに才能はないのだが。才能、ポテンシャルが高いからだ。社交的にも、能力的にも、うまく振る舞う(高い才能を得ている)からだ。

 

 

 

 

2018年10月3日

 

13億年後の我々

 

2018年10月2日

 

バーバラと心の巨人

 

山梨は外したのか? 透視すると、期間が私が八尾にいる時と出るぞ。まだ先ではないか。

とうとう首都直下の期間になった。バビロンの倒壊は、間違えようがない。解読を。

 

迫ってきたぞ。疎開した人がいると初めてきいた。賢明だ。

 

世の中、深刻に生きているのは、俺だけか。いや、周辺に警察関係者が多すぎるのが、そもそもよくないのでは?

ほんのりしているぞ。そういう世界もあるようだ。

 

せっかくなので、私の周辺から、過度に暗いのを取り除いてみよう。事件、事故、犯罪、災害、悪党。そうか。私の周りはそんなのばかりではないか。

どんよりしすぎだ。早く、そういう不幸みたいなのが遠ざかる日常になろうっと。

 

なぜ、そういう社会の暗部を、私は引き受けているか?

そういうわけではないのだけど。透視でそれをつきとめる技法を開発したから。だが、社会の光があたる部分も、いくつかは私の関与で輝く。

 

で、私の生活だけは、暗い連中が21年前からうろつく。早く消し去ろう。

 

 

2018年10月2日

 

精神論 対人感情--

優位感、劣位感

 

この変形について。

 優位感というのは、能力差を感じることだ。もしくは自分のほうが進んでいると感じること。100m競争中に先頭をはしる人は、優位感がある。それは自然な感情だ。それを感じないほうが、感情の欠落である。認識を感情にする経路が、途切れているか、歪んでいる。先頭から遅れて走る人は、劣位感がある。それもまた自然なものだ。先頭から遅れているのに、劣位を感じないのは、本人は順位を意識してない。競走してないのだ。

 

 自然な感情は、正しい感情の発露だ。望ましいものだ。さてと、優位感は、優越感、優等感ともいう。

 

が、優越感や劣等感となると、悪いものとされる。それはなぜ、よくないのだろうか? 何がよくないのか。

 

 優越感

 優位感は、正しく自然な感情だった。教師は常に、生徒よりも優位感がある。ないなら、それはその面で劣っているわけで、教師たる要件がない。優位感は順位を意識した時に、必ず感じるものだ。もしくは、自分より劣るものに気づいた時に、感じる。自分のほうが(他人よりは)よいと。

 比較できない者は、上達しないので、できるだけ感じるべきである。自分より上と下がわかる。向上心も芽生えやすい。上の技術には関心がゆく。何も感じないなら、下の者に対して教える気持ちも生じない。自分の位置を細かく知りうる者ほど、賢く成長しやすいのだ。特に、強烈な劣等感のようなものがある者は、向上しやすい。

 

 優越感が、過度になるとよくない。

 優越感が、特権的な地位と同じようなものと思う人もいる。大学卒は、高卒よりも、優越感はある。これは、社会的な地位みたいなもので、大卒の地位なのだ。だから、本当に能力の優越でないにもかかわらず、そういう経験差によるもの、出自によるものは、高卒と大卒は行動の様式に大きな差がある。高校生らしい振る舞いを続ける人と、大学生らしいふるまいのができる人は、社交性などに少し差がある。が、技能の差ではないので、はっきりしない優越感となり、何が優位なのか、具体的に説明できない。

 

 社会的地位が上というようなものに近い優越感は、能力差のようなはっきりしたものではない。上の者は鷹揚だ。が、下側の者は、かなり強く意識する。なお、このタイプの優越感をふりかざすのは、本人の実力に基づかないので、没落貴族のように、嫌われやすい。実力が低下しているのに、いつまでも尊大だと思われやすい。社会的に地位に似た優越感とする。

 

 優越感で、過去の地位にこだわるのも、いる。かつて尊敬された職業についていた人、かつての栄光をひきずる。

 また特権的地位をいつまでも得ていると思い込んでいるような優越感もある。医者、弁護士、セレブ、かつての芸能人などは、優越感にひたる。が、実力がないと、見透かされる。

 

 優越感を社会的に地位のように思い、特権的に振る舞う者。

 これが最も嫌われる。高い位置にいると、横暴のことが許容される。横暴に振る舞わなくてはいけないと、思い込むタイプだ。優越感=冷酷かつ横暴で、権力を使いまわす、と思い込んで、そうふるまうのがいる。優越感とは、能力による差なのだ。優位感が正しい。

 

地位による差ではないので、似ているが、やや違うのだ。このあたり間違えないようにしたい。地位が高いときは、権限や決定権、一定の範囲で、部下に指示を出せる。が、それは組織の活動に同意する者だけにしか通じないし、組織活動以外には、何の力もない。優越感が、上司のパワハラと同じようなものにならないように、注意したい。

 

 昔から、彼が能力が高く、尊敬していた。彼は絶対的に、優越感がある。と思い込んでいても、自分が抜いてしまえば、彼は下なのだ。そこは忘れてはいけない。自分が抜かれてしまえば、下なのだ。優越感は相対的なものだ。それは、純粋に能力による差と考える。社会的な地位の上下によるものならば、乱用は慎まなくてはいけない。

 

 

 

2018年10月2日

 

12億年後の我々

 

2018年9月30日

 

地震予知。

 これは山梨は9月の地震ではないかも。10月かな。山梨がないというのは理解できないな。海の水の源の解読が違ったのだろうか。透視が低下しているため、なんともね。

 

 山梨を外すと、一つも当てずに、首都直下に突入だ。まいったな。これじゃあ、誰も信用して逃げてくれない。裏の人間以外は。

 

 私に絡んでくるのは、川西や池田のアカくらいだ。来年4月から犯罪者は警察に何泊できるかな? 処世術ができる、池田・川西の騒動に巻き込まれたくないアカは、私に悪さしない。

 

2018年9月30日

 

精神論 優位感

 優位感には様々なものがあると説明した。

 能力者どうしが干渉する(ライバルなどと気にする)のは能力差が2以内だ。2以上離れた優位感、2以内の優位(わずかな差、ライバル視するレベル、同じと感じる優位)である。

 

 相手が自分の才能を超えると、優位感がなくなり、出遅れ感、追いつけない感などの劣位感が生じる。

 

 劣位感としよう。それは自分が劣る感覚、自分が能力で負けているという感じである。それは、相手の能力と、自分の能力を比較した結果からくる。

 

 劣位感にも、様々がある。能力差が2以内のもの。2以上に離れたものの大きく2つある。同等に近い時のものもある。

 能力差が2以上離れていると、相手に対して悔しいとか、そんな気持ちも生じない。相手が上だと認める。もしくは、相手の技能が見当もつかない。相手は、何か未知のちからで、自分よりもうまくやれる、と感じる。

 もし相手の技能を尊敬しているなら、2以上の段級位の開きがあると、みあげる感じとなる。手の届かない相手となる。

 2以内に入ると、やっと上手の意図していることを察知できるようになる。しかし、相手のほうがうまくそれをやれる。しだいに、ライバル視する。超えられる目標として意識するようになる。そして、さらに上手の能力に近づくと、時々、自分のほうがうまくできると感じるようになる。対等と感じる。そして、追い抜く。

 

 追い抜かれる側は、下から来ているものが、何かと意識するようになる。相手の心の動きを捉えられるようになる。ライバルか同じ能力者として、意識する。そして、もっと近づくとライバルとなる。それから追い抜かれると、相手が自分より上にいると感じる。

 

だいたいそんな時には、私はこやつやるな、と思うのだ。私は成長が早いから、あまり私より早いやつはいないので、珍しくそういうのがいたら、すごいと感心する。いずれ私がしっかりと学習して、彼を再び追い抜くとは思いつつも。

 

 自分よりはるかな高みに彼があがったら、お手上げだ。あいつから学ぼうということになる。師匠扱いとなる。

 

 私は能力差に敏感で、相手の能力を見誤るような勘違いな対応はしない。大阪では、能力差を見極めることは大事だ。もし、けんかが強い男に、うっかり弱いやつと思って、ひどい対応をしたら、ひどいめにあわされるかもしれないのだ。人を見分けるのは、特にしっかりとやるものだ。

 

 優位感と劣位感は、純粋に能力差で、ある。能力差とは、相手のほうがよい。よい状態を保てるかどうか。自分のほうが悪い。悪いことしかできない、か。それらに対する感覚なのだ。

 

 自分より、顔が美しいかどうか、自分より足が早いかどうか。そういうさえたもの、よいものを相手はもっている。それに気づくことで、感じてしまうものだ。

 

 自分よりよい人をみると、劣位感。自分より悪い人をみると、優位感。これは自然と生じるものだ。この自然な感覚は否定してはならない。この感覚を消すのは、認識をしないことで、状況把握ができてない。

 

 劣位感の発展したものに、何か問題があるだろう。それは劣等感、優位感が変な形で大きくなると優越感となる。それらの問題は、また今度。

 

2018年9月29日

 

何、9/26-29の山梨地震の予知を外したとは。9/30としようかな。それ以上はのびないとしたものだろう。3-5日の誤差は、たいしたことがないとしよう。首都直下のほうも。

 

私の社会性について点検した。成長の軌跡を。対人能力が池田にきてから伸びてない。が、対女性は少しずつあがっている。

 

精神面は、各種能力の向上がみられるかどうか。精神論はややあがった。落ち着きはだいぶなくなった。池田川西のアカが、あまりに精神的に弱々しいから、その影響を受けている分。

 

もっとも上がったのは、鍵盤弾きと作曲、作文、カメラ、3Dの技能だ。他にそんなに向上はみられない。

 

現在、プロの下っ端として使えるのは、作文が入ったはずだ。囲碁の腕ほどではないが、プロの下くらいは、私くらいで十分らしい。作曲がプロ級の実力になってから4-7ヶ月ほど。ようやくこの2つがプロ級となり、私の活躍できる範囲が広がった。

 

精神論は、ずっと前からプロ級。トップの。哲学、思想も。論文など書けばよいだけ。

 

現在、プロとして通用するのは、精神論、哲学、思想(社会論)は、高み。作文、作曲は下っ端。霊能力は、日本トップ級。で、6つの分野で技能。囲碁教室くらいなら、できる。

7つの職業くらいか。文学が4つ。音楽が一つ、宗教、占いか相談が一つ。少ないな。

 

他には、電波犯罪の被害者運動をする実力はある。みなさん、犯罪組織について嘘ばかり書く。

 

社会組織の運営の実力はある。一般的な能力だ。

 

他には、どうかな。非左翼、保守の理論を素人からプロの下のほうまで、次から次に書けるぞ。

 

なかなか、儲けられません。

 

明日、山梨がないといつくるのだろう。

 

2018年9月29日

 

台風接近中。

 

精神論 対人感情 優越感、優位感

 劣等感とは反対が優越感、優位感。

 自分のほうが優れている、良い状態であるという感覚だ。感情としては弱いので、喜びや悲しみのように顔に出すほどのものではない。感情かどうかもはっきりしない。

 

 相手の能力への感情が、尊敬だ。相手がよいなら、尊敬する。よいものが、外部にある時のものは、尊敬。他には、憧れがある。憧れは、彼のよさがまぶしいので、それ(そのよさ、才能や彼がもっているもの)を是非手に入りたい、それを目指すものである。理想というのも、憧れ感をもつ

 

反対に、自分が劣っていると、能力が下だと劣意、自分が下という感覚をもつ。自分のほうが全体的に悪い、という感覚だ。これは恥を伴う。自分が悪いことをすると、恥という感覚をもつ。

 

 優位感、優越感

 自分のほうがよい状態である。他者よりも。相手よりも。そう意識すると、優越感に浸る。

 自分が強く感じる。相手が弱く感じる。能力差なのだ。ただし、これには錯覚もある。能力ごとにあるために、他人にはわからないような優越感に浸っている場合もある。

 

 わかりやすい優越感は、金持ち、地位などをもつ者がもつ。かつて教授に登った者もももつ。スポーツ選手で、かつて栄光を手にした者も、現役の上位ももつ。

 

優越感は、何の能力で構成されるのか?

 金持ちはカネの多さからくると思いこむ。が、実は、金持ちの多くは、その社交性で人使いの才能の高さで、秀でている。特に、社長の家族などは。

 

だから、社会活動の能力が高いので、優越的なのだ。カネをもつだけなら、たかられるだろう。

 

 私はいくつかの点で、優越している。しかし、自分が優れているからどうか何か別のものでもさえているという優越感はもっていない。純粋に優位にはある。優位とは、弱い者たちとは、優れている。それで、ところどころで弱い者たちは間違えたり失敗しているのを感じられるのだ。私が間違えないようなことをしている。

 

彼らは悪いことをする。それについて、私はよい方法を知っている。これが優位の感覚だ。

 

囲碁で弱い碁打ちが間違える手をうつ。私なら、そんなミスをしないのにな、私ならこう打つというやつだ。曲で、私はそんなひどい曲は作らないという感覚だ。しかし、プロの曲よりもよいものを作れる実力は現在ないので、優位の感覚ではない。ただ、そんな曲はよくないと感じるが、劣等、弱いのだ。

 

 私は精神の質で、次元精神で、具体的には哲学で、他を圧する。あまりに高すぎて、比較対象がいないほどだ。とはいえ、特段に、私の精神が圧倒しているが、それを感じることはない。

 

 精神は理性であることも知らないのがいるし、直感に従うこともできてないのがいる。感覚的なものを好むのがいる。理性的な話をもちかけると、ついてこれるのがいない。実は、精神はこのランクをはかる社会にない。それで、私が自分でどれほど優れているかの自覚がない。そこから派生する様々な見地ももっていない。欲求と欲望の違いもわからないのがいる。

 

 能力的な優位。それを純粋にもつのが優位の感覚だ。絵が周囲より上手。彼よりピアノ演奏がうまいというものだ。

 

 優位の感覚について、詳しいことを述べよう。能力差が2以内になると、上の者がやっていることを理解するようになる。それでライバル視する。私はそれを干渉と呼んでいる。上のほうは、それで下の者について、おいついてきた感があるし、時にはわずらわしく感じるようになる。ようやく意識しはじめる。で、対等になり、超えると、上の人物はあせりはじめる。で、能力差が2を超えるまでは、お互いライバル視しているが、それを超えると、干渉はなくなる。

 

 それまで威張っていた古参は、新参が下にいる時に見下していたなら、関わらないようになる。相手(新参)は古参にとっては、能力でもうたちうちできない相手なのだ。で、その古参は下の者を見下すものと思い込んでいるから、見下されたと思うのだ。

 

それまで自分のほうが上だと思い、横暴なことをしていた者ほど、新参に抜かれた途端に、静かになる。能力が上にいるとしても、その立場を使って、乱暴なことをしていた粗野なのは、そういうのが多い。これは小人の器で、もともと上の地位にいて、上の者の努め、下の者を導いたり、指導したり、育てることなど、それなりのことができない人物である。

 

 上の能力になっても、下の面倒見がよいなど、できた人物は、もともと上の器なのだ。そういうのは能力を抜かれても、新参者とうまくやっていける。

 

この能力差について、日本人はよく知らないことがいくつかあるので、また書こう。

 

2018年9月28日

 

精神論 悲しみ4

 悲しみは、自分以外にそれを感じる時は、不幸をそこにみる。葬式で鎮痛な列を作る人達、泣き叫ぶのは、悲しげな人達。だが、それが日本の葬式でも、大往生だと悲しいものではない。長生きした。よく生きた爺さんと、皆さんは和やか。やっと死んでくれたと祝う不届き者も出る始末。死を悲しいときめつける現代人は、狭量なのだ。

 

 他人に悲しみを感じても、それは他人事なのだ。同情するまでは、巻き込まれることはない。

 

 自分が悲しくなるのが、やっかいだ。夫、妻の死でうちひしがれる。悲しみなのだ。楽しい生活がなくなるのだから。夫婦生活がつらい時は、悲しみよりも喜びが大きい。

 悲しみは、喪失感も伴う。自分の責任でなくなったと思うと、後悔は責任感と悲しみで、複雑になる。悲しむと、鈍り、重くなる。心と体が動かなくなる。

 

 そんな時はどうするか?

 私はあまり悲しまない。何かをなくしても、合理的にとらえる。受け入れる。私は透視で、私事故を防ぐ。そのたびに、死や怪我を見る。悲しいことばかりだ。他人のことにも、悲しみはたくさん感じるが、あまり派手に感じなくなった。

 

 私の人生そのものが悲しい。なので、私より悲しい者たちがいると、チベットの虐待などをみると、はじめて悲しい人達もいるものだ、と思う。それぼとの不幸を体験してない者では、たいした悲しみだとは感じない。同情も起きない。

 

 私より悲しい憂き目にあっている人には、ほんとうに悲しいことだなと思う。手をさしのべたく思う。

 

 自分の悲しみ。これは私は経験してないのだ。幼馴染が一人なくなったのがいたい。だが、さほど悲しいとは思わないのだ。彼女は私よりはるかに幸せに生きた。そこを含めて、死に方は不幸だったとしても、全体的に受け止めて、彼女に悲しみを感じるのか。

 

 私の場合は、霊とはあえるので、悲しみは小さくなるのだ。会えないつらさはないのだ。私は悲しみを体験しすぎているから、一度、整理しなくてはならないだろう。

 

悲しみを消すと、残るは会えないつらさと、寂しさである。母親のいない家の寂しさは、新たに活発な者が現れて、回復するまではどうしようもない。

 伴侶を失い、愛をなくすことで、日々の楽しみがなくなるのだが。それは愛をみつけ、親しみが以前ほどになるまでは、低下感が残るだろう。しかし、結婚するまで本人は、夫婦の喜びを知らなかったのであり、伴侶がなくなっても、結婚前の若き独身の気分に戻るだけなのだ。伴侶をなくした時に、生活のすべてを失ったというのは、考え違いも甚だしい。独身の気分に戻るのだ。

 

 独身の頃は、伴侶と出会う前は、あんなに元気だったではないか? そこを思い出して、伴侶なしでも、かなり一人でやれることを思い出さなくてはいけない。結婚してから、伴侶に頼りすぎていたことを反省しなくてはならないだろう。伴侶は、友達の親しい者とみなそう。

 

 このあたりの正確なことは、結婚してから、私は再度書くつもりだ。

 

2018年9月28日

 

11.0億年後の我々

 

2018年9月27日

 

このところ、毎日、インターマグネットのアラスカをよるに見る。一日に一つ大きな波が出現する。2つの時もある。どれが、日本の予兆か。それを見分ける。のが、仕事だ。

 

今日は9/27 9時に波。これは一つ小さいかも。しかし、そろそろ山梨の予兆が出ておかしくない時期なのだが。いや、それは今夜でしょ。

 

2018年9月27日

精神論 悲しみ3

 悲しみは同情をきっかけに生じる。が、それは感情全般でそうであるとする。仮定。同情が原因ではない。

 

 やはり、何かある事物が哀れ、悲しい様という価値観がある。で、それに該当するものがある、と気づいたら、悲しくなる。

 

 肉親が死んだら悲しい。そう思っている人は、その状況になると悲しくなる。

 

悲しみは、喪失のうち、人間関係での楽しさを諦めることだ。その面がある。人がなくなった時に、何を諦めたらよいのか。失ったものを数える。そして、それを諦める。その状況の変化に対応することでを踏むことで、悲しみはの内容を理解でき、何を悲しんでいるかもわかわらずに、いつまでも悲しむという情けないことはなくなる。

 

また悲しみは一定の時間を有する。自己喪失は、本人が新たな状況を理解して、受け入れるまでに時間がかかるからだ。喪失の心理プロセスを早く理解しても、ある限界以上に早くは、悲しくを消せない。

 

悲しみが長く残るのは、別のなんらかの原因があり、それは悪事に基づく。悪の宇宙人が悪い記憶や感情を長く体験させる装置を使う。そのマイナス感情の増幅器を使用された影響の可能性がある。

 

 

2018年9月27日

10.5億年後の我々

 

2018年9月26日

 

作曲の練習中。

 

2018年9月26日

 

山梨地震がない。観測データを詳しくみると、鳥取らしいのだ。これでは。しばらく待とう。

 

精神論 対人感情

 悲しみ2

 それは対人関係での喪失を伴うものとする。哀れは、かわいそうな様だ。

 

 かわいそうと感じるもの。

 これは対人感情でよい。家族を失った人や傷ついた動物にはかわいそうと感じる。が、壊れかけの石、割れた石には感じない。石がかわいそうと感じるには、石を擬人化しなくてはならない。

 かわいそうは、人と動物に感じる。植物にはどうか? 台風で枝がたくさん折れた木は、痛々しく感じる。が、かわいそうには思わない。植物は、痛みを感じそうなのだ。が、植物は、自らを哀れ(かわいそう、ひどいめにあっている)とは思いそうにないのだ。

 かわいそうと感じる条件としては、本人が「ひどいめにあっている」もしくは、それに類することを思うこと。動物も傷ついていると自覚する。そういう認識をもつ人、動物に対しては、かいわそうと思う。

 かわいそうの前段階の「痛々しい」というものについては、枝などが折れた植物など生き物に対する感情だが、植物は自身の哀れな様を自覚しないので、人は植物にかわいそうと同情しない。

 

 かわいそうは、同情の一種だ。これは仮説。本人が自らを「かわいそう(哀れ、つらい、ひどい目にあっている)」とまったく感じていない時は、そうは思わない。これは真実のはずだ。もしかわいそうが同情の類であるならば。

 

同情とは、相手の感情に共感すること。相手がその感情を少しでももってないと、それを自分も感じることはない。

 

 というわけで、もしかわいそうは同情の一種なら、ある人物が一方的に、かわいそう、気の毒、哀れを、そうなっている人に押し付けることはできない。いや、そうなった本人がそれをまったく感じてないならば、それは、かわいそうとすら感じないのかもしれない。

 

 文明が進んだ人は、遅れた世界、人には、すべてかわいそう--間違った悪い方法をしているため--と感じるのである。だが、当人はそう感じないのである。優越的な人が、劣等な生活をしている人たちを見て、かわいそうとか思うのは、単に優越感の裏返しの時もある。「かわいそう」と「気の毒」の押し付けようとする時は、自分たちの感覚、生活への感じ方が上だということを誇示しようとしている。

 

 だが、こういう自分達が優越的と思い、他を見下している人達はよく勘違いをして、勝手に相手を見下げている、その判断は不当なものが多い。感情の押し付けは、同意してはならない。拒絶しよう。というのは、かわいそうと思われた生き方のほうが、優れていることが多々ある。その場合は、本当はかわいそうではない。

 

 金持ちで怠惰な生活を送る人が、あくせく働く者たちを、貧乏人は休む暇もない、かわいそうで哀れ、気の毒と思う。が、実は、働く、何か仕事をしている人のほうが、何もしない人よりも高度な生き方なのだ。

 

このような時は、価値観の戦いとなる。かいわそう、哀れ、気の毒という感情は、本人の価値観により生じる。本人が、ひどい生活、そんなことは耐えられないと思うようなものに、感じるのだ。それは本人の価値観によって決まる。

 

本当に、かわいそうなもの、誰もがみてもそう感じるもの。それは、大勢が感じるかわいそうだ。が、一部の人たちだけが、感じるかわいそう、気の毒、悲しいもある。それは当人達が、間違った価値観で、不自然に感情的になっているだけである。そのおかしな世界の奇妙な感情に、合わせなくてよい。

 

彼らは奇妙な価値観を、他人に押し付けようとしているだけである。そんなのに、つきあわなくてよい。

 

突然、「君は哀れだね、かわいそうだね。」と言い寄ってくる人には注意しよう。それは、価値観を押し付けようとしてるからだ。「私はそうは感じないけど、君の感じ方と、それを支える価値観は、変だね。」と言ってあげよう。

 

2018年9月26日

 

10.2億年後の我々

 

 

2018年9月25日

 

まずいなあ。東北沖を完外ししそう。山梨の地震のような予兆が現れた。しかも、9/26は4日前サインの当日。この日にほぼ決まりなのだ。他に、4日前サインがなかったので。

 

きっと山梨だよ。鹿児島も茨城県も、12時に大きく下がってるもん。そんなの誰も教えてくれなかったよ。(おおさこ半端ねえの元語りのマネ)。しかも、私の予想日より一日早いよ。山梨はんぱねえ。

 

この期に及んで、東北沖を外すとは… 失態。

 

アメリカの霊は、宇宙の中心にゆくことを、とても楽しみに話す。その価値を理解したようだ。中国に似ているという。大きな惑星にゆくらしい。それは、幸運な男だ。

 

私は、あまり中心宇宙にゆくことを、大きな喜びとしてないが、本当は、もっと価値があるものらしい。残りの人生は、それを楽しみに励もう。

 

2018年9月25日

 

精神論 対人感情

 悲しみは、対人感情か。

 

悲しいのは、理想とは違い、悪い結果になること。悪いものに対する感情か。悲しいのは、自分自身の感覚だ。他人に対するものが多い。不幸せになること。自分にとって、悪いことがたくさんあると、悲しくなる。たった一つの悪いことなら、傷つくとかそういう、心痛める、がっかりする。意気消沈する。たくさんの悪いことが重なると、悲しくなる。

 

悲しみは、自分自身のことではなく、人が悪いことになると、よく感じる。人が死ぬと悲しくなる。喪失も含まれる。つまり、悪いことが起きて、その結果、何かしようとしていたことを諦める。行うことを楽しみにしていたことをやめること、喪失だが、それを伴うものが、悲しみだ。

 

 自分自身が、喪失を体験しても、例えば、地震でカネと家を失って、そこに長く住む予定をやめる。それで、人は悲しまない。予定が狂ったと、我慢する。

 が、大勢が人権弾圧で、つらい目にあっている光景をみると、悲しいと感じるのだ。悲惨だな、と。悲しみは、人に対象とした時に、よく感じられる。

 人が、哀れで、気の毒な様だ。その時は、人が、かなりつらい状況に陥っていること。明らかに。幸福でない様子なのだ。不幸なのだ。よくないことをたくさん、その人に起きている。その時に、悲しいのだ。

 

 人を侮蔑する時に、「あなたは悲しい人ね。」と無理に悲しいとか気の毒とか言うのは、嘘であることが多い。悲しみなどの使い方が間違っている。悲しい人とは、本当に不幸な人でなくてはいけないし、痛みが明らかでなくてはいけない。肉親を失った直後の人に対しては、使ってよい。彼は悲しんでいるからだ。

 本人が悲しんでもいないのに、気の毒ともこれっぽっちも思っていないのに、優越的な気分に浸り、見透かしたようにそういうのは、多くは勘違いの賜物であろう。

 なぜ言っても的はずれか。

 

 知らない人は知らないが、私は精神的な高みにいる。社会観も優れている。倫理観もだ。みなが精神的に、行動の間違いを犯して、生きている。それをいつも眺めている。もし、私が優越的にふるまうなら、彼らが何をしても哀れと思うだろう。なにしろやることなすこと、間違いだらけだ。救いようがない、と。

 だが、私は彼らを哀れとも悲しいとも思わない。それなりに、劣った哲学に従い、生きようとしている。頑張って、何かの信条に従い、生きている。憐れむ気はさらさら起きない。言う気にもならない。

 彼らの生き方を尊重するのだ。彼らは、暗い世界観に生きているが、悲しみは余計なことだ。哀れもいらない。彼らは、その哲学の中で、精一杯生きる。私はそれをするように、働きかける。

 

 

 

2018年9月25日

 

10.0億年後の我々

 

2018年9月24日

 

精神論 対人感情

 感情は感じ方だ。長く尾を引くものもある。それを適切に扱えないと、精神は明るく健康的に保てない。今回は、人に対する感情について。

 

 うれしいの次は、感謝の気持ち

 ほぼ人にしてもらって、うれしい=感謝である。自分が自ら動いてすべきことを、人にしてもらった。そして、喜びを得た。結果いかんにかかわらず、自分でする手間を省けた。それで、感謝である。

 動いて、疲れた自分の腕や足に対するねぎらい、ケア。それを他人に向ける気持ち。

 

 感謝は、自分の手足、体、頭で考えること。それら本来、自分がすべきこと。それを他人がかわりにやってくれたこと。そのありがたさが原点となる。これは、以前、考えた。自分自身へのいたわり。それが人に向くこと。

 

 だから、『すべてに感謝しろ。』というのは、おかしいのだ。つまり、万物の運行は、すべて自分で管理している、そういう神のような責任感をもつ。それがある人は、太陽が地球を照らすことにも、月があり、夜に輝いて人々の足元を月明かりで照らし、夜も灯してくれること。私のかわりに太陽や月がそれを行っているという自覚があるからこそ、それらに、感謝できる。が、ふつうは宇宙の運行まで、自分で決めてやっているとは思ってないのだ。

 

 本人がすべき範囲のこと。その範囲が、感謝できる範囲なのだ。病気を自分で治すべきだが、医者にやってもらった。親は、育ててくれた。ありがたく思えるのはそのくらいなのだ。

 

 次に子供は、何を感謝できるか?

 自分がしないことを、親がかたがわりしてくれた時には、それは感謝しない。赤ん坊が、親に食べ物を用意してもらったことを、感謝しない。自分ができるのに、他人にしてもらったことしか、人は感謝しないからだ。赤ん坊は、食べ物を入手することからできない。やろうとは思わない。人がそれをしてくれたとしても、

 

 で、おつかいができ、料理も作れるようになったら、少しは母親が料理してくれることに感謝するようになる。責任感が芽生えて、自分がその当番でやらなくてはいけないようになると、しだいに。大人になるにしたがい感謝する範囲が大きくなる。

 

 先生に感謝することについて

 小中の生徒は教えてもらっている間はしないだろう。社会人はする。何が違うか? 社会人は本来自分で教育すべきである、という自覚がある。が、独学してもよいのだが、先生に教えてもらった。ありがたい。その気持があるから、先生に感謝する。

 

 生意気な生徒も大人になってから、先生に感謝するという話がある。教師はそれを待つ。が、自分で自分を教育するという才能がない年齢で、教師が教えたことについて、子供は感謝することはない。教師は、生徒自身の代理ではないからだ。生徒が自分自身、一人で勉強しなくてはならない。そんな時に、教師が助けてくれた、わけではないからだ。一般的には。

 だから、感謝を正しく理解している子供は、公教育の教師に感謝しないだろう。ありがたいとは思わない。なにしろ、学習は強制である。自分でやりたくてやっているわけではないのだ。

 

 だが、中学生くらいに、教師に感謝するのがでてくる。あれは、自分で勉強したい意欲があるのだ。自分では問題をなかなか解けないのに、先生が教えてくれて、やっと解けた。ありがたい。一人ではどうしようもなかったのに、助けてもらった。と考える者だ。

 

 というわけで、教師が生徒から感謝をたくさんもらうには、学校の教師としてではなく、個人的に何か生徒に恩を着せるのが、得策ではないか。

 

 で、私は公教育の教師に感謝するか? しないだろう。そういう気持ちにはならない。彼らは彼らの仕事(教科指導)をしている。私は私の仕事(学習)をしている。彼らが個人的に何か特別なことを、教師という枠以外で、私にしてくれたこと。そういう私個人が礼をしなくてはならないことが、思い当たらないからだ。

 

 感謝には礼がつきものだ。

 もし私が教育そのものに感謝するなら、教師に謝礼を払っただろう。義務教育や大学で、そういうものを払った記憶がない。彼らは国や自治体から、給金をもらつている。彼らは、生徒の子供からはあまり感謝されないが、国や社会からは感謝されているのである。教師は、国や社会から感謝される仕事なのだ。基本、生徒からではない。

 

 私塾や囲碁では、師匠に感謝しているのだ。一人で勉強しても、そんなに上達しない、成長が遅いと思ったから、そういうところに行ったので。

 

 ただし、 これは初歩の感謝の話かも。

 

2018年9月24日

 

9.8億年後のわれわれ

 

2018年9月22日

 

首都直下地震は、今日の透視では、10月5日。はじめの東北の日だ。

 

私は最近、大阪の人のような気分ではない。ここにいるよりも、青く灰色の土地にいるような感じがある。しばらくしたら、東京にゆく。その感覚が始まっている。

 

地電流グラフは、みる度に波形が大きくなる。これはすごい。まいった。確実ではないか。透視と地電流の波形が揃った。なんと初かな。

 

もっと準備しておけばよかった。ところで、私が一つ当てたら、誰か報道するのか? これまでの実績からすると、どうみても、まぐれだけどね。

 

 何かしらの方法で、裏の情報でも得たのではないか? みんな勘ぐるぞ。が、違うのだ。すべて透視のなせる技なのだ。いやいや、ヨハネの黙示録を信用したのだ。透視はあまり変わらない。

 

2018年9月22日

 

地震がすぐ間近に迫っている。地震が近くなると、家の中で、表情が暗くなる。

透視では明日。東北に大地震。どこかよくわからないのだ。福島沖のようにみえるし、宮城かもしれないし、岩手かもしれない。とこだろう。

 

さてさてと、緊張だ。地電流、地磁気、万全を尽くさなくてはいけない。場所がわかってないのが今一つ。透視では宮城県沖か。決まりとする。

 

地電流には、きた。激しく、鋭い大きな波がいくつか。地磁気のグラフは不明確。

 

ばっちりだ。明日は、予知者の努めを果たそう。

 

 

2018年9月22日

 

精神論 対人感情について

 怒るは簡単でないので、また今度。

 今日は、喜び、とうれしいの感情。

 

 喜びは、自分の欲求が満足すること。それは対人感情ではない。

 うれしいは、人になにかしてもらって、喜ぶこと。うれしいは薄く喜ぶことでもある。が、ここでは人に何かしてもらって喜ぶことにして、考えてみる。

 

 人になにかしてもらうと、感謝する。これはうれしい気持ちから出るもの。

 

 うれしいと喜びの違いは? うれしいは、喜びプラス、何かある。それは、自分でしないで、やってもらったこと。自分の労力ではなく、そこは他人が動いてくれたこと。自分が動かすべき筋肉に対する思いが、他人に向かう。それがうれしいという気持ちだろう。

 

 うれしいは、外部の労力で、喜んだ時の気持ち。

 

2018年9月22日

 

9.6億年後の我々

 

2018年9月20日

 

精神論

対人感情について

 

感情については、薄いものと濃いものがある。強いものと弱いものがある。

 長引くものは、怒り、喜び、悲しみ。

 薄いのは、好きになるのは薄い、喜びも薄いのがある。

なぜ、持続するかが大事である。

 

2018年9月18日

 

震災まで17日か。2週間と少し。私も、少しは緊張してきた。大阪の人を見ているだけではそうではない。が、なぜか緊張しているのだ。

 

 

2018年9月18日

精神論

 

対人感情について

 

好きを考えたが、他人が、よいものもっていること。子供はすべてを好きなのだ。

 

今日考えるのは、嫌い

 

好きと嫌いは反対語として、好きと反対を一つに結びつけて考えるのは、正しくない。別個のものなのだ。これは、皮膚は、熱いと冷たいを感じ取る。が、それぞれ別のセンサーがある。気温としてみると、体温より低いものを、冷たく感じ、体温より高いものを熱く感じる。これを区別するには、別々の感覚センサーが必要なのだ。

 

ここでは基本的なことを考える。

嫌いは、好きとは別ものとみなす。

 

嫌いの感情はどこからくるか?

 自分にとって、悪いもの。それへの感情的な反応が、嫌いだろう。まずい食べ物は嫌い。悪い人は嫌い。貧乏は嫌い。悪さしてくる人は嫌い。

 

 基準は自分にとって、なのだ。一般的な基準ではない。例えば、悪人は一般的に嫌われる。が、かれの息子は父を嫌いとは思わないだろう。悪人的な面は、嫌うとしても。

 

 嫌いは、そのままその対象への感情となる。ピーマンが嫌い。まずいからだ。今回、考えるのは、なぜ、まずいという味覚が、『嫌い』という感情に変わるのか。そこでは、どういう判断がなされているのか。

 

 ピーマンはまずいもの、という認識だけで、終わるはずだ。が、嫌いというのはなぜか? 母親がピーマンを食わそうとする。子供は、私はピーマンを食べられない、ピーマンを受けつないと答える。それが、『嫌い』という言葉の意味だ。

 

 嫌いは、自分が受けつけられないもの、自分が拒絶するもの、ということになる。嫌韓が流行るが、そういう人たちは、韓国を受けつけられないと宣言しているに等しい。韓国に我慢ならない、という意味となる。

 

 反対語の好きは、受け付けられるという意味あいが入る。好きな異性というのは、自分が受け入れられる異性ということになる。子供が母親が一番好きなのは、母親のほとんどの面を子供は受け入れられるからだ。父親なら、乱暴だし、がさつな面がいやなこともあり、子供はそんな父親の態度を受け入れられない。

 

 好き嫌いの判定は、自分がそれを受け入れられるかどうか、からくるとわかった。自分がそれを受け入れられるものが好き。受け入れられないものが嫌いなのだ。ただそれがよいものかどうかではないのである。

 

 というわけで、それが嫌いということは、それを許容することができない、ということだ。それは心が狭いという意味合いだ。狭量なので、おおくの物事を、受け入れられない。なんでも嫌いという人は、許容力が低いのだ。

 

というわけで、心が広く大きい人になる人は、『嫌い』という考えをしなくなる。それは心の小さい人の特徴だからだ。で、なんでも受容できるように、自らを訓練する。

 

ピーマンは食えるようになる。怒りん坊でも、短気な老人を相手にしても、適切に対応して、うまくつきあえるようになろうとする。アメリカ人なら、寛容な人になろうと努め、たとえ嫌な人でも、嫌な気持ちをもたないで、差別することなく振る舞い、博愛ができるようになろうとする。我慢しているうちに、慣れて、そんな大人の心になれるのである。

 

 アメリカ人の場合は、いやそうな相手がいたとしても、本来、そんなに嫌いではない、とやがて気づくのである。このあたりのアメリカ人の精神は、私は細かく語れない。

 

嫌いは、受け入れられないことだ。

好きは、受け入れられること。特に、よくたくさん受け入れたいものを、大好きという。

 

嫌いは拒絶の感情なのだ。好きは受容の感情なのだ。

 

 

2018年9月18日

 

9.2億年後の我々と交信

 

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