日記 2018年8月10日〜 9月17日

2018年9月17日

 

のんきなのんきな関西人。迫るー、チョッカー。じごくの仮面。首都直下が間近。

 

Y子似の顔の男を多田のダイエーでみかけた。Y子の従兄弟らしい。ほんとうによく似てた。関東の人なのだろう。やや精神ががさつで、乱暴な感じがある。私の従兄弟には、あそこまでのはいない。みな、ある程度、しっかりしている。もうちょっと、精神太くなってくれ。

 

滋賀県の草津に行ってきた。枚方経由で。枚方に引っ越す感じが前よりも強くなった。一年以内は確からしい。関西外大の生徒のおしゃれ度が上がっていた。私は、その近所に暮らす。あそことは別世界にはならないようにしたい。あの大学の生徒には、私は用があるのだ。あそことは知人を作りたいので。特に外国人。

 

新しく親しくなる人は、みつけられたと思うのだが、枚方周辺ではなかった。茨木市だったのが意外だった。なになに、近所だったソウルメイトの知人らしい。

 

草津での反省。疲れすぎると、カメラの腕が落ちること。天気もよくなかったし、私のは映りがさえない。

 

やはり、京都方面の人はいいとわかる。彼らは、地元に関係する人物を、自分の手本とする。それが多いこと。幕末の人物になろうとしたり、醍醐天皇とかもいるし、紫式部もいる。その中で、精神がよいのは、仏像に目つきが似ている者。シャープな細めか、アーモンド型。眉毛に切れがある。修行的で、一生懸命に純粋に取り組むし、精神的にふるまう。私の記憶では、もっとも賢いのは、そういうふるまいとなるはずだが… 単に知的に賢いのでは、京都では尊敬されない。

 

 私もそのタイプなのだった。今回、坊さんにそれはあまり感じなかった。一般の学生の男子にそれが一人いた。

 

 

2018年9月17日

 

精神論

 人に対する感情のこと。

 

尊敬を解明した。それはもってないものをもっている人に対するもの。基本は、良いという感覚。それが外にあること。人がよいものをもっていること。そう判断した時の感情の一つ。

 

好き

 他人や動物に対する好意。人が、よいと思った時の感情。自分にとっていいものに対して、人は好きと思う。それだけではない。

 犬が好きでは、犬がお気に入りなのだ。気に入るとは、好きなものと認めること。好きは、好きになるというように、何か判断をして、自分にとってよいものと思った時に、そう決めること。嫌いは、自分にとってよくないこと、わるいものと認識したものに対する感情。

 

 食い物はうまいかまずいかの2つだ。それが、ピーマン嫌いとなると、自分にとってピーマンは悪いものと認識したことを意味する。ケーキがおいしい。で、ケーキを好きになるのは、自分にとってよいものと認識したからだ。

 

 私ごとだが、基本、嫌いはないのだ。アカでも、何らかの意味があって、存在する。社会理論の破綻したものの一つとして、大きくなりすぎたものだ。基本は、好きばかりだ。なんでも。子供が、すべてのものについて、ぼんやりと好きと思っている。私はそういう状態を保ちつつ、高度なのだ。

 小心者は、嫌い、悪いものを意識しすぎて、世界にあるものの多くを、否定しようとする。彼らは大切な物事も、嫌いなどと言う、みようともしない。無視するか、考えないようにする。そのようにして、彼らは偏って、多くの事物が欠落した世界観をもつ。それに陥らないためには、人間の初歩の感情に近いものを、全体的にもたなくてはいけないのだ。

 

 あらゆるものを正しく感じ取るようにするのが大切だ。安易な考えで、すぐに否定して、受付けないようにするのは、悪いのだ。

 

 人は、あらゆる物事を認識することが、好きなのだ。好奇心をもっている。自分に害なすものも、自分にとってすべて悪いものとは、完全に悪いとは思っていない。好きが残っている。そういうのを私は、もつ。意識しえるのだ。そもそも、カーテンなどに私は何も感じないが、嫌いではないのだ。

 

 好きは、強さがある。無関心から、しだいに強くなる。

 嫌いは、強さがある。が、好きの反対語ではない。

今は単に、自分にとって害であるということの感情とみなす。人間に対するもののそれは、多くは、自分が扱えないものなのだ。ネットで自分のことを誹謗中傷する人物はいやなやつだが、もし彼を完全に反論できるほどに自分がなれるとしたら、そんなやつでも、自分の手のひらの上で踊るやつで、かわいいワルにみえてしまうのだ。嫌いと拒絶する対象ではなくなる。拒絶する必要のないワルとなるのだ。

 

嫌い、扱いにくいのは、自分の能力不足が原因なのだ。本当に嫌いなのではない。世の中、毒草はたくさんある。害虫も、自分に害がないなら、嫌いにならない。

 

 では、好きなもの。もっとも好きなのは、あの赤い糸のつながつた相手の顔だ。なぜ好きと思うのか? それがよいと思っているからだ。理想なのだと。では、なぜ理想の異性は、それなのか? 一緒に住むからか。違う。同じジャンルの認識をなぜか彼、彼女はもっているのだ。それで、彼、彼女は自分のその分野の意見に対して、反応できるのだ。すべてにおいて。

 

 ふつう、自分の考えをただ調べて知っている人は、私がそのように考えることを、ただ知っているという反応をする。知ってるだけなのだ。赤い糸のつながった人は、さらに進んだ反応をする。

 まずは幼馴染の反応は、私の性格を熟知していて、その時の私の精神を的確にとらえて、困ったね、とか、私の反応をよく知っている者のようにふるまう。

 赤い糸の相手は、やや違うのだ。幼馴染はややがさつに励ます、勇気づける、叱りつける、好奇心をもつなどだ。全てにおいて、大雑把なのだ。赤い糸の相手は、もっと繊細に心に入り込む。力強く。まるで、赤ん坊の心のように反応する。

 自分のほうをきっちりと向いて、正しい反応をするのだ。他は、よそ見して、こちらを見ないのだ。細部にわたり、自分がよいと思う反応するのだ。しかし、それが最善ではないのだが。

 

 好きになれないものはある。わざと嫌われるように行動するという技術はあるのだ。教育上の配慮で。反対のことを言い、よいと思わせないように打ち消すという方法だ。

 

 また私に悪さをするものは、好きになってはいけない、という掟がある。好きという感情を押し殺すのではなく、好意をもってはいけない、彼が私に対してよく行動すると期待してはいけない、ということだ。それと、悪の霊系は必ず、悪いことをすると思わなくてはいけない。彼らはけっしてよいことはしないのだ。言うことが必ず、悪いものであるか、役にたたないガセであるか。もしくは罠であるか。

 

好きになるのは、私は言ってはいけないことになっているが、いつかは解禁されるだろう。

 

2018年9月17日

 

8.8億年後の我々

 

2018年9月11日

 

精神論

 人同しで生じるものについて。対人感情のこと。

 感情はすべて、判断によって生じる。動物的というが、なんであれ、高度なのだ。

 

 尊敬--これも感情だ。自分にないものをもっていると尊敬する。能力が高いものに尊敬する。それは、素晴らしいと思う心からくる。他人が素晴らしいのだ。素晴らしいものを、人は学ぼうとする。よいものを学びたがるのだ。

 

 素晴らしいのは、理論的に理想的だ、ということだ。とてもよいという感覚だ。最初は、判断している。が、慣れてくると、とてもよいものを、形から、味から、みかけから、言葉から区別できるようになる。すると、それでとてもよいものと判断すると、「素晴らしい」と思える。他人に、そう感じるのが、尊敬である。

 他人が素晴らしいことができること。それを理解した時に、尊敬する。で、何も素晴らしくないのものには、尊敬しない。できない。だから、「王様は偉大だ。君たちは王様を尊敬しろ。」と言われても、本人がそう納得しない限り、尊敬しない。尊敬とは、純粋に心の動きから生じる感情である。素晴らしいものが認められないものは、人間は真に尊敬できないのだ。尊敬は強要できない。

 敬意を表する、敬うとは、違うのだ。それは、何も尊敬してなくても、そう人は振る舞える。

 尊敬する人からは、そのすぐれた部分を学ぶ。尊敬する人が、あらゆる面で、よいわけではないので、すべての面で尊敬することはない。多くは、部分的だ。野球だけうまい選手が、俺のことを尊敬しろよ、と言っても、彼の友達は、野球の面でしか尊敬しない。

 

 「尊敬する」のは、高等感情か?

 向学心に結びつく、よい感情だということで、高等感情と分類しがちだ。が、これは基礎的な感情だ。「素晴らしい」と感じること。それが原理だろう。対人感情では「尊敬する」ことになる。複雑に何かあるわけではない。

 

 怒りを解明するのに一苦労だった。規律がどうのこうの。尊敬は、いいものを他人にみつけること。たったそれだけで、人は自然に、その人をその部分で尊敬する。実に、わかりやすい。

 

今回、対人感情には、自分自身の感情に対応するものがあるとわかった。

 

2018年9月11日

 

8.4億年後の我々

 

2018年9月10日

 

精神論

 人同士の関係で生じるものについて。

 喜びは一人で感じられる。尊敬は、他者に対するものだ。尊敬は、よいものに対する感情が原点にある。よりよい考え方をするもの。よりよい方法を知っているものへの感情である。

 尊敬の反対は、劣意だろう。これは悪いものに対する感情が原点にある。悪いものをもつものへの感情だ。

 嫉妬は、うらやましい気持ちだ。これも他人に感じるものだ。何がこの感情の原点なのだろう。不満足、喜びが小さいものが、それだと思う。

 あとは、体をうまく動かせない苛立ち。うまく動かせた時の爽快感がある。

 

まずは、これら対人の感情の仕組みを知らなくてはいけない。

 基本は、喜び。よいものに対する感情。悪いものに対する感情などだ。信頼というのもある。信頼は同じという感覚からくる。同じ動き、形をするものへの安心感か何かがある。

 

 よいものをもつ物体。この場合は、動物。もしくは、同じ人(同じ理性をもつ者で、同じ生活パターンをするもの)が、それをもつ(属性?として)のだ。

 

 精神論で、感情の抑制が大事なのだ。感情をコントロールできることが大切だ。優れた人は、適度な怒りをもち、それを常に保ち、どんな時も意欲を高めている。

 

世間に出回る感情理論は、デタラメなのだ。怒りは教育心からくる。そんな基礎すら書けてない。そこで、私は感情の理論を作り直す。

 

最も大人が怒るのは、出来の悪いわが子に対してだ。一生懸命教えようとしても、覚えない。間違える。怒りは教育する心からくるのだ。逆に、自分より賢い教師に対して、それはびびる気持ちが強くて、怒れない。子供の頃には、父親や母親があまりにも強く、正しくて(多くは)、怖い。怒る気持ちも湧いてこない。が、親の間違いがわかるようになると、子供は、親に怒るようになる。間違いを正そうとして。やはり、怒りは教えようとする心からきている。

 

ネット読むと、怒りの感情につい述べたものに、そんな基礎すらかけてない。これほど心理学が発達したにもかかわらず、怒りの感情すらまだ解明されていないのだ。21世紀初頭なのに、心理学の水準が情けない。

 

ここで、怒りは、単純に、能力が上の者が、能力の下のものに対して教えるが、正しい考え・技術を覚えないことに対する苛立ちの感情なのだ。

 

 ここまでは、分析的な人はすぐにわかることだ。さらに掘り下げる。教えるが失敗する。これが怒りの感情だ。

 

 能力が上というのは、よいこと、正しいことを知っていることだ。能力が下とは、間違った考えをもつか、それができないことだ。教えようとしている。自分の知識を分かち与えようとする。信頼する者に。

 

 つぎに、うまくいかない苛立ちもある。純粋には、何か操作しようとして、失敗する。例えば、ゴールポストにサッカーボールをシュートする。が、入らない。そういう苛立ち。物事をうまくできない苛立ちだ。これも怒りの原点の一つ。この苛立ちが、怒りの源の一つだ。が、自分に対しては、怒らない。自分に何か教えようとしても、それを学ばずに無能なことには、怒らない。諦めが先にくる。焦りが生じる。自分への失望はない。失望は他人への感情だ。

 

 教えるが、失敗する。すると、怒る。これが基本なのだ。

 

 ここまで書いた。正しいことを教えること。その感情がはっきりしない。同一の理性にもつ者。彼は、自分の考えを、受け取れるはずである。教えることとは、知識の伝搬である。それは、どういう感情が起きることか?

 

 楽に覚えられるという感覚である。ふつう、学習するには、経験して、帰納して、概念を分離して、悟性を働かせて、ぱたーん認知して、やっとひとつのことを学べる。が、そういう一つの学習の一連の過程をすっとばして、本質的な知識だけを記憶するのだから。

 

教わることは、学習で、楽をすることだ。これは、仮定とする。らくである。人から教えてもらうのは学びにおいて、楽することだ、というのは、厳密に正しいかを検証しなくてはならない。

 

 仮に今のところ、教わることの感情は、楽する感覚とする。教えるということは、相手に楽させて、知恵を覚えさせている。

 

 教えようとして、失敗する。それは、相手を楽させようとしたのに、失敗することだ。学ばないとは失敗とは、楽の反対で苦しむことだ。

 

で、全体をみる。知識を教えて、相手を楽させようとした。が、彼は知恵を覚えないで、自ら苦しむままだ。そんな時に、怒るのが、自然な感情か? 違うな。一つ足りない。そのままでは、どうしようもないと、諦める。失望がくる。怒りは湧いてこない。

 

 相手を楽しようとして拒む(覚えようとしない)だけなら、怒りは湧いてこない。相手が、拒絶して、さらに何かこちらに攻撃的になった時に、怒りが湧いてくる。私達は同志で、君によいことをしようとしているのに、その反抗的なの態度は何なんだと。

 

 好意を向けたのに、敵意が帰ってきた。何を勘違いしているのか、と。こちらの理論もないこともないのだが、検証してみよう。

 

 同志とは、相手も理性をもつ頭で考える生き物ということだ。話が通じる相手なのだ。彼は自分より弱いのだ。彼に何かよいことをしようとしたら、歯向かってきた。その時に、怒る。ガキんちょはこれだ。

 

 教える=楽させる、で考えてみよう。

 彼を楽させようとしたら、歯向かってきた。これは怒らない。教える=楽させるとは若干違うようだ。

 

苛立ちは、怒りのエネルギーの元だ。うまくいかないときは、怒りが長引く。全共闘老人は引退して、何が不満か、長く怒る。

 

では、相手の反発、攻撃性は、怒りの点火のもとか? それは違う。相手が攻撃的になるほどに、冷静に私は対処できる。

 

 相手がこちらに対抗しようとしたからか? 敵愾心というのがあって、ライバル心。相手が自分と同じと思う時ほど、怒りが湧きやすい。これは、相手が対抗したことにより、自分と相手とが、同一だと思わせることで、怒りやすい心情にしたとはいえる。が、それだけでは怒らない。

 

相手も、同じ人間だと人が、思った時に、怒る条件がそろう。が、まだ不十分だ。

 

 怒りは、発端となるキーワードがある。ある言葉を言われて、突然怒り出す。特定のワードは、怒りを誘発するのだ。ということは、怒りとは、概念、認知か、悟性の作用と関係するのか?

 

 これは正しそうだ。新しい物事を覚える時に、それまで知らなかったと気付き、自分は無知だったと恥の感情がわく。これは怒りに近い。恥も、対人の感情である。

 

怒りは、そう簡単ではないと気づく。

 

相手に教える時に、相手は概念を認知しなくてはならない、ということを想像する。概念を認知するのは、好奇心とか、学びの喜びを得る時だ。覚えるのは、楽しいことだ。楽しいは慣れと得意さから来るので、違うかも。

 

怒る時を考える。教える時、まったく覚えない時は、怒らないのだ。間違ったものを覚えると、おこるのでは? おいコラ、そうではないだろう。教えたことと違うことを覚えただろ、と。

 

 これで考えてみよう。でも、よく考えると、子供が教えた通りに理解することは稀なので、理解が少々違うくらいでは怒らない。

 

 怒りは、集団規律の問題では? 教えたことで、教師と生徒の間で、新しい規律が生じる。生徒が金魚の餌やりを覚えたら、教師はそれを生徒にまかせて、餌やりから解放される。生徒は、それを覚えた者として扱い、教師と生徒のルールが一歩進む。

 

そうなったつもりだった。が、生徒は、覚えてなくて、実は、元のまま、前の規律だった。愕然として、怒る。自分は新しく次のステップに進む(よりよい集団の規律にしたがって行動する)予定だったが、できない。その一歩進んだ規律を捨てて、前に戻ること。それが、いやで怒る。 これは前に戻るのが嫌、焦りのでよいのか。今のままでいたくて、諦めたくないのだ。

 

 いや、これは怒らない。

 

 もっと單純に、できないから怒る。しないから怒る。これは何だろう? 私はしない、できないくらいでは、怒らない。

 

結局、私が怒るのは何?

 Y子が、他の男と結婚したこと。バツになったこと。Y子が、私の許可なく、浮気したこと。後者でいこう。私が恥をかいたと思ったら、怒りが生じるのだ。どちらも。

 では、恥をかいてもよいと思ったら、怒らないのか? そうだな。恥をかいたと自覚することは、怒りの出発点には必要らしい。怒りは、世間体からくるらしい。世間からみっともないと思われたくなくて、行動する。それが、怒りの何かである。

 

というわけで、今回の結論。

 教えたのに、学ばなかった。教えようとして、失敗した。それが世間的には、私の恥。そう思っているものについて、相手を理解させようと、怒る。

 

 怒りとは、世間らかみっともないと思われたくなくて、頑張る時の感情だ。

 

 まとまりないが、今日はここまで。

 

2018年9月10日

 

8.0億年後の我々

 

2018年9月9日

 

男の曲もかかなくてはいけない。それが私の本分だ。そう、英語先生に言われる。

 

2018年9月8日

 

きんぽうげ中毒で半日寝込む。首都直下前に、私の手を借りたい者が関東東北に山ほどいるのに、鼓が滝北東のアカは正気か? 私の機嫌を損ねると如実に、跳ね返るのに。

 

私が寝込んだ時には、当然、アカへのそれは停止させる。その時に、すべて無に帰す。

 

最近、表現が擬似的なものから、核心的なものに変わりつつある。一定の表現能力に達すると、近似表現ができるようになるが、その時、正しい表現がしにくくなる。今は、そこから脱しつつある。

 

親戚のソウルメイトをいくつか把握した。案外、私が思っていた関係と違う。

 

 

2018年9月7日

 

まずい。9月の最大地震は、イランとしたが、それはM5.5。フィジーでM7.8が出たぞ。フィジーのほうかなあ。イランで犠牲者が多数出たら、イランなのだけど。そちらは報道がない。イランとフィジーを取り違えたか?

 

肝心な時に、当たらないな。

 

私が当てるのは、山梨前の東北と、山梨の2つだけか? このままでは。ほんと、首都直下前でギリギリだ。震災直前まで当てられない男になってしまった。

 

雨が強い。

 

 

2018年9月5日

どうやら、私の担当だった。気象のことは。他の者がやらないからおかしいと思ったのだ。もし、原発が爆発した時に、同じようなことが行われたら、悲劇だった。その辺りから、私に関与させたいという思惑があるのだろう。

 

精神論

 基本は、ほしいもの(欲求)は苦痛によってわかる。苦痛を止めないと、死に至る。苦痛を止めるために、食べ物や飲み物をとると、心地よい。おいしい。飲むと味がいい。満足する。それらが、喜びである。人は、絶えず、そうやって欲求を満たして、生きられる。

 

 次は何? 世界

 見たもの。聞いたもの。匂い。暑さ、寒さ。それで、世界を知る。

振り向くことで、横に何があるかを知る。上を見て、下を見て、左を見て、自分(まだ意識されていない)の回りに何があるかを知る。

 首をまわして、目を動かして、何があるかを知る。みえない時は、動いて、そこにゆき見る。

 

 動くもの。

 視野全体が動くのは、首を動かしているか、目を動かしている時だ。目と首を固定して、外にみると、世界を冷静にみられる。

 止まっているものと、動くものがある。単調な動きをするもの。複雑に動くものなどがある。

 

 動くものは、景色とひっついていない。それは、別個のものとされる。ここから、「個体」が理解される。動くものは、一体化して(ひっついて)いない。

 

2018年9月5日

 

8.0億年後の我々

 

2018年9月4日

 

台風21号の強風と高潮で、関空が水没。連絡橋に漂流タンカーが激突。えらいこっちゃ。経済損失がはかりしれない。

リオ博物館の2000万点消失もまた、痛い。

 

テレビは7時から見られなかったが、9時半には見れた。

 

このところ言うと、人に届くものがあることを知った。それがとても、その人の役に立つのだ。それは、言うことにした。

 

発音をはっきりさせないように、メロディをつくるのは、私のおはこだった。英語でやめると、いいメロディができる。私以外に、男に一人、女性にそれを使うシンガーソングライターをみつけた。どういう関係だろう。

 

生活があまり楽しくない主婦にとって、楽しみはセックスくらいなのだろうと思う。

 

私のことを裏を通じて知った者たちは、テレビで見ると、なんだか傲慢にみえる。本当は、傲慢というのではないのだろう。私の自己像とは、ちがうものを彼らは意識しているようだ。

 

私は貧乏で孤独で、まだまだ実力の足りてない者だ。デビュー前のまだ無名の人物だ。将来性もまだ不確かな。いわば書生。下積みだ。だから、私は彼らプロでテレビで活躍する者たちを、見上げるのだ。が、彼らは、私を下にみているようにはみえない。

 

彼らは、私を上にみているようだ。彼らにとって、私は英雄なのだ。いや、偉人なのだ。それで、私は違和感があるのだ。私はまだそんな人物になってもいない。食い違うのだ。そうだ。彼らが、私をどうとらえているか。そこをはっきりさせなくては。それが正しいなら、私は、しっくりくる。

 

何だろう。彼らは私をどう評価しているか?

 予言者。かつては、選りすぐりの予知能力者だった。電波犯罪の理論を打ち立てたややできる大物だった。さえた専門家だったのだ。

 幽霊界を作る前は。アカの言う、変態とか、気持ちわるいとか、そういうのは捨象する。それは、悪口であり、私の正当な評価ではない。それを除外できない者は、それにとらわれてはいるが、それは大きなものではない。

 

 が、黒場が電波でとらえられるようになると、少し違ってきた。それはまぁよい。

 

幽霊界をつくってからの彼らの私の見方が、何か違うのだ。

 御曹司。巨大な組織に守られた人物、というニュアンスが入る。まぁ、様々な企業システムを作り上げるコンサルタントみたいな感じだった。まだ日本人の霊だけの時は、彼らの感覚はとらえられた。が、アメリカや海外の霊が加わってからが、わかりにくくなったのだ。いや、天国が明らかになってからか。それからが、よくわからなくなった。

 

 あの世の世界中の歌手を集めて、音楽会を開いた頃からか。クリスマス会か。私が、そういう世界の人という扱いになったらしい。セレブというやつだ。いや、世界的なイベント運営者か? その端くれのような扱いとなった。これが、私にはとんとわからないのだ。

 

 セレブということにして、そう振る舞ってみるか。要領を身につけるまで時間かかりそうだけど。

 確かに、情報を収集力は、小国よりもある。セレブだな。世界中に、プレゼント(情報のみで)を万を送るのも造作もない。セレブしかできないな。世界を特別な情報で救う。これは安っぽいセレブだな。セレブは、長く活躍して、多くの業績が知られて、なれるもの。それは過去10-15年で、してきてはいるのだが、知られてない。

 

 問題はセレブらしくない面があること。交友範囲が狭いこと、自由に使えるカネがないこと、テレビなどでとりあげられない。世間の話題にはなるが、影でしか囁かれない。セレブの話題は表で堂々とする。あとは、セレブほど自信がないこと。女性とカネと、交友と、あとは自分が動かせる組織がなくては。自信などつかない。

 

 

2018年9月4日

 台風21号で閉じ込められる。雲が南西から東北に流れる。

 

そこでいいことを発見した。家に一日いると、気分が鬱屈してくる。体が黄色く見え、体の動きしにくくなり、ごわつくからだ。すでにその症状になりかけている。 これは、目をつぶるとよくわかる。それを発見した。ピアノの練習で、目をつぶって演奏しているためだ。

 

 もうひとつわかったこと。目をつぶると、その一日家にいるといういらつきがなくなることだ。というわけでわかってしまったのだ。体から分泌されるある生化学物質がある。それが目に入ると、とても気分が悪くなるということが。長く寝ると、気分が快活になる。それは、目から入らないからだ。

というわけで、家に長くいることで鬱屈になるのは、適切な目薬で治るのである。自宅に長くいると、目がつらくなってくるのだと思う。

 

 道徳教育について

 

小学校の道徳教育は、調べた。人間にとって大切な項目は並んでいた。が、精神をよく保つには、明らかに内容が足りない。

人を理解する上で必須な「考え方」が、十分ではない。

 

道徳で教えるものは、善悪(よいことと悪いこと)、正義、誠実、嘘をつかないこと、ごまかさないこと、素直。節度、節制、欲望をおさえ、規則正しい生活、個性、希望、勇気、努力と目標、親切、思いやり、感謝、礼儀、友情、信頼、寛容、規則、公平、公正、社会正義、勤労、公共心、愛-家族、国、自然愛護、尊敬、伝統と文化の理解、生命の尊重、感動、畏敬の念、よりよく生きる喜び、思いやりなどなど。真理と探究心、遵法精神、義務、権利、差へつしない、人との協力、美しいもの気高いもの、喜びなどだ。

 

 これらは羅列なのだ。体系的でないのが一つ。また人間の活動の基本を教えてないのが難点だ。

 

「欲求」。「苦しみ」と「満足」と「喜び」は最初に教えなくてはいけない。

 人には食べたいこと。飲みたいこと。暑いところがいやなこと。寒いところもいやなこと。大人になるとセックスしたいこと。欲求がある。

 

 欲求は、苦しくなること。お腹が減るのは苦しい、乾くと苦しい。暑いとつらい。寒いと凍えるなどなど。そのように苦痛の形で、知覚する。

 

次に苦痛を終わらせること。

 食べる、飲む、暖かくする。寒くして、快適な温度にするなど。これをすると、喜ぶ。喜びとは、欲求を満たす時に、生じる感情だと教える。

 

次に、生きることと、死ぬことがくる。苦しみを放っておくと、ますます苦しくなり、やがて死ぬ。だから、ものを食べる、痛みをなくそうと人は動く。それら生きるためのことをしなかったら、死ぬ。死ぬのはつらいことで、悲惨なこと。欲求を満たすと、生きられること。

 

 子供は苦痛をほったらかしにすることは体験してないので、それが何をもたらすかは教える。

 

 喜ぶ、満足することで、生きられると教える。ここまでが、生きるの基本だ。生き方は、基本から教えるのが大切である。基本をしっかり教えないと、生きるのが上手にならなくて、自殺率があがるのだ。事故死の率があがるのだ。

 

次には、何を教えよう。

 

善悪だ。空腹の時に、何をたべるか? 毒は病気になるから悪い。おいしい餃子は、善。喉が渇いた時に、砂を飲むのは悪。水を飲むのは善となる。

 

絶対にしてはいけないことが、悪なのだ。それ以外で、欲求を満たすものは、善となる。これをきっちりと教える。

 

 

で、次に、良い悪いだ。おいしい料理は、よい。まずい料理は食えないことはないので、悪ではないが、悪いのだ。いい食べ物と悪い食べ物。悪い食べ物は、食ってはいけないものも含まれる。食べ物をたくさん知ると、やっと良い悪いがわかるようになる。良い悪いは、比較で用いられる。

 

この次は、同じ顔や形の生き物をみると、同じ人間と思うこと、ちがった話題となる。

 

 

その次は、何にしよう。この流れでは、方法なのだ。目標と手段という考えか。

 

能力なのだ。いい子と悪い子の違いだ。いつもいいことをたくさんできるのが、いい子。たまに悪いことをして、よことばかりできないのが、悪い子なのだ。人は、能力の差があることを知る。これは高度だから、あと回しでよいだろう。

 

 

2018年9月3日

 今日は、新しい観点をみつけた。音、声の記憶をたどるのだ。これをすると、記憶力が高まるかもしれない。トラウマの原因を調べていて、過去のいろんな声をきいてみた。すると、はっきり思い出せるのが不思議だった。

 

 なぜだろう。私の声なども聞いてみた。

 

 来年2月までの地震予知

首都直下後の予言をチェックしなくてはならない。私は3月からは楽ちんで、予知できる。それまで11月-2019年2月は、自力透視だ。首都直下で信用される。それから外すわけにはいかない。が、実力は的中率は2-3%なのだ。自分の事故は予知できる。が、地震で確実なものは日本の大きなものくらいだ。それは黙示録にあるもの。それくらいは、見逃さないようにしたい。

 

ヨハネの黙示録/ 14章 8節
また、別の第二の天使が続いて来て、こう言った。「倒れた。大バビロンが倒れた。怒りを招くみだらな行いのぶどう酒を、諸国の民に飲ませたこの都が。」

 

これが首都直下。この次は

 

14章 10節
その者自身も、神の怒りの杯に混ぜものなしに注がれた、神の怒りのぶどう酒を飲むことになり、また、聖なる天使たちと小羊の前で、火と硫黄で苦しめられることになる。

 

 怒りのぶどう酒が千葉の石油タンクが揺れる地震。羊の前で火と硫黄で苦しめられるが、新燃岳の噴火で、11月半ばくらい。

 

14章 11節
その苦しみの煙は、世々限りなく立ち上り、獣とその像を拝む者たち、また、だれでも獣の名の刻印を受ける者は、昼も夜も安らぐことはない。」

 

 苦しみの煙、世々、昼も夜も安らぐことがない、が謎のシンボル。地震ではないと思うが。


14章 13節
また、わたしは天からこう告げる声を聞いた。「書き記せ。『今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである』と。」“霊”も言う。「然り。彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである。」

 

 霊は、地震だと思うのだが、よくわからない。これが2019年2月の出来事かもしれない。

 
14章 17節
また、別の天使が天にある神殿から出て来たが、この天使も手に鋭い鎌を持っていた。

 

神殿が不明。地震かもしれないが、最近みかけてないから不明。このあたりで2019年の2月は過ぎたと思う。


 14章 18節
すると、祭壇のところから、火をつかさどる権威を持つ別の天使が出て来て、鋭い鎌を持つ天使に大声でこう言った。「その鋭い鎌を入れて、地上のぶどうの房を取り入れよ。ぶどうの実は既に熟している。」

 

ぶどうなので、地震。二度登場するので、ぶどうの場所で2回。


14章 19節
そこで、その天使は、地に鎌を投げ入れて地上のぶどうを取り入れ、これを神の怒りの大きな搾り桶に投げ入れた。

 

 これは千葉がつよく揺れる地震。

14章 20節
搾り桶は、都の外で踏まれた。すると、血が搾り桶から流れ出て、馬のくつわに届くほどになり、千六百スタディオンにわたって広がった。

 

 これは別の相模湾の地震と解釈したもの。

 

 

 

 

 

 

2018年9月3日

 

7.6億年後の我々 この未来はかなり本来より、成長が遅い。

 

2018年9月2日

 作曲は、?の気分を曲にする。

これまでは、京都駅北のスペ風米ママ、白、知恩院横、大阪城の緑、滋賀北、四条大橋、階梯、枚方アナ似の順だった。

 白と四条大橋、四条大橋などは工夫がないので、変える。

 京都駅北、シルバーホックス、知恩院横、?、滋賀北、?、階梯、ピーコック前。

2人わからない。あとでつきとめよう。そんなところ。

 

2018年9月1日

 

アカファイル入手が2月とする。告発が6月。それで考えよう。

 たった4ヶ月ではないか。私は何ができる? 告発の準備ではない。暴露されたら、私はメデイアに呼ばれて、多忙になる。それまでに、やるべきことをしなくてはならないのだ。

 

 霊界の調整。地震予知は、新たな機械を使ってグレードアップする。引っ越し。古い友情の回復。いろんなことを短期間で、たった3ヶ月でせねばならない。

 

一日中暇な俺なら、できるかもしれないな。

 

2018年9月1日

 

 アカファィル入手の予定を知った。その月を透視で調べた。わかった時に、なんだそりゃあと思った。電波犯罪の告発とリンクしていたのだ。告発は2019年6月で、入手はそのわずか4ヶ月前の2月だったのだ。アカファイルをゲットすると、そのまま告発まで一直線ではないか。

 

地震予知が終わったら、アカフアイルと一緒にやってくる女達との幸せで一服つく予定だった。休む間もなく、告発へとまっすぐに進む。おれをそんなに働かせるな。

 

伝説への階段。アカファイルの入手が2月。伝説になるためのイベント--私の周辺で不幸が次々に起きる。それが3月、4月と続き、6月に告発にいたる。という予定もみえた。私が予知をできなかったら、それら不幸は成就して、私が告発の起点となっていただろう。もちろん、そんなへまはしない。

 

 当初のこの人生の計画はおかしいのだ。私は地震予知を成功して、有名になる。が、身近な不幸を予知できないなんてことが。地震予知は、予知の最高峰の1つで、人の不幸を軽く予見できる人がやることだ。その基礎ができてないことなんてありえないのだ。私は、自分も周辺の事故はほとんど予見できる。

 

 予知能力者は、自分の怪我を予知できない、というのは真っ赤な嘘なのだ。

 

 だから、私がへまして身内が不幸になって、それが有名になってメディアがとうとう電波犯罪を報道するというのは、無理がある計画だ。そうはならない。

 

 電波犯罪の告発は海外から突然、訪れる。そう思われている。

 

2018年9月1日

7.0億年後の我々

 

 2018年9月1日

 

 おまけだ。愛で、好きの意味は不要だから、それを抜いたらよい。その言葉は愛ではなく、****だ。***で、精神論を作る。それのほうが、より純粋だし、よいに決まっている。愛という言葉とその理論は、おハコだ。これぞ、精神論の進歩なのだ。

 

 愛は与えること。それも、***は与えることと言い換えられる。「好きになることは与えること」ではない。愛は好きの意味でキリスト教えで使われているのでははないのだ。

 

***はもし成長だとすると。成長とは与えること。なんか細かい行動の規定だ。ミクロだ。愛は与えること。これは愛の方法論だ。が、他の言葉に置き換えるとわかるが、たいした精神論ではないのだ。

 

 愛は与えること、と言って、何かすごいことを言った気にならないように。精神的には、あまり重要ではない。この言い回しが、愛の観念を歪めて、正当な評価を下せなくしてきた弊害のほうが大きい。

 

 愛の概念がより純粋なものになると、どうなるか? 育てるという意味が残るか、好きという意味が強くなるか。

 育てるという面が強くなると、精神論としては長く大事にされる観点となる。が、好きという面が強くなると、精神論としての価値は落ちる。ものを好きになることは、好きになった対象に何かよいことをすることは、あまり精神の基礎的なものではないからだ。

 

 で、愛は、夫婦愛など、愛の面を抜くことはできない。好きで代用するのか? 夫婦愛を他に表現できないだろう。だから、愛からこの定義は外せない。なくせないのだ。育てるという面が抜け落ちる。弱まる。それが、愛の概念の未来である。

 

 好きの理論は、あまり重要ではないので、だんだんと精神論の端においやられ、みながあまり顧みないような特殊な精神として、落ち着く。愛は、好きなものを大切にする考え方という古典的な精神となる。

 

 ただいつか脚光を浴びる時がある。

 

 好きの概念は、案外と大事なのだ。自己と他者の同一。すべては自己。この時、自分を好きになるように、他を好きになる。それを保たなくてはならない。万物を好きになる。その最上級としての愛なのだ。あまりたいしたことないか。

 

2018年8月31日

 

8月の地震予知を外した。またありえないミスだ。透視が低下しているとはいえ、自分の事故は、丁寧にやったら、必ず当てられる。なぜ地震だけ。おかしすぎる。3日間きっちり調べ上げる。

 

2018年8月31日

 

愛が精神の基礎論になってはいけない決定的な理由

 

愛は精神の基礎と勘違いしている人は大勢いる。キリスト教で愛を讃えすぎたためだ。

 

愛の意味は、1,好きの強いもの、2,母親や父親が子供を育てるという教育心、与えるはこの手段。3,家族を守ると守ることもある。4、欠落感を埋めるというのもある。与えるはこの手段。これは育てる心の1つとする。

 

大きく2つ、好きと教育心だ。夫婦の愛は、好きの強いもの。神の人類への愛は、教育心。

 

では、「新しい時代の精神の柱は、愛にする。」と安易に決めたとしよう。納得する? 何の疑問も感じない? 君は馬鹿ですか?

 

 愛には2つの精神がある。上の決定では、愛のどちらの面を新時代の精神としたのか? 

 

「好き」か? 「教育心」か? それを問わなくては。

 

好きが嵩じたような「愛する気持ち」は、単に好きといいかえられる。それを精神の運動にすると、つまり、人間好き、あらゆるものを好きになろう、というものになる。

 これをすると奇妙な人間が跋扈する。「私はなんでも好きよ。空、お星様、自然の草木、それから人間の汚物も。醜い獣も。」 イカれた人に、たまにいる。なんにでも愛想をふりまくのは。国中が、街中がそんなのにあふれてしまう。「なんでも愛する人」はなんか変なのだ。彼女らはこころの正しい反応の一部、嫌悪感を麻痺させているので、精神異常にみえる。

 

 若干、たとえがよくないが、まぁいいだろう。万物を好きになることが、21世紀に必要不可欠で、基礎的な精神か。そうは思えない。それほど20世紀に、嫌悪感が世相を支配していたわけではない。だから、好きになることが反動として必要な状況ではない。「好き」と思う気持ちが現在、とても不足するわけではなく、社会問題にはなっていないのだ。

 

 当然、教育心のほうが、まだしもだ。すると、愛を時代の精神にするということは、人はみな他を教育(育成)する意志をもつこと、と決めたことになる。そのために、他を成長させるために、必要なものを他に与えよ、みたいな運動が起きる。こちらのほうが、愛の「好き」という余分な面が抜け落ち、精神論としてはすっきりしている。こちらのほうが妥当だろう。

 

愛を時代の精神にするということは、「他を教育したい気持ち」を人々がもつことを推奨する、という趣旨なのだ。きっと。

 

 はい。これでおわかりになったと思う。「愛を精神の基礎にする」と決めた時、2つの「好き」と「育てたい心」のどちらかの精神を選んだことなのだ。愛は、定義がまだ定まっておらず、多様な意味がある。それを1つの精神として、掲げるのは、よくないのだ。迷ってしまう。意味不明なのだ。

 

 「好き」と「育てたい心」の2つのを精神の基礎にする、といったも同然だ。その時、2つの精神を掲げたことになる。これでは、精神を1つ柱に決めたことにならない。よって、別個に言ったほうがよい。愛は、精神を厳密に定義する時代には、ふさわしくない概念である。

 

なお、愛よりも、好きのほうが純粋な精神論だ。好きという意味で愛を使うなら、「好き」を使ったほうがよいだろう。人類愛よりも、人類みな大好きと。

 

というわけで、愛を精神的な支柱にした運動とは、人類みな大好き運動をするか、人類(地球のもの)みな成長させたい運動をするか、どちらかをさすのである。要は、愛を新時代の精神にするというのは、はっきりしない精神の規定なのだ。

 

私は成長のほうがいい。

 

 (この行だけ9/1)

 おまけだ。愛で、好きの意味は不要だから、それを抜いたらよい。その言葉は愛ではなく、****だ。***で、精神論を作る。それのほうが、より純粋だし、よいに決まっている。愛という言葉とその理論は、おハコだ。これぞ、精神論の進歩なのだ。

 

 おまけ、

 なぜ愛は、このように定義があいまいになったか。愛は与えることである、という文句が知られすぎたためだ。与えるというのは方法論。実践の話だ。で、愛の定義ではない。愛の定義がそれによって惑わされ、あいまいになった。定義が洗練されることが遅れたのだと思える。

 

 おまけ2

 育てたい気持ちは、成長を願う心を本人がもっていることから来る。他人をそうするのは、その気持ちを外部の生き物への適用なのだ。成長したい、させたい気持ちが根本的にある。こちらのほうが、より純粋なものである。

 

 おまけ3

 愛は、大きくなるほど、好きの意味が強まり、成長させたいという意味が薄れる。母や父の愛。子への愛は、育てるという意味合いでよく使われる。兄弟愛。これは好きという意味合いだ。愛国心。これは国が好き。人類愛。人類が好きであることという意味だ。大きくなるほど育てる意味が小さくなって、好きという意味になる。このように、愛は、精神論としては、厳密な定義がなく、いい加減なのだ。あまり精神の要、基礎としては、ふさわしい概念ではない。

 

 

 

 おまけ3

 これら感情の多くは、情報処理からくる。美しいは形の情報処理上の概念。能力は、力の分類の概念。能力の上下は、力、強さの分類の概念。人の能力差(尊敬、劣等感)は、相手がもっている力と自分の力とを比較した時の概念。

 情報処理上の何か。それが感情になる。新しい方式を知る時の喜びか何か。

 

2018年8月31日

 

道徳の社会性について

 その前に、人間の基本的な感情や心の動きなどを明らかにしなくてはならない。

 目でみると、誰もが同じようにみえる。それと同じで、人間誰しも、そういう感情をもつ。それを共通の基盤にしなくてはならない。

 

いや違う。人は誰でも、怒り、恥、尊敬、感動、美しいと思うことなど感情や認識をもつ。

 

 それを基礎にすえることが大切である。

 

空腹だとどうするか。乾きの時にどうするか? 痛い時には何をする。熱が出たらどうする。これらの方法は生き方となる。

 

それと同じような対処法なのだ。怒る時は何をするとよい? 悲しい時は? 恥をかいた時は? 悔しい時は? 不安な時は? 自信があるときは? 問題が解決できない時は? 尊敬するとは?

 これらはの方法は、精神の整え方などだ。

 

 まずは人間の感情や心は何があるか考えてみよう。

 

喜び、悲しみ、苦しい(精神的に)、痛い(精神的に)、つらい(精神的に)、感動する、怒る、同情する、感謝する。仲間意識、悔しい、不安だ。自信がある、尊敬する。敬う、下にみる。羨ましい、軽蔑する。侮辱する。傷つける(精神的に)、蔑視する。褒めたくなる。いらつく、焦る、不快だ。気分、興味をもつ、好奇心、情熱、快適、意志、嫌悪感、嫌う、好く、愛する、見捨てられた気分、畏敬、醜く感じる、明るい気持ち、だるい、気分がよい、悪い、涙を流す、自尊心、感情移入、感情的になる、激情、恐怖、感情を抑える、意欲、恍惚、恐れ、驚嘆、驚き、放心、悲嘆、悲哀、後悔、悔やむ、うんざり、軽蔑、激怒、警戒、期待、関心、攻撃的、楽観、平穏、信頼、敬愛、期待と失望、笑い、敵対心、敵愾心、楽観、攻撃的、素直、意地悪、皮肉、意地が悪い

 

慈しみ、服従、拒絶、絶望、罪悪感、優越感、劣等感。

 

いろんな気持ちがある。

 

それぞれの感情には強度があるらしい。そして、ポジティブな感情とマイナスの感情があるとされる。

 

これらをうまく操り、精神がいつも安定して、喜びと創造性に満ちているのがよいとされる。

 

ただし、体験により生じた正しい感情もある。首都直下地震が起きたとする。その悲しみを感じないのは、嘘なのだ。悲しむことは大切だ。それをひきずらないことが大事なのだ。不安の連鎖に入り、またトラウマになり、心が鈍くなるのはよくない。適切に悲しみ、それを適度に脱して、自分らしく健康になるのだ。

 

感情豊かな人と、生き生きしている人、人間らしい人は、正しい感情をもてる人なのである。感情を押し殺して生きてはいない人だ。すぐに激情になり、激しく興奮するのも問題だ。感情は、過度でも過小でもなく、適度に表現できるのが望ましい人格である。

 

 達観すると、感情は抑制気味になる。が、発現を無理やり抑えることはしていない。それは、心に蓋をすることで、不自然な心なのだ。

 

感情の分類

ロバート・プルチックの感情の輪のモデルは、ひどい。人間の基本精神の分類が間違いだ。信頼は、対人のもの。不安と確信を入れないのは、ひどいな。

 

どう分類していこう。プルチックの改良版としては、

 

喜び --これは必須だ。喜びの反対は悲しみだが、同一線上にはおかない。欲求からくる。

悲しみ --喪失感のことだ。人が絡むと悲しみとなる。失敗の時も。欲求をなくすことからくる。

好き-- 好ましいと判断したものに対する感情。善悪の判断からくる。

嫌い-- 不快、嫌悪感など、いやなものと判断した時に生じる感情。善悪の判断からくる。

怒り-- 教育心の感情 対人の感情である。能力の上下からくる

期待する-- これは基本ではないだろう。他人への期待。よき未来になることを望むこと。反対は失望。予測からくる。

不安--これは基礎っぽいから入れる。希望と不安だ。予測からくる。

希望--これも基礎っぽい。

尊敬、劣等--能力の上下からくる。

驚き--、予測からくる。

罪悪感--

 

必要なのは、

喜び、悲しみ、好き、嫌い、不安、希望、尊敬、劣等感か?

 

なんか足りないな。

欲求の充足に関するもの

喜び、悲しみ?(悲しみは、人と比べて、自分だけ欲求が充足しないこと)

 

善悪に関するもの

好き、嫌い、

予測に関するもの

不安、希望、期待、自信、

能力の上下に関するもの、

尊敬、劣等感

 

ちょっとあとでまとめよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2018年8月31日

 

6.0億年後の我々? 次からは7億年後にしよう。

 

2018年8月31日

 

8月の地震を間違えたかな。福島が外れたら、そうなる。8月は冴えなかった。中クラスのカルト宗教から襲われていることに、もっと早く気づくべきだった。説得に3-4日かかった。

 

 アカ抜きをすると、戦わずして私へのいやがらせは終わる。カルトに潜り込んだアカが、私が危険と煽る。そんなのを暴き、組織から追い出す。

 

トップから犯罪に染まった団体は、別の手法で対処する。私の有用性と、危険でないことは明らかにする。

 

一般的に、私が団体を叩く時は、思想・理論を批判する。ほとんど言論上の批判のみで終わる。それによってその団体が一挙につぶれることはない。私は、それが悪いものだという認識を明らかにする以上のことは、しないだろう。

 

理論上の争いで、事は収束するのだ。

 

 暴力団体を取り締まるのは、国である。政府である。暴力などによる被害を受けた場合に私は自分の被害を訴えるにとどまる。その後、組織を追い込むのは国やメディアの正義の力だ。

 

 私が実力行使するわけではない。人間社会では、物理的な力では事は解決しない。カトリックや仏教団体が、組織の認識を公表する。それよりも強力に警察や軍隊を派遣して、組織ごとつぶす、解体することはしないだろう。それができるのは、国だけなのだ。宗教団体や個人は暴力を国内で行使できないのだ。

 

それが現代国家の法だ。それを個人であれ、組織が逸脱することは、国が許さないだろう。

 

 私は社会のために有用な人間で、私の手助けをするようにと、説得する者はしばらく秘密にしておくぞ。

 

 なお、これはケースバイケースである。危険視されたものは、早く対処する。私には関わるな。

 

2018年8月29日

パーティーだ。どこだ。

 

大勢いると楽しそう。

 

私は1人で、あまりわからないのだが、私と同じような目標をもつ者はいるのかな? 地球を豊かな文明にするために、いくつかなしとげなくてはならないことがあって、宇宙人も似たようなことをつきとめていて、それを共有するのは。

 

最も向上する方法

ふつうの霊は、50-100万年ほどでカリュキュラムに沿った学習は終える。成長もそれ以降はゆっくりとなる。彼らに負けないためには、もっと長い時間、みつちりとカリュキュラムをこなさなくてはいけない。

 

進んだ宇宙(遠くの大きくて、古い宇宙)では、およそ500万年も学習するそうだ。すると、山猿星の霊並みの知力、技術力に到達できる。短期で向上する早道だ。が、地球人は初期文明なので、ゆっくり学習して、1000-2000万年くらいかかる。それでも、近隣の星々と比べたら、十分に早い。

 

何を学習するか。工学は100万年で終わるそうで、あとは生物化学だ。肉体のそれ、他の生物のそれ、地球のそれを極め、太陽系のそれを極める。いくつかの太陽系のそれをマスターするのが、500万年くらいという。

 

私は、これを自分の学習に取り入れようと思っている。いやいや、私はその辺の霊や人に負けたくないので。

 

で、地球人は宇宙的には原始人と同じ地球人の有志が集まってやるだけでは、心もとない。だいぶ計画が遅れそう。それで、頼りになる同志を探そうと思ったのだ。近隣に誰がいるかと尋ねたら、あそこにいると言っていた。15-30億年文明だったかな。3月のライオンの曲と同じほど古い星にいるときいた。

 

 そこに私と似たようなことを考えているのがいるそうで、その辺りで、連絡をとりあって、やっていこうかな、と今は考え中。

 

 宇宙の中心の星々に、成長したい人々が研究所を作っていて、そこに出入りしたらよいのだけど。こちらのコースも取り入れることにした。

 

成長に貪欲なことはいいことだ。なになに? ついてこれない? こういうことは、アメリカの霊とやっているのだ。

 

潮汐をみて、いいことがわかった。

10月1-6日の間で、地震がくるのは10/4-5しかない。3日は多少ありうるが確率は低い。10/5をすぎると10/7-10/8となる。10/2や10/3はあまり心配しなくてよい。予想はそんなところにしよう。

 

2018年8月29日

 

おっとろしいことに、とうとうわかったのは、私が予知する8月の日本の大地震は、福島で8/31だということ。だいぶずれていた。こんなので、首都直下は大丈夫か?

 

青森ではなく、岩手でもなく。あっていたのは、月末で東北ということのみ。おっそろしい。最近の透視の低下は著しいが、ここまで見えなくなるとは。

 

今日、美しい女性をみた。勘ではなんばの女性で、話しがあう。私は大阪市内の人とわりと、話が合う。なぜかな。大阪市内にいっても、そんな気がしないのに。

 

このところ、暴力カルトがここ一ヶ月ほど急に執拗になった。アカに煽られてと思っていたが、組織全体が犯罪的で、どうしようもないらしい。私は、そこは関わるつもりはないので、そこをわかってないようだ。彼らの団体を追い込むのは主にアカだ。警察、政府や競合団体のほうではないのか。そんなことも知らないのか?

 団体を長くのこす秘訣は何か? それは、関わっていけない団体には、アンタッチャブルなことだ。例えば、時の権力者(政府方面)に歯向かわないこと。そうすれば、淘汰の波を真っ先にかぶることもない。

 

それに私は恩人ではないのか? 後継者の家族の。感謝は匿名で。私は生きているだけで、誰彼となく助けてしまうのだ。私を大切にしておけば、どれだけ助かるか。

 

わかる人にはわかる

私はアカ退治の切り札なのだから、宗教方面は、私に期待すべきではないのか? 私が大戦前から生き残り。伝説と呼ばれることを知らないのか? そっちのほうを期待してくれよ。

 

その頃には、音楽活動で頑張る予定。

 

この対処に2日かかった。

 

2018年8月29日

 

道徳教育に関して

 

 日本国内で最も道徳的な文化や才能が残るのは、京都である。よって、作成は京都の人間にやらせるべきである。が、優秀な者がいない場合は、全国から募る。が、京都の見地をまずは第一におくべきである。

 

 他地域に秀でた者が現れたら、それらを積極的に採用する。

 

2018年8月29日

 

6.6億年後の我々

 

2018年8月28日

 

道徳指導要領 よよりよく生きる喜び 71頁

 

第5-6学年

 人間であれば誰しもがもっている弱さと同時に、それを乗り越えようとする強さや木田傘について理解することができるようになってくる。自動は、自分自身を人間としてより高めたいという思いやりや願いをもっている。しかし、様々な生涯や困難に出会うことで悩んだり、苦しんだりすることが少なくない。自分自身に十分に自信がもてないでいるために、劣等感に苛まれたり、人をねたんだり、恨んだり、あるいはうらやましく思ったりすることもある。また、一方では、崇高な人生を送りたいという人間のもつ気高さを求める心ももっている。

 したがって、様々な機会に、身の回りにある人間がもっている強さや気高さに気づかせるとともに、そのよさや意義を十分に理解できるようにすることが大切である。また、を自分自身のよさや可能性を自覚することで自らを奮い立たせ、目指す生き方、誇りある生き方に近づくことができるということに目を向けられるようにすることが大切である。

 指導にあたっては、まず自分だけが弱いのではないということや、人間がもつ強さ、気高さについて自分自身を振り返ることで理解できるようにすることが大切である。人間の弱さだけを強調したり、弱い自分と気高さの対比に終わったりすることなく、目指す生き方、誇りある生き方に近づけるということが大切である。このように、人間の強さや気高さを理解させることで、誇りある生き方、夢や希望など喜びある生き方につなげられるようにすることが求められる。

 

分析

 昨日に、「人間の弱さ」を過度に意識させる必要はないと説明した。今日は、この文面の問題について。弱さ(よくない心の持ち方)については、妬む、自信がない、恨む、うらやましく思うことと、詳しく規定されている。

 一方、人間の強さについても同等のものを、反対語で規定しなくてはいけないが、それが欠けている。崇高な人生、気高く生きるなど内容が貧弱である。妬むの反対語は、何か? 憧れる、称賛するで、相手のことを認めるか、喜ぶではないが、そんな精神だ。自信がないの反対は、自信がある、恨むの反対は、相手にありがたがるとされる。感謝するということだ。

 そういう心をもてるようにする。

 

また高い精神として、「気高さ」、「崇高な生き方」しかないのは道徳の指導書として情けない。

 私は、気高さ、というものがそもそもぴんとこない。弱い自分の反対は、強い自分でよい。なぜ、そこを飛躍した自分を置こうとするのか。

 気高いや崇高なのは、道徳の目標ではない。気高い生き方というのは、道徳をよくわきまえた人に、使う言葉ではない。気高いとは、気位が高いという意味もあり、人間との親密性が欠けるが、高貴な精神をもっていると感じさせる人をさす。理想の精神の1つといえば、私はそうは思わない。

 

精神の目標モデルとしては、やはり具体例として、人物をあげるべきだろう。子供が偉大な人になろうする時、誰か過去の人などを頭に描くものだ。大人でもそうする。理想像をもっているほうが、目標が明確になる。

 

精神目標として、「気高い」では、何を目指していいのかすらわからない。精神的には、まだしも、徳をおさめた人とか、徳に満ちるとかのほうがまし。中国人向けなら、孔子などの教えをよくわきまえて、「大人(たいじん)」になることで、十分である。

 

 本当の精神の偉人は、モーゼやブッダ、イエスなど宗教家となる。日本では、空海、最澄など。が、それは宗教教育になると批判される。だから、一般人の中で、特筆する精神をもつ者をあげることになる。

 

 聖徳太子か、秀吉か。そういうのがあげられる。国家が教える道徳教育は、そんな事情で、やや内容面で、完全なものとはほど遠い。それは今後の課題となる。

 

2018年8月28日

 

6.4億年後の我々

 

2018年8月27日

 

さくらももこ氏なくなる。乳がんで。

 話が合うと思ったけど。顔を隠す人とはまともに会えないというジンクスはあるようだ。顔は隠さないほうがいい。私はこのオープンに生きるべき時代に顔を隠す人を一般的には、信用しない。顔をみないとどんな人か細かいことがわからない。しかし、ネットに顔写真見つかったから、いいや。ショック。病気なら仕方なし。

 

青森地震はこない。観測データが見ようによっては、おとなしかった。妥当か? MODISのエアロゾロが青森県沖は何も出てないから、そんなものだ。

 

2018年8月27日

 

精神論

 

よりよく生きる喜び 道徳指導要領

 『弱さ』という観点が登場する。「人間としての弱さ」は俗的であり、日本人のだめな精神論であり、否定する。弱さと強さを定義して、弱さを全体に拡張することなく、部分的にとらえさせるべきである。

 

第5-6学年

 よりよく生きようとする人間の強さや気高さを理解し、人間として生きる喜びを感じること

 

中学校

 人間には自らの弱さや醜さを克服する強さや気高く生きようとする心があることを理解し、人間として生きることに喜びを見出すこと。

 

概要

 人間は本来、よりよく生きようとする存在であり、そのために人間性をより高めようと努める素晴らしさをもっている。一方で、人間は決して完全なものではない。誰しもが誘惑に負けたり、やすきに流されたりするといった弱さも持ち合わせている。このようなすばらしさや弱さは決して別々に存在するものではなく、同時に内在しているものである。しかし、人間は決して内在する弱さをそのままにしておく存在ではなく、弱さを羞恥として受け止め、それを乗り越え誇りを感じることを通して、生きることへの喜びを感じる。また、人間の行為の美しさに気づいたとき、人間は強く、また気高い存在になり得るのである。このことが、人間として生きる喜び、あるいは人間がもつ強さや気高さにつながるのである。

 

 人間としての生きる喜びは、人からほめられたり、認められたりすることだけで生じるものではない。誰もが悩み、苦しみ、悲しみ、そして良心の呵責と闘いながら、と弱い自分の存在を意識するようになる。とそして、誇りや愛情、共によりよく生きていこうとする強さや気高さを理解する事によって、自分の弱さを乗り越え、人間として生きる喜びを感じることになる。ここでいう人間として生きる喜びとは、弱い自分を乗り越えるだけでなく、自分の良心に従って生きることであり、人間の素晴らしさを監督し、よりよく生きていこうとする深い喜びである。

 なお、このような人間の強さや気高さは、例えば、第1学年及び第2学年の段階においては、「美しいものに触れ、すがすがしい心をもつこと」、第3-4学年の段階においては、「美しいものに感動する心をもつこと」などに関する指導でも育まれている。

 

私の観点

 

「人間は弱い」という論は、強い人を見て、自分はそんなことできないという自嘲なのだ。お酒での愚痴なのだ。

 

 日本特有のもので、特に、現代の安っぽい精神論を語る人物がよく使うもの言いだ。仏教的な精神に基づくものではなく、西洋にもみられない。この観点は、道徳教育に不要だ。正直、間違っている。

 

 弱いのは、強いものと比較で決まる精神的に常に、正しく生きようとしている人物が強い人物が一方にいる。常に正しいことをして、人々を思いやり、正義を離れることなく、道徳的に正しいことができ、道徳の能力が高い者だ。つまり、彼らは良き上司やリーダーであり、優れた人物であり、道徳的な戒律を守り、強く正しいのだ。

 

 そういう精神的に強い人を見て、俗人は自分のことを省みる。禁酒を守れない、卑怯なことをしてしまう自分とか、世間に迎合して悪いこともしてしまう自分とか、そういう堕落してしまう自己をみて、自分は弱いと思う。それを一般化したのが、人間は弱いという考えだ。

 

 この観点は、道徳をマスターできなかった人間の見地だ。それを普遍的なものとして、言うことはできない。一方で、強い人間がいる。

 

 人間はより強い人間と比べて、弱い人もいる、という話だ。ここから結論できることは、「人間は弱い」ではなく、「人間は強い者もいて、弱い者もいる。」。特に、俗人は心が弱い、ということだ。

 

 道徳においては、平均的な人間を想定して、その気持ちを考えさせる。が、それは、社会正義ができない自分を恥じる、という教え方となる。つまり、道徳的なことができない人間は劣るものとされる。で、人間は弱い、というのは、単に、道徳的なことができない人物を、例示している。それが、人間の性質ということではない。学生のころは、まだ精神が高くなく、弱い、といった一時的なものだ。が、大人になってもそうで、精神を高めても、そうであるかのような決めつけは、間違いだ。

 

 「人間は弱い」とは精神の出来がよくない者の愚痴なのだ。人間はそういうものだと、子供に教えるのはどうかと思う。堕落した大人が、本来の人間なのだと言っているに等しい。

 

 数学を教える時に、数学ができないのが人間の本質だと、言う教師はいない。教えなくて、数学が完璧にできる子供などいないから、部分的には間違いでないのだが。そして、このもの言いは、だから君たちは数学がマスターできない、とつづく。

 

 道徳も同じ。道徳をよりよくマスターできないで、人間は大人になっても、弱く堕落したままだ、と教師が教えるのはおかしい。人間は強くなる、と教えなくてはいけない。人間は強いものだと教えるのが正しいだろう。他の動物と比較して、それは真実である。

 

 道徳的に、他人に常にひけをとるだめな大人はいるだろう。その見地「人間は弱いという自嘲」が、不変の原則のように道徳で教えるものではない。

 

 人間は強く生きることを目指すべきだ。道徳力を身に着けて。そう指導すべきで、強い人間になることを目標とする。強い人間とは、道徳的に、高い能力をもつ人のことである。

 

 人間が弱いことを前提にした、道徳論は必要がない。道徳をきっちり覚えないと、精神的な弱さをさらけ出す、羞恥心が起き、そんな時に自分に苛立つという時に、道徳の能力が低いと、自分を弱く感じる。そうならないように、強くなろうとでも教えたらよい。

 

平均的な人間であれば、彼より強い(道徳的により正しく精神であり、行動できる)人と、より弱い人は、分ぷ上は同数である。同年代を比較すると。そして、世代全体をみるときは、年をとるほどにより、彼より若い未熟な人が増えるため、強い人は減る。つまり、人間は、大人になるほどに、精神的に他人と比較して、強くなるのである。

 

 弱いというのは、一定でもなく、正しくもない。弱く愚かな人間がいる一方で、賢く強い人間もいる。神よりは弱い。それを自嘲して、嘆くことでもない。そして、精神が弱い側の人間の考えを、押し付けるのもよくない。道徳は、精神が優れた強い人の考えを学ぶことだ。弱い精神がより劣る者の考え方を、安易に受け入れ、それが万人に共通して、一生続くかのように、またそれが正しいかのように道徳では教えてはいけない。

 

 というわけで、人間は弱い、というものはすべての人間にあてはまるものではない。弱い人間もいる、という特定の人をさすようにする。未熟な段階では弱い、というふうにとらえなおすべきである。

 

 

2018年8月27日

 

6.2億年後の我々

 

2018年8月26日

 

アメリカは落ち着いた曲が、いくつかある。韓国のランキングにはそういうのがない。

 

2018年8月26日

 

青森は26日でもないようだ。27日は可能性が高い。地磁気に大波がきた。メディアに出した2度めの手紙には、8/27と書いてある。すごいな俺。はじめから、27日だったのか。

 

長野の自転車大会で蜂刺されだ。これは、マルーン5の動画にあったやつだ。あれをイエスの子の身近な出来事を通して解読できるのは、イエスの子くらいだ。さっき見たが、ハチの巣はあったが、そこから解読する方法はよくわからなかった。

 

蜂の巣で、時期がわかるサイン--愛の歌が2つある。解読が始まるのだ。ハチの巣の直後に、部屋散乱は、ケリー・クラークソンのら武装ソフトだ。室蘭(ソフトクリームの地)の部屋が、ぶっとぶんだ。気球もある。北海道の地震か? いや違う。崖の上の家は、東北だ。

 

作曲の技は、誰にも教えていいものではないんだ。受ける程度--日本のランキングに入る歌なら、多少の心得があれば(プロクラス)なら、誰でも鍛えれば作れるから。私の活躍さえ、担保されればよい。

 

2018年8月25日

 

夜12時前、驚いた。8/25ではなかった。しかし、それはそれで、悪くはない。私のメディアに送った公式予知では、青森地震は8/26-29なので。25日に地震だったら、熊本の二の舞で、やばいのは私だった。あれは予想日の翌日だったかな?

 

 走り幅跳び前だから、今日の分ではないなら、明日までだ。走り幅跳びは、明日夜に決勝で最終だから。

 

ワンピースの空島の映画をテレビで見た。大きな黒い玉が落ちる話。また冒頭に巨大な船が落下する。この2つだけを見ると、客船事故に、黒い玉=日本の大地震なので、一日前サインとしては、あっている。明日の26日だ。

 

あと3分で、8/26だ。時間だ。8/26になった。とりあえず逃げ切った。マンマミアの予告を解読した時は、すぐにでも8/25に来そうだった。焦った。が、何もなく、予想日に入った。

 

2018年8月25日

 

地震は、今日は、昼頃から外出したが、足に白いものがまとわりついているようだった。これは過去の中大地震の日に感じたものと同じ。電磁ノイズのような白なのだ。これはくるぞ。

 

夏まつりにでかけた。今年は、同級生の知人をみけかなかった。弟の知人はみかけた。市会議員のKなのだ。少し挨拶した。緊張した。

 

私は孤独の期間は、男にはこちらから、話かけてよいのだ。何かよくわからない掟。

 

MODISのエアロゾロをみると、千葉沖なら地震はあり得るが、青森県沖はありえない。外したかな? 待つべし。

 

2018年8月25日

 

節度 節制

 これは食い物について言われるものだ。食い過ぎは避けると。道徳の指導要領では、金銭、物の価値、時間を守ることが、教育される。

 金銭は浪費しないこと。物を求めすぎないこと。時間を守ること、これはあることに時間を使いすぎないことだ。それらで、節度ある生活を保つ。

 

第1-2学年は、守らせることだ。

第3-4学年では、自分で考えて、節度ある振る舞いができるようにする。自律させる。

第5-6学年では、自分が節度ある振る舞いができることだけではなく、周囲の人にも気を配るとある。何かに熱中して、生活規則を乱すようになりがちな年齢なので、節度あるふるまいを、その時に実践できる。

 そして、望ましい生活習慣を築くことが、課題となる。

 

2018年8月25日

 

5.9億年後の我々

 

2018年8月24日

 

しっかりよびかけよう。準備だ。

 

2018年8月24日

 

マンマミアヒアウィゴーの予告が素晴らしすぎて、感激。8/24公開。それから2-3日以内に起きることが描かれている。そこに階段の事故のあと、ペルー地震のシンボルがあった。で、階段の事故も、私の今朝それを予知した。8/24 M7.1 ペルーは起き、どんぴしゃだった。2つ立て続けに当たるのは、なかなかないよ。

 

 この後、青森地震のサインもある。客船沈没事故のあとに、ワインを飲んでから。つまり、青森地震は私の夕食あと。午後7時以降とわかった。明日それがある。

 

いやあ、珍しくはっきりと日と時間がわかった。1日ずれて、8/26になる可能性は低い。私の予知は、一日違いだったけども、まぁよしとするか。

 

緊張する。明日夜だ。テレビに釘付けだ。呼びかけは完璧にしよう。

 

2018年8月24日

 

5.8億年後の我々

 

2018年8月24日

 

節度 節制 -- 文部省の指導要領

 

1-2学年

 健康や安全に気をつけ、物や金銭を大切にし、身の回りを整え、わがままをしないで、規則正しい生活をすること。

3-4学年

 自分でできることは自分でやり、安全に気をつけ、よく考えて行動し、節度ある生活をすること。

5-6学年

 安全に気をつけることや、生活習慣の大切さについて理解し、自分の生活を見直し、節度を守り節制を心がけること。

 

 節度とは、みだりに乱行や、質の低いことをしないこと。度を越さないこと。適切なほどあいの行動。

 節制とは、浪費しないこと。欲望におぼけて、度を越すことがないように慎むこと。

 

 文部省の指導要領では、節度や節制の定義がない。これは大変な欠落だ。しっかりと表記すべきである。

 

 適切な行動を学ぶためには、規則正しい生活をする習慣をつけること、正しい行動を守ることを、学ばせる必要がある。過度や過小の行為は、学習しなくてはいけないからだ。

 

節度ある振る舞いは、「あらゆる行動の基礎」となり、「充実生活の基礎となる」という。基本的な生活習慣の中で、このあり方を行う。

 

具体的には、身体や衣服の清潔、洗面・歯磨き。健康としては、交通事故や犯罪、自然災害から身を護ることや危機管理。規則正しく、きまりよい生活については、物や金銭の活用、時間の尊重、身の回りの整理整頓があるという。

 

 これらを、「進んで自分の生活を見直し、自分の置かれた状況について思慮深く考えながら、自らを節制して、程よい生活をしていく。

 

 このようにして、日常生活をそつなくこなせるなると、日常の物事に煩わせられることがなくなり、自分を客観的にみつめ、自分の現状を内省することができ、自己の確立につながる、という。

 

 また、自分の生活を守ることは、他人のそれも守ろうとすることにつながる。

 

1-2学年は

 物の価値を教える。物は人が働いて作っていること。金銭の価値を覚える。時間を守ることの大切さを教える。わがまましないことも。

 

 

 

 

 

 

2018年8月23日

 

最近は、私のライバルはいないので、想定問答にしよう。

 

もし、私の同格の男と会ったら何を話す?

 これ以外に、新鮮な気分にならない。最近は。海外の人は別。

 

 彼は専用教育をしてる。どこまで学習したのだろう。

 

幽霊界の組織の管理は、覚えたかな。こちらは配給の係で、細かいことは霊たちに任せる。天国から与えられる貸家、部屋、食料、物資などをマクロ的に管理する。高度な電子技術も、提供するものは、決める。そんなところかな。あっちは要領よく、教科書で教えているから、よく整理して、理解しているのだろうな。富君も知っているはずだ。

 

宇宙人の対応もそろそろ覚えたかな。どの程度の科学理論、技術、精神性をもっているか。多数と会話して、鍛えられているところでは?

 

霊界のほうの扱いも慣れてきたはずだ。交信は宇宙人、霊ともに私とほぼ同等の権限をもたせてある。独自に調査していたら、私の知らない分野で、大きく開花しているはず。会社員だから、そんなに暇でないか。

 

私より、霊、宇宙人との交流が進んだ見地をもっていて、おかしくないはずだが。そこまで行ったかな。幽霊達は、私より2年でそんな見地をもつから、彼もそろそろ私を超えていてよいはずだ。教えてもらおかな。

 

宇宙人について、私と彼とどの程度の認識の差ができているか。やがてわかるだろう。

 

精神の探求では、いくら彼が良い学習環境にあるといっても、私が道徳・倫理を作り上げる専門家の役目なので、彼は私にかなわない。そこは大丈夫だと思う。彼には、未来の本を自在に読む権限を与えてないはずだ。もし、未来の精神論を読んでも、精神を高くする動機が生じないだろう。彼は、その役目ではないので。

 

 彼は、思想を書いているはずだ。それを聞きたいのだ。私は、今書きあげている最中だ。まだ道徳の1/3-1/5ほどしか、明確化していない。実存主義も、テリトリーに入れて、先が長そうだ。

 

 私が、今、楽しんで話しができるのは、地球を高度に発達させる話。彼は、それに乗ってくるだろうか。これも基礎を教えておくと、理解はするだろう。やっておくかな。

 

 ところで彼は何をしたいんだ? 愛の復活などはしないだろうし、では何だ?

 

 私がしたいのは、精神論の整備だ。私が書いたら、戦前の道徳、戦後の道徳教育を超えるものが書ける。すると、そういうものを省みるものはいなくなる。ここはアカや左翼向けアピール。私は、それを書かないと、戦前の道徳への憧れを完全に、払拭できないのだ。実存主義や思想まで含めるのだ。

 

すると人々は、日々、楽しみをもって、よく生きられる。精神の目標も、宇宙人や宇宙にみつけた高度な霊の精神などをモデルにする。神道的なものに興味はない。

 

 精神を論じ、正す。それ以外はあまりない。私が、神の意志を地上に下ろすことに、生涯かけて行う、それが強い願いと思っている人は、私を知らない。私はずっと思想家をめざしていた。最近は、精神理論家。精神の達人になること、そのノウハウや理論を明らかにすることには、元来、小学校より興味がある。

 

 神の意志を地上に反映させるということは、あまり最近は考えないのだ。口では言うが。地球をよりよい星にすべくすること。そればかり考えている。目先の社会問題、世界的な問題を解決することは、当然のことだ。そういうのは、そう難しいことではない。一歩ずつ進む。アカの除去、悪の宇宙人の影響の取り除くこと、エネルギー問題、などなど。

 

こういうのはプランがあって、私がいようがいまいが、関係なく進むことが多い。私以外の政治家や科学者などが、やるのだ。私のやるのは悪の宇宙人の影響をへらすことと、日本国内でのアカの清掃くらいだ。私が1人力んだところで、どうしようもないのだ。すべて計画に沿って1つずつ行われる。私は少し関与するだけ、というのもある。

 

アカの一掃は、新世代の役目でもあるし、全共闘を生んだ旧世代の汚点だから、彼らが責任をとって排除するのもある。でも、旧時代の英雄といずれ呼ばれる私は、案外とあまり関わらないかもしれないのだ。

 

もっと大局的なことも考えている。宇宙の惑星と比較して、いかに抜きん出てゆくか。そういう大きなことだ。これは、誰も知らないので、当面は、私がその構想を明らかにして、具体的な手順などおおまかに記すことになる。金星人の母星なんぞが、技術力が低いのに、いつまでも威張っているのはいやだろ? 

 

 私が新法をまとめる、といっても、大きく精神論と社会問題に対する答えを整理する。思想面では、私は社会思想を完結させる役目で、いってみれば、旧時代の思想家なのだ。私の書くものが絶賛されるのは、21世紀の初頭のみ。その後は、「空間」時代の課題を人々は、追う。私の思想に人々はいつまでも、満足しない。すぐに飽きるのだ。その私の思想が飽きられるのは、きっかり2032年だ。2032年には「空間論」という私以外の者が著す新しい思想が登場する。32年というのは、デカルトが1632年にわれ思う故に我ありの本を表した。いつも32年なのだ。

 

 私の活躍はそれまでだ。案外、思想家として脚光を世間の浴びるのは、短いのだ。何の思想か? 私が書くのは、「社会思想の統合論--社会の6段階の成長論」である。それ以後は、人類の発達心理とか書いて、お茶を濁しておく。が、もうその時には、過去の思想家だ。

 

 というわけで、私がいつまでも思想家として絶大な影響力をもち、君臨するという予測は、成り立たない。2032年からは、自分はもうトップ・先端から転落する。過去の思想家として、若者は扱うのだ。それ以後は、私以外の者が、思想のリーダーなのだ。君がそれをもっているなら、うまく書くように。

 

 私といえば、それ以後、何をしているかはあまり知らない。が、組織のほうで、導き手なのだろう。天国からの借用タイムマシンを活用して、サービスを行う。そういう仕事もある。同志を育て、小さくない影響力を世界で行使すると思われる。

 

 ただ心配なことが1つある。システムの限界を把握してないのだ。影達に、なんでも作らせられる。100-200年後には人類がもつ技術で、そう高度なものではない。この他人に作らせることの問題を、よく把握してないのだ。

 

 雑誌を作るとする。作れ、と願うと瞬時に、文章と内容の完璧なものが、手に入るのだ。人手なしに。これが同志が集まる組織にとって、よいことではないのは、すぐにわかる。雑誌の評価と修正をきっちりできるのは、私くらいしかいない。それではまずいのだ。

 

 これはいってみれば、外注だ。自社にノウハウが育たない。そういうことを続けると、自社の能力そのものが低下する。人材が育たない。ノウハウはあるが、誰も使えないという事態に陥る。

 

 スポーツ選手を指導した経験からすると、人材は教育すればなんとかなる。その成長速度はおよそわかる。ノウハウがしだいに洗練されてゆくスピードも、およそわかる。

 

 というわけで、雑誌を執筆するチームは、同志を集めてつくる。文章は、本人たちに書かせる。私も書く。ここは、異次元の連中には書かせない。そのチームがしだいに腕をあげて、雑誌をよりよいものにするのは、わかる。で、プロの雑誌水準になるまで、何年かかるかも、だいたいわかる。

 

 というわけで、だいたいの想定はできた。おしまい。

 

 

2018年8月23日

 

最近のこと 私はより人間的なのだ。

 私は人から奇人、変人と思われている。宇宙人的とは思われていない。で、よく考えると、より人間的なのだとわかった。

 最近、宇宙人はよく話す。彼らは人間(知的生命)のことをより詳しく知っている。そういう会話に慣れた(彼らの見地に少し近づいた)。私は人間について、より一般の人よりは詳しくなっている。

 人を宇宙人的と現代で形容する時は、足が地についてなくて、SF的なことを言う人物。理想はあるが、現実や技量が足りない、空想の目標などに浮かれている人という意味で使われる。私は、理想もそれを達成する技量もある程度あるので、浮かれたというイメージは少ないようだ。

 

2018年8月23日

 

個性とは、そもそも、他人と相対的に自分が優れているということだ。それが集団の中でも目立つ個人の長所なのだ。もし全員が、それが得意で、自分のその才能が他とあまり変わらないなら、それは自分だけに特徴的な才能ではない。

 

 個性を他人と比較するな、というのは初歩的な誤りである。他人と比較しないと、個性は明らかにならない。こういう初歩的な間違いが日本の教育界隈でよく言われ、まかりとおるのは嘆かわしいことだ。

 

個性は、人の中に入り、気づくことができる。

 

他人と比較しないことが、もてはやされている。しかし、それは独善的な人格を量産する結果につながる。

 

 他人と比べると、相手が優秀だと自分がみじめになる、相手が自分よりかわいいと自分が劣った気持ちになる。だから、悪いという。母親が子を叱る時は、他人の子と比べて、できないことを叱るのだという。

 

 それはぜんぜん悪くない。現状認識は、子供でも正しくもたせるべきだ。能力が劣っているのに、それを自覚していないのはよくない。子供は自分だけできないと思うことで、それを頑張ろうと思うのだ。

 

本当に悪いのは、比較したことが悪いわけではない。マラソン選手は足が早い、短距離走の選手も、サッカー選手も自分より早くてうまい。それを知ること自体で、劣等感はもつが、それは自然なものである。

 

 子供が他人の子のようにできないとまずは自覚させる。ここまではよい。問題は、親がその後、教育がまともにできてないことだ。もしくは、親が子供を、それで悪口を言うことだ。それは教育ができない親だな、という印象を子供にもたれる。

 

 まずは、現時点は、「他人の子のように自分の子供はできていない。」と子供に認識させた。このあと、ふつうは、できるように親は教えなくてはならない。教師をつけて覚えさせるのでもよい。

 

箸がうまくもてない子供に、「箸の持ち方がなっていないな。」と言った後は、こうもつんだよ。と手取り足取り教えるべきだ。そして、子供は箸が使えるようになる。こうなると、はじめの他人の子供との比較は、新たな学びのとっかかりの言葉として、子供は理解する。それは子供にとって、新しい楽しい学習のはじまりをつげるものとなるから、何の苦にもならない。

 

 しかし、箸の持ち方がなっていないと言った後に、無理やりに教えようとして失敗したり、あまりに早く覚えさせようとして失敗したり、親がしている。すると、子供も、親は嫌味を言うだけで、教えようとしない無能なのか? と思うようになる。教育が上手にできない無能な親だから、嫌味を言うのか? と思うのだ。それが、いやになってくる。苦しみの学習の始まりとなるから、いやになるのだ。下手なスパルタ教育も、子供は拒否する。

 

あまにり子供の覚えが悪くないなら、ゆっくり身につけようでよい。子供と長く関わっていて、子供の成長度合いにあわせて、指導もできないような親では、子供にとってがっかりなのだ。

 

他人と違うことを子供は嫌うから、君は他の子と同じと言えば、いい。という考えもあるようだが、子供はみんなと同じがよいとは思わない。それは、みんながよいプレゼントをもらっている時だけの話だ。自分だけ壊れたものをもらうのは嫌なのだ。

 

人の目標はまずは、健康的に暮らすことだ。

 子供のうちは、病気・怪我なく、生活できるようになることを目指す。言葉を覚えるなど社会的なものも学習する。そして、危険な人にひどいめにあわないようにもすることも覚える。食べ方も、食べていけないことを学ぶ。

 

 まずは、健康に生活できる方法を学ぶ。それができるようになったら、拡大する。より健康的に、豊かに、よりよく生活できるようにする方法を学ぶ。

 

人間関係をよくすること。社会で役立つこと。精神的に安定すること。多くの問題を解決できるようになること。多くの分野でよりよくできるようになること。

 

だが、単純に、食事、排泄など生理的? によりよく生きることができること。

 次に、学習できる人になることを学ぶ。悟性の獲得である。パターンの認知なのだ。物を区別することが基本だ。静止しているものを、認識することが多い。これを獲得すると、様々に自律学習が可能となる。止まっている物事から学習する。

 

 次に、運動を学習する。体を動かすことと、運動にパターンを見出すことだ。これで、運動からも学べるようになる。

 

 それから理性を確立すると、抽象的なものの計算が得意となる。論理的な思考がよく身に着く。理性が独立する。

 

 このあと、社会性を獲得する。

 

 

 

2018年8月23日

 

曲の形式で、音符を並べる数で、1-13の形式に区別される。7音が基本構成の場合は、7連音符の曲とする。

 

日本の現代曲は3-5連符の曲。横浜のバンドが7連符。7連の時は4+3となると、後半が遅くなり、3+4となると前半が緩めとなる。

 

アメリカンロックのジャガーは、10?連符にも、分類される。あの感じは10連なのだ。3+4+4かな? そんな感じ。

 

バッハの体の怪我の曲は、11-12連符のタイプらしい。環境音楽が11-12連音符。13連音の曲は、忘れた。

 

クイーンのロックユーは、8-9連音だった気がする。1つのまとまりある流れの曲は、8-11連音だった。

 

女性っぽいおっとりした曲は7-8連音の曲なのだ。

 

そういう説明を受けた。それで、作曲して確認してみた。4連音の曲は、結構たいしたものなのだ。

 

日本は5-6音と短く区切りすぎ。

 

作曲力、相応の曲を作り上げることが課題なのだ。実力以下の曲ばかり作るのは、さぼりだ。

 

 

2018年8月23日

5.6億年後の我々?

 

2018年8月22日

 

労働について、狭い見地を持つ人々

 私は枚方に住んでいて、様々な活躍の仕方があることを知っていた。会社の下僕となること、公務員になること、工場労働者になること以外にも、才能を発揮する道があることを。

 

京都には伝統的な仕事があり、それはもう最近の労働では分類できないようなものもある。僧侶などは、托鉢で稼ぐこともあり、寄付も受ける。天皇もいる。芸術家達は、その才でカネを稼ぐ。芸姑などもいる。古い時代の生き方も、語り継がれている。乞食なども話もある。現代の狭い仕事観からはみえてこない多様な生き方、活躍の仕方があると、その周辺に住む者たちは理解する。

 

が、最近の大人たちは実に狭い。会社で働くことしか、仕事はないかのようだ。働けといえば、肉体労働など、会社に勤め、カネを得ることしか思いつかない。生活保護のドラマを見ているが、それは、もう仕事の範囲が狭い。

 

共産主義は、工場労働者を念頭においていた。これを信じた人間は、生き方について実に狭いことしかいえなくなった。他のしごとがないかのようだ。教師、芸術家、金持ちの息子、僧侶、乞食などなど。そういうイデオロギー上の『労働』しか認められなくなっている。実に、愚かな連中だ。

 

 この『労働観』の狭さのせいで、現代の若者達は、目先稼げないようなことをすると、働いていない、社会に役立っていないと非難される。本当は、大切な事をしているのに。

 

マルクス主義が、労働の概念を狭量にしたことは、確かだ。現代日本は、それに毒された大人たちが、多様な生き方を認めない。子どもたちは、それでくだらない非難を浴びる。

 

マルクス主義の労働観では、会社や国の奴隷となることを生きがいにしなくてはならない。うんざりだ。独立して、自由に働くことは、資本家になることで、彼らは認めないのだ。彼ら信者は常に言う。誰かの下で働きなさい、と。独立して、何かしろとは言わない。自由に、個人で商売しろとは、言わないのだ。それで、彼らが働けといっても、自由を感じられず、つまらないのだ。

 

 若者は、こういう全共闘の狭い仕事観、労働観に煩わされず、自分のしたいことをしたらよい。世界には、もっとたくさんの仕事があるのだ。何かをしてもよいし、何もしないで生きてもよいのだ。社会の歯車にならなくても、よいのだ。誰かの世話になっていてもよいのだ。誰も想像がつかないようなことをしても、よいのだ。

 

いつから、仕事の範囲が狭くなったのだろうか。それが問題だ。それにつれて、生き方も画一的なものになって、狭くなった。日本が生きづらくなっている。

 

稼がなくてもよいのだ。今では、国が保護してくれる。

 

日本昔話では、ふつう、カネを稼ぐとは、農家が多いので、ものを街に行って売ってくることを意味した。日本人の多くにとって、労働は畑仕事をすること。カネを稼ぐとは、街で作ったものを売ることだった。これが、日本人の大多数の伝統的な労働観の基本ではないだろうか。カネを稼ぐことについては、ハードルが低いのだ。いや、それが簡単にできなくてはいけないのだ。

 

だが、そのハードルが異常に高いのが、日本となっている。これでは、多くの人が働きづらい(稼ぎづらい)。

 

そういうことが言いたいのではなく、京都人が認める労働観、多様な生き方を、もっと日本国民は知るべきなのだ。

 

2018年8月21日

 

今日は、交通事故の危険があった。別のカルトが犯人で、ここは犯罪組織を内にもつ。アカが詳しく調べていて、いずれ明らかになるだろう。上層は、この乱暴な連中には、苦言を呈しているようなので、説得しておいた。アカの格好のネタではないか。これが原因で、組織は壊滅に近い状態に追い込まれる。アカは見逃さない。

 

私は、私さえターゲットにしなければ、と思う。ここは、一ヶ月半ほどで、止まるらしい。

 

台湾地震は、今日じゃないのか? 明日か。台風が二つ目ではなさそうなので、19号の問題。二つ目は、20号。

 

 

 

2018年8月21日

 

5.5億年後の我々

 

2018年8月21日

 

5.4億年後の我々。

 

2018年8月20日

 

道徳論

 

 幼子は、まずは自らの安全についてを学ぶ。怪我しないこと、病気にならない生活法を特に、徹底的に教え込まれる。他人に怪我をさせてはいけないともやがて。

 

そういう生きてゆくことが基本的にできたら、次の段階へと進む。

 

社会通念として、行ってよいことと、してはならないことを学ぶ。

 

これらまもるべきことに、多くは理屈はあるが、それが合理的かつ、正しいものではない。それを完全に理解することなく、受け入れる。郷に入れば、郷に従うというように。世俗的なものに、完全に合理的なものは少ない。なぜかそう決まっている。規則だ、それに従わなくてはならない。

 

多くの行動規則、生活習慣は、このように、社会通念で決まっている。それに従っているすぎない。ここはかなり大事だ。

 

ここに文化差がある。アメリカの法、イギリスの法、インドネシアの法、日本の慣習や法。それぞれがちがう。

 

だが、その社会で生きてゆく上で、それを守らないと捕まるのだ。それを守らないと、人とコミュニケーションできないのだ(言語)。

 

人は多くは、社会通念として、慣習を受け入れて、自分の行動にしている。が、そこに完全な合理性はないものが多々ある。また根拠を理解できないものもある。

 

 社会に適応するために、人は、その制度を受け入れて、自分に課している。社会のやり方、ルールに合わせている。

 

 それは元来、自分の意志ではないものだ。社会に合わせておこうと、行う。渋々やっていることだ。積極的にそれをやっている人もいる。

 

あなたの行動の多くは、こういうものからできている。

 

2018年8月20日

 

近未来の疑似家族の情報によると、

 彼女たちは東京にでかけた。そこで出会った東京の面々は、首都直下地震でいかに助かるか。そればかり。そりゃそうだろ。30-50日後に都市が機能不全になる。住民として、生き残りを模索するのは正しい。

 

 電車は、半月後の地震、10月20-25日のもので再び動かなくなるそうで、東京では仕事ができなくなるそうだ。仕事ないと、いうことで、働き口を探すのもいるそう。

 

10年近くは東京は地震続きで、落ち着かないようだ。これは、首都は移転だと思った。が、候補地もないだろう。当面は。

 

 しかし、ネットにその情報が出ないな。誰が言論の自由を統制しているのだ?

 

2018年8月20日

 

5.3億年後の我々

 

2018年8月18日

 

透視で人助け。えらい人が現れたぞ。アカの裏では皆が皆、行方不明者や指名手配犯の居所を知っているのに、その人物が宗教関係だと誰も助けない。これが、アカに支配された冷たい日本人の掟なのだ。が、それをもろともしないのが現れたぞ。掟は破るためにこそある。さっそく、流用してしまった。

 

そうだ。私も調子にノリ、フランス人女性でも透視して、探してみるか。裏の技術を使うと、すぐにわかる。そんなのは、私持ってないから。自力透視にこだわる。

 

そうだよ。最近、フランス女性を川西でみかけたし、美人だったし、ちょこっとアピールしよっかな。日光を中心に、東照宮や名所、鳴虫山山頂から憾満ヶ淵を探すぞ。私は、透視したら一発なんだけどね。その情報をアカが盗んで、通常はすぐにみつかるのだが、誰も探さないから、ちょっと時間がかかる。

 

7/28から2泊で、日光市匠町の宿に泊っていたと。7/29に行方不明とな。

 

2018年8月18日

 

道徳の目標は、よりよい生き方の求道者、探求者を育て上げること。現在は。

 

もっと簡単な目標は、ないか?

 道徳的な観点で、自らを正す。その道具とすること。

 

2018年8月18日

 

私は電気人間。目を動かして、外の景色を見る。耳をすまし、外の音を聞く。肌に集中して、暑さ、寒さを感じる。重たい冷たさは、ぬれた感触に似て、湿度の高いことの現れだ。

 

 それら感覚器官から、データを受け取る。それで、空間を認識する。

 

精神論 道徳 正直、誠実

 

嘘をついたり、ごまかしをしたりしないで、素直に伸び伸びと生活すること。

過ちは素直に改、正直に明るい心で生活すること。誠実に明るい心で生活すること。

 

過ちや失敗は誰にもお超えることである。そのときに、ともするとそのことで自分自身が責められたり、不利な立場に立たされたりすることを回避しようとして、うそを言ったり、ごまかしたりすることがある。しかし、そのような振る舞いはあくまでも一時しのぎに過ぎず、真の解決にはいたらない。このことによって、他者の信頼を失うばかりか、自分自身の中に後悔や自責の念、強い良心の呵責などが生じる。

 

要は、嘘をついて暮らすと、部分的に心が闇に落ちて、暗くなる。それが習慣となると、心が暗くなるのだ。あいつは心が暗いやつだ、と指さされるのは、卑怯なことを平気でするのだが、その1つは、人を陥れることに平気で、なおかつ嘘をつくことが挙げられる。

 

悪の霊系の人は、このようにして、心が暗くさせられ、闇に近い性格となる。

 

2018年8月18日

 

8/18 M6.5 フローレス海。にわかに緊張が走る。これは、予想されたバンダ海地震だ。このあと、中国であり、その後、台湾で大地震にいたる。やっと、トランスフォーマーの予言が動き出した。

 

想像の中のタイ人は、私と体調が似ていた。彼らのほうが軽症で元気にしている。が、濃度は濃いのだろう。おそらく農薬か薬剤づけなのだ。食べ物にそれが多く混入している。親近感がわく。

 

神を信じる人達で、仏教系は、私と気が合うようだ。どこか私と似ている。ただし大型の宗教団体に所属しているのは、どこか違う。

 

韓国ポップの作り方

 冒頭に、韓国的なフレーズを入れる。やや古くさい物言い、韓国会話のリズム、言葉をメロディにしたもの。あとは、同じように展開させる。冒頭には、日本的にはやや古い10-30年前の雰囲気を、漂わせる。あとは、現代風に仕上げる。

 

 日本的には、冒頭だけダサめ、日本では1-2時代前の若者の言いそうな話しぶりにする。それを怠ると、韓国人にはわからない。だが、後半は、日本のように地味、暗めの仕上げてはいけない。そこはダンスフルに、華やかにする。

 

 韓国には、日本にはないような曲の展開がいくつかある。日本の曲のようにじみに作ってはいけない。

 

 韓国ポップは、日本人には同じように聞こえるが、実は違うのだ。冒頭は10-30年前の若者のノリなのだ。作曲家は、そこをはずしては受けないだろう。中年の女性に受けたのは、雰囲気が古い男のようだからだ。

 

結局、韓国で成功するには、アイドルに、いかにいい曲を歌わせるか。曲に金をかけるか、だろう。あとは、業界内でうまくやること。こちらは韓国の社会は、どうなっているかは、わからない。かなり大変そうだ。

 

 ダンスと顔は、育てあげると、低い確率でものになる。売り出し方は、ノウハウがあるだろう。あとは、曲なのだ。いい作曲家が隠しもつ曲を手に入れるか。作らせるか。そこが勝負なのだ。

 

曲は、アメリカのエジプト風か、ラップ風か、米国ランキングのある形の先端流行曲をいかにまねたものか。

 

ただ万人受けする明るく、人気が出る個性は、磨きあげて出るものではない。どうしようもない。これは天性の才能をスカウトするしかない。アイドルグループでは、歌さえしっかりしていたら、中級の人材でもなんとかなるので、それをいかに磨くかが問われる。

 

韓国アイドルですごいのをみつけたぞ。5人中、3-4人が危ない。1人はすでに死期を超えているし(アイドルとか有名人は保護されるので、予知されて助かるのが多い。それは韓国でも同じ)、もう1人は半年以内といったところか。残りもいずれ。これはもう、マネジャーか誰か上を変えるしかない。そいつがひどい。普通は多くても短期に1人だ。長期で大勢いると、数人。が、少数でこんなに多くの影が薄いのは、どんだけ管理がひどいのか。

 

 

 

2018年8月17日

 

精神論

 善悪の判断、自律、自由と責任

 

 幼児がまず自律したとみなされるのは、保護が必要なくなった時だ。それは、放任しても、命を落とすことはないだろうと思われた時だ。

 赤子は、動けないから自ら命を落とすようなことはあまりしない。が、火が熱いことは知らない。また熱いものに触ると、火傷して痛むこともよく知らない。痛くなる場所、物からは、離れる、逃げる。それを覚えさせなくてはならない。寒いと凍えることも、覚えさせる。寒い時の対処法も、覚えさせなくてはいけない。

 お腹がすいた時、喉が渇いたに、お腹すいた、飲みたいと言うようにさせることも大事だ。そうでないと、空腹か乾きで死ぬ。トイレの仕方も覚えさせる。そうしないと汚れる。体がつらい時、しんどい時にも、それを言わせる。そんな時は安静にすることも覚えさせる。

 このように、赤子や乳児、幼児は、まずは生きるための方法を覚えなくてはいけない。そして、死に結びつくような行為は、してはいけない、悪と理解させる。

 車は危ないこと、自転車も危ないこと、早く走るものは危ないこと、列車も危ないこと。道路や踏切は注意しないと危ないこと。たくさん覚えなくてはいけない。たくさんの悪(してはいけないこと)がある。それは、命に直結する。

 高いところから飛ぶことも、思い切り殴ることも、包丁をつかうことも、バットを振り回すことも、してはいけない悪なのだ。火の中に入ることも、熱いものに触ることも、冷たいものを長く触ることもいけない。

 

 幼児は、このように怪我するすること、命に関わることは、避けるようにすることを覚えなくてはならない。この学習において、頭のよい子は、たくさん危険なものを覚え、何が危険かをよく考えて理解する。頭の悪い子は、なかなか覚えられない。ここは差がつく。

 私の実家で飼っていた犬は、よく車にぶつかりそうだった。玄関から外に出て、自ら車にぶつかって命を落としたのもいた。アホ犬だった。幼犬の時に外を散歩させて、車が危険だと覚えさせなかったのがいけなかったようだ。

 

 幼児の時は、死にいたる行為、怪我することが、してはいけないこと、禁止されることで、悪なのだ。

 

善は、そんな危険ではないことだ。車がこない道路を歩くこと。火に近寄らないこと。駅では特に、電車にぶつからないように気を使うこと。車が来たら、よけること。食べても死なないものを食べること。路上の汚い水を飲まないこと。水道水を飲むこと。これらで、肯定的な表現のものが、善だ。

 

 善悪とは何か。大人になつてから迷う人もいるだろう。が、乳幼児はきわめて簡単で、死ぬような行為、怪我する行為、病気になる行為が悪なのだ。それ以外は、善なのだ。これが、善悪の基本となる。

 

 善悪を教える時はこの基本から、はじめるべきである。すると、善悪を体系づけやすく、わかりやすくなる。

 

2018年8月17日

 

5.2億年後の我々

 

2018年8月16日

 

音学家の作曲の才能をあげようと思った。私はライバルはこの分野では増やさない方針だ。が、作曲は実力があっても、センスがないと、いい曲を作れないのだ。ライバルにはならないとみた。ライバルとは、世界(アメリカ)のランキングで競うレベルということ。

 

 案外、作曲の実力があっても、ポップ方面ではいい曲を作れないのだ。人は。

 

 落差があまりにもあっては、話が通じない。楽しくない。それに、彼女たちがもっと活躍してくれないと、面白くない。

 

 いちおう、この業界は、活躍する者が多くが決まっていて、それを乱さない範囲なのである。私は、自分の活躍は、手放さない。

 

 とりあえず、アメリカ人が音楽のトップを独占するのは、日本では快く思わない人は多いのだ。というわけで、私しかいないなら、それも良しなのだ。

 

 韓国pop

 踊りがいい。私は、一度よく踊れ歌える人で、韓国系のはよく知りたい。私が活躍する時は、私は運動神経が上位クラスになる。気力が充実すると、自然に運動で一般人とは差がつくのだ。すると、私と同クラス、運動のできる女性たちは、周囲に必要となる。

 

 韓国の曲は、アメリカのランキングのとよく似る。それで、アメリカランキングを聴いたあとに、聴くと、似ている感じがある。バリエーションがあるのだ。で、作曲家はそれなりの実力はあるようだ。

 

 ただ、エジプト風、ラップなどがつづくと、聴くのがしだいにつらくなる。落ちついた曲が少ない。

 

2018年8月16日

精神論

 道徳の教科書には、よりよい生き方を人は求める、とある。これが人か道徳を行う大前提にある、という。

 

 よりよいものを人が求めるのは、生き方だけではなく、全てにいえる。朽ち枯れかけた木に、人は寂しく、悲しく感じる。それは、滅びるもの、悪化してゆくものに対する人の自然な感覚だ。

 

 よりよいものを求める対象は、自己(生き方)、他人、社会、自然、宇宙

 病気の猫を治したく思う。より悪いものは、好きではないのだ。よりよいものを人が好む。それは生き方だけではなく、あらゆる対象について、いえる。自己、他人、社会、自然、宇宙に。

 

 人がよりよいものを求める原理

 1,それを使っていると、何か問題がみえてくる。そして、よりよいものを求める。方法の改善、2, 人は同じものを与え続けられても、しだいに満足しなくなる。欲求の高度化。

 

 よりよい生き方を模索する人をなんと呼ぶ?

 修行者。探求者。道徳家。精神の追求者。求道者。

 

 他の教科では、その道を追求するのは?

 科学者。数学者。化学者。社会運道家。囲碁では、追求者。

 

 これらは、その学問、ゲームのおもしろさを知り、それを極めようとする人々である。学問の楽しさを知り、その有用性を理解して、それをさらに探求しようとするのは、学問の発展には、必要なことだ。

 

2018年8月16日

 

どうも、最近、心が小さいようだ。嫌がらせの対処が、細かすぎる。アカ相手にそれは必要だ。それを高度に発達させた。が、ふつうの人間関係で、そこまでしなくてもよいのでは?

 

韓国の人気グループ。作曲家と歌う者が別なのは、あまり慣れない。日本人に疲れた時は、いいのだが。

 

2018年8月16日

 

彼らのレンズに小さな傷がついていた。8/15の夜に気づいた。8/14頃まではついてなかったものだ。アカが家宅侵入して、傷つけたらしい。修理代と慰謝料をとろう。

 

証拠入手まで、3ヶ月だろ。確実に10万円以上はとれる。修理代はもらえるだろう。

 

2018年8月16日

 

人から嫌われること。

 チンピラみたいな口をきくこと。人の悪態をつくときのスタイルがチンピラ風。

 ごろつき、鼻つまみ者の言い草をすること。喧嘩好きの態度だ。するとどうなるか。社会の困りもの、厄介者、もてあまし者となる。

 

 悪態をつく、憎まれ口を叩く、けちょんけちょんに言う。罵倒する。けなす。これを習慣にするとどうなるか? こき下ろす、ボロクソに言う、汚い言葉を吐き散らす。

 

 相手をする人がいなくなり、人から嫌われる。友だちがいなくなる。これ、全共闘のこと。関東の共産信者にこれが非常に多い。

 

 このように暴れたら、「おとなしくしろ」と静かにさせる。

 

2018年8月15日

 

悪いことをした人に対して、あの人、可愛そうね、と言うのは、反撃としては、また心を冷静に保つためには、間違いだ。

 

可愛そうと言われて、憤慨するのもおかしい。なにしろ、言った人はかわいそうと感じてくれたのだから。それは、愛のはじまりなのだ。可愛そうな俺に何してくれるの? と尋ねよう。

 

人を蔑むものに、「嫌がらせした人をかわいそうと思え、」というのがある。これは違うのだ。可愛そうではなく、心が狭いとか、小心者とか、幼稚なやつとか、相手をみなす、評価、判定すべきなのだ。

 

 えこひいきや、嫌がらせをするのは、そういう人たちだからだ。確かに、そういう精神的に劣った者は、かわいそうだ。なにしろ、嫌がらせをしたり、されたりする世界に、彼らは住んでいるのだから。彼らはそう思っているし、現に、そうなのだ。嫌がらせをするのが、当たり前の人の中に生きているのだ。

 

かわいそうというと、こちらもかわいそうになる。

 

なにしろ、未熟な精神をもつ者を全体的に、かわいそうと君は言ったことと同じだから。そんな者の1人、嫌がらせ常習者にそう言うのは、他に卑怯者、小さなことでくよくよする者、嫌がらせを受けたくらいで心が落ち込む者、それらもかわいそうな者なのだ。

 

「かわいそう」と相手を心の中で、侮辱したつもりでも、同時に、自分も非難している。これでは、気分が明るくなれない。嫌がらせをする人には、「君は嫌がらせをする人だね。」と相手に自覚させるか、確認するだけでよい。

 

ベストアンサー

 

しょうもないことするなよ、とそのくらいの嫌がらせでダメージを受けないことを、実力で教えなくてはならない。嫌がらせも、相手に悪さをする一種の能力なのだ。彼らがやめるのは、こちらが上だと理解した時だ。すると、しなくなる。嫌がらせを見抜き、防ぐとか。倍返しで、とっちめるとか。こちらはそちらの何倍もうまく、嫌がらせみたいなことができると理解させることが大事だ。すると、嫌がらせをやめて、尊敬してくれるぞ。

 

綺麗事では解決しない。

 

私が、裏世界でも成り上がれる者と思われているのは、この才能のためだ。あらゆることは能力である。こちらが上でなければ、人は従わない。そして、私はどんな能力もすばやくうまく、身につける。

 

 

2018年8月15日

 

5.0億年後の我々は昨日した。

 

2018年8月13日

 

精神論

 人は、生き方を善くする存在か。

 

 道徳の教科書には、よりよい生き方を人は求める、とある。これが人か道徳を行う大前提にある、という。

 

 これを深く理解しよう。人は根本的に、生き方をよりよくすることしか、しない動物である、という考えだ。本当だろうか?

 

 スポーツ選手は、日々、より勝てるように、より早くなるように、よりうまく泳げるように練習する。これらは各人が、よりよく運動できることを目指している。

 

 碁打ちは、勝とうとするが、よりよい打ち方を探求してはいる。

 

この考えは、基本的に、欲求をよりよく満たすために、能力を身に着けようとする態度だ。よりおいしいものを食べたい。よりおいしい料理をつくる。よりおいしい料理が作れる自分になる。

 

 1、欲求を満たしたい。2 自分で欲求を満たすこと。3、よりよく欲求を満たす自分になる。

 

これは実は高度な生き方なのだ。お腹が減ったら、食べる。こんな目先のことしか考えていない猿やカエル、バッタは、よりよい生き方を求めるなどは、とうてい思いつかない。

 

困った人がいたら、助ける。頭が痛いなら、治して苦痛を取り除く。これは、対処である。簡単にできる。欲求を満たすだけのことだ。

 

だが、それをしているうちに気づく。よりよい方法があるのでは、と。漫然と同じようにいつも、同じことをしてよいのだろうか。

 いつも同じ味のクッキーを食べると、食べ飽きないのか? よりおいしいものが欲しくなる。

 

ただ夏はクーラーで涼しくすると、快適になる。が、ただ快適なだけでは、やがて満足しなくなる。より快適にならないのか? と。それで試行錯誤する。湿度を変えてみたり、風を吹かせてみたり。

 

 人間は、自然と欲求がより、高度になる。成長する、という前提がここにある。いつも、同じように満足するだけではない。人間は、同じことにいずれ満足できなくなる。よりよいものを求めたくなる、ということだ。

 

愛は、目先の欲求を満たせば、それでよしとする。わりと単純な精神論だ。子供が腹を空かせていたら、飯をあげるのが、母の愛。つまり、欲求を満たすだけ。

 

だが、生き方をより善くする、というのは、ただ欲求を満たすだけではない。それをすると、同じことを続けていたら、人は不足感を感じるようになる。人は進歩するから、よりよいものをほしがる。そういう成長を含んだ観点なのだ。

 

よりよい生き方を求める。人は、成長するか、退行するかのどちらかだ。成長したいのだ。

 

これは理性に備わった機能として、必然に起きることだろう。きっと。説明はいずれ。思いついたら。

 

性善説とよく似る

 性善説は、人はよりよいものを行うということだ。よく似てはいる。だが、若干違うと思う。

 

 性悪説は、反対ではない。人間は基本的に良いことをする動物だ、というのが性善説。人間が本性的に悪を目指す、というのが性悪説。これはひどい理屈なので、各自、反論を書いてほしい。

 

 性悪の理由としては、子供は平気で虫を殺し、残虐だから、というのが日本ではよく語られる。が、これは理由にならない。子供は生命を保つことを知らないので、時々、虫や小動物を殺してしまう。が、ペットの飼い方を知っている子供はペットをむやみに殺さない。全体的に、子供はペットなど小動物を活かそうとする。残酷なことが起きるのは、子供の過失が大半なのだ。よって、子供が望んでそれをしているわけではないから、子供の性格は悪とはいえない。

 

もし人間が性悪なら、子供だけではなく、大人になっても、殺人が平気だろう。が、大人の9割9分以上はそれをしたがらない。よって、子供のケースだけをとりあげて、残酷という言い方はできない。

 

 また小動物や虫を殺すことが、人間にとっての悪ではない。悪は人殺しであり、それは子供はしない。

子供の頃は、動物との触れ合いをいろいろ学ぶ時期だ。それでいろいろ試して、命を学んでいる。狩りをする狐も子供の時分には、虫や小動物で遊ぶ。そのときに、それらが死ぬのはよくある。が、狐の仲間は殺さない。

 動物との関わりを学ぶときに、子供がたまに残酷なことを小動物にするからといって、それをもって子供が、性悪だとみなすことはできない。

 

 性悪説の誤りに気づかないのは、この程度の反論すら、気づかない。思いつかない底が浅い人々である。

 

性善説は、善行をするという意味でもある。

 

人はよりよい生き方を求める、

 この前提には、同じことを続けていることは、人はできない、という考え方がある。同じことをしているとやがて不満になる。人は向上心をもつのだという前提もある。

 

 このよりよい生き方を求める態度は、やや高度なのだ。愛よりもだ。

 

 問題もある。最初のうちは、目先の改善ばかりをする。大きな改革ができるようになるまでは、力量をつける必要がある。

 

 よりよい生き方を模索するような人格に達するまで

 この境地に入ると、自分の向上する意志をずっと持ち続けることができる。すると、常日頃、努力をする人格となれる。

 

 この境地に入るには

 

最初のうちは、新しいことを覚えると、最初のやり方を覚えただけで満足する。そして、そのやり方をずっと正しいものとして、何年も変えることはなくつづける。これは成長しないのだ。結構、こういう人はいる。何十年もそれがあまりよくない方法だと知らずに、同じことを続けている人がいる。

 

 が、もっといい方法があることを知らされるか、覚える。すると、よりよい結果がつく。それを何度か経験しなくてはならない。すると、よりよい方法を覚えるたびに、よりよいことができる、と理解する。

 

すると、常によりよい方法を求める。そんな成長のラインに人は入る。こうなればしめたもので、よりよい方法を求める探求者、研究者となっている。そして、一生、その人は向上することができる。

 

この境地に入る条件としては、1, よりよい方法がたくさんあることを知らなくてはいけない。2, 自分で探して見つけ出せることを理解することだ。そして、3, その味をしめて、自分でそれをやる習慣をつけることだ。

 

つまり、子供はよりよい生き方を求める、精神を自ら向上できるようにする。それを道徳は目指だ。

 

 義務教育の道徳だ。が、彼らは子供に、かなり高度なことを要求している。しかし、そのくらい求めなくては、人間は堕落するだろう。もしくは、成長が止まった人間になるであろう。

 

2018年8月13日

 

4.9億年後の我々

 

2018年8月12日

 

仕切り直しだ。8月の予知は、やり直しだ。

 

理論的な曲よりも、勢いがあるのが好まれる。

 

で、新たにいつ、送るのかな。8/24頃のサインを調べ直してからにしよう。

 

精神の優れた者を、それを目指すものを、称賛する空気がある町に住もう。私はそういうところがお似合いだ。

 

白い友人とは何を話す?

 白い組織の現在。私は今は、自分の思想を書き上げることが第一で、あちらはあまり興味ないのだけど。

 私の体制の話。真実でないものをいくつ残すか、という話か? 先代の取り巻きをどう切るか、という話か? 私の理念と計画についてか。わたしのやりたいことは、いくつかある。全ては知らないのだ。

 古い使い達の言葉か。あれが何の法か? それとも霊能者の問題か? 法の内容か。彼は整理された体系を知らないのか? それなら簡単に言えるが。詳しくはまとめてないからいえない。

 白い人物についての評価か。私も正確なところは知らないが、多少は知ってるぞ。

 

しかし、人類が目指すべき社会とか、21世紀初頭に、広まるべき思想とか、理想の精神とか、一般論は興味ないのか? 知らなくてよいのか?

 

 まぁいいか。

 

でも、私の周囲にくる者は必須だ。それらを知らなくては、宇宙人と同じ土俵で会話できないぞ。地球管理について、どのような計画や、方針なのか。それを語れない者は、地球の運営者(使徒)の一員になれないぞ。

 

 宗教みたいな狭い枠にとらわれていては…

 

こういうふつうの男、本当はかなりさえた男なんだろうけど、を前にすると、私は超絶にいかしてることを自覚できる。

 

俺は、普段、宇宙人相手にたじたじだけど、結構、がんばっていると気づく。

 

そういえば、この宇宙の最高の文明をみつけ、研究をしているし、宇宙の中心の銀河にゆくことについて、かなり勉強したし。その時点で、精神世界の研究者としては、トップ・オブ・ザ・トップだ。他の高度な宇宙に、知恵を求めるのが現在。

 

私は何をしているか? 地球の文明を引き上げるには、何をすべきか。それなのだ。こういう話は、いまは私が好きなのだ。

 

 さて、この時代にすべきことを総合的に語ることも大事なのだ。それは、私は全体的によく、把握していない。そういう弱さはある。

 

2018年8月11日

 

まいったなあ。ぜんぜん違うではないか。8月の地震の日が。本当、情けなくなるくらいにちがう。

 

来年1月までに親しくなる男の友人をピックアップした。新たに7-8人くらいだ。

 最初は白い北大阪の男。次が心の兄貴。何十年ぶりかで、出会うようだ。3つめが子供。私が育てあげている。セックスや家出の才能を。金は稼げるようにしてある。4-6人めが、使いの子か。6-7人めが鬼男君。あとは、遠い人たちだ。

 

 白い北大阪の男が一番というのが気になった。吹田付近にいるのか。今日それらしき男を見た。彼は違うと思うな。迫力ないし。尾行や人を見にゆくことにあまりに不慣れすぎだ。世界の大野こと私と話が合うとは、どれほどすごいやつか。と思ったのだけど、彼ならそんなものかと思った。コミュニケーション能力が低下した今の私では、合うらしい。

 

2018年8月11日

 

小学校学習指導要領平成29年解説 特別の教科 道徳編 より

「道徳科の内容」第1節 内容の基本的性格

 

内容構成の考え方 1内容の捉え方 頁22-24

 

表現に3つのミス

素人なのか。この本文には、「教師と児童が共に考え、共に語り合い。」とあるが、答えを知っている教師は新たに考える必要はなく、生徒だけが考えればよい。数学では教師が、問題を見てから生徒と一緒に考えているのは、おかしい。一緒に考える意味はない。道徳も同じ。大学の研究者とは異なり、学校では教師と生徒が一緒に考える必要はない。ここは、どうでも良い指摘の1つ。「教師と生徒が共に行動する」ことに何か大切なことがあると勘違いしている日本的な教育法の流行がなせる誤りの1つ。

 

2つめのミスとしては、「児童が人間として他者とよりよく生きていく上で学ぶ」。これは道徳の定義を知らない人が書いている。道徳は、自律的なこともあり、他者とより良好な関係になるためのものではない。

 

3つめのミスは?

 「知的な理解のみにとどまる指導になったりすることがないよう」とあるが、これも変だ。「知識を覚えるにとどまらないで、理解させる。」と書くのが正しいだろう。人は知的な理解しかできないのだから。まさか反射的に体も動くようにトレーニングを積むのか?

 

こういう指摘はどうでもいいのだけど。久しぶりにやったので、まずは目についたところ。

 

 気になるのは、「物事を多面的に・多角的に考え」。これは精神的なことがらを一面的にみるのさえ、習得が困難。それをいくつか複数の精神的な観点からみるなど、最初からめざすのは至難の業。ただ多角的にみたからといって、正しい見方はあるので、あまりこういうのはこだわらないほうがよい。

 

「調和的な道徳性」というのもぴんとこない。高い道徳性のことである。どうも1節をかいたのは、道徳をよく理解していなさそうである。

 

 ただ、自己の生き方を深める、人間としてのよりよい生き方を求め、などは道徳のスタンスとしてはあっている。全体的には65点の作文だ。

 

2 四つの視点

 ここは面白いので、記す。道徳は4つの視点があるとする。

 

A 自分自身に関すること

B 人との関わりに関すること

C 集団や社会との関わりに関すること

D 生命や自然、崇高なものとの関わりに関すること

 

人との関わりと、集団や社会は同じだから、BとCは同一にすべきだ。Dは、自然と生物ということで、崇高なことは神という意味だろう。宗教教育はいけないから、神は省いて、崇高なことで濁していると思われる。「関わり」は不要。対象が、何かを指摘したらよい。「関すること」もいらない。

 

というわけで、直すと

 

A 自分自身

B 人、集団、社会

C 自然、生物

D 未知、崇高なもの

 

となる。言葉が無駄に多いのはよくない。

 

以上。

 

2018年8月11日

 

4.8億年後の我々 この未来は私の到達する能力の1/3-1/2の未来で、正しいものではない。

 

2018年8月10日

 

台湾の孔子ドラマを見た。あーいう形、弟子3000人で、中華世界で賢人と呼ばれ、どこでにも招待され、中華世界の政治にその知恵で影響を及ぼした、になるのも面白い。それを少しは目指してみようと思った。

 

東洋に合致したいわゆる賢者のスタイルである。これは孔子の思想がまんべんなく定着した日本にいると、目指しやすい。

 

作曲は私の初歩的な見解で1つずつレベルアップさせる。

まずは、1つフレーズの長さについて、学習せよ。

いくら頑張っても、それは2流曲なのだ。しかし、ほどほどに成功する。

手っ取り早く、ランキングをあげるには、重宝する。

何がだめ(流行曲の基準を満たしていないか)か。

そのこつがある。

 

2018年8月10日

 

世界の支配者になるには?

 思想家になればよい。思想家とは、プログラムを書く者だ。世界的な思想なら、何十億人も影響を受ける。国内の思想家なら、国内の影響にとどまる。

  思想家の序列で、上位に入ると、世界を支配したも同然だ。

 

実務家として支配したいのか?

 政治家になることだ。もしくは官僚になるか、戦略研究所に入ることだ。この中で、政治家は、官僚と戦略研究所の者に従う。なお、戦略研究所や官僚は、学者でないなら、学者に従う。実質は、彼らの手先になる。

 

企業家として支配したいのか?

 企業家は、自社しか支配できない。それが専門外の国政に関わると、それは政治家の領分だから、彼らの知恵に従う。政治家の手先となるだけで、決定権などもってるように思い混んでも、アドバイザーという控えめな専門家に従う。

 

陰謀家とか、エリートが世界を支配している、というが、上を読むとわかるだろう。実際に決定をしているのは、学者、研究者、思想家なのだ。その知恵に、政治家は従う。かれら専門家が、世界を動かしている。

 

 政治家も企業家は、実務を行う。このとき、最適な計画を造る能力があるなら、政治家は総合的に計画していることになる。部分の計画は、専門家である。それも支配という。が、彼らは個別の計画は、立てていない。全体を動かしているようにみえても、半分も決めてはいない。

 

 世界の支配者になっても、それは目立つ地位につくということで、本当に支配しているのは、学者なのだ。政治家達は、学者の提案通りに動くのだ。

 

 が、政治家、大統領、首相。そんな国の中心にいるような者、世界のリーダーになりたいだろう。が、彼らは、ほんのわずかしか決めないのだ。あまり憧れても… 官僚が国政を動かすのはある意味、真実だ。大勢の官僚が半分以上を決める。

政治家は、全体の計画上の順序を決めたり、些細な調整、政策の重点度を決めるにとどまる。

 

 よって、世界を支配したいなら、自分のアイデアが有用なら、それが回り回って、政治家が採用する。だから、まずはそこからでいいのでは? 専門的な見地で、優れたことをまずは書く。提案する。

 

最初はそれで世界に影響を与えたことを、理解すべきである。君は、それで世界の支配者の一員である。

 

だが、覚えておこう。そのアイデアは、どこからくるのか? 天国の連中が、結局は、人間達の文明の支配者なのだ。

 

人の中で、最も支配者になれるのは、思想家か学者だ。このうち、自然科学の法則を発見した学者は除く。

 

あなたが、地位についたとき、誰が支配しているのかを、思い起こすとよい。

 

 

2018年8月10日

 

孔子のドラマをみると、彼は統治にも関わり、軍も育てた。弟子たちは大臣につくなど、彼は中華の影の王のような影響力をもっていた。彼は文武両道の開始者なのだ。親孝行や仁などの精神論だけが孔子と思っていたが、だいぶ彼の業績を広く理解することができた。

 

 あらゆる書物を私は一通りみてきた。そんな私が狭い孔子観をもっていたのは恥だ。が、それは戦後の日本の孔子論がなかり歪んでいたことをあらわす。

 

私ももっと自分の活動を広く自覚しなくては。

 

2018年8月10日

 

4.7億年後の我々

 

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