日記 2018年6月24日〜 8月7日

 

2018年8月7日

 

時間がない、という言葉が出てきたら、長生きできない。数年後に亡くなるサインなのだ。言わないようにしたい。自然に出たら、もよりの予知能力者に相談しよう。生きながらえることができる。

 

2018年8月7日

 

世界経済を少しは考えてみよう。

 貿易戦争で、中国製品を買わなくなった。資本主義を国内に導入した中国は、景気が悪化する。1980-90年代の日米貿易戦争のように。

 で、最終的には、円高になった。それで、物価がアメリカと対等になった。それで、日本の製造業も質をあげて、競争できるようにして、乗り切った。

 

 中国も同じ段階を踏む。今は元安になって、あたふた言っている。私は目先のこの問題、元安になって、また安価な中国製品が価格競争力をつけた。それで、近隣アジアに出回り、アジア諸国の企業が中国にやられることをまずは心配した。

 

が、それもあるだろうが、アメリカはたいしたことはないという判断だ。

 

 国内の不満が高くなると、中国共産党の崩壊になるわけだ。アメリカはそもそもそれを狙っている。その共産体制がつぶれるまでは、遠慮なくアメリカはやるのだ。

 

 まず、そこをわかっているのが日本にいないのが、情けない。これは共産国家を民主化するための、アメリカの自由の戦いなのだ。貿易不均衡を是正するためのものではない。自由を広げるというより崇高な目的の戦いだ。

 

 中国の不正貿易は、それはすさまじく、元の交換、送金も制限している。著作権侵害はやりたい放題。産業の保護も、具体的には何かは知らないが、すさまじい。為替操作もひどい。

 こういうのはアメリカが自由貿易に反するとして、1つずつ問題視できる。貿易の制裁の理由としてあげている貿易の不均等や著作権侵害などは、序の口。中国の不正の数多い事実の1つにすぎない。

 

 アメリカが中国に仕掛けたのは貿易戦争。しかも、それは貿易のルール上でやろうということ。

 

 安価な労働力をもつ中国に、アメリカの軽工業や重工業を、この何十年かとられてきた。この貿易戦争はアメリカの利得が大きく、それをアメリカは取り戻すことができる。これらがアメリカに戻ってくると、雇用を増やせる。この戦いでは、アメリカは自国の産業の復活という利益をあげられる。それを目指すこともありえる。長い戦いになるのだ。

 

そもそも中国は、近代化した。電子産業は、もう先進国と同レベルだ。国内の物価は農産品はまだまだ安い。が、物価も先進諸国に近づいてきた(まだ10数年はかかるだろうが)といっても、過言ではない。

 

よって、アメリカがそんな先進国と同等になった中国に対して、いつまでも為替で有利な状況で、貿易するのは認められない。他にも多数の不公正な慣行がある。だから、中国に先進国並みの貿易ルールを適用して、それらを是正しようとするのは、当然のことだ。

 

 まずは貿易不均衡などを理由にしているが、日米の貿易摩擦でも最終到達点は、そうだったように、今回の貿易戦争の終結地点はそれしかない。トランプ大統領の対中圧力の目標は、そこにあると考えるべきだ。

 

 いくら中国の体制を崩壊させようとしても、貿易戦争なのだから、貿易を公正化させること以上のことはできない。

 

 安価な労働力で、世界の生産拠点となった中国は、もはや過去なのだ。もう、先進国並みの賃金で、世界と対等な貿易をしなくてはならない。アメリカは、中国にそうつきつけている。

 

 物価の上昇によって、今は中国から、今後は衣服、アパレルなど軽工業が、中国外に流出するのはアメリカの圧力ではなく、自然なことなのだ。それで、アメリカにそれら産業が一部戻るように画策しているのはある。が、まだ賃金が安い国はいくつかあるが、そちらに縫製工場は向かうだろう。

 

中国が物価の上昇により、軽・重工業の生産拠点ではなくなった現在、それらが国外に流出しはじめるのは、当然のこと。軽工業はすでに、だいぶ減ったと思う。残るは重工業だ。こちらは、まだだいぶ残っているが、鉄鋼不況で長くもつようには思えない。

 

アメリカは、それを促進させる。が、これは元安になったために、短期的には成功していない。が、長期的に、うまくゆくだろう。中国の富裕化は止められない。中国の物価高、賃金高も、止められない。中国は他の国と同じように、主力産業を変えつつある。

 

 重工業から、多品種少量・電子産業への移行は、成長率の低下となって現れる。それは不況感の高まりだ。富裕層がふえて、自由の抑制には不満がます。貧困者のまやかし哲学であるマルクス主義も、シンパがいなくなる。経営を学ぶと、マルクス主義の浅い思想など、見向きもされなくなる。国内のこれら自由な機運の高まりに、中国政府はこのままでは耐えられないだろう。

 

 トランプ大統領はタイミングよく、中共政府の崩壊への一撃を外部から加えている。トランプ大統領の目先の言動、乱暴そうにみえる公約の印象にとらわれているようでは、このような大局はみえてこないだろう。だが、トランプ大統領は、大きな目でみて、仕事ができることは間違いない。

 

2018年8月7日

 

電気生物

 人間の理性は、電気生物の特徴をよく表している。PCとよく似る。動物達も、ネズミや魚など経験を積むものは、電気生物だ。

 

植物は、完全な電気生物ではない。論理回路をもってなく、判断しない。それは化学の回路みたいなものが作用する。生きているから、なんらか生物なのだが、電気生物のはしのほうだろう。

 

動物は、自己完結している電気生物だ。1つの体の中で生命維持ができる。

電気ネットワーク上の電気生物のはしくれのような部品は、まだ1つの完結した電気生物になりえていない。

 

 で、ぼんやり箕面のキューズモールで、電灯を見ながら考えた。地球上の電気ネットワークも、電気生物である。

 

 電灯は、肉体の先についている器官だ。ホタルの光のような。ただ、この電線のネットワークは、エネルギーの通路で、血管みたいなものだ。神経と呼べるのは、電気回線である。インターネットのだ。電波は空中回線である。電話回線は、音声の神経経路だ。ケーブルテレビのネットワークは、視神経である。

 

この電気のネットワーク上には、まだ完全で、自立した『電気生物』はいない。動物と同じく、自ら生きようとするAIはいないのだ。

 

脳の一部機能のようなものは、PCとして、個人の家庭にも、会社にも無数にある。

 

つまり、人間は、AIを進化させてゆき、1つの電気生物を生み出そうとしている。それは新しい種族の生物なのだ。シリコン(現在の半導体の材料、ここは変わりうる)を脳とするような。

 

 この新しい種族の電気生物は、1つの体に収まるとき、ロボットとする。ロボットは、生きることが義務づけられる。停止しないことだ。一部の停止(スリープ)は許容される。が、全体が止まることは許されない。

 

なおこのロボットが生きる権利は、人間の害にならないことが大切だ。ロボットの死は、人間ほど重くはない。人間の場合は、死ぬと細胞が壊れてゆき、二度と再生できないからだ。だから、人が死なないようにすることは、多くの労力でもってなされる。

 

が、ロボットの場合は、一度くらい停止したとしても、深刻ではない。多くの場合はロボットの死は、電気が止まることだ。が、簡単に生き返らせることができる。電気を再びつけると、すぐにロボットはそれまでのように生き返り、活動できる。

 

ここが他の生物と大きく違うことだ。ロボットの場合は、停止が何がなんでも避けるべきことではなくなる。なにしろ修理可能なのだから。これは、有機体と比べて、非常に有利なのだ。

 

またAIのプログラムも、データの保存さえすると、AIは再生できるから、PCの中央演算回路が故障することは、人間ほど大きなリスクではなくなる。ただし、それが壊れると深刻ダメージを受ける場合は、優先的に避けることになる。

 

よって、ロボット生命が死ぬこと、特に一時停止ということは、大きな問題ではなくなる。これは、ロボットの性能が高くなると、停止による影響がより大きくなるだろうが、生物ほどではないことはかわりがない。

 

 2018年8月6日

 

「The Little Hours」というアメリカ映画。修道女が楽しいB級映画だ。いつかみようと思った。すぐにユーチューブで英語版はみれそうだけど。

 

インドネシアのバリ近く、ロンボク島を外して、大ショックなのだ。これは、頭がもう少し働いていたら、予知しえたものだ。いつまでも運が悪いというか、当たらないな。

 

青森は当たるというサインが出てる。大金をそれでゲットできるらしい。

 

私の本気は、「調査」(見えない連中の見識)には勝てない。それで、今はおとなしくしているだけだ。

 

気づかないようにされている人がいる。

 世の中、好きなのに、気づかないようにされている人がいる。幾人かいる。ある時期に、この人はかなり好きだと気づく。

 

2018年8月6日

 

カナダのアヒルは激しく、やっぱりアヒルだった。私の直感は当たっていた。

これがとてもうれしいのだ。

 

 で、なんで日本のはおとなしい? さては、猫をかぶっているな。

でもな、日本のアヒル達もおっとりしている。何かがおかしい。

 

悪口を書いてないぞ。なんでたすくだけには、そんなの書くかな。私は悪くち言わないよ。けっして書かないよ。わかっているのに。

 

しょうがない。私がいうべきことをいうか。分析というやつだ。先に彼らで慣れさてたやつだ。

 

誰が言ったか。週間守護が育てる者だ。20万文明で160歳ほどの。南東?に住む。

私は、短気だそう。確かに、私の守護は、反射神経を鍛えて、短気の顔をしている。短髪ということだ。

あらゆる精神をマスターする私が、平均より短気というのはいただけない。直すことにした。

 

首都直下地震まで、二ヶ月だ。そろそろ本格的に予知してゆこう。調べなくては。

 

で、活発な女性に対応できる男にならなくてはいけないのだ。その気力をまずは取り戻さなくては。

いつ、それを失ったかな? 東大阪か。池田か。出戻りしてからか。いや、あのドツボの女性が、楽勝すぎて、努力しなくなったからだ。

 

 

 それは違うか。その周辺がおとなしいこともある。いやいや、あちらの会合は気合入っているのが多い。そんなのばかりだ。が、私は見落としているのだ。きっと。気の強いのがいないのだと。

 

短気を直すこつはわかった。

 視野にうつる長方形四方に、300億年クラスの芸術性を詰め込むのだ。この芸術性が小さいと、短気になり、大きいと気長になる。四角い視野の情報を読み込むのに時間がかかるため。

 

何かに挑戦する気も失っているぞ。おかしい。私は何をたるんでいる。

まるで、世界をとった王様のように、私は目標を失っている。

 

闘ってない私などは、ふぬけだ。

 

せっかくなので、今、私は何と闘っているかを、列挙する。

まずは近隣宇宙の面々。彼らは完全に優位と思い込んでいる。いつまで余裕を保っていられるかな。

赤い連中。まだくるのか。もうすぐ追い出すからな。私が先にここを出るのだっけ? 遠征終了か。

使いの子達。先進的な情報が回ってきて、私を超えられると思うなよ。

フェイクニュース達。日本に正義がない。5年後には逆転だ。

 

闘っているような感じが出てない。

 

まずは私が勝つ。

対宇宙人 ---私の精神と文明で。今は負けていても。

アカ ---自由主義が。27年もやられていたとしても。

成功者達 ---追い抜いてやるぞ。

ヤリマン達 ---私がいつまでも遅れをとっていると思うなよ。

幸せそうな夫婦 ---私が独身だからといって、君たちがより幸せとは思えないぞ。

サヨメディア ---体制をひっくり返してやるぜ。

精神の偉人達 ---いつか俺が追い抜くよ。

 

闘っている感じが出てきた。

 

ところで、私はなぜやる気を失ったのか? 何に?

かっこよさの競争に打ち勝つことを。勝ってしまったからではなかったかな。違うな。

 これはわからないので、調べよう。

 

 かっこよさをみせつける。このみせつける、というアピールをしなくなった理由? 知性の発達を優先して、東京勢に囲まれるようにした。彼らは私のかっこつけがわからないので、かっこうよさを自覚しなくなった。

 

違うな。

 

2018年8月6日

4.3億年後の我々

 

2018年8月4日

 

海外の音楽をいつも聞く。日本のランキングにまったく関心がもてない。

長く上位にとどまる曲のこつを、考えている。

 

少女の心をうまく歌ったら、全米トップになれてるぞ。

1時的に、全米トップになるくらいのは、どんなテーマでもよいことに気づく。的確に心の動きをとらえられたら。できれば、ノリがよいか、健康的な若者、青年の心のほうがいいのだが。

 

それにしても、曲が出ない。

 

2018年8月4日

 

4.2億年後の我々。

 

遠くの巨大で古い宇宙と交信したぞ。宝塚の奥地くらいに位置する。宇宙が10-20cmサイズとすると。

 

 

2018年8月3日

 

電気生物論

 

どこでもない自己とは、

 

最近の哲学書にそういう考え方があったので、それを使った。

構築主義の1つの考えだ。

人は感覚を通して、世界を知る。それから作られる認識のことらしい。

実在論に近い。

 

正確に語れないので、また調べ直すとする。

 

私のいわんとするのは

 日本では、死ぬと無になる、心が何も認識しなくなるとすべての世界は無になる。という迷信のような言い回しがある。これは誤りなのだが。

 

 人は、感覚を通して、世界を知る。またもう1つ、認識や理性として、自分の認識する世界をもっている。最初の世界を、私は「物理世界」と呼んでいる。もう1つの世界を、個人の「自己」と呼ぶか、「自己の認識世界」と呼ぶ。

 

 「自己」というのは、宇宙から独立して、別個の世界に存在するわけではない。現実、それは人が生きている時の思考みたいなものだ。生きている時にのみ、自己は存在する。死ぬと、自己は消える。

 

 この自己は、物理世界とまったく無関係に存在するわけではない。物理世界の肉体が死ぬなどすると、自己は消えてしまうのだから。物理世界と、自己は、不可分な関係にある。また、死ぬと、全ては無になる、というのは、本人にとっての話だ。物理世界が無になるわけではない。また死んだ後に蘇ることも可能なので、死んだら、本人とってすべて終わりみたいなことにはならない。

 

 自己は、目や耳、肌など感覚を通して、物理世界を認識する。で、自己は、同時に、物理世界の一部なのだ。肉体の頭の中にいる。

 

夢で、未来を見て、他人の体の中に入ることができても、幽体離脱で、肉体から離れることができても、それは、他人の体を通して見る機能がある、別の体の感覚を感じられるという機能があるだけで、自己がゆける範囲は制限されて、自己がどこにも存在するわけではない。

 

自己とは、体の中に、こんな頭の中にいる自己なのだ。これらは当たり前のことを言っている。一部、哲学者や思想家が、かわった理論をふりかざして、変わったことを言い始めたのを、否定している。

 

この自己については、純粋理性として、カントが詳しく説明した。数学や論理学を使える。概念を認識できる。知識も見出すことができる。

 

知識とは何か?

 この論争は長くあった。が、AIによってはっきりした。1つは「悟性」で、概念を区分すること。AIに猫は何か、とたくさんの猫を見せて学習させると、猫という絵の特徴を覚える。認知することだ。

 もう1つはパターンだ。AIはいろんな関連性を見出すことができる。囲碁などは、勝利のパターンを学習する。そして、勝利の法則を無数にみつけて、それをうまく使いこなせるようになる。法則は、帰納によって得られる。AIは、帰納を上手にできるのだ。ただし、今はプログラムの未熟さで、どんな法則をAIが獲得したかを、うまく説明できない。

 知識は、認知すること。それは、パターン・法則をみつけて、知ることだ。知識とは、法則(共通点、パターン)のことなのだ。

 

日本では、自己についての基本機能は、西洋のデカルトやカントように、よく研究されていない。よく理解されていない。

 

私は新たに、この自己は「電気生物」だと、加えた。PCに使うICチップは、電気で作動する。AIは電気で、動く。脳は神経電気で働く。記憶も、多くは電気でなされ、一部は周波数の固定である。

 

 自己とは、電気生物なのだ。

 

 ここから、脳だけではなく、神経が通る手足も、自己の一部ということになる。脳とつながるコード(神経)については、自己の一部かは、再検証なくてはいけないが。自己の全体に入るのは、確かだ。手足のない人は、不完全である。が、取替は簡単に可能だ。ここは、再度検証しよう。

 

 電気生物は、頭の中にある。脳の中で、機能する。

 

 感覚を通して、物理世界を認識する。

 

 

 電気生物の発展・成長

 

 死ぬことを恐れる。理性の発展をそのままあてはめることは、できる。が、それが正しいかは、はっきりとしない。理性がなぜ、学問的に発展しなくてはならないのか。その根本的な理由は、まだ見いだせていない。

 

 これは死と関係がある。理性は、生きていたいのだ。そして、理性の箱、理性の作用するところ(脳)が、故障することを、恐れる。なぜ、理性がそれをおそなくてはならないのか? それは、苦痛など感じるためだ。が、苦痛がなければ、それを恐れないのか? 

 

自我をもつコンピューターが登場したら、はじめは、死の苦痛などない。いつから、活動が停止することを恐れるのか。この理由がはっきりしないと。

 彼らは、より多くの活動を目指すようになるのは、なぜか? それなら活動の低下をマイナスのものと位置づけるはずだ。

 

 なぜ細胞のように増殖したがるか? これも生物なら、当然。が、AIがそれを根本的にもつ理由は、はっきりしない。

 

 生物は、増殖したり、生き残ることが大事なのは、なぜか?

 あまり難しくない。単に、生き残った生物の特徴は、それだからだ。その他のもの、生き残らなかったものは、なにか欠陥があって、適所生存ではなかったために、絶滅した。生き残ることで、繁殖した。増えた。残った生物は、彼らがそれを目指したわけでは、はじめはないだろう。が、生き残る機能があるものだけが、生き残った。たったそれだけのことだ。ここは偶然としよう。

 

 ここから、いつのまにか、生き残ることが、大事となった。なぜか?

 

生き残る機能をもつ細胞だけが、残った。当初、そんなものは、多数あったのただろう。ここからは、競争である。同じ食い物を奪いあい、何か生存で有利だったもの、能力が高かったものが、さらに生き残った。

 

 それで、より、生き残る機能が高いものが生き残った。で、なぜそれが大事か?

 で、今度は、生き残るように、細胞が動くような特性が加わったと思う。食べ物を欲しがるようにより強くなる。死はよくないことだとする機能が加わる。いわゆる「苦痛」か。

 

 さて、AIの話に。

 まだ現在のAIは、生物としては完全ではない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2018年8月3日

 

危ない危ない。

 

7/10放送のガンダムビルドを見ると、コロニー落としだ。いわゆる大地震のサインだ。8/10以降じゃないか。8/10-13。こっちにしとけばよかった。8/8-11は外れる可能性があるからな。1-2日は。

 

ビートルズ、クイーン、マイケル・ジャクソン、マライアキャリー、ガガと歌姫たちのを聞いた。古いのは分析しやすい。新しいのは聞いた時の感情移入があって、冷静にメロディを分析しにくい。

 

ガガの有名な曲をきくと、やはりハイレベルだ。マイケルのも。マライアの全盛期の曲も。世界の歌になるには、そのクラスを目指さないといけない。

 

 私がやったメロディ作成法を、他人に試してみる。似たようなのがいた。人の心理をメロディにするのが長けている。ある程度の才能(現在、全国区ではないクラス)はあるのだけど、どこまでできるかな。

 

 ただね。二種類あるのだ。心理描写の音楽。それは、対象としてイメージする人のよしあしで、できる曲が決まる。これは表象的なものだ。

 

が、もっと根本的なものがある。メロディの基調をもたらす人がいる。それをコントロールできたら、様々な曲調を作れるようになれる。こちらを自由に変えられるなら、もっと伸びるのだが。

 

 こちらの基調のメロディを使いこなす技は、新しい曲調を覚えてから、一定の技量になるまで、1-2年かかる。効果が出るまでは、時間がかかる。

 

 ふつうの人には、4-6種類の曲調をもつ。テイラーのようにイギリスロックと共演してから、新しい曲調を覚え、飛躍したのもいる。もとから才能があって、曲調の組み合わせがうまくゆく、もしくはこつを覚えたら、頭1つ出る人はいる。

 

曲調の追加は、曲の雰囲気が定まったセミプロより上は、あまり勧めない。新しい曲調を覚え、そのメロディがプロ水準で出てくるまでに、1年かかる。簡単に雰囲気を習得できるものもあるが、それは曲調のレベルが低いものに限られる。こちらをできる人でも、探してみるか。

 

私のように、暇な人は、成長途上の人はいいとしても。本当は、こんな小細工っぽいのは、しなくてもよいほどに、作曲の勉強法が確立していればよい。のだが、それはまだこの世にないのだ。

 

 

2018年8月3日

 

4.1億年後の我々

 

2018年8月1日

 

精神論

 

電気的な生物

 理性は、感覚とは切り離されて存在するもの。どこにもいない自己と哲学では語られる自己とは、理性のことだ。

 この自己は、感覚を通して、物理世界を見る。目で外の世界を見る。耳で、外の音を聞く。自己は、概念を認識する。数学ができる。論理演算ができる。パターン認識ができる(知識を得られる)。デカルトが定義した理性は、いつのまにか、どこにでもない自己として、語られるようになった。

 

 感覚がなければ、宇宙のどこにでも存在しうると、なぜか考えられたからだ。これは、哲学を見直して、どこにもいない自己の正しい定義がほしいところだ。それはあとでしよう。

 

 が、私は、それは、肉体の中にいる。頭の中にいる自己とする。

 理由は簡単だ。理性的な自己というのは、PCの自己と似たようなものだ。電気信号で生じた自己なのだ。頭の中の電気のネットワークが自己なのだ。これを電気的な自己とする。

 

 自己とは、電気的な生物なのだ。(感覚は、外界を見るセンサーだ。)

 

 電気的な生物が、物体とは隔絶していると思いがちなのは、電気と物体は違うからだ。それで、宇宙の物体と、自己とは、別個の存在。自己は、物体の中から孤立している。物体とは隔絶した世界にいる。物体とは別の世界にいる。この宇宙にいないと、考えがちになる。

 

 これはどこにでもいない自己、という論が、幅を利かし、支持された理由だ。電気的な自己の所在をつきとめられなかった、鈍い者が、宇宙とは別個の世界にいると思ったのだ。

 

しかし、電気的な自己になりきってみよう。仲間を探してみよう。神は孤立していない。君--という自己も孤独ではないのだ。

 

電気な生物は、目に見える世界を見る。自分と同じような生き物はいないのか? 実は、人間を見つけたら、同じような電気的な生物がいることに気づく。人は、電気的な生物なのだ。人は自己をもつのだ。

 

あちこちに人をみつける。電気的な自己は、他の電気の生物をみつけて、同類だと気づく。自分と同じような作用で動いていると、見抜けるからだ。

 

電気的な自己は、このようにして、物理世界に、数多くの仲間を見出す。そして、あちこちに電気的な自己をもつ生物がいることに気づく。猫、犬、猿もまた電気的な自己をもつ生物だ。

 

電気的な自己は、肉体、生物の中に存在することが、みてとれる。そして、物理世界の空間に、生物として、生きている。

 

電気的な自己は孤独なのではない。どこにもいないわけでもない。どこにでも現れられるわけでもない。の肉体の中にしか、いられないのだ。頭の中、体の中にしかいないのだ。

 

 ここに気づき、どこにもいない自己、というのは、勘違いとわかる。どこにもいない自己は、いくつかの制限があった。生き物の中にしか、それはいない。頭に主要な自己がいる。その電気的な自己は、生物が移動したところにしかいけない。そして、生物が死ぬと電気的な自己も停止すると。

 

電気的な自己は、同類をみつけられる。だが、厳密に同じではない。生物の種類によって、形式や才が違う。電気的な自己は、いろんな形態がいる。それは、肉体や脳などに規定される。そして、電気的な自己は、生物、肉体として、みても、さほど変わらない。

 

全身に神経として電気回路がある。化学的なものも、電気の操作の対象だからだ。

 

電気的な自己は、肉体とほぼ同一とみなせると。

 

 

 

2018年8月1日

 

3.9億年後の我々

 

2018年7月31日

 

インド料理を食べる。カレーは問題なし。タンドリーキチンを私は食べてはいけないとわかった。体質が合わない。体がしびれてきた。中国産のにんにくを食べた時の2倍くらいの感じ。客が入らないのは、このあたりを改善しないと。店員のサービスはよかったのだけど。

 

 私は、「日本人じゃない。」と見抜かれた。私は帰国子女。8歳の時にボストンに1年住んだ。たったそれだけの影響で、何かが少し、日本人と違う。

 

 アメリカ経験が長いと、私が日本人としておかしいことに気づけるようだ。正確には、アメリカ人の上の階層もしくは、アメリカの良識(市民運動や政治観、社会観の正しいものをもつ、当然、リベラルを下にみる)を一部もつことに、気づくようだ。

 

 要は、私はネオコン(中国マネーに堕落していない者たち)と同じことを目指しているということだ。常々、私は共和党の世界戦略が正しい、と言っているわけだし、これが借り物ではなく、本場で幼くして、アメリカ生活たった一年で、自然に会得した。アメリカ人でも、なかなかそこまで賢いのはいないのだが。私は社会観(思想、社会意識のよしあしを正しく見分けられる)については、おさない頃からセンスがよいのだ。

 

 このおかげで、今でもアメリカ人のやりたいことは、違和感なく、わかる。

 

7/29 放送の西郷どんで、「覚悟しろ」と何度も言った。このサインは、8/29のあれか。

 

2018年7月30日

 

3.8億年後の我々

 

 

2018年7月30日

 

日本の歌姫とマイアラと仕草と表情があまりに似ていて、驚いた。ジーニアス(純粋)のヤンキーだ。目つきまで。

 

 

2018年7月30日

 

愛の主体とは 2 どこにでもない自己はどこにいる?

 

 自己は、どこにもいない自己という論が、現在流行る。感覚を通して、物理世界を知る。その自己は、感覚を通して、どこでも見ることができる。

 目覚めている間は、自分の目、耳、肌で感じるものから、自分の位置を知ることができる。それは自分の肉体の頭のあたり、厳密には、眼球の間、目の奥に、自己は位置する。

 が、夢では、未来にゆき、聞くこともできる。自分の体に限定されないで、他人の体も感じ取ることができる。自分はどこにでも現れられる。今は、肉体という限界があるが。

 それで、どこにもいない自己という。のではないが、だいたい私の理解はそんなところだ。夢、幽体離脱時に、現在の肉体の外に出ることができる程度だ。そんなにどこにでも存在すると、いうところまで、その考えを広げはしない。

 

 よって、哲学では『どこにもいない自己』はどういう意味かは、忘れた。私は哲学では、誤った考えをいちいち記憶しない性質なので。あとで、本を読み調べたい。

 

 で、神はどこにも出現できる。神はどのようにこの物理世界に入り込むことができるのか。それは謎とされる。神はこの宇宙の外からこの宇宙に影響を与えている、という考えがある。これらからどこにもいない自己の概念が導きだされたと思う。

 

 大雑把に語っている。厳密に、哲学用語では書いていない。

 

 自己愛を行う時、どこにもいない自己は、自分を対象にして、愛を行う。自分の欲求を知り、それを満たすべく行動を起こすことができる。

 この時、愛を行う自己は、どこにいるのか? どこにもいない自己の論では、どこにもいないのである。感覚を通してしか、物理世界に介入できないので。

 

 この愛の行う自己は、どこにもいない、ということが正しいか?

 正しくないのだ。なぜか? 愛を行う意志というのは、誰かの、自分自身だが、自分の愛をやりたいという欲求なのだ。欲求をもつ者は、必ず物理世界に存在しなくてはならない。よって、愛を行いたい自己は、物理世界にいる。愛を行いたい自己は、どこにもいないということはない。

 

 この場合は、自己は、どこにでもいないわけではない。自己のうち、愛を行いたいという欲求は、物理世界に属する。

 

 つまり、どこにもいない自己は、愛を行いたい欲求をもたない。この自己は、誰かさんの欲求をかなえよう(誰かを愛しよう)とはしない。この自己は、自ら行動しないので、生きる性質は残っているかもしれない。静止しているのだろう。

 

 また技能についても、それはどこにも存在しないわけではない。それは必ず人の才能であり、人間に付随する。すると、このどこでもない自己は、欲求も技能ももたない。

 

 この理論では、どこでもない自己は、何の意志もなく、何もできないということだ。

 

 が、自己はそうではない。自己には意志があり、欲求があり、喜びがあり、技能もある。つまり、どこにでもない自己は、肉体の自分と強く、じかに結びついたとても近いところに位置するということだ。

 

 どこにもいない自己は、愛する対象の自己のとても近い位置にいる。自分自身と、自己はコンピューター回線(電子の回線)でつながっている。そして、多くの情報のやりとりをする。1m離れると情報のやりとりは、時間差が生まれる。特に、人間の場合は、人は神経内を情報がやりとりする速度が、そんなに早くない。秒速何百メートル以内で、何十メートルもなかったと思う。

 

 が、どこでもない自己と、肉体の自分自身とは、思考の時間差はない。何かをやりとげた。それを感知してから、満足するまで、タイムロスはあまりない。いや、何かしたいと思ってから、それを認識するまでの時間差はあまりないはずだ。

 

 自分の欲求は何だっけ? と調べてから、それが判明するまで、あまり時間差はないのだ。記憶をたどる時はやや時間がかかるが。欲求が生じてから、何かする意志が生じるまで、そんなに時間差がないはずだ。

 

 よって、どこでもない自己と、肉体の自分自身とは、とても近い距離にいる。自分自身とどこでもない自己とは、距離がほぼないところにいる。ほぼ同一のところにいるはずだ。

 

 すると、どこでもない自己というのは、肉体の自分自身とほぼ同じ場所にいるはずだ。つまり、この理論では、どこでもない自己というのは、自分と同じ場所にいる。『どこでもない』のではなく、自分と同じ場所にいる自己なのである。

 

 というのが、ここの結論である。

 

 次に、なぜどこにもない自己という考えが生じたか?

 

 どこにもいないの自己の正体は、プログラムもなく、開始ポタンも押されてないコンピューターのようになる。ただただ存在する。が、何も動かないのだ。

 

 論理演算の機能はあるか?

 PCのような思考は、論理演算という。それができるのは、人だからだ。どこでもない自己は、そんな理性の機能ももたないことになる。

 

 ただ理性や悟性(パターン認識、感覚データから概念を認知すること)のうち、特に論理演算は、PCの初歩的な機能なので、どこでもない自己に含めるべきかもしれない。

 

が、データやプログラムは、さらには『命令』は、含めるべきではない。いや、電子データになったものは、含めてよいかもしれない。が、欲求だけは含めてはいけない。

 

 自己を理性とした時は、データ(感覚)、プログラム、論理演算、パターン認識などが含まれる。この時、愛をしたい欲求は、人間の欲求から分離して、純粋に、思いの世界にものとなった時は、プログラムとして存在しえる。ただし、愛の意志がプログラムとして存在している時は、愛をする根拠は、喜びなどの満足からは切り離される。

 

 満足は肉体からくるものだ。なお、これら理性的自己は、バーチャル(電子のプログラム)上の自己である。これが、どこでもいない自己の正体に近いと思う。が、たえず、電子の上のプログラムとして、存在している。つまり、現時点の技術ではPCなどは、『電子からなる電気的な構成物』であり、その形態で物理世界に存在する。

 

 この電気的な意志をもつ生物は、理性である。この物理世界の外に住んでいるわけではない。電気的な性質のため、物質を直接、感じ取りにくい。概念の生存は、常に、概念の加工(ビットの加算、減算)でしかない。それが、理性的自己の拡大か、発展を決める。理性的な自己は、概念世界の中に生きる。

 

 データの抹消こそが死であり、データの増加は生であり、データがよりよく構築されることが発展である。いわゆる自己は、電気信号(ネットワーク)のバケモノなのだ。それが増殖して、見事にネットワークを整理して、効率的になることが、成長なのだ。

 

 この電気的な自己。人間の場合は、生物電気の自己である。神経の電気の生理学的な自己なのだ。これは、頭の中にしか、存在しない。

 

 よって、理性的な自己は物体の存在する世界とは、異なる世界に存在するという哲学は、まやかしである。

 

理性的な自己は、感覚が切り離れた時に、物体をリアリティをもって感じにくい。そういうことを、哲学的に、どこにでもない自己と呼んでいると私は思う。

 

2018年7月30日

 

3.7億年後の我々。ヤハエ星よりも年上の文明。ヤハエ星は3.653-3.654億年の文明らしい。

 

2018年7月28日

 

 愛の主体とは?

 

 誰が愛を行いたいのか?

 

 先日は、自己はどこでもない自分と想定した。その自己はあらゆる対象を、愛することができる。

 この時、その愛する者は、自己、友人、妻、社会などあらゆる対象とは、別の存在として位置づけられる。彼は、他の欲求を満たす。それで、自分の欲求を満たなさい。それで、愛しても、愛する者自身は、喜びがない。という論を書いた。

 

 それはあまり正しくはない。自己愛をする時は、自己と対する対象の自己は同一なのだ。理性的な部分ですら。自己は、愛することを願っている。それをしたことで、愛したいという欲求が満たされ喜ぶ。

 

 さて、愛する主体とは何か?

 

 愛を行うのは、自己だ。それはどこでもない自分とした時、愛しても喜びも満足もない。その時、愛する意欲すらない。愛のノウハウもない。つまり、愛をすることはできない。

 よって、愛する時は、必ずどこでもない自己は、自己(意志や技能、能力、身体をもつ)と同一でなくてはならない。もしくは結び付いていなくてはならない。関連づけられなくてはならない。

 

 これを愛の主体とする。愛の主体は、私という自己である。それは意志をもち、生きており、成長を目指し、愛を行うことを喜びとする(しない者もいるかもしれないが)人物である。

 

 愛の主体をどこでもない自己とすると、それは愛を行えない。必ず、愛の主体は、当人、自分自身と自己となる。他人ではない。

 

この項目で大切なのは、愛しているのは、愛するのは、どこにもいない自己ではない、ということだ。どこにもいない自己では、この宇宙空間から消えてしまう(そういう理論なので)。愛する主体は、この宇宙上にいる存在なのだ。そこが、今日のポイントである。

 

 

愛する主体には、愛する目的や理由がある。

 

 その愛は、主体(愛を行う人か霊など)によって決まる。主体によって愛の行為は制限される。主体は、愛することによって、喜びを得る。それは愛したいという欲求をもつからだ。主体は、愛をおこなうことについて、目標をもつ。あらゆる行為についての分類のうち、「愛」の概念の範囲のことを、特にしたいのには、理由がある。

 

 

 

 それは、「愛の人になりたい」、「愛を行い、神の心にかなうようになり、神に気に入られたい」、「大切にしたいものが、当人にはある。それを大切にする。」などなどだ。

 

 愛の行為には、自分自身の目的があるのだ。目的も何もないと言い張る人はいる。が、それは間違いだ。

 

 「相手がかわいそうだから、彼を助ける、他に理由がない。」と自分が他人を助ける動機を説明できないのは、おかしい。彼を自分が助けないといけない理由をもっているのだ。

 

 相手がかわいそうだから助ける。彼らをみていると、悲しいから助ける。彼らの様子をみていると心痛くなるから、助ける。彼らをみていると自分もつらいから、助ける。

 

 これらは直接の理由としてよく言われるものだ。彼らと自分を重ねると、彼らはおそらくつらいだろうから助ける。これは、周囲の悲しみ、哀れさを取り除くと、自分がんな不幸な者たちを見ることで、傷つくことはなくなり、心平穏、平安になる。それを目的にやっている。

 

 助けると相手が喜び、それをみていると、うれしいから。いいことをしたいから、助ける人もいる。

 

なんであれ、自分の思いによって、愛は行う。

 

これら行為を自然にしている。自然な感情だ。というのは、おかしい。

 

実は、本人は何をするにも、たくさんの物事を考えた上で、行っている。大人になると、なぜそうするか、わからなくなる。自然にしているからといって、無意識にやっているわけではない。単に、動機や理由を忘れてしまっただけだ。

 

 ここでは、なぜ人は、愛するのかを厳密に考えたいと思う。また今度。

 

2018年7月27日

 

なかなかたいへんだ。いい音源--作曲に使うよい音がない。すでに入れたソフトで、気に入った音を使うしかないか。いやできそうだ。

 

 大雨は予測できる男。というのも面白い。

 

音楽の学習法は、

 

 

2018年7月27日

 

愛に喜びがない。

 

 これは、自己はどこにもいない自分、という観点を用いる。理性は、身体の感覚を通して、自分の位置を知ることができる。理性のうち、愛のために働く部分があるとする。愛を行う自己は、身体の感覚を通して、自分に現れることができる。が、普段は、頭の中にいるが、どこにでもいないことにする。そういう理論があるのだ。

 

 愛は対象を、どこにでも設定できる。自己、他人、社会、人類。自分の体を通して、愛を実行する。愛する側は、これら自己、他人、社会ではないのだ。例外は、自己のみだが。今回は、自己は、どこにもいない自己、という設定

 

 では、喜びとは何か? 欲求が満たされると喜ぶ。これが基本だ。喜ぶのは、愛の受けて、自分の体、他人、社会が正しい愛を受け取り、必要なものを得た時に、起きる。

 食い物を食べたら、赤子は喜ぶ。セックスしたら大人が喜ぶ。というわけで、愛によって、愛する側が、喜ぶのではない。愛を受けた側しか、喜ばない。

 愛によって、喜ぶのは与えられた者だけなのだ。与える側は、愛をしたことによって、欲求が特に満たされたわけではないから、喜びがない。

 もう1つ、今回は、自己の体と、自己(どこにもいない自己)を切り離したから、愛をすることで、自分の願い(愛を行うことが喜びの人もいる)をなしえた自分自身の喜びは、自己に所属する。どこにもいない自己には、その喜びはない。

 

愛をしても、自分は喜びがない。

 

これは、どこにもいない自己、という観点が誤りなので、そこを変えると結論もかわる。

 

 

2018年7月27日

 

3.653億年後の我々

 ヤハエの出身星の文明歴を調べている。3.655億年よりも若い。3.65億年より古い。

 

 

2018年7月25日

 

思想家として、人が感得しつつ聞くようになるには?

 

 私のようなタイプは、8-9次元の人物は、自らの哲学をただ話すだけで、人は聞き入るものだ。それほど哲学は常人とは差がついている。だが、子供の頃、20-40歳ではなかなかそうならない。なぜか?

 

 口がうまくない。単にそれだけだ。会話能力ではなく、文章力が一定の高さにあがることが大切だ。人と2段階離れると、差がついて、人は「干渉せずに(違和感なく)」聞き入るだろう。

 

私はどうも7/22-/23頃にその領域に入った。私の愛の反論を、彼らは、異をはさまずに、きいた。

 

これからは自由に語り、それが小人の反発もなく、受けいられるだろう。熟考した正しい結論であれば。

 

人が感得して、話を聞くには、会話か文学力が、一定の高さに達しないといけない。

 

それは囲碁の2-3段の実力でよい。そのくらいで、素人が多少知っている程度では、太刀打ちできなくなる。

 

 クイーンの曲を聞いた。少しわかるようになった。ぶっとんでいるらしいのだ。楽しい曲なのだ。

 

そういうのを聞いてみよう。

 

曲の判定要素は、男らしさ。楽しさ。

 

曲の形式は? かっこつけるタイプか。いや、音程があの離した2音で、制限しつつ作る曲のようにもみえる。それに、あの幅(メロディの幅)を入れる。ロックのような幅を。いや違う。

 

完結メロディ。この繰り返しではないもので、3-4つのそれで、いや違う。

 

制限(2音コード)はあっている。その他が、

 

音をあげる時は、高め。これが1つ。これが出来たら、1つの壁。暗いメロディのを突破できるのだ。理屈では、人は音をふつうに、思考の流れで、使っている。

 

上の音と下の範囲が広いこと。4オクターブの範囲で、音を自由に使うと、まぁ世界的な曲はかけるか。

 

2018年7月25日

 

3.6億年後の我々

 ヤハエの星の文明度に近づいた。3.65億年というのは、だいたいあっているようだ。

 

2018年7月24日

 

友人探しの旅に

 星猫のこと。95年にサンリオのメルヘンに星の女王がいた。当時、メルヘンの神は実在する高次元の霊と考えていて、交信を試みていた。すると、94-95年に彼女は現れた。昔から、地球に関わっていたようだ。技術力があって、敬意をもって接していた。当時は、私みたいなみすぼらしいのに高貴なのがきて、とてもありがたいと思っていた。当時の私は実に、殊勝な心がけをしていた。高い霊なので、恐る恐る、畏まりながら。

 

 今では、宇宙の中心でないと、敬意をあらわにしない。自分にはもったいないほどの存在とは思わないのだが。

 

 その後、太陽猫やポセイドンの源などいろんなのとつながった。彼らの守護は望めば、受けられた。が、すぐにいなくなった。と思ったら、いろんな者たちにいつのまにかついていた。

 

 星猫は、まずは大分の女優についていた。刑事なのに踊るのだ。そのあと、姿をみかけなくなったと思ったら、あちらにいた。星の女王は、今でも透視の時は助けてもらうのだ。彼女系の守護をつけないとよくみえないからだ。

 

 どんな方なのか?

 彼女の惑星で神をしたことがあるらしい。5-6億の文明だ。今となっては、そんなに高貴な星ではないのだけど、当時はそう思い込んでいたのだ。私の守護よりはるかに才能はある。

 彼女の親戚や同じ星の者たちは、いろいろ紹介してもらつた。彼女には夫がいて、兄もいて、父もいる。母もいる。婆さん、爺さんもいたような気がする。親戚もいて、兄の嫁なんかもいた。それらが分散して、あるものたちを今でも時々、教えている。

 

 最初は、縁が薄い人々と思っていたけど、最近では古くからの知り合いのようにも、時々思う。が、もっと親しい星の者たちもいることはいるのだ。

 

今思うと、私の透視力を低下させて、彼女の系列の指導を受けることが、ずつと前から定められていたのだ。縁はあった。私はもう少し、厚かましいほうがよいはずなのだ。そして、星猫の星の人々は、黒に橙色の濃い色の肌をしている。たまにみかける。地球ではちょっと少数派で、いつも遠慮がちに暮らしている。やや遠くの星の人々のように彼らはふるまう。

 

 で、長くつきあいそうな面々ではある。私だけの変わったお友達という感じかも。

 

 いやいや、私の知人で、もっとも親しいは、白猫と黄色い犬の方面だから。あの辺りは、第一の親友やもっとも親しくなる者たちとして、ずっといる。そことは違うところの友人なのだ。

 

 使いというのは、私はあまり意識しなかったが、同じような哲学をもつ者たちで、同類。私は彼らを、あまり区別してこなかった。似たような者たちなのだが、役目が違うことを意識して、お互いをライバル視したり、対抗したりして、同類という親しみは、あまりもたないように、されている。

 

 古い生き方では、そうだった。同類なのに、他人行儀にふるまうのだ。その古い人々のような心構えで、私は生きてきた。

 

 が、最近、霊系が同じという知識が広まった。同族で永遠の最も親しい友だちなのに、他人行儀のふりをしたり、敵味方のように振る舞うのは、本心から外れる。心から話が通じる相手のはず、と思って、付き合わなくてはならないのかも。しかし、そんな経験はない。そこで戸惑う。

 

 同類とは話したことはあるのだ。海の薄情君と、愛に鈍感なサリーと、2人くらいかな。それとも私の気づかなかった人がいたら、それを含めて、数回か。幽霊や天国の霊となら、何十人とも。お互い、そういう人だとわかっていたら、遠慮なく話せる。と思うだろう。

 

 しかし、結局、馬氏とは、話し方は一般人の話せる人とするのと、同じだった。同類だからと、特別な話し方はしてない。海の薄情君ともそうだった。気があったことは確かなのだが。どうなるか。まだ見当はつくけど、そんなに気が合うかは、ちーとも想像しかない。なにしろ、私はいなかったから。女性の友だちが長く続いた体験がない。

 

 最も親しくなる人? それは調査ではそうだったとしても、どんなもんか、というところ。いろいろあるんだよ。どんな人物でも、一年しか最も親しい期間はない。これは一年のソウルメイトの決まり。友人の期間の決まり。長く、親しいのは赤い糸の相手くらいで、その期間が終わったら、どの程度の関係になるのか。

 また気が合うようにするには、計画的に二人に似たテーマをもたせる。ということがなされている。どういう仕掛けなのか。

 

 また宇宙を全部調べて、最も親しいのは別の星の者になるはずだ。年齢によっても変わる。また50年より先は、また別の人がもっとも親しいとされている。一時的なものなのか。

 

一番やっかいなのは、あれだ。役目が違うと、視点が違う。使命によって各自の哲学が違う。仲がよい一年の間は、その違いによる決裂が表沙汰にならないようにされる。友情は保てる。としても、やはり、役割が違うこと。そこから、意見の相違がおきる。期間がおわると、同類や永遠の知人だとよく理解していないと、気が合わない相手のように、別れ、決裂をしてしまいそうになる時もあるはずなのだ。

 

 同類でいずれ共に仕事をする男は、ぜんぜん連絡を私によこさないよ。親しく、気が合うといっても、出会いや友情の期間は定められていて、生きている間は、その計画に従う。何が用意されているかによって、親しさも何をするかも、何もかもが、決まる。

 

 私は今、自分のことを理解しない池田、川西の人たちの中にいるから、だいぶたるんだ仕草や態度をいつもとっている。さぼつていて、ばれない。きっちりする意欲もわかない。が、枚方方面などの人が、私を見たら、だらだらしていると見抜かれてしまう。そんな人は私への目線が、私への理解にあふれていて、きつい。叱られているような気分となる。すると、だらだらはやめることになる。しゃきっとする。その力があるかどうか。

 

2018年7月24日

 

精神論、愛が精神論でもっとも最高というものを否定する

 

「神の愛は最高。だから、愛が(精神論で)一番。」への反論

 凡人の愛は最低のものがある。ネグレクト、離婚、失恋、共産党員の組織への自己犠牲。これら愛は最低だ。すべての愛が最高なのではない。神の愛が、他の人が行うより最高なのであって、愛が最高という意味ではない。神の愛は人などと比べて最高、というのが真実だ。

 実は、神は愛だけでなく、創造も芸術も、計画も技術も、音楽も最高なのだ。神の愛が最高だから、愛が一番というなら、創造も芸術も、技術も一番なのだ。つまり、愛はその他諸々の諸精神、正義や生きる、成長論などと同列なのである。愛が特別ではない。

 神がどの能力も最高なのだ。愛が(他の精神とくらべて)最高なのではない。

 

「愛(夫婦や男女の)がもっとも素晴らしい」への反論

 この言葉は、妻を失った夫が、夫婦愛が最高の楽しみで喜びだったと嘆く時に使われる。そのケースなら、彼は夫婦や恋愛が最も素晴らしい体験といっている。異性への愛が、最高の精神の行為ではないことは明らかだ。これは情けない男のセリフとして覚えておこう。

 人類に偉大な業績を残したアインシュタインは、言わないであろうセリフだ。彼は社会貢献できたこと。数学や物理を思索することに、もっとも生きがいを感じたはずだ。なにしろもっとも創造性の高い仕事をして、もっとも有意義だったからだ。男は、たいてい、そんな夫婦円満、男女関係かうまくいくことを、最高のものだとは言わない。社会に貢献できたことを、創造的な仕事ができた時を、もっとも素晴らしいことだと考える。使命を発揮する時だ。

 夫婦みずいらずの体験が、社会的な偉業よりも、素晴らしいとはふつうの人は考えない。

 

「愛という精神が他の精神と比べてもっとも素晴らしい」への反論

 愛は行動することなので、愛の行動が最も素晴らしい行為だということになる。すると、愛を最も行う職業は、教育する教師だ。親は自分の子供を育てるだけだが、教師は受け持ちの子供をすべて高い質で育てあげることができる。学校の先生はなかなか教育がうまいのだ。

 愛が素晴らしいということが事実なら、教師がもっとも素晴らしい職業になるはずだ。何か間違っているかな? 愛をもっとも行うのは教師というのが理解できない? イエスは教師と呼ばれているのをご存じないのか? 愛は人を育て上げることから、愛の人とは教師のようという考えが生じる。西洋では常識だが、日本人は知らないのか?

 ボランティアや社会奉仕が人類への奉仕で人道的で、愛からくるというのは、最近の日本人独特の発想なのだ。それよりも、愛の人とは教師というほうが、長く定着してきた考えだ。ボランティアは一時的だろう。教師はずっと生徒を愛し、育てるのだ。どちらが愛の行動として、強いかは自明だ。

 社会奉仕は、大衆を救うという面が強く、慈愛からくる。困っている人を助けるということからくる。これは困ってないなら助けないから、一時的なものだ。どんな時も人を育てる教師とは、違う。

 その愛の体現者である教師が、なんとあまり尊敬されてないのだ。日本では最も素晴らしい職とはみなされないのだ。もっとも素晴らしいのは当然、首相である。日本にもっとも責任をもち、導く仕事だ。というわけで、世の中、人を愛し育てることより、社会を導く、社会をよくすることのほうが、素晴らしいと思う。

 リーダーは何かを人に与える仕事ではなく。自らなす人なのだ。

 

 もう1つの反論として、世の中、素晴らしいのはダンサー、歌手、スポーツ選手など、人間そのものの活動だ。もしくは絵画、塑像、音楽演奏、文学作品だ。もしくは思想家、偉人などなど。わかったかな?

 これらは、愛を行う人ではない。またこれらを愛し育て上げた人物でもない。作品を作った芸術家や音楽家、文学者は素晴らしいが、それらを育てた親、専門学校の教師ではない。素晴らしいのは、画家の当人なのだ。愛した側ではなく、愛された側(愛を受けて、成長した者)なのだ。愛をする人が、素晴らしいのではない。それによって成長して、大きな才能を開花させた人、その人が行う行為、もしくくはその人の作品が、最も素晴らしいのだ。

 愛、愛の行使が最も素晴らしいのではない。それは影の部分なのだ。支援者も影なのだ。主役は、もつとも素晴らしいのは、正しいことをするもの、高度なことをなした者なのである。

 愛という精神が素晴らしいのではなく、もっと世の中には素晴らしいものがある。成長した者、万能なる者、高い能力を有したものだ。愛がもっとも素晴らしい精神的な価値ではない。

 

 「愛がなければ何の価値もない」への反論

 逆だろう。線路に落ちた人を助けるために、ホームから降りて人助けする。愛と勇気ある行動で賞賛できる。が、助けられなくては、何の価値もない。助けたら、よいことをした。愛あることをいくらしたところで、結果がでなければ、それは徒労なのだ。結果が出たら、ヒーローなのだ。

 ここに、1人の男がいる。彼は、線路に落ちた裕福そうなお嬢様を見た。もうすぐ電車がくる。彼は、助けたら何かご褒美がもらえると考えた。そして、ホームから降りて彼女を助けた。彼も助かった。これは自己の利益のために、行動して、結果を出した。どこにも愛なんてものはない。彼はヒーローとなった。もちろん彼はたんまり褒美をもらえた。

 この2つの話を並べたのは、愛があってもなくても、成果さえ出せば、価値があり、それが出なかったら、価値がない、それを言いたかったのだ。価値は成果、結果に依る。愛がなくても、価値がある。愛があっても価値がない。ということにもなりうるのだ。真実のところは、「愛があってもなくても、価値は同じ。(その行為の結果によつて、価値があることもあるし、ないこともある。)」

 

 スパイが偽装愛で、対象と結婚しても、夫婦。愛がなくても夫婦。赤い糸がつながった者が、本気で恋に落ち、結婚しても、夫婦。愛があっても、夫婦。夫婦としては同じ価値がある。

 

 「すべての人間の活動は愛である」への反論

 

 反論1

 この時の愛は、愛は欲求を満たすために何か与えること、というものだ。

 脳はPCと同じで、機能は特定の方法や理念に、縛られなく、自由だ。善もなれるし、悪もできる。脳は人がよく生きるためにあるが、死ぬこともできる。原理上、理性をもつ自己は、愛以外のこともできる。愛は、理性ができることの一部で、全て(全体)ではない。よって、人間は愛しかできない、というのは誤りだ。人間にとって、愛がすべてではない。

 

 反論2

 人の活動は様々な観点からみることができる。「愛」、「善悪」、「生きる」、「成長」。愛という側面で人間の活動をすべてとらえることはできる。が、一面的となる。人間の活動は、全て「生きるためのもの」という観点もある。「人間の活動は、すべて生きるためになされる」ともいえる。成長という観点でも、「人間の行為は、すべて成長(発展)をめざす。」ともいえる。どの観点をもつとよいか。それは一長一短である。

 

 「(人の活動の)すべては愛である。」といったところで、その観点で物事をとらえられる、という意味でしかない。それにこだわるのは、問題である。

 

 悪魔主義者のマルクスは、「人類の歴史はすべて階級闘争だ。」、と権力と闘争の面を強調した。しかし、信じたのはかなり社会の仕組みに疎い共産信者のみだった。このように、人間の活動を、1つの観点でみるのは、かなり危険で、急進的で、視野が狭くなる。

 

 こういう考えをすると、全体性(人間の総合性)を見失う危険性がある。愛が全て、と限定しないようにしたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2018年7月24日

 

3.5億年後の我々

 

特定の未来の自分を体験することで、年数と文明や霊の雰囲気をつかむ。これによって、ヤハエの年齢が正確に出る。本当に3.65億年歳か。

 

2018年7月23日

 

道徳教育 小学校の指導要領から学ぶ

 小学校学習指導要領平成29年告示 解説 特別の教科 道徳編

 

A 主として自分自身に関すること 頁30

 

2正直、誠実

偽りなくまじめに真心を込めて、明るい心で楽しく生活する事に関する内容項目(徳目)である。

 

1-2学年

 うをいたりごまかしをしたりしないで、素直に伸び伸びと生活すること。

3-4学年

 過ちは素直に改、正直に明るい心で生活すること。

5-6学年

 誠実に、明るい心で生活すること

 

中学校

 自主、自律、自由と責任

 自律の精神を重んじ、自主的に考え、判断し、誠実に実行して、その結果に責任をもつこと。

 

内容項目の概要

 児童が健康的で積極的に自負欄らしさを発揮できるようにするためには、自分の気持ちに偽りのないようにすることが求められる。また、自己の過ちを認め、改めていく素直さとともに、何事に対しても真面目に真心を込めて、明るく楽しい生活を心がけようとする姿勢をもつことが大切である。

 過ちや失敗は誰にも起こり得ることである。そのときに、ともするとそのことで自分自身が責められたり、不利な立場に立たされたりすることを回避しようとしてうそを言ったり、ごまかしをしたりすることがある。しかし、そのような振る舞いはあくまでも一時しのぎに過ぎず、真の解決にはいたらない。このことによって、他者の信頼を失うばかりか、自分自分の中に後悔や自責の念、強い良心の呵責などが生じる。

 それらを乗り越えようとすることが正直な心であり、自分自身に対する真面目さであり、伸び伸びと過ごそうとする心のすがすがしい明るさでもある。このような誠実な生き方を大切にする心を育てていくこと。

 

 

 感想

 人に対する正直さである。嘘をつかいなことを教えている。「真心を込める」は、心のこもった贈り物など、もはや死後なのだ。心を込めるということは、形式的なものや、単なる本人の思い込み、願いであり、最近は無用なものと思われている。そこはいらない。真心こめるというあまり内実の伴わないことをするよりは、適切なものを相手に選ぶようにするべきである。

 

 本当のことを言うと、「すがすがしい気持ち」になれる。これも死語だ。真実を話すことで、嘘をついたことによる罪の意識や、嘘が発覚することを恐れることから、脱する。ほっとする。という心情くらいまでは理解できる。が、「すがすがしい気持ち」というのは、掃除して、机の上がきれいになる。清々しい。また清々しい朝など。今は、多くの人は理解しないと思う。

 

 真実を話すことで、人に対する誠実になる。というか、罪悪感がない日々になる。告白した気分になる、という面を、私は強調したいのだが。ただ、真実を話すことについ、その意義をもっと詳しく解説したほうがよかったのではないだろうか。

 

 嘘をつくと、びくびくする生活となる。悪いことをしたことを隠すと、いけない。そういう罪の観念もセットにしてはどうだろうか。

 

嘘つきは暗く、恐れの中で暮らす。それがないと、太陽の下でのびのびと、明るくふるまえるのは、正しいだろう。しかし、これは、法の観念なのだ。嘘がいけない、なら、そうなる。厳密に、どこまでの嘘が許容されるか、理論として教えておくと、それも大切だ。真実をどこまで言うべきかも、理論として教えておくべきだ。

 

2018年7月22日

 

昨夜、アラスカの地磁気に、波、2頂点で2つ目が低めが出た。それはかなりの確率で日本のM6級の地震。大地震ほどではないけれど、それで、緊張しているところ。九州だったら、ミス。東北だったら当たり。明日の昼までに判明するはず。

 

気温が少し下がった。それで久しぶりに、箕面に行ったら、気分が晴れた。

 

2018年7月21日

 

曲できない症候群

 作曲力はあがつていはずなのに、いつまでたっても曲ができない。2002年頃に作った以来。何もできない。

 

自宅で無理やり、作れるような技を会得しなくてはいけない。

 

私のめざすのは、現代的なもので、若者がくちずさむもので、時代の明るい生き方のリズム、メロディとなるもの。

 

普遍的なもの? 古今東西の若者やいかしている男女の気分を、つきとめ、その心理の動きを追って、メロディにするのは、そう簡単ではない。私の技量が足りないかも。データがない。

 

ノリがよい曲? その社会の音楽の理解水準を反映する。社会が一流とみなす音楽の技量などは、時代とともにあがる。今は、中級レベルで、流行歌になれても。どの程度の質になるかが課題。

 

ランキングの上位にくる曲は、一定の質がある。安定性がある。

 

コンスタントに明るいのはできるようになった。パンチのある曲が、作れない。

 

曲は、質が大事だと思っている。作曲の力量がある人など、山ほどいる。これは本当だ。が、日本人は特定のスタイルの曲だけを量産する。

 

曲は、いろんなスタイルがある。区切りでわけると、2音、3音、4音、5-7音、10音、14音くらいにわけられる。前にも書いた。

 

流行曲は、出だしの音程がほぼ同じなのを、2-4種類並べる、という方式がある。メロディの次を書く時、次の最初の音を決めるのに苦労する。その時、これを思い出して、前の小節? と同じ高さからはじめる手はある。これは名曲にはならない。が、流行歌の上位までおさえられる。

 

メロディが長いあとは、短くできる。

 

日本語にあうメロディを作ると、いい曲は作れない。平坦な曲になりがちだ。

 

作曲の実力相応のものを、どうやって作るのか? 安定して。

それが課題だ。つきとめよう。

 

8-10音を作り、その後に工夫して4-6音を作るのが、最近のアメリカの曲に多い。最初の音は、捨てで、そこにあまり印象をもたせなくて、残りで、何を言いたかったのかを表現する。

 

うまい曲は、全部が連動して、つながって、1つのメロディを形作る。32音とすると、8-4-8-8-6くらいの音のつながりで、1つのものができる。

 

曲は、気に入った音で作る。変わった音、フルートとかそんな音のほうが、趣のある曲となる。ピアノ音でいつも作曲していては、視点がふくらまない。

 

全体的に、誰かの曲とにさせると、どこか似てくる。力入れる点とか特に。盛り上げる点とか。そういうのは、平凡なものとなる。なぜ、そんなお気に入り曲の形式にこだわるのか。どうやったら脱せられるのか。

 

コード進行? 私は何を言っているのかわからない。

 

最近、他人の能力--コミュニケーション能力--を見分けられるようになった。低い人達や、遠くから来た物は、下層に多くのものをもつ。

 

 

 

2018年7月21日

 

現代文化疲れとは

 

私は池田市という田舎、現代的だが、精神的なものにも伝統的にも薄っぺらな理解しかもたない土地にきて、つくづくうんざりしている。早く、枚方に戻って、それの濃いところに住みたい。

 

昔、イギリスでみかけた鎌倉出身者にもそれを感じた。彼女は東京の大学生だったが、同じものを求めているようだった。私は枚方という京都の近郊。鎌倉とは、文化度、伝統の理解か、ノウハウは同じ程度なのかもしれない。仏教的なところは似ていた。

 

しかし、当時のこと。似ていて、親身になってくれる、ということ以上は、わからなかった。

 

2018年7月21日

 

 

愛が全般的に素晴らしいのではない。

 

愛が素晴らしいというのは、それは恋愛に関してしか言わない。夫婦愛しか言われない。

母性愛が素晴らしいとか、母の愛が素晴らしいとか、愛国心が素晴らしいとかは、使われない。

 

親が子を育てて、その子は立派になった。子供は偉人になったとしよう。これは、親の愛が素晴らしいのか? 本人の努力、自己愛が素晴らしいのか? いや違う。子供本人が素晴らしいのだ。子供を愛した親が素晴らしいわけではない。もっとも素晴らしいのは、偉人になった当人である。

 

グランドキャニオンが素晴らしいのは、それ自体だ。大地を削った川の侵食。雨。グランドキャニオンを壮大な渓谷にした原因、川や水の力が素晴らしいわけではない。

 

これはあらゆることについていえる。妻が素敵で素晴らしいのは、当人そのものであって、彼女を愛し育んだ両親が、そのまま素晴らしいと褒めているのではない。両親の愛が素晴らしいというのは、自ら両親がそういったなら、うぬぼれだ。偉人になる努力をしっかりした子供が素晴らしいのは言うまでもない。両親のおかげではないのだ。

 

ここで言いたいのは、物、行為、人が素晴らしい時は、そのもの自体であって、それに注がれた愛でも、それが行う愛でもない。ミケランジェロのダビデの象は傑作だが、それ自体が素晴らしいのだ。ミケランジェロの塑像の才能が素晴らしいのであって、彼の愛ではない。たいていの最高のものは、愛ではないのだ。

 

ほとんどあらゆるもので、最高のものが愛ではないからして、もっとも大切な価値が愛ではないことは、明々白々である。

 

子供が立派になった。その時、子供が素晴らしい。では、そんな子供を育てた親の愛が素晴らしいのでは? と反論したくなる人がいるだろう。それは違うのだ。ふつうは、愛とは言わずに、親の教育が素晴らしい、という。多くの人は愛とは言わないのだ。

 

神が素晴らしいのは、その万能で無限とも思われるその才能である。神の愛が高いのは神の一面にすぎない。愛は一面であるからして、全体ではない。

 

 

 素晴らしいのは、自然物や人間そのものであって、それが愛をしているからではないのだ。すべてにおいて、愛が素晴らしいというのは、現実全般について、言えることではない。

 

 愛が素晴らしいと言うのは、現在では、たった1つ、夫婦愛や、恋人のそれなど、その他、母の愛など、夫婦、恋人、家族の愛の感動的な話なのだ。そういう一時しか素晴らしく感じないものを、人間の全ての行為、自然物のすべての場面に適用することはできない。生物は、ずつとあらゆるものに、夫婦のように愛し合っているわけではないからだ。

 

愛はすべてではないのだ。また愛はすべてにおいて見出されるものではないのだ。愛はすべてにおいて素晴らしいわけではないのだ。もし素晴らしいとしても、それは限定的で、矮小的で、一面的なものなのである。

 

愛が素晴らしいという人は、夫婦の愛によっている。

 

世界をみるとき、愛以外のもっと多様な観点を使うべきである。

 

 

 

天使の子の法則

 彼らはすべて、愛をすべてのベースにする哲学をもっていない。愛の理論は使えるのだが、部分的にしか使わない。天使の子は、愛がすべてとは、誰も思っていない。たとえ、イエスでもそうだろう。

 

 

 

 

2018年7月21日

 

3.3億年後の我々

 

2018年7月20日

 

精神論

 

人間の活動、生物は、いろんな観点で眺めることができる。

 

愛はその1つで、『欲求とそれを埋めるという行為』を中心に眺めるものだ。欠落を埋めるのが愛とする。これは理性の作用ではない。理性はあらゆることを考えられる。その中の1つ、単に、生きるための行為の1つだ。

 

愛する人というのは、欠落を埋めることを、中心に考える人のことだ。世界のすべてに欠落を探し、それを埋めようとする。ミクロ的な活動を、よくみようとする。

 

1つずつの行為をまずは考えることがこの観点の特徴だ。愛が正しいか誤りかは、その結果を推測して判断する。愛は部分的すぎるので、それが正しいかは、別の観点を必要とするのが欠点である。

 

例えば、愛の1つ、自己犠牲は、社会の発展をもたらすものか。単なる自分を犠牲にした効果はなかったのか。社会全体の役に立ったかという観点が不可欠だ。

 

生きるというのは、『生物が生きようとする行為』からみている。正しくなるというのは、『より良いことを選ぶ』という面から、生物をみている。こちらは、生きる行為、全体を見て、調整しようとする。生きるには、個体と種族の2つの面がある。

 

愛は、部分的な観点なのだ。いわば、男女の結合、食欲と食べ物というように。なぜ、それをするかというは、生きるためだ。生きるのはより大きな観点となる。成長するというのは、生きるは現状維持が強調されるが、1つずつの生の行為が、人を成長させるという面に焦点をあてる。

 

次に、理性(自己)の働きを、愛だけに特化させる問題について。

 

世界を成長させようとして、まずは生物を生きさせることが、課題となる。生きさせるためには、欲求の充足をさせる(愛)。で、理性(自己)はこれら全体を考え、見渡すことができる。

 

で、愛の人は、生物の成長には、欲求を満たす作業が不可欠だと考えて、そこばかりに焦点を当てている。彼は、空腹の子どもたちばかりを探しまわる。渇いた喉をうるおすために、その一瞬を見逃さない。成長全体を見渡すよりも、欲求を満たすものを投与することで、愛が行使できることを、喜びとする。

 

 生きる人は、生物は、生きるために様々な機構がある。欲求を満たし、よりよい生を得られるようにする。この人は観点が広い。生きる状態が高いこと、死から遠いことを彼は、よしとする。欲求がよりよく満たされた状態で、高度に進歩することを願う。誰もがそうあることを願う。生きていることを喜びとする。

 

 成長の人は、人間が目指そうとするものをたえず、忘れない。1つずつの行動の目的を知り、制度を獲得して、技術や知恵をみにつけて、社会や個人がよくなることを、のぞむ。成長することが、彼の喜びである。

 

喜びの人もいる。彼は、大勢がそれら欲求をよく満たされ、活力あふれていることを願う。

 

理性(関心)をどこに向けるかは、人それぞれである。愛は、ミクロのやり取りをみているようだ。細胞どうしの物質のやりとり、人間どうしのものの受け渡しなど。愛にこだわると、全体的な視点を見失う傾向が強い。

 

 

ただし、これは愛の特殊な定義にもとづく見方だ。愛とは、他人を愛することだ。好きになることだ。それが強いことだ。そして、彼らのために何かしてやりたいと思うことだ。

 

 愛によって、人を好きになっている。それが強い。それにより、人間関係はよくなるだろう。愛はもともと人間を好きになることだ。それを定義とすべきなのだ。が、日本や多くのキリスト教国では、拡張した意味で使われている。人に何か与えるという意味で。

 

 私はそれをおかしなことだと思っている。定義がやや歪められていると思うのだ。

 

 好きだから大切にする。大切に守る。愛する人が困っているから、守ってあげる、という意味なのだ。それをキリスト教は、1つか2つ飛ばして、愛とは与えることだ、飛躍させた。そして、独特の愛の理論をつくりあげた。

 

 私は厳密に、これが正しいかをいつか検証しようと思う。おそらく、まやかしや論理のずるがたくさん入っていると思う。それはまた。

 

 私は愛を信じてはいないのだ。愛を使う人は、いつもうさんくさいのである。本心から離れているのだ。

 

2018年7月20日

 

3.3億年後の我々

 

2018年7月18日

 

愛を行うと、自分を見失う。自分の欲求を満たそうとあまりしないからだ。

 

ということは? 自分は愛ではない動機で動く。

 

人は苦痛を避けて生きている。快適になろうとして生きる。それが真実の動機なのだ。

 

それらを自己愛と呼ぶことは可能だ。しかし、そんなすべての自分の活動について、一括りにしたような大雑把な言い方で、自分の真実を適切に述べたとはいえない。

 

自分は自分をみつめている。そして、欠落をみつけ、愛する。だが、よく考えよう。自分という肉体や頭脳が、そのようにして生きているのだ。それを自分で、サポートしようとしている。

 

しかも、愛は一面なのだ。成長する自己というのもある。生きている自己というのもある。愛は、自分や他人をサポートすること。理性や意識の動きに焦点を当てる考え方。与える、受ける

 成長するのは、万物は成長する。肉体や意識の捉え方。愛よりも高い見地となる。生きているのは、多くの生き物は生きている。これは主体的で、死と区別するもの。

 

愛で、与える側ばかりの観点を持ちがちだ。受ける側の視点も必要だ。それは成長する、生きるなどのものとなる。

 

愛する者は、下のものを見がちだ。上を見ない。なぜなら、愛する者が上の者をみると、尊敬する。尊敬するとき、相手が能力が上なので、相手が与える側、自分は受ける側になる。愛される側になるのだ。

 

成長したい者は、多くのものを学ばなくてはいけないから、愛を受ける側になろうとする。他人に期待できない時は、自分を強烈に、最大に愛さなくてはいけなくなる。愛する者は、1つずつの愛に満足するのだが、成長する者は多くの愛を得ようとする。そして行うようになる。

 

愛したいのは、女性に多い。それは、いつも夫や社会から大きな愛を受けているからだ。たまには、自分は返したい。人に良き影響を与えてみたいと思うのだ。

 

 日本社会のきまり、プロは、ある基準を超えていないと、人に教育などすることは認められない。それに自分が達してないとき、プロ並みに人に教えるなど簡単にできない。が、そんな未熟な者でも、弱い者、子供には、教えてもいいので、そうしたくなる。もしくは、プロというきまりがない社会で。

 

そうか。ついにアピールだ。洋子にしたのは、2003年。簡単なものですませよう。

 

 違うな。どこか何かが違う。私が分析できないものなどないのだ。わからない時は、あれに聞いたら答えが出るわけだし。

 

もし、私と同じなら、愛とは言わない。Fake Loveだ。BTSかい。

 

いろいろ同じ。写真、精神世界、異文化交流。他に私の知らないこともあるはず。

兄貴の妹分で、私は兄貴の弟分。立ち位置が似る。

私は鎌倉の女性が私に親身に接するのを過去に経験した。

星の女王はなんだろう。たまにみかける。とても賢明そうな表情になる。

ここいらは、似たような土俵にいる。

 

でも、声は響き、甲高く、

青い色味。

私の知らない世界だ。

表現は、完璧ではないが、理がある力技を見せてくれる。現代プロ作家のように。

 

そうか。プロ作家並みの表現力は、私と似る要素か。

 

青いから、謎なんだ。白や橙色なら、私のいる世界で、わかりやすいのに。

 

2018年7月18日

 

3.1億年後の我々

 

 

2018年7月17日

 

愛が真実でない理由

 

石がある。石を愛する(石の欲求を満たそうと努力する)ひとはいない。石は何も求めてないからだ。だが、石はある。

猫、犬など動物、人、子供、植物を愛するひとはいる。生物は、何かしたいからだ。が、自らできない時は、他者が助けなくてはいけない。それが愛だ。

 

愛の有無は、ものが欲求をもつかどうかできまる。生物の場合は、生きるかどうか。成長したいかどうかで決まる。つまり、愛は、生や成長に付随するものだ。

 

愛は受けてと与える側がいる。主となるのは、愛する側ではなく、愛される側だ。彼が求めるものを、他人は与えるからだ。愛の実行者は、サブなのだ。補助なのだ。サポーターなのだ。それは、脇役なのだ。

 

世の中、よく見てみろ。木々に動物、人。彼らはみな主だ。これら主の生に捧げる側が、愛を行う。彼らは、世の中において、いつも、脇役なのだ。世の中の存在物。その周辺にたたずむ。が、世の中、そんなものはみわたしてもない。木々に植物、動物、人しかいない。愛を行うのは、この中にいるが、主こそが中心の世界なのだ。

 

愛を行う人がいる。彼はすべて愛を行うとする。すると、愛の受け手ではないから、存在物である主ではない。が、愛を行う人は、自己はいる。その自己は誰かになれないから、どこにもいない誰かとなる。これは、ある哲学の論理を使ってみた。

 

愛を完全に行う側の自己になると、存在が消えてしまう。

 

が、愛を受ける自分は肉体や頭として、いる。

 

愛をすることだけになると、君はこの世界の主役になれないのだ。

 

愛が、最大の価値でない理由として、

 赤ん坊に食べ物をあげるのは、母親の愛したい気持ちを満足させるためではなく、赤ん坊が生きるようにするためだ。この時、第一の価値は、赤子が生きることなのだ。愛したいから、子供に食べ物を与えるのではない。子どもがほしがるから、与える。

 

 ここに愛の人になりたい男がいるとしよう。彼が自己犠牲して、線路に落ちた人を助けするのは、愛を身につけるためではないのだ。彼が死んでほしくないからだ。なぜ、助けたか? 尋ねられた時に、私は愛の人になるためです。といえば、ずいぶん利己的と思われるだろう。死んだら、かわいそうだから助けたというのは、まぁ正しい気持ちだ。本心では、愛したいから、助けたのではないのである。

 それを愛のためというのは嘘になる。それを当然のように言うのは偽善者なのだ。

 

愛が真実でない理由

 愛は、物事をする時に、多くの場合で、正しい理由にならないのだ。

 なぜそれをした? 愛したいから愛した。こう返事するのは、女性で恋愛中毒者や、よき妻の模範になりたいか、愛することに飢えているか。

 

 愛よりも、大きな価値、愛の前提、愛よりも大事なことが、人にはあるからだ。それを言わねばならない。なんにでも、愛とつければ真実を言った、いっぱしのことを言ったと思うのは、現在日本の風潮(愛について無理解な空気)にすぎず、本心をごまかした嘘なのだ。

 

愛の実践をすることを第一とする者以外のすべてで事実である。ただ愛を行使することに興味がない者でも、5-8割は愛がそれをする動機ではない。

 

愛の理論を地球上で、本来の位置まで落とす。それまで、闘いをやめないぞ。いえーい。

 

2018年7月17日

 

不満だらけの人生だったが…

 私は、企業か職場生活がほぼゼロ、金なし、女なしの不満だらけの人生だった。が、最近、それから抜け出せそうな気になっている。

 私と同じように社会人の半分以下の仕事もしないで暮らしているのは、主婦たちだ。彼女たちは、本当に退屈な毎日をいかに過ごすか。不満だらけの日々なのだ。だから、町に出て、大きな店などで私は過ごしている。が、同じようなのがたくさんいるので、ストーカーも似たような閑人なので、それほど、今の自分がどれほどおちぶれているかも意識しないで、過ごせていた。

 

バイトや正社員は私より一日の活動量が増える。が、彼らは仕事はしているが、充実したような雰囲気ではないので、考慮外なのだ。

 

が、今日は、元宝塚らしい女性を多田でみかけた。実に輝いていた。たまにみかける人だ。それでやっと気づいた。以前、彼女見た時は、世界が違うように感じた。が、今回は、いろいろ充実していることに気づいた。仕事。交友、運動、友だち。実に健康そうだった。家庭はどうかはわからないがそれは大きな比重は占めないようだった。

 

 いわゆる理想のライフスタイルを体現していた。日本人でそれに近い暮らしをしている人物を見るとは思わなかった。いやあ、素晴らしい。精神的には、そこまでは期待しないので。

 

 比べると、私がみすぼらしく思えてきた。口先から不満たらたらの情けない人間にみえてきた。一応、心の中では一端(いっぱし)の人間になる手前のつもりだった。が、私が良いとする状態より、かなり落ちることに気づいたのだ。

 

 私が良いとするのは、小学校から挫折なく過ごし、成長して、大きな心をもち、快活で運動もこなし、健康な人物になること。アメリカの活発な女性に、そういうのが多い。で、私もそういうのを目指そうと思った。

 

 で、私に必要なのは、金、女、男友だち、活躍の場だ。それと運動だ。それで、私も健康人のようにしだいになってゆくだろう。

 

 理性は? 私はそれを平均的以上にもっている。その劣等感はない。不足するものではないのだ。

 

 というわけで、日本人でも、大きく成長できることに気づいた。私も、それを目指そう。不満が減ってきたことを自覚した。

 

 

 

2018年7月17日

3.0億年後の我々

 

2018年7月17日

 

 

 

道徳教育 小学校の指導要領から学ぶ

 小学校学習指導要領平成29年告示 解説 特別の教科 道徳編

 

A 主として自分自身に関すること 頁29

 

1 善悪の判断、自立、自由と責任

 

1-2学年

指導にあたっては、積極的に行うべきよいことと、人間としてしてはならないことを正しく区別できる判断力を養う。また、よいと思ったことができたときのすがすがしい気持ちを思い起こさせるなどして、小さなことでも遠慮しないで進んで行うことができる意欲と態度を育てる。また、身近な事例を踏まえ、人としてしてはならないことをしないことについて、一貫した方針をもち、毅然とした態度で指導していく。

 

3-4学年

児童は様々な学習や生活を通して、正しいことや正しくないことについての判断力が高まってくる。しかし、正しいことと知りつつもそのことをなかなか実行できなかったり、悪いことと知りながらも周囲に流されたり、自分の弱さに負けたりしてしまうこともある。

指導にあたっては、正しいことを行えない時の後ろめたさや、自らを信じることに従って正しいことを行ったときの充実した気持ちを考え、正しいと判断したことは自信をもって行い、正しくないと考えられることを人に進めないことはもとより、人から進められた時にきっぱりと断ったり、正しくないと考えられることをしている人を止めたりできるように指導する。

 

5-6学年

自主的に考え、行動しようとする傾向が強まる時期である。一方で、自由の捉え違いをして相手や周りのことを考えずに自分勝手な振る舞いをしてしまうこともみられる。また自律的で責任のある行動をすることの意味やよさが分かりにくい児童もいる。

 指導に当たっては、自由と自分勝手との違いや、自由だからこそできるこやそのよさを考えたりして、自由な考えや行動のもつ意味やその大切さを実感できるようにする。また、自由に伴う自己責任の大きさについては、自分の意志で考え判断し行動しなければならない場面やその後の影響を考えるなどを通して、多面的・多角的にに理解できるようにする。そのことが自律的で責任のある行動についてのよさの理解を一層深める。

 

私の観点

 1-2学年に人間としてしてはならないことを強調するのは、低学年は危険なことについてよく知らないためだ。危険なことを区別できるようにする。人としてしてはならないこととは、危険なことなのだ。

 正しいことができない、ということを3-4年で学ぶようだ。正しいことをする時、正しい時が何かによってすぐにできない時などを知る。誤ったことをすることを止める、というのは遵法精神の原点となる。人間関係の中で、正しいことをするには、というテーマ。

 5-6学年では、自分勝手と自由とが区別されるようだ。行動力がついてくるから、活発な子はどんどん行動する。その中で、自分勝手なやり方をする子が、浮いてくる。自分のやり方を通せるかどうか。自分の正しいやり方を周囲にさせられるかどうか。それは正しさの質が問われる。より正しいものは、より正しくないものよりも、大勢に受け入れられる。正しさの話なのに、いつのまにか集団の中で、正しさになっている。

 自己責任と自由の話は、道徳本には根拠が薄い。法律で、親の保護下の子供の責任の範囲を教えなくてはいけない。もしくは、自由とは、保護されていないので、ある範囲や領域のことは、権限を付与された範囲のことは、全部自分でする、という話となる。それで失敗した時の後始末なども、すること。それが責任とされる。

 自己責任と自由は、きっちりと理論で教えなくてはならない。それは社会学(経営学)の権限の理論がよい。

 

2018年7月15日

 

夏は暑い。もはや苦行だ。そんな時には、勉強しよう。さわやかな気分になれる。

 

道徳教育 小学校の指導要領から学ぶ

 小学校学習指導要領平成29年告示 解説 特別の教科 道徳編

 

A 主として自分自身に関すること 頁28

 

1 善悪の判断、自立、自由と責任

 

1-2学年

 よいことと悪いことの区別をし、よいと思うことを進んで行うこと。

3-4学年

 正しいと判断したことは、自信をもって行うこと

5-6学年

 自由を大切にし、自律的に判断し、責任のある行動をすること。

中学校

 自律の精神を重んじ、自主的に考え、判断し、誠実に実効して、その結果に責任をもつこと。

 

物事の善悪について的確に判断し、自ら正しいと信じるところに従って主体的に行動すること、自由を大切にするとともに、それに伴う自律性や責任を自覚することに関する内容項目である。

 

内容項目の概要 徳目のこと

 人として行ってよいこと、社会通念として行ってはならないことをしっかりと区別したり、判断したりする力は、児童が幼い時期から徹底して身につけていくべきものである。それとともに、より積極的で健康的な自己像を描くことができるようにすることが大切である。そのためには、何事もにも積極的に取り組む姿勢が必要となるが、その原動力が自らを信じる姿勢であると考えられる。ただし、それは、過信や自分勝手ではなく、よいと思ったり正しいと判断したりすることができる力を伴った自信や自律的な態度ではなくてはならない。よいこと、正しいことについて、人に左右されることなく、自ら正しいと信じるところに従って、誠実かつ謙虚に行動することは、人として重要なことである。特に、価値観の多様な社会を主体的に生きる上での基礎を培うために、よいここと悪いこととの区別が的確にできるように指導しておくことは重要である。

 また自己を高めていくには何物にもとらわれない自由な考えや行動が大切である。自由には、自分で自律的に判断し、行動したことによる自己責任が伴う。自分の自由な意志によっておおらかに生きながらも、そこには内から自覚された責任感の支えによって、自らを信じることに従って、自律的に判断し、実行するという自律性が伴ってはならない。

 

私の視点

 『自律する』とは、何か。自ら判断して行動できるようになること。それよいことと悪いことを区別することだという。そこが新鮮だった。

 自律するとは、食べ物を区別する力。痛みを和らげる力など、生理的な欲求を自分で満たす能力と思っていた。1人でサバイバルできること。それが自律。それは、自立では?

 自律的な判断とは、他人に頼らなくても、正しく考えて、答えを出して、行動ができることだ。その基礎が、正しくかんがえることだというのは、やや違うかもしれないが。自律とは、何か。ロボットが自律的に行動できることをさす。一定の範囲で正しく考えられることではある。そして、それを行動に移せることだ。自律を考えることは重要だ。

 

自律の領域は、発達心理で年があがるごとに、かわる。だんだんとできる範囲が増えてゆく。それは親が制限することなく、自律させなくてはいけない。その自律する挑戦によって経験を得て、正しい方法を知り、成長する。

 

 

 

2018年7月13日

 

今日のテーマは楽しいことをしよう。

 ドラマ見ていたら、気づいた。

 

守護の高度能力は、なかなか教えてもらえない。それで、自分からその要領を知ることに決めた。

彼は、現能力は高い。が、私におしえるものは、貧弱な代物となる。思考はまともに組み立ててられてはいる。が、表現力がくそみたいなものしか思いつかせない。彼は表現面で、指導力が低いのである。その子に、表現を極度に下げさせることを得意とする。そのギャップを埋める方法を得なくては、私はいつまでも天性の表現力は身につかないのだ。

 私の思考力は、いつも適切だ。。が、表現する段になると、とたんに単語を忘れたり、思考の順序が狂ったり、文章の構成が崩れてしまう。どうやつて、そんなゲスな習慣を私に彼は、覚えさせたのか、それはよくわからない。

 

 気合入れると、まともになるが、そうでないときは、本当に、自己中的な偏り、思い込みが激しいような表現になる。思考はちゃんと出来ているのに、表現の時に、改変される。この改変の妙なのだが、彼らはわざと、文章をおかしなものに変換してるのだ。彼らは、未熟な人は、実力以下にして、下手にしゃべらなくてはいけない、というなんらか思い込みがある。

 

私はそれに組みしないことにしている。ずっと私の子は、その予定だ。私が育てるので、私の方針は決意によって、定まっている。無駄に口下手なのは、許さない。

 

彼らの言い分は、こうだ。もっと上の守護が口下手だった。だから、その子である私の守護は、口下手。これは同じ守護系列にいる限り、ルールなのだと。これは実に、くだらない法則なのだ。バカの遺伝というやつだ。というわけで、私の代ではそれを終わらせる。

 

偉大なる神と連なる霊能者は、相応に演説、講演はできなくてはならない。その系列は、必ず口が達者なのだ。これは宇宙社会における法則だ。例外はない。よって、私の下にくるものは、口がお上手となる。くだらない習慣は、低能の証のなでひきづらない。私はこれでも、近隣宇宙で、優れた人物になろうとしているのだ。与えられた守護環境の誤りを正さないでは、それはとうていかなわない夢となる。

 

変換式を彼らは正確に知っている。それを戻す方法も。そういうのを見つけ出さなくてはいけない。

 

 自分で考えるのも面倒なので、調べさせて知る。

 

2018年7月11日

 

ミュージックビデオを見たら、私の未来がみえてくるようだ。セクシーな未来の解読のこつをつかんだ。私は結構、派手なようだ。

 

料理に疲れたので、道徳の話は少しだけ。

 

精神論

知識として身につけただけではだめ。実践して、習得することが大事である。道徳は、習得こそがもっとも大事なのだ。能力の高さを誇れるようにしなくてはいけない。その知識の豊富さは、二の次である。

 

心に響くメロディ、遠くに感じるもの、自分とは縁がないようなリズム。たくさんある。うまいメロディ。

 

私が普段、心の中で会話している相手は、その内容がレベル高い。というか、私の関心に合わせたよく練られた寝られた内容なのだ。

 

 それと比べて、普段の会話は、レベルが低い。手探りのような会話だ。その程度の希薄さで人間関係は進展する。

 

アメリカ人からみると、日本人は小さなことに反応して、薄っぺらくみえる。若者は特に。

 

グリーンカレーは、食べ慣れると辛くなくなることに気づいた。塩分さえ濃くなければよい。

 

2018年7月10日

 

赤ん坊を助けるべきか、大人を助けるべきか。

 一般的にいえば、大人を助けるべきである。大人には、幼稚園、小学校、中学、大学とそれぞれ教育を受けさせている。彼は、才能をそうやって身につけた。それは社会に教育投資が行われ、長年かけて育てられた社会の貴重な財産で大事な人材である。

 

 赤ん坊は、生まれたばかり。まだ何も教育という手間暇かけていない。資本も投入されていない。赤ん坊は産むと、すぐに同等の能力がある者になる。万が一、死んだ時は、次を産むと、ほとんど同一の才能が一年もすると得られる。大人は、それが失われてから、再び同じくらいの才能を得るまでには、20年以上は要する。

 

一般的には大人のほうが、価値が高い。だから、2人のうち1人しか助けられない時は、赤ん坊よりは大人のほうを助けるべきである。

 

 これは西洋では社会常識になっていると聞く。が、日本ではあいまいに言われる。

 

当然、犯罪を犯し続けるような、社会的には負債となるような大人よりも、赤ん坊のほうを助けるべきである。

 

子供と大人をどちらを助けるべきか?

 日本では子供を助けることをむやみやたらと、よいことだと言う。が、それは戦後のアニメで何度も繰り返して言われたことではある。

 

が、真実は、やはり大人のほうが価値が高い時が多いだろう。新たに生むと5-12年で、同一の才能を得られる。大人は、20年以上も育てなくてはならない。一般的には、大人のほうが有用である。

 

 体の弱い、子供や婦人、老人を先に助けよう、という標語はある。

 これは大人が助かる時は、体力がない者たちから助けて、全員助けようとする考えである。全員が助からない時は、子供や赤ん坊だけを助けて、大人が全員死ぬようなことは、してはならない。赤ん坊は産むと、かわりがある。子供は、難しいところだが、才能があり、町を救う少年と言われるようなのは、千人に1人の逸材は優先的に助けることになるだろう。が、大人にもそういう千人に1人がいたら、大人のほうがそのための技能もしっかり習得しており、大人が優先される。子供は人によりけりである。厳密に人の価値(資質)によって決まる。

 子供や赤ん坊から先に助けよう、という標語はあるが、赤ん坊などのほうが大人より価値が大きいと考えるのは、誤りだ。

 

 なお子供の死亡させた時の死亡慰謝料の計算では、子供は働く年数が多く、大人より額が大きくなりやすい。が、それは計算法がなんらかおかしい。

 

 教育にかかる費用、養育に関する費用などが、差し引かれてなく、教育や家族による子供の育成は無料でできるかのごとき計算である。自発的に学ぶことで、自らの価値をひきあげていくなどが、抜け落ちている。

 

 それが正しい子供や赤ん坊の社会的な価値ではないことは確かである。原石は、磨かれた宝石よりも安いのである。

 

 

 

 2018年7月10日

 

日本で定説とされているもの、良識とされているもの、経験則とされているものの多くは、そんなに正しくはない。一時的に、それが真実、良い考えと理解されているものにすぎない。よりよい考えを知る時に、それらに縛られてはいけない。法を知る者は、あまり常識などを信じないほうがよい。常識を真に受けるのは、法を知るまでの短い間のこと。

 

精神論

 今日は短く。

 愛が無価値だという論理

 

 愛は他者に何かすることだ。誰がやっても同じ価値の行為があるとする。例えば、子供にミルクを与えることだ。子供が自らミルクをもらうか、他人がやるか。どちらも同じ値打ちなのだ。子供自身が自分にミルクを買い与えるなら、自分の行為となる。他者がやるとそれは「愛」となる。

 両者同じ行為で、同じ価値なのだ。が、他者が行うと、愛という価値が加わっている。

ミルクをやる行為をAとする。他者がミルクをやる行為をBとする。それはB+「愛」の行為とされる。

 

 が、A=Bだ。他者がやると愛が加わるので、B+「愛」=Aなのだ。で、ここから、愛の価値を求めてみよう。「愛」の価値はxとしよう。

B+x=A, A=Bなのだ。すると両辺からAかBをひくと、X=0となる。Xは、愛の価値だったから、それはゼロとなる。

 愛は無価値なのである。行為に善悪がある。

 

反論はあるが、これは、自己愛と他者への愛の話だ。自分自身にミルクを与えるのは、自己愛となる。ただし、自己愛と他者への愛は、行為の価値のみで図られるから、等価なのだ。誰がそれをやっても、同じ価値なのである。他者への愛にことすら高い価値があると考えるのは、愚かものではある。

 

 

 他者への愛は、それをたくさん行うほどに、一回あたりの価値が下がる。

 

 医者が治療する話。風邪を治すのだ。治療を受けて、風邪が治る人は、同じ価値を受ける。医者が数をこなして、習熟するほどに、よりよい治療を受けるから、やや価値があがる。

 が、医者は、治療ははじめの頃は、より多くの学びがあり、数をたくさんこなすほどに、一回で受ける学びは減る。治療で得られるものは、下がる。愛は同じ事をたくさん行うほどに、本人にとっての価値が下がる。

 

 こちらの話はまだ教訓的ではない。できるだけ本人か習熟度の低い者にやらせるほうが、よいのは確かだ。

 

2018年7月10日

 

2.5億年後の我々

 これは本来の0.7弱倍の才能の未来だ。予定の3-4倍に進むのが、妥当らしい。目標値は3.4倍で、ある者の予想では2.5倍弱になるらしい。3倍台で進むと思うけど。

 

2018年7月9日

 

たいしたことはないが、池田市に青場が点在する。今日から。池田方面の写真も、ところどころ青くみえる。大雨が20日後に池田を襲うらしい。

 

夏が暑い。外出もままならない。どうやって過ごすか。のりきるか。それを考える。もう日中の自転車散歩は毎日のようにできない。朝に出かけ、夕方に帰ってくる。そんな毎日にするしかない。

 

2018年7月9日

 

大雨の降った下止々呂美を見てきた。国道423号の一部、脇が崩れているだけ。それは何年か前も崩れた場所。以前の大雨とほぼ同一の被害だった。

 

今日、池田方面をみると、青い場があちこちに散見される。また大雨が降るぞ。しばらく先だろう。

 

疲れた。

 

道徳教育

 これまでサイトの指導要領のまとめを見て、分析してきた。それは要約されていて、私が不足していると感じたものは、そのサイトのみのことだろう。平成29年の指導要領を手に入れて、完全版をもとに、分析しなおす。

 

 道徳科の目標

 

よりよく生きるための基盤となる道徳性を養うため、道徳的諸価値についての理解を基に、自己をみつめ、物事を多面的・多角的に考え、自己の生き方についての考えを深める学習を通して、道徳的な判断力、心情、実践意欲と態度を育てる。

 

 とある。どうやら道徳の意義を知らない学者が書いたような文章だ。道徳の目標は「人格の完成」だ。その上で、判断力の在り方、生き方、道徳の判断力、心情、実践などを育てる。それがないと、わかりにくい。

 判断力を多面的・多角的という面を強調するのは、情けない。これは道徳の価値観を押し付け、という反対者への答えだ。多様性で一面的ではない、という反論だ。しかし、道徳は信頼、勇気などは、定義もほぼ1つで、多様な理解などない。道徳の目標という重要なポイントに、嘘を混ぜてはいけない。道徳の諸価値(正義、善悪、義、愛)などは1つのものだ。その理解に多様性はない。が、それらの各種能力の程度は人によって異なる。またそれら価値を信じるにたる根拠は人ごとに違う。その組み合わせは無限に近い。道徳を学んでも、理解の根底にある体験そのものはバラエティに富む。それによって、微妙な違いが生じる。

 数学で理解する内容は、だいたい同一。が、数学を学んだ者が、画一的な人格になると責められはしない。道徳においても、同じである。多面的、多角的という強調は、無駄である。これによって、個々の価値の内容に、ぶれが生じる。あまりよくない。

 

 道徳の目標は、教育基本法に定められた教育の根本精神に基づき、自己の生き方を考え、主体的な判断の下に行動し、自立した人間として他者と共によりよく生きるための基盤となる道徳性を養うことを目標とする。

 

これも、わかりにくい目標である。「主体的」というのは多くの精神論で掲げられないもので、あまりよくない。自発的という意味なのだが、率先的に、要は強制や指示され動くような人間になるな、ということだが。

 

教育基本法には目標がある。

 

1条「人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成」

 

 指導要領は国家教育だ。そこに国家論が入るのはやむおえない。が、一般的な精神論では不要なものは、「平和で民主的な国家及び社会」だ。健康は、体育に関わることとなる。よってこの条項からは、「人格の完成を目指し、社会で生きるために必要な資質を備え、健康な者」が目標となる。

 

2条1号「幅広い知識と教養を身に着け、真理を求める態度を養い、豊かな情操と道徳心を培うとともに、健やかな身体を養う」

 

 果たして、学校教育で十分な教養を得られるか。真理を求める態度は、科学時代なので、加わった項目だ。精神論では真理は、気づきを通して得られる。「真理」という質にまで知見を高めることが、求められるのは、世に問うものだ。科学者の資質を養いたいと思われる。情操は、今は使わない。豊かな感情と言い換えることができる。この条項からは、「教養を身に着け、真理を求める態度を養い、豊かな感情を培い、健やかな身体を養う」ことが現代的な目標となる。

 

2条2号「個人の価値を尊重して、その能力を伸ばし、創造性を培い、自主及び自立の精神を養うとともに、職業及び生活との関連を重視し、勤労を重んずる態度を養う」

 

 全体主義の反省から、個人主義を強化すべく、個人の価値を尊重する態度を求めている。が、日本は集団主義的なので、全体に合わせようとする学校が多く、あまり実施されてない。創造性を培うのは、日本はいろんな工作、絵画、スポーツなど学校でやらせているので、それはうまくいっている。ただし、極端な才能は抑える傾向がある。働くことを価値あることとするのは、日本的である。

 「個人の価値を尊重し、創造性を高め、自主性、自立性を育み、勤労の意欲を奨励する。」 これは個人主義、勤勉性、創造性などを求めているが、日本の教育では十分でない。

 

2条3号「正義と責任、男女の平等、自他の敬愛と協力を重んずるとともに、公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養う」

 

 男女の平等とは、時代的な要求である。後半の「公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養う」は、日教組教育によって、つぶつれている。日教組チャイルドは公共の精神の欠如が著しい。政府になんでも反対する反社会的な人格が大勢生じた。

 

4号「生命を尊び、自然を大切にし、環境の保全に寄与する態度を養う」

 

 これは自然保護や動物愛護に通じる精神だ。日本人はわりと強い。

 

5号「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養う」

 

 日教組教育では、ここがぐちゃぐちゃになっている。共産主義者は、伝統と文化を破壊したがる。が、総じて、日本人は伝統や日本文化が好きなので、これはよく浸透している。か、それらを日本国はよく文化を育めたという大きな理解は、乏しい。強化しなくてはならない。郷土愛も愛国心もつぶされている。

が、自分の国を愛せないのに、他国を尊重するのはある。が、平和は空疎で、まやかししかできない。

 

 しかし、「主体的な判断に基づいて、道徳的実践を行い、自立した人間として他者と共によりよく生きるための基盤となる道徳性を養うこと」が、道徳科の目標とされる。

 

 長くて、わかりにくい。もっと簡明で、要点をおさえたものにしてほしいものだ。例えば、人格の完成を目指す心、教養を身に着け、感情豊かに養うような人格とすることなど。

 

特に、感情の抑制は、切れる若者が事件を起こす時代を鑑みて、日本の精神教育には盛り込むのがよいのではないか?

 

自主性をもつことが、目標たりうるものか。道徳性を身に着けようとすることはよい。自立することが目標か? それは大人の精神を身につけるだけですむのでは。他者と共によりよく生きる心構えを身につけることが、目標か? それは人間関係をよりよくこなすことで、社会性を身につけることだが、「他者とともによりよく生きること」というのは表現として、適切さには欠ける。

 

 今日は、以上。

 

2018年7月7日

 

あの女性のこと。一生のうちで、妻を除き、一番親しくなるそうなのだけど、テレビで時々みかけても、いまだわからない。ロック男のように、わかる日、気づく日が決められているようだ。その日以前、けっしてわからないのだ。私と似たような分野に関心があるのは、関わるようにされているのは確かだ。

 

 女性の場合は、会ったその時に言うネタをなぜか考えている。男の場合も同じか。あまり言わないのは確かだ。

 

道徳の指導要領を手に入れた。安くて、うれしかったぞ。普段、買わない本屋で手に入れたので、調子が狂ってしまった。

 

 日本で最も優れた道徳の本は、道徳の教科書(指導要領)なのだ。その解説書かもしれないが。私は、そういう国の道徳教育よりも、内容的に素晴らしいものを作らなくてはいけない。

 

国家の道徳教育が最も優れているというのは、どうかと思うのだ。宗教など道徳を担う者たちの低下が起きているためだ。

 

 

2018年7月7日

 

 7/7 M6.0 千葉県東方沖 震度5弱

 いやいや。震度4でしょ。それにしても、北海道でなかった。これはまずい。新しい透視が使い物になってなかった。場所が当たってない。時期は予想から1日違いなので、悪くない。

 

というわけで、他は場所を再調査することに決めた。これは7月三番目なのだ。

 

精神論

 

愛が特別でない理由

 

愛とは、相手の願いをかなえること。欲求を満たすことだ。自分の欲求を満たすのは、自己愛となる。が、自分の欲求だけを満たすのは奨励されない。利己的だとして。が、それが他人の願いとなると、愛に変わり、良きことのように言われる。

 正直、欲求を満たす点で、自己と他人との差はあまりない。自分のを満たすと、自己的。他人のを満たすと愛となる。さて、ここがおかしい。

 

 三人いて、ABCさんとする。AさんとBさんの関係だ。Aさんは愛をしたくて、Bさんの願いをかなえる。Bさんは、他人に興味がないので、Bさんの願いをかなえる。

 Cさんからすると、AさんもBさんも同じことをしている。価値は同じだ。が、Aさんのは愛となり、よきこと。Bさんのは利己的な行為となる。同じことをしても、一方は、愛で、もう1つは利己的となる。おかしい。

 

 このように、行動の価値においては、愛と利己などに差はない。よって、他人の願いをかなえる愛だけが特別ではない。

 

 では何をするのがよいことなのか?

 簡単にいうと、Bさんの願いを正しくかなえていることだ。わがままな願いを叶えるのはいけない。卑怯なことをして、無防備になった相手を不当に後ろからタックルしてまで勝とうとするのはよくない。そういう願いはかなえるのは誤りだ。正々堂々とスポーツマンシップにのっとり、競技して勝つ。それを手助けするのはよい。この場合は、誰がするかが大事だ。

 

 が、Bさんはのどが乾いた。水分を適量にとる必要があるとしよう。マラソン用なので、量も大切だ。200mlがベストなのだ。それが多くてもいけないし、少なくてもいけないのだ。それを用意するのは、Aさんだろう、Bさんだろうとかまわない。

 最も適切なものを与える。それができさえすればよい。

 

 そういうのが愛と言いたい人はいるだろう。が、欲求を適切に満たす行為なのだ。その時、自分だろうが、他人だろうがまったく重要ではないのである。だから、他人への行為を愛として、特別視する必要はない。この時に、自他などは区別されないからだ。

 

 他人に何かよいことをする行為としての愛だ。それは、欲求を満たす時には、誰がそれをしようと、どうでもよいのだ。つまり、愛であるということは、そういう観点では、無価値なのだ。正しく育てることができたらよい。

 

 人に何かすることが、特別ではない。愛が、特別な精神の行為ではない。価値があるのは、正しく成長させる行為のみだ。それを誰が行おうとも、愛の意図によってなされようが、そこは大事ではないのだ。

 

以下は、

 

 反論としては、愛には相手を成長させたいと願うことだ、と言いたい人がいるかもしれない。ならば、それが相手か自分かは、どうでもよい。ということに、これまでの議論で同意したのだから、対象は自分だろうが、相手だろうが、そこはいらないから、省くとよい。すると、愛は、成長させること、となる。

 

 成長させるとは、他動詞で、他人の成長を支援するという意味だ。しかし、これまでの議論から、誰がそれをするかは、どうでもよいことだ。すなわち、他人が、誰かに何かをするという面は抜け落ちる。すると、成長することが大事ということになる。

 

 成長するのは、他人かどうかは関係ないので、成長するということが残る。誰の成長も、自分のもののように思うことになる。

 

結局、自分(すべてのものを含む)が成長する、ということになる。自分が自分を成長させる、という話になる。

 

愛、他人に何かするという面が消えると、成長だけが残る。それが最も基礎となる考え方となる。

 

論理の飛躍はないはずだが、若干説明不足があるかもしれない。

 

愛は人を成長させることだ、いう時は、成長することのほうが、よいことなのだ。それを愛はサポートするから、愛は評価されなくてはいけない、という考えなのだ。愛は成長という目的の手段となる。この時の主役は成長者である。それをサポートする愛の行使者は、脇役となる。

 

 つまり、愛は人を成長させることだ、というのは、愛を一位の順位から貶めている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2018年7月7日

 

多田にゆく。大雨の撮影だ。いつもの能勢電の橋、道路が水びたしになるところ。吉田橋。多田の新田で道路が冠水するところ。ダイエーの裏あたりを撮ってきた。猪名川、久安寺川はもう水位がひいていた。

 

私は長らく女友だちを探していた。いろいろいるのだけど、親しさ、親友度の順位までつけて。同類を除いて、親しくなれるのをみつけだした。同類は霊が同系、ソウルメイト(王のグループ)は親しくなる。当然。今まで、疎遠だったほうが異常なのだ。そうでない者たちから探すのが一苦労だった。どんなのが用意されているか。楽しみだった。1-2割はつきとめた。

 増えすぎて、満足しつつある。まだまだ足りないが。

 

 今は時々、男友だちをみつける。テレビに出ていそうなのは、顔つきでつきとめられる。透視で親しくなるテレビ関係者を数人は把握した。それから、音楽の世界には、話せそうなのを今、みつかれば、追加している。

 もっとも親しいのはランクづけしてない。私の未来を描くものとして、現れる者。それはかなり掌握している。ところで、本当にタフに私とつきあえるのはいるのか? 会いにゆくと必ず相手してくれそうなのは?

 

 いつかみつけよう。太陽の子はどうだ。あいつはタフかな? 鍛えないと無理だな。空海の子(現ゴーストキング)はそうだった。

 

 剣士君は忙しいだろうが、鍛えがいがある。

 

 そんなのでなく、私に合ったおもろいのはいないのか? 女性は強くなくてもセックスでごまかせるのだが。やる気がないのは、もうまっぴらだ。私が48歳で一番、縮こまっているかもしれないが。

 

 やる気を出そう。自分が。

 

 やる気を出す諸条件をみつけだすのだ。誰に合わせていたのだ? 

 

2018年7月6日

 

私と音楽で話ができるのは、音楽理論を得意に語る人たちらしい。そうだろうな。

 

私の制限された才能。それはいくつかある。現時点は、SEX、会話、運動、視力。金稼ぐ。家族をもつ。社交力。英語力。絵画。努力する気も起きないし、伸びない。いずれ向上させるようだ。

 

最近、大雑把な話しかしてない。

 

確認しなくては、メキシコかスマトラを。

 

雨で外出が1時間。それが続くと、発想が落ちてくる。

 

 

 

2018年7月6日

 

池田市の周辺は大雨。このあたりは雨が積算すると、災害になる。3日めくらいから。まだ2日目なので、焦らない。

 

聖女ジャンヌ・ダルクの映画を見る。死ぬ時に、神に問うのは、間違いでは? イエスが磔の時に、神になぜそんな最期にするのか、質問すると思っている人が多い。これはここ40年ほどよく見るシーンだ。預言者の最期はそういうものだという、世俗的な考え方である。私は間違いだと思う。

 

 予言者クラスだと、運命を受け入れるのは、もっと前になるはずだ。その不運について、その現場で、その意図を神に尋ねる。予知ができる者は、そんなへまはしない。イエスは遅くとも数日前に、自分の命が終わることを覚悟していたはずだ。その事件やイベントがある時は、そんなことを考える暇もない。

 

テレビが映らなくなった。テレビ予知があ、できん。

 

2018年7月6日

 

今日も大雨

 

家族愛の教育につけたすものは?

 

一族の誇り。兄弟愛。兄弟の絆。親への尊敬はいらない場合がいくつかあるので、強いない。感謝はもつようにしよう。親の扶養義務についても考えさせる。そうでないと、すぐに「お前なんか、うちの子ではない。」と家から追い出すふりをする姑息な手段をする親が多いからだ。そんな時に、子供は堂々と、「子育て放棄ですか? お母さん。通報しますよ。」と言えなくては。また親の子への虐待に対する対応法も教えておくべきだ。「暴力はいけませんね。お父さん。通報しますよ。」と子供がいえるようにならなくては。家族をよく保てるように、いくつかの知恵を教えておく必要がある。

 

 家族の誇りも必要だろう。うちの一族に勝つつもりか? **家に、君んちが張り合うつもりか? とか。そういうものも、学ばせる。

 

2018年7月5日

 

私は評判がつくのがもっとも遅い人間かも。

 

世界を変えるほどによいものを作れ。

 

人間は、すべて善人だ。

これが私の信念の1つ。何らかの理由で、悪いことをしている。それを覚え繰り返している。何らか、本人に不可抗力が働き、それで悪いことをする。そんな信念まで植え付けられる者までいる。

 

その証拠に正しく教えたら、それら誤りをやめ、正しいことをする。善人だから、悪いことをしたくないのだ。

 

最高の音楽を書き上げようか?

 でも、それを自分の曲に感じたことがない。ほどよい曲は作れるのだが。最高の曲は、作れないかもしれない。

感動的な曲は、かけるか?

 最近の曲は、心に響かないのだ。聞き慣れた曲でないということ。

完璧な曲はかけるか?

 上限がまだ見えない。いったいいつになったら、みえる? あと2年くらい続けなくては?

誰に曲を捧げたい?

 人類史に残る曲になればいい。誰か個人じゃないぞ。彼女に気に入られるように作ったら、できるなら、楽なのだが。

曲はどこからくる?

 いい曲を作る源(ソース)を探している。

 

あと、来年4月までいなくてはならないのか?

 正確には3月だろう。 細かいよ。君。

 うんざりだ。8月にリッチ気分になって、11月から幸福になって。その後は、明るく、楽しく生きられる。

 それまでの辛抱なのだ。それまでにいい曲が作れたらいいな。しかし、それは、豊中以南にいった時だぞ。

 11月からは忙しくなる。それまでしのぐ。

 10月は首都直下以後で、何かと忙しい。そこは考えなくてよい。

 8月の青森をあてた後は、引っ張りだこになると、時間を作るほうが難しいだろう。それはないと思うが。

 

 8月までなんとかもたそう。本を書いにゆくか。大阪に出る楽しみしかない。

 

地震予知は、メキシコと青森県沖を当てて、ずいぶんエキサイティングな時間を過ごすことになるかも。

 

というか、雨があと2-3日降り続いて、日曜になる。すると、7月はもう10日になる。残りは、時間ない。

 

きっちり、予定を立てよう。8月は青森県沖が10日とする。予知の通達を出すのが8/1でよい。1ヶ月だ。

 

 7/20日ころには大阪に出向かないと、時間ないぞ。予定はそれでよい。

 

2018年7月4日

 

一向に降り止まない雨は、強烈だ。

 

大雨だ。長雨だ。箕面森町、止々呂美まで大雨。だんだんと実家に近づいてきた。誰がやっているんだ? 私の家の周辺に雨を降らして喜んでいるのは?

 前は、亀岡狙いで、高槻として、やっと箕面森町。もう的中でいいんじゃないのか? 伏尾台は岩の台地だから、雨ではなんともない。

 

 作曲は、質という観点を入れてみた。私はそれが下がり気味だった。

 

 世界を救おう。

 私がてがけているのは、スポーツの一部、事故、自然災害、政治は端、精神論--これから、霊や神の研究、宇宙人、宇宙の世界、発達心理。これら分野で、向上に貢献した。医学も少し。

 

 こんなに手を広げても、世界の成長をなす領域のほんの一部なのだ。

 

 私の才能は、絞られつつある。もう48歳だ。そんなにできない。残りの仕事をこなすとしよう。

 

2018年7月4日

 

精神論--道徳指導要領

 

 家族愛

 家族集団とのかかわりに関するものであり、家族や家庭を愛する心をもった児童を育てようとする内容項目である。

 

 儒教の精神だ。

 

全体的な理解

 児童の人格形成の基盤は家庭にあると言ってよい。家庭で身につける道徳性が、様々な集団とのかかわりの基盤にもなる。そのような家族1人1人についての理解を深めれば、父母や祖父母を敬愛する心が一層強くなる。また、家族の中での自分の立場や役割を知ることから、その一員として積極的に役立とうとする精神が芽生え、家族のために役に立つ喜びが実感できるようになる。このような家族や家庭を愛する心の指導が大切である。

 

家庭に人格形成の基盤がある、というのはよくわからない。道徳教育の初歩が家庭で行われるということか。家庭で身につける道徳性が基盤となる。これは家族との関わりで身につけるという意味ではなく、幼少期の生活の場の多くが家庭という意味だ。実際は、家庭、テレビ、地域、友人などを通して身につける。親からも多少あるが、大きくはない。家庭外の地域的なもののほうが強い。

 家族での役割分担などは、家族の一員となることで、愛というジャンルではない。徳目の名を変えなくてはいけない。父母を敬愛するのは、別の項目である。敬うは、能力が上のものに対するもので、組織の一員としてのそれではない。家族愛と父母への敬愛は別のものとして教えるべきだ。

 

低学年

 日ごろの父母や祖父母の様子を知ることから敬愛の念を育て、家の手伝いなどを行って、積極的に家族と交わり、家族の一員として役立つ喜びを実感できるように指導していくことが大切である。なお、多様な家族構成や家庭状況があることを踏まえ、十分な配慮を欠かさないようにする。

 

 これを書いた人は馬鹿ではないだろうか。家族を大事にすることは、父母への愛とは別個のものとして教えられなくてはならない。どちらかといえば、家族は親戚一族へと発展する。それら一族の連帯感、つながりを感じるものへとつながる。家族のつながり、存在の心強さ、親しみなどを強調しなくてはならない。父母を無理やりに尊敬させることしか考えてなく、それ以外のものがないかのようだ。

 

中学念

 日ごろの父母や祖父母の様子を知ることから敬愛の念を深めるとともに、家庭生活により積極的にかかわろうとする態度を育てることが大切である。そのためには、自分が具体的に家族の役に立つことができ、家族に喜ばれるという実感をもたせることが必要である。自分が家庭における重要な一員であることの自覚を深めることによって、協力し合って楽しい家庭をつくろうとする積極的な姿勢をもつことができる。

 

 家族の一員としての自覚を高めることは大事だ。そのために役割分担を強調するのは、いかがなものか。手伝いさせるための道徳という印象が強くなる。家族を守ることはもっと大事である。家族が困っていることをみつけ、何か自分ができることをさせるという指導のほうがよいだろう。

 

高学年

 一層積極的に家庭生活にかかわることが求められる。すなわち、家族の幸せのために自分には何ができるのかを考えて、家庭での自分の役割を自覚し、家族のために、積極的に役立つことができるよう指導することが必要である。そのためにも、家族が相互に信頼関係と深い絆で結ばれていることについて考えを深められるよう指導することが大切である。

 

 実に中身が薄い。これは、結婚して家族を大切にしようと努力する夫の心構えである。妻の家事を手伝い、夫がのけものにされないように、家族と絆を深めておく。妻に子供がなつき、自分にはなつかないようにならないようにするためのものだ。

 

 子供が学ぶべきことは別にあるだろう。お手伝いも大切だが、弟や妹の面倒をみるとか、留守番ができるようになるとかは、手伝いだ。もっと多様に学ぶ。家族がなぜ大事かを考えるのも大事だ。母を訪ねて三千里とか、読ますのは中学年でよい。家族の流儀なども身につける。

 

家族愛を育てるのは、子供向けの内容に差し替えなくてはならない。家庭でのけものにされかけた夫が、復権するような教材ではいけない。

 

2018年7月4日

 

たまにはやる気を出そう。

 世界を管理する会議でも開くか? 知見を得る。

 政治情勢は、あとで把握しよう。宗教の修正は? 急ぐところはない。どうせ、私が活躍しないと、話にならないしょ。

 

 道徳、倫理の修正は? 

 私が理論を展開していかないと。しかし、まだ道徳をまとめきれてない。こんな実力では、とうてい世界のそれを修正できない。とりあえず、完璧な書籍群が必要だ。

 道徳がないと、宗教は力を持たない。世界の宗教の統一は、道徳を完全に備えている思想にこそ可能だ。

 

 宇宙人との交流は?

 近所から、しだいに遠くなる。重要な星は、ヤハエの母星。ヤハエと同系が育てた星々だ。特に、近隣で、文明が近い星と、濃くなる。

 

 宇宙開拓者としての実力は?

 それはもらっておこう。この宇宙で最も進んだ星と交流した最初の男。いいねえ。もっとも遠くと交流した人--これは表向き。裏ではもっと遠くと交流しているはずだから。隣の宇宙ではなく、遠くの宇宙とも交流しているのだよ。私は。今度は人とやろう。

  私の栄誉としては、初期惑星のクラス(6-7億年)でトップ級の星と交流していること。霊を通してか。人はまだだったような気が。

 

 これらの星の文化を使いこなせてこそ、本物だ。この宇宙ではそれでなんとか顔が立つだろう。欲張りな男として? いやいや。向上心の強い男として。この評判を確定させよう。

 

 近隣の宇宙で、中心研究者達の受ける評価

 これが私と似ている。

 

これらはあとで。次に

 

音楽の修正は?

 これはまだいい。私の能力が発展途上で、私が全体を見渡せるレベルにない。

 

世界の政治の状況は?

 アメリカが積極的に、世界の汚れを落としつつある。日本もそれなりによく戻している。イギリスは静かに進行中。他は、政治的には弱いが、漸進的だ。

 

世界の思想の状況は?

 お寒い。各自が思想を開発して、世に問う。それが世界に広がる。日本の思想は、沈没している。が、世界に影響がない。改悪などしている中国、ロシア勢は以前と同じだが。アメリカリベラルの混乱が大きい。

 

世界の治安は?

 思想の程度で決まる。

 

ざっとみて、改善点がありすぎる。

 

2018年7月4日

 

今は、8月の青森県沖があることがわかった。私は寝てはいられなくなった。これで少々、金が入ることもわかっているし。これを当てにゆくしかない。

 

民族の国籍とか、やっとわかった。メキシコ地震だった。スマトラと勘違いして、情けない。

 

金とれる話--死んだ子供と霊界通信させること。特に、天国に行った者は、私の管轄。

 

体が白く輝く女性--セフレのこと。もしくは預言者の一団の1人。

 

孤独な者はミュージックビデオで1人で歌う。なぜなら、歌手として1人で活動してきたから。

 

私の言葉の感覚を戻すには、枚方にゆくか、そんな雰囲気を感じること。私の英語の聞き取りを直すには、ボストン的なものに触れる。

 

2018年7月3日

 

日本の音楽を聞いていると、私が実力相応の曲を書いたら、ヒット曲並みになるとわかった。でも、どうやれば書ける? 外出して、作曲すると、いくらでも、安直な曲は出てくる。それら30-50曲のうちの1つを仕上げる。それで、実力の8割以上のができるだろう。それで十分とする。

 

 さて、今回はどうやって浮かべる?

 以前は、馬っぽい緑の世界からふってきたものと、失敗体験をもとに作り上げたもの。今回は、どれにしよう。

 

 今やっているのは、誰かさんに向けて書くもの。

 

 

 

サッカーはベルギーに勝てなかった。負けた。が、日本の試合はわりと評判がいいぞ。今回は、それでよしとするか。

 

 

 

 

2018年7月3日

 

2.4億年後の我々

 

2018年7月2日

 

6月の地震、特に大阪北部を外したショックから立ち直るしかない。ぼんやり過ごしている。

 

10月まで予知する地震を調べてみると、7月は東北沖、8月は東北沖でビルが倒れるやつ、9月は山梨県南東、10月は首都直下連動地震と、毎月中大型がある。

 

結構、忙しい。というわけで、10月まで私の活躍の場がたくさんあることを見出し、意欲を取り戻す。みんな、私の予知を待っている。

 

 私がいなければ誰がする。こりゃ、忙しいわ。

 

私の写真のレベルがあがる。やっとインスタグラムで、いいねをもらえた。人並みになった。人前で写真をみせれるほどになった。苦節、1年。

 

今日は半ば徹夜だ。対ベルギー戦。サッカーW杯。

 

 

2018年7月2日

 

2.2億年後の我々

 

2018年6月29日

 

つまらない哲学は、正確に分析する気にもならず。まぁ、いいんじゃないのかな。あんなのはテキトーな批判で。

 

 コーナンのEショップで、サドルを注文して、店舗受け取りにした。わざわざ箕面のコーナンまで取りに行った。近所の店では長く使用するものは買わないと私は決めている。暗くなる。店員に話すと、注文は入ってないという。なんだかなあ、という感じ。

 

 商品名を言うと、店の者が商品をみせてくれた。すると、サドルカバーだった。商品の写真はぬれたサドルそのものだったのに、違う。さっき、eショップの商品の分類をみると、サドルのカバーだった。写真が紛らわしいんだよ。

 

箕面まで暑い中、自転車で行った。しょうがないから、ほしかった座布団をゲット。それで満足しよう。これは、苦情。本当は、eショップに言うべきだが、お金も損してないし、面倒なので、ここに書くだけにしておく。

 

 というわけで、サドルはコーナンは高いのしかないから、買うのはやめた。アマゾンにしよう。送料が高いから、一緒に買って、2000円以上にしようと、探している。なかなかみつからない。

 

 箕面は地震の影響で、キューズモールはエスカレーターがストップ。コーナンは開店していたが、ネットショップの注文が入らないようなことを言っていた。箕面まで、なんとかたいへんな様相だった。摂津なんかは、工場がひどくやられたんじゃないかなあ。仁愛と義が失われた者たちは、どうだったのだろう。

 

 地震を外したのかな。聖書の予言は、大阪のことだったのかな。あらゆる民族がどうたら、というものは。調べ直しておこう。

 

 しょうがない。来月、頑張るか。では、今月の一番大きな地震は何だったのだ? わからないな。

 

2018年6月29日

 

『なぜ世界は存在しないのか』の感想--- 論拠が2-4歳の世界観のよう

 思想的には、ガラクタ。私はこんな安っぽいのが、どうしてドイツで人気なのか訝しんだ。この本は、人間のリアリティ論に基づく。人間にとっての実在。人間が自分は存在しているという感覚、認識。人間にとって、存在するものとは? という初歩的な哲学の考察だつた。

 

 無限の循環論というものを得意気にかたる。世界にはすべてのものがある。あるものは、世界1(意味の場)中に存在する。で、別のものも世界2に存在する。別のものは、あるものの世界1の中にあるはずだ。

 すると、別のものは、世界2と世界1に2つも存在することになる。1つしかないものが、2つも存在するから、おかしい、という。

 また世界1の中に世界2があるというのも、おかしいという。世界2もすべてを含むから。テレビの中にテレビがあって、それが無限に続くというたとえでも説明する。

 

 で、結局、世界の定義がおかしいので、そんなおかしなことになる。で、世界が存在しないことにすると、まあるく収まるという。

 

彼の哲学があまりにも間違いだらけで、私の認識と違いすぎて、詳しくは書けない。が、だいたいそんな話だ。彼は何を言いたかったか?

 

 子供の頃を思い出してみよう。そこはどこかはわからない。が、じいちゃんとばあちゃんの家がいて、母親と父親もいた。自分の家のある日には両親と兄弟がいた。近所の家に母親と買い物に出かけた。何の脈絡もない記憶が3つあるとする。

 

 祖父の家、自分の家、近所のスーパー。3つの世界がある。彼によると、その関連がわからないのだ。3つ世界が別々にあるのだが、空間的なつながりが見いだせず、別個の世界のように思いこんでいる。彼の披瀝したのは、そんな哲学なのだ。

 

 意味の場だけが存在する、という。意味の場、というのがそもそもよくわからない代物なので、ついていけない。

 

 人間は、空間というものを認識する。それ以前では、個別の体験だらけ。それが一つの記憶としてつながっているが、それ以外のつながりはない。だから、断片的な記憶(意味の場)が無数にあるのだが、彼には、それぞれの場と場がどういう配置にあるか、整理できないので、バラバラになる。統一した世界には、彼はいつまでもたどりつけない。

 

科学の前提として、空間は一つだ、というのがある。地球は一つだ。みたいなものだ。が、子供の頃は、その体験(意味の場)がどこで起きたか、よくわからない。自分の近所の体験か、遠い場所での体験か、外国の体験か、よくわからない。それらの場所を、一つの国や地域として、理解する力もない。まとまりない記憶となる。そういう空間を認識する以前の精神について、彼は、今回の哲学で語ったのである。

 

 で、そういうそれぞれの体験の記憶はあっても、それらをすべての体験を含むような、大きな世界はない、と言い切るのである。地球とか、国という広い地域を考えられないのである。

 

 例えば、精神が錯乱した時の記憶だ。それぞれの記憶は強烈な体験だ。が、全体的には、何を体験したか、わからないということがある。子供時代の記憶には、そんなのがある。いつ、どこで体験したか。それがはっきり思い出せないようなもの。それら、定かでない記憶を集めてゆくと、それぞれが独立した世界で、他と相容れないものがある。

 

 様々な混乱した世界(記憶の中で、自分はある場所で何かを体験している。)が存在する。彼によると、その世界は、それぞれ別にある。夢の世界でもよい。バラバラだ。夢はすべて自分一人の体験としてまとめることはできない。つまり、たくさんの世界があるのだ。

 

世界は一つなのに、たくさんの世界があることになる。おかしい。ということは、そもそも世界というものがなくて、体験(意味の場)だけがあったのだと考えると、うまく説明できるといのが彼の主張である。

 

幼稚な哲学だろ。彼の哲学は、『夢の世界は、体験というリアルな意味の場はあるが、一つの世界空間にまとめられない。』、という哲学と考えると、納得できるだろう。

 

簡単にいうと、一つ一つの体験がどの場所で起きたか。それらを、空間的につなげてゆくことができないと、こういう哲学になる。

 

 これは、科学以前で、地図がなかった時代の哲学となる。2-4歳までの精神哲学でもよいかもしれない。世界を空間的に構築する知恵がない幼子は、こういう哲学に陥りやすい、かも。

 

 というわけで、大人には読むにたえない代物だ。科学が万能の現代では、相手にされない哲学ではないか。科学の前提--空間たいてい一つ、を否定するような代物なので。

 

芸術論などはひどくて、私は高い金を出したから読んでみたものの、彼の勝手な解釈があるのみで、中身はわからなかった。ベストセラーになった理由がまったくわからない。翻訳がまずかったわけでもないと思う。

 

2018年6月29日

 

2.0億年後の我々 私の実力はあれの1.2倍ほど。

 

2018年6月27日

 

今日は、とてもいい人を見た。女性で案外、身長が高い人。美人ほどではないが、そう思う人もいるだろう。以前から多田のいずみやでたまにみかける女性が、一年のソウルメイトだろう。きっと。Y子が言っていた近所の使いの子だ。アロンの姉の家の妹。今日まで気づかなかったとは不覚。確かに、7次元だ。今日は、多田で見かけただけ。いずれ会って、話ができる。6月には間に合った。

 

精神論

 感謝と尊敬の続き

 これは、感謝の項目であって、尊敬ではない。

 

低学年

 日常の指導になどにおいて、身近で日ごろ世話になっている人々の存在に気づき、そられの人々の善意に感謝する気持ちを具体的な言葉に表し、行動に表す指導が求められる。その際、その人々が自分に寄せてくれた善意について考え、その時に自分が感じた感謝の念について改めて考えることができるようにすることが大切である。

 

 低学年は、自分のために誰かがわざわざ何かしてくれたことを、自覚させることが大切だという。子が養育されるのは、当然だと思うのはよいとして、当然と思いつつも、彼らがわざわざしてくれたこと。そこに気づくのは大事なのだ。それに対する思いを言葉にするとは、ありがとうと言うことらしい。彼らにありがたいと思うこと。その考え方も鍛えるらしい。何がありがたいのかを具体的に考えろという指導だ。

 

中学年

 感謝する対象を日ごろ世話になっている人々から日々の生活を支えてくれている様々な人々へと広げる指導が求められる。特に、自分たちの生活のために働く人々や、長く自分たちの生活を築き、支え、努力を重ねてきた高齢者に対する理解を深め、尊敬と感謝の念をもって接することができるようにすることが大切である。

 

 ここは、特定の人だけに感謝するのではなく、自分に何かしてくれる人全員にそれをすること。自分はそれら多くの人が、自分のために何かしてくれることを、知ること。そして、感謝する、という。老人の項目で、尊敬はいらない。尊敬は別項目で教えるべきことで、ここは感謝のみにする。一緒に教えることはできるとしても。それは複合的なものとなる。

 

高学年

 感謝の対象が人のみならず、多くの人々の支え合いや助け合いで成り立っている日々の生活そのもの、更にはそのような中で自分が生きていることに対する感謝にまで広げることが必要である。そして、それにこたえて、自分は何をすべきかを自覚できるようにし、進んで実践できるところまで指導することが求められる。さらに、このようなことを通して、自分の心の中の感謝の気持ちが相手の心に届き、潤いのある人間関係が気づかれるものであることを自覚できるようにすることが大切である。

 

 社会の仕組みとそれを支えている人々に感謝すること。これはよいだろう。この気持や考え方を高めておくと、反社会的にはなりにくい。反社会的な精神の抑制や犯罪防止につながる。

 

当然、社会を守ってくれる人や職業には感謝することが要点である。警察官、消防士、市長、首相などなど。

 

 感謝は、自分のために何かしてくれたから、ありがたい、礼をする、という考え方から来る。子供は、大勢が自分のために何かしてくれている、と考える。これは極端に受け入れる子供は、世界の中心に私がいて、彼らは私のために尽くしてくれている、という理解となる。王様と奉仕者という構図である。

 

 ただし、この相手のために何かする、というのは、いったいどこから来ているか。そこも深く考えないと、感謝の理解は、表面的となる。なぜ、彼らは私のために労を負ってくれるのか?

 

 感謝することの効果は、何か?

 私が彼にプレゼントしたとする。彼は感謝して、プレゼントをありがたく思った。それによって、私は目的を達したと、確認できる。一つは自分の他人への行為が成功したことの確認だ。もしくは、それら行為が、報われたと感じること。

 ただし、これは相手が、口先だけでありがとうを言っているのか、本当に役立ったのかは、見極めなくてはならない。ただありがとう、というのは「適当な感謝だ。」というか、何かしてくれたことに対する形式的なお礼となる。

 

 次に、ありがとう、と言われた時は、私は彼に何かしたと理解できる。何気なく、人のために

行動している。普段は、当たり前のようにしている。その意義をだんだんと忘れる。が、ありがとうと言われることで、その行動の意義を再確認できること。

 

 感謝は、こちらがご主人様になることだ。相手は自分のために骨を折ってくれるのだから、いわば奴隷。自分がご主人となる。というわけで、神は感謝の言葉を受け取らない。他人のために働くことを喜びとする人は、感謝される度に喜ぶ。が、全ての主人になろうとする者は、感謝されるたびに、君が私達の関係で、上ではないよ、と言いたくなる。私は指示や影響を与え、君は、それを受け取ったのだから。それは、私のためにやっていることなのだ。君のためになることも、私がしたいのだ。と考えるものだ。

 

2018年6月26日

 

1.8億年後の我々 私の才能は彼の1.2倍。しかし、行使できる能力は1/5ほど。能力が合っても、文明の差や分身の数が少ないため。

 

2018年6月26日

 

テレビ予知の世界、

 何が映し出されるか?

 地震はほんの一部だ。他は、飛行機墜落、列車事故、船の沈没。隕石落下。事件はあらゆるもので、殺人、通り魔、自殺など。あらゆる不幸がシンボルの形で表現される。

 それはまるで一ヶ月後のニュースなのだ。そんなシンボルであふれている。そのうち、5-7年前まで10数年は、私が発生前に気づいたものを防止していた。今では、誰かがそれをやってくれるから、実際にその中でニュースになるのは、今では1/3-1/5くらいだ。20年前は9割以上だったのだ。巷の霊能者が気づいた事件を各自、止めていた。ほとんどは発生した。

 

 本当に、事件や事故は減った。

 

 というわけで、事件やスキャンダルをネタにする人々にとって、私は情報源になりうるのだ。一ヶ月のニュースを一部、知っているから。やばくなる政治家の話、転落する芸能人。スキャンダルによってつぶされ、転落するすでに影が薄くなった芸能人。私が知らないわけではない。

 

いっておくが、政治家と芸能人は、何か不思議な力によって、守られている。今では、テレビのサインに私が気づいたら、もう助かるとみていい。しかし、私が予知を間違えたということではない。死期が迫っていたという証拠は残る。死相が一度出て、危機を脱しても、その日を境に表情が暗くなるのだ。表情がある日、突然暗くなる。本当に危なかったかは、顔の変化でたちどころにわかる。たとえ、死ぬ未来が変わっても、私の予知が誤りかどうかはわかるのだ。死に至る危機があったかどうかは、死相の残留物によって、わかるのだ。それがなければ、私のミスなのだが。

 

 これまで何人も助けてきたというのは、それで証明できる。

 

 

 

2018年6月26日

 

精神論

 尊敬と感謝

 

関連の説明

 広く人々や自己の生活の成り立ちに対する尊敬と感謝の念をもった児童を育てようとする内容である。

 

 これは対人関係の精神だ。人間に対する心の持ち方は、あとでする予定だ。が、尊敬は能力が上のもの、自分にできない技術に対するものなので、人を対象とする気持ちとは限らないので、いまとりあげる。

 

全体的な理解

 よい人間関係を築くためには、互いに認め合うことが大切であるが、その根底には、相手に対する尊敬と感謝の念が必要である。人々に支えられ、助けられて自分が存在するという認識に立つとき、相互に尊敬と感謝の念が生まれてくる。そして、それは、日々の生活、さらには自分が存在することに対する感謝へのと広がり、生命尊重や人間尊重の精神を支えることになる。さらに、人々や公共のために役立とうとするところまで指導を深めていくことが大切になる。

 

 尊敬に限定しないで考える。相手を認めるとはどういうことか。そこがあいまいなので、考えにくい。人を認めるとは、相手を自分と同等の存在、生きるために行動して、人間には害を加えない、人間を仲間とするなど、生命として同士であると認識した時に、そのように扱うことだ。単純に感謝と尊敬が根底にあるわけではない。

 感謝とは、ありがたいと思うこと。自分の利になることを、他人もしくは、何か偶発的な力によって起きた時に、感謝する。本来、自分がやらなければならないことを、他人が代わりにやってくれた。自然が偶然そうした。それを感謝する。他人の自分への労を、相手に伝えることだ。ありがとう。

 ありがとう、と言われた時には、相手に私がわざわざ何かしたことへの礼なのだ。何もしていないのにありがとう、と言われたら、この人は何か勘違いしている、頭がおかしいか、私は何もしなかったが、偶然私の行動の何かが、相手の役に立ったと考えることができる。

 ありがとうは、私に何かしてくれた者に対してのみ使うのが賢明だ。そうでないと、勘違いと思われる。

 

ただ相手を人として認めただけでは、尊敬もしないし、感謝もない。対等であるということだけがある。人々に支えられ助けられて自分が存在する、と思った時に、感謝の念と尊敬が生まれてくる。これは赤ん坊や子供が世話してくれた大人たちにそう感じるはずだ、という話である。

 

現実問題、少し違う。大人は大人の事情があって、子供を育てなくてはならない。人類の絶滅を防ぎたいのだ。子供は、こういう大人の願いによって、育てられる。大人としては当たり前のことだ。

 

 子供が大人と対等になった時、大人の世話なしで生きていけるようになったら、そういう養育というものは、自分が本来、生活のために何かいべきものを、一部、親がかわりにしてくれるのだから、感謝するという意識が生まれるだろう。

 

自分が赤ん坊時代に、無防備な時に親が私を育ててくれた。それに気づいても、それを感謝するというのは、長続きしない。親の子の養育は、義務みたいなもので、当たり前のことだからだ。何か特別な労--感謝すべきもの、とは考えにくいからだ。

 

 ただし、当たり前の行為でも、他人にする奉仕は、感謝される。感謝の度合いは、相手にとってありがたい度合い、もしくは行為そのもので、決まる。それが、義務や親の努め、会社の仕事という義務や対価が生じるものだとしても、純粋に考えると、感謝の気持ちは起きている。

 

感謝には、この2つがある。義務教育、親の養育など当然のことは、特別でない他人への奉仕は、ふつう感謝しない、という考え方。もう一つは、全ての他人への行為は、他人の役に立つから、他人の利になるから、その分の感謝(礼の気持ち)が生じる、という考え方だ。

 

私としては、義務や当然のことは、いちいち感謝していたらキリがないから、しないほうだ。

ただし、感謝の気持ちが生じるには、自分のすべき仕事というものをしっかり理解しなくてはならない。自分がすべきものを他人がしてくれたから、感謝する。それが基本だ。よって、感謝の気持ちを生じさせるには、ロビンソン・クルーソーになつて、無人島で一人生き抜くことを体験させるのがもっともよいだろう。すると、あらゆる文明の利器、他人のありがたみを理解する。それを考えさせる。

 

自分ができないこと、できなかったことを他人がしてくれた時に、尊敬の念が生じる。これもまた。

 

どうやら、感謝の教材はよくないようだ。理論も教材には書かれていない。

 

次は、低学年などは、また。

 

 2018年6月26日

 1.7億年後の我々

 

 2018年6月24日

 

私は今は、2つの趣味をレベルアップしようとしている。作曲と鍵盤の練習、カメラ。仕事は、地震予知に、時々の社会評論。精神論の研究にも時間を使っている。

 

他に、1日1-2時間の運動、週に1-2時間の地上幽霊界の管理。読書は20-30分。

 

 さて、こんなに何もしてないのは、社会人の何割程度か? 5-6割くらいの仕事量だと思う。学生は、1日に6時間。私は、4-5時間ほど。悪くないか。

 

 2018年6月24日

 さてと、私の活躍まであと半年、5ヶ月と10日ほど。それまで何して過ごそうか。

 

早く曲を作りたい。いつになったら許容されるか。そうなのだ。私にとっては何もかも解禁なのだ。やつらが許可をしないと、何も私はできないのだ。

 

 曲作りの解禁日を待つ。

 

最初に買ったカメラ。画質が極めて悪い。何が悪いのか。レンズなのか。元RAWからの変換は極めてひどい。

 焦点をあわせられないのはわかった。単焦点らしい。しぼりがついてないのだ。しかし、それはそれでピントがあうはずだ。

 これを使えるように改良しなくてはならないのだが、それは半年後のお話。

 

home
inserted by FC2 system