日記 2018年5月12日〜 6月24日

 

 2018年6月24日

 

1.5億年後の我々

 

2018年6月23日

 

ここ数年で高めたものは?

 社会評論だ。文筆力。今は、社会論はなくなり、ブログの地震予知の文章。プロの底辺に並んだ。そんな実力を身に着けた。

 写真力。ほぼ毎日の撮影で、ぐんぐん腕をあげた。プロの底辺まではあと2年半。

 作曲。この腕は、新しく習っているのは、まったく理解してないが、使えるようになった。あと一年ほどは続けて。いちおうプロ並みなのだが、曲はいくつかしかなくても。

 

 大きくこの3つ。精神力も少しあげた。目標がなかったので、だれた、悪戯をはじめたのがよくなかった。

 精神理論力は? ほんの少しだ。これは以前からプロの上位クラス。だが、圧倒的ではないのだ。

 精神力は圧倒的なのだが。

 

 霊能力は? わずかにあがる。あまりかわらないのだ。少しはあがる。悩みだ。

 

 霊的な知見は?

 子供を産む、天国で友人となる女性、天国で私の子を産む女性などがわかった。これがよいのは、見知らぬ女性に対しても、親しく思えることだ。エジプト系とか、天使系とか、そういうつながりは強くなっているらしい。

 

 私はフランスの離婚問題を解決できるのだ。この秘策は、直接、フランスメディアに教えようかな。

 

 人間関係能力は?

 中年女性に見向きもしなかった。が、最近はそちらの心情がわかるようになってきた。もちろん×女たちのだ。逆に、小学生の心が見えなくなったので、困る。

 

 あと、急いであげなくてはならないの?

 会話能力は高めておかないと、生活でまずい。独演会ができるほどに高めないと、将来やっていけない。

 次に、社交力、社会性、コミュニケーション能力は高くしておかないと、私の年代相応の会話ができない。私は、家族をもつ同年代からすると、実に無能なのだ。

 稼ぐのは高くないと、いい暮らしができない。今は極貧ではないか。

 作曲は実際に曲がないと、いけない。何もないからな。練習で作っては忘れての繰り返しでは。

 

 腕は少しずつあげている。女性の友人たちは増えた。話する日までが半年以上あるが。将来友達になる外人も、増えた。向こうは仕事なのだ。できるだけ友情っぽくしてほしいものだ。そうか。仕事での友情もあるよな。

 

宇宙の星々の間では、私は特別な人間ではない。それぞれの技能についても、その分野では、私が特に優れたものをもっているわけではない。宗教や道徳、思想を除いて。

 

2018年6月23日

なんだか知らないが、目を覚ました私だ。レベルの高いことをやってみよう。

 これまでは星と猫の手を借りていた。今回は、空の地力で行う。できるかな。

 

まぁやるべきことは、以前との比較だ。私はどこまで、実力をつけたか。

 

かつては、地球の成長プランを立てることを考えていた。未来を予想して、妥当な成長指数は作れ、そこから人類が経験すべきことは、設計する。それをやることを考えていた。惑星を早く進化させる、という研究会が銀河系にあって、そこに所属する。そんなことを考えていた。

 

 地球の導きという期間を終えて、引退してから、進んだ星と交流して、様々な文物を知り、地球にふさわしいものを見出し、輸入(採用)する。そういう仕事につくことがわかっていた。地球を導くかかりから、上にステップアップすると、そういう仕事がある。

 

 私はこの時代でもっとも成長するらしい。中心宇宙で成長速度が、辺境銀河より高い。それに近い。この知見はややあがった。私は高速の成長者で、先駆者となる。地球における高度成長の始祖だ。案外、そういう創始者は伸びないのだが、仕方ない。私より先にこれに挑戦した人がいない。5人くらいしかいないから。この分野は、時代が下がるほどに高度できる。あとからきた者のほうが、より伸びる。私は、損なくじをひいたといえば、そうなのだ。だが、これまでの人よりも未来は幸せなのだろう。

 

 精神の成長といっても、よくわからない。道徳的なものは身につけられるものが、決まっている。それは短期間でたいていのことは身につく。1000年もあれば、十分な芸術的な才能を身につけるはずだ。それ以後は、なにを覚えるのだ。

 

 どうやら、以前考えていた高度な世界のこと。それにかなり肉付けしている。少々の進歩はみられる。

 

 しかしな。目標が小さくなっている。やはり同等の目標はもっておこう。ジャガーの彼を追い抜くことを切っ先の目標としよう。もう一つは、中心の宇宙で、それなりに頑張ってると思われることだ。

 

他の目標は、近隣星々の年寄りたち(160-170歳)の技量を超えることだ。芸術とスポーツで、精神的にも。スポーツは、あの連中に勝たないといけない。バレーボールは空手技のボール割りも披瀝してやって。ボールの蹴り返しもやって。踵落としでね。

 

やはり目標を忘れると、人間は怠惰になる。

 

 成長速では、中心の初期文明開発係を抜くらしい。それなら御の字のように思っていた時期もあった。が、本当はその才能ではどうなのだろう。ただ、信じがたい。しかし、5.2億で赤い階層手前だから、いけそうなのだ。

 

 そんなことはまぁいいだろう。しかし、これが当面の私の目標なので、それ以外にないのだ。これにこだわろう。当然、段階に応じた才能は、身につける。

 

 さて、芸術の才能についても、目標が定まりつつある。他の惑星の連中は、塑像も絵画、音楽、映画のようなものを、一通りこなせる。地球の最高の者たちよりもはるかに。スポーツも得意だ。というわけで、私は最低限、そのクラスにはあがることにしよう。当然だろ。地球のエースが、どこの馬の骨かもわからない星の中堅(霊系は王族の中堅)に、軽く負けては格好がつかないだろ。

 

 中心の宇宙に行ってからさらに伸びるらしい。それまでは、いろいろ超えられないものがあるらしい。それもまた悲しいのだ。

 

 科学の能力は、星の者たちでも、専門があり、その実力はかわる。これは一通りマスターしよう。

 

 というわけで、決まった。私は、発達心理のか細い目標に、肉付けしたのだ。芸術、科学などの知識、運動技能を。

 

ここ数年はボッーと生きていたが、わりと研究していた。成長はしていた。

 

 

2018年6月23日

 

今日は精神論は休憩。

 

訓練。いつも対話の訓練をしていたが、やめる。独演を想定する。漫才形式はやめる。

 

沈黙は金、饒舌は銀。

 この意味をテレビ予知で解説すると… とても書けない。

 

枚方の気分が近くなる。高槻の地震のあと、私の言葉の感覚が研ぎ澄まされた。他人の微妙な論理のミスすら見抜いた。ふだんわからなかったものまで。

 

スマトラ地震は当たるとしよう。それから10月の震災までつきとめた。首都直下地震は、なんと千葉沖だった。70分後に。これはくるわ。何度も何度も確かめなくてはならない。

 

私の生活習慣を見直すことにした。東大阪にいたストーカーたちを封印したら、怠惰な面が消えたのだ。

 

さて、素晴らしき人格になるために、何をしよう。潔癖主義が甦った。

道徳を作り上げること。時間がかかるが、やっておく。それは基礎だ。新しい時代に必要なものとするには、少し工夫がいる。世界で、道徳を語れるほどの知恵をもつ。それが当面の目標だ。

 

 道徳の知識を語り得意げになる連中をはるかに超える。実技中心の世界に住むのだ。道徳は知識ではなく、実技なのだ。

 

 教条的に道徳を話す。それにはうんざりなのだ。人を助けることは、技能なのだ。川で溺れる人を引き上げる。その技能なのだ。人を見抜く。シャーロック・ホームズのようにやるか。カウンセラーのようにするか、見た目から推測するか。それらの総合技だ。これもまた口先でできることではない。能力なのだ。

 

 その上で、何を与えればよいのか。これも経験者のほうが上手にできる。これもまた実力なのだ。道徳は、全て実力の世界なのだ。それを身に着けてないのに、道徳力が向上するわけではない。

 

もちろん、道徳の知識のない者は、論外だ。それは精神を整える要領がわかっていない。自分の精神の状態がどのようになっているか。正確に理解していない野獣のようだ。人間は、反省できる。その知識もっていないということだ。

 

 レベルが高いことをやってみよう。やってみよう。

 

2018年6月23日

 

1.5億年後の我々

 

2018年6月22日

 

私の今の迷いは、6月の予知を再メールしようかどうか。6月27日にスマトラ北部で大地震津波がくるとわかっていて、教えないのはさすがに不親切だ。肝心な変更を伝えなかったら、インドネシア人にあとで、ぼーっと生きていたらいけないよ、言われそうだし、デビューできないぞ。メキシコ地震が起きたら、考えよう。

 

イスラムの支援者ができたら、日本で稼ぐことにこだわり、電波犯罪の被害補償であまりきついことをしなくてもよくなるし、そういうことは歓迎する人は多いだろう。

 

どうせ現在わかっているのでは、6月27日頃。いましばらく時間はある。ゆっくり考えよう。

27日はぴったりだ。水曜で、車が伊丹空港近くの中環あたりを通る日だ。そこで事故を予知している。しかし、順序がおかしい。予知では、津波地震は事故のあと。現在、地震の時刻が16時になっている。そこを通過するのは午後6時ころだ。地震はそれ以後にならなくては。透視のしなおしだ。

 

6月18日の大阪北部地震。予知できなかった。これはいけないと思って、震度5以上の地震を10月まで予知した。10月以降をしないのは、大震災以後はあまりにも多いから。それで、首都直下地震が千葉だとわかった。これは収穫だ。九州の強い噴火は、12月とわかったことも。12月なら、助けられる。噴火のほうは、私が頑張ってみる。

 

慌てないことにしよう。

 

私は、スピード成長主義者だと気づいた。また、守護にいつも指示してもらうので、思い切ったことができるのは、ずっと特徴である。最近は、その頻度が落ちてきてはいるが。

 

2018年6月22日

 

1.4億年後の我々と交信

 

2018年6月22日

 

精神論

 教育指導要領

 勤勉--努力

 勤勉や努力は、名目を変えたほうがいいだろう。何にしよう。目標を達成するために、継続する意志とか。粘り強さとか。諦めない心だとか。

 しかし、これは重要だ。能力向上の基礎的な技能だ。これが高い人は、どこまでも成長する。すぐに諦め投げ出す人は、成長が止まる。学ぶ中身も薄くなる。

 

説明

勤勉に、くじけず努力し、自分を向上させる児童を育てようとする内容項目。

 

全体的な理解

 児童が自立し、よりよく生きてゆくためには、自分がやらなければならないことはしっかりとやり抜くことが大切である。底には、何事にも粘り強く取り組み、努力し続ける忍耐力も求められる。しかし、それは見通しもなく取り組むのではなく、よりよい自己を実現しようとする向上心と結びついてこそ、前向きな自己の生き方が自覚されてくるといえよう。そのためにも、児童がより高い目標を立てたり自分としての夢や希望を掲げたりして、その達成や実現への志をもち、勇気をもって、取り組むことができるようにすることが重要となる。

 

--ワタシ的には、この説明では、勤勉でなくてもよいだろう。何事もしっかりとやりとげる、ということのようだ。

 

低学年

 やらなければならないことを素直に受け入れることが多いとといわれる。特に、親や教師の励ましや称賛、助言などの下に、この時期の基本的な課題である勉強や自分のなすべき仕事を、自分がやるべきこととしてしっかりと行うことができるよう指導する必要がある。また、やり遂げた時の喜びや充実感を味わい、がんばることができた自分に気づくことができるようにすることが求められる。

 

--やりとげること。それが強化することだけではなく、やったあとの達成感、充実感まで自覚させる、やりとげた自分に気づかせるというのが、応用的で、気がきいている。

 

中学年

 自分がやらなければならないことだけでなく、更に自主性を発揮し、自分でやろうと決めたことに対しても積極的に取り組み、粘り強くやり遂げる精神を育てることが大切になる。そのためには、あきらめずに取り組むことの意義や、今よりよくなりたいと願い、努力しようとする姿について考えを深めていくことが求められる。そのためには、教師の励ましや賞賛が一層重要になる。

 

 ---やりとげるだけでなく、そこから自主的に行う態度を身に着けさせる。この発展の流れを導くというのがよく出来ている。親や学校で言われたことだけをしていてはいけない、とよく言われるが、それだろう。ただし、教師の賞賛は私にとっては重要ではない気がする。いや、それは小学五年からか。小4では教師の応援も受け入れていたような気はする。

 

高学年

 児童がそれぞれに高い理想を追い求める時期だといわれる。ある人物の生き方にあこがれたり、自分の夢や希望がふくらんだりする。同時に、こんな自信がもてないかったり、夢と現実との違いを意識したりする時期でもある。このような時期であるからこそ、様々な生き方への関心を高めるとともに、計画的に努力目標を立て、くじけずに希望と勇気をもって取り組み、その理想に向かって着実に前進していこうとする強い意志と実行力を育てる必要がある。その際、希望をもつことの大切さや挫折感を克服する人間の強さについて考えられるようにするとともに、3,4年の段階までの勇気に関する内容との関連において、勇気ある姿や真の勇気と蛮勇との違いについて指導することが重要である。そのことを通して、児童の中により積極的な自己像が形成される。

 

--努力するだけでなく、その目標をもつことが推奨されるとは。それが生き方に結びつくとは。理想の人間は、私はいなかったので、無視する。様々な生き方への関心を高めるのは、違うような気がするが、このあたりに職業の違い、適性の違いに気づくとは思わないのだが。挫折についてより学ぶことは、大切だろう。しかし、学校で教科として習ったほうがよいのかどうか。

 

私は、テレビドラマで、フランダースの犬で挫折の最たるものや、母を訪ねて三千里で挫折だらけでも、強く生きることは、学んだような気がする。学校でも教えるのはよいことだ。

 

やりとげること。それだけでも、いろいろ多方面の徳目と関係することを、この指導要領は見せつけてくれた。

 

 

2018年6月20日

 

 雨で、1日中、実家にいる。

精神論は、指導要領の説明みたいになってきた。

 

郷土愛

 正直、私は枚方には感じるが、池田にはまったく愛着もない。この差はどこから来るのか。考える。

 

説明

郷土とのかかわりに関するものであり、郷土の伝統と文化を大切にし、郷土を愛する心をもった児童を育てようとする---

 

私的には

 枚方の伝統は覚えている。が、池田の伏尾台にきて、伝統など教えられたことは一つもなく、文化など知りもしない。伏尾台という新興住宅地にはないからか。もしあったとしても、枚方と比べて、あまりにもなさすぎるからではないか。池田の名物など本当に何もないぞ。聞いたこともないぞ。しょうもない古墳があったような気はするが、久安寺や妙見の説明すら受けたかもしれない。が、すでに別の土地のものとして、何も感じなかった。

 

全体の理解

自分の育った郷土は、自己形成に大きな役割を果たすとともに、一生にわたって大きな精神的な支えとなるものである。郷土との積極的で主体的なかかわりを通して、郷土を愛する心を育て、郷土をよりよくしていこうとする態度を育成する必要がある。

 

私的には

育ったのは枚方だ。池田ではない。枚方は精神的な基盤にはなる。が、私池田ではない。郷土を決めるのは、7歳以下である。その時に、住んでいた土地だ。8歳以降では、郷土愛は6-7歳以下に決めた郷土へのものとなる。他地域に引っ越した場合は、芽生えないから、別の指導が必要だろう。

 

低学年

 遊びや生活科などの学習を通して、家庭や学校を取り巻く郷土に目が向けられるようになる。このことを考慮して、郷土の自然や文化に触れ、人々との触れ合いを深めることで、郷土への愛着を深め、親しみをもって生活できるようにすることが大切である。

 

 そういえば、よく覚えているのは七夕だ。小学2年の遠足で行った。七夕の地が近いことをよく知った。近所には、百済寺、御殿山神社、中宮、王仁の墓などに誇りをもった。西行のため池作りなども。小学校1-2年に地域に誇りをもつと思うのだ。

 自然よりも文化物だ。生きている証だ。郷土というのは社会的な産物なので、自然はあまり記憶しない。地域ごとの自然(山草)の違いを知るのは、別地域に行ってからだ。

 

中学年

 特に地域での生活が活発になるのに伴い、地域の行事や活動に興味をもち、積極的にかかわろうとする態度を育てることが求められる。地域の人々の生活、文化、伝統に親しみ、それを大切にすることを通して、郷土を愛する心を育てる必要がある。

 

 正直、学校で郷土愛を教えられるのか疑問だ。地域の行事や活動とは、地元の民間の伝統行事が多い。慣習だ。祭り。正月などの参拝。商店街の手伝い。これらは学外の活動である。自治会の夏祭りは郷土愛にならない。

 無理に学校でそういうものを体験させても、地域性を感じにくい。高校野球などスポーツは、学校のシステム(国家の制度)としてあるものだ。地域に根付いた活動ではない。学外なのだ。学校は、地域行事に関わるのはおかしい。それらの由来などを説明するくらいでは?

 伝統に親しむなどは、工夫しないといけない。

 

高学年

 郷土を愛する心が日本全体に開かれたものへと発展し、国を愛する心が児童の内面から自覚されることが大切である。そのためには、郷土や我が国の発展に尽くし、伝統と文化を育てた先人の努力を知り、自分もまたそれを継承し発展させていくべき責務があることを自覚し、そのために努めようとする心構えを育てる必要がある。

 

 ワタシ的には、この頃に、日本の国家の仕組みをぼんやり理解した。正確ではないが、概観は社会科で習った。国を理解しえる年頃だ。が、私が総理大臣になると思っていたのは、小学校2年だ。自分が一番賢明で才能があったからだと思う。それにふさわしい日本での地位は、首相だった。愛国心はその時に生じていた。私が日本を守り、よくするぞ、と。多分、愛国心は小学校2年である。

 

 愛国心は正直、いつ芽生えたか覚えてない。小学校三年ではボストンの小学校に入ったが、私は日本人で、アメリカには忠誠を誓わないという確固たる意志があった。やはり小学校2年だ。高学年ではすでに愛する国を決めており、遅い。

 

 先人の努力を知り、自分も継承するという気にはなつてない。私は西行に憧れていたから、それを習ったのはため池の由来なので、小学校4年か2年。小学校2-4年だろう。ここの課題は、小学校2年のものだ。

 

高学年では、何を学んだか?

 池田を愛する気持ちは皆無だ。だから、郷土愛ではないことは確かだ。郷土愛は小学校1-2年のテーマ。それ以後に教えても、定着しない。人類愛、地球愛まで、その時に覚える。発達心理上のテーマと、郷土愛の学習とは一致させないと無意味となる。

 

2018年6月19日

 

精神論

 

自然愛、動植物愛護

 言葉はよくない。自然を大切にする。

 

 道徳の指導要領の解説みたいになってきた。

 

日本人は古来、自然の恵みに感謝し、自然との調和を図りながら暮らしてきた。---自然との調和はしてない。自然を持続させながら、いかに人間のテリトリーを拡大するかである。それを自然との調和という。自然破壊しないで、人間の領域を拡大させる闘いだった。おそらく、近年明るみになったが、かなり破壊的で、自然との調和というには遠い。

自然に親しみ、動植物が自然の中でたくましく生きてきた知恵や巧みさを学び、--自然の知恵を学ぶのはよい。

自然と一体になりながら動植物を愛護し、豊かな情緒を育ててきたのである。--自然とは一体になってないが、自然の脅威の中にあった。動植物はよく保護してきたが、征服した近年以後は、動植物のいくつかは絶滅している。日本人の古くからの自然とのふれあい方がベストではない。それで愛護してきたといえるか。一部の植物などは保護しているが、それも資源のため。

 自然の中で豊かな情緒を育むかは、一考しなくてはならない。理由がはっきりしない。

〜人間も地球に住む生物の一員であり、環境とのかかわりを抜きにして生きていけない---まぁそうだ。

 科学技術の進歩に伴うから物の豊かさ、便利さは人間本来がもつていた感性や資質を弱くしてしまつているといわれる。--これは間違い。便利になって、何もしなかったという安楽さゆえの鈍感さである。

 自然や動植物を愛し、自然環境を大切にしようとする態度は、地球全体の環境の悪化が懸念されている現在、特に身につけなくければならないものである。--それはそうだ。

 

低学年

 身近なの自然の中で遊び、動植物の飼育栽培などを経験し、自然や動植物などと直接触れたりすることを通して、それらに対するやさしい心を養う。---素朴に動植物にふれる。栽培や飼育がてっとりはやい。が、採取もすべきだろう。私は野山を回って、昆虫採集にあけくれて、それらを飼育しようとはしていた。その中で、動植物の扱い方をかなり知った。

 

 動物や植物のもつ不思議さ、生命の力、共に生きていることの愛おしさなどを感じることによって、自然や動植物を大事に守り育てようとする気持ちが強く育まれる。---これは嘘が交じる。生命の力は感じられる。共に生きていることの愛おしさは、感じない。これは犬などペットをもつ家の子供の心だ。そして、動物と自分は一緒ではない。彼らは劣る。共に生きているという感覚は、子供の時には芽生えないだろう。芽生えるには動物と人が対等にならなくてはいけないが、小動物相手にはそれは感じない。愛おしいは、かわいらしいということで、低学年はそんな動物を下にみて、姿かたちが愛くるしいとそこまで複雑なことは考えないので、そんな感情をもたない。

 

中学年

 特に自然に親しみながら自然のもつ美しさや素晴らしさに感動するとともに、--これは小学3-4年生は感じられる。

 その恐ろしさや不思議さなどを含めて感じ取ることができるように指導-- 恐ろしさは低学年の課題だ。小さな子供ほど自然を恐ろしく感じる。不思議さは知的好奇心がなくてはならず、低学年もできるが、中学年のほうが向いている。

 

高学年

 人間の力が及ばない自然の偉大さを理解し、自然に学ぶ態度を身につける必要がある。--人間が無力に感じるのは、科学力の未熟さを示すもの。時代が進み、科学が発展するに従い、自然の偉大さはなくなってしまう。自然が偉大だといつまでも、感じる必要はない。自然のシステムは高度で、巨大なものがまだ残ってる。人間がいまだ理解しないもの、人間がまだ届かないものと理解して、社会の不備を知ること。それをいつか人類は獲得することを目指す。

 この時、自然から学ぶというのは、自然が行うもの--現状のシステム。初歩的な仕組みを学ぶのである。自然から学んだものは、人間にとって、それは高度ではなくなる。人間のほうがそれを自然よりも高度に使いこなせるからだ。

 自然環境と人間とのかかわりから、人間も自然の中で生かされていることを考え---これはあまり根拠がない。人間は何かによって生かされているというのは、流行の言い方だが、道徳的に考えて、正しい言い方ではない。**によって++が生かされるとは、**が++を保護して、生かしている、という意味合いだ。母親によって、子供が生かされる。神によって、預言者が生かされる。が、自然が人間を保護して、自然というものが人間を養っているわけではない。安易に流行の言い回し、しかも正しくないその用法を、指導要綱に入れてはならない。この一文はカットしなくてはいけない。

 

 人間と自然善や動植物との共存の在り方を積極的に考え---共存というのは、自然を保全することが第一となる。それは、絶滅させすぎたからだ。自然の動植物が多いほど、地球の生命は豊かで楽しいという信念が原点にある。自然が失われるのは悲しいという考えもある。これは絶滅した動物などの話をきいて、それが今も残っていたら、さぞかし面白い動物だと思うことでもよい。

 

自分にできる範囲で自然環境をよくしようとする態度を育む--現在は、人間が破壊した自然を回復させることが主眼となるだろう。しだいに、自然の生態を改良することが課題になる。例えば、蚊や毒蟻、ハエなどは、毒抜きをするか、過剰なものを絶滅させる必要がある。私は人を刺す蚊は、あらゆる動物にとって害であり、その習性を変え、動物の生き血を吸わないで植物の樹液をするようにするか、変えられないなら絶滅させるしかないと思っている。

 

以上だ。自然を保護することは、人間がよりよく生きるためには、人間の喜びを増やすためには大切だということである。そこに結実させるよりも、自然というものをよく理解させることが必要だ。それぞれの動物や昆虫は、彼らのしたいことをする。彼らの世界がある。そこが大切なのだ。

 

2018年6月19日

 

私は何歳になっても、一定の速度で成長するようだ。物事を新しくはじめて、早く成長する。成長の予定まで。

 

 アメリカの女性は、自由奔放ではないけれども、日本人のように萎縮しないで、大きく育つ。日本は男子も小さくなる。何か人を大きく教育法がないものか。

 

交信--1.2億年後の我々

 

2018年6月18日

 

崇高な曲、畏怖の念を引き起こす曲を作ってみよう。

 

崇高なものといえば?

 白い爺さんの星(古星のNo.1)。

 

愛の目的が相手を成長させることだとすると…

 

 相手の成長こそが第一で、愛は手段にしかならない。愛は第二。

嘘の精神論

 波動が高くなると、低い波動の影響を受けなくなる。その理由として光の加護が強まるから。

 

はい。嘘です。生活において、波動が高いとは、能力が高い人のやり方をしていること。ダビンチ、波動高そう。精神の理想者、模範者は波動が高そう。彼らは精神的に優れたことをしているだけ。天才は、才能ゆえに波動が高いと思われてる。それは心ではなく、その技にある。

 

 波動が高い人と、低い人は、簡単にわけられる。能力が高い人と低い人に。なお、心の波動が低い人は、肉欲をむさぼり、欲望に走り、野獣のような人と思われているが、これは精神の能力が低い者をさす。やはり、精神において波動が低いとは、精神の能力が低いことをさす。

 

 で、なぜ、能力が高い人は、能力が低い人の干渉を受けにくくなるか? 単純に、大人は子供の言うしょうもないことをいちいち相手する気にならない。もっと簡単にいうと、能力差があると、低い人の言うことなすこと、すべて理解でき、悪いことは否定できる。小学生が算数の問題に悩んでいて、高校生がそんな数学力ししかない小学生があれこれ算数のことで言っても、わからないことはない。心乱されることはない。

 

 囲碁でいうと、2級の人の言うことは、2-4段以上なら、たいてい説明できる。気にもかからない。実力差、能力差が、段階2を超えると、低い者の言うことは気にならなくなる、という法則がある。単に、それが理由だ。

 

 光の加護なんてものは、ないのだ。実生活においては、そういう未知の力は働かない。単に、能力差によって、低い側がこれはかなわないと思って言わなくなる。もしくは、能力が高いと、低い人があまりにしょうもないことを言っても、気にならなくなるからだ。

 

光の加護は嘘である。また、波動が高い低い、という言い方は、あまりよくない(現時点、実用性が乏しい)ので、それで普段は考えると、中身が薄くなるので、使うべきではない。

 

というわけで、こんな光の加護なんてインチキのもの信じるのは、どうかしている。

 

無償の愛と、自己犠牲の愛が素晴らしいものと信じてはいけない。

 そいつは自分がないのだぞ。他人の仕事に、全身全霊をかけるやつなど、信用できるか。それはそいつ本人の夢ではないのだから。本人の夢なら、それをなしとげる欲があって、それをする。それなら、本人がどの程度、その仕事に関与できるか、よくよく考えているだろう。そういう自分の夢や理想を追いかけるのはまだしも、信用できる。

 自分の意志でもなく、何もわからずに、報酬も得ずに、他人の仕事をやる、というのが無償の愛や自己犠牲の問題点なのだ。

 私は愚かさしか感じないぞ。これはやがて、厳密な理論にして、自己犠牲信者の信念をぶったぎってやる。

 

 自己犠牲なんてものは、共産党員に安価に何か労働を強制する時のスローガンではないか。無償の愛も似てなくもない。当然、神の愛を共産党員がやるわけないから、自己犠牲は神の愛ではない。

 

他人のことを思うと成長できる?

 あのお、魂と人間は同一なので、魂という言い方はやめよう。無駄に、日本的な意味--日本的な精神論がまじる。

 愛をするから成長できる、ということではない。自分の欲求をかなえるのみでは、こなすべきテーマが少なくなり、それのみを努力すると、学習スべきことも少なくなり、体験も減り、少なくなる。ロビンソン・クルーソーが孤島で生存にあけくれても、社会に生活するような様々な体験ができないのだ。

 

 が、自分の欲求をかなえるだけでは、目標が不足する。そこで、他人の欲求もかなえること、特に社会が求めることをやろうと思うことで、たくさんの社会的な目標をえられる。やるべきことが増える。また、社会的な目標では、高い質を要求される。自分だけを満足させるだけでは、そんなに高い質を要求されないのにである。それで、よりよく行う。そういうわけで、社会のために活動することで、より大きく成長する。

 

 こういう他人への奉仕、社会貢献を愛と言いたいのだろう。が、成長の理由だけみると、多くことをやりとげるから、より成長するといえる。愛なしに、それは説明できる。

 

 個人が、社会を安定的にしようとするのは、個人的な理由がある。もし社会が混乱して、犯罪者があふれていたら、住みがたく、やがて自分へも被害が及ぶだろう。で、安全に住みたいから、警察などに犯罪者をとらえてほしい。それには個人的に協力する。社会の治安をよくしたいからだ。

 

 社会の問題が放置されていると、やがて自分にそれがふりかかる。公害、広域犯罪、国家経済の悪化、汚染された空気などなど。で、それらを解決したくなるのだ。

 

社会活動としてやるというのは、大きな規模で行うということだ。自分ひとりを治療するなら、覚えるべき治療法も少なくてすむ。が、医者が大勢を治すとなると、医学を本格的に学ばなくてはならない。自ずと、高度な能力をもたなくてはいけなくなる。だから、成長するのだ。

 

愛があるから、というややピンぼけの理由ではない。社会的に大きなことをなすと成長するのは、自分に対してそれをする以上の才能が必要で、それを身に着けようとするからだ。

 

愛をするから成長するのではない。自分だけでなく、他人の分、社会が求めるものまで、様々なことをたくさんやるから、成長するのだ。

 

なぜ他人の願いや社会の危機感を、自分が解決する気になるのか? それは愛だとはいえる。だが、その気持ちがあるから成長するのではない。その気持があっても、レベルが低いような方法で、他人の問題を解決しても、成長はさほどしない。愛があっても、成長しない人は多い。単に本来、他人が自らやる分までたくさんのことをより高い質でやるとき、成長するのだ。

 

利他主義とは何か? 利己主義とは?

 私はこれを区別して、得意となる人間がよくわからない。私は、自分のやりたいことをやるだけではつまらない。それで、社会が求めることをやろうとする。それのほうが素晴らしいし、大きなことができる。

 他人の夢、社会の問題を解決するという夢や理想を描く。社会の問題が解決される、という素晴らしい世界を夢見ることができる。それを自分のものとする。すると、自分の夢で理想となる。それをなしとげる時は、自分本位だが、利己主義ではない。利他的といわれる。

 たったこれだけのこと。これは自分の夢なのだ。だから、他人への奉仕とみえても、そうではない。自分の夢にささげている。自己犠牲でもない。社会がよりよくなることを望むのは、誰れでもなく、私だからだ。自分の望みのために、自分を専念させている。それを自己犠牲といわれても、違う。

 

 というわけで、心が広い者たちは、無償の愛も自己犠牲も、感じていないのだ。自分のしたいことを純粋にやっているからだ。これが、神や聖霊の世界の発想である。

 

 自分の欲求と他人のそれ、社会のそれとを区別することで、やっと利己的と利他的という違いが生まれてくる。あまり大事なことではない。

 

社会的な活動はすべて、利他的なものだ。分業もそうだ。今の大人の仕事は、たいてい他人がほしがるものを作らないと金にならない。だから、利他的なことばかりしている。大人は当たり前にそれをしている。利他的は素晴らしいと神の世界のあり方だといっても、世間様に笑われるのだ。

 

 あらゆる仕事は利他的だ。それは神の世界で行われることなのだ。こんなことをまじめくさって言うのは、初歩的な話をさも得意げに言って悦に入っているようなのだ。

 

 それと、相手の精神の成長を願い何かするのが成長になる、というのは間違い。冷静に考えると、人が成長するのは、会社でばりばり仕事をしている時か、学校で勉強している時か、クラブで頑張っている時だ。要は、勉強して、それを実践する時だ。自分のためだけの勉強以外は、これらはすべて社会的な活動で、つまり、利他的な活動をうまくやれるようになることを目指している。他人の心をカウンセリングしたり、コーチングしたりすることで、育てることで、本人が利他的な世界の現実をより多く感じるのはおかしい。

 

 利他的なものをもっとよく知るには、社会的な分業や産業組織論を学んだらよいのではないか? まさに利他の塊だ。

 

 自己犠牲は、自分の夢でもないものに、無理やり関わらせる、というニュアンスが強くある。なぜ自分を犠牲にしなくてはならない? 不本意だ。不本意なことは、強制されなくてはできはしない。完全に自由にものを選べる世界では、不本意なことは誰もしない。自己犠牲は、犠牲ごっこをしたい者たちだけがやればよいのだ。自分の夢でも理想でもないことを、やらせるわけにはいかない。そんなことをさせてることが、推奨されてはいけない。

 

たまには、考える。その中で、よいアイデアが思いついた。

 

 

2018年6月18日

 

精神論

畏敬の念

 道徳の指導要領のまる写しになりそうだ。

 定義は、畏れて、敬う心情のこと。このあと、慎み深くなり、敬虔になり、謙虚な気持ち、厳粛な気持ち、神聖な気持ちになる。

 同異義語は、畏れを感じる。畏怖の念をいだく。

 敬う対象は、自然(を前にしてのもの)、超越的な存在を尊いとみなして敬うこと。他人の行いや心がけに心底感心して、敬意を示す様。と、自然、超越的なもの、他人(行い、心がけ)とある。

 

 まずは、美しいもの、崇高なもの、人間の力を超えたものをとてもすばらしいと認めること。それらに感動して、自分と対比して、彼らがはるか上だと考えて、敬うこと。

 

 道徳では、科学の慢心を諌めるものとして、自然や超越的なものに感動することが大切とある。

 

低学年では、身近な自然の美しさ、素晴らしい音楽を聞いて感じる。物語を読み、畏怖の念を感じる。素直に感動する心を養う。

 

 私が畏怖の念をもつのは、最近ないな。巨大な自然のものが一つ。神が作ったかのような壮大なもの。子供は、美しい自然がよいのだろう。

 

中学年では、美しいものだけでなく、気高いものに気づく。それらに触れようとすることも大切とある。気高いものは、人のもつ資質なので、そに触れるのか。それは、確かに、自分がそれにふさわしくないと思って、遠ざけるのは進歩がない。それに触れて、馴染んで、近付こうと努力することは大切だ。素直に感動する心を養う。圧倒的に素晴らしいものに感動する。そんなものをみつけることは大切だ。素晴らしいものに触れていないのは、ちょっとよいものか、ふつうのものか、わるいものしか出会わないわけで、不幸だ。

 

高学年では、人間の心の崇高さや偉大さに感動する。真理を求める姿や自分の可能性に挑戦する人間に心打たれたり、芸術作品に込められた人間の業を超えるものに気づいたり、大自然の摂理に感動して(それに包み込むものに)、にこれらのものに畏敬の念をもつことが大切。

 

 私はこの面が弱くなった。宇宙の中心に触れてからは、それらを当たり前と思うようになった。崇高なもの、偉大なもの。私はそれを取り戻さなくてはいけない。

 

畏敬の念を呼び覚ます音楽を作ってみよう。

 

2018年6月18日

 

朝、NHKの朝ドラを見ようと思ったらグラグラ来た。直下っぽかった。震源は高槻市の西だった。震度6弱。M6.1。

 

見逃したショックで、自嘲気味。それからはテレビを見て、被害を確認する。たいしたことはない。が、1日中、鉄道が止まり、大阪は大混乱。高槻から守口など家の中もかなり散乱したことだろう。

 

スマトラで忙しくて…と言い訳。メキシコと予想したのが、まさかの大阪だった。語呂がいい。

 

未来人XU氏は、わりと予知が近かった。他は、ひどい扱いだが、私は丁寧に彼をとりあげた。彼がやる人物だとは思ってなかったが、彼には勇気があった。

 

透視低下の原因を探り、あたふたした。幽霊のせいなのだ。どうせ、私はスマトラから当てる運命なので、そのほかはことごとくなんらかの方法で妨害され、外れるのだ。

 

いずれ原因をつきとめたら、駆逐することを再度決意する。

 

しかし、スマトラが迫っているのだ。分布をみると、水曜か。テレビ予知では、段取りがわかる。はっきりしないのだが。日台地震。殴打事件。車事故。そして、スマトラなのだ。水曜に交通事故とみて、木曜という線だ。21日はジュセリーノの東海地震だが、スマトラの間違いかも。

 

とあれこれ予想する。とりあえず水曜。もしくは木曜。さぁ、予測の準備をしなくては。スマトラ大地震における地磁気の予兆をチェックしなくては。

 

とりあえず、メキシコ地震はあるはずだ。

 

2018年6月18日

 

交信--1.1億年後の我々 成長率が1/2くらい

 

2018年6月17日

御在所岳に16日にのぼり、疲れる。しばらく梅雨で何もできないかも。

 

11月まで女性と出会わないという事実を知ったショックは、なんとか落ち着く。やることは、9月に草津行きなど、大阪にもゆき、退屈しないですみそうだから。10月は震災予知で本格的に忙しくなる。

7月は、周辺の山々など登り、時間つぶしはできそうだ。作曲の楽しみが加わったら、よい。が、まだ口笛、鼻歌だけ。つまらない。いつまで待たされるのか。

 

今日は、少し頭がさえる。ありえないことだが、普段の古代人の守護の力量--静かな日々を支える軽薄な知性、それでも、かなり上のランクだ。--をこえるアイデア、豊かな簡単なアイデア集を思いつく。彼は自らの限界を私に気づかせるのだ。それを超える者たちをも、示す。自分より部分的にさえた者。枚方にはよくいた。彼はその気配を伝えはじめたか。

 

フィリピンのルゾン島でM5.5。これはテレビ予知では重要な地震だ。ワンピースでは、東南アジア風民家のサインだった。それはフィリピンの地震をさす。それが発生した。スマトラの地震もそれと同じようなサインだった。が、比で発生したから、次の民家の大地震のほうはフィリピンではないと確定した。サインは前のをひきずる傾向がある。民家の次の地震は、民家でも表されるのだ。民家をスマトラと解釈したことは、理にかなっている。

 

せっかくメールくれた人に返信して、寄付を頼んだのに、返信もこないぞ。ふつう、質問して答えたら、何か返事か礼はくれるものだが。どちらもないとはメールのルールをわきまえてないようだ。返信をずっと待つ。

 

 

2018年6月17日

 

10500万年後の我々

 

2018年6月13日

 

11月まであの娘がこないこと。1日経って、ようやくそれを受け入れつつある。予言、東北地震で私が徹夜するとか、翌日の電話で誰かが泣くとか、その日がくるのを覚悟してた。信じていた。それがなくなることはないのだ。

 

7月に出会うなら、それらがだいぶかわる。

 

 私が楽しみに待っているものも、予言されたことばかりだ。短髪の女性も、モテ期も、私の曲が有名になることも、ケン・ウィルバーと親しくなることは、時期が早くても遅くても、必ず起きる。待てばよいのだ。何も未来はかわりはしない。

 

待つことには慣れている。そのうちに、その日がくるだろう。

 

道徳の指導要領を読んで、少し私は賢くなった。専門家はあなどれない。

 

私はいったい何が賢いのか?

 あれを作り上げたことか? これは功績だが、基礎しか作ってない。最近の発展はよくわかってない。

 

 世界の政治家のゴースト達の計画を、大雑把に承認していることか。政治の細かい方向性、戦略、計画は知らないのだ。これは、政治家よりもランク2は、私が劣る。

 

 発達心理をかきあげたことか。道徳心の発達について、私はかなり無知なのだ。指導要領を読んで驚いた。これはいずれ専門家に並みに、鍛えあげる。私はこの面でひけをとるつもりはない。

 

 囲碁が強いことか? アマチュアであり特筆するものではない。

 

 霊能力で並ぶ者がないことか? 透視や交信など特筆するものではないが、総合力は優れていた。あれやあれやという間に、天国をみつけだし、霊に宇宙へとたどりついた。比類なき技だ。

 

哲学は、社会思想の統合論をつくりあげた。現代最高の思想だ。

 

 そう、私は思想、精神論と霊に強いのだ。宗教者なのだ。それが私の才能が向かう先だ。

 

 

最近、理由はわからないが、外人(西洋女性や男性)の気持ちがわかるようになっている。おそらく、作曲時に外人の感性を使っているためだろう。

 

 守護霊の許可

 許可しないことは、それができないように様々に嫌がらせをする。それをしてよいのは、何かとそれがうまくゆくように仕向ける。たったそれだけのこと。誘導だ。

 

私は曲作りで、いろんな作風を勉強している。レパートリーは、今は英ロック、芸術うさぎなど3つほど。自分らしいのが2-4つほどある。

 

今は似てるのがいない。

 

2018年6月13日

 

精神論 道徳の指導要領から

 

生命の尊重

 命を大切にすること。命がかけがえのないものと大切にする心を養う。すべての道徳の基礎らしい。

 

 低学年では、生きている実感をもつこと。体にぬくもりがあり、夜はぐっすり眠り、朝は元気。心地よいこと、快適であることを感じる。楽しく生活ができる。極めて当たり前の「いきている証」を実感すること。それに喜びを見出すこと。自分自身がよく生きていることを大切さを自覚すること。

 

 なかなかすごいものだ。そこから学ぶのか。

 

中学年。死を理解できるようになるのはこの学年らしい。死との対比で生きる価値を理解する。誕生の話から生を受ける素晴らしさを感じる。病気や怪我から自分の体や命の尊さを知る。他が生きることの大切にする心を育てる。

 

 生きているだけでは、快適さの素晴らしさだろう。死という冷たい体、動かない体。何も反応しない屍を知る。それと生きているものの楽しさ、喜び、面白さを比較する。そこから、生きることの価値に思いいたる。

 

死んだら終わりというつまらない者たちが口にする言葉すら、死というものを完全に理解する中学年(3-4年)までは理解されないのである。

 

高学年。この年令で生命の誕生から死に至るまでの過程を理解できる。だが、性を学んでいないため、子供がいかにして生まれるかは、はっきりとわからない。死は身近な人の葬式により、理解する。この2つをしっかり学ばないと、祖先から子孫へと命が、続くことは、見通せない。生まれてから、死ぬまでの大雑把なことはわかっても。

 

 誕生の喜び、死の重さ、生きることの尊さ、共に生きることの素晴らしさ(これは不明)、

 

 これによると、中学校で自然の動物の生死に対する心構えや、自他の生命を尊重するようになるようだ。

 

 今日は生命尊重の概念が、年齢を通じて、どのように発達してゆくか、おおまかにみた。

 

2018年6月13日

 

9000万年後の我々

 

2018年6月12日

 

東北-東京 連動地震まであと半年。

 結構、迫ってきた。誰も助けてくれないのだ。予知で誤差1日にしたところで、避難するのがせいぜいだ。

 

2018年6月12日

 

11月まで何しよう。あと半年ではないか。6月にスマトラを当てたら、何か変わる。収入がよくなり、評判もあがり、作文の依頼もくるだろう。頑張ってみるか。

 

他は、例年どおり。おでかけして、9月は滋賀にサイクリング。それを次の楽しみとしよう。10月以降は忙しくてできない。それまでは、毎月、山登りか。そうだ。亀岡にでもサイクリングでゆくか。のんびり過ごすことになりそうだ。

 

 スマトラ当てたら、金回りも少しはよくなるだろう。それで、少しは楽に。

 

あとは、作曲のレベルをあげること。演奏は少しずつしかあがらない。カメラの腕はしっかりあげる。

 

何かいいことないかなあ。寄付がなくて、国保の分割払い(貧乏人が、一括でおさめられなくて、滞納している時にするもの。半年分の国保しかもらえない)も、払えなくなりつつある。

 

10月は初旬が過ぎたら、大震災で日本全体が暗くなり、テレビにかじりつく毎日だ。もう多忙。しかもだ。私は10月以降は、若干、地震予知がないので、暇になる。

 

 それはまずい。つきとめておかなくては。九州の大噴火もある。それをきっちり予知しないと。暇なのは、9月まで。

 

9月は滋賀県サイクに気合を入れる。あとは、連動地震を東北-首都直下を完璧に予知すること。それに専念だ。忙しいようだ。

 

8月? 本は読み終えるはず。大阪に買い出しに。他には? 何もない。

 

7月? 来月。何もない。

 

ゆくべき場所をかいて、予定でも立てておく。

喜びは、カメラ、サイクリング。草津。その3つしかないぞ。作曲は曲を残せたら、いいのに。そろそろ怒りの譜面書きにしようかな。計画が遅れすぎなので。作曲と演奏は地道に一歩一歩あがるしか。

 

2018年6月12日

 

トランプ大統領と北朝鮮首脳との会談。制裁は続けるが、と。トランプ大統領は仕事ができる。

 

精神論

小学校の道徳の教材を読み、勇気は、どんな場面で出すか。様々なものがあり、それをしだいに学ぶことが、精神の向上だと理解する。それらをすべて網羅するような勇気論を書き上げねば。

 

子供のうちは、怖いことがいくつかある。それを克服するのが勇気となる。おばけ、高所、車(過剰に怖がるのはよくない)、人。

 

そして、何が本当に危険で、何が安全かを学んでゆく。危険なものについては、適切に行動することを学ばなくてはならない。怖い人に対する方法、失敗を恐れること、社会からつまはじきになることを恐れないことなど。

 

いろんな対処法を覚えることで、怖さを克服できる。勇気をつけるこつも、専門的にあるにはあるのだろう。

 

以上

 

2018年6月12日

 

8500万年後の我々

 

 

2018年6月11日

 

カメラの買い替え時期にはなんとか間に合うことがわかった。よかった。いつまでもニコンのCool Pix A900ではね。最近は、画質が物足りないし、ピント合わせもずれないようにするのが、いちいち手間どっているし、限界感があるのだ。買い替えの時期なのだ。

 

 私は実力に応じて、機械を変える。そんな方式だ。キーボードは2代目。カメラは本格的にやりはじめて、2台め。

 

 音楽。アメリカのポップスのランキングを聞く。気に入った歌手を、毎日チェツクして、最新曲などを聞く。私の腕があがったようで、それまで高みの曲だったようなトップ10入りの曲も、今は、作りに問題あり、と感じる。安っぽいものに感じられるようになった。日頃の成果。

 

 お金ない。そろそろ国保の分割払いもできなくなりつつある。私を怒らせたら、情報が消えるのではなく、どれほど秘密の情報が出回るのか知らないのか? すべてそういう手はずになっている。

 

 フェぃくニュースというけれども、ネットも新聞もテレビも、電波犯罪に関しては、嘘つきばかりではないか。私がもっとも真実を書いている。いつだって。

 

2018年6月11日

 

さて、あれっ? 気がついた。私はカメラを新しく買う予定だった。が、それは10月頃だった。大丈夫かな。10月なら、首都直下を当てた直後だから、寄付がたくさん入るだろう。カメラは必需品だ。

 

 そもそも寄付は、支援金だ。ほとんどは人件費になる。調査は人手がかかる。その中で、もっともなのは、技能者は時給など高くなる。日本人はよくわかってない人がいるけど、地震予知はボランティアではないのだ。きちんとした職業でやらないと。だから、地震学者がたくさんいて、検出装置にも国はたくさん金をかけている。民間でそういうのをやるには、片手間にやっているのでは、いつまでも成果など出るはずがないのだ。

 

 透視でやっているのも、科学装置を使っているのも、あまりそこはかわらない。趣味でやっているようなのが、プロとしてやっているのより、よりよくできはしないのだ。

 

 昔は、アカなどは寄付金で成立する政党なのに、そこの活動員はこういう基本的なことがわからないようなことを言っていた。アカの寄付はほとんど人件費に消える。もしくは幹部の豪華な邸宅の維持費になる。世の中、そんなものなのだ。

 

 地震予知に1人、大人を専属でつけるのに、どれだけの人件費がかかるというのか? それは想像してほしいが、年収300万では学者クラスは1人も集まらない。素人なみ、地震予知に多少詳しい大学生しか集まらない。そんなのでは、首都直下地震を予知するには、不足なのだ。

 

 昔、アカの役員に寄付金を上納することには熱心なのが、私に寄付が回ることには反対するという奇妙なことをしていた。それに対する反論。寄付はNPOなどはほぼ人件費なのだよ。私はボランティアやアルバイト以下じゃないので。私は、地震予知の専属なのいちおう専門なので。

 

透視で予知するというジャンルでは、あらゆる物事を予知するが、私は地震予知にかなり特化してきた。

 

2018年6月11日

 

11月だぞ。私に裏の情報を知らせるのは。がっかりだ。私は2018年の冬にでも告発が始まるときいている。それは誰かさんの告発により裏サイトが全国民に知られる何ヶ月前か。それによって大幅に価値が決まる。

 

 なぜそうなるか? 私にとつてどれほど価値ある人間かが、決まるのだ。テレビやネットでわかる情報なら、わざわざそれをちょっとだけの時間差で私に知らせることに、どれほどの価値がある? ネットでわかる情報をわざわざ教えてくれたとして、その人物は勇気がない親切さん以上ではないのだ。

 

 半年なら、まぁなかなかの親切さんだ。しかし、その程度だ。格別な人間ではない。これまで何十年も隠してきたことを、たった半年早く知らせたから、その人物が特別になるのだろうか?

 

 よく覚えておこう。告発前に、私に教えると、まあ、彼は私にとって恩人となり、十年分くらいは楽な生活を送れるようにはするだろう。

 

 だがな。さほどではないのだ。せいぜい少しずつ礼を返すとして、10-20年で2000万円くらいのお礼くらいしか出ないのだ。これが大きいか小さいかは、人によって考えが異なるだろう。

 

 だが、告発される数日前とかならば、そんなに礼は出ないと思ってほしい。一ヶ月前なら、200万程度だろう。何らかの方法で、それら収益をあげられるようにする。

 

そうだ。告発時期は、調べておこう。2019年の春かどうか。

 

ずいぶん、がっかりした。私が天国に上がって、自由の身になったら、私の人生をつまらなくした者たちの言うことは、けっしてきかない。そうにすでに決めている。劣った人間しか育成しないカリュキュラムだからだ。

 

 さんざん言われたぞ。たいしたことがない宇宙人に、「君は芸術の才能で私を抜けない。」と。それを聞くたびに、思った。こいつら精神、実力は伸びないで、明らかに私に劣ることが決まっているのに、妙に自信満々だな、と。その予測は、正しいとは思えない、とな。

 

 予測を変えるのは、私がもっとも得意とする分野。いずれ抜いてやろう。

 

それからくだらない者たちを私の周りには配置しない。自分で友人を選べるようになったら、私が選ぶのだ。長い時間をかけて。

 

2018年6月11日

 

精神論

 勇気とは

 いさましい意気、困難や危険を恐れない心、物事を恐れない強い心。要は、恐怖、不安、恐れ、躊躇、恥などを恐れずに、自分のよいと思うことをする心のこと。

 

 道徳の教科では、低学年の勇気は、よいと思ったことは遠慮なく進んで行うこと。

中学年(小学校の)の勇気は、正しいと思ったことは勇気をもって行う。正しくないことは勇気をもってやめる。悪いと思っていても、周囲に流されて行うことを恥と思う時期。

高学年では、勇気と蛮勇を区別する。勇気がくじけないこと。

 

 勇気が必要な場面を考えよう。怖い者たちが前にたちはだかる。彼らの妨害、脅し、嫌がらせにおびえてしまい、正しいことができないのは、勇気ではない。彼らを恐れても、それにより正しいことをやめることがなく、それをする。

 私は日常的にそれをしている。アカ相手に。地震予知でもそうだ。恥とか言うのはいるが、外れたらみったもなく思う。が、翌日のブログをつづける。

 

 まずは正しいことをする。反対があっても、やる勇気が大切という。慣れてくると、いろんな周囲の反対を克服しなくてはならない。しかし、それは人間関係論となる。

 

 高い木から飛び降りる。自転車に乗る。思い切って水に入る。低学年はまずは、そういう「何かすることの」恐怖を克服することが大切だろう。

 

 それから、怖い友達に注意することなど人間関係の恐れを克服して、何かすることを学ぶ。1人でも、正しいことを主張する。日本人はこれができている人が少ない。

 

 この分野は、案外、広いことに気づいた。勇気を試されるいろんな状況がある。さらに、適切な勇気の度合いもある。あとは、恐れをどのように克服するか。安全を見極めることの才能も必要だ。

 

今日はここまで。

 

2018年6月11日

 

8000万年後の我々

 

2018年6月8日

 

孔子のドラマを見る。共産中国製なので、偉人を汚く描くのは、捨象して理解する。いつも未来科学の世界をみている。たまには古代のあらくれた社会を見るのも、よし。現在は、ちょうどその間なのだ。バランスがとれる。私の受けている仕打ちが、そういう暴力が飛び交う時代の末にあたるとわかった。

 

人生の無駄というか、主婦の楽しみの半分弱は、浮気&セックスなのだ。夫以外との。仕事をしろよ。したいことをみつけろよ。そういう世界があることをずっと知らなかった。暇すぎる。男は仕事というのが多い。それが行き詰まると、他にせいを出す。趣味や女に。同時にやっているのもいる。

 

今日の『秋田市の異臭騒動』の記事は、まとも、よくできていると言われた。聞こえない声で。私は公害の対策は、昔勉強した。その成果。怪しげな予言を皆様の興味をそそるように書くのは、そんなに得意ではないのだ。

 

私が他にうまいのは、精神論。発達心理はさほどだが、しだいにうまくなっている。それに政治なのだ。

 

 

2018年6月8日

 

ニュートンは、りんごが落ちるのを見て、重力に気づいた。アインシュタインは、光の速度を測定すると、いつも一定なので、その不思議な自然現象から、相対性理論を思いついた。

 

アインシュタインの若い頃、光の速度を計測することが、先端の物理学で行われていた。一定の距離に、歯車をおく。それを回転させる。歯車の歯の間に光を通す。そこから、光の速度がわかる、という機械じかけの測定装置らしい。時代を感じる。

 

 それまでの常識では、動く電車から光を放出すると、その電車の速度分だけ光の速度が速くなるはずだった。が、それが起きなかった。どんな方法で測定しても、光の速度は一定だった。光は、加速しないし、減速もしない。光速度一定の法則というものだ。その不思議な自然現象は、物理学者の間では謎だった。その謎に挑み、解いたのがアインシュタインなのだ。

 

 相対性理論は、科学が進み、そこで発見された新しい自然現象。それを説明することから、生まれた。

 

 というわけで、新しい理論を作りたければ、現代の謎といえる自然現象を解けばよいのだ。

 

私はその一つとして、「記憶」の謎があると考える。PCは、データにして記録する。これはbit単位で、記録される。ここに不思議なものはない。が、人間の記憶は違うのだ。もし、そのように記憶装置のようならば、その記憶が、切れると、映像の半分とか、前半のみしか覚えていない、ということが起きる。

 

 が、記憶の場所を物理的に細分化しても、記憶は、常に、映像は全体が含まれるそうなのだ。これを記憶の?という。

 

記憶は、映像の全体を、脳に01のデジタル情報として覚えているわけではないようなのだ。時間と場所のデータだけがあって、そこにアクセスしているのではないか、と私は仮説を立てている。私の仮説では、脳には過去の時空とアクセスする機能が備わっているのである。

 

 これも自然の不思議の一つである。

 

 他にも、粒子が確率的に存在する。これもまだ十分に解けてはいない。この確率を左右する何かがあるはずだ。が、それを区別するほどに、科学が発展してないようなので、いまだてつかずである。

 

科学者で偉大になりたいならば、謎とみえる自然現象。その解明に挑むとよい。現代科学は、最新の機器で、そういうものを日々、発見している。そこに着目しよう。

 

2018年6月8日

 

素直になる

 

素直とは、考え、態度、動作がまっすぐなこと。ひがんだところがなく、人に逆らわないこと、心が純粋さを失ってないこと。技芸などに癖がないこと。

 

この定義がよい。素直になるとは、ひがんだところ、ひねくれたところがないことをなくしたり、人にむやみに逆らわないこと。

 

人に逆らわない--これは、あとで説明する。対人関係は、今は説明しない。が、これは大事なのだ。私にとって、人に逆らう言い方を好む癖があるため。

 

性格がひねくれていない、ひがんでいない、歪んでいない。曲がっていないこと。

 素直なのは、全体的なことがわかっていることだ。首相は日本で一番えらい。これを素直にわかるのは、大事。首相ときくとケチをつけて喜ぶのは、ひねくれている人。何かにつけいても、些細なことにいちゃもんをつける。

 結婚相手とつきあいが始まる。これはうれしいことなのだが、相手がバツ4になると、素直に喜べない。ひどいものを引き受けた気がして、気分がさえなくなる。

 誕生日を祝って、思いがけなくケーキをもらう。それをケーキが小さいだのケチをつけまくり、素直に喜ばない。

 素直でないのは、小さなあら捜しをして、それをぐちゃぐちゃ言い、本心を表さないのだ。物事の全体がみえてない人に多い。部分にこだわり、それが本質とか言って、さも大事だと錯覚。本来の意義を見失っている。

 

素直になるとは、物事をみる時に、余計なもの、些細なこと。それにこだわらず、全体をしっかりと把握することだ。お金をもらったら喜ぶ。子供が生まれたら喜ぶ。仕事で地位があがったら喜ぶ。子供が何かでいい成績を出したら、喜ぶ。素直に。

 

小さなしょうもないことにこだらないことが大切なのだ。おおらかに全体を見て、その意義を理解すること。小知恵をつけて、部分的なもの、小さなことをみないこと。

 

大人が素直さを忘れる。大人にもっとも必要なことだ。全共闘には特に。

 

 

2018年6月8日

 

7000万年後の我々

 

2018年6月7日

 

次のブルグミュラーの練習曲が、La bibillardeで、左手はドド(1オクターブ上)ド(2上)、というもの。昔、中学の授業で初めて作曲したのが、そんな曲だった。ここにつながっていたのか。これは何か縁か、私の重大な時に弾くものだと理解して、つまらなさそうなので、飛ばそうと思ったが、これをマスターすることにした。大人になってから、最初に作曲した曲はマラソンで逃げる曲だった。それも何かの時を示しているにちがいない。

 

 希望とは何か

 

 希望とは未来に望みをかけること、こうなってほしいと願うこと。望み通りになるというよい見通し。

 

ここでは将来に対する期待、明るい見通しの意味で考える。見込み、光明に近いものだ。本人の希望(欲求、望み)の就職先は、アパレルという希望は、また別に。

 

まずは、明るい見通しとは何か。今よりもよい状態のことを言う。具体的には、夢、理想だ。志すもの、望み、願う事もある。

 

理想は本人が望むもっとも極められた、完璧な完全な状態だ。

 

 希望をもつとはどういうとか?

 将来、よいことが起きると期待すること。夢を見るという意味だ。

 

 希望を持てる人に、なるにはどうすればよいか?

 失敗して、このままでは悪くなると思うと気分が沈む。今は、悪くても、将来はきっとよくなる。そう考えるには、どういう才能を持てばよいか?

 

 まずは、将来を予測する力をつけなくてはならない。人はいろんな将来を思い描けるだろう。共産主義がなく、争乱が市民レベルでも国家レベルでもない平和な世界。共産主義が跋扈して、その代表の犯罪者が国に元首になり、国家権力を使い、国民をいたぶる光景。どんな未来を描くにも、予測力が必要だ。

 

 希望を持つには、さらに、そんな多数の未来から、自分にとって良い未来を見出す力が必要だ。共産主義者が襲ってきても、いつか彼らの罪をあばき、彼らを逮捕できること。当たり前のことだが、これらを見通せなくてはならない。すると、いっとき、ひどいことになっても、希望はずっともてるだろう。最期には、悪人が罰せられる。日本はそういう国だ。

 

 希望をもつには、現状が悪いと認識すること。そして、将来がよいと予測できること。悪い未来しか見れない人は、希望はもてない。

 

 希望をもつと、よりよい未来がくるとわかるから、1時の苦しみ、今のつらさなどは我慢できる。

 

 賢い人ほど、予測力が高く、悪い未来をくつがえす何かの秘策を考えることができる。正しくは、未来が今よりもよくなっていることを多くが知っている。悪いことは続かない。一般論して。だから、人は未来に希望をもてる。

 

共産国はゆっくりと滅ぶ。離婚したら、子供の出生の秘密は、ちゃらになる。次の夫は、すべて連れ子として接する。不倫の子でも、前夫の子でも、浮気の子でも同じ。老人になって体がよわっても、しばらく我慢して、死んだら、天国にゆき、若い体に変えられる。

 

 いくつか、不安になること、絶望しかけるケースはある。それごとに、希望の持ち方は、およそ決まっている。そんな定番の希望の持ち方を、学習すると、希望を見失いようになれる。

 

一つ、死ぬのは怖いが、天国にゆける

 そのまま。死の不安は大きい。天国にゆき、先に行った親戚達、友人、神様などに会えるのはさらに大きな喜びだ。

 

一つ、体は老けるが、大人になれるし、生きている間だけ。

 肉体は年をとると、老化して働きが低下する。が、いずれ死ぬと霊になる。天国にゆくと、若い体を手に入れる。そのあとは永遠に、若い体だ。老人の肉体は、今しか体験しないから、とっておきのものだ。霊でも老人の体になろうと思えばなれる。

 

一つ、貧乏は

 今だけ。いずれベーシックインカムで、国がもっとお金くれるし、生活保護で生きていける分のお金はくれる。生活保護は医療費がただで、受け放題。

 

一つ、病気

 いずれ治る。治らないものはあきらめる。生きていけるなら今はそれで我慢。天国にゆくと、健全な肉体をもてる。それまでの我慢。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2018年6月6日

 

6300万年後の我々

 

2018年6月4日

 

2日前は何か絶好調だったが、原因不明で落ち込む。囲碁も作曲も。平均的に低い水準に。2つほどレベルダウン。

 

なんだか表情が全体的にさえないで、曇った人。結構いる。私もその1人。これは本来の顔ではない人の特徴だ。生きている間は顔を意図的に、悪くしている人だ。天国にゆくと、本人の才覚にみあった顔、今よりもいい顔にする。緑の顔をする人に、何人かいる。

 

顔が本来とは違う。だから、顔が全体的に曇ってみえる。

 

雰囲気が、アダムスファミリーになると、

 アイドルグループによくいる。そうなると、一年以内にメンバーに死相が現れる。予知して救わないと亡くなる。今では、文化の発展に必要と判断されると、その国を守る人と霊たちによって、助けられる。このあと、メンバーの1人の目が暗くなると、その人だとはっきりする。

 アダムスファミリーの雰囲気は、たいていの人は見抜ける。だが、誰が危ういか。いつか。それはメンバー個人をよく観察しないとわからない。手足の動きがバラバラになり、ぎごちない人形のようなのがそれだ。これもダンスを見る目を養うと見抜ける。

 危ない人は、透視能力がなくても、見抜けるのだ。あとはいつ、何が原因かは多種多様。千里眼をもつ者に任せよう。

 

 人間は宇宙人とセックスできない。種が違うから、オスメスの形状も違う。化学組成もやや違い、種族の毒も違う。やつた途端に即死もありえる。別星人とやるのは、リスクが高い。というわけで、人間は永久に霊となっても、地球人とやるしかない。

 

 霊となって永久に生きるといっても、人間が地球上にいられるのは、太陽が冷えて輝きを失うざっと、100億年後。君の相手は、その間に生まれた人間、もしくは霊どうしのセックスで生まれた異性に限られる。

 

 計算しよう。優れた宇宙人は週に2日する。天国でもそんな頻度だろう。1年365日の2/7は104日ほど。1年で100日とする。

 

 天国ではずっと貞操を守り、妻とだけか? それはないと思う。赤い糸がつながった相手と結婚し直す。それが妻。人が子を産める。から、霊も産める。

 

 私が聞いた話では、1/2000人に1人と、つきあいがあるらしい。もちろん、すでにいる天国の霊だけでなく、未来に誕生する者も含まれる。妥当だと思う。たった1人の異性のみを永遠に愛する。飽きそうだ。

 

最大の愛は永遠に、妻1人に向けられる。その周りには何人、何万、何億(かんたんな計算では人類は100億年で年数の300-2000万倍くらいは、生まれるはず。)といるはずなのだ。その中らか、気が合うのがお互いつきあうと思われる。

 

天国で子を産むのは、何人に1人かは、また調べておく。

 

2018年6月4日

 

6000万年後の我々

 

2018年6月3日

 

見えない幽霊バスを私のすぐ後ろについてこさせるのをやめると、姿勢がよくなった。人とつきあう前にすべきことの一つだ。

 

私に似たメロディを作り出せる人を探している。自分は今、髪くしゃくしゃ族のメロディを学習中なのだ。口笛で出るし、今では口からも出てくるほどに慣れた。が、同じ系列の歌手がいないので、このタイプの音楽は、どんな印象があるのか、肝心なところがみえていない。ずれていたら、修正とかできるのだ。

 

どこの外人? 地震予知を送ると変なメールを返してくるぞ。当たった時にびっくり仰天するのだ。彼は。

 

さて、長い間、独身、孤独で、1人つきとめた私だけがもつパワーは、何だろう。圧倒的な実力を、世界に示す時がきたあ。違う違う。人前で披瀝するのだ。

 

 人前に出ても、さほどできない。歌うまくないし、曲も書けてないし。歌と違うだろ。

そうそう。霊能力だ。家の中を覗いてね、壁にかけてある絵を言い当てればいいんだろ? できないこともないけど、時間かかるよ?

 

 困ったな。精神論で、他人の苦悩から解放する。カウンセリングだから、百戦錬磨でないと、うまくいかないのだけど。処方箋を用意していたらできるけど、1人15-30分かかる。すぐやれ、というのは占い師でないとね。

 

 人前で何かやるのは、練習をつまないと。いきなり完璧にはできない。

 

 ずつと1人で生きてきて、その圧倒的な才能を披瀝する時がやっときた。何を?

 

発達心理学は一番、世界を驚かせるのだが。私の社会思想も、すごすぎるのだが、まだ完成してない。

 

次は、何だろう。電波犯罪か。これは、おまけみたいなものだ。それで、私に正義の冠をつけるだろう。しかし、まだ先だ。

 

霊の映像化、霊の音声は、電波犯罪の次にくるもの。まだ先。これはアカの技術だから、私が関係するのかは怪しい。しかし、ここは私にやらせるとうまくやるぞ。霊が実在することを科学が証明したら、宗教団体が再編されるぞ。人の霊能力を科学で少し明らかにするのだ。それが偽物を区別する。

 

では、地震予知は? 私が確実に当てられるのは、黙示録のみ。スマトラ地震、東京地震。これでぼちぼちやるか。

 

2018年6月1日

 

最近のこと。

 私の姿勢を悪くしていたのは、どうも背後1-2mの幽霊バスだった。接近させないようにすると、姿勢と視力が戻った。坂道をあがることに異様に疲れなくなった。これは徹底させよう。

 

私はいろいろとおかしなことをしてきた。それらを払拭してみる。

 

 大黄甘草湯を入手した。1005円もした。きんぽうげ毒に効くらしい。透視ではそう判明した。高いったらありゃしない。川西の大黒をやめて、池田まで遠征した。で、安いのがなかったから、それで我慢した。

 きんぽうげ毒が、なんとかなればよい。

 

2018年6月1日

 

5600万年後の我々

 

2018年5月30日

 

将来の友達を探す。あまりに未来なので、見分けにくい。で、女性はハートマークでわかる。数百年から以後。そういうのは、2000人に1人いるそうだ。私は何億年と生きるので。

 

海外だと、日本に紹介されるようなヒットドラマ、ヒットミュージシャンによく混じる。いるな、という感じ。

 

しかし、今はまだ、共通点があまりなさそう。エジプトっぽくて、私にアピールするようなふりつけをするので、見分けられる。

 

生きて友達になるのは、ちと印象が違うのだけど。みつけるたびに、少し幸せな気分になる。孤独が長くて、友だちを求める人生だから。

 

男性は、なんかいい感じの男だ。たいてい。

 

案外、用意されてるのは、自分と似たような者たちだ。女性は現れるのは、いつも決まった性格の中にいる。例外が少ないのが、寂しい。

 

しかし、自分の姿を省みて、こんなんで、大丈夫なのか? 才能はあっても、社交が低いから、それを鍛えねば。

 

 

2018年5月30日

 

精神論 --徳目

 

素直とは

他人の言葉を信じることだ。他人の言葉を判断する時、まっすぐにその意味を理解する人を素直という。子供は、先入観がないから素直だ。大人も、他人の言葉の意味をまっすぐに受け取ることはできる。だが、納得はしないだろう。子供も納得はしない。が、素直にきく。

 大人でも、素直にこちらの言うことを聞いてくれる人には好感がもてる。

 

 では、素直さとは何か? 

 こちらの言うことを信頼して、尊敬して、聞いてくれる姿勢だ。まっすぐに受け入れてくれる。

 私は、私の言葉をまっすぐに受け止めてくれる女性は、私は好きなのだ。素直でないのは、こちらの言葉に敬意ももたずに、侮蔑しているのが明々白々か、まったく役立たずと思い込んでいるような心持ちの人なのだ。素直でないのは、何らかの理由で、こちらの言葉など聞く価値がないと思っている人だ。目を見たら、区別できる。

 話す人に、興味をもっている間、話す人を尊敬してその言葉を学ぶ姿勢があるときの態度である。こちらの言葉に疑心暗鬼なのは、素直でない。

 

 大人は素直でないだろう。なかなか人の言葉を学ぼうとは思わない。だが、真に、何を言いたいかをまっすぐに受け止めよう。それは聞き上手となる。素直さは、ずつと続くわけではない。だんだんと聞き上手になる?

 

素直の人間とは

 何がよいものか、一般的なことがわかっている人だ。首相は日本で一番、えらい人。警察は犯罪者を捕まえるところ。日本国は、国民を守ろうとしている。極論に走らないで、全体的にバランスのよい世界観をもっている。だから、特定のものへの過剰な反応はない。左翼は、安倍首相の名をきいたら、アンチでキーキーわめく。

 

 大人になっても、素直さを失わないのは、正しくあらゆるものを理解しているからだ。バランスよいその世界観をたもった。その特定の視点に偏らない才能ゆえに、首相や大臣、思想家として偉人にもなれるのだ。ただ政治の実力をつけなくてはいけないが。

 

女性が素直にみえるのは?

大きな方向性が一致している人達の間では、能力ある者は、下位の者よりは素直に慕われる。何かが尊敬されている。

  

2018年5月30日

 

4600万年後の我々

 

2018年5月29日

 

精神論

 

正義は、どういう内容があるか?

これは、人間関係のルールだ。モーゼの律法からはじまり、それから様々な法が出来た。法は正義の産物なのだ。悪しきことにならないようにするためのルールだ。正義の種類を語るときは、法を語るに近くなる。

 

アリストテレスは、分配的正義、交換の正義など説明した。これは物々交換などの正義。人間が共同で暮らすための正義としては、物をとらないなどある。個人の所有を認める、というのもある。これは所有の正義か。いろいろある。法の発展、社会が経験した問題、そこで悪しきことを取り除いた。その分だけの正義がある。

 

ユダヤ法を見たらよいが、合理的に物事を考えて、行う。それが正義だ。このあたりの細かい正義は、規律に基づく。他人の嫁をとらない。結婚という制度。離婚のルール。様々にあるのだ。納税の義務まである。

 

社会のルールはどのように形成されるのか。という純粋な理論に基づいて、探ることはできる。もしくは、歴史を調べる手もある。

 

一般的に社会が発展すると、正義は細かく、緻密になる。高度な正義である。正義は、社会問題を解決することだ。その時、それまで善とも悪ともされなかったものが、悪と定まる。それ以後は、その悪なることはしてはいけなくなる。

 

ヒロポンは、気分を緩やかにするものだと戦中までは認められていた。が、戦後は、中毒になり、堕落するので、禁じられた。麻薬を禁止することは、今や正義なのだ。

 

 酒も今は許容されるが、やがて社会が進むと、酩酊して頭をぼんやりさせるのは、時間の無駄であり、その中毒性ははかりしれないほどの精神性の低下を招くとして、禁じられるだろう。私は飲まないが酒が飲めるのは、今だけだ。酒を飲んだら、警察にしばかれる時代がやがてくる。医療用を除く。

 

他にも、悪の宇宙人がつける『洗脳装置』。それをつけると悪い感情が芽生える。それもばらまくことが禁じられる。共産主義本から麻薬のような波動が放たれる。それを摂取すると、激しく怒りやすくなり、悪感情が強くなる。が、そういう汚染されたものを販売することが、禁止される時がくる。

 

これらを語ると長くなる。いや、正義の内容と分類は、多くなる。今は精神の基礎しか考えていない。それで、私はいまは語らない。正義は、人間関係論なのだ。

 

これまで、真実、虚偽、信じる、信じない。正しい、間違い、良い悪い、善悪、正義を説明してきた。これらは、認知の話だった。

 

善でも悪でもないものとは?

 T、それはどうでもよいものだ。第三ではない。善悪以外のすべてのものをさす。もしくは、U、善人ほどよくなくて、悪人ほど悪くない状態の人をさす。

 可もなく不可もなくという言い方では、後者である。

 日本人は、最近、リベラルでも社会主義でもない、第三の勢力みたいな言い方をする。これは、中間的なものをさしているようで、実はそのほかのものをさしているようだ。自由主義と社会主義が対決して、自由主義が勝利したのが20世紀だ。第三のものとして環境主義だ。みたいな話なのだ。これはそのほかどうでもよいようなものをさす。第三のもの、と名付けて得意がるのがいたので、指摘しておく。

 

正しいものと間違い、誤りについて

 これは分類の話だ。計算の話かもしれない。百匹の動物から、猫をみつけなさい。という問題なら楽だ。これは分類の話。百割る7はいくら? とあると小数点をつけなくてはいけなくなる。これは数字をいくつか並べて、分類したところでみつからない。計算しないとみつからない。

 最初に条件があって、その条件を満たすものを探す。それが正しいものとされる。20*5という条件で、答えは100が正しい。誤りとは、条件を満たさないものだ。

 正しいというと、なにか純粋によいことをしているような気になる。が、誰かが与えた条件をただ満たしているだけ、という話。こう考えると、あまり気負わなくてよいだろ?

 

人間にとって正しいとは?

 一つは生きること。死ぬことを選ぶのは誤りなのだ。2つめは、社会が成長すること。社会問題を解決することは、正しい。それで社会は退化しない。発展する。赤ん坊を育てることは、正しい。子供の成長を支えるのは母親の喜びで、咎められない。個人と社会が成長することは、正しい。

 大きくこの2つだ。生きることと成長することだ。生きる=成長することでもある。生きているのに、活動を停止したりはしないし、退化は通常しない。

 よって、生きることと成長が、人間にとって第一義となる。生きることと、成長のどちらが大事かは、生きることになる。第一義は、生きること、社会の生存。第二が成長である。この2つが、人間の根本の目標である。これより上の目標はない。

 

 いちおう、個人の生存よりも、社会の生存が優先される。個人の成長よりも、社会の発展が優先される。しかし、個人の死の損失と、それによる社会的な利益は、簡単には数字で出ない。だから、社会を守るために、何人犠牲まで許容されるかは、状況に応じて、かわる。

 

だから、たいていは社会発展のために、という目標が正しいなら、それが優先される。ただし、個人の活動がそれにより犠牲になるのは、かなり厳密に決まる。個人の自由を奪う損失は、大きいからだ。

 

 生きること、成長すること。これの上位の概念はない。よって、愛こそが最上だというのは、嘘である。信仰が、人間のもっとも基礎であるという考えも間違いである。

 

 

次は、欲求について

 

 

2018年5月29日

 

4300万年後の我々

 

2018年5月28日

 

精神論

 

正義と悪について

 

正義は社会正義しかない。その社会の問題を解決できる方法を正義という。独裁国家では、個人に自由を与える制度、人権などが正義にある。自由な個人を認める人権を制定するように活動することも、正義である。

 またそんな新しい問題ではなく、過去、社会問題を解決して、現在は法律や規律として定められていること。それが破られた時に、それを正すことが正義となる。銀行強盗などの犯罪者を捕まえるのが正義である。

 

 人間関係の中でしか、正義はない。

 

個人の課題を解決すること、そうしようとすることは正義とは言わない。本人は視力をあげることが必要で、そんなレッスンを受けなくてはならない。が、それは正義とはいわない。

 

アリストテレスの応報的正義とは、損害賠償のことで、他人に殴られたら、相手から賠償を受け取ることが正義となる。これは、社会で被害賠償ということが、法や習慣、規律として定まった社会での正義となる。

分配の正義は、平等に分配しようということではなく、働き分の相応の分配をしようということだ。これは、資源を個人に分配に関するものだ。これは、ごく初期の人間関係、家族でもそうあるべきとされる。

このように、高度でない社会、原始の人の集まりで人間関係のルールが生じると、発生する正義だ。

 

正義はルール、規律を守る、という意志や必要性から来ている。それらが破られると、再び、混乱して、過去に解決した社会問題が再燃する。そういう社会の悪化を防ぐものだ。この正義が通らなくては、社会が混乱する。社会が悪い状況に陥る。正義では、そういう思いが強い。

 

犯罪者を罰しないと、社会は悪人が跋扈する。そんなひどい社会に悪化させたくない。それは許せない。それが強い。

 

悪は、この場合は、社会のルールを破ることだ。共産主義では、社会のルールを平気で破る。目的のためなら、だんな手段でも許さるという。悪が生じやすい思想である。正しくは、正義がある限り、目的のために悪なる行為はどんな手段も許されない。

 

国家が正義に反するルールを作った時に、それを破ることが正義か。それを守ることが正義か?

どちらが正義か。共産国では、密告、いわれなき処刑など数限りなく行われる。法秩序はそこにない。が、共産国の体制を守るというルールがある。それを違反しないように、共産の正義の名によって、粛清したり、収容所に送ったり、言論の自由を規制する。これらは正義となりえるか?

 

 社会秩序を守ることが、正義の定義だ。だから、限定された意味での正義となる。が、一般的には、共産という悪の体制を守ることであるから、悪である。正義は、このように国家の体制によって、その内容が変わるものではなく、人類にとって一般理論上で、正しい行為をさすこともできる。

 

世間では、正義がなにか正確に語れないようだ。が、正義は、簡単に定義できるので、それを覚えるとよい。社会の問題を解決するもの。過去を含めて、それらである。社会の問題は、その多くは悪だ。悪は社会を混乱に陥れる。悪を解決することを正義という。

 

 

 

2018年5月28日

 

4000万年後の我々

 

2018年5月27日

 

自分の立場をすっかり忘れていたが、右翼の裏の司令塔の1人だったのだ。昔は。過去にそんなことをしていたような気がする。続いていたかな。あれは最善、最適だ。

 

メンタルマネジメント。これで精神は大分、強くなり、安定するだろう。誰に管理させるかが大事だ。

 

このところ、近々出会える人が、顔などに私の白い波動をもつことがわかった。そんな色をもつ人を1人はみかけた。やっと孤独が終わりそうだ。

 

パパママソングを作らなくては。そんな歌が作れそうだ。今までは口笛で、新しいパターンを覚えていた。やっと声に出して、新しいスタイルの曲を作れるようになった。慣れてきた。自分のもっているパターンとは違うので、

 

精神力と、精神理論能力を間違えていた。やはり、精神理論は語れても、彼は私ほどの実力はなかったのだ。しかし、地球の外に目を向けたら、私より劣るほうが少ない。いや、そんなのは、星の人物(王系の霊系グループ)、交信相手に見たことがないのだ。

 

 

2018年5月27日

 

3600万年後の我々

そろそろ未来の自分の感覚を確かめるか。

 

2018年5月26日

 

キングの話。

世界に新しいシステムを導入する彼。

未来も過去も

宇宙も、宇宙人も

映像の世界から飛び出して、

 

人間関係はソウルメイトに、永遠の愛。

毎日の友人、セックス、恋人。

 

不幸のない、病気のない、世界に。

誰もが教育を受け、無限に伸びる

 

一部の選ばれた者たちは

お金も降ってくる。

権力を手にした。

有名になった。

成功した。

 

世界はすぐに平和にならなかった。

が、世界の歪みは正されつつある。

ゆっくりと確実に。

 

悪が弱体化してゆく。計画的に。

正義はさらに強くなる。賢くなった。

 

キングは微笑みながら、それを感じていた。

 

 

不機嫌は罪

 タイトルがよかった。

 

メンタルマネジメント?

 これを確立しなくてはいけない。

 

いつもごきげんでいる私のノウハウをまとめよう。まずは、環境的なものから、食い物など。

 

 心を健康に保つ、食品がある。それをとらないと、不安定になる。

 日本人はごはんは食べる。日本人はお米を1日1杯は食べる。お菓子の中にはたべていけないものがある。新しい甘味料か多糖類を使ったコーヒーの一つがよくなかった。

 糖分切れすると、頭が働かなくなる。

 

 睡眠だが、寝不足は頭が働かない。よく寝ること。1日7時間くらいがよい。朝7時40に起きるためには、午前0時半までに寝る。布団は寒くないこと。

 

 1日中、家の中にいてはいけない。1日2時間以上を外出する。気分が滅入る。ただし船の中は、よい。1日家にいると、ホルモンか何かが室内に充満して、精神衛生がよくない。運動しすぎると解消するか、眠ると解消する。

 

 気分転換に、月に一度は大阪か京都、神戸など隣の文化圏にゆくこと。

 

 口に、気分悪くなるもの(悪宇宙人の道具)がつかないようにすること。顔つきが歪む。涙顔など。感情が悪化しやすくなる。風邪をひく。

 

 脱水はしないこと。命に関わる。特に、脳。

 

 運動はする。これは必要か不明。

 

感情を悪化させる原因が人の場合は封印する。これは一般人はしないので、私もいつまでも続けないので、口になにか取り付けられないように気を配るのがよい。

 

ゲームは1日1時間ほど。囲碁のPCゲーム。

 

 これだけ、守っているかな。

 

 

 

 

 

2018年5月26日

 

京都の精神について、誤解の変更

京都に住んでいた男の霊。彼は精神のことがよくわかる。系列は猫なのだが。彼からきいた。叡山は、地方から来ているので、精神は高くないという。もっとも高いのは、京都の西本願寺か東本願寺周辺の住民という。彼は、いろいろ調査能力があり、信頼できるようだ。

 

枚方は、八幡や伏見より低いという。がさつなのだ。京都から離れるほどに、地域の道徳性は落ちてゆく。私が、東大阪の人に物足りないと感じたのは、それが理由なのだ。

 

西本願寺周辺よりも、三条の東山あたりは落ちるのだ。

 

何が言いたいかというと、私の道徳は、京都の地域の精神性。それを反映していること。私の道徳は、京都型の道徳ということ。そこに大阪の自由をプラスしている。

 

私は、北摂の女性友達を数えている。が、少ない少ない。本当に、少ない。枚方にはもっとたくさんいそうだ。

 

私はずっと星猫の守護を受けてきた。それを取り外して、本来のちからを体験中だ。言語の才は落ちた。透視はどうしようもないので、星猫に戻す。運動神経はあがった。自分らしさをゆっくりと取り戻す。

 

神戸の近くにいって、甲山だが、気分が新しくなっている。一ヶ月に一度は、遠出しないといけないのだ。

 

 

2018年5月26日

 

蜂ね。金魚でなくて、蜂。男子は敵なのだとわかった。

 

東京の人間の性格が一つわかった。

植物男子ベランダーの6話。しゃべらない20才くらいの息子が家にきて、じっとソファに黙って座っている。大阪なら、せっかく離婚して、別居する父親の家に自ら子供がきたなら、自分かららどんどんしゃべる。が、この男子はまったくしゃべらない。大阪にはまったくこんなのいないから、驚いた。東京にはこんながいるようだ。

 

 が、父親が話かけると、返事はするのだ。大阪なら、話さないのは何か理由があって、まったく口を聞かないのだ。沈黙している子供が、父親から話しかけて、子供が返事するのはちょっと考えられない。が、東京の若者は、尋ねられて、やっと自分の思いを話したのだ。

 

 ほーお。これが東京流なのか。新鮮なものを見た瞬間だった。囲碁で、自分の手番にならないと打てない。そんな手続きを頑なに守っているようだ。質問しないと、話せない。そういえば、こんな人物をどこかでみかけたことがある。こちらから話しかけないと、自分から話してこないのがいるのだ。こちらは、常に会話をリードできるのだ。それで、会話でいざこざした時は、いつもこちらが主導権を握れるのだ。こちらがしゃべると向こうもしゃべり返す。が、こちらが沈黙すると、相手はすぐ黙る。わかりやすいのである。彼は、東京や東日本では、ありきたりなのだとわかった。

 

 東京方面には、自分から話すという習慣があまりないらしい。私は、人見知りなので、それが弱かったが、改善しようと思った。自分の番を待っているようでは、駄目だなと思った。

 

 だから、関西や九州の芸人が東京で、東日本の人間を出し抜いて活躍できる。

 

2018年5月26日

 

精神論。

 

善悪について、

善は、良いことで、生きる上でよいこと。道徳的価値もある。

悪は、人間を有害なこと、その原因という。

 

良い悪いは相対的な評価だった。将棋より囲碁が頭を柔らかくするにはよい。

善と悪は、絶対的な評価で、生きるなど人間の目的を達成するものが善で、そうでないものが悪だ。無害なものは悪とはみなされない。きんぽうげを食べるのは悪いことだ。だが、砂を微量に食するのは、有害でないので、善でも悪でもない。

 

善の究極は、神である。良いことしかしない。

悪の究極は悪魔である。悪事しかしない。悪は、個人を死に至らせ、社会を破滅させるものだ。悪は、行為に対しても言われるが、悪を行う人や主体にもいわれる。

 

悪人は、社会秩序や法を乱すもの。倫理を逸脱するもの、非道徳的なものだ。

善人は、社会秩序や法を守るもの。倫理や道徳を守るものだ。

 

悪は、社会的には罰を受ける行為である。

 

善悪の学習

 これをすることで、規律を会得できる。悪は、盗むこと、姦淫すること、嘘をつくことなどある。それで、悪をしないようになる。

 

正義について

悪の反対は正義ではない。正義は、社会的なもので、法を守ること。犯罪者を罰することは、正義なのだ。新しい法を作る力だ。それは社会問題が新しく生じた時、それを解決するものを正義。社会問題の原因を悪とする。大気に煙を大量に出す化学公害という社会問題が生じた。排気ガスをそのまま大気中に放出するのが、悪だった。排気ガスが悪とされた。排気ガスを出す会社が悪だった。その社長が悪だった。それで、有毒な排気ガスを出さなくする運動が正義となった。公害の撲滅運動家が正義側だった。

 最初は原因がわからないうちは、悪は大雑把にとらえられた。が、しだいに焦点を絞ると、悪は、硫黄ガスや窒素ガスなどに有害な気体に絞られた。そして、それを有毒ガスを分離、除去する装置が煙突につけられて解決した。真の悪は、排ガスの有害成分だったのだ。それを放出する煙突だったのだ。

 

 社会問題を解決するのは、新しい正義なのだ。従来の法を破る人物、ものを懲らしめるのは古くからある正義なのだ。

 従来の法とは、過去のそれも社会運動によって生じた法律、規律である。その古くからある正義は、やはり社会問題を正しく解決することなのだ。人権はフランス革命ではじめて登場した法制度だ。日本では、明治憲法の頃より認められる。人権は古くからある正義だが、そんなに歴史が古いわけではない。

 

 正義は、社会問題を解決するもの。過去にそれによって生じた法律や規律である。この時、悪は、社会問題の真の原因である。

 

 正義と善は似る。この時の悪も社会問題の原因である。

 

 善悪は、時代が進むと、より内容が緻密になる。善悪の数は時代と共に増える。一つの社会問題を解決すると、一つ善が定まり、いくつかの悪が区別される。

 ドーピングでは、問題が発覚すると、どんどん禁止薬物が増える。悪、してはいけないことは時代とともに増える。正義は、悪ほどの数は増えないが、増えるのだ。

 

知識はパターンなのだ。

 人工知能は、パターン認知だ。猫の絵をたくさんみせると、猫の型(パターン)を覚える。

 物理現象を、帰納すると、法則が得られる。これもパターンを取り出すことだ。純粋に。

経験則は、特定の体験であるパターンを見出したものだ。

空間、物理現象のパターン。それが知識なのだ。パターンは『構造』と言い換えることもできる。

 

 つまり、人工知能は、自ら知識を獲得できるのである。

 

 

 

 

2018年5月26日

 

3300万年後の我々

 

2018年5月25日

 

精神論。

 

 今日は良いと悪い。

 良いというのは、よい方法ということで、ある目的を達成するための手段についての相対評価だ。その中でよりよく目的を達成することだ。より目的を達成しないものが、悪いとなる。これが、良い、悪いの本来の意味だ。

 

目的があって、その中での評価なのだ。良いと悪いは。逆上がりの練習のためには、家で腹筋するのはいいか? これは練習の一つになるかどうか、という問いだ。違うな。私の文章は、昨日より良くなっている。これは、上手になっているということだ。これも例がよくない。

 

大阪にゆくのに、電車がよいか、走るのがよいか、車がよいか、バスがよいか。これがよい例。大阪にゆくという目的がある。そのためにいくつかの手段を比較している。安く行きたい人は、電車が良い。あいつのやりかたは悪い。

 

良いは、最高に良いのを最善という。悪いは最悪が一番悪い。よくも悪くもないようなのもある。

 

目的とは、人は生きる、成長するので、その中でそれぞれの小さな目的がある。他に、問題設定上の目的もある。原子を分割するにはどうするのがよいか?

 

善悪について

 

良いには、相対的に良いものと、目的を達成する方法などとしての良い(善い)もある。この言い方では、悪は目標を達成しないものだ。これは善悪の区別だ。

 

 善人はほどほどに良い性格で良い行動をする人をさす。が、社会の秩序を乱すような悪人ではない。社会の成長の一助となる人物をさす。

 

 悪人は、社会の発展には寄与しない人や秩序を悪化させる人をさす。極悪人、悪魔などは、ただ悪いことをするのではなく、人を生かそうとしないし、社会発展の障害となり、社会を悪化させるという意味がある。

 

 善悪の悪は目的を達成しないという意味があるからだ。あのやり方では悪いよ(効果ないよ)。

 

今日は、簡単に説明しました。

 

2018年5月25日

 

3000万年後の我々

 

2018年5月24日

 

精神論

 真実の説明について

 不完全だったので、再度説明する。

 ある事件について、目撃者BとCとDはそれぞれ違うことを見た。この時、BCDはそれぞれ違う真実をもっている。という言い方は可能だ。が、たくさんの真実があると言い切ってにんまりするのは愚かだ。

 

コナン君は言う。真実は一つだ。すべての目撃は辻褄があうことを説明する。その中で、嘘も混じっていると。事件が解決できないでくのぼうのデカは、矛盾とみえる目撃談を整合させることができない。つまり、真実がたくさんあると断定するのは、愚かなデカと同じ過ちをしているといえる。

 

これは真実のもう一つの意味、個人の受け止め方、ということで、この時、たくさんの違った目撃談があると、当たり前のことを言ったにすぎない。真実(虚偽でないもの)がたくさんあるわけではない。真実は一つだ(事実は一つ)。同時に、たくさんの真実(いろんな個人の受け止め方があった)もある。が、両者に、事件の事実(真実)という点で違いはないのだ。

 

 真実(虚偽でないもの)がたくさんある、ことにはならない。真実の2つ意味を混同しないようにしたい。これは、日本語特有の勘違いである。たいしたことではないのだが、真実について、2つの意味を混同して語り、さもわかったように得意げな顔をする愚かな考えが、平成末期には残っている。

 

 あえていうと、真実を個人のそれに限定するのも、どうかと思うのだ。事実は社会的なものを言い、真実は個人的なもの、という区別は、単に日本語特有の意味でしかない。海外では、同じなのである。そして、彼の真実という言い方は、重要ではないのだ。

 

 次に、『嘘をつく』

 嘘をつくのは、虚偽を言うことだ。誤認ではないのだ。誤認とは誤って、過失で、真実でないものを認識したということだ。嘘をつくのは、確信的に、虚偽を言うことだ。

 

 人々は9割以上は真実で動く。富士山が噴火した。逃げろ。今日は疲れた。休もう。お金がない。借りよう。社会は真実の情報で成り立っている。そこに嘘があると、そこで何か現実に対処できなくなる。

 

 車が近づいてくるのに、車なんて来てないよ、と思い、よけないと車にぶつかる。お腹がへっているのに、満腹だよ、と思うと、空腹がます。

 

 嘘が入り込むと、現状認識がおかしなことになり、社会が回らなくなるのだ。問題に対処できなくなるのだ。だから、人はよほどのことがない限り、嘘をつかない。人は問題を放置すると、どんなにひどいことになるかをよく知っているからだ。

 

 だが、真実を言うとひどいめに遭うと考える人は、その時に、嘘をついて、自分の保身をはかる。嘘は人につく。

 

嘘は人につく。ちょっと待てよ。人間関係論は、あとだ。今は、内的規律だ。精神のことだ。テーマを変える。

 

 

 真実はわかっただろうか?

 

 真実と虚偽。

 真実には、ある物事の状態をさす時もある。猫には毛が生えている。猫の状態、性質などだ。この時、猫について、たくさんの性質があるから、猫についてたくさんの真実がみつかる。ただし、これをもって一つの猫にたくさんの真実がある。と言ってみて、真実は一つではないの反論をするのは、あまり意味がない。虚偽でないなら、いくらでも在るので。

 

真実は一つの意味

 簡単にいうと、ある時間、ある場所で起きたこと。それは一つの出来事しかなく、2つない。ということだ。

 ある人間が、立っていて、座っているようなことはない。量子力学では、確率的に、素粒子の位置が決まる。つまり、ある人がこれから赤い服を着る確率が30%で、青い服を着るのが40%とかいう話だ。これをもって、未来は確率的に決まる、というのはあまり正しくはない。量子力学の不備についての話だからだ。

 

 現在は、私は伏尾台にいる。これは真実で、別の可能性の世界のように心斎橋付近に住んでいないのだ。物理世界において、一つの出来事しか起きてない、ということだ。2つの可能性が同時に出現してないということなのだ。

 

 だから、あるものの状態や性質を意味する真実では、彼の真実は二股なのだ。彼の真実はマザコンだ。とかいう性質はいくらでもいえる。これをもって真実がたくさんある、といっても、意味のないことだ。

 

 真実は一つ、ということを反論したくて、しょうもないことを言うのはたくさんいる。が、たいてい別の意味でその時、真実という言葉が使われている。

 

2018年5月24日

 

2800万年後の我々

 

2018年5月23日

 

精神論

 これまでは、素直、正直と、真実と虚偽をどの程度もつ者が、これら良き性格をもてるか、という話だった。虚偽を信じるほどに、素直さがなくなる。虚偽を言うほどに正直さが消える。まだそれらを言う目的はあまり問わない。

 

 では、真実とは何か? 日本人の真実は英語のtruthとは違うのだ。今日の議題。

 

日本人は、真実は個人にとって真であること。事実は社会的に認められたこと。とよく言われるが、これは間違い。真実は、物理世界の状態を正しく、言い表したものをさす。猫がそこにいたら、猫がいるということが真実。

 

辞書を見ると、真実とは、嘘や偽りがないこと。まこと。個人にとってそれが主観的に真実というものもあるようだ。

 

 誰かが、大野翼はチョー素敵と思ったら、そのラブラブな心は真実だ。そう思ったことが真実となる。ただ本当に大野翼が素敵かというと、人により違う。ある人は、イケてると思うかもしれないし、ある人はかっこいいと思うかもしれない。素敵とは必ずしも思わない。

 この時、ある女性の心は、タスクを素敵と思ったという現象は、それが実際にあると、物理世界を正しく表すものなので、真実なのだ。

 

事実は、社会的に認知されたものをさすことが多い。実際に起きた事柄。事実も物理世界で起きたものをさす。こちらは、現象的なもの(起きた事柄)それをさす。真実のように、状態をいうのはあまりない。

 

真実はひとごとに違う、というの間違いなのだ。

 誰かさんがそう考えた。そういう事実がある、という意味でしかない。例えば、ある女性が結婚した。それについて、Aさんは、その結婚は失敗だったと考え、受け止めた。このAさん考えは実際にあったとする。Bさんは、その結婚は非常にずるいものだったと考えた。これがBさんにとっての真実だ。Cさんは、その結婚はすぐに破綻するだろうと思った。早く離婚してしまえ。その時に、ざまあみろと言ってやる。と思ったのがCさんにとっての真実なのだ。

 

真実(ある出来事に対する受け止め方)は、人ごとにある。という意味だ。しかし、それはそれぞれが事実--実際に起きたことであるという意味なのだ。大勢がいろんな受け止め方をした、ということを説明しただけなのだ。

 

だから、ある事件について、現場に居合わせたたくさんの人が違った面を見て、別々の印象をもったにしても、事実がかわるわけでも、全体の真実が多数あるわけではない。個人の受け止め方が様々にあった。それでもって、真実がたくさんあるかのように説明する人がいるが、それは間違いなのだ。

 

 この時、『その人の真実』という言い方がなされる。が、これは正しくは、『その人の心情、受け止め方、印象』という意味で使われている。でもってして、この時の真実は、虚偽と真実という意味あいでまったくない。だから、この説明で、真実(と虚偽)が人ごとにたくさんある、というのは意味の取り違えなのだ。

 

現在の日本人は、真実のもう一つの意味、『本人の受け止め方』などで、多少混乱している。

 

真実(正しい事実)がたくさんあるわけではない。人ごとに真実(正しい物事)があり、大勢すると、大勢の事実があるわけではない。大勢を一括りにすると、大勢がそれぞれそのように感じたことは、真実だった。ということである。真実がたくさんあるわけではない。真実は一つなのだ。

 

 ちょっと説明が筆足らずだが。今日のまとめ。真実は、正しいという意味で使おう。『心情、受け止め方、印象』など個人ごとに違うものを、哲学的な論文で語るのは、やめよう。頭の悪さが露呈している。

 

真実は、物理世界の状態・性質、ある一面を正しく表したもの(大野は日本人、大野は天才、大野は地震予知をしていた)。事実は、物理世界の物事をそのまま表したもの(大野がこけた事件、大野のカエルが干からびていた事件、311)である。

 

2018年5月23日

 

2400万年後の我々。

あの世の外界のバチカンの者たちは、イエスの子。主は神ではなく、イエス。

 

2018年5月22日

 

精神論

 

 素直な人は、大人になってからも素直さを失わない。ひねくれない。歪まない、偏見をもたない。健全な社会観をもちつづける。明るい世界観を保てる。そうあるべきだ。

 それは、個々の概念に、歪みがないことで達成される。物事を正しく認識することの積み重ねでいたる境地だ。

 

 素直なまま、虚偽の考えや間違った疑念などもたないようにすることで、そのまま大人になることが望ましい。憎しみなどに偏ることは、よくない。

 

 次は正直について

 意味は心が素直で清らかなこと。正しいこと。嘘やごまかし、偽り、裏表がないこと。

 

 正直とは、自分にとっての真実を語ること、という意味が多い。正直者とは、いつでも真実、正しいことを語ろうとする者だ。真実でないことを語る、表現するとは、嘘・虚偽をつくことだ。

 

 正直度は、嘘をつかない割合である。100%正直であることが望ましい。

 

 感覚は、嘘をつかない。悟性、それは何かを区別する時は、わざと嘘を入れることはできる。が、たいてい車を見たと認識する。それを人に伝える時に、正直に話すと、自分に都合が悪いことになると、ごまかす。不正直になる。

 

 正直に話すかどうかは、それを話して、自分が不利になるか、正直に言うと悪口を言ったと思われないか、など対人コミュニケーションの力量と関係する。

 

 子供は、そもそもあまり知恵がないから、正直に話す。また相当に賢い人も、また正直に話す。嘘をつくデメリットをよく知っているからだ。

 

 両者の中間で、小知恵が働くひとは、時にごまかしたり、嘘をついたりして、正直に話さない。今の日本のメディアがフェイクニュース真っ盛りで、不正直者となっている。

 

 自分が不利になるから正直に話さない

 裁判では、自分が不利になる証言は強制されない。だから、一部、事実関係について口を閉ざす人がいる。私はこれはありだと思う。

 なぜ、にそうするか。罰が大きいと考えるからだ。現在の刑罰は往々にして、過大なのだ。不倫してもたいしたことではないのに、大きくスキャンダラスに騒ぎ立てる。万引きしても、なんだかきまり悪く、前科者とされる。そういう大きな罰を恐れて、人は黙ってしまう。

 

 神様の前では、話すとしても。隠せないので。神様は許すと思われている。というか、天国は生前の罪などはそんなに罰がひどくないという気がしている。

 

 ただそんなに大きな罰を受けないのに、なんでもかんでも話さない人はいる。これは愚か者の特徴だ。日本人は最近、なんでも隠したがる。それは単に、会話が少ない民族で、さらに現代文化なのだ。個人のプライバシーは詮索するものではない、とか勝手な言い分などまかり通っている。本当は、他人のことはなんでも詮索するのが、昔の日本人なのだ。村に話のネタが何もなかったから、一つ何かあると皆で話題にした。自分の家のことを知り尽くしたら、今度は隣家のこと、村の住民のこと。なんでも知りたがった。そして、おせっかいをやいた。誰にでも身の上話をしていた。日本人は正直だったのだ。そんな話をきいても、悪さしようとはしなかったし。みなに知られて、傷ついたと騒ぐメンタルの弱いのもいなかった。

 

 もし、適切な罰を受けるなら、罰が軽いなら、もつと犯人は気軽に話すようになるだろう。ただ、なんでもかんでも、すぐに隠すのがいる。人に話さないのがいる。こういうのは社交ベタなのだ。

 

不正直で、偽りでごまかすのもビジネスマンや人はいる。それは、嘘をつくことの結果をよく知らないことからそうなる。

 

 嘘をついて、物事をまるくおさめる。これは一時的にはうまくゆくとしても、一度ばれたら、また問題がぶり返される。ずっと、嘘がばれないことを心配しなくてはならない。これは、精神的につらいのだ。やり直すリスクがあるのは、あまり確実な方法ではない。ひきずることになる。

 

だから、嘘はつかないで、たとえ説明がやや複雑になっても、真実や事実を話す。すると、どんなことになっても、それが真正のことなら、それで決着がつく。かわりはしない。安心して、次の物事に進むことができる。

 

 嘘は必ずばれる。それを知ることも大事だ。賢い人は、自分が嘘をつかない。それは、他人の嘘はいつもバレバレだからだ。その人物の信用がなくなる。しかも、嘘で問題を解決したようにみせかけても、何も解決していない。嘘が通った時は、問題を一時的に凍結したことになる。嘘がばれたら、問題がぶりかえす。

 

 たいていの嘘を見抜けるから、しらじらしくみえる。嘘で安っぽくごまかすことはできず、そんなのは世の中は通用しないと、思う。だから、賢い人は嘘をつけないのだ。嘘がばれて、恥じをかくのが、瞬時に見えてしまうのだ。

 

それで正直にいつも話す。たとえ、不格好な論理でも、説明でも、嘘があるよりもましだと。そういう人たちにとっては、嘘つきは、軽薄で格好わるい。自分がそうはなりたくないのだ。

 

というわけで、賢い人もまた正直である。ただし自己弁護の時は、隠すことがある。嘘はつかない。

 

正直に話すと、他人を傷つけるから、言わないのはどうか?

 歌が下手とか、曲が伸びてないとか。他人の曲を聞いて、思うことはある。しかし、プロとしては下のほうで頑張っているのは知っている。そのくらいの歌では、中クラスまではあがれるのも知っている。アイドルはあまり歌うまくないので。だから、大きなことではない。

 頭の中で、分析する時は、正確に音学家の力量を把握しなくてはならない。そこに嘘があると、分析ミスとなり、あとで聞き直さなくてはならなくなる。

 ただそれを口にする時は、相手の受け止め方を考えて、できるだけ誤解されないような言い方にする。子供は正直に言うだろう。それは、正しい反応、正しい印象なら、悪くはない。子供のその感性は、信頼できるだろう。

 

 正直に言うとか言っても、悪口ばかりを言う人は、そもそもおかしいのである。良い点と悪い点を人は公平にみている。しかし、その中で、悪い面ばかり強く感じたから、そう言う。それは、正直=心が素直というよりも、相手の悪い面を特に、口悪く言うのが、習慣となっているのである。悪口ばかり言うと、毒舌家などは、そういう言い方しかできないと、思われる。これは、正直ではない。この正直は、素直さという意味だ。

 

 こういう人は、人をけなして、笑いをとるか、受けようとする歪んだ会話法を直さなくてはならない。相手の良い点も悪い点も、公平に心で感じ、気づく。その訓練をしなくてはならない。すると、うまくできるようになったら、正直に、相手のことを、正しく公平に評価できるようになるだろう。それを口にすると、適切に、私のことをみてくれていると、感謝されるはずだ。

 

 関東の話法に多いから、けなし癖がある人は、会話法を修正しなくてはいけない。大阪では、人を悪くいうと、すぐ張り倒されるので、そんな毒舌話法はよほどユーモアがないと、通用しない。

 

正直者がバカをみる。

 悪賢いやつがずるく立ち回って得をする。正直者は、それができないで、損をする。

 

 大人で正直なのは、人を疑わない子供のように純真な心の持ち主か、要は平均手きな大人ほどに社会の要領がわかってない者か、相当賢くて、嘘をつかないようにしている者かのどちらかだ。

 

 後者はけっして、バカを見ない。嘘をついて出し抜こうとする者を、とっちめることには長けているからだ。前者は、やや世間のワルの手口に鈍いから、よく騙される。他人の嘘を見抜けないのは、致命的だ。それは正直というよりも、鈍いとか、世間知らずと大阪で表現される。正直は良い性格だ。が、すぐに騙される人物は、愚かではあるが、良い人間ではないのだ。騙される性質は、悪い性格なのだ。

 福祉の制度は複雑で、ずる賢いやつだけがうまく得できる。ぼーっと簡単な説明をきいて、わずかの福祉しか受けられないのは、どちらかといえば、正直者ではない。頭が弱い者だ。こういう悪い性格を、良い性格の正直と同じように言うのは、どうかと思う。

 

 

2018年5月22日

 

2400万年後の我々

 

2018年5月21日

 

孤立の期間がそろそろ終わる。思えば、1993年4月にはじまり、終わるのが2018年6月末の予定。25年も1人にさせられた。その間に、得たものは数々にのぼる。

 

 しかし、社会人一般と比べて、少ない。主婦よりは多いとしても。絶対的な体験数が少ない。社会人が身につけているいくつかのノウハウも不足する。こんなんで大丈夫だろうか。

 

 私の専門は、圧倒的だ。神や霊、宇宙人の知識、霊能力も日本人では並大抵のレベルではない。これらはプロとして通用する水準にある。書かない、まとめてないだけのことで、本の十冊はいけるだろう。

 

 電波犯罪は、被害者の体験は豊富だろう。

 

 ただね。それだけなのだ。精神論がさえているくらいなのだ。それが、プロ級なのかが問われる。そのうち、どれがプロ級なのかが、大事なのだ。

 

つまらない話だ。職業としての能力(の水準)にこだわりすぎだ。そんな社会人ごっこは金儲けの知恵でしかない。稼いで、楽できるかの話だろう。話を戻して。

 

 この長い孤独の間。女性もいないし、友人もいない。職場もない。社会生活も少なめ。それでよく精神的に向上したものだ。1人で生活しながら、社会的責任も養った。責任を負わない身分なのに、そんな地位にあったかのように。

 

 そちらは今は。やっとそれらを得て、開眼するのだ。男の大人の概念の変更が行われた。一つの大事な点だ。これまで田舎者が、東北や北海道がそのモデルだった。社会性に問題があり、孤独な彼らから、人間関係のこつを私はまったく学ばないのだが、いちおう位置づけとしてはあったのだ。これが、変わった。新しく関西人が加わった。

 

 どういう仕掛けで私の男像が、守護霊にコントロールされていたのかはよくわからないが、おそらく子供をあやすのが上手で、何か親近感をもたない男は、理想モデルにならない、という私の隠された掟があったのだろう。それが原因か何かで、私は男の社交性を学ぼうとはしなかったのだ。

 

 それが一部解禁となった。これは、気づかなかったが守護霊のインチキの一つだ。私を停滞させる技の一つだ。ふつうの男性は、たくさんのモデルを見て、それらの良し悪しを区別しながら、男としての社交性の参考にする。私は今まで、男性を見て、真似る気にはならなかったのだ。どうして、そうコントロールされていたのかは、解かなくてはいけない。

 

 もうすぐ、私は守護霊のこういうこずるい停滞か、私を低下させるあらゆる『しばり』にも気づく予定だ。そんな技術があるのだ。

 

 冷静にならなくても、聞けばわかるので、楽になった。

 

 社会性のしばりは解けつつある。他にも女性、お金を稼ぐことも解禁されるだろう。しだいに私の能力のあらゆる制限をしだいに私は解き放つだろう。私の怒りを伴って。

 

 囲碁の才能も低く設定されているし、ひどいものだ。こういうことから私は守護霊を信用しないのだ。私は、ある約束された使命がある。しかし、その他の分をここまでひどく低い才能にするのはよくない。もっとあげられたはずだ。そこに不満がある。

 

 

2018年5月21日

 

デューク更家のウォキングレッスンを見物して、世界が少し明るくなった。運動を学ぶと、私は気分が快活になるのだ。私は健康のために、一定のスポーツの競争をさせ続けなくてはいけないようだ。

 

今日の精神論

 

 素直さだ。正直など。これは態度がひねくれていな様と辞書にある。飾り気ないさま、素朴という意味はあるが、後者はあまりここでは論じない。ひねくれていないとは、真実、事実をありのままにまっすぐに受け入れることを表す。素直さは、本人が受け入れる態度という面が強い。

 

正直は、嘘、偽り、ごまかしをしない性質をいう。真実を発言する時の態度だ。

 

まずは素直さ。これは、ひねくれていない様なのだ。人は自分の見たもの、聞いたことなど感覚は、素直に受け入れる。言葉や概念なども、子供は偏見なく、先入観なく、受け入れる。あとは命令などは、素直に聞くのは、従順に聞くという意味だ。

 

感覚、悟性(識別)、知性の3つのレベルで、素直さがある。その素直さとは、みたものをどのままありのままに受け入れるか。それを受け入れることに抵抗するのが、素直でない、ということ。ある映像があって、それは一般的には猫と区別できるとして、その猫と区別することを受け入れること。猫なのだけど、猫でないかなあ、犬だといいなあ、というのが素直でないこと。

 次に、知識の受け入れは、総理は一般的によい人で最高の人間がなる、というのがある。その知識は、素直に信じるかどうかなのだ。

 

 最初の感覚は、人はほぼ無条件に信じる。自分の感覚は素直に受け入れる。次に、悟性は、その映像や音が何を意味するか。それを素直に受け入れるか。これは、やや度合いが低くなる。たいていは、議論もなく、疑念もなく、豚は豚と受け入れる。知識は、これは受け入れるかどうかは、それが正しいかどうかによる。

 

 知識を受け入れる時は、2つの意味がある。そのまま素直に信じることはある。言葉を覚える時はそれでよい。が、その意味を含めて、自分の信条にしろ、というのは無条件に受け入れるかどうかもある。

 

 間違った考えを受け入れるのは、素直さをなくすことだ。例えば、万引きすることはよいことだ、というのを信じると、それは素直ではない人間のはじまりだ。知識を信じて、よい場合と悪い場合がある。知識をそのまま信じるのが、この場合は、必ずしも素直というわけではない。性格の面での素直さ、ということだ。素直にという形容詞の話ではない。

 

 この知識を信じる時が、曲者だ。偏見、極端な論。逆説など部分論。そういうものを信じるほどに、素直でなくなり、ひねくれてゆく。彼らは、そういう歪んだ知識を覚えるほどに、素直に物事を受け取らなくなる。大人は、歪んだ見方をするようになり、先入観で物事を判断して、一般的に正しく信じることをしなくなってゆく。素直でない大人になる。

 

素直でないのは、言葉を受け入れないことをいう。ひねくれている者は、うがった見方をする。ある人物は素直に理解するのに、ある人物はおかしな理解の仕方をするなど。

 

なぜ、素直に受け入れないのか?

  本人は、聞いたことが正しくないと思ったら、文字通りに受け取らない。ここが鍵である。子供は、大人の難しい考えについて、その良し悪しを考えるだけの知恵がないから、そのまま素直に受け取る。

 知恵をつけた大人は、上司の言葉の意味をよくよく考え、理解する。素直に聞くべきことは聞き、受け入れ難いものは、同意することに拒絶する。

 一般的には、正しいことをそのまま受け取ることが、素直で良い子とされる。この賢く良い子は、当然、間違っていることは、まったく受け入れない。底は、頑固にみえる。だが、ねひねくれてはいない。

 

 だいたいにおいて子供の感覚が正しいことがある。総理大臣はえらい人。日本のために、社会のためにすることはよいこと。このように、子供は全体像がよくみえている。これが、まずは素直な人の信条である。物事の一般的な意味で、考える人は、素直なのだ。大企業は、トヨタなどは丈夫な車をつくる優良企業。松下も便利な家電をたくさん作った、社会に必要な企業。

 

 こういう素直な社会観をもつ子供が、素直で、健康で健全な精神である。なお、これは健全な社会観でもあるので、大人になってからも、持ち続けなくてはいけない。素直な子供は、その世界観が明るく素晴らしいのだ。それで、日本では、素直さが求められる。

 

賢人は素直な子供と似た社会観になる

 上のような社会観をもって、明るく、世の中をよくしたいと純粋に思っていた子供は、大人になるに従い、様々な悪知恵や偏見、間違った考えに触れて、いつのまにかそれを信じるようになる。愚かな子供に多い。

 

 国家は悪だ。神などいない。総理大臣は自分の仲間の大企業だけを儲けさせる貪欲なやつだ。大企業は、労働者にひどい労働をさせて、儲けている。これは、左翼の思想にはまったケースだ。

 

 すると、社会は政府から悪党によって支配されて、人々は虐げられている。警察は権力の権化で、我々労働者をしめつけることしかしない。

 

 かなり現実とかむけ離れた、まるで国家に追跡されている犯罪者のような心魂になる。国に追われているという被害妄想も極まる。こんなにひねくれてしまうと、治療も施しようがない。

 

 ただ、一方で、共産理論の間違いを見抜き、大企業はやっぱり人々を豊かにするような商品をつくっている。労働者を虐げてはいない、とわかる人もいる。総理大臣は国家のためにいつも考えて、私利私欲などする暇もない。国は人々を守り、よりよい社会にするために、政治家は働いている。

 

 いくつかの偏見を聞いても、それらの偽りを見抜き、これら正しい意義・目的を見失わい人もいる。彼らは、おおらかで、社会を信頼して、国も健全に運営されていることを知り、それを喜び、総理大臣には敬意をもつ。大企業、企業で働いている人はうらやましく思うのだ。社会に貢献していることを誇りに思うのだ。

 

 大人になっても、チンケな理論に騙されず、正しい観点を保ちつづけた人たちである。彼らの社会観は、子供のように素朴ではなく、緻密だが、健全である。

 

 子供の頃は、ぼんやりと理解していたこと。大人になってからも、その概念の大枠、概観が偏ることない。国家・社会の概念が分化して、細部の知識を得て、体系が形成される。それでも、バランスよいものとなっている。

 

 ひねくれないためには、それぞれの歪んだ観点、偏見を排除するだけの賢さがいるのだ。部分論で、全体を見失わないほどの大局観を備えていなくてはいけないのだ。

 

 素直な子供が偏らず、大人になっても、健全さを失わない。様々に正しい理論を理解することで、歪みのない社会観が形成される。その時、それは素晴らしい精神となったのである。誤りを見抜き、正しいものだけを受け入れる。それは、賢さがなくてはできないのだ。

 

 素直なままに、大人になった人とは、こういう人をいう。

 

素直さとは、信条の歪曲のなさ度といえる。子供の素直さは、純粋さ。大人の素直さとは、偏見、歪み、誤り、間違いをどれだけ排除できたか。部分論にとらわれずに、全体性を見失なわなかったかを表す。

 

素直なまま、大きくなる大人が、優れた人格なのである。

 

 

2018年5月21日

 

2200万年後の我々。

 

2018年5月19日

 

 伊丹の昆陽池にゆく。鳥インフルでずっと閉鎖されていた。今は、ほとんど野鳥がいなかった。かわりに白鳥が放し飼いにされていた。昆陽池で飼っていたやつだ。

 

 ガラガラでも、白鳥とアヒルがとれたからよいかと思った。で、昆陽池のイオンで休憩していた。何かイベントをやっていた。見にゆくと、デューク更家氏がウォーキングのレッスンをしていた。ずっと一時間ほどみていた。

 

 彼は、大学ゼミ教師の佐藤光によく似た感じなので、親近感を感じるが、あまり話せないだろうとは思うのだ。これは類推である。私の周辺の人によく似た人は、私が最も親しい関係にある人より、話せないというケースが多いからだ。彼はかなりきさくに誰にでも話しかけてやっていた。特に女性に。なるほどスポーツジムの人はあーやるのか。

 

 私は見物。私はしないのだ。

 彼の歩き方やトレーニング法はどうやって開発できたのか興味があった。よい歩き方をするためのノウハウがたくさんもっているのだうけど、それはいくつか、わかった。彼は赤ん坊や子供の扱いがうまかった。50人以上いたと思うが、全員が彼の指示に従って、同じようにやるのが、不思議だった。脱落せずにやっているようなのが。スポーツのトレーニングは、あまり人は動きを止めることはないようだ。

 

 まあ面白かった。足を一歩ずつ歩幅を出して歩くのが、あのエジプト系のファィターに似ていることがわかった。彼は難波の歩き方に似て、足を大きく前に出す。早く前に歩くのには向いていると判明。かっこいいのだ。突進型の歩き方だ。横やバックに移動するのは弱い姿勢である。サッカー選手はしない歩行スタイルではある。

 

 足のつく位置が一直線にするというのがよいときっちり教えていた。歩行の常識なのか。私もかっこつける時には、足跡が一直線になるように歩くのだ。が、これも細かい解説、理論があるはずなのだ。

 姿勢をすぐによくする方法は、つま先を開いて、膝を曲げて、背を正すことのようだ。それが定番らしいとわかった。

 

 私は姿勢を正すのは10才の時にかなりのノウハウをかつてもっていた。最近、そのやる気力が失せていた。私はメガネをかけ、姿勢を矯正できないから、だんだん変になっている。それを直さなくてはいけない。が、意欲が沸かないのだ。要領もつかめないのだ。裸眼で運動(走り込み)すれば1-2ヶ月で直るが、それをしようという気にならないので。

 

 孤独になると、姿勢をよくする気にならなくなるのだ。自分を人にみせようとしないので。しかし、もうすぐデートするし、しなくてはいけないと思っていたのだ。やっと、自分を男らしくみせるやり方が、少しわかった。正しく、かっこよく歩く。そのノウハウに触れた。デート前に、男らしくならなくてはいけない。タイミングでやっと、彼のウォキングレッスンを見れたようだ。彼の大きな時計とか、いろいろおもしろい点はみつけた。

 

 私は、海外のセレブや人に尊敬される人の評価が高い。彼はモロッコで海外のモデルを教えているので、そういう人なのだ。なぜ、伊丹にいるかは謎だった。

 

 それから2時間ほど自転車をこいで家についた。ウォーキングレッスンをしていたら、多分、家に帰る体力なかっただろうと気づいた。家に帰ってから、姿勢がややよくなったのが見物の成果だ。私はアイススケートをテレビでずっと見て、美しい姿勢にするにはどうするかと考えてきた性質だ。運動は研究するのだ。歩行も知らないわけではないのだ。私が10才頃にしていたベストな歩行とは違うが、彼はかっこよいスタイルだとはわかった。いくつかの謎が解けた。

 

 今日はご機嫌である。

 

 それ以外にも、重要なことが一つわかったのだ。

 

 

 

2018年5月18日

 

昨日までの確認。

 

人は理性存在を対等にみる。

 理性存在とは、理性をもつことだ。簡単にいうと、ディープ学習で、パターン認知ができる生物のことかもしれない。ここは理性の定義があいまいになる。データからパターン認識ができるAIはそういう意味では、理性である。意志もなく、生きることもしない理性である。情報処理で物を区別できることが、理性の要件だと思う。その情報分析回路をもつのが、理性かも。

 

なお、この時、理性はより完全なものが人間で、より不完全なものが昆虫などだ。木々も生きる上での反射機構があるから、理性の断片、薄い薄い理性、弱い弱い理性とみなすこともある。石は、理性からもっとも遠い物体となる。局部的といえる。

 

 対等とは、通じ合える相手ということだ。犬と人間が通じ会えるのは、理性をもつからだという考えである。基本的には、PCが通信相手をコンピューターと認める行為と同じ。相手も理性ならば、情報のやりとりができる。相手が部分的でも、理性をもっている、と認めることだ。相手も同じ理性存在、もしくは理性存在のはしくれ(理性を不完全にもつ)とみなせる。

 

 これは、理性(自分は理性である)をもつ段階の哲学か、社会性(他の理性を理解する人)をテーマにする人の観点と同一である。

 

これが信頼の基礎、もしくは原点である。

 具体的には、相手は理性存在として、行動するだろう、と相手を信じることだ。

 

 信頼の行動とは

 

 相手を信頼できる相手とみなしたら、人は何をするか?

 相手に話す。言葉が通じる相手として、何か情報を与える。ものを渡す。与えた物の意味を相手は理解すると思っているなど人同士が交流する。

 

 交流とは、会話、ものを渡すなどだ。隣の太陽系の星の地表に、人間らしい生物がいた。相手は理性存在だ。コミュケーションをとりたい。まずは日本語で話しかけてみた。相手は首をかしげた。次に、我々の星のけん玉を与えた。相手はそれを受け取ってから、落とした。

 

 人の交流は、個別には通信である。物を渡すのは物流や流通として、考える人もいる。

 

理性存在は千差万別だ。理性存在という言い方は面倒なので、もっとよく使われる言い回しにかえる。日本人、外国人、宇宙人。原始人。猿、犬、魚もいる。頭のよさはピンきりだ。上が宇宙人や天国の霊で、下が下等生物か、犬など小動物だ。

 

人間は知性が高い。より下の知性者とは原則的には交流できる。犬と会話するノウハウさえみつけたら可能。上の知性存在とは、まぁできるだろう。

 

 まぁここまでで基礎は終わりとする。

 

2018年5月18日

 

2000万年後の我々と交信

 

2018年5月17日

 

今日の精神論は、その前に、読まなくては。

 

相手を信頼すること。これは、相手を同じ理性をもつ生物だとみなし、扱うことが基本となる。

 

理性をもつ動物には、猿やカラス、犬などがいる。現在の学問では、彼らが『論理回路』をもっていると証明されてないみたいだが、彼らが理性をもつのは、ごくごく当たり前のことだ。

 

で、野鳥をふつうは友達としない。が、人間を友人にする。その違いは何か?

 

 人は生物=理性をもつ生き物として鳥をみているが、なぜ信頼する相手、友人とはみなさないか。鳥をペットにして、飼う人はいる。鳥にとって、人は親にはなれるのだ。そんなペットの鳥はよく人を信頼する。しているかどうかはともかく、人は無害で餌をくれる生き物とみなす。

 

 ペット犬も同じだが、ペットを友と考える人はいる。鳥は友になれなくて、なぜ犬は友になるか? あまり難しく考えない。私の考えでは、友達は自分を助けてくれる。自分のために何かしてくれる。犬も時に、飼い主のことを気遣ってくれ、助けることもある。だから、犬は時に返してもらうので、友達。鳥はそんなことを一切しないから、友達でない。

 

 自分のことがわかり、助けてくれるのを友=信頼できる生き物とみなすようだ。人とは限らない。これは、何かというと、人は健康に生きてゆくもの。苦しくなったら、その苦痛を取り除かなくてはいけない。そう考えて、自分のために行動してくれる者を、友と信頼するようだ。

 

人間の条件がある。あいつは人間だ。そう呼ばれる人物は、冷酷無比に人を殺人したりする者ではなく、人に親切にして、困った人に気づいて、何かよくしてやれる者である。たとえ、犬や猫でも、苦しみを理解して、人を生かすために何かするという行動や方針、理念をもっていると、人は人と同一とみなすのである。

 

 ここに書いているのは、信頼する相手の条件なのだ。それは知性、理性をもつ生き物であること。さらに、自分が苦しい時は気づき、助けるために行動をする能力があるとみとめられることだ。

 

 脳がある程度発達した動物には、理性がある。が、自分を助けてくれるほど、私に関わってくれるのは、かなり密接な関係にないといけない。そうなって、はじめて信頼する、というのがこれまでの議論だ。

 

 次に、限定的に信頼するという話。相手が、人間であり、倫理をわきまえている。そんなビジネスマンたちの世界はまたあとで。

 

 その前に、PCの話。PCは、PC間の通信の規格が同一でないと、通信ではない。これは人間では言語が同じということをあらわす。言語が同じなら、相手もPC(理性をもつ存在)なら、通信のやりとりをする。人なら会話をかわすということ。

 

 最初の設定、同じ言葉を使う、というのが、PCでは相手を認知する方法なのだ。言葉を使うということだけで、理性をもつということは、クリアする。これが、信頼のもっとも基礎的なことなのだ。すべては、相手が理性をもつ存在、ということが、信頼なのだ。

 

宇宙人は、言葉が違うが、彼らは理性をもつ。だから、信頼できる。ここから、会話や物々交換などやりとりがはじまる。理性を相手がもつということが、コミュニケーションの条件となる。人間、社会関係の基礎となる。

 

理性をもつだけで、社会の一員とみなされる。人とみなされる。話せる相手とみなされる。言語の違いはやがてクリアできる問題だ。だから、鳥やイルカ、猿、チンパンジーとも、言語さえクリアすると、彼らは理性をもつので、理解しあえるはずなのだ。

 

 ここで何がいいたのか?

 『理性をもつこと』。理性をもつ者同士がつながれる理由だ。同じ情報処理をする。認知や論理回路はほぼ同一で、生物間にあまり差異はないのだ。ここはやがて解明されるだろう。AIの理論によって、純粋に認知に必要な情報処理の仕方が明らかになるはずだ。

 その情報処理の仕方は、鳥や犬、猫、猿、人にほぼ共通するであろうこともいずれ解明されるはずなのだ。若干の差異は大きなものではない。それで、生物は脳の基礎が同一。同じような情報処理法を使うので、お互いと通信(コミュニケーション)が容易にできるはずと、いずれ思われるはずだ。

 

 理性をもつ者どうしだから、交流できる、という話である。

 

 理性者は対等であること。 生物は、理性存在だと理解することが大事である。七次元の精神か8次元の観点である。

 

2018年5月17日

 

1900万年後の我々。

2018年5月16日

 

 

信じることについて

 これまで、人が信じる行為について厳密に説明した。言葉を信じる。人を信じる。これは一方が他人を信じる方法についてのことだ。それは1、それに嘘はなく、真実である、という意味と、その2--相手の実力程度に信じる、というものだった。特に、この2つめを理解していない人が多いので強調した。

 

今日、説明するのは、相手を信頼するということについて。

 愛は人間の上下の関係だ。与える側と受け取る側がある。教える側と教えられる側がいる。愛が対等な時の関係を今回は、語るつもりだ。信じる時は、対等な関係とする。そういう意味での信頼である。信頼という言い方は、正確ではなく、正しくは相手を信じるという人間関係である。

 

 お互いを信じているのは、対等な友達関係のようなものだ。夫婦でも、恋人どうしでもよい。親子ではない。教師と生徒の関係でもない。

 

 人間関係がある。これは、友達になろうよ。いいよ。という両者の同意に必ずしももとづかない。いつも一緒に遊んでいると、友達だ。人間関係の具体的な行為が優先する。

 

 好きと告白して、つきあって、いいよとお互いを了承しないと、恋愛関係にならないと思い込むのは、愚である。具体的に、友人同士がすることをしていると、友人である。実質な友人としての行為あると、両者の認識、友人関係の合意、取り決め、契約などなくてよい。

 

 これは私は最近、友達がいないので、友達作り方を再確認した。

 

 友人関係は対等だ。が、具体的に、相手を助けたり、助けられたりしている時は、愛と同じで、個別に上下が生じる。教える側と教えられる側。これは上下があるとする。あとで厳密に考えるとしても。

 一緒に、活動する時は、一緒に映画を見るなどする時は、多くは上下がない。話す時も多くはそうだ。ここもあとで厳密に考える。

 

 この対等な関係で、相手を信じるとは何か?

 相手が同じ知性体で、お互いに物事(物々交換、言葉)をやり取りできる、ということを認めているのだ。例えば、外国語を話す人とは、言葉が通じなくて、相手と声による会話ができない。相手を話ができる相手とは認めない。年齢差がありすぎて、話が通じない相手を、話し相手と認めない。

 また石ころは、物を与えても受け取れないし、私の言葉を理解しないので、同じ生き物とは認めない。石ころとは、交流できないと考える。

 

 相手を信じるとは、相手が生物で、知的で、人間のように判断できると認めることが、第一なのだ。それで、物や会話のやりとりができる存在だと、認識することになる。それがあってはじめて、人同士の物々交換、会話のやり取りが可能となる。

 

 人間関係とは、相手を何か物や言葉など情報をやりとりできる人間(動物、存在)と認めることが第一歩だ。

 

ここからいろいろなことがみえてくる。

 アカは電波犯罪の話題を被害者にはけっしてしない。つまり、私にとって、アカは大事な話ができない人間とみなすことになる。アカとの人間関係は、まずそれで制限される。いや、アカだけではなく、電波犯罪を私から隠そうとするすべての人間は、同様の扱いを私から受ける。

 

 次に、アカとは物のやりとりはできない。犯罪者と関係をもつことは、よくないからだ。またアカ仲間とは親しくできない。いつ、アカの指示に従って、私に悪さするかしれないからだ。できるだけ関係をもたないようにする。このようにして、私は、アカ仲間を遠ざけた。

 

 私の人間関係が狭くなったのは、このように、私の周囲にいる多くの人間のうち、アカ仲間を自由に情報や物のやりとりできる存在とは、認定しなかったことが、原因となる。

 

 人間関係の断絶を解くには、この制限を一定の範囲で解除することが求められる。味方となる人物と目星をつけたら、どこでも自由に話しかけることだ。物の交換をしたり、いろいろ何かしてやってもよいだろう。友人や知人のように。

 

 彼らは、一部、会話できない内容はあるが、多くの面で人間関係を保てるとみなすのである。方針は、このように変更してみよう。私に悪さしない人物はいるのだ。

 

 友好関係ある人物と認め、そのようにふるまってみよう。 

 

今日はおしまい。

 

今日の教訓

 相手との交流は、相手を認めた範囲でしかできない。禁句、会話内容に制限をつけ、物々交換のそれに制限すると、会話などしなくなってゆく。

 

2018年5月15日

 

1900万年後の我々、左翼のボスの1人。新参霊とあう。彼は、幽霊界においては反乱しない限り、放置する。

 

2018年5月15日

 

私は、女性も人間関係も断って、得たものがある。それは宇宙中心への探求。高い成長。それは先駆者としての役割だ。それをもって、これまでの不幸と代替する。それで、今まで得られなかった分とする。

 

 私のような大きな使命をもつ者たちは、他星にいるが、途中で命を落としたりするのだ。私は長く、危険な生活をして、慎重に行動することを覚えた。それで、それら危機を回避できる。それで、よしとすべきかもしれない。

 

 私が様々な点で、社会人が身につけている才能がないとしても、それはごくごく些細なことだ。大学出の人が就職して、数年で身につけるものに、どれほどの技能があるだろうか。私に欠けているのはそういうものだ。

 

 それ以外は、様々な便利なものを生み出した。共同研究なら、この2.5倍は作り出せただろう。今後の幸福が約束されている。

 

 

2018年5月15日

 

電波犯罪者というのは、倫理観がなく、困る。どういう育てられ方をしたのかが、よく出る。アカに言われたら、なんでも悪さするとはどこまで非人間的なのか。かなり。

 

 イエスの子は、電波犯罪者の仲間なのだ。これは間違いない。音声送信では。ここに記録する。やがて、この件で追求されることを確信する。彼はこの過ちにより、永久に義人たりえないのだ。彼は罪を背負うのである。守護霊の計画によって。この証言は消えはしない。彼は私の家のすぐ側のアカ基地まで来たと音声送信を受けている。

 

2018年5月15日

 

今日の精神理論

 哲学を語れない者は、信念を正しく語れない。科学時代にあっては、何もかも正確に、間違いなく、語らなくてはならない。そのために、哲学=在る種の信条のことは、厳密に定められる。

 

信じる

 これには、誰かの言葉を信じる、というのもある。これはその人の発言を真だと思うこと。嘘がないと信じることだ。

 これは部分的に信じるという意味だ。たいてい人を信じる時は相手の実力、できる程度、真実を言える程度によって、彼をより強く信じたり、弱く信じたり、常に変動する。

 人の発言を百パーセント、嘘がないと信じる時は、もう一つの信じ方(真実をいえる程度にしか信じない)は、保留する。彼の他の行動や発言の真実度はまったく考えない。

 ある人の特定の言葉を百%真実だという信じ方は、その人の信頼性が落ちている時に、つづけるのがかなり厳しくなる。こっそり女友達と会っていないと言う夫の言葉を信じると決めたとしよう。浮気の証拠がたくさん出てきたら、その夫の言葉を信じるのは、辛くなる。

 

 

 

 今日は信頼の話。

 

 信頼するというのは、ある種の行為をやってくれると、信じること。友達を信じるのは、相手は友達として自分に対応してくれると、信じること。具体的には、嘘をつかない、遊んでくれる、話し相手になる、一緒に活動する、気が合う。他にも友情をもつ同士がすることを、相手がしてくれると思うこと。彼が自分を好きで、一緒に活動しようと思っていると信じることだ。これは対等な関係だ。

 

 部下として信頼するとは、その人が部下として、行動すること。部下としてその役職を努めてくれることなどだ。これは上下の関係だ。

 

人間関係の信頼は、合意によってつながっているものが多い。

 

もっと簡単に、人を信頼するとは、彼はこれこれをする人物とみている、ということだ。これは両者はまだ人間関係をもっていない。私は首相を信頼している。大統領を信頼している。と一歩的にいえるものだ。

 

人間関係になる場合は、こういう一方的な思いではなく、合意を結ぶことが多い。友達になってくれ。いいよ。と。君は今日から私の家族だ。そうだね。と。ただはっきりと、お互いに人間関係をもつことを確認しないこともある。

 

一度関係を築くと、モノものの交換、会話などが行われる。店と客の関係。親子の関係。夫婦の関係。友達関係。

 

こちらの話は、またあとで。

 

人を信じる時、これは一方的なものの話は、どうなる?

 君の思想を信じるよ。君の宗教を信じるよ。君の言葉を信じるよ。これらは、部分的に信じるということである。こちらは固定的なものだ。

 

 君の全体を信じるよ。君を信じるよ。というのは全体的なもので、この時は、本人の実力を信じていることになる。実力以上を信じることもなく、それ以下を信じることもなされない。

 実力は変動するので、これは変動的、流動的なものなのだ。信じる内容は、君しだいで、増えたり、減ったりする。

 サッカー選手が、調子が明らかに悪いが、『俺を信用しろ。パスをくれ。』と言っても、シュートが入りそうにないから、パスしない。それでよいのだ。が、彼は元気モリモリで何かやってくれそうな時、『俺を信頼して、パスをくれ。』と言ったら、点がとれそうなので、パスする。チームメイトの彼への信頼は変わりないが、日々、信用度はかわるのである。

 

信頼、信じること、信用は、固定されたものと、流動的なものがある。

 

 では、ある教祖を信じろ、と言われたら、どうするのがよいか?

 この時、『ふつうに人を信じるように、その人の才能の程度を見計らって、その能力程度のことしかできない。それ以上には信じないぞ。間違いを信じる気はさらさらない。』と賢い人は思うだろう。

 だが、宗教では往々にして、教祖を信じろと言われた時は、全ての発言を丸呑みして、真実と思え、という強制であることが多いのだ。こういう指導は、従わなくてよい。正しくないことまで、無理して信じるのは、間違いを信じることで、愚かである。

 教祖を信じろと言われても、信じられる程度にしか、信じなくてよい。それ以上はわからないか、信じるに足りないということだからだ。

 わからないことでも、教祖は賢いから、おそらく、多分、教祖の言うことは正しいだろう。だから、信じる、というのはありだ。専門家の言うことは、よくわからない時がある。が、専門家だから詳しく知っていて、正しいことを言っただろうと信頼して、信じることはよくある。こんな時は、専門家の過去の言動などをチェックして、信用の有無を調べて、正確を期す。

 

2018年5月15日

 

1800万年後の我々

 

2018年5月14日

 

今日の精神理論

 

信頼--人と人を信じることを言う。まずは、信じるとは何かを考える。

 

信じるとは、何か周囲の環境はこうなっている、と思うところがあること。それ(信じる内容)が真実である、正しいことと思うこと。この2つは、大きく違うのである。後者は、正しいというよりも、あなたの真実=能力、実力を信じるという意味あいである。この2つの違いは、前者は発言や行動などで嘘をついていないという一つの真実について、真である(正しい)とおもっていること。後者は、本人の実力、能力など彼の真実の姿、彼の真実の全体=状態、実力を真である(そうである)と思っていることだ。

 

信じるは、他人に対して、使うよりもまずは、自分自身の感覚などに使う。それが基本だ。他人に対して、信じると使うのは応用である。まずは、感覚、悟性、知性、理性などがある。自分が見たものは、正しくそうなっていると思う時に、目を信頼している。自分が目にしたものが、現実と違うと、目が悪いということになる。目で見るものは、ほぼ正しいのだ。

 

次に、耳が聞いたものも、その音を信じることとは、その音はその時に聞いた音に間違いはないということ。このように感覚は、ほとんど信じる。ただし、音は幻聴があり、空気を伝わって聞いたものの他に、音声送信で聞いたもの、霊感で聞いたものなどがある。この時も、聞いたものが、音声送信だと信じる、霊聴だと信じる、外の音だと信じると区別することで、信頼をあげることができる。

 もし、区別しないと、幻聴が激しい人は、それが外で鳴った音だと、何割かは信じられなくなる。

 

次は、悟性。これは犬の映像を犬と区別することだ。音は、「あーいー」という音をアイと聞きわけることだ。能力により、見分けられ、聞き分けられる程度は異なる。

 稀に、蛾のような蝶がいる。蛾がいると思っても、真実は蝶だったりする。猫と犬をよく見間違える人の話は、信頼性が低くなる。この時、何割間違えるか。何割正しいことを言うか。それが信頼性となる。ほとんど90%見分けられる人は、9割信頼できる。

 

信頼は、このように真偽の区別を何割できるか、ということになる。信じるも同じで、5割信じる、2割信じると割合で考えられる。

 

このようにして、人は、自分自身の機能の信頼度を通して、信じるということを学ぶ。そして、他人がどの程度、信じられるかを判断することになる。他人のほうが行動と結果がわかりやすいから、それを通して、信じるということを学ぶ時もある。が、赤ん坊は他人のことを考える余裕がなく、自分が見たものが真実かどうかを触って確かめる。それを通して、「信じる」という概念の基礎を得る。

 

人を信じる時は、これら相手の感覚、悟性、知性、理性、社会性などの総合的に判断して、信頼の程度が決まる。

 

学校の先生を信じるという時は、教科で教える内容に、嘘はない、と信じることだ。彼の言動で、精神論で間違いがないとか信じることではない。

 

2割いつも嘘をつく男を信じるときは、彼の発言の2割は嘘だと信じることになる。彼の話の信頼は、8割となる。もっと細かく考える。彼が感じたものは、正しく表現する場合もある。彼は見たものを写真にとって、そのまま細工せずに、みせてくれる。その写真は偽りがないから、100%信じられる。

彼はチェスがうまくて、チェスに関しては嘘をつかないとしよう。彼のチェスに関するものは、彼の能力程度に信用できる。

 

 このように、信頼、信用は、分野ごとに細かく信用度をわけることができる。

 

もし、デタラメばかりを言うフェイクニュースメディアがあるとする。そのテレビ局の3割信じたらどうなるか?

 それは99%間違いのものを、30%しか誤っていないとみなすことだから、69%の間違いを信じてしまうことになる。そのメディアが言ったことを信じると、内容の7割分はバカになるわけだ。

 

一般的に「人を信じる」という時には、彼がすべて正しい、という意味があると思いがちだが、そんな意味はない。期待するとか、そんな意味らしい。

 

 他人が全て正しい、つまりすべて完璧にこなしているとは信じていない。それは、嘘となる。というのは、他人が算数で50点しかとれないのに、いつも満点をとると信じるのは、間違いで、彼の嘘を信じていることになる。彼を信じていることにならない。

 

 子供が大人なみによくできる、と信じるのは間違いだ。子どもが赤ん坊程度に何もできないと信じるのも、誤りだ。子供は子供程度にしかできないと信じるのが正しい。

 

 何を間違えているかというと、彼は「正しい」=「真実を言っている」というのを短絡的に結びつけたことだ。彼が真実を言う、行動する。そうすると信じるということは、全て彼が正しいこと(完璧に正しく行うこと)と信じることではない。彼は才能以上に正しいことはできない。

 

 正しいの意味の履き違えである。正しい=嘘はない、と使っていたのが、いつのまにか、正しい=間違いはない、と変わっている。両者の意味するところは違うのだが、それを気づけなかったミスである。

 

 子供の言うことは、子供の間違いを含めて信じなくてはいけない。子供なので、いつも何か間違う。それを全部信じるとは、彼の言うことを全部、真に受ける、真実だと思うということではない。彼は、百メートル18秒で走るのに、彼が完璧な男で10秒未満で走ると思うようなことだ。それは、子供の真実ではなく、子供の虚像である。つまり、嘘を信じている。これは、彼の真実を信じていることにはならない。

 

 あなたのことを最も信じているのは、最愛の人である。彼女は、あなたがすべて正しく、真実を行うとは信じていない。あなたの才覚程度のことしかしないと信じている。その上で、何か良きことをしようと、挑戦している、努力している、がんばっている、もがいていると、理解している。

 つまり、信じるとは、全てが正しくできると信じることではないのだ。この場合は、期待しているという意味ではある。期待するとは、完璧にこなすことではなく、ある成果を出せる、あることをできるということだ。それが真であればよい。

 

母親は子供を一番信じているが、子供のやることの全部が正しいという信じ方をしているわけではない。いくつか子供だから、間違える。つまり、子供の能力程度のことしかできないと、まずは信じている。その上で、子供はよいことをしようとしている。自分を向上させようとしたり、何か頑張っていると信じる、という意味だ。

 

 

 信じるの反対は疑うと思うのは違うと思う。信じるの反対は信じていないである。あなたの言葉を信じないのは、それが嘘であると思うことなのだ。

 

以下は別記に。

 

疑うとは、虚偽であるかを検証することだ。真実か虚偽かを見極めることの一種だ。真実よりも、虚偽の可能性が高いと判断した時に、使う。だから、自分の言葉が、虚偽かもしれないと疑われたのはショックかもしれない。

 

が、信じるかどうかを決めるプロセスなのだ。だから、信じる前にするのが、疑うということだ。彼の言葉「元彼がいまだ君を愛している。〜(元彼とやり直さないか?)」を疑ったあとに、その言葉が真実なら信じる。虚偽なら、信じないと決められる。

 

他人の言葉が真実かどうかは誰もが検証する。それに虚偽の可能性が高いと、真実性が疑問であるとひっかかったことに、しよっくを受けても、別にあまり気をつけることはない。誰でも、他人の言葉は虚偽かを常に、検証しているのだから。

 

疑うの他に、検証する、などある。だから、「疑う」と言われても、そんなに気にしないことだ。君の言葉が嘘に感じられると言われたのと同じだが、どうぞ検証してください。と返すとすむ。

 

今回のまとめ

 

 信じるとは、ある人物の真偽の程度に、信じること。能力を信じること。彼の言動は、すべて真実、正しいとみなすのは、特別な場合に使う。

 

彼が素直で嘘をつく人でないとは、本人が感じたありのままを言っているということだ。それが本人とって、真実であれば、真実の人である。が、錯覚や誤り、認知ミス、知性の不足などあまり正しいことをいえない人を信じる時は、彼の発言は本人にとって、真実であるとしても、それがそのまま正しいことにはならない。それでその人は、信用はされないで、多くの人は信じない。

 

真実を正直に言う人を信じる、正しいことを言う人を信じる。この2つは、決定的に違うのである。この違いが、往々にに生活の場面で起きる。

 

嘘をついていないと信じる場合は、真実を正直に言う人だと信じる。この時は、嘘をつかないと信じられる。

 

その人を信じるとは、正しいことを信じる言える、正しく行動できる度合い(能力)で、信じるという意味となる。子供を信じる時は、子供の才能程度に信じてあげるものだ。すべて完璧にこなす子供がいると信じない。

 

 ふつうは、その人の信用--才能、正しいことを言える程度に信じるのである。嘘の言う確率も、だいたい人ごとに決まっている。アカは、人前ではたいてい嘘をつく。彼らの信用度は0-20%。善人は8割本当のことを言う。8割り程度だ。

 

2018年5月14日

 

箕面の滝から、高山に抜けて、帰ってきた。疲れた。はじめからその予定なら、いろいろ寄らなかったのだけど、それがわからなかったために、水月公園など無駄にたくさん寄って、疲れた。

 

不思議なことに箕面の滝に行った時に出会うのが、いつも同じ。何度かよくみかけるのばかり。あそこも観光地だけど、来るのは定番だから。

 

 肝心の写真は、構図がわかってなくて、失敗多数。違う構図もとっておけばよかったと気づく。一番よかったのは、笑顔の私。今まで撮れなかった顔。守護を元に戻した(合体霊装置の臨時を使う回数を減らしている)ことの成果が出ている。

 

 これまで、守護のみにすると失敗を連続していたが、それをしなくてもあまりへましなくなった。それで臨時守護はやってない。ただし、一週間もすると、地上霊界の管理しなかったことで、いろいろ問題が生じる。

 

今は、守護の体制を戻してもよい、という感じが強くある。おかしいと思っていたのだ。やっと通常にするようだ。

 

私は芸能界は、女性とはかなり親しくなれるようだ。男性は、まぁふつうに。

 

 

2018年5月12日

 

最近は、私らしい振る舞いをしなくてはいけないから、臨時守護をつけないようにしている。それをすると透視は落ち、事故しやすくなり、言葉・会話力は下がり、ユーレー界の状況が把握できないと生活の低下が目に見えていたから、避けていた。が、運動神経はあがり、自分らしさは戻る効能がある。

 

私のことを知る者たちとつきあいが始まるので、10年余はおとなしくしていたが、これからは本気を出すことにした。

 

この方法にすると、10次元の見地を持ちやすくなる。より高い見地なのだ。今までは、中堅がもつような見地を鍛えていた。この10次元の見地には欠点があって、薄いのだ。原因はいずれつきとめる。

 

2018年5月12日

 

今日の精神論

 前回は、欲望とは、欲求の歪み、願望の歪みであると。その歪みは正すことができる。歪みは限定され、無限ではない、というお話。欲求の特殊な形とする。

 

 欲望の次は? 欲求の次は?

 

 欲求の段階説

 欲求を分類する。最初は、生きるための欲求。マズローは生理的欲求と名付けた。食欲、飢えと飲みたい、痛みを和らげる欲求、寒さや暑さをなくす欲求。睡眠欲、排泄欲などがこれにあたる。

 

 これを満たすと、体は生きていける。

 

 マズローの分類は、大雑把すぎる。次は、感覚的な欲求があるのだ。その次が、運動神経に関する欲求。そして、理性的な欲求。そして、社会的な欲求。それから空間認識の欲求、二次元(絵、写真)などの認識の欲求、一次元(文学、音楽など)とつづく。

 

 感覚的な欲求とは何か?

 何だろう。快適であること。かっこよくあること。美しいものをみたい欲求? 仏教では108の煩悩があるとされる。煩悩は欲のことではない。煩悩は欲望など、不適切な願望を意味する。一つの欲求でも、2-5の煩悩はあるので。

 

 欲求の数は、基本は、発達心理の段階の数なので、50-60くらいではないか?

 

もっと適切に分類しよう。発達心理の分類にあわせる。

 

0-3の欲求

3-6才の欲求

6-9才の欲求

 

6-9才は、外の世界を感じるという欲求だ。具体的には何か?

 

社会的な欲求の時には、社会を知り、社会的な技能を身につけるという欲求がある。人とのコミュニケーション。人の動かし方、社会の作り方を学ぶ。社会的な欲求は、地位を得たい、社会的に認められるなどだ。テーマは、欲求の形とは、やや違う趣だ。

 

テーマから、欲求を見つけ出す方法を考える。

24-27才の段階では、テーマは二次元だ。絵画、写真などを見る術を学ぶ。三次元を二次元に変換するこつなどを学ぶ。この時、絵心がわかる。絵を描くことを心から理解する。2次元的な美しさを理解する。

 

私の段階は48才で耳になった。45-47才は目だった。目では目の機能などを勉強して、カメラの写真趣味にたどりついた。よく撮ること。いい写真をとること。それが欲求で、目指すものとなる。目を正しく動かすなどの才能も当然のことだが、それは私が身につける技能からは、意図的に外されていたが、それが正しいものだろう。目をうまく上手に使えるようになることが、欲求だろう。

 

テーマとなる対象を使いこなす、理解する、その技能を高めることが、段階の欲求となる。

 

すると、感覚の段階では鋭敏に正しく感じ取れることになる。わかりにくい。あらゆることを皮膚、目、耳などで正しく感じ取れる、ということだろう。

 

テーマは、耳、目など個別の機能もある。が、最初のころは大まかなものとなる。感覚、理性、悟性、運動神経?(運動認知)。ということは、全て認知に関わるから、感覚は感覚の認知なのか?

 

発達心理の方向にゆくと、頭を使うので、修正しよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2018年5月12日

 

今日は、頭痛。最近は、毒が昼に排出する便からも感じられる。すぐに口からも排出していたような感じもあるし、すぐに外に出る毒らしい。鎮痛薬をのみ、昼には回復する。

 

疑惑は深まった、というのは主観的な印象で、疑惑はなくなったというのが客観的な結果だろう。そして、本心は、疑惑などないが、政府にわずかな非がみつからないかと騒いでみた、ということだ。

 

2018年5月12日

 1700万年後の我々 

 

home
inserted by FC2 system