日記 2018年3月21日〜 *月*日

2018年4月11日

 

今日は自分の感慨を語らねば。

 

政治でも語るか

 自民党の政治は、量的緩和で円安にした。物価目標は口実で、こういうのは戦略家の安倍さんらしい。円安で電器の業績回復。景気もよくなり、人手不足に。

 機密保護法は一つ前進。スパイ防止法までゆけたら御の字。安保改定も成果。集団的自衛権を限定的に認めたのも、政府解釈の進歩。憲法改正までは、辛抱だ。

 安倍さんは戦後の混乱期を除いて、最も仕事をした男となった。

 

 世界政治について

 まずはトランプ氏は、バックに共和党がいる。世界と民主党の容共を食い止め、世界を健全化しつつある。ただ、経済的にうまくやるという条件があるから、中国経済を安定させつつ(悪化させるとアメリカの景気が悪くなる)、中国を民主化するよう圧力をかけると、という難しいことをこなしている。それが昨今の、中国との貿易戦争だ。

 独裁共産帝国のまま中国が経済力をつけるのは、防がなくてはならない。中国を民主化させる。それがアメリカや世界の至上命題になりつつある。

 その切り札が、習近平氏。彼にまかせていたら、勝手に共産体制ががたがたになる。そういう算段で進んでいる。習近平が共産の体制をどうやってつぶすのか? 彼は書記長を永年制にしたし、毛沢東を再び称賛しているし、制度疲労がどんどんかさむようにしているのでは? 実は私も詳しいことはわかってない。

 

習近平が破壊者の小沢氏とそっくりだから、同じ才能があるのだろうと思ったのだ。小沢氏は、自民党と日本を傾かせた。彼はお金と権限を集めたが、政策を語れなかった。良き政策はできなかった。

 習近平はどうか? 習近平は経済はなんとかできるようだ。今のところ、中国は伸びている。が、彼はおそらく共産の独裁体制を持続させることはできないだろう。きっと。

 

トランプ大統領は人格者のようにはみえない。が、国内経済はうまくやっているという話だ。外交的には素晴らしい。中国と北朝鮮を敵に回し、ベネズエラを封じ込めた。ロシアには直接言わないが、原油安にして、打撃を与えている。これらは、テロを誘発するべく画策する国だ。イランにも、制裁を加えている。トランプは、オバマが悪化させた世界秩序を、テロ国家、テロ支援国家の躍進を阻止して、急速に回復させた。

 

トランプの中国との貿易戦争は、中国のこのまま拡大することを警告している。これら圧力で共産体制をひっくり返すことがすぐにはできないだろうが、中国国内の不満は高まるという効果はあるはずだ。

 

トランプは台湾を大事にする。これも感激だ。オバマが台湾を軽視して、台湾は紛争地域になりかけていたのだ。それをトランプは終わらせて、あの地域の安定を取り戻した。南沙諸島は比と連携したのも面白かった。比のドゥルテは左翼だが、アメリカには従順なのだ。

 

 チベットにそんなに歩調をあわせないことが唯一の失政かもしれない。しかし、アメリカのチベット支援はかわらずつづいていることを私は信じる。

 

 ロシアは、民間の産業を発展させることに、資金を使うべきなのに、軍事で紛争をあちこちにまきちらす作る悪い癖がいまだある。そんな世界の混乱を喜ぶ共産族を排除してゆかなくてはならない。それはプーチンに期待がかかる。プーチンが落伍すると、背後にロシア共産党が控えている。その最悪の状況にならないためには、プーチンは常に選ばれ続けなくてはならないようだ。

 

 プーチンによるロシアの経済の回復の手腕が、見どころと思うのだ。スポーツもアイススケート女子だけでなく、人口に見合った復権をしてほしいものだ。ロシアから世界的な企業が一つくらい出てもよいのだが、あまり先進的なものが登場しない。育成を支援しなくてはいけない。

 

 北朝鮮は、核兵器は自らの存続に関わるから、廃棄はしない。核をもつ国をアメリカは攻撃しない。だから、北はアメリカによって共産体制が終わる恐れはない。が、アメリカによる経済包囲網には、北は苦慮する。

 北はおとなしくして、核兵器は持たないと嘘の非核化宣言をして、経済包囲網を解くしかない。もしくは、金体制が終わり、新しいものがそれをするかだ。しかし、金体制が終わる時には、様々に各国の首脳の命が危うくなるため、手を出さない。

 では、どうなるか? 民主化もしないままで、核ミサイル開発に明け暮れて、北はどんどん窮乏に陥る。中国がバックにいる限り、飢えても、金体制が終わることもなさそうだ。このあたりの見通しは立ってない。イランが経済制裁を耐え抜いたように、中国がつぶれないうちは、北はほそぼそと生き延びられるにちがいない。

 

 私が理解しかねるのは、南北朝鮮の人がお互い満面の笑みを浮かべて、統一と言い合うことだ。北にとって、統一とは、敵国韓国を軍事占領して、支配下に抑えること。南の富を収奪して、北の飢えを終わらせる。ただし、この最悪のケースでは、韓国は立ち上がるには何十年とかかる。それまでは北の独裁体制で何もかも失われる。

 南にとっての統一とは、北の金正恩を追放するか、刑務所にぶち込み、過去に大統領を裁いたように幽閉する。そして、北朝鮮の領土を解放する。そして、資源を韓国の所有とする。

 お互い敵対意識をむきだしての統一、いかに出し抜いて相手国を降伏させるか。隙きあれば、と虎視眈々と狙っている。なのに、お互いが満面の笑みで肩をだきあっているのは、奇妙なものをみている気になる。

 ボクサーが殴り合いのけんかをする前に、兄弟とお互いを尊敬しているような光景なら、まだしも、北朝鮮と韓国との間ほどの血を血であらう骨肉の争いはないのだ。

 

 ヨーロッパは、ドイツのメルケルが日本のルーピーと似たような人物だと知られはじめた。東ドイツ育ちは、やがてボロを出すだろう。イギリスは、アメリカとの連携があるから、何かとうまくやれるだろう。私は、個々の政策の意味はわからないが、信頼する。

 

 シリアはかつて治安がよかったのに、急速に悪化した。このあたりの事情はよくわからない。くるみ割り人形(大統領)が、自国民を空爆するのも、また理解しかねる。せめて、市街戦にしてほしいものだ。

 

全般的にいうと、世界の平和は少しずつ進むはずが、中国の台頭というたった一つの要因によって、世界はまた混乱の時代に戻った。ロシアは民主化して、少しずつ健全化しつつあったが、なぜかクリミア半島専有から、明らかに冷戦期に近いことをしつつある。

 

 ロシアの共産勢力はしだいに減少している。だが、ここにきて、活発になった。これはおかしなことなのだ。原因として考えられるのは、唯一、中華マネーだ。

 日本のように全共闘世代みたいな左翼世代が、ロシアで高い地位にあがったということはないだろう。ロシアは共産への嫌悪感は、年寄りほど強いものだから。

 ロシアは工作をやめない国だとしても、ロシア単独でここまでできるとは思えない。中国マネーがテロリストや、世界の無政府主義者、左翼に回っているのではないかと疑うのである。

 国連の事務総長も、左翼になった。やはり世界的に左翼世代が、世代的に支配層になつたことが、混乱の原因かもしれない。このあたりは日本はそうだとしても、海外の資料がないと断定はできない。

 バチカンもフランシスコが左翼である。

 

 というわけで、左翼世代が台頭して、世界の混乱が増えた、という結論にしよう。この左翼世代は、75-85才として、あと10年くらいしか生きない。それ以後は、世界の混乱は急速に収まってゆくのではないだろうか。

 

なんとデータが少ない見解か。

 

2018年4月11日

 

人間の進化について

 人間がまだ改良すべき生物であることは明々白々。寿命は短いし、癌などにはなりやすい。他の宇宙人が300-400年生きる人工物の極致であることと比べると、まだまだ人体は野生に近い。睡眠も長い。

 

 記憶も完全ではない。精神の発達も本人の発達心理テーマの自覚が薄いし、視力もさほどよくない。運動神経も低いだろう。

 

 生体に組み込む遺伝子は、特に注意を払ってきめる。DNA以外にもいろいろ細胞に取り込むなら、新潮に判断すべきだろう。しかし、私それは必ずやりとげなくてはならない。老化防止などは目下必要だ。

 

神と聖霊が自らの命をかけて、人類を導いている?

 何をお馬鹿なこと。ヤハエは同時に4惑星を指導する。合体霊時にわざわざ損傷するのは、本人の都合なのだ。天国にいたら安全極まりなく、生死の危険はない。そもそも、地球に立ち寄ることも、そんなに多くない。1年の半分も地球にはいない。もっと少ない比率でヤハエは地球に立ち寄る。

 

天国にでかけた霊たちが、ヤハエが地球にくるのを楽しみにしている。今は、どこにいるのだろうか。

 

 

 

今日はここまで。

 

2018年4月11日

 

今日はキーボードを買おうとしたら、妨害された。本当、いつもの手口だ。いやになる。どうして妨害される。

 

私は才能が伸びない分野がいくつか、決められている。当然、この人生内の制限だ。あの世ではどこまで可能かは割り出して、早急に引きあげる。あまりに無能に保たれるのはいい気分ではないからだ。

 

都条例で3/28 迷惑防止条例でストーカー行為の対象が拡大された。これに反対したのが共産党で、なぜかな? 身に覚えでもあるのか? しかし、私が読んだ限りでは、これは警察に通報されてからの取締が強化されたのであって、普段町を歩いている分には、どうってことはない。通報されてから、犯行がやりにくくなったという話だ。

 

 明らかにつきまとい行為をしている人物だけが、対象となる。共産党はそれで、党活動が制限されると警戒したのだろうか。当然、この法律の狙いは××党員のストーカーを規制することにある。他の組織的なストーカーに比べて、××党員は示威的で、往く先々にわざと自ら姿をさらす。毎度、同じ人物が現れるので、犯人が誰かわかりやすいのである。

 

 日本の課題は山積なのに、メディアはずっと森友、加計。政争にこだわる。孫氏の兵法には、他国を弱体化させるためには、デマと噂を流せとある。その実践のようだ。日本の反知性化を、もっとも促進するのはもはやサヨメディアだ。これもまたメディア解体計画の一端である。

 

 もうすぐあまりに賢いネットメディアが登場して、あっという間に、既存のテレビ放送や新聞などにとってかわる。その後、人工知能の襲来が起きるかもしれない。

 

 

2018年4月11日

 

460万年後の我々

 

2018年4月10日

 

なぜスパイたちと仲良くしようとする?

 守護達がそうしろというからだ。また将来にわたり、彼らが原因で何か問題が生じるという予知はない。あっても、たいしたことがなく、いや、予見したものは確実に防げるのだ。すべて見逃さないのだ。いろいろ経験できる。

 

 力を与えて失敗したことは?

 人を助けたら、左翼論者の一人として活躍するのが、数人、いや数十人。まぁいい。それでも、コントロールできている。彼らはサヨメディアの頽廃に手を貸している。

 

 人を助けたら、私の家に入り、針刺しした。おいおい。これは完全に失敗では? お金とれるよ。

 

 サヨクの亡霊に力を与えたら、日本がどんどん傾いた。慌てて、保守の霊に力を回したら、どんどんよくなった。失敗も経験のうち。

 

 世界をどこまで支配している?

 世界のリーダーたちは、神の意図をよく反映するようになった。もちろん、係の者たちも繁栄している。私は計画通りに、豊かにもならず、栄光も受けず、貧乏のまま保たれ、成長する。

 

 この世界支配のシステムがなくなったら?

 100-200年後の技術だ。同じようなものが、アメリカにある。それは宇宙人から輸入したので、もうなくならない。なくなったら、いつでも作り直せるからだ。

 

それは、数年分遅れてる。が、短期間で追いつく。それはアメリカの奥で小さな規模のみ使用され、アメリカの断然の優位が続くだろう。ただ、ゴースト達のなしとげた領域には、10-20年近く、いやもっと30-40年は届かないだろう。

 

 その技術をもたない他国は、システムが消えることを恐れるだろう。あらゆる病気が治せなくなるのだから。アメリカの力なしに。

 

 あの女性とどこまで親しい?

 向こうは決意している。どんな女性でも赤い糸の相手と長く、話したら、わかる。結婚すべき相手かどうかを。ただあちらは裏切りを繰り返してきたのだ。報復はずっとつづく。私の怒りがおさまるまで、200-500年近く。

 

 この世でできないことはあの世でやる。彼女が早くなすべきことは、彼女の嫉妬深い守護からの自立だ。あの女は許さないし、それに応じた私の守護もだ。

 

 仲直りの計画などあるのだろう。しかし、よく考えろ。それはもうこの人生ではなしえない。あの世で何を準備しているか。みものだ。どうせないだろう。私が自分であの世の人生を設計して、よくするからよしとする。

 

 神の計画をひっくり返せる?

 そんな安っぽい計画はないだろう。彼らは霊をしばりつけられないだろう。どこまでできるかは、あとで調べる。私は霊にならないと、自由にならない。

 

 そもそも最善であれば、私はよい。私が最も成長するプラン。それがあれば満足だ。私は守護たちを信用しない。宇宙人たちから広く意見を聞いて、おかしなこと(地球の霊たちが推奨する怠惰な計画)はしないつもりだ。

 

 地球を導くのは?

 最近してない。シリア情勢は、よくわからない。中国の動向もいま一つわかってない。日本は、憲法改正が急務で、それだけに全力をかけている。その他のことはどうでもよいかのように。

 

 逆行にすると、人物のピントがぼやける。カメラのプログラムミスか? Flickrで昆虫、鳥、野草図鑑を作れないかな。

 

 2018年4月10日

 

48才になった。いろんなことを、考えよう。

 子供を作るために、結婚するなどは、早くしなくてはならない。相手が若ければ良いのだ。が、私のようなのは赤い糸がつながった相手になるため、相手も同年代。それで、しょうがないのだ。現れなかったら、どうするつもりなのだ? 神様は。

 

 テーマは、音になった。耳だ。前が目。

 

 音楽。今、とある系統のメロディを学習中だ。まだ曲調が同じ人がみつからない。それが現れないと、私の音楽を客観的にみつめられない。困ったぞ。探しだすしかない。

 

 精神の目標。まだみつけられてない。いずれ、大量に出現する。負けてられないような人々をみつける。

 

 毎日、瞑想の段階を1-2つあげている。いつまで、それを続けると、完結するのか。なかなか進まない。現在、120-130才の段階。終わりが160-170才。あと20-40年。

 

 テレビがあまりにつまらなくなって、知性の低下が起きていて、誰もみなくなりつつある。すると、ネットテレビ、あの異界のテレビにとってかわられる。準備よし。

 

 今日の文体。のんびりしているし、多様なことがみえている。新しい段階の初期のようだ。ということは、誕生日に新しい段階になるというのはあっているのか?

 

 受精か、脳が形成された時期か、生まれて母胎の外に生まれ落ちた時か、どれが、発達心理の段階の始まりなのか、誕生して、五感を活用するようになるのが始まりなのか。このあたりが、はっきりしないのだ。これでわかったのかな。

 

 段階の初期は、止まりやすいのだ。そこから進むことができたら、次まで一気にかけあがる。人間は。霊たちは、ゆっくりあがる。

 

 

2018年4月10日

 

誕生日にキーボードを注文。ミニ鍵盤では、どうも練習がしにくい。少しレベルアップ。私は実力に応じて、機械、道具は立派になってゆく。

 

衆生済度の意味を、布教の理論にしたぞなこれ。仏教では意味が確定している。仏教の定義は2つあり、仏教の悟りを民に教え悟らせることと、単に俗世の苦しみから、人々を救うこと。多くは、後者の意味で用いられる。もし定義を変えても、民を救うことを、古来からの一神教らしくしたにすぎない。

 

自分に甘いとは何だろう。そんな英語があったかな? 日本人特有なのかどうかだ。私は、『甘やかし』の理論は、いらないと思っているのだが、正確にはどうなのか?

 

 日本人は何かにつけて、『君は考えが甘い』と言いたがる。厳しくないとか、妥協しているとか。そういう意味なのかと思うと違うようだし。自分に甘いとは何だろう。

 

 自分に厳しくない、ということだろう。自分に厳しいとは、ある基準を自分に厳密に守らせていこうという姿勢だ。自分を痛めつけてまで、修練する人だ。この定義では、自分に甘いはその逆なので、自分が痛くない範囲で、自分を律する人だ。

 

 厳しいか甘いかは、自分にある基準をきつく適用するか、ゆるく適用させるかの違いだろう。100mを15秒で走ると目標を立てた時、自分に厳しい人は、15秒台になるまで、無理やりやり続ける。甘い人は、15秒にゆっくりと近付こうとする。激しく疲れない範囲でトレーニングするのだ。

 

 簡単にいうと、厳しく律するか、緩く律するかの差。自分に甘い人は緩い。緩いと必ずしも悪いとは限らない。きついからよいとは限らない。自分を律する時、いかに、その基準をクリアできるか。厳しくやって、早くそれができるならそれでよし。緩くして、しだいにクリアできるようにするのもある。

 

 緩いからいけないということではない。厳しいからよいということでもない。だから、私は自分に甘いかどうかは、あまり気にしなくなったのだ。そんなことよりも、きっちりそれを習得できるかどうかなのだから。甘いタイプでも、きついタイプでも、どちらも早ければそれでよい。

 

 考えが甘いとは、これも日本人は使いたがる。安易な考えをさす。定石を覚えればPCに囲碁を勝てると思っているな? 考えが甘い。別に、最初からすべて完璧なことができるわけではない。はじめは大雑把なもの。はじめはすべて『考えが甘い』のだ。それをあえて、指摘して、人を責めるのも、どうかと思うのだ。

 

 まだ考えが十分でないよ。となぜなら、それは正解ではないからだ。とか、もっと優しく、適切な指導ができるほうがよいのだが。

 

 甘やかすとは何か? 

 なんでも好きなことをさせ、嫌いなことをさせないで、いい気分にさせて、保護すること。きついことや、苦しいこともさせないこと。

 これは傾向だ。私は最善の方法を模索するので、甘やかすとか、厳しくするとか、そんな大雑把な分類法はどうでもよいのだが。甘やかすのはよくないな。なぜなら、本当の欲求をかなえるのがよい。が、甘やかすとは、子供が本当にしたいことをさせてなくて、楽なことばかりさせている。きつく、激しい、苦痛を伴うものは、子供が感情的に嫌うもの(子供はわずかな経験で、嫌いとか怖いとか思い込むので、一概にある行為が嫌うとはいえないのだ。)は、体験させてない。

 

 厳しくするとは何か?

 単に怖い顔をして、無理やりやらせるとか、スパルタ式にやらせるとか、そういうこと。これはこれで、過労働だったり、体力を超えていたりする時がある。

 

 甘やかすも、厳しくするのも、最適な扱いかどうかが問題なので、私はあまり使わない。甘いよりも緩い、というほうが普遍的なような気がする。

 

  なんか、疲れた時には難しく思えるような内容だ。簡単なのだが、分析でわかりやすく語れないということ。

 

 結局、甘やかすも厳しくするも、スポーツのトレーニングでもっとも使われる。トレーニングについての形容詞なのだ。甘やかすトレーニング。厳しいトレーニング。

 

 大事なのは選手が向上するかどうか。競技大会で結果を出せるかどうかなのだ。私は、トレーニングシステムを世界的に使ったら、外人選手はついてこれるのか? そんなことを日々、考えている。それで、褒めるのはどのくらい。運動させる量は厳密にどのくらい。時間は。体力は。精神的に動機づけは十分か。そのトレーニングすることについての本人の理解はあるか。などなど考えるのだ。

 甘いとか厳しいとか、そんな単純ではないんだよ、と思う。甘い指導とか言っているのは、コーチとしてレベルが低すぎるんだよ、と思うわけである。甘いというのは、休憩が多いかどうかだ。体力に余裕をもたせるかどうかだ。それは必要用量をさせるのだ。過酷なトレーニングは日本人はしたがるけど、必ずしも向上しない。楽しんで、楽に向上するのが一番だ。

 

またスポーツ指導の理論を正しく学ぶことにする。そしたら、必要な『精神用語』かどうかが、わかるだろう。

 

一般的に、厳しい鬼コーチのほうが、成果をあげている。女子では。ロシアのアイススケートコーチ。日本のシンクロナイズドスイミング女子。そういうことがある一方、男性はもうその段階にはなくて、科学的なコーチしか成績をあげられない。日本の水泳の名伯楽とか。甘いか厳しいかなんてことは、科学コーチの時代にはもう関係なくなってしまったのだ。彼らは必要と判断すると、体力的にきついことも平気でやらせる。が、鬼ではない。やさしいのだ。

 

 甘いとか厳しいとか、いつまでも言っているのは時代遅れなのだ。これが、私の現在の見解。

 

 

2018年4月10日

 

430万年の後の我々

 

2018年4月10日

 

楽しいことばかりを追いかけていた小学校時代。今、やろうとしていることは? 楽しい? うれしい? 喜び?

 

遊びを極めていた。遊びの気持ちを極めていた。今は? 何を極めている? のんびりやろうとしていない? まさか自分が実力不足と思ってないよな。実力はあの頃もなかった。

 

精神を探求するのは、いいのだけど、楽しさを極めつつやれば? まじめにやろうとしていない? 自分の実力が追いついてないと思ってない?

 

自分の実力。本気。それがどこまでのものか知っているはずだ。今のペースに追いつけないとでも、思っているのか?

 

 

2018年4月9日

 

悪いものをどこまで切り捨てるべか。それが問題だ。厳密にやりすぎると、誰もいなくなるし、緩いとスパイ(悪さする)が残る。

 

悟り? 求道者が何を自分はすればよいか、という悟りとは、使命の自覚のことをさす。

 それを促す物言いもある。

 

大自然を感じることは、神を感じることか? 人格神ではないことは確かだ。また創造の神を感じるのも正確ではない気がする。では、何を感じている? 問題だ。

 

あとは今日は頭が働かなくなり、難しいのでパス。

 

 精神論では、愛ではなく、成長が第一なので、人類の成長、個人の成長ときて、次は正しいというものが入るはず。愛は高くても、2-3未満の順位となる。それを第一といわれても、それは強調したということか。愛の中で、無償の愛をよしとしたか。どちらかだろう。

 

 愛は地球においてのみ、強調される精神だ。他星では、あまり鍛えるべき精神の上位にならない。確かに、キリスト教によって地球では愛が強く唱えられる。だが、それは地殻変動で、民族と社会が分断される星だから、お互いが信頼することが大切となり、その精神として愛=人間関係の良好な状態が、よしとされるにすぎない。社会が世界的に統一されたら、しばらくは民族文化の統合がすすむ。それがすんだら、人類は一体感をもつ。お互いを接着させる力=愛は用済みとなる。

 

 大事なことは、愛を第一とするのは、精神の歪みなのだ。厳密に考えると。一般的に成長が第一。もっとも大切なものを大事にしないで、第4以下のカテゴリーの精神を大事にするのだから。自主性がなくなるなど弊害が生じる。他人の成長を慮るために、自己成長や社会の成長が二の次となる。人間関係が良好であることを過度に、保つことで、社会で真に大切なことをしなくなるというきらいがある。

 

 そもそも、何のために愛するのか? 神が何のために人を愛するのか? その答えは、神は何か神自身が目指すものがあるからだ。それが、語られないのは、おかしい。愛のために、愛を行う。そういう自己循環的なのはやめよう。

 神はおそらく、最も人類が健全かつ、豊かな文明を築くことを夢見ているのだ。そのために、人類に尽くしている。成長した先にあるもの。未来に素晴らしい人類になるという目標があり、そうなることが神の願いなのだ。

 

 ただ愛が無条件で第一にあるとするなら、そういう神の人類への限りない愛という目先の神の行いが、語られる。その背後にある真意が隠され、神のめざすところが伝わらなくなる。

 

 

2018年4月9日

 

400万年後の我々。

 

 

2018年4月8日

 

 今日は情弱層について、知見を深める。ワイドショー症候群というやつだ。あと、怒った時に、すぐに「家から出て行け」というのは子供を叱る時に脅すセリフで、子供だまし。 そんなを老人になっても使うのは、ガキっぽい。子供が18才以上になっても、それを言うのは違和感がある。

 

 具体的に、困るのだ。理不尽にそういうと、子供が出て行ったっきり、帰ってこなくなる。若者の失踪である。これは、半分くらいは、「家から出て行け」の叱り方の弊害なのだ。自立させるために言うのとは別の結果を招く。

 

 これを子供に使うのも、本当はよくないのだ。が、大人に対して使うと、悲惨な結果を招く。まず、それを使うと理不尽な家主、という印象しか持たれない。追い出せることは追い出せても、帰ってこないのだ。理不尽、横暴な人間と思われるだけだ。家主という強い立場で、ただそれだけが優位なだけで、ひどいことをする人間と思われる。

 

 確かに、家主には誰を住まわせるかを決めることができる。彼の子供--未成年には法律上、扶養義務があるからできないのだが、大人に対してはできる。とはいえ、怒ったついでに、いつものセリフで「家から出て行け」は単に、王様の権力乱用の横暴でしかない。横暴な家主でいい、と本人に思っているみたいだ。家主もピンきりである。これは最低の家主がすることだ。

 

 この「家から出て行け」は親のセリフと思っているのは、誤りである。ライオン子供を崖から突き落とす。親も心を鬼して、子供を家から出す。その教育の実践だなど、本気で信じているところは、独善的で間違いある。ちなみに、子供の家に親が同居する場合は、子供が親を追い出せる。家から追い出せるかどうかは、親の決定できるものではなく、家主に決定権がある。親のセリフではなく、単に家主の立場のなせるわざと理解したい。

 

 というわけで、ここでは親子は関係ない。家主かどうかである。

 

 ふつうは、誰がそんな短期な人物が支配する家にくるかと考える。北朝鮮にいて、権力をもつ者たちから、ひどい目にあった。それで北にはいかないでおこう。ということになる。

 この「家から出ていけ」に寄って、何がもたらされるか。子供が出てゆく。そんな目先のことは誰でもわかる。自立心が養成される。その程度のことを書くつもりはない。結果は、もっと深刻なことだ。これは、全共闘世代が、子供を理不尽に追い出した後、子供が戻ってこなくなり、孤独に陥るケースが多発する。全共闘世代は、独居老人になるセリフなのだ。

 

 横暴な家主面して、「家から出て行け」は、独居老人になってしまい、誰も面倒を見てもらえなくなる悲しい魔法の言葉なのである。女性は、子供が来なくなることはわかっているので、また遊びに来てと、何度も気軽来てくれるように、言葉をかける。そんな社交的な妻が先立つと、確実に独居老人になるのである。

 

なぜ、ついうっかり、人と縁を切るような言葉を全共闘世代は使いたがるのか? まずは人間関係は大切にしないからだ。全共闘世代は、先が読めない。結果がわからない。目先のことしか考えない。彼らは議論に勝ったような気になればよいらしい。それで、つい使う。全共闘世代は、特に感情が制御する能力が低い。そこも、大きい。すぐに怒る。感情的になる。自制できない人は、人間関係を長く良好には保てない。また全共闘世代に共通することは、言うことがむちゃくちゃ。説得力がまったくない。最近のワイドショーは、ひどい。あれも全共闘世代だから、本人たちは筋が通っていると思っているが、ひどいのだ。しかも、言葉だけではなく、最後は暴力に打ってでる。ゆうづうがきかないし、話が通じないのだ。だから話しあおうという者は出てこなくなる。

 

というわけで、全共闘世代の多くは、学生運動に共感した者ほど、最後は孤独になる。共産主義は人間関係を破壊する思想なので、それを己自身で実践するとそうなる。彼らは、「家から出てゆけ」となぜか言いたがるのは、もっと簡単な理由がある。

 

 真実はもっと単純だ。全共闘世代は親の家から出て、都会に出た人が多い。多産で兄弟多く、長男でないから家を継げなかったからだ。だから、大人になると家を出ると思い込む。この家を出ることが当たり前、と考えることは、家系の継承という点では、すこぶるまずいのだ。日本は歴史的に、子が家から出ることは当たり前ではなく、特殊なことだった。

 

 本当は、家は継ぐもので、家を出るのは当たり前ではない。人口が一定で、推移する持続可能な社会では、家は必ず子が継ぐ。そうしないと空き家になる。家から出る場合は、他家に嫁ぐものと決まっていた。家から出るから、他の家に入るか。それしかなかった。だが、家を出るという場合も、家が変わるだけで、家から出て、家な入るのだから、露頭に迷うという話ではない。家から出るという話でもない。ほとんど家から出なかったといえる。

 

 家を出るのは、当たり前でないことがわかっただろうか。江戸時代は、家を出る(他家に入るのも同じ意味とする)などはあまりなかったのだ。兄弟がたくさん生まれても、人口はほぼ一定に保たれていたから、家は継ぐものだった。家から出ることは、家を捨てることを意味して、嫌ったのである。だから、よほどでないと、家から出て行けとは言わなかったのである。今、安易にそれを言いたがるのは、全共闘世代、多産で、長男以外の多数の兄弟が家から出ていかないといけなかったベビーブーマー時代の名残である。

 

 いつまでも、そんなセリフで子供を脅して喜んでいるのは、結果を知らないのでそういうのは、哀れなことなのだ。北朝鮮が周辺国を脅しているのと似ているのだ。北は怖いところだな、という思いがしか残らない。あの家主は独善的で、気に入らないとすぐに怒り出す。客や友人、子供を家から遠ざけ、彼らの来訪を歓迎しない人だな、と思われ、敬遠されるのが落ちなのだ。

 

 「家から出て行け。」--これは社会的にタブーにしてしまおう。けんか別れのセリフなのだ。凶暴につき、この家主は危険という意味なのだ。人間関係が壊れてしまう。人が家に寄り付かなくなってしまう。老後の人間関係を壊すセリフなのだ。老人は注意したい。子供を叱る時の脅しの一つとして、使いすぎると、やがて子供が来なくなり、しっぺかえしを食らう。

 

4/9 付記。

 「家を出て行け」は離縁の言葉--友情、家族、恋人、夫婦が関係を終わらせる時のセリフです。これを言うと、それらを失い、孤独になります。めったなことでは使わないようにしましょう。

 

 

2018年4月7日

 

誕生日が近い。自分に何を買うかは決めた。キーボードの練習は、ミニ鍵盤ではつらくなってきた。軽いやつで。

 

私は、天国は信用しないことにしている。本当のことを言わないから。裏切らないとしても。それに、彼らは私の成長を支えてくれるかは疑問だ。

宇宙人はわりと信用する。彼らは嘘はつかない。また私に細部を言わないのには、きっちりした事情がある。

私は友人はけっして、信用しない。私に対して24年くらい嘘をついている。私の側にきて、偉大な人の仲間いりする人物でも、何かで降格させる。何の言い訳も許さない。私の下僕を長くすることで、信用を得るしかない。しかし、究極的には格下扱いから変えない。真実を言えない愚かさは、私より決定的に劣るのであり、私と対等に扱われることはないだろう。

 

私は女性も、同じように扱う。他人で、私に真実を言う義理、義務がなかった者の中で、かつ、私の親友となるものから、優秀な者を重用する予定だ。

 

不義なる者たちへの罰をいろいろ考えてきた。最も親しくなる者でも、18年近く嘘をつき続けてきたから、そこは許さない。私より劣った人物として、永遠に位置づける。私に真実を告げられないほど勇気がない彼らの思うようにはさせないのである。私と親しかった者は、常に、どんな時も、私より劣るようにする。

 

 彼らを私より劣るようにする以外に、どんな罰があるだろう? そもそも、私より優秀な者はいないのだ。だから、罰にならない。常に、真実にさらさせるか、それとも、真実を隠蔽したことを後悔させるように仕向けるか? いや違う。罰なのだ。罰だ。彼らに損害を与えなくてはならない。もしくは、償いをさせなくてはならない。

 

 では、友人であるのに、私に電波犯罪のことを教えなかった者は、どんな罰が最適か?

もっとも簡単なのは、私が彼らを一切助けないことだ。どんなに彼らが苦しんでいても、助けないのだ。それではじめて気づくだろう。助けるべき人が助けない時のつらさを。見捨てられた者の苦しみを。しかし、この案は却下される。なぜなら、友人たちを強化しておかないと、あとで役に立たないからだ。

 で、他の案に何かないか? 

 彼らに大事なことを隠しておいて、つらい目にあわせる。これは面白くない。私の好みではない。

 

 そうだ。異なる世界の私に尋ねてみよう。こういう簡単だが、思いつかない時には、彼らが役に立ち、答えを教えてくれる。

 

 第一案。友人の証を立てたのに、裏切ったことを非難する。良心に訴えるのかな。その上で、二度と裏切らないことを誓わせる。なるほど。

 次の案。女には、私を愛してないと責める。公言する。これを歴史的な烙印とし、記録にとどめる。どの私の自伝にも書いておく。隠れて資金援助だけでは、養育者程度の愛であって、妻の愛ではないのだ。

 第三案。真実を貫けないのは、大人物ではない。迫害も恐れぬ強い正義の人ではない。恥じを知れと、記録する。彼もこれでゆくか。こそこそ隠れて、私の近くにきて、それで、精神の理想になれなくなったのだ。

 第四案。私を助ける義務はない。が、犯罪者の基地に来たことは、未熟の証。義人ではなくなった。私の前では、愚か者の一人なのだ。青年期には。壮年でどう変わるかが見ものだ。しかし、それを記録に残す。これ以上の屈辱はないだろう。

 第五案。隠し通す兄弟たち。母親。それも記録に残そう。それで十分だ。後世、誰も私の家族を尊敬しなくなるだろう。

 

 記録に残す。といういい方法を思いついた。それでゆこう。

 

 

 

 

 

 

 

 

2018年4月7日

 

さてと、続き。

 

要点を説明する霊言があるとする。それは正しいものとする。ならば、さらに詳しいメカニズム、理由などはそこでは明示されない。それを明らかにするのは人間側だ。

 

 霊言は、解説をすべてしない。人間の学習に、経験にかかわる。経験なく与えられた知恵は、定着していない。正確には違うが。

 

 信じる者が救われる。

 一定の基準に達した者を救う。それが神の救い方だ。本人が救いを求めようが求めないが関係なく。天国にあがる時は、それが厳密に適用される。善人や理性を強くもつ者は、早くあがれる。

 信じる者が救われる、というのは、ある意味大事だ。私は、私を信じ、頼った者だけを特別に救う。彼女たちは、私のために何かしてくれる、したからだ。私に何もしない者を助けると、いつまでも礼をしない。平気で裏切るのもいる。

 私は本当に、様々な人を助けた。善人、他人、悪人などなど。なぜ私が助けるか? 簡単な理由で、死相をみつけてしまうと、半分くらいは助かってしまう。この方法の問題は、悪人を助けてしまい、問題がいつまでも解決しないことが多々あるのだ。悪人がのさばる。善人も長生きする。全般的に、世代交代が遅くなるという問題が生じる。

 悪人は助けて、悪さばかりするので、反省した。アカは私に命を救ってもらいながらも、私に悪さばかりする。それで、悪人はできるだけ助からないようにしている。これは工夫だ。

一律に助けるのがよくないのだ。

 次にやったのは、善人を中心に助けることだ。善人を強化して、芸術家やスポーツ選手が長くもつので、なかなか衰退しなくなった。これはずっと今も続けている。

 最近、私に寄付してくれた人を助けることもした。これはこれで、すぐに私の救済行為が、私の利益となり、社会的に評価されることを意味するので、よい。

 さらに、私を信じてくれる人を助けることもしている。この効果は、私と一緒にくるなら、私の力を借りて、バラ色の生活ができるよという誘いとなる。私の恩恵を受けることで、私のグループが強化されてゆく。これは仲間が増えることだ。これは、私を信じる同士を集めて、それらをよい生活をさせ、より幸福にして、強化することなのだ。

 

 信じる者が救われるは、仲間を増やす方便なのだ。きっと。誰を救うか。これを様々な基準で決めてゆく。そのうちの一つの基準なのだ。

 

 私を信じない者を助けないのは、彼らを利する理由がないからだ。敵を利するかもしれないので。助けるとは、力を与えるということを大きくは意味する。

 

 迫害のための心構え?

 うーん。私の代の途中まで必要だろう。が、それ以後は、正しいものと認定されるから、どうだろう。新しい霊科学や霊の先端理論が届かない片田舎では、大勢から認められないかもしれないが、そういう地域もしだいに減るだろう。

 

2018年4月7日

 

情弱層はいる。交信は、380万年後。

 

2018年4月6日

 

Yとの出会いが6月後半だと。テレビ予知。映画の公開日からは、6月の後半はあってなくもない。「本当の私を知る女が現れるそう。」ハン・ソロの映画予告にあった。

 

精神論は犬の彼のほうが優れている。

 

愛は、優しさで人を包み込むものというイメージと、愛は厳しく行うものというイメージと。これは仏教の慈悲と、キリスト教の愛との差ということらしい。本当かな?

 

 愛は、選ばれた人だけ受けられるそうな。本当かな? もともと愛は対象が決まっているためだ。

 

 アメリカのキリスト教徒の愛の理解が説明されている。

 

愛と勇気の関係とは何だろうか。

勇気は、慣れてなく、不安が多い事を決意して、することだ。勇気は行動を決意して、実行にうつす時に必要。

これを考察する。不安が多いこととは何か? 初めてすることは、すべてそうだ。簡単にできそうなこと、簡単にはできなさそうなこと。勇気がいるのは、簡単にはできないこと。失敗するかもという恐れと心の中で戦い、その不安を払拭して、決意すること。人々が恐れることを、不安があるけれども、自分がやるという意味もある。

 

 恐れには、できるかどうかの不安、妨害者がいるという不安、大勢が見ているという不安、大勢が反対するという不安などがある。勇気ある行動としてもっとも称賛されるのは、どの恐れあることをすることだろうか?

 

強い怖い敵と戦う時か? 隠蔽する者たちが怖いにもかかわらず、真実を暴露することか? いろいろあるだろう。勇気は、無謀なことをするのではない。ある程度、目処がついていることをすることだ。ちゃんと計算が立っていることをするのは、勇気と言わないかもしれない。成功するという目処がしっかりできていることは、失敗する不安が皆無だから、勇気をふりしぼる必要もないから。

 

 社会が間違っている時に、真実、正しいことを言う。そういうことをするのがはじめての人は、それを勇気を出してやるだろう。が、それをすることに慣れきった人にとっては、勇気もいらない。妨害がきつくなる時は、それでも敵に立ち向かう勇気はいる。

 

勇気は、強くかなわないと誰もが恐れるような敵に立ち向かう気構えなのだ。その敵は、大衆、悪人、強い者、横暴な者など、暴力でかなわない者など、いろいろいるだろう。さて、誰に立ち向かうのが最も勇気あることか? それも考えてみよう。もちろん、魔王にたちむかう勇気は大きいのだ。だから、そんな人は勇者ヨシヒコと呼ばれる。テレビの見すぎですね。

 

 やっと勇気を定義できたところで、愛との関係を考える。

 

 何かを愛するため、強い敵に立ち向かうことになる。よくあることだ。勇気を必要とする愛だ。この条件とは、定義とは?

 

 愛国心では、社会の問題を是正しようとする。社会愛でも、人類愛でもよい。社会をよくしようとすると、新しい制度をもたらすことだから、古いシステムにしがみつく抵抗者が現れる。彼らが敵となる。この敵が強くみえると、勇気もより多く強く、必要となる。

 

 なんでもよいのだ。人々に何か必要なものを与えようとするとき、誰か人が意図的に妨害する。それが敵となる。これをうちのめすか説得しないと、愛が行えない。この敵が強いときは、勇気がいる。

 

 つまり、簡単にはなしえない愛をする時に、強大な妨害者がそこにいたら、それを解決するために、勇気が必要となる。強い邪魔者をなんとかしないといけない愛のみ、勇気が必要となる。邪魔者がいない時はどうなるか?

 

 愛の告白には勇気がいる。そんなケースは、告白に不慣れだから、その不安を払拭するための勇気だ。愛することとは関係なさそうだ。これは、不安がある事をする時の勇気に該当する。

 

 愛の定義は一つなのだ。道徳は、正解は一つなのだ。最近の道徳教育反対の論には、多様性と勘違いしているのがある。数学も、道徳も、教えるうるもの。公理があって、法則があって、応用がある。定義もある。精神には一つずつ定義がある。広辞苑はイデオロギーくさいが、辞書には、道徳用語には、定義はある。

 

精神における多様性というのは何か。道徳の各、徳目は、信じる、素直、ひきょう、ずるい、善、悪などは哲学でもきっちり定義されている。ここに多様性はない。数学の基礎に、あやふやな定義など必要ないからだ。

 

多様性とは、民族や文化などが多数のものが、一国にある。それが許容されるということだ。アメリカをモデルにした考え方だ。また遺伝子がたくさんの種類があったほうが、いろいろと種の個体の遺伝子に多様性があるほうが、種として強い。生き残れる、という。

 薬などもたくさん種類があったほうが、よい。そのようなことだ。多様な個性があったほうが、全体的に素晴らしい、という考え方だ。

 

 これは、精神の各徳目の定義が多様ということではない。俺の思っている愛と、君の思っている愛は違う。というのは単に、未熟で、正しく習わなかったから、思い違いをしている人がいるだけのことだ。こういう理解の差はある。

 

 が、教える時は、正しい精神論を教える。哲学の授業では、定義も定まっていないことは教えられないのだ。そもそも、精神論は、2000年以上も研究されてきた。その歴史の中で、愛、正義、倫理的などは、とっくの昔に正しい意味は何かは明らかにされた。

 

 それを今更、何も知らないからといって、蒸し返すのはあまりに幼稚な態度だ。倫理や道徳にあまりに無知な輩が、人類がアリストテレスや、プラトン、さらには聖書の時代から、何千年もかけて、磨いてきた精神の各概念を、いったん白紙にして、俺たちのやり方でやろう、なんていっても、通じないのだ。どうせ、彼らは何も教えるものがないから、教えない。道徳は気に食わないから教えない。その程度なのだ。彼らは、ただ、さぼりたいだけなのだ。

 

 哲学はあるが、難しいから一旦、ゼロにして、出発しよう。といったら、共産主義と同じで、文化や知識をぶち壊してしまう。哲学や思想など人類の遺産を捨て去って、ゼロから出発するみたいなおろかなことをすると、文革以後の中国のように廃墟しか残らない。廃墟などは、教える価値もない。そんな世界では、数千年前の野獣のような人間が跋扈したのと同じような時代の者たちに逆戻りする。荒廃した世紀末に、暴れ狂う荒くれ者のごときだ。

 

 子供達をあーいう粗野で乱暴で、人のことをまったく考えない、自分勝手な人間にしたくない。だから、道徳教育をして、人間らしく自制して、人を思いやることができ、正しさを知り、正義に尻込みしないような人物にしようと教育する。卑怯で、身勝手で、自分勝手で、自己中で、中2病で、人を極度に怖がるような人間にしないために。

 

 せっく積み上げてきた高い倫理や道徳というものがあるから、それを教えなくてはならない。

 

 道徳における多様性は違った意味となる。精神論でも、似たようなことはある。

 

 尊敬する時、誰を尊敬するか。親か先生か、預言者か、武将か。このあたりは本人の好みで、自由に選べる。ここは多様性が許される。

 信仰においても、どの宗教を選ぶべきかは学校で強制されない。ここも多様性がある。

 

 ここを間違えるおバカは、道徳の研究者にはいないだろう。左翼記者にはいても。これを書いていると、毎日新聞の書く道徳教育に反対する程度の低い論調を、批判する内容になった。編集しなおそうっと。

 

2018年4月5日

 

文章の程度が下がった。あれのせいだ。周辺に来て、電波を飛ばす者が、10-30代の私をよく知る者ということだ。

 

私が今、気にかけるのは、Yとの出会いの時期だ。透視では5月あたり。一ヶ月前には、テレビ予知でわかるはず。そろそろと一生懸命に、テレビ・アニメ、ドラマを毎日見ている。が、いつまでもそれらしきサインがない。気をもんでいる。

 

 秋までになんとかなるはずだ。というのは、秋公開の映画「スカイトルーパー」では、娘と息子のことを、警備員は心配する。警備員は私の象徴のはず。すると、私にはその頃に、息子と娘らしきものがいることになる。その頃に、×女とつきあっていれば、×女の子供達がいるのだ。というわけで、私は秋までに、Yと出会っていると考える。

 

 もう一つの根拠は、今年度の1年のソウルメイトがYという感触があることだ。なんとなく。すると6月までには付き合わなくてはならない。これまで1年のソウルメイトと誰一人つきあってはいない。が、妻となる女性の場合は別で、必ず出会い、交際が起きる。もっとも親しくなる期間は、ソウルメイトの時。それを逃す人生計画はありえない。わかるかな? この論理。よって、6月までに出会いがあると、予想している。

 

 6月というのは4月の2ヶ月あとだ。新年度から2ヶ月経過して、やっと慣れる。安定期に入る。ふつうは新年度の4月に出会い、4月の半ばに友達になるのだが。遅くて、6月になると私はみている。それ以上遅れたら、もう諦めるしかない。人生の計画ミスとして。

 

 最近の新たな知見

 復讐の代替案は、得られなかったものを得ること。たったそれだけで幸せになれる、というのが私のニセモノたちの答え。私は本当にそうなのかな? と思っている。

 

 私の場合は、女性や結婚がいなかったこと。それで人生を計画したやつらを恨んでいる。けっして許さないだろう。が、この悔しさを晴らすのは、何か? 女に囲まれて暮らすことらしい。それで、これまでのつらさが消し飛ぶという。だが、私はそれはありえないと思う。 40年近く遅らせたことは、やはり、その責はとらさなくてはならない。その上で、女性に恵まれることだ。

 

 恨みを晴らすこと以外に、得られなかったものを得る。この2つないと、いけないようだ。こちらが正解である。恨みを晴らすだけでは、いけないのだ。幸福を得られたから、といって、悪さした者たちのことを忘れてもいけないのだ。

 

2018年4月5日

 

宇宙人の友達を知る。120歳代で、2世代上なのだけど、宇宙の中心へ興味をもつ。彼は絵画、芸術の専門家でさらなる高みを求めて、極致というべきそこにたどりついたのだ。ガブリエル系らしい。星は、あのプレアデスと呼んでいるところの母星で、紫の星。

 

宇宙中心の分野は、私のような世界を導く者の中では、はぐれ。それが正当に位置づけるのはそうは問屋がおろさないとしても、趣味の一つとしては、認められるべきだ。

 

 まずは交信時の受信率について

 霊能者が言葉を受信する。それは何割正しいか。受信率というものがあるとしよう。100語中、全部、意図した交信先の言葉を聞けたら、100%。悪の宇宙人の介入があり、そちらの悪の言葉になったら、それは失敗になる。その比率が多くなるほどに、受信率は下がる。正当性も下がる。

 

 受信率を判定する方法にはいくつかある。メッセージの文字の周波数を測定して、文字から正しい交信先の場が検出できたら、成功。悪の宇宙人の周波数が文字から検出されたら、失敗となる。他には、内容の確認だ。神は間違えないということから、間違った内容だったら、神からのものでないと判定する。

 

 というわけで、神からの霊言でも、霊能者の能力が万全でない場合は、交信の失敗があり、それは悪から来た言葉となる。内容も間違っている。霊言が、神から来たと完全にいえるには、悪の介入をすべて阻止した上で、霊言文字の周波数が神の系列であること、内容が間違いがまったくないことなどの条件を満たさなくてはならない。

 

 この比率が低いと、間違いだらけとなり、あまり信じるに足る代物ではなくなる。高いと内容が正しいものが増え、信じられるものとなる。

 

 カルマ

 前世、つまり守護霊の性というものだ。これはあることはある。私などは守護が前妻をもって、本妻が2番だったために、えらいめに遭わされる。私が5番目になりそうだ。というわけで、守護からくる、しょうもない人生上の体験をカルマとする。

 

 こういう守護の癖、傾向などが強くなければ、カルマなどはないといえたのだが、そういうわけにもいかなくなったのだ。

 カルマがないなら、まずはどういう生活をすることになるか。あまり難しく考えない。特徴がないもっとも平均的な人生を送る。それだけだ。

 

 私のような優れた者は、思想と精神を高く保つために、赤い糸がつながった相手と適齢期に出会い、結婚する。理性的な相手でないと、萎縮するためだ。子供をもち育てる。万が一、特殊な事情で結婚が遅れたとしても、相手もまた何らかの理由が与えられ、未婚のまま人生を送ることになるだろう。片方が先に結婚すると、人生計画上の報復(カルマみたいなもの)が始まるからだ。

 それから、過度に私は怪我しなくなる。私の守護の系列は、不必要な怪我をする。守護は、人体に欠損させ、それで生活させるという悪趣味がある。

 また守護は古代で暖かい所に住んでいたから、快楽、享楽的だ。明るく楽しいことを喜ぶ。快楽的なのが特徴である。さらに、戦士としての才能があり、運動神経を高めにするだけならよいが、無駄に多く悪人たちと戦う。敵をわざと強くして、戦わせる。

 私は、それでえらいめにあっている。

 ただ、守護は平均よりは賢く育てるので、私は平均よりは賢くなっている。

 

 これらカルマはどこからくるか?

 単純に、守護の生きた人生の反動というものが一つ、(私が×女と結婚させられること)、もう一つは守護の物好きでしたいこと(他人と戦うのが好き、体を壊したがること、)などがある。これが一つ。

 

 もう一つは、私が話し下手に長くさせられていたこと。これは、守護もそうだが、もっと上の霊からくる。彼が口下手だったので、守護もそうなり、私もそうなっている。守護の能力を、子の人生に与えるので、ここは仕方ない。だが、別に口下手の強制に従う理由は、私は拒否して、口が回るように努力はしている。

 

 さらに、私の守護系列の星、そこの特徴というのが、私の人生全体に反映する。文明歴3億6千万年(この数字はかなり正しいのだ)の文化の片鱗を私はもつ。さらに、銀河系の端に位置する文明として、この付近の文化をよく反映している。あまりに高度なく、実はほどほどに気楽な星なのだと。

 

 このように、人生計画は、守護、この宇宙域などの様々な特徴があって、そういう者たちから生み出されたものだ。特定の傾向はあるのだ。それがカルマの全体だ。それは、人生の特徴と言い換えることもできる。

 

 これは、指導者の傾向というものだ。では、人間として、どう生きるべきか?

 

地球の21世紀の現代文明に生きる者として、日本人として、大阪に生まれ育った者として、そんな特徴はある。これは三次元の物理世界における私の特徴だ。遺伝的なものもあるだろう。家族や氏族、民族も含む。

 

 こういう特徴の中で、私はどう人生を生きるべきか?

 もてるものを最善に活用して、最高の成果をあげるべく、いつも生きる。もっともよく成長するように生きるのがよい。使命を果たすことにはこだわらないのだ。特定の仕事のみをするために、この人生があると考えると、いく割かは、短絡的な判断を下して、その仕事以外のことをさぼるからだ。より全般的に成長するように、生まれついていると考えるほうがよい。

 

あらゆる特徴を知り尽くして、それらもまた活用するのだ。守護の意図が強すぎる時は、特に低能に保とうと強いられる時、犯罪など悪さをさせられそうになった時は、そんな悪へと誘う原因、正しく生きることを邪魔しようするものをつきとめ、それを破壊もしくは、弱体化させるのがよい。

 

 守護が全て味方だとは考えてはいけない。悪しき癖を押し付ける場合もある。それを見破り、正しい方法でその計画を未然になくせばよい。こういう守護との戦いもある。これは、今は、面倒なものだが、しだいに人生計画を自ら設計するようになると、簡単に克服できるだろう。

 

 現代の基準に合わない人生計画は、すべて現実にならないようにする。古代に守護が、天国で騙されて計画したものがいくつかある。それは、後世も修正されずに、とうとう本人が誕生するまで残ったものだ。それは、仕方ないので、本人が生まれてから、社会が行うか、自ら修正するしかない。

 

 なお、これら私の現在の見解は、詳細に、守護の人生計画が、どの程度、実際に反映するのか、を研究した時に、より正しい結論が出るだろう。

 

 結局は、こういうのは環境なのだ。霊的な環境、人間世界の環境。どうしても変えられない環境もあれば、自らの力、文明の力で変えられる環境もある。それらを駆使して、より正しくより善く生きることが大切だ。

 

 正しく生きるというのは、別項目で述べる。21世紀初期には、合理的な生き方--科学的な生き方が求められる。

  

2018年4月5日

 

 交信は360万年後。

 

2018年4月4日

 

現代人というのは、後世の人から見たら、古代人だ。科学的によちよち歩きをしたような初期文明に暮らしていたのだから。

 

 でも、後世の人たちに負けない方法はある。彼らは、何万年、何億年と遅れて生まれる。我々はその時間差の分だけ、成長すればよいのだ。その差をつめられなければよい。

 

 かんたんだ。人には成長率がある。後世の者たちと同じか、それ以上の成長率を保つ。すると、絶対に、子孫達は追いつけない。それだけのことだ。

 

 現代人の成長率は、そんなに高くない。だから、そのままで、あの世に進み、ちんたらしているとすぐに後から来た者たちに追い抜かれる。

 

後世の人間は、教育がよい。はじめのスタートダッシュは、けっして彼らには勝てない。彼らは、300-600年生きて、あらゆる科学だけでなく、塑像、絵画、音楽、文学、スポーツなどほぼマスターする。人間はそんなものは80年で彼ら並みにすべて覚えきれない。

 

 だが、彼らにも弱点がある。これら基礎科目はだいたい覚えると、それ以上に覚えることはあまりない。だんだんと彼らの成長率は下がる。人間は、これらを倍くらい時間をかけて、マスターする。あの世でなら可能だ。すると、まぁ半分ほど追いつく。それからも、同じように必死で学習していたら、やがて追いつけるだろう。

 

それしかないのだ。私の今のアイデアでは。

 

成長率を高く保つには。一つには、未来計画を高めに作ることだ。無理とは言わない。向上するのだ。未来を変える才能が高いことが大事だ。すると、よりより教育機会を自分に与えようとする。成長率が高くなる。これが最も肝心なことだ。貪欲に、自分を高める。それを最優先とする。

 

 このためには、予定というものは捨て去る。成長率が低いあらゆる予定はキャンセルする。誰かが決めたかもわからない予定は、やらない。それをしないで、成長率が高いものを組み込む。それを行う。

 

 もっと大事なことがある。楽に向上してしまおうという方法だ。惑星の文明は、一定の成長率がある。銀河系の外側のこの領域では、成長率も低い。ここのエリアでは、みな同じスピードだ。後世の者たちが、成長率が高いといっても、所詮、宇宙の田舎者のそれなのだ。

 

 そう、もっと成長率が高い惑星に学びにいけばよいのだ。中心ほど、文明は早く技術を進歩させる。成長率は高い。銀河系の中心、宇宙の中心にゆくのだ。これは、もっとも安直で、簡単に、自分を高められる方法なのだ。

 

できの悪いグループの人の仲間になっていたら、ずつと芳しい成果は出せない。優秀なグループに入り、そこの端のほうで学ぶ。すると、何万年、何億年とたつと、やがては頭角を表すだろう。

 

宇宙の中心の星々と縁をもち、その文明についてゆけばよいのだ。これが、今、私のやっていることなのだ。

 

 自分を高めるのは何のためか? 君は幸せに生きてきたから、はぐれ者にされるつらさはわからいなだろう。実力がないと、まず相手にされないのだ。大事な仕事を回してもらえない。いい役目も与えられない。隠居老人のようになってしまうのだ。まずは、社会に参画して、よりよい活動をして、充実した生活を送るため。まずはそれがある。

 

 社会に貢献できたり、よりよい成果を出すのは喜びが大きくなる。そういうのはある。才能がある者たちは、主役にもなれるのだ。あいつはたいしたことがない。そう言われているうちに、だんだんと仕事が来なくなって、小さくなってゆく。それは、かわいそうだろ。

 

 君はこのままでは、そういう運命になるよ。

 

 いやいや、私は中心の星につかまって、彼らの中位くらいに、とどまって、おく予定だから。なんとかなるさ。

 

 後の世の地球人がそれ以上にかしこくなったら? 

 

 

2018年4月4日

 

子供ほど賢い。1世代若いと、新しい知見をより多くもっている。特に、新しい発見が相次ぎ、新しい常識に次々とかわる現代では。現在は、最高の知見でも、20年もすぎたら、当たり前。いや、3-4倍はそれが研究され、より多くの知見を人々はもつ。

 

 江戸時代の人間が、どんなに素晴らしくても、今ではその知識に、どれほどの価値があるというのか。迷信に覆われ、科学的に洗練されてない古い知見にみえるだろう。

 

子供ほど賢い。40年後の子供達は、我々より倍正しいことを知っているだろう。長生きするほどに、それを実感する。

 

 だが、負けてはならない。子供達がどんどん賢くなっても、取り残されてはいけない。彼らより賢くならなくては。

 

 電器屋で、キーボードを弾いてたら、子供がきて、私よりうまくひくんだわ。少女と男子が。6-8才で。子供に負けてはならない。

 

 私は基本、この姿勢で生きることにしている。私のライバルは、地球では子供達なのだ。500年、2000年と生きたら、やっと現れる。私を越しそうなのが。でも、くらいついて、追い越されないようにするのだ。

 

 現代人は教育システムだけでなく、肉体から後世の人に劣っている。遺伝子などで改良された人類にいずれなる。化学製品も、栄養剤もいろいろよいのがあらわれる。それらで、強化された人類。そういう明らかに優生的な人類がやがて台頭する。

 

 そこのトップエリート達に私が、負けてはならないのだ。後塵を拝すると、それは現代人が役立たずってことになってしまう。

 

 一人くらい、いや200人くらい優秀なのがいないとね。この時代の人は誇りをもてないでしょ。

 

 

2018年4月4日

 

新しい友達を宇宙に探す。いいのが出会えそう。

 

ジャンヌ・ダルクは英国との戦いで仏を勝利に導いた英雄だが、処女というのはまず嘘だ。中世の村娘で自由にのびのび育って、15才以上に処女はいない。中世は強姦などは多発しており、ありえない。裁判の時に処女をフランス人は検証したようだが、間違いだろう。神の啓示を受ける女霊能者は処女だというキリスト教徒の思い込みが、そもそも間違いだ。私は彼女が真に、神の啓示を受けたかは検証してないから、そこは判断を保留する。

 

 処女が純粋で、神のみ心にかなう、というのはおかしい。セックスに才能がなく、無能な段階で、優秀な人間ではないのだ。神がその点で、かなり能力が劣る人物を、それなりに才能ある者よりも、愛でることはない。処女や童貞、男女の交わりを禁止するのは、別の理由がある。僧侶や修道女などはそうだが、目的のために人生を捧げる。そういう配偶者をもたない者は、一途で純粋な志をもつ。世俗的な妥協をしにくくなる。堕落しにくくなる。それが教義の純粋性へとつながる。男女の交わりを断つのは、同じ教義を長くもたせるこつなのだ。

 

 宗教を長くもたせるこつだ。が、教祖や霊能者は、モーゼ、イエスなどは特に神の使いは、結婚して、男だけではなく、女性の世界も知り、社会のことをよく知らなくては、こなせない。預言者であるなら、バージンではないのだ。それが、ユダヤ、キリスト教、イスラム教など一神教の習わしだ。

 

日本人はそういうこともわきまえないのがいて、嘆かわしい。仏教の僧侶と預言者とを同一視している。

 

 

 紛らわしい。天使は悪魔とは戦わないのだ。なぜなら、悪魔は、アニメと同等で空想の産物。大人がまじめな顔つきで、俺は将来、デビルマンと戦うなど話したら、世の中、笑いものにされる。

 

 すべての物質は宇宙に源をたどる? それは神と同じ? いやいや、これはわかりにくい。宇宙内で、物質や出来事は起きる。とはいえ、宇宙は素材である。それら万物を作ったのは創造神だ。が、私の理解では、それを神とはいわないぞ。

 

 わかりにくい文章だ。神は元人間で、死後、霊となり、何万年、何億年で神の役目を引き受けたというところはよい。

 

天国の説明らしい。守護霊として、悪から守るために働いている? はぁ? アメリカが悪の枢軸と対峙するのは、一面である。アメリカはそのもっとも大事なのは、新しい科学技術を実用化して、社会を発展させることにある。悪党達と戦うことが人間の主要な活動であるかのように書くのは、おかしい。

 

 まとまってたくさん書くと、分析しにくい。

 

 なぜ、全ての活動は、悪との戦いという位置づけになるのか? 理解しかねる。良き生き方をしようと訴えても、悪が邪魔する。自然破壊をしようとする悪どもと戦い、地球の環境を守る。そんな話は、どこか変だろう。抵抗勢力をすべて悪霊と決めつけることが、一つ。それはいけないと思う。

 

 確かに、地球では、悪の宇宙人の介入率が高い。低級な悪の宇宙人が、感情を悪化させたり、悪い考えを思い浮かべさせたりする。それによって、物事がうまく進まなくなる。だが、よく考えよう。悪の宇宙人の妨害を無にするのは、同じ星出身の善の宇宙人の仕事だ。惑星の責任というものがある。それを、天国の者たちが、すべて対処するというのは、ちょっと考え違いだ。

 

 古いものは、現代の水準であまり細かく分析すると、ボロが出るのだが、こういうのはしょうがないとしよう。

 

2018年4月4日

 

さてと、今日の交信は360万年後の我々

 

2018年4月3日

 

この暗い池田にいると、基本的なことを忘れてしまう。

万博のエキスポシティで気づいた。気の強い女の子がいた。ここにはいない。伊丹まででかけてもいない。豊中にはいるようだが、本当に枚方より意志が強いかは、はっきりしない。気が強いと多少のことには動じない。面白い。興味をもてる。

 ここにいるのは、私が一言発したら、すぐに撃沈するほど気が弱いのばかり。相手にもならないから、相手しないのがこれまでのやり方だったのだ。

 

 男も同じで、弱々しいのだ。それで相手はしにくいのだ。それでも、下のおとなしい者を導く能力が私にあれば、別に孤独になりはしないのだけど、その技能はまだ覚えてないのだ。それを覚えたらどこでも一人きりにはならないだろう。

 

男が、ここはあいかわらずつまらないのだ。顔と目が暗いのは、駄目だろ。裏で悪いことを考える悪人の形相だ。この辺りのは、そんなこともわからない。顔だけでも明るくする。当然だろ。

 

というわけで、エキスポシティは、面白かったのだ。茨木の南の人間に触れただけで、こんなに気分がよくなる。しかし、持続しない。暗い人間の中にいたら、楽しくなくなる。

 

最近、思っているのだ。天王寺の人間は確かに強い。が、がさつなのだ。本当に、天王寺あたりに、すこぶる最強の人間がいるのかと。住吉には暮らしたのだけど、結局、みつけられなかった。きっといないのだ。

 

さて、問題。私が気の強い者たちの中で、過ごし、必要な技能を身に着けたら、何者になれるだろう? 答え。活気ある人間。健全な大人。リーダーシップを相応に身に着けているはずだ。

 

私の精神性は、そういうところでしか開花しない。こんな山奥で、精神性をつきつめていっても、社会性はどうもあがらない。

 

ところで埼玉のY子さん。よく我慢して大阪に暮らしているよな。大阪と和歌山の人に何の興味もないはずなのに。私が、アメリカのある都市で長く住んだら、わかるだろう。その気持ちは。

 

 

日本の若手の音楽は、どうして、同じようで、流行歌の繰り返しなのだろう。歌い方、声まで似る。彼らのパターンが3-5つくらいしかないのだ。若者に人気の曲、歌手は幾人かしかいないのだ。案外、メジャーでも端のほうにいる人が、人気なのだ。

 

 私はリズムとメロディで優れた人をみつけて、彼の発想から出てきそうな曲ばかり、つくるのだ。以前は、やまだかまちで、今は、謎の外人。この方法だと、毎日、新鮮な曲が出てくる。そして、彼の理論や技術を身に着けたら、新しいのにうつる。

 

 ユーチューブでいろんな曲を聞いているが、私と同じ曲調の者とはなかなか出会えない。まだ遠く似るのが1-2人くらいだ。若手には皆無なのだ。

 

 私、元来のリズムはあるのだ。上海ハニーとか、そんなのと似ているのだ。それはちょっと封印中。その方向だけでは音楽の幅が広がらないから。

 

 ピアノ(キーボード)弾いている人でないと、いい曲を書けないと思うのだ。作曲時に使う楽器がピアノとギターとでは、レベルが違う。ピアノ系が高いということ。ギター使ってそうな人はどうしてこんなに簡単なものしか作らないの? というのが結構いるのだ。

 

ピアノ系は、本人の演奏能力と曲の質が比例するかもしれない。私は今、そのジレンマにつきあたっているのかもしれないぞ。作曲できるはずなのに、いつまでもいい曲が作れない。ピアノの弾く力が、低すぎるからではないかな? ブルグミュラーの25番の練習曲の13番だからな。現在。

 

 私は英語のメロディはかけるのだ。昔、ボストンに住んでいたから。ゴニョゴニョ言いつつ。英語の曲らしいのを。同じことをしている若手がいて、驚いた。日本風から抜け出るには、外人の曲風にするしかないのかな。

 

 若手の曲をきいて思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2018年4月3日

 

神とは、

 創造神は、あとで考えよう。創造神はいたしても、この巨大な宇宙を作った霊は、地球の運営に直接関わっていないだろう。この宇宙の外に別の宇宙があり、そこに、この宇宙の誕生の設計図を書いたのがいたかもしれない。この宇宙という新しい霊たちの住居ができたら、早速、移り住んだ者は大勢いるのだ。この宇宙に惑星ができて、高度な知性をもつ生物が誕生する前に。

 そういうのが、他宇宙からこの宇宙に入り込んだ高度な存在である。

 キリスト教の創造神が、なぜ一つの説として過剰に説明されなくてはならないのか。それは、多くの民族の神話に、天地を創造した神というものが描かれるからだ。地球をつくったのみならず、宇宙まで作ったという。私は、なんらか関与--影響を与えた霊はいるとは思う。彼らが何千億?もの銀河。そこに何千億とあるうちの一つの惑星、地球、そこの住民である人類にまで、深く関与していると思えない。

 

 というわけで、我々を導く神は、この宇宙の創造神とは別物だと考える。別物だという証拠もある。我々の宇宙は誕生して、140億年ほどとされる。それ以前の霊は、一定の高度さがある。しかし、人類の中で、最も神に近い技能をもつバッハや万能のレオナルド・ダ・ビンチは、どうもそんな古い高度な霊の指導を受けたようにはみえない。明らかに劣る。

 また聖書が神の産物なら、もっと究極かつ、完全なはずだ。が、偽書はたくさんあるし、その偽書と一目瞭然で区別できるほどに高い品質があるわけではない。聖書はかなり不完全な代物だ。

 

 地球を導く神は、創造神とは別もので、たかだか数億の文明に暮らす者と考えると合致することが多々ある。これは文明の長さとその住民の技術力などを調べた上での見解だ。それを示さないことには、納得できないかもしれない。

 

 神は、一つで一人だ。私の研究では、人類をあと約2万年は導く。その間は、かわらない。なお、ヤハエの計画に従って、天国にいる者たちが、順番に指導者を努め、実現させる。神の計画は、地球霊が霊界においては、実現するべく働く。

 

 私はまだ神の計画を立てたことはわかるが、どの程度まで本人が直接、地球霊を動かしているかを知らないのだ。

 

 神は、ヤハエで、あと2万年はかわらない。神は最初だけ長く、別惑星からくる。その文明が自立すると、その星の出身者が神の役目を担う。

 

 神は、計画を立て、実践させる。霊界の政府の代表だ。イメージとして、大統領がもっとも似る。しかし、もっともっと全体の計画を立てる。安っぽい憲法などに縛られない。自由を基調として、惑星の人類が最大に発展するような施策を決め、それを実行させる。

 

 霊界のすべての面々がその神の計画に同意して、協力する。2人以上にしないのは、複数が計画すると、ちぐはぐなデザイン--文化を宿すことになるからだ。文化の統一性が損なわれる。

 

 人間の活動は、すべて霊界の計画下にある。悪の宇宙人や悪魔など、ごく弱い抵抗をする者は、人間の住む世界にいる。が、彼ら弱小勢力ともいえる悪の面々のすべての活動は、神の管理下にある。神の計画を妨害することはそもそもできない。神と悪魔の戦いなど、考えることもくだらない。大型ジェット機の前に、昆虫が飛ぶようなものだ。悪もまた計画の一つに組み入れられて、その中での役割を演じる。社会に犯罪者がいるように。

 

 神は、社会の発展を一つ残らず、計画する。細部にいたるまで。本人の意志で決めることもあるが、予め決まっていることもあり、周囲の星々の面々が希望するものもある。

 

 神は、その社会の主要なメンバーは、神と同じ星の仲間(聖霊・天使)にする。他の系列の霊は地球では、主役になれない。

 

 神はすべて十次元で、太陽神の前後から選ばれる。惑星の初期開発という専門職で、高度な才能がある者たちから選ばれる。いかに選ばれるかは、はっきりとは知らない。地元から選ばれるのだろう。利権もあるかもしれない。

 

 神は組織(天国)をもつ。人間個人は、神が直接指導するのではなく、霊界の各々面々が担当して、指導する。その上位は聖霊か天使となる。天使や聖霊の子でない場合は、そんなグループがあり、そこでの役割が与えられる。もしくは、神が計画した仕事上での。

 個人が直接、神につながっているという考えは、多くは間違いだ。それは、ヤハエの子のみだ。

 

ざっと以上である。神に関しては、まだすべてを書いてはいない。

 

2018年4月3日

 

 今日は遠出せずに、猪名川で桜の撮影会。どうも逆光をうまくできない。顔が暗くなる。どうしたらよいか?

 

本が足りない。買いにゆくしかない。鍵盤のキーボード。ミニではもうだめ。練習にならない。大きなサイズを早く入手せねば。

 

2018年4月3日

 

  320万年後の我々。

 

 

2018年4月2日

 

 私のことも。

 

 私は一人研究して、地球を豊かで素晴らしい星にする役割をしたいと思うようになった。文化を高める。そこが大事だと。

 政治的なものは私の得意なもので、十分にできるのだ。その上で、文化面で多様性を開花させる。どうすればいいのかな。と研究しているのだ。

 

 精神論が、荒廃している。道徳、倫理など確立する。が、ここはそういう基礎ができたあとは、精神論の向上は、科学の発展による。基礎を作るのは、私の役目らしい。

 心理学、脳科学。新しい知見は、どんどん増えている。それに、対応できる質の精神論が、ない。伝統的な道徳などにない。それを用意する。科学で研究の素材となるような精神論。

 それがないと、地球の精神論、倫理などが向上しない。発展しない。他星に遅れをとる。

 

 精神論といっても、道徳をまとめる。精神の段階論(仏教の階梯、精神次元)を、発達心理論で説明する。大きくその2つ。さらに、10次元の霊、進んだ星の教育・人などの研究から出てきたような知見、高度な精神のあり方を加えて、理想の精神、究極の精神を明らかにする。

 

 それが登場すると世界はどうなるか? 西洋のへんてこなキリスト教、仏教の精神が、これにとってかわる。西洋人はなぜか、精神が何かなど一つも語れないのだ。不思議なことに。

 理解しているのに、精神を定義できない。イエスが比喩で、神が実例で語りすぎ、定義ははっきりと伝えなかった。その流れが続いている。実に奇妙なことだ。そういう不自然な状況を終わらせる。

 

2018年4月2日

 

万博のエキスポシティにゆく。過度な疲れは残ってない。そこがよかった。が、痛恨の電池切れに、ぴんぼけときた。自動で焦点があうのに、謎のぴんぼけ。電池切れ間近で発生すると仮説を立てた。買い替えは電池がもつカメラにしようと思う。

 

男女の愛は、きっちりなっているのは本人の理解があったためだろう。このように精神論で秀でている分野では、間違いが減る。ここはよくできている。

 

男女の愛だが、ややレベルが低い。エロスと精神的なもの? 男女の愛に精神的なものがあるのかは、あまり知らないのだ。男同士なら、親友。その友愛の水準で男女で、信頼しあえるかどうか。しあえるなら、愛せるだろう。いや、男女が愛するという段階で、それはもう、男同士の友情と信頼に劣るような気がする。

 

 男同士は、お互いの面倒はあまり見ない。困った時にも、適切に対応できる。が、男女となるとお互いの意思疎通ができるまでがまずは大変。そうなってからも、またお互いに体を求め合うというエロスが入り込む。結婚すると、そういう性交などは、夫婦の信頼にはあまり関係なくなってくる。そうなって安定する。

 

体を求め合うのは、エロスの愛だが、本来の愛にあまり入れたくはない。

 

 男女はたいへんだ。信頼ができ、真に愛が生じるまでがたいへんだ。男を信頼しない女は、愛を知らないでいい。エロスの対象としか男を見ていないのだ。信頼とは、頼ることではない。依存ではない。信用することだ。

 

 ただ精神主義というのは、プラトニックなんとかのことらしい。本当の精神主義とは意味が違う。精神をよくすることが第一という主義は大事だ。

 

 と今日は、疲れて頭が働かない。

 

 悪魔論はすべてボツ。そんなものを残しては、後世の人にバカにされる。他人がそうなっても私はかまわないが、私が間違いをおかすわけにはいかない。

 

 自由意志の星?

 ニューエイジ用語。地球は自由意志で人が動けるという。自由意志のない星が他にあるらしい。それは北朝鮮か、中国のように独裁で自由な活動が許されていない星だろう。

 しかし、そういう文明は、地球でいう21世紀以後の水準ではない。というのは、社会思想の段階では、人々は自由を確立する。個人が自由に活動するような社会を、20-21世紀に作り上げる。それを成し遂げられなかった星は、そこで成長が鈍化する。どんなに社会主義的な制度が根強く残った星でも、遅くてもその文明で西暦換算で2050-2100年までに、個人の自由を保障する体制になるだろう。

 

 社会の発展は、どの星でも共通だ。発達心理、人類の発達段階、知的生物のそれは一致するからだ。文明のテーマは、感覚→力・運動→理性→社会→空間へとすすむ。自由な個人を認め、独裁を完全に終わらせるのは、2030年までにどの星でも、起きる。多少、制度が遅れる星があっても、それ以後100年も独裁体制を堅持できない。つまり、自由(意志)は、西暦2100年までにもてる。そんな自由が保証された文明になる。

 

 というわけで、地球より進んだ星はほとんどすべて自由意志の星だ。自由意志の星というのは、ごくごく当たり前のことをいっているにすぎない。地球だけが何か特別と考えるのは、文明の発展というのにあまりに無知だ。

 

 ある『守護霊が他星からきている者たち』と人を区別をする文章について

 たいていの人は、直接の守護霊は元地球人だ。例外的に元宇宙人がいる。が、その上の守護は、地球人はまずいない。他星がほとんどだ。地球は歴史が浅く、そんなに高い能力をもつ守護がいないため、他星の霊の監督を受ける必要があるためだ。地球上を最終守護とする人はほぼいない。というわけで、守護霊が宇宙人かどうかを区別することに意味がない。それを多用するチャネリングは信用するな。

 

 地球で経験を積んだら、外の星にゆく?

 そんなの信じてるの? 君は故郷を捨てるのか? 正直に言うと、人と霊は地球を永久に捨てず、故郷とする。こんなの常識だろ? 太陽に寿命が来て、地球が住めなくなると、人類と霊界は別の惑星に移動すると、私は推測する。その時に、別の星に移民する。が、地球人類という所属は捨てないと私は思う。これが真実。

 

 というわけで、地球で経験できることがなくなると、他の星に行って修行する。というのはデマで嘘。こういうのは、インチキの類。

 

 なぜ、はっきりそういえるのか? 私は自分の未来を数億、数十億年後まで、コンタクトした。100億年後とか。私は地球人として振る舞っていた。そもそも、地球人が他星になれない決定的な理由がある。細胞や、肉体の特徴が、地球人はオリジナルだ。他星にいっても、DNAやミトコンドリアが違うし、生殖もできないし、食べ物も同じではない(地球人にとつて毒でも、他星人には消化できるものはたくさんある)。別人種扱いだ。チンパンジーが、群れから出て、テリトリーから外にゆき、人間と同じ仲間になろうとする。それは無理なのだ。それと同じ理屈で、人間が他の星にゆき、他星人としてふるまうのは、奇妙なことなのだ。

 

 霊も、子供は産める。原理的に、その能力はある。他星人と一緒に暮らす時、それを放棄することになる。もし、セックスしたくなっても、相手はいないのだから。妻と一緒に、別の星に行って、永遠の時の中で、妻とだけセックスするのか?

 

 さらにいうと、合体霊システムにおいては、地球の霊は、数百、数千の惑星で、知的生物(他星の人類のような存在)を指導する。いや、正確には、天国の霊はそれをしなくてはならない。高度な星でも行う。別に他の星にゆくのに、精神次元をあげる必要はないのだ。6次元でも、5次元でも、7次元でも。その次元のまま、他星で合体霊をして、その星の人類を指導する。

 

 次元上昇と、それにまつわる様々な論は、間違いだらけでひどい。

 

人生に意味がない←恐ろしく自暴自棄なセリフだ。ふられたくらいで、人生は台無しになってはいないぞ。人生に意味が見いだせない者は、世の中の価値というものを知らないやつで、悲しいのだ。

すべてが中立←ふーん。敵でも味方でもない、ということか。神と悪魔もその存在が中立というわけか。敵はいるし、味方もいるぞ。

自由は神からの贈り物? ←自由というのは、社会的に自由という意味しかない。社会の制限がなければ、自由。独裁的なもの、専制、共産を排除したから、自由がある。自由を獲得できたのは、先人や自由主義者の貢献のおかげだ。神というのは飛躍させすぎ。

 

 あのお、生まれた以前の記憶は別人のもの。それは自分のものではない。つまりに、過去生は他人の記憶だ。自分のものではないから、それはニセモノの記憶だ。そういう古(いにしえ)の体験をみても、思い出したと勘違いするな。他人の体験をのぞきこんだにすぎない。夢で、よくやっていることだ。

 

無意識? 潜在意識? それは偽の記憶、他人の記憶で体験だぞ。他星の素晴らしい社会に住んでいたのに、それが地球にやってきて、みじめな生活を送っている。そんなわけないよ。これを言うのも、悪。いつから誕生前の体験が、自分の体験になったのだ?

 

あかん。チャネリングは間違いが多すぎて、いちいち修正する気にならない。信じている人がいる。何を信じているか。多くの人に信じられているものを順番に一つずつしらみつぶしに、つぶしてゆくしかないだろう。

 

悪宇宙人の影響を取り除くことは、私の使命の一つである。

 

 

2018年4月2日

 

300万年後の我々

 

2018年4月1日

 

舎羅林山にゆく。三脚を使っての撮影。電波の被害で、山で大をする。その開けた場所はいつも電波で腹痛にされ、狙われる地点。さらに、睡眠中に、下剤を飲まされたようだ。夜間8時から3度ほど下痢下痢。

 

誰もいない山道を歩いて、写真をとった。なかなかいい顔に写った。山で孤独にしていると精悍な顔つきになる。これでわかった。池田、川西の人間が近づくと、私の顔が崩れるようだ。

 

幽霊界は、新任がたくさんいるから、就任の挨拶をしなくては。

 

また、目の下の荒れは、マスクをしすぎだからと判明した。マスクはほどほどにして、かける時も目の下にかからないようにしようと思った。

 

2018年3月31日

 

慈悲の必要性は、爺さん達、愛が得意でない者も、許す心をもたせられることだ。その程度なのだ。愛の弱い型として、残す。

 

エロスの愛?

 それはすべて自己愛ではない。奉仕もある。もし女性が欲情していたら、それを満たす愛は、エロスとなる。これは自己愛ではなく、奉仕なのだ。エロスの愛をすべて自己愛とする考えは正しくはない。エロスは、奉仕も含まれる。同時に、自分が気持ちよくなるだけ。利他的な愛で、心が気持ちよくなるか、エロスの愛ではさらに心だけではなく、身体的にも気持ちなる。エロスはそういうプラスもある。

 

 エロスの愛の多くは自己愛だ。これは種の発展のために不可欠であり、男女間の愛の理解のためにも必要だ。愛を一番感じられるのは、エロスなので、それをしない者は、深い愛を知ることはできない。

 

 プラトニックな愛は、理知的な愛とはいえる。だが、男女間の愛をさす言葉であり、単に性的な交歓を含まないもので、初歩的なものになる。発展すると、エロスを伴う愛になる。そして、恋人、さらには夫婦となる。

 

エロスをほっしない生き物ならば、それはそれで成り立つだろう。が、人間はそうでない。

 

 

2018年3月31日

 

280万年後の我々? 260だったかな?

 

2018年3月30日

 

愛の哲学者は、他がなくては力を発揮できない。他に依存する。自分のことが、第一ではない。自分よりも、他者を成長させるための補佐なのだ。ここから、愛の哲学は、自己充足できず、中心ではなく、周辺者の哲学となる。

 愛の哲学は、1番と3番がもつ。2番は自己成長を目指す。というわけで、1、3番は2番の引き立て役(サブ)となる。

 

愛の哲学者が決定的に劣ると理解するのは、そう難しくない。オイディプスを読むことだ。彼は自己がある。その上で、周囲に対する思いをもつ。自己を消して、周囲への思いを説くという小賢しい(愛の理論の信望者によくある、自分の意図をごまかす言い方)ことはしない。

 

 自分の意図を隠して、何かさせたり、するのは、こずるいやつなのだ。君は何を考えているのか? 問われる。自分をしっかり持たなくては、世界では通用しないのだ。

 

 ちょっとかいてみよう。

 

 私の意図。たくさんの考えてきた。その中で、私の目指すのは、地球を宇宙の中でとりわけ優れた星にすることだ。小さい星や山がない星、辺境の星は文化が貧弱なのだ。そこの者たちは力もなく、弱い。劣っている。かなり私にはかわいそうにみえる。弱々しくみえる。対して、宇宙の中心の強さ、巨大惑星の威勢のよさ、大きな星の理論の発展。素晴らしい。

 

 で、私の目標は、地球を豊かで強靭な文化にすることだ。理論はちみつで、芸術性も高い。科学技術の発展も高い(他文明と比較して)。経験の量が多い。質が高い。これは、文化開発度で表す。文化開発度とは特定の時代で、開花する可能性がある文化を100%とする。そのうち、何%の文化を形成できたか。これが高いほど優れた星だ。地球は、できるだけそれを高める。

 

 これは地球の宇宙内での競争なのだ。遅れるほどに、扱いが小さくなる。文明には序列があることを忘れてはいけない。古い文明のほうが高いということではない。同時代の文明の中で優れることが重要なのだ。

 

 地球は銀河系の辺境にある。中心部の文明ほどには発展できない。が、できるだけ高めるのが大切だ。

 

 そのためには人口は多いほどよい。しかし、惑星のサイズで最適な人口は決まる。近隣の惑星を植民地化しても、そうは増えない。人口は太陽系内の惑星によって決まる。それで我慢するしかない。

 

 変数をいじくる。高度な惑星ほど文化開発度が高くなる。個人の活動をあげられるからだ。人口をあげられない。個人の活動をあげるしかない。それを最大値にするような制度を作らなくてはならない。活動をしなくてはならない。

 

 まずは、私の中にこういうことがある。

 

 圧倒的な文明に負けたままでは情けないのだ。追いつき、追い越さなくては。

 完璧さを目指さない? いや、完璧を何重も繰り返すのだ。それでも、追いつけない。

 最高になろうとしない? 最高というのは狭い社会の中でのトップだ。最高という低水準で満足して成長を止めては、宇宙の中で何も光らない。完全さなど必要ない?

 完全なのは当たり前だ。それをすべての領域でやりとげてこそ、力がある。完全さにもバラエティがある。それをすべてこなさなくてはいけない。

 

 地球の文明を高度に育成する者たち。計画してきた者たちがいる。いつか彼らに加わり、様々な活動をするのだ。

 

 中心星という概念がある。ある宇宙エリアで地域の中核となる惑星のことだ。地球はさほど大きなグループではないが、その上のほうに位置する。周囲のリーダーたる星として、それなりにならなくてはならない。

 

この熱意が伝わらないのは、私の宇宙交流の経験を記してないからだ。それを隠すような文章では、いつまでも同調者が現れない。そう、細部を書けるのは、池田ではない。ここではそこが書けない。誰も聞こうとしない。私の生活体験など見向きもしない者たち相手に、書けるわけがないではないか。

 

それはいずれ明らかにしよう。今日、大切なのは、この宇宙交流から、地球の文明をどう発展させようと思ったか。その筋道をはっきりさせることだ。

 

 地球の文明を貧弱とか、低いとか、欠けていると強くおもったことはないだろうか。この歴史にしては、芸術の質は高い。が、猫たちを前にして、小さく、理論の伸びも足りないように感じられる。

 

 そこで、様々な分野で、理論の質を引き上げようと思いつつある。現代芸術はテレビの中だけ大きく伸びたが、絵画と塑像、彫刻は落ち込んだ。

 社会論は、日本の中で大きく下がったまま。

 

 

 

2018年3月30日

 

今日は、東山から五月山展望台に登り、五月山動物園を見て、帰った。いやあ、楽しみにしていた山道だったが、案外だった。さほど景色がよくなく。疲れたのがよくなかった。もっと食べ物をもってゆくべきだった。写真がしっかり撮れなかったのが、不満なのだ。

 

 何々?

 イエスが人類の罪を贖った? そんなの信じてはいけない。私はそれを聞いても、何をおかしなパフォーマンスをしているのかな、と思ったくらいだ。そんな大仰な死に方をしたというのは史実ではない。後の人が、イエスは偉大だったのになぜ若くして、磔の刑で亡くなったのか。それが偉大なものだと印象づけようとして、そんな理由をつけたのだ。と私はずつと思ってきた。

 

ユダヤ教で、あまりに生活規則が細かく定められた。戒律が厳しくなった。それに違反した者は、神に罰されるという罪の意識が強く芽生えた。

 イエス・キリストは、生活規則をなくすような法を作った。と同時に、過度な戒律を守られなくてよいとしたのは、弟子だけど。過度な戒律を破ったことによる、過度な罪の意識が必要ないといったのじゃなかったかな。そういう教義、理論であって、現実では、他人の罪を誰かが背負えるわけがない。以上。

 もし、そういう他人が払えばすむような罪ならば、それは負債という。本人がもつ本質的な罪ではない。でも、イエスは、人類の負債をかわりに神に払ったわけでもない。

 おいおい、キリスト教徒であるまいし、イエスが人類の罪を背負ったなどと教条を信じるな。もしそうならば、彼の死後も刑罰はいらないだろ。しかし、実際は刑罰はある。罪人もいる。罪人がいるというたった一つの事実でもって、イエスが人類の罪をあがなったわけではないのだ。イエス以後も。

 そもそも、神に対する罪は、ユダヤ法を破る罪であり、イエスが背負えるものではないのだ。ユダヤ法や国法を破るなど罪人は、イエス以後もいた。

 

 友人のために死ぬ? これもあまりよくない。走れメロスの読みすぎだ。自分が死ぬか友人が死ぬか。そういう選択を迫られる状況に追い込まれること自体が、愚かだろう。実際に、私の友人が私のために死んでみろ。いやな気持になるぞ。山岳の遭難でよくあるが、身代わりならなおさらだ。素晴らしいと思うようになれるのか? 私にはやや疑問だ。おおいなる愛とも思わないだろう。「おおいなる」というのは、チャネリング用語(悪の宇宙人との交信でしか出てこない言葉)で、通常はあしきメッセージなのだ。波動解析する必要がある。

 

「3/31 追加-- 友人のために死ぬは、おかしい。腎臓移植でも、腎臓が悪くなり死にかけた妻のために、自らの腎臓をあげて自分の命を落として、妻を助ける。それは、命は1対1であり、病気がちな者を健康な者のの命によって助けたということで、悪い。最初は、夫と長生きしない妻で1.5-1.8の命があった。それを寿命が伸びた妻のみの0.9の命に下げた。

 

愛は、集団の向上のためには、自己犠牲はありえる。が、このように単純にマイナスの場合は、よいものではない。1対1の場合は、自分の命を捨てるのはあまりよくない。」

 

 利他的とか自己犠牲とか言う。が、その行為の目的は集団、人類の発展・成長だ。完全に自己の利益にならないものではない。集団の利益には必ずなる。博愛では、自己の所属する集団外のすべての者への愛となる。優秀な者は、それら行為が必ず、人類にとって価値あるものでなくてはならない。ある特定のイデオロギーを目的にするような行為は、愛ではない。破滅への道で、悪だ。

 

 自己愛と他者への愛。その区別か。他社への愛とは、人類の発展を真にもたらすことに限定される。そうでないものは、愛ではなく、悪の行為となる。

 

 慈悲の心は、違うのだけど。あれは、基本は悲しみの中にある者たち、不幸な者たちを慈しむ心だ。

 

 今日はここまで。エロい話は、する気がせん。

 

2018年3月30日

 

260万年後の我々。

 

2018年3月29日

 

 宗教の問題

 

宗教の改革者が現れる理由について

宗教で改革者が登場した理由は、社会が危機になったから、新しい導き手が登場したという考えは、ちとおかしい。根本的には、時代の変わり目に、新しい思想が必要。たいていは、哲学や思想の一部、新規なものですむ。が、宗教の分野に及ぶ大きな変革の時は、時代の宗教家が現れる。

 鎌倉仏教、マイモニデスは、12世紀末から13世紀の新しい宗教の形だ。長い教義を覚える時代は過ぎ去り、短くコンパクトな教理を人々が欲するようになったからだ。この転換では、特に大物の人材は現れていない。

 空海と最澄が現れた時期は、何の区切りかははっきりしない。が、大物が登場した。キリストの宗教改革で、ルソーなどが現れる時は、わりと大きなもので、より才能があるものが現れている。

 宗教で、大きな飛躍が必要な時には、大思想家が登場する。これは、社会の危機に関係なく、思想の変わり目だからだ。思想が変わる時期は、従来のテーマと変わるから、従来のやり方が通じなくなる。それで、社会的な危機が生じることはある。たが、必ずしもそうではない。なぜなら、現代社会では、科学全盛となり、社会制度の争いも終わり、世界の戦争がなくなり、国際平和がほぼ確立している。が、この時期も大きな宗教改革がなしとげられようとしている。そんな宗教家は現れている。

 新しい宗教家は、新しい希望と新しい理性(宗教理論)を人々に示す。そこはよい。

 

 こういう宗教は、最初だけ思想家として立派であればよい。後継はふつうは、新しい教義を維持して、すこし発展させるあまり優秀な者でなくてよい。過去においては。例外は、21世紀初頭で、この段階は、新しい思想は3代にわたって偉大なる人物が、その成立に携わる。それまでの宗教を大きく変え、世界を統合する地球規模のものが現れるからだ。そのために、選りすぐりの3人が関わる。4人目以降は、中級くらいとなる。

 

 これら従来にない思想を開発する者は、神によって特別に才能が与えられる。これらの者は、時代の課題を解決して、思想に表すことが、その主要な使命となる。過去の教義の新解釈では不十分だ。高度な才能がいるのだ。こういうのは、特別に高い理性が与えられるのだ。現代の問題を解決できること。それは社会問題のみならず、思想上の問題に及ぶこと。しかも、その解決案は、巷の思想家や哲学者よりも優れたものであること。それが条件となる。

 

この新しい者たちは、最先端の問題をみつめ、現代のテーマを大きくとらえ、何が人々に必要かを探る。遠い昔の問題やテーマ--宗教はキリストの時代の関心を扱うものもある-- そんなものを追いかけるようでは、使い物にならないのだ。

 

 

2018年3月28日

 

石は、苦痛を感じない。苦しみがない。喜びもない。愛を求めていない。乾いても平気だ。何も感じてない。この非生物は、愛をもたない。たったこれだけの例外的な事実によつて、すべて(の物理世界)は愛ではない。

 

愛論は、とことん否定する。過剰なまでに、日本では愛が理解されている。そのフェイクを信じてはいけない。余分なものを削ぎ落としている。過度な話は間違いだと、ひとつずつそれをきっちり証明している。

 

写真が雑になったようにみえる。が、2つのもの、複数のものを一つの画面に収めるという新たな段階に入ったのだ。その技がこなれるまでは、焦点が定まらない散漫な絵にみえるだろう。

 

天国の高次元の霊は美しい?

 その精神的な美しさは、苦労と修行のたまもの? 一般的には能力の高さなのだ。精神論のあらゆる眉唾なものを排除して、それをもたないようにして、正しく振る舞うこと、心がけることで、まずは心が美しくなる。

 

 そこで、愛と奉仕を強調するのは、精神論としては難がある。そこは恣意的だ。

簡単にいうと、愛だけが巧みでうまい人は、精神的にはいびつで、偏りがある。それは美しくバランスがとれた心ではない。精神的によいと評判になる小者に多い。

奉仕も同様で、キリスト信徒の中に、奉仕ばかりしたがるのはいる。だが、彼女たちは心が美しくない。他人のために働きたいだけで、愛のようなものはもつが、心が美しくなる全ての要素を備えているわけではない。そこは、一面だ。

 愛と奉仕は、社会面である。それだけもっていても、社会行動では美しくなれるが、それだけだ。他の面がおろそかで、醜い人はいる。感情表現は歪みかつ醜く、理性もなく、独断であるが、愛や奉仕に秀でているのは、いる。それは奉仕している時は、美しくみえるが、その他は、例えば、勉強中、他人に間違いを指摘された時の反応、すぐさま怒るなど、かなり醜い姿にみえる。

 

 学識も美しい形でもたなくてはいけないし、理性も、感情も、喜びも、純粋に正しく表現できて、なおかつ精神が強くないと美しくない。正しい精神が、美しいというのはあたっている。ただし、美しくみえるのは、多分に、理論的な表現をさすのだ。理論が美しい。姿が美しいのは、形なのだ。どこか先鋭的なのだ。

 理想を追求するような姿が、美しい。ある理論の理想値を体現している精神が、美しくみえる。人間はそうだ。それは、一般的には、理論値としての理想の美しさで、真に健全かつ正しい精神ではないのだ。醜いような精神でも、それが正しいなら、それは美しい以上のものがある。そこは留意しなくてはならない。

 

 美しいとは、理論値の理想。現実の最高、究極のものとは、やや異なる。美しさは、囲碁でいう4段クラス。理論的に打つ人なのだ。それ5段以上の精神になりたいならば、精神の美しさにこだわらないで、最善手を求めることが、大切だ。

 

 正しいのは愛か? 精神的に正しいもので、愛でないものはたくさんある。三段論法。常に美しいとは限らない。無理数の証明法。あまり美しいとは思えない。DNAの配列。生物が蓄積したものだが、美しい設計図にみえない。多少は、生存する生物だけがもつ見事さはあるが、ゆきあたりばったりのように作られた産物だ。

 

 正しい精神では、信頼、純粋、理性などもある。愛だけが特別というのは、偏りある。 

 

 子供は純粋で美しいが、愛をまだ知らない。愛が弱くても、精神は美しくなれる好例だ。奉仕者の愛ばかりに、注目させるような精神論は、どうかなと思う。

 

 このあたりにも、過剰に3点も愛が強調される。美しさを求めるのは、中上級者の精神で、高段のものではないとわかったところで、おひらきだ。

 

精神の美しさを研究して、このあたりを明らかにできる。愛に偏るのはあまりよくない。それは人間関係をより良くすることにしか結びつかない。

 

2018年3月28日

 

240万年後の我々だ。

 

2018年3月27日

 

愛をとことん考えても、なぜ生き物は成長するか? など答えは出ないのだ。成長する者に、寄与するのが愛なのだ。なぜ人は成長するのだろうか? それがわからなくてはすべてみつからない。

 

 生物は成長のために、細々とした欲求をもつ。食欲、性欲(種の発展・成長)、渇きなど。

 

 木々の成長は何か?

 単に大きくなり、それで長生きすることだ。なぜ長生きするか? その長生きのために、栄養分、日光を根から、葉から摂る。

 

 動物の成長とは?

 まずは誕生する。赤児が生まれて、大きくなって、大人になる。生殖して、子供を生む。そのまま長く生きられない者は、しだいに老化して、死ぬ。このサイクルを繰り返す。なぜ成長する?

 

 よく生きるというのが最初にあったはずだ。当然、生存率をあげなくてはならないから、よりよく生きるようになる。成長とは、生きることを向上させることだ。生物は、簡単に死にたくないのだ。長生きできるように、よりよく生きることを常に、目指すのだ。そのように生き方で、より生命のシステムが効率的になるように、向上させることが、成長なのだ。

 

 成長とは、単に、よりよく生きるシステムに変わることとする。これは生物学的な進化とする。肉体の年齢をあげるのも成長という。が、これはあまり重要ではない気がする。

 

 肉体を大きく変えないで、行動や考え方をよりよくするのも、また成長だ。これは、よく生きることだ。成長とは、よく生きるように変えることだ。その目的は何かというとは、より完全、完璧な生を得ることなのだ。生きている時に、受けるダメージが小さくなり、より高速に、的確に行動できるようになることを目指すのが成長だ。

 

 成長の目標は、究極の肉体をもち、完全な考え方をもち、完璧な行動ができるようになることだ。生きたいからだ。生きたいというのが、根本的な欲求である。死はいやなのだ。この「生」の欲求ほを生物は、無条件にもつとしよう。愛されたいから、生きたいわけではない。愛したいから生きるのではない。愛を求めて、愛を体現するために、生物が生きたい、生きているわけではない。

 

こんなことも理解できない? 今は生物の一般論を語る。もっともわかりやすい例で、生物を考える。水中の藻などの細胞をモデルにするのだ。ミドリムシでもよい。ミジンコでもよい。なぜ、彼らは生きるのだろうか? 精神的な理由はないのだ。ただ生きたい。それだけだ。単細胞生物に、彼らが生きる意味--精神論の愛、社会貢献などで、などつけるのは、おかしい。

 

ただただ、生物は生きたいのだ。死ぬことがいやなのだ。

 

で、彼らは生きたい。そんな欲求をもつ。すると、愛が近寄ってくる。死にたくない君には、生きるために食い物を与えるよ、と。というわけで、愛は、欲求の従属物といえる。これは前に説明した。愛は、欲求に依存する。愛が上手な人は、欲求をうまく満たせ、巧みなのだ。要領がいい人なのだ。

 

 愛の上位の概念に、欲求がある。生きる欲求は、欲求の中で、最上位にある。その上の目的は生物にはないのだ。おそらく。このあたりは、生物の生と死の違いなど厳密に検証したことから派生するへんちくりんな理論で、やがて何かみつかるかもしれないが、当面はないことにしておこう。

 

 で、生きているうちに、行動を記憶するようになって、考えるようになる。すると、精神的な成長--行動パターンをよりよく自らできるようになる--がはじまる。これが成長だ。

 

 今日は、なぜ生物は生きたいのか、と考えた。

 

 生きるほうが快適だから、というのは間違いだろう。生物は長生きするために、死ぬのが快適でないというシステム、つまり死は苦痛に感じるシステムを自らもつようになったのだ。そういう生物のほうが長生きできるから。快感、快適さは、生命が後でつけた感覚の状態だ。

 

 生きているほうが喜びが多いから。欲求を満たされると快適になる。そのために生きる。それはそうだ。そうやって、死なないようにした。喜びや快適さを生物は求める。これも生きるために、獲得した生体システムだろう。セックスなど気持ちよくしているのは、子孫を残すためだろう。これも、生命が生きるために、つけた欲求というシステムの中で起きること。原始的な生物、ミドリムシや単細胞は苦痛や喜びを感じない。よって、それらは根本的には生きる目的ではないはずだ。

 

 これらは生物の知恵なのだ。自らの意志で生きつづけるために、死なないようにするために、様々な防御反応や欲求、苦痛などの感覚を生体にとりいれたのだ。

 

 そのために、生きているというのは根本的な話ではない。苦痛を避けるために生きる。悲しくならないために、生きる。飢えるのがいやだから、食って生きつづける。自ら生きるようにするために、生物が体内に作った反応機構。それがあるから生きる、というのは生の本質的な話ではないのだ。それは生物の進化の途中で、つまり、あとで獲得した機構(生物の反応)にすぎないからだ。

 

 私は、生物が生きることには、本来、あまり複雑な意味はないと思うのだ。喜び、楽しみ、快適さ、苦痛がいやで、愛、精神の向上、神とか、人類とか、成長のためとか。生物はそんなことのために生きているわけではない。非生物になりたくないから生きている。簡単には、そういうことだろう。

 

単に、ミドリムシなんかは、死んだ存在--石とか、水とか、そういうのは嫌だな、というくらいのものから始まっていると思う。これは、生物と非生物とを区切る論で、答えは出ると思うのだが。それはあとで読もう。

 

こういうことを書いた。それで、私は生物学の現代論を深く学んでないことが、発覚してしまった。

 

 

2018年3月27日

 

 220万年後の我々 

 

2018年3月26日

 

もっとましな話をしよう。

 

愛を世界・宇宙に広げる、という真の意味

 地球の中で、愛しあう人たちを増やすというのは、わかりやすい。しかし、それはどういうことか。

 

 地球の中では同質なので、「愛の能力」が伝搬して、大勢が愛を始めるということとなる。この結果どうなるか、というのはこの思考モデルでは考えにくい。限界も見えてきにくい。

 

 愛を宇宙に広げるというのが、よいのだ。愛は簡単には、愛し合う人たちがいて、食い物もあって、いい家があって、子供達もいる。多くの愛し合う人々とそれが快適に暮らせるだけの資源があることが大切だ。愛なので、必要とするものが与えられなくてはならない。食料や水、家など、人が基本的に欲する環境は、最低限必要なのだ。それがないと、愛が欠けた世界となる。

 

 愛が部分的に行われるというのは、今回考えない。人間同士が愛しあう世界というのはあるが。もっと動物、生き物、花、小鳥などへのすべての生き物への愛も含むものとする。愛がより完成された社会空間。ここから、愛は一定の空間だといえる。その空間には、人々が住み、木々があり、運動場のあり、食い物もあるのだ。

 

 愛は、空間内の関係性を良好なものとする。

 

 愛を宇宙に広げるとは、つまり、他惑星や、他の太陽家系に愛ある空間を作り出すことだ。宇宙中に愛を広げるとなると、何もない真空の宇宙空間に、大地、人、土、木々など自然という生命に満ちた人工の空間を作り出さなくてはならない。が、膨大な宇宙空間を、そんな愛の場で満たすのは無理だ。エネルギー(材料)不足だ。

 

 できるとしたら、せいぜい惑星上か、宇宙船の中だけだ。惑星も、日光の量がその限界を決める。太陽から遠く離れた氷の惑星の全体に愛の場など作れない。地球のような緑の星にできないということだ。ここで、愛を宇宙全体に満ちるほどに、広げることは不可能なのだ。

 

 では、愛はどの程度まで宇宙にひろげられるか? 答えは、愛の拡大は、宇宙のエネルギー量で決まる。正確には、太陽系ごとに生命が住める惑星の数で決まる。それ以上には、人工惑星を作る以外には、愛の場は増えない。愛は、エネルギーに制限される。つまり、宇宙に存在するエネルギー量が、宇宙全体の愛の量(限界)を決める。愛は無限というのは、できもしない話なのだ。愛は有限なのである。これは宇宙論での簡単な証明。

 

  ややこしい専門的な書き方は、失態ではある。

 

 さて、宇宙全体を満たすように愛を広げられない。ならば、適所に愛の場を作るしかない。生命のいる惑星だけに愛を広げよう。それ以外には、愛は広げられないのだ。

 

 生態系という観点からどうなるかみてみよう。

 

恐竜時代に、人間の愛の場を作り上げるとどうなるか? サウルスが闊歩する原始林があちこちにある地球。タイムマシンで、未来から人間がやってきた。そして、住居を作り、入植した。しだいに子供を生んで、人口を増やした。愛の人間社会が、古い時代の地球に突如として出現した。

 

 まだこの段階なら、人間の専有面積も小さく、恐竜にとって、害は小さい。が、人類はどんどん増えて、地球全体を覆ったら? 恐竜時代に、人間が生態系の頂点に立つ。人が住む社会がどんどん大きくなる。恐竜がすみかが奪われ、しだいに数を減らしてゆく。現代に、大型動物がわきにおいやられたように。

 

 これは人間にとっては、愛ある空間が、恐竜時代に広がったように映るかも知れない。が、生態系を壊してしまった。恐竜に人間がとってかわった。生物への愛がなかった。これは、愛ある世界とはいえない。人間だけが繁殖する世界である。

 

 人類は生物の多様性に対する理解も進む。生物を絶滅させないように、種を保存しながら、入植することになるだろう。その時代の主役は、恐竜である。人間は、その時代はサブである。脇役である。

 

 現在のように生態系の頂点のような顔をして、他の生き物をすみに追いやるような無慈悲なことはしない。生物とは共存である。それが生態系の中で愛あるあり方だ。生態系の頂点である人間が、生物全体を采配する。それが愛の極みである。そんな現代のシステムを恐竜時代に持ち込むことは、地球の進化を阻害して、愛ある態度ではないのだ。

 

 ここで問題、人類が主役でいられるのは、宇宙の中でどこか?

 もちろん、太陽系の中だ。特に、地球でだ。他の地球の次元でも人類が優先権をもつだろう。他種が自然に発生したなら、別だが、それはないはずだ。他太陽系からの移住者は、地球に関して、人類に譲らなくてはならない。別種族で、元素の配分なども違うからだ。

 

 また問題、人類が太陽系で主役でいられるのは、何時代?

 現代から、将来にかけてだろう。過去数万年以前ではない。それ以前は、別の生物たちの楽園のはずだ。

 

 人類が支配者の顔をしていられるのは、地球上でこの時代のみなのだ。他の太陽系では、別種として、脇に徹して生きなくてはならない。その太陽系出身の生物が優先される。

 

 愛に戻る。人類が、愛を宇宙に広げるという時、愛の空間は、太陽系内は、人類が自由に広げられるだろう。太陽系内の他惑星には生物はいないからだ。

 

 が、太陽系を一歩外に出た途端、愛の空間は、他種優先という制限を受ける。なんのことかわかりにくいと思う。極端にいうと、そこでは、マントヒヒが道路の真ん中を歩いたら、排除できなくて、人間がよけなくてはならないのだ。マントヒヒの帝国に、人間が居候する格好となる。大きな広場が欲しくても、マントヒヒの遊び場なので、遠慮しなくてはならない。

 

 愛の場は、大きな制限を受け、不十分なものとなる。愛の場は、「人間の限られた住居内のみ」保てるとしても、外に出たら、地元の生物が優先権をもつから、十分なものとならない。太陽系の外でも、地球における生態系の頂点として振るまうように、愛を行おうというのは、他種にとってかなり傲慢な態度である。

 

 一般的には、人類の影響が弱まる遠い場所ほど、人間が関与できる範囲は小さくなる。愛も小さくなる。愛を宇宙に広げようとしても、別太陽系では、もう愛を与える側でいられるのが難しい。他の支配(愛のこと)を受ける側となってしまう。さらに、遠くの宇宙では、愛も小さくなる。大きな愛を発揮しようにも、それは遠くになるほど、他生物の主権をより多く侵害してしまうから、小さく愛を行うしかなくなる。

 

 愛--人間が考える愛の空間を、その強度(地球におけるやり方)で、太陽系外、宇宙に広げようというのは、人類の身勝手なのである。というわけで、適者生存、他太陽系の生態系を考慮して、外宇宙での愛は、森に溶け込んだ粘菌のように、社会の一部に溶け込みながら、広げることになる。

 

 地球人の考える愛、それを宇宙に広げようとする構想は、太陽系内で十分開花する。が、一歩、その外に出ても、地球上と同じような愛--すべてを采配する--のは、傲慢である。実際は、他宇宙人に優先権があり、ずいぶんと貧弱な愛しか発揮できない。不十分な愛の場しか人類は作れなくなる。

 

 愛を宇宙にひろげようというのは、せいぜい宇宙人との人間関係をうまくやる、という程度に用いるのがよい。だが、これもまた異種生物との愛には、生殖は不可能なので、男女のような密な愛を期待してはいけない。男同士の愛のような形となる。ノンセックスの男女のようになる。愛を宇宙に広げるということで、過大な期待をするのは、やめておこう。

 

 

2018年3月26日

 

いろいろいじくって、記憶をよくしてみた。私の記憶ではなく、他人。

 

ニセモノだ。何々。これはいちいち、論点を明確にして、評価する必要がないのでは?

なぜなら、はじめから範疇外だからだ。何を言わずに、出所だけを示して、否定するとよい。この手のは、基本、全部間違っている。

 超能力のうち、念力は詐欺か手品。日本仁ではもはや常識になっている。スプーン曲げはマジシャンの技だ。私はスプーン曲げをした霊能者はすべて、芸人扱いだ。霊能者ではない。

 そんな念力が昔からあったというのは、昔から人を騙すトリックがあること。そんな手品で人を騙す話をしている、という意味となる。私は気功は興味ないので、あしからず。これら超能力を得ても、精神の次元はあがらない。

 超能力を得る目的は、それは生活が便利になるからだ。瞑想の修行では透視や身体の管理法、幽体離脱、夢への入り方を学ぶ。こちらが書かれているなら、まだましだ。が、精神を向上にはあまり関係がない。こんな技能よりも、芸術や社会性、運動、科学の知識のほうがよっぽど役立つ。

 

 瞑想修行で、自我を脱皮するのは、単に固定観念や先入観から抜け出るとできる。交信が始まると、潜在意識が目覚める、というのは深刻な間違いだ。交信で、悪の宇宙人などの声が聞こえやすくなるのみ。それを潜在意識と呼ぶのは、悪なる存在と自己の深い声とを混同させる。そんなまやかしだ。

 

 霊能力をあげるほどに、交信で現れる悪が強くなるというのは、よくある。当然、それは精神の向上ではない。単に、霊力をあげたにすぎない。最初は、たわいない悪と交信できる。しだいに、強めの悪と交信できる。さらにレベルがあがると? あらゆる悪の宇宙人と交信できるようになる。さらにその上にゆくと、交信する相手を管理できるので、全く気にしなくなる。というか、交信しなくなる。

 

 現れる霊や神、悪はみんなニセモノと気づくからだ。それが、現在の私の2-3つ前のレベルだ。それより高くなるとどうなるか? 正しい交信装置を手に入れる。私以外にはできない芸当らしい。それで正しい宇宙人や神、天国と交信する。

 

 この霊能者が上達する時に起きる「交信上の問題」をさも、精神の向上かのように記すのは、一般人に関係のない話だ。仏教の解説など、非合理なので、必要がない。

 

 間違いはいくつか記そう。

もう一人の自己は、いない。多重人格で現れるのは、もはや交信先のワルだと判明している。電波犯罪の周波数チェックで。

 

 また超能力は自分の能力の一つなので、自分のために使う。手をどのように使うかは、本人しだいだ。なお、交信で現れた神の下僕となり、そのために超能力を使うという考え方は、悪宇宙人の下僕になって、そのために働け、ということ。悪の宇宙人の言いたいことなのだ。というわけで、超能力は自分か社会のために使うのが正解なのだ。交信の言う通りに使うのは駄目なのだ。

 

 また交信で現れる魔について、それは架空の存在なのだ。宇宙人が作り出した映像で、霊能者にしか見えないし聞こえないものだ。実際は、存在しない。実在ではない。だから、消えるというのもおかしな言い方だ。霊能者の見ているスクリーン(視界)から消えるのみ。なお、こんな映像内のキャラクターとは、霊たちは誰も戦わない。アニメのキャラクターと神が戦うといったら、笑われるだろう。実際はそういうことだから。

 

 詐欺師からの電話なら、その向こうに詐欺師がいる。それは、警察が取り締まる。だが、霊能者が見る偽ものの、神霊、悪は、アニメと同じ。実物はいないのだ。それに気づいたら、おしまいなのだ。まだ見えても、その悪は、絵の中のおばけに等しい。何もできないのだ。怖がる必要もない。

 

 さて、そういう悪と交信する状態になったら、どうするか? 悪を消えろと言っても、霊能力で視ている限り、消えないだろう。視ないようによそみしたらよい。視界から消えたらいない。

 どうしても視たくないなら、どうするか? 自分の霊能力を落とす。

 

いつまでもしつこく現れる時は? 実は他の霊能者が悪を見せている、というのが可能性としては極めて高い。私は、他人になんでも映像は見せられる。他の霊能者もそのくらいできるのが無数にいる。怖いものをみせている他の悪徳霊能者をつきとめて、やめさせる。それがだいたいにおいて答えとなる。

 

 それでも消えないならどうするか? アニメキャラと同じで無害だから、放っておく。

 

 外のものに関心を移す。間違っても、そんな時に、心の中に意識を集中してはいけない。透視と交信をいったんやめて、平常の生活を送る。すると、しだいに忘れる。それがよい。そんな時に、あえて、交信状態、心の中をのぞきこむのは、逆効果。いつまでも霊能者は、悪が見えてしまう。

 

 悪を交信でみてしまう自分を客観的にみて、冷静になるという解決の仕方は、あることはある。が、一つの悪を克服するのには、とても時間がかかる。あまりおすすめはしない。空というのをそれとは関係がない。

 

ひどすぎる内容を批判した。現在、日本で常識となっている様々な精神世界の見地。それを一定の水準でもってない。そんなコンタクティが交信すると、もう克服したような迷信がまじりこみ、20-40年前の代物かと思うようなものとなる。

 

2018年3月26日

 

210万年後の我々

 

2018年3月24日

 

今日じゃなかった。外れた。期間は一日遅れとするか。

 

弟の事件は土日でないと起きない。はじめからそこがわかっていればよかった。AUの電離層は、震源より北に電子異常がみつかる。北海道の東、釧路沖あたりにそれが出たら、確定なのだが。

 

肝心な時にやはり外れてしまい、がっくりぽんだ。3/24の茨城県の地電流をみると、どんどんあがり、細かい波なので、これが前兆っぽい。今のところは。明日夜か。

 

アニメ3月のライオンなども涙がやたらと目につくし。地震の翌日の涙が出てきたのかな?

 

しかし、最後まで当たらんな。

 

今日は、野草の会のOBとすれちがった。いつもの平野の坂で。前もそこだった。守口あたりで結婚している男のくせに、OBの独身女性を自分の専用にしようとしているぞ。おいおい。もうそんな時代ではないだろ? それは大丈夫なのか?

 

2018年3月23日

 

 囲碁ソフトleelaは、戦いに強いのか。わかってきたぞ。お口なおし。闇を漂わせるのとは、まともに相手しないのが賢明とわかった。悪さをする人間と思えば、対応できるのだ。それをわきまえないと。

 

精神が進んだ人が、たいていの愚鈍な人達に関心がもてないのは、

 

 簡単にいうと、こちらの話を聞いてくれないからだ。いつも聞いてくれないので、こちらも相手しないものだと思う。相手への関心が消えるのは、早くなる。

 

 理性的な人たちと会話する。それに慣れてくると、わかるのだ。同じようなものに同じような視点で関心をもつ人たちがいると。

 

 問題は、この土俵は何かだ。どういう下地なのか。哲学がどの程度一致しているか。そこを点検することになる。

 

 精神論を正しく言うだけのこと。これは、相当な実力がいるらしい。

 

 私は今、一人の力でやりとげることが大事だ。そうらしい。

 地震予知を自力でやりとげる。そこだ。あの裏のシステムがあるとかんたんにできる。それを使わないで、一人でやることが大事だ。

 

 キングは孤独なのだ。ちまちまと仲間とやりはしないんだよ。こちらが指示してやらせるんだ。リーダーはそれ以外にない。

 

 私がすることは、当面、これが一つ。電波犯罪は、告発などは別の人が行うらしい。私は後発で、被害者として現れて、小さな仕事をする。そのくらいだろう。

 

 能力一覧表がある。すると、自分の実力がわかる。案外、何もできないことに気づく。全般的に、能力が高くないのだ。人生80年。その中で、仕事はプロの能力をもつ。それ以外は、そんなに実力をつける時間がない。現在の学習法では。

 

 私が身につけた才能は、

 

特筆するのは、

 囲碁、精神論(発達心理)、哲学理解、精神次元、

 ニューエイジ(精神世界)の分野は最高ランク--霊能力、霊と会話、透視、宇宙人と交信、宇宙人との交流、宗教的な分野の知識。予知。交信が中。

 

 芸術は、作曲は上級。ピアノ弾き中級。写真は中級の下。歌、絵は幼生。

 文学は、作文力は高い。小説家の下くらい。社会論や扇動は高め。漫才やお笑いは中上級。

 社会性は、組織管理力は中小100-300人規模の会社の社長ほど。社会論は、官僚の中クラス。会話は低い。が、言語力が高い。男女の会話がひどく低い。

 

 スポーツは、すべて下。サッカー、登山、自転車は中、歩く、走る、マラソン。体力はあるほうで、中。筋力は中の下。

 肉体の能力--視力が特に低い。他は平均的。

 健康度は、中の下か、下の上。平均的には下の上。1ヶ月に7日ほど体調不良なのだ。これはひどく、下なのだ。全部、アカの中毒や傷害による。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2018年3月24日

 

 今日は、本当に緊張した。が、朝ドラに震災らしいもの、都市災害や空襲はないし、地磁気はおとなしい。それで、やめた。今日ではないらしいとした。予兆がないなら、仕方ない。

 

 白い女たちの離婚率が高いことを知る。多いわ。アカの働きかけで男は忍耐できなくなて、逃げ出すのだろう。唯一の救いは、生き残っていることだ。あかのしわざだ。そのくせ、アカを仲間と思っているあたり、騙されている。

 

 囲碁ソフト。なかなか筋がよい。音楽も筋がよいのが、出る。なかなか書けないのだ。

 

ちょっと、中身ないチャネリングの典型について

 意識、転換する。愛が強まる、霊が支えている、現実が変わる。魂の故郷に帰る。一緒に働く?

 

中身がなさすぎて、泣きそ。何も感動がない。チャネリングはすべて悪の所業。上のケースでは、社会問題が書かれてない。それをどう解決するか。そこがない。時事的なテーマと解決案。この2つがないのは、基本的に学ぶものがない。中身がないと気づかないのは、言葉の目新しさに踊らされているから。雰囲気に惑わされている。

 

 世の中をよくするのは、社会問題をみつけて、それを解決する。ただそれだけ。政治はすべて、そういう仕事。方向性を示すもそういう人類のテーマを正しくとらえた上で、どういう解決法がよいかを示唆することで。やはり時事問題と解決案。この2つがセットでなくてはならない。

 

闇勢力と光の勢力の戦い???

 善と悪が拮抗するのは、歴史上一度もない。アメリカとソ連の戦いが、東西冷戦が、軍事力の均衡で成り立ったというのは錯覚だ。ソ連や中国は西側諸国に負けているとずっと思っていた。同じなら、情勢により上回ることもあったろう。そんな時に、侵攻をしたはずだ。クリミヤ半島をロシアがとったように。

 

 負けていたからこそ、新たに領土を拡大できなかった。それが、革命以後はずっと続く。工場をやきうちして、経営者を追い出し、労働者が乗っ取っても、経営のいろはを知らない烏合の衆。革命が起きた国は、国力を大幅に落とした。知識人を粛清して、学問の研究を停止させた。商売人を消して、流通を破壊した。物流がとまった。それで、社会主義国家は、絶望までにどん底に自らつきすすんだ。中国の文化大革命、カンボジアの虐殺。北朝鮮の貧困。

 

 その間、西側諸国は自由を謳歌して、新しい産業を次々と育成。国家は大戦の荒廃からしだいに抜け出し、現代都市を作り上げるにいたった。西側諸国が圧倒的に、経済力も軍事力もソ連を上回っていた。嘘の宣伝戦の空威張り、張子の虎、ソ連などは強者にみせかけていたにすぎない。

 

 囲碁や剣道など、やっている人はわかる。悪は、間違い。間違ったやりやり方をするのは、弱い。弱い者は、正しく強い者とは、実力が大差だ。それが何年も続いたら、それこそ天と地ほどに乖離する。

 

 本当に、ニューエイジやキリスト教の一部に、神と悪魔が闘うというのがある。それを信じるのは、現実をあまりに知らなさすぎる。悪は必ず、善に勝てないのだ。悪は善や正義と比べて、実力がはるかに劣る。つまり、悪と神の戦いはない。神の圧勝に終わるからだ。それは、10秒とかからない。

 

 地球はずつと神に支配されてきた。悪などは、隠れて小さくうごめいていたのみ。神と悪の戦いなど信じるのは、スポーツや遊戯における現実の戦いをあまりに知らない愚か者だ。そんな話は、子供だましなのだ。21世紀では、それを信じてはならない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2018年3月24日

 

本日の交信 190万年後の我々。

 

 

 リベラルとは『自由主義』をさす。個人の自由や多様性を尊重する。反対の言葉は、社会主義だ。社会主義では社会全体の利益を最優先して、個人の自由はそのためには制限する。自由を最大化するのが、リベラル。その対極にあるのは、社会の利益を最大化して、そのために個人の自由を省みない社会主義である。

 

 社会党は、リベラルに入れるこはあってはならない。自由民主党対社会党という対立が戦後つづいた。それは自由主義対社会主義の対決であった。社会党は、リベラルに入らない。

 

 では、社会民主主義は何になるか? 社会計画を優先して、個人の自由は二次的なものとなるから、社会主義の亜流だ。当然、リベラルではない。深刻なことに、リベラルの反対側の立場だ。社会民主党は、社会主義の一派であるからして、リベラルにいれてはいけない。

 

 社会党と社会民主党は、リベラルの反対側の主義である。これをリベラルではない。リベラルに入れてもいけない。これが基本である。

 

 というわけで、現在、日本のリベラル勢力として、民進党、立憲民主党、希望の党、社民党、みどりの党が含まれている。が、共産党は独裁志向なので、リベラルに入らない。そこは、間違ってはいない。が、社民党も、同じく社会主義政党の一つだから、リベラルから除外しなくてはならない。

 

 あと、旧社会党の議員は今は、民進党や立憲民主党などにもぐりこんでいる。が、各人の思想の変更がないならば、社会主義者である。彼らをリベラル議員として扱うことは不適切だ。

 

 というわけで、リベラル勢力は、自由民主党、民進党、立憲民主党、希望の党、みどりの党までだ。共産党と社民党は、リベラルの対極である。福島瑞穂はソーシャリストであり、リベラルの一員ではなく、異質な存在である。リベラルに入れるのは、厳密でなくても、大雑把にも、間違いである。

 

こういう初歩的なことをメディアは間違えてはならない。

 

社会自由主義について

 こういう一派はあるが、社会主義ではない。よって社民党は除く。民進党、立憲民主党、自由党などが入る。

 

2018年3月21日

 

震災間近だ。しつかりせねば。

今日は、アウターライズの前震があったぞ。春の嵐も吹き荒れたし、もう明日か、明後日か。

 

他人の助言、アドバイスなどがうっとおしく感じられるのはなぜ?

 年上の者から、何かいやな言葉を受ける。なぜ嫌に感じるのか? 嫌味や悪意ではなく、彼が親切に世話をやいているような気持ちで、アドバイスなどをしているつもりの時がある。が、何か嫌なのだ?

 その嫌悪感はどこからくるか? 親が威張っている時にはよく感じるものだ。

 簡単に言うと、彼のほうが、その点で能力が高いのだ。それで、圧力となる。もし、彼のほうが能力が低いなら、その分野のことは何を言われても気にならない。

 例えば、自分より強い者が自分の碁について、それはひどい手とかあれこれ言うとする。それは堪える。だが、弱い者が自分よりも、わかりもしないのに、あれこれ批判しても、ぜんぜん気にならない。見当違いの指摘だったり、自分のほうがよくわかっているからだ。

 文章でも同じで、自分より文才がない者が、あれこれ、その言葉はいまいちだね、とか言ってもさほど気にならない。だが、文才がある者があるものがいうと、気にならる。小説やメディアの自分より能力がある専門家にいわれると、その言葉は気になってしまう。

 まずいえるのは、相手の能力が高く、自分が低い。だから、その分野のアドバイスや助言らしきものは、心にずっと重く感じられるのだ。これがまずは基本だ。自分より能力が低い者の批判などは、気にならないのだ。

 

 次に、もし能力が高い者が、適切な表現でアドバイスをしてくれるなら、それは、心地よく聞こえるだろう。学校の先生が上手に教えてくれる分には、もう聞きたくないとは思わない。この授業は素晴らしいから、もっと聞いていようと思うはずだ。

 アドバイスが何か、いやに感じられるのは、それがなんらか適切ではないからだ。言い方がおかしいか、アドバイスのポイントがずれているからかだ。言い方がおかしいのは、いやみったらしく言うとか、けなすように言うとかある。しかし、適切なアドバイスならば、多くは聞いていられるだろう。

 いやに感じるのは、アドバイスのポイントがずれているからだ。自分が知りたいことではないことを、言うからだ。おいしい料理の作り方を尋ねたら、カレーの作り方ばかり教えてくれる先生がいるとする。カレーは作れるのだ。カレーでないものを、教えてほしい。が、その先生は、カレーがおいしいよ、とか押し付けがましいのだ。

 

 簡単にいうと、他人のアドバイスがうっとおしく感じられるのは、すでに知っていることを教えてくる場合か、知りたいことではないことをを延々と教えようとする時だ。しかも、教えてくれるのは、カレーの作り方や、仏教のおかしな精神論などなど。今、さしあたって聞く必要がないことだ。いや、聞きたくないこともある。聞きたくないとは、聞いても意味のないことだ。教える側が間違って、それを理解させる必要があると思っているのだが、それが的外れなのだ。

 

 親や先生などが、繰り返し物事を教えようとする時に、よくそうなる。聞きたいことではないのだ。それを押し付けがましく、いつまでも言う。それで、うっとおしく感じられるのだ。

 

 こんな時はどうすればよいか?

 『それを尋ねてはいない。』、『それは知りたいことではない。』など言い、教える側の間違いを指摘する。『そんなことは知っている。』と言う。説教など、うっとおしく感じられるのは、それが教育の失敗の時だ。こうなると、教育を受ける必要はない。

 

 よく、教える側は勝手にそれを理解させなくてはならないと思い込むのはいる。こういうのはどうにもならない。そんなことはわかっているし、言うだけ無駄だよ。とか言う。間違った教育をあえて受ける義務はない。無視しても構わない。

 

 教える側は、うっとおしく感じると言われたら、どうするか?

 それは教えるポイント、話すポイントがずれているのだ。そんな時は、話す内容をよく吟味する。相手が求めているのは、どんな分野の何か。それをよく聞き出す。そして、相手の求めるテーマをとらえ直さなくてはならない。そして、正しいの答えを、話すように努めよう。

 

 教える側の趣味、習慣としている教え方。それを求められてはいないのだ。相手が知りたいことを、分析してつきとめなくてはならない。それにぴったりあてはまるものをアドバイスしよう。

 

2018年3月21日

 

170万年後の我々 

 

 

home
inserted by FC2 system