論考 2016年 12月

 

 

2016年の感慨 今年も日本メディアに正義なし 2016-12-31

 

 今年1年を振り返って

 今年は、電波犯罪がまたも告発されないで終わる。電波を人に向けて飛ばす国民の7-8割は知る巨大犯罪だ。メディアも個人も、けっして告発しない。日本に正義はない。告発は一つ、犯罪に使用される機器を明らかにして、その効果を示すこと。2つ、犯罪組織のアカの名を明らかにすること。証拠にもとづいてのみ可能だ。たったこの2つである。なぜこんな簡単な告発が、25年もできないのか。私が被害にあった94年から23年もできないのか。それはマスコミやメディアが腐っているからだ。それも合わせて、暴露してほしかった。

 来年はそれが実現することを楽しみにしている。アカ達、左翼メディアに思い知らせてあげよう。彼らの隠蔽によって、これまでどれほど多くの人々が犠牲になつたことか。私の周辺ですら、20名以上いる。数え上げるだけでも、たいへんだ。日本中では、何十万人にのぼるだろう。彼らの悲しみ、嘆き、つらさを忘れてよいのだろうか? 

 日本人は保守も右翼も、足元が崩れていることを知らなくてはいけない。彼らが日本の規律を守る役割を率先しないで、誰がする。が、その大切な仕事を忘れ、しなかった。日本が、さらにダメになった1年である。来年はそんな治安が乱れた日本を回復しよう。

 

 

正論2月号の感想 カストロのエイズ殲滅宣伝をうのみにしてはいけない 2016-12-30

 

月刊正論 2017年2月号 カストロのエイズ殲滅宣伝をうのみにしてはいけない 
 冒頭に、カストロを賞賛する文章を載せるとは、正論の編集部の目に、中国から飛来するPM2.5が入って、赤くなったのではなかろうか。

 カストロは、エイズを早急に対策して、今ではエイズ患者が少ない国にした。カストロは患者を早期に隔離する体制を整えた。この論者はカストロを偉いという。実に勘違いも甚だしい。なんにも共産国の事情を知らないようだ。統計が嘘か、統計が真実に近い場合は、自国民のエイズ患者を殺したか、どちらかだろう。

 キューバにエイズ患者がほとんどいないという統計が疑わしい。アメリカに対する意地と虚栄の可能性がある。エイズ患者の隠蔽を疑うべきである。共産国の統計はあてにならない。共産国は自国に都合が悪いことは隠す。統計はインチキなのだろう。それを前提に話しを勧めることはできない。

 なにしろ、アメリカから入ってきたエイズ。その打撃があるとキューバが公表することはアメリカの作戦の成功をアメリカに教えることだと理解するカストロだ。彼はエイズ患者を隠しきれないほど多くいない場合は、ほとんどいないと発表する。たとえ、エイズ惨禍があっても、隠し通すだろう。だから、発表そのものが政治的なものであり、キューバの防疫がしっかりしていると真に受けるべきではない。

 が、もし本当にそうなら、それはそれで、共産体制によって、人権無視の過酷な防疫によって、それは実現したのだ。その残忍性を見逃してはならない。統計を信じる時は、エイズ患者は隔離した後に皆、死んだと考えるべきだ。

 共産党員は衛生観念は強く、すぐに浄化してしまう。カストロは、エイズをアメリカの細菌兵器と決めつけた。国をあげて防疫に努めたのは、侵略戦という意識だろう。だから、徹底的に戦った。そして、病気になった者は、隔離した。国家の混乱につながると、処分した。被害も当然、隠した。だから、いない。現実はそんな冷酷なものだろう。防疫の話ではないのだ

 もし殺してないなら、エイズ患者が一定数いるはずだ。西洋諸国で治療法もあり、長生きできる。それがほとんどいないということであれば、答えは一つである。共産国特有の方法で、跡形もなく滅菌されたに違いない。またキューバにもアメリカの隣国だから当然、エイズは入る。入らないとしたら、鎖国をしたということで、北朝鮮と同列で、褒められたものではない。自由に人が往来できない国を褒めるのは、監獄国家を賞賛するようなことだ。

 カストロのエイズ殲滅作戦は、資本主義撲滅に通じるもので、キューバという閉ざされた国でエイズ患者がブルジョワジーのように隔離されて、息絶えたと考えられる。生き残りエイズ患者がいない。それが最も怖い。私の推測は間違ってないはずだ。

 どうしていなくなったのか。キューバの体制の真実を知らないで、ただ防疫が立派とキューバの偽りの宣伝にひっかかっては、いけない。編集部も共産国の宣伝戦に負けた者に同調して、キューバのカストロはすごいと雑誌に載せて、全国に共産国の宣伝の片棒をかついではいけない。失態である。

 他は、いいものもあったけど、今日は疲れたからやめ。

 

 

 安倍首相が真珠湾訪問で成果、だが完璧ではない 2016-12-29

 

 安倍総理が真珠湾を訪問した。和解の演出はよくできていた。オバマ大統領の演説と読み比べてみた。オバマは戦勝国なので、好き放題言っている。が、安倍首相は口に何かがはさまっているようで、肝心な主張が聞こえてこない。和解演出のために、日本の立場を捨てている。そこはがっくりだ。

 

 真珠湾を爆撃した経緯として、アメリカが日本への石油の禁輸をして。経済封鎖して、日本を参戦へと導いたことを、明言しなくてはいけなかった。その結果としての戦争だった。これが欠けたために、日本の参戦の立場がアメリカ人に理解されなくなった。失態である。

 

 また無辜の民というのは一般市民をさすのであって、真珠湾の軍人や軍艦をさして、使ってはいけない。アメリカ人はかなり違和感をもってとらえただろう。こちらは安易な表現ミスと受け取られ、ダメージはない。が、日本的な遠慮のために、せっかくの機会は肝心なことを言わない日本人とふるまったせいで、日本がいまだ敗戦国という印象を残した。和解は、十分に響いた。当初の目的は十分に達成した。が、まだまだ日米が対等な友人とはいえないものだった。

 またオバマが『お互いのために』と日本語で言ったことを左派メディアは好んで報道した。これは日本と中国の『戦略的互恵関係』という敵国の間柄、お互いのためだから仲良くしようということに通じるからだ。日米関係が、今回のオバマの発言で弱くなったとメディアは、印象づけたかったのだろう。

 

 しかし、オバマの民主党が中国寄りで日本を低くみていたとしても、米中は敵だ。日米は同志だ。トランプの共和党では伝統的に日米は強固な関係を築いてきた。何もゆらがない。

 

 

愛としかいえないのに精神は語れない 2016-12-23

 

 私は、愛、愛とすぐ言うのは精神的に幼稚だ、と主張している。この作業により、文明の精神論を豊かに開花させることができる。愛の過剰が、世界の人の精神性を低下させているからだ。愛はあまたある精神論の一つ。それが最高だとか、愛が全てだというのは、人間が大きくなれない。そこを強調したい。愛の教えのキリスト教が支配した西洋で、人格的に素晴らしいのが育たなかったことがなによりの証左である。

 

 

沖縄の基地の一つが返還された。喜ぼう。 2016-12-23

 

  米軍北部訓練場が返還 沖縄本土復帰以降、最大規模 (産経新聞12/22)
沖縄の米軍基地の一つが4000ヘクタールも戻ってきた。米軍基地がなくなることを願っていた沖縄にとって、とてもうれしいことではないだろうか。それだのに、翁長知事は返還の式典に出席しないで、どうかしているのではないだろうか。

 

 

 トランプ氏が台湾の総統と電話したのは正しい。中国の主張はおかしい。尖閣も台湾も中国の領土ではない。それを認めることはできない。 2016-12-22

 

 私は、トランプ氏が台湾の総統と電話した。彼の才能を感じた。 中国の領土についての言い分など、日本は過去にすべてを認めてこなかった。国際的に合法的でないものは。中国は尖閣諸島を中国領と言い張る。台湾についても同じで、世界中の国々が知っているが、中国領ではない。それはアメリカも日本も堂々と言えばよい。日本人は、自由だから、なおさらそうはっきりと言うべきだ。

『台湾も中国の領土とする一つの中国という独善的な立場など、まっとうな日本人は認めることができない。』と『それを認めると、尖閣諸島も一つの中国に含まれると言い出しかねない。そんな侵略的な中国の言い分は、日本人としてけっして認めることができない』と。

 台湾を中国とは別国と扱った。こんな当たり前のことをしたトランプ氏を批判的に報道するとは、日本のメディアは中国を恐れすぎだ。台湾を中国とは別の国と扱ったトランプを非難するメディアは、国際法を知らない。台湾は中国の領土ではない。ごくごく当たり前のことを、言えないような左派メディアでは、日本人も離れてゆくだろう。

 

 

愛抜きに精神を考えよう 2016-12-22

 

 前回、愛を抜いて、精神を考えようと提案した。『好き』、『愛している』という思いがあってもなくても、子供が母親からもらう『りんご』の味はかわらない。教師が生徒を愛していようが嫌っていようが、教え方が同じなら、生徒は学ぶ。愛の有無は、些細なことなのだ。

 大切なのは、人を育てること。そのために与えることだ。教育、育てる、与える。そういう愛の内実を考えてゆこう。愛の雰囲気を捨てて、その中身をみていこう。愛の美しさに惑わされずに、その真実だけをみていこう。夫婦の愛、母の愛、父の愛、家族への愛、愛国心、人類への愛。愛を取り除いて、彼らが何をしているかをみつめてみよう。すると、本当の精神がみえてくる。

 愛の原則は、他人に向けるもの。自分以外を守ること、大切にすること、育てることが、第一義だろうか? 他人はいない時もある。それでも、自分はいる。だから、愛は第一になれない。愛が全てにならない。他人がいなくても、自分は必ずいる。自分が第一だ。これで、愛が第一ではないと説明した。

 

 

月刊 HANADA 12月号の感想 2016-12-21

 

 今回の花田は、よみごたえがあった。貧乏な私は立ち読みしかしてないけど。

対談(阿比留瑠比×山口敬之)『稀代の戦略家 安倍晋三』
 面白い記事があったのだけど、何か忘れた。沖縄の問題を暴露した論文が、目次ではわからないけれども、詳しく左翼活動家が高江の反対運動をのっとった内情を暴けていた。高江の住民で反対運動をするのは190戸中、わずか5-6戸で、そのリーダーは共産党員という。沖縄のメディアの声は、どんどん民意から離れてゆく。リベラル以上に。

 蒟蒻問答(堤堯・久保紘之)は『プーチンには安倍しかいない』
 失望。久保氏はトランプ氏に感情的に反発しており、考えが浅い。背後に共和党がいることがわかってない。たいてい見識を欠くものに反論する堤氏も弱気に返事していて、どうもトランプ氏については研究不足のようだった。トランプ氏については深い洞察がないようで。

 全体的に、素直に世間の関心に応える内容で、硬さが抜けたようにみえた。

 

 

愛の精神論は問題--愛は、別の言葉で置き換えられる 2016-12-20

 

 愛は、別の言葉で置き換えられる。愛するとは、人に与えること、成長させることである。自分や他人、動物、生物を対象とする。よって愛は原理ではない。母性の愛、父性の愛、愛国、家族愛。誰の愛か。誰を対象にした愛か。こういうのを聞くとうっとりする人は、精神を正しくみてはいない。好き嫌いという感情を抜くと、その本質がみえる。

 母が大切でも好きでもない近所の子に、残飯を仕方なくやる。これも愛だろうか。日本死ねという左翼が、国のために何かする。これは愛国だろうか。生徒嫌いの学校教師が、給料のためにただただ子供がいることに苦痛の教室の中で、教える。これも教師の愛だろうか。

 愛の本質だけをみると、それは好き嫌いの感情に関係なく、単に与えること、成長させることだ。だから、上の三つの例は与える、国のためにしている、教えているから愛である。愛を考える時に、好き嫌い、愛している、愛してないという感情的なものはあってもなくて、愛だ。それらを省いて考えなくてはならない。

 愛から、好き・愛しているという面を取り除いて、考える。すると、精神を正しくみることができる。つまり、大方の人が考える『愛している』の言葉は、本質的な物事を議論する時には、不要なのだ。

 愛なしの精神の世界を考えてみよう。愛という言葉を使わない世界である。愛しているから何か人は行動する、というのは、好きだから相手に何かするという自分勝手な人とあまりかわらないので、そういう精神論から離れようという提案である。

 

 

 オスプレイを叩くのも、過去にアメリカがトヨタを叩いたのも、似た構図 2016-12-19

 

 オスプレイは事故だ。過失だ。そんなに追及しなくていい。アメリカはかなり反省している。アメリカは政治的な意図で、トヨタ車をある時期に叩いていた。オスプレイも日本の左翼と中共の手下が、悪たくらみによって、過大に危険視する。実態は同じだ。アメリカは事故率が低くないトヨタの車を欠陥車とした。オスプレイも問題視するほどに事故は多くない。飛行機は民間の飛行機も最初は完全ではないが、しだいに事故を減らすというのが一般的だ。最初に多かったからといって、いつまでもひきずってはいけない。現状で事故が少ないなら、それでOKだ。

オスプレイを騒ぐ連中は、国防が絡むだけに日本侵略の意図が明白なので、たちが悪い。普天間飛行場は周囲に民間施設があるから危ないからやめて、別の遠いのに行こうとして墜落した。早く、普天間を移動させない、と。

 

 

 愛は最高の精神ではない--キリスト教国は仏教国より精神性が劣る、好き嫌いの面が強い 2016-12-19

 

 愛を過大にとらえる社会の問題。人類の中で、キリスト教が幅を利かせたおかげで「愛」が、過大評価されるようになったる「愛は最高だ。」、「愛よりよいものはない。」とか。それが深刻な精神の低下をもたらすことを説明しよう。単純な話、キリスト教世界で、精神性は高くならなかった。それが国教となった西洋諸国では、神に奉仕することが、最高のものとされ、精神性は二の次にされた。良心に基づくことが推奨され、科学の発達をもたらしたとしても。

 愛をさほど語らない仏教世界で、高度な人格が輩出した。こちらは人格の完成を目指す。規律や徳目が何より尊重された。両者の差は明白だ。人格者を比較すると、はるかに東洋の人たちのほうが素晴らしい。そして、日本では特に犯罪率が低い。愛は最高の精神ではない---愛=好き、感情敵なものだ。

 「人を愛する」と一般的に言う時は、何もしていない。妻を愛する。猫を愛する。それは、「妻が好き」、「猫が好き」と特に好き、という意味あいだ。好きは心のうちに思うこと。「愛する」は「好きで〜する」という意味がある。好きでないのにSEXする。好きでないのにプレゼントをあげる。これらは愛ではない。嫌いな者に体を捧げるのも、愛ではない。よって、ロボットは人を愛さない。ロボットは人を好きにならないからだ。命令で行うからだ。

 愛するとは、2つの行為によって成り立つ。それは「好きであること」、「何かすること(相手のためになること)」だ。愛がもし本質的なものなら、愛はそれ以上に分割されない。「何かすること」は、愛のないものにもできる。よって、それは愛とされるものの根本ではない。すると、残るは「好き」の部分である。これが、愛そのものである。大好き、特別に好きが、愛である。妻を愛する気持ちをもつ、という。

 厳密には「愛」は「好き」と同じだ。人類愛は、人類大好きと同じとなる。『愛が全て』ならば、『好きが全て』も同じ意味だ。が、そうは言わない。なぜだろう。人は、本心では、すべてのものを好きではないからだ。愛がすべてで、私は最高の人間になるために、愛を実践している、という人は無数にいる。が、彼らには好き嫌いがあって、すべてのものを好いて(愛して)はいない。だから、彼らすべてを愛してはいない。人は嫌いなものを愛していないからだ。

 『好き』という気持ちは、好嫌の感情であって、精神的には素晴らしいものではない、と誰もが知っている。だからこそ、愛は一番素晴らしいものではない。とても好きなものをもつこと。そういうものをたくさんもつ人が、それだけで、そんなに褒められないし、精神的に優れた人物とはいえないからだ。愛のこの定義「愛=強い好きの気持ち」では、冷静に考えると、愛は最高の精神ではない。単なる、感情である。

 

 

 リベラルは差別をなくし、能力主義の世界を作り上げる 2016-12-17

 

 社会から社会階層、人種、偏見、地域、性別、身体的ハンディなどの差別をなくし、公平にすることがリベラルの目標である。そんな社会になると、純粋に能力で人が判断されるようになる。リベラルはそんな無用な区別をなくして、不当な差別を消す。

 

 その社会では、すべてのハンディが公的に解消される。経済的ハンディ、身体的ハンディ、性別のハンディ、住む地域や人種などのだ。すると、貧困によって、教育や生活が劣る者は、支援される。身体障害者には、それでも活躍できるような補助具が与えられ、働きやすい職場が用意される。性別のハンディは今はかなり解消されているから、出産で不利にならない。

すると、能力差はなくすことができないから、純粋な能力主義社会を作り上げる。しかし、実態は女性の地位を一定割合にするなど、能力主義とは別のものに走る。これは近年の左派リベラルのおかしさだ。

 

 

 左翼は「政権に打撃」と書いて自己満足 2016-12-16

 

  最近、やたら左翼は、「日ロ交渉でロシアにつっぱらねて、政権に打撃」や「沖縄政策・配備計画…オスプレイ事故、政権にダブル打撃」(朝日新聞12/15のタイトル)とか、政権にダメージがあると印象づけることで、にんまりする。しかし、日ロ交渉は予定通り進展して、領土問題は何も進まないのが例年のこと。四島返還になると大殊勲で、それ以外は成果はないかのような論調が多い。日ロは表面上にこやかにしていると、それだけで合格だ。親密な今は、日露関係はうまくいっているといえる。打撃はない。

 

 オスプレイ墜落は、機体が故障したため、操縦者が普段使う空港の手前に住宅地があるから、そこを避けて、別の遠い基地にゆこうとして、沿岸を飛んでいる時についに岩礁に落ちた。これは日本人と日本の施設を守ろうとしたことは評価すべきだ。オスプレイの墜落は、お騒がせではあるが。オスプレイは砂浜に不時着できなかったのか?

  これでも打撃ではない。そもそも墜落したことで、カジノ推進法案の成立のほうがかすんでしまった。左翼メディアがその件で政権批判を強めようとしていたが、それがかなわなくなった。左派メディアの打撃のほうが大きいのではないか? 

 

 テレビはカジノ法案の背後に、広告主様のパチンコ業界がいることを、つい最近初めて知った(知っていて、わざと反対の音頭をとっていたようなのは、たくさんいるのだが、それはいずれ明らかになるだろう。)ようで、追求は弱まった。ともかく、そこが落ちである。

 

 

 完全なる自由について考察 2016-12-16

 

 リバタリアンを語るには、「完全に自由な社会」とは何かを考えなくてはいけない。例えば、規制や国家の保護を受けるためには、そのためにお金を国に渡さなくてはいけない。お金とは労働奉仕のことだ。リバタリアンは何もかも政府の規制を好まない。政府は、治安を守り、契約の保護と安全を保障すればよい。

 しかし、治安を守るということで、自由の一部は失われる。それは自ら悪人を裁き、刑罰を与えること。それを個人がする自由を失い、それを政府に委ねることだからだ。現代社会では、仇討ちしてはいけないのだ。悪人を判断して決め、それを捕まえて、自分の刑務所に入れてはいけない。それは政府の仕事である。リバタリアンといえども、警察行為、裁判行為は放棄して、税金を払って政府に委託する。

 隣国が侵略してきても、リバタリアンは銃をもって闘うが、軍隊を組織するほどのことはしない。少し前までは私兵を雇い、自ら守っていた。が、今ではそれは国の仕事と思われている。リバタリアンは、公共工事も政府に委託する。自分で道路を作らないし、洪水が起きないように堤防も作らない。水道や港湾施設などのインフラも整えたりはしない。それをするとしても、自分の家、会社の分だけである。それらは、税金を払って、政府にやってもらうように頼む。

 大きくその2-4は、裁判、警察、軍、公共工事は政府の仕事とされる。が、リバタリアンはそれらを自ら行う自由を捨てた。それを政府に委託している。そのようにリバタリアンは、完全な自由からはほど遠い。

 完全な自由とは? 社会的な自由だけでは人間は生きていけない
  よく語られるのは、無人島に一人で住む時には、完全な自由があるということだ。ルソーが言い出しっぺだ。そこでは野獣と戦わなくてはいけないし、魚も自ら取らなくてはいけない。家も道路も自分で作る、悪人が来たら、それを自ら裁かなくてはいけない。さらに、自らがその島の唯一の住民であり、長でもある。裁判、軍事、警察、政府、公共工事などすべて自分で行う。他にも、自分の規律が法なのである。

  今日言いたいのは無人島暮らしは完全な自由ではない、ということだ。まず、船がないなら移動の自由がない。次に、食料や衣服生活なども、無人島の資源に制限される。おいしいもの世界中から集めて、食べられない。さらにもし台風が襲ってきたら、たいへんな苦難を強いられることだ。安全に住む自由が簡単に侵害される。無人島暮らしは、社会的には自由かもしれない。が、物質的、空間的には不自由なのだ。

  無人島からはすぐに地球の行きたい場所に移動できない。食べ物は無人島に実るもの、採れるもののみ。空気も地球上にある分量しかすえない(無限にはない)。不便すぎる。というわけで、無人島の住民は、無人島という制約下に置かれ、完全な自由ではない。社会的には自由だろう。が、物理的にはとても不自由なのだ。

 無人島暮らしは自由だが、大勢が生きていけないだろう。 完全な自由では、社会的な制約がないだけではなく、空間的な物理的な自由も要素としてなくてはいけない。移動がどんななに遠くでも一瞬でできること。必要なものは、なんでも手に入ること。それがなくては、自由な生活とはいえないのである。

 社会的な自由だけでは、人間は満足しない。社会的な自由が満たされたら、次に、空間的な物理的な自由を求めるのが、人間である。これが今日の主張である。 リバタリアンは社会的な自由を求める。が、空間的かつ物理的な自由は、さほど求めない。社会思想の時代が終わると、リバタリアンは、過去の思想になるだろう。ただ、リベラルは自由を奪う面があるので、リバタリアンよりも悪い。

 

 

 リベラルの歪みと企業の政治支配の終焉-国家主導の時代 2016-12-14

 

 社会的平等をもたらすのがリベラルの理念だ。サンデルにはそんな話題にしか出てこない。リベラルが自由主義の一派と思うのは正確ではない。どうしてリベラルは社会的な公平性を実現できないのか? 何がリベラルを歪ませるのか?

 

 民主党のオバマを見てわかる。あの米国民すべてに健康保険をと始まったが、保険業界の圧力を受けて、どんどん値段が高いものになった。当初の志はよかったが、国民保険は、大企業の利権へと変貌した。TTPも自由貿易の拡大と理念はよかった。が、ふたをあけると各国の企業の利害が絡み、自由度は低くなり、関税は残った。企業を代弁するものになった。国益よりも企業利益を優先した。いただけない。

 

 中国やニューヨークの証券業界から大金を受け取るヒラリーは、その支持業界の利得を守ることにしか関心がない。国民の所得向上などは二の次である。このように、リベラルを歪ませるのは、企業への過度な優遇で、国民軽視である。それでは国民が不満をもつのは致し方ない。

 トランプ氏の登場である。大企業の代行者となった民主党の政治からの決別を意味するのではないだろうか。共和党は大企業のぼんぼん達の政党だが、実際は企業利益をさほど重視しないで、彼らはレーガンのように基本的にアメリカのため、神のため、世界のため、自由のために政治をしてきた。

 共和党は国益を重視する立場だ。一企業の利益よりもだ。トランプ氏は国益が第一である。それはアメリカにおける民主党時代の企業支配が終わったとみなせる。企業の力が弱まり、国家の力が勝る時代に入った。

 

 

 かけつけ警護部隊は貧弱な武装で戦争はしない 2016-12-13

 

 駆けつけ警護部隊がスーダンに到着した。アフリカの現地の光景がテレビで流れた。南国の雨が降らない赤茶けた大地と簡素なコンクリートの家と現地人。それでわかった。彼らは、危険に遭遇した人員を保護するだけ、と。「戦争反対」とわめていたのがいるが、まったく状況が違う。銃をわずかに携行するだけで、あまりに貧弱な武装。自衛隊の部隊に戦争はできない。

 

 

「キューバの平等と北朝鮮の平等」(李愛蘭 韓国「自由統一文化院」院長 ハフポスト12月11日) 2016-12-13

 

  北朝鮮に平等がない、という記事でなかなかよい内容だ。

「北朝鮮の社会主義は金氏王朝が住民の生命圏と直結する食糧と生活必需品の配給まで総括するシステムであるため、北朝鮮住民たちは朝鮮王朝時代より自由がなくて奴隷のように生きるしかない身である。北朝鮮が平等を歌ってはいるが、率直に言えば、北朝鮮において平等は単なる言葉のあやで、周知のように北朝鮮では階級と出身成分によって職業や配給も違うなど精神的・物質的差別がものすごく酷い。平等は、人民を煽るスローガンに過ぎず、北朝鮮の本質は差別的な待遇によって運営される階級国家、つまり不平等国家なのである。」

 素晴らしい見解だ。「社会共産主義の世界には人民を幸せにするユートピアなんてない」ともある。彼女は表現の天才である。彼女は脱北者である。それで実体験からよく考察する。共産主義の偽りをわかりやすく言葉にしている。私もしっかり共産主義の危険性を説明してゆきたいと思った。

 

 

「HERO」2015年、木村拓哉氏主演の映画をテレビで見た。 2016-12-12

 

 これは、検事の久利生公平が、捜査資料に疑問をもち、違和感が残るような事件の安易な解決をきらい、事件の真相をつきとめるドラマ。ありきたりな事件の捜査資料。事件の筋書きに違和感がある。「本当はそうじゃないっしょ。」と見直す。再検証をするうちに、社会の常識や組織の論理、世間体で作られた嘘をあばく。そして、真実にたどりつく社会派ドラマ。

 

 政治家やリベラルの言うことに対して、トランプがとうとう本当のことを言い出したのが2016年の末。ヒーローはその走りみたいなものだった。リベラルなど社会学者、メディアの言うことが真実から離れてしまった日本でこそ、受けたと思う。日本にまだヒーローはいない。メディアのみなさん「本当のことを言ってくださいよ。」

 

 

 サンデル『これからの正義の話をしよう』リバタリアンの最小国家とは その2 2016-12-12

 

 私はこの本を読み、考察している。他の本を買う金がないからだ。説明が不足している箇所もあるだろう。リバタリアンは考える。国民は自由であらねばならない。国家が国民の自由を制限すべきでない。そんなリバタリアンの理想国家は、国民に最小限にしか干渉しない「最小国家」だ。

 リバタリアンは、「3つのタイプの政策や法律を拒否する。(100頁より引用 以下「」内は同じ)」

1, パターナリズム(父親的温情主義)
2, 道徳的法律
3, 所得や富の最分配の拒否

1, パターナリズム(父親的温情主義)
 「リバタリアンは国が自傷行為を行う者を保護する法律に反対する。」 ぴんと来ないが、シートベルト着用義務法、ヘルメット着用義務法などのこと。自分の身は自分で守るのがリバタリアンだ。国に強制的に保護されるいわれはない。自分の保護を自分が怠っても、国から処罰される理由もない。もしそれで怪我しても、その責任は自分で負う。

 「そうした法律はどんなリスクを自分で取るかを決める権利を侵害する。」という。これはアメリカの変わった観点だ。要は、親が子を守るために、あーしなさいと強制しても、子は受付ない、ということらしい。アメリカでは麻薬規制もこの中に入っているのだろうか。麻薬も自己責任だろうか。

2, 道徳的法律
 「リバタリアンは、法的強制力を用いて、多数の持つ美徳の概念を奨励したり、道徳的信条を表明したりすることに反対する。」 何が言いたいのだろう。売春は大勢にとって不道徳だ。大人が同意の上で売春することを阻む法律は正当でない、そうだ。多数派が同性愛を認めないからといって、同性愛者からパートナーを選ぶこと(ゲイの権利)をとりあげる法律は正当化されない。ということのようだ。
 
 他にポルノ規制、妊娠中絶、性と生殖に関する女性の自己決定権、政教分離、銃規制もある。きっと賭博はこの中に入るのだろう。賭博は不道徳で、中絶はカトリックの禁止事項だ。では、差別用語を言うことはどうだろうか。リベラル左派は人を傷つけたらいけないからと特定の言葉を言うなと、強制しようとする。が、それも言論の自由を侵害することだろう。

3, 所得や富の最分配の拒否
 「リバタリアンの権利理論は、富の再分配のための課税を含め、いかなるものであろうと、他人を助けることをある人々に要求する法律を拒否する。」 長い。富める者が自発的に、貧しい者を助けることはよい。が、政府が命じて強制するものはまずい。それは「強要で」、「(国による)盗み」とまで言う(101頁)。

 アメリカのリバタリアンは、おそらく西部劇のような村を思い浮かべるのだろう。強盗や悪党から命と財産を守るのは、保安官の役割。彼が治安を守る。国民は、自由に生きる。差別用語など気にしない。妊娠中絶もする。銃は身を守るために持つ。売春もあり。ゲイもパラダイス。オートバイや車に制限速度はない。どんな危険な車に乗ろうと自由だ。冒険も可だ。麻薬は自分が使う分に罰されない。何の規制もない。だからこそ、税金は極端に安い。すべては自己責任だ。

 しかし、これは原始的なリバタリアンの社会だ。リバタリアンの社会は発達するから、こんな粗野なイメージにはならない。民間企業が無数にあり、どんな社会保障も得られ(民間の年金や保険がそろっているはず)、貧乏人を保護したい善意の人々が一定の割合で貧乏人を救う。こういうより発達したリバタリアンの国も想像しなくてはならない。が、今回は省く。

 が、猥雑な世界ではない。国によって治安の良さが隅々まで行き届いているのだ。自由な社会というものについて、規制だらけの日本で暮らす私は自由な世界を思い描くことについては、やや発想が貧困だと思う。これは暮らす人間の質によって、ユートピアにもなりうるし、荒れた社会にもなりうる。

 

 高貴な精神の人だけが集まると、誰もがよいことをして、安全に暮らそうとするから、自由で楽しく、豊かな社会になる。が、野蛮で犯罪性向が強い人達が多いと、人に迷惑をかけないが、知恵の至らない者達が、劣悪なことを平気でする。他人に迷惑をかけないという「制約」があるから、殺人や犯罪、隣近所の諍いは少ないだろう。が、全てが自己責任だから、安全性を重視しない。事故は増える。だが、自由きままである。

 一般的には、自由が多い社会ほど、社会は発達する。この自由度が低いほど、人々の創造性が落ちて、社会は成長できなくて、ゆきづまる。リバタリアンは「自由の領域」を拡大しようとする思想だ。リバタリアンが嫌うのは、「政府の規制」、「強制(義務)」のようである。規制にがんじがらめの国に長くいると、何をするにも「法律が許可しているか」、「社会慣習で禁止(タブー)か」とチェックする癖がつく。「合法」的なことしかできなくて、しだいに息苦しくなる。

 たまにはこういう自由に野放図に生きられる社会で、のびのびしたくなるものだ。サンデルの描くリバタリアンも、悪くない。ただし、こうしたリベタリアンのすべての要素をもつ思想グループはいないそうだ。

3, 所得や富の最分配の拒否
 ここは、別個に説明がある。なにしろリベラル派のサンデルは「社会的平等のために富の分配」しなくてはならないと強く思う。が、リバタリアンが強力に反対するからだ。

 

 

 匿名や右派の時代から、これからは善人の時代 2016-12-12

 

 「伊達直人」が本名と顔をさらしたことで、匿名の時代が終わりつつある。また善人が姿を表す時代に入ったのではないだろうか。先月までは、トランプ氏など右派の男たちの時代だった。これからは、穏健で良識をもつ男たちの時代に入るのではないか。ネットでの匿名は非合法になってゆくと思う。

 

 

サンデル『これからの正義の話をしよう』リバタリアンの最小国家とは その1 2016-12-09

 

 サンデルは、なぜ自由が権利なのかは説明しない。権利とは国家が保障する。国民は国から守ってもらう。権利とはそういう契約上のものだ。国家はすべての権利を無条件に保障しない。国家の繁栄のために、市民の自由を保護することが国とって必要だから、そういう契約を結び、国民の権利となった。ここはやがて詳しく説明しよう。リバタリアンは自由が無制限に、ほとんど制約なしに認められるべきだという。リバタリアンは、最小国家を願う。

 リバタリアンの権利
 「どの人間も自由への基本的権利--他人が同じことをする権利を尊重するかぎり、みずからが所有するものを使って、みずからが望むいかなることをも行うことが許される権利--を有する(99頁)」 リバタリアンといえども、他人の権利侵害は認めない。個人の自由は誰もが等しく尊重されるからだ。他人の迷惑をかけない範囲で、すべての自由が認められる。そして、国家はその自由を侵害してはならない。

 ここから、最小国家--「契約を履行させ、私有財産を盗みから守り、平和を維持する国家(100頁)」、が導かれる。ここまでは日本人がよく耳にする話で、雑誌で時々、知ったかぶりの知識人がこんな初歩的なことをもったいぶって書く。アメリカ人のサンデルは、そんな基礎中の基礎では満足しない。彼はより詳しく、リバタリアンを分析する。

 リバタリアンは、「三つのタイプの政策や法律を拒否する。」

1, パターナリズム(父親的温情主義)
2, 道徳的法律
3, 所得や富の最分配の拒否

 という。あまり難しい話ではない。

 

 

 1日2.5Lの水で気分がよくなる 2016-12-08

 

 「1日に2.5リットルの水分補給で気分が良くなる事が判明! 水分不足は逆にメンタルが悪化」(バズプラスニュース)
 1日2.5Lで、気分が一番よくるのだとさ。私は水分を取らないと思考力がなくなる。昼に最低0.5Lは飲む。頭を働かせるには、飲み物は欠かせない。ただ、飲み物にもいろいろあって、コーヒーや紅茶、お茶、水がいい。だが、うっかりよくない紅茶を飲むと、逆に頭の働きが落ちる。売っているものは、いろいろあるから、飲んでよいものをみつけてゆくしかない。

 

 

 サンデル『これからの正義〜』 リバタリアニズムが日本で語られない理由とは 2016-12-08

 

 リバタリアニズムとは、「個人の自由権を絶対的に重視し、それに制約を加える国家の役割を最小にとどめようとする自由市場主義の思想」(知恵蔵2015より) 一つは経済面での市場経済における自由を擁護するフリードマン。もう一つは国家が個人の自由な生き方に介入することを批判するノージックがいる。(上記より)

 サンデルは、リベラルらしくアメリカの経済的不平等をいかに直すかを問いかける。そんな彼にたちはだかるのは、リバタリアンの壁である。リバタリアンは「最小国家を目指し、自由市場主義(弱肉強食)をもたらす。」、と日本では思われている。では、何のために自由主義の極端なイデオロギーがあるのか? リバタリアンはアメリカで強い影響力をもつのか?

 リバタリアンの反対は全体主義だ。個人の自由が全く認められない体制で、共産主義だ。共産国が、北朝鮮、中国、キューバ、ベトナムで猛威をふるう。彼ら国民に自由がなく哀れだ。国家は国民を強制して、隷属を強いる。対する自由の国アメリカでは、共産主義や社会主義に偏ると自由がなくなると強い危機感をもつ。アメリカでは自由を強くもつことが、必要となった。だから、自由主義の思想が極度に発達した。

 そういう事情で登場したのがリバタリアンである。自由がない側の極端が共産主義。自由がある側の極端がリバタリアンである。アメリカが自由の国であるからこそ、リバタリアンはなくてはならない。サンデルはそういう自由思想の必要性について明記しなかった。リバタリアンが尊重される理由は本書にない。だが、それはアメリカ人の常識である。自由主義の大切さを理解するために、日本人としては覚えたい。

 話を戻す。サンデルの設問---アメリカの富を独占する富裕層の資産を貧困層に分配するために、「富裕者へ課税すべきだ。(頁98)」、という穏健な態度が、日本人は新鮮だろう。日本では共産主義が猛威を振るった。未だにアカは廃棄された社会論にとらわれる。

 「(格差を是正するためには)、資産家から暴力で奪う。資本家は、不正をして金を蓄えた。資本家は労働者から搾取した。私的所有権は認めないで、国家権力は資本家の資産を没収しなくてはいけない。が、革命でもしない限り、大企業や資本家の私財をとりあげて、つぶせない。だから、彼らに重税を課して、富を奪い、弱体化する。」

 こんな冷戦時代の嘘をいまだにこっそり話す共産かぶれは、薄気味悪い。たいてい大学では、国家が共産を危険視した1900年頃のこんな幼稚な共産談義しか聞かされないものだ。何の解決にもならない。聞いている学生は、わかっていて、

 「それ、ダメダメ。古臭く、既に間違いと実証ずみの共産党の論理だよ。人権と自由を否定する独裁者のそんなやり方では、格差は解決しないよ。そんなことしたら、経済は瓦解。ソ連のように国は滅ぶよ。まともな議論(考え方)はないのか?」

 サンデルは自由社会における考え方をいくつも、この章で紹介してくれる。現代日本で通用する話を。共産連中の役に立たない上に、間違った思い込みを長々と聞かされてきた若者には、目新しく映る。為になる。正確には、1970-90年のやや古い議論ですら。

 まず、サンデルはリバタリアンを通じて、富裕者を擁護する。資産家は不正でそうなったわけではない、と至極当然のことをいう。「資本家はすべてインチキ野郎、つぶつしかないと金持ちを憎む」自由社会の転覆をもくろむアングラな共産連中の裏の論理とは、まったく違う表社会の話をする。だからこそ、一読の価値がある。

 「強制や不正行為によってではなく、市場経済での選択を通じて経済的不平等が生じるならば、そのことは少しも不公正ではない。」(98頁)

 「貧困者を助けるために富裕者に課税するのは正義にもとる〜。なぜなら、基本的な権利が侵害されるからだ。同意なしに〜金を取り上げることは強要である〜。自分の金を好きなように使う自由を侵害している。」(99頁)

 リベラルなサンデルは、思想的には対立するリバタリアンの主張を、意図的にエゴイスティックに描くという小汚いことをしつつも、自由と人権を認めた社会での変革を探る。

 資本家は詐欺で金を集めたのではない。労働者を騙して、お金を独り占めしているのではない。資本家は正当な手段と方法で、金持ちになった。そういう基本的なことから、説明する。今の日本で、金持ちは正当に財産を蓄えたと思われている。それを学問的に説明してくれる。まっとうな社会論である。

 それは、資本家を独りよがりな論理で否定することしかできない共産主義とは異なる。資本主義社会に生きる日本人には受け入れやすい話である。大学が赤く染まった日本では聞けない自由な議論がここにある。

 

 

 安倍総理の真珠湾訪問 2016-12-07

 

 真珠湾は軍人と軍艦に打撃を与えた。広島の原爆や東京、大阪の大空襲など市民の犠牲者を悼むのとは、違う。単に慰霊だ。何の謝罪もしないのがよい。日本を経済封鎖して、嫌がらせを続けたアメリカの軍基地を日本軍が破壊したが、それは日本としては正当な戦争の端緒である。宣戦布告がやや後れたが、それはあまり重要ではない。これで、日米の和解が進み、人気が上がるなら、それでよしという政府の算段だろう。

 

 

 サンデル『これからの正義の話をしよう』第3章 リバタリアニズム(自由至上主義) 2016-12-07

 

 リバタリアニズムとは、個人の自由を究極にまで尊重するアメリカの思想である。日本では、実にワンパターンで『弱肉強食の社会』、『小さな政府』、『自助の精神』くらいしか中身が知られてない。貧弱な日本の学者はリバタリアンのことになると、この3つしか言わない。が、本場、アメリカでは深く議論される。それが新鮮である。早速紹介しよう。

 サンデルは、まず格差を問題提起する。「アメリカの金持ち上位一パーセントが国中の富の三分の一以上を保有し、その額は下位九〇%の世帯の資産の合計した額より多い。」 そして、彼が心情を寄せる立場を主張する。

 「アメリカの経済的不平等はほかの民主主義国よりもかなり大きい。こうした不平等を正義にもとることと考え、貧困者を助けるために富裕者に課税すべきだという人々がいる。」 サンデルがこちらの立場である。なぜなら、吟味好きな彼が「資産家の富の分配」を無批判に受け入れるからだ。

 この章は、格差是正のため「資産家の富を貧者にわけるという安易な考え、政策」にリバタリアンが反対する。そんな話が延々と続く。いわば、サンデルにとってリバタリアンは、議論の敵である。そして、サンデルはそのリバタリアンの主張に、同意せざるを得ない。サンデルがリバタリアンに敗北する章である。

 とはいえ、このようにサンデルは「リバタリアンは平等主義に反する思想」と最初に印象づける。リバタリアンの意義や価値をしっかり説明しない。リバタリアンとはアメリカの最高の価値である「自由」の究極の姿だ。だから、最初から悪い考えとして登場させるのは、公正な扱いではない。サンデルはやや卑怯なイメージ操作をしている。

 サンデルは特定思想に対する嫌悪感をあからさまに出している。先入観を植え付けるような導入は卑劣である。日本の保守は、こういう汚さを見抜くから、サンデルを対等にはみない。さてさて、これからはリバタリアンをやさしい言葉で理解することをめざす。続きはまた今度。

 

 

 毎日新聞が、野党の強行採決はやらせで茶番、と印象づける記事 2016-12-06

 

 毎日新聞(12月5日)で、民主党、共産党などのいう「強行採決」は茶番だと思う方の投稿が。毎日は独裁でキューバ国民を百万単位で殺したカスロトを暗黒社会の「汚れた英雄」ということもできなくて、思想が歪む。そんな政治音痴な毎日なのだが、野党に苦言を呈した記事を書いたので、紹介する。

 12月5日、風知草で山田孝男氏が「プロレスに学べ」とお題で、野党の強行採決をプロレス茶番になぞらえた。「野党の国会質問がくだらない・・・」(以下「」内は引用)などという質問に、萩生田氏が答えて「強行採決なんてのは世の中ありえない。採決を強行的に邪魔する人たちがいるだけでして・・・ ある意味、茶番だと思いまして」

 

 出だしがよい。おそらく山田氏は記者なのだろう。『採決が「強行」されたかどうかは、おしきられた側の主観で決まる。』と、野党がそう言ったから、鵜呑みにして毎日もそう書いている、と自白した。政治を監視するのがジャーナリズムの努めと言いつつも、野党のあり方を厳しく問わない毎日に、客観性はないのだろう。

 『(TTP)ま承認案は11月4日~民進、共産両党欠席のまま可決された。じつは、与野党は採決で合意していた。』 民進党と共産党が強行採決を演じたのは、完全な茶番だとばらした。 『「採決反対」のビラをテレビカメラへ誇示する野党のパフォーマンスにはうんざりするが』 本音もかいまみえる。

 カジノ法案についてあれこれ彼は国会の流れを書くが、数年この問題に取り組んできたことは無視しているようだ。審議時間が短いという。が、それは、国会での議論は尽くされているからだ。また共産党が「とばく禁止は持統天皇のすごろく禁止令に始まり、近代法にも受け継がれている」と、中世江戸は、とばく(富くじ)が一部合法という面も現代に受け継がれているが言わないこんな共産党の一面的かつ天皇利用を無批判に載せるなど、彼に政策のセンスはない。

 

 彼は締めくくりに、「肉体を鍛え上げ、怪我を承知で挑む闘いは、決してヤラセではない」と。同じビラや民主党議員の統一行動から、それは民主党執行部が「ヤラセ」ているのは明白。どうやら、毎日の記者も茶番には飽きてきたようだ。

 

 

 リベラルは社会的公正を目指し、自由を愛さない 2016-12-06

 

 リベラルは自由主義と思われているが、実は「社会的公正」を目指す。公正とは、「共通善」のことで、ある種の正義のことだ。リベラルの正義には、人権の占める割合が多く、彼らの多くは「差別」や「貧困」などをなくすことに強い情熱をいだく。彼らの関心の多くは「市民」の保護に費やされる。市民は国から保護される権利をもつとされる。

 公共は、社会正義の守り手である。市民がその自らの利益のために、公共(国家)を運営する必要があると考える。リベラルにとって、「自由」は、リベラルが守るべき数多くの価値の一つにしかすぎない。だから、時々、「差別」という他の正義が叫ばれると、言論の自由が侵害される。時々、「平等」という価値に支配されると、所有の自由を破壊する。

 リベラルは「公民的理想」をめざす。自由を低くとらえる傾向がある。リベラルは、様々な「正義」の関係が明確ではない。そのため、自由と平等という相反する価値の間で揺れ動き、理念が定まらず不安定である。特定の正義に偏ると、そのために市民の幸福、自由から遠ざかることも平気だ。安っぽい正義に走りやすい思想である。

 

 

  ヒラリーはカネほしさに中国の人権問題を口にしたが、8000億元もらうとそれ以降は黙った。 2016-12-05

 

 『高智晟弁護士「絶対にヒラリー・クリントンに投票しない」(1)』 (大紀元より)
 彼が2009年に中国の秘密警察から聞いた話だ。クリントン女史は、中国に来て、人権問題と高智晟弁護士を話題にして、1兆元くれと要求した。中国は8000億元を渡したそうだ。翌日から、ヒラリーは何も言わなくなったそうだ。ヒラリーは口先で、人権を言うが、何も改善しようとはしなかったというのが、彼の主張である。

 

 ヒラリーはあてにならない人物ではあった。大統領選で落選してよかった。トランプ氏は台湾の代表と電話会談した。痛快だ。トランプ氏は中共の言うことをきかない。世界の正義がわかっている。

 

 

 カジノ法案可決 ようやく通った 2016-12-03

 

 カジノ法案可決。審議が6時間と短かったという話もあるが、この法案は3-10年ほど引きのばしてきたものだ。カジノ問題は国民に周知されており、今更、何時間かけても新しい事実は出ないだろう。私は正直、パチンコはやりたくないが、カジノのスロットは回したい。うちのじいちゃがわざわざラスベガスを通ってボストンに来たことがあった。ベガスのスロットでは、珍しい1ドルコインが手に入るので、1度は行ってみたかった。

 そういうのが日本に出来たら、年に1度くらいは楽しめる。カジノが出来たら、パチンコはすぐになくならないとしても、減るだろう。大手がカジノに参入するが、中小はどんどんさびれてゆく。パチンコはうるさく不健全だから、消えてしまってよい。カジノがそれをなしとげる。

 ギャンブル依存症?
 バチンコに競馬、競輪。こちらが問題なくて、カジノだけというのはおかしい。もうギャンブル依存症は起きても、従来通りの対応でよいだろう。

 経済効果?
 パチンコや競馬競輪のお金がこちらに流れる。賭け事の市場は、大きく増加しないだろう。ただ、パチンコは日本人しかしないが、カジノは外貨が見込める。日本人が海外のカジノでカモにされなくなる。パチンコよりはかなりあるだろう。

 資金洗浄の防止策?
 パチンコと同じように対応すればよい。パチンコはどうなっていたのかな?

 賭博罪の合法化?
 日本はそんなに厳格ではなく、かなり甘い。宝くじはテレビCM流し放題。パチンコもあるし、競馬競輪がある。こんなに賭博が好きな民族はいないほどだ。カジノが新たに加わって、どれほど賭博が増えるというのか。

 これらをさらにつきつめて、明確にすることは大事だ。が、議論としてはもう十分だろう。カジノだけが他の賭博と違い特別だ、という論調には同意できない。これまでパチンコが社会問題だったほどに、カジノでもそうなるとしても、日本はそれを許容できる。パチンコよりはカジノのほうが健全である。

 ポイントは、カジノの胴元でもあるトランプ氏が大統領に決まったタイミングでの法案通過。日本はトランプ氏へ同調をアピールした。

 

 

  カストロ死亡に歓喜するキューバ人の生の声とは 2016-12-02

 

 『シャルリー・エブド、独で発刊 「ユーモアあるはず」』(朝日新聞の記事) そんなにあの下品なアニメが好きなら、朝日新聞で掲載したら? きっと新しいファンを開拓できるだろう。『フィデル・カストロ氏死去、キューバ移民はなぜ祝福するのか グロリア・エステファンが理由を語る』(ハフポスト12/1) ようやく、独裁者カストロ死亡を祝う人たちの生の声が聞けた。粛清と強制収容所のレーニンが死ぬこと、文革の張本人、毛沢東が亡くなること。

 

 キューバを暗黒の地に変えたカストロの死はそれと同じ希望を人々に与える。キューバであの残虐の男は『反対派を弾圧し、罪なき人々を無差別に投獄し、家族を断絶させ、国民に自由な発言をさせない厳しい制限を課し、テロ行為を国として許可し、かつては繁栄と成功を収めた一国の経済を破壊させた』(記事より)。だからこそ、人々は喜ぶのだ。

 エステファン『彼が信奉した破滅的なイデオロギーが象徴的な死を迎え、長いこと待ち望んでいた新たな希望や安堵の気持ちでいっぱいなのでしょう。』

 トランプ次期大統領は今なお国民が弾圧されるキューバ共産政権を打倒して、国民に希望と自由を灯すことができるだろうか。アメリカとキューバとの関係は、日本対北朝鮮のような関係である。国交はあるが、かなり制限され、アメリカはいつでも制裁できる。トランプ氏に期待しよう。

 

 

 カストロ死去に対するトランプ氏の演説が素晴らしい 2016-12-01

 

 独裁者カストロ死去に対し、最も素晴らしい感想を述べたのはトランプ氏。例外的に長く引用する。『今日、60年近く自国民を迫害してきた残忍な独裁者が死去した。フィデル・カストロの遺産は、銃殺隊、盗難、想像を絶する苦しみ、貧困、そして基本的人権の否定だ。

 キューバはまだ全体主義的な島のままだが、私が願うのは、今日を境に、あまりにも長い間辛抱してきた恐怖を取り去って、すばらしいキューバ国民がようやく自由な生活を当然の権利として享受することだ。

 フィデル・カストロが引き起こした悲劇、死、痛みは消し去れないが、私たちの政権は、キューバ国民がようやく繁栄と自由への道を歩み始められるよう、できることは何でもやるつもりだ。大統領選中は、多くのキューバ系アメリカ人たちが、2506部隊の退役軍人団体を含め、私に大変協力してくれた。彼らが近い将来、自由なキューバを見られるよう、希望を与えたい。』(フィデル・カストロ氏の死に、世界の指導者たちはどのように反応したか、ハフポストより)

 対するオバマはアメリカの宿敵カストロをまったく非難できなくて、情けなくてしょうがない。それでもお前はアメリカ人か。

 

 ついでに、神の敵をいまだに知らないフランシスコは『フランシスコ法王はカストロ氏の死を「悲しい知らせ」と表現し、深い悲しみの中でカストロの「安らかな眠り」を祈っていると述べた。』(同上)となぜか悪魔の手先、共産党員のカストロが死んだことを喜ばない。カトリックの頭目がこれでは、世界に神の秩序をもたらす力はない。共和党の次期大統領だけが、世界に民主主義と人権と自由をもたらす意志をもつことがわかった。

 

 

  「これからの正義の話をしよう」平等擁護--結論までの展開がおかしい 2016-12-01

 

 『リッチな家に生まれたのはたまたまであり、彼に才能があるのもたまたまだ。彼が努力する性格もたまたま親がそうだったからだ。彼のついた仕事で高い給与がもらえるのも、たまたまそんな時代だったからだ。そんな偶然によって、君が高給をもらうことは正当ではない。』

 この考えは、サンデルによるとロールズも認めない。 「生まれつきの才能の分配や周囲の環境のめぐりあわせが正義にもとるからであり、この不正義が人々の境遇に必然的に引き継がれてしまうからである。という主張がある。だが、こうした主張は受け入れるべきではない。(263頁)」

 才能や家庭環境は、運で恣意的とさんざん前半で書いておきながら、最後に否定する。大どんでん返しである。この本はわかりにくい。 「(こうした)自然による分配は正義でも不正義でもない。人が特定の場所に生まれることも同じだ。どちらも自然の事実にすぎない。」

 あっさりとロールズは「人が不公平なのは自然なことで認めなくてはいけない」という。人は違っていいんだよ、金持ちの家か貧乏の家か、どこで生まれようとそれは悪いことではない、という。現実を見たら、誰もがそう思うのは確かだとしても… 

1, 生まれ(家庭環境) 2, 本人の才能や能力 3, 努力 4, 道徳的功績 5, 高給がとれる職業。さすがに既存の制度をすべて否定するかのようなことをいつまでも言い続けることはできない。ロールズも現実を受け入れるしかなかったのだろう。これら人ごとの違いは自然なもの。そこに正義も不正義もない、という。つまり、君が才能がないのは、仕方のないことで、誰を恨んでもいけない、ということだ。才能ある者をひがんだり、嫉妬したりするな、ということだ。

 私なりに考えるとこうなる。
 宝くじは当たるまでは、賞金は誰のものでもない。が、猫又さんが1等を当てたら、彼のものになる。当たるのは偶然だとしても、当たってしまい、それが現実になると彼のものだ。偶然だ、恣意的だと言ってられるのは、それがまだ起きてない段階だ。それが発生すると、もう現実なのだ。物理学の不確定性原理みたいなものだ。物事は、その上で考えるしかない。
 自分が極貧となってしまった以上、そこから這い上がる方策を考えるしかないのだ。運が悪いとこぼしてもなんにもならない。

 才能をもつ子供が生まれたら、それを認めるしかないのだ。世の中には、貧乏人と金持ちがいることも。高給の職業と安い仕事がある。つまり、実力主義も能力主義も必要なのだ。

 ロールズ氏は、これまで長々と説明してきた「格差原理」の主要な根拠を最後の最後に、わずか一言で簡単に捨てた。読者はもうついてこれない。今までの格差原理の説明は何だったのか? これでは、金持ちが貧乏人に配分する根拠がなくなるではないか? と。これまでロールズは嘘を話していたのか?

 きまりが悪いロールズは少しわかりにくい言葉で、これまで語らなかった「格差原理」の真の理由を語りはじめる。「正義にかなったりかなわなかったりするのは、制度によるこうした事実の扱い方なのだ。(263頁)」 生まれの才能の違いとか、そういう自然に生じたものは悪くない。能力主義や実力主義についての社会制度が問題なのだ、という。章の終わり間際に、格差社会の真の原因の登場である。新展開である。遅すぎるよ。

 才能に対する報酬が高すぎる社会はよくない。貧乏の子が金持ちの子のように教育を受けられないのはよくない。それら制度はいけない、と言いたいのだろう。最後に否定するなら、前半に天賦の才能、実力、能力によって配分することは「偶然」で「恣意的」で正義にもとる、とへんてこな理屈をつけて、「世の中の不平等」の原因はこれだといわんばかり語るのはやめてほしかったものだ。社会制度の欠陥をはじめから説明しろよ、と思ったのは私だけではないはずだ。

 累進課税、相続税など、金持ちからたくさんとり、貧乏人からとらない社会制度はいろいろあったはずだ。再びサンデル氏は、こんなロールズに希望を託す。「ロールズの正義論は、アメリカの政治哲学がまだ生み出していない、より平等な社会を実現するための説得力ある主張を提示している。(同頁)」

  ロールズの正義論とは何だっけ??? 格差原理の説明は、9割意味がなかった。最後の一文のみ信じろと? 私はなんだか騙されたような気がするが、サンデル氏の議論からは、金持ちが儲けすぎたお金を貧乏人に回すべき、という彼の社会福祉への情熱を感じた。

  アメリカが億万長者がどんどん蓄え、貧乏人が増えていく中で、サンデルは危機感をもった。「金持ちの資産を貧乏人に分配しなくてはいけない。政治的に。」と考えたのは無理からぬことだ。一部は、「格差原理は格差が激しいアメリカには必要だ。ごもっとも。」と思う人もいるだろう。こんなに丁寧に解説しても、理解せず、中身が超デタラメの「格差原理」を信じてしまった人はいるものだ。

 しかし、こんな一貫性のない文章を書いて、サンデル氏は大丈夫なのか?  ロールズに格差社会解決のヒントを見出しながらも、後半で挫折した感がある彼は本書のテーマともいえる「分配の正義」の追求をまだまだあきらめない。

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