評論 共産主義

共産主義批判 基本から応用に

共産主義の基本

共産主義は経営学の亜流

共産主義は古い経営学の亜流2

共産主義は「共産(共有)」の本質から社会停滞をもたらす


共産主義の偽り
共産にすると労働者の天国というのは嘘
共産の嘘 - 平等な分配は最悪だった
共産主義は誰でも平等な分配を受け取れるは嘘
共産の嘘をあばく - 共産にすることがムダ

共産主義の現実
身勝手なマルクスの給与論への反論
困窮者を助けない共産主義 理想の転落
共産主義では無理で、ベーシックインカムで暮らしが保障
シェアリングビジネスは中国で全滅。共産・共有はまた失敗
共産の理想社会を真に打ち砕くのは人工知能とロボット

 

共産主義がない未来

詐欺師,共産主義者,手品師は人に話す時に細心の注意を払う

共産主義がいない平和な世界を想像してみよう

共産主義がない平和な未来

 

 

 

 共産主義は経営学の亜流 2015-12-03

 

 共産主義とはいったい何なのか? ずっとわかりにくいものだったが、やっと最近わかった。それは、工場経営の理論なのだ。農民から町に仕事に来て、工場で働く。18-19世紀のことだ。それら工場労働者が町に大勢現れる。そんな彼らが豊かな暮らしをするための、歪んだ方法論なのだ。

 労働者の理論というが、本当のところは、工場経営の一面である。工場で働く労働者の給料や待遇、地位などを書いたものだ。つまり、共産主義とは、18-19世紀の経営システム(労働者の管理を書いた)なのだ。共産主義は経営学の一分野、というのは驚くかもしれない。が、妥当なところだ。古い工場労働の腐った教科書みたいなものだ。18-19世紀の工場の労務管理。

 19世紀や20世紀には工場は花型の職場だった。その経営論は、知識人でも輝いて見えたのだろう。それを少し改善したような体裁の共産主義(一種の経営論)はなおさらだろう。それで、多くの人々が労働者の暮らしがよくなると騙された。現代の経営学からすると、ひどい質で誰も見向きもしないのだが。

 共産主義は、古臭い経営管理論だとはわかっただろうか? 古いできの悪い経営管理論だ。しかし、19世紀には新鮮に見えたのだろう。その共産のシステムで、国家そのものを運営できると革命を起こしたのもいる。しかし、所詮、経営の実務経験すらないマルクスが考えたもの。国家に適用できるほどの一般性もなく、そのシステムの国家は次々と破綻に追い込まれる。かろうじて体裁は保っていたが、1992年にはつぶれた。

 結局、共産主義者がしていたことは、古典的な経営システム(労務管理主体の論)で、社会、国家を統治することだった。それで失敗する。当たり前である。彼らは、経営ごっこをしていたのだから。経営をブルジョワジーの学問として、否定したから、彼らはこの真実にいまだに気づいていない。そこが、愚かである。

 共産主義は経営学ではない、というのには、反論しておく。経営のよしあしを論じるのは、すべて経営の範ちゅうである。それは、経営という分野におさめることができる。つまり、経営学である。共産主義は、経営学の亜流だったのである。本流が成功して、亜流は行き詰まる。これこそ歴史の必然である。

 

 

 共産主義は古い経営学の亜流2  2015-12-04

 

 左翼活動家は労働者の職場環境の改善や高い賃金を経営者に要求する。つまり、経営に口出しすることを、半ば本業とする。それは本来、労務(人事部)がする仕事である。

 それは経営学の一分野だ。会社の経営についての専門的な見地は、すべて経営学といってよい。労働者の待遇などもそうである。まれに法律も関係するが、それは経営の一部の法務となる。共産主義は、経営学の古い古い一つの一側面なのだ。労働者のあり方に関する規定なのだから。労働者とは、工場や会社があってはじめて成立する概念である。労働は経営の一部なのだ。マルクスが作り、以後ほとんど改善されなかった出来の悪い理論なのだ。

 経営者はこういう労働団体の要求には、経営学の一範ちゅうであるからして、知識もたくさんあり、冷静に対処できる。共産主義者は、経営を理解できないか、外側におく。それに対して、経営学では、共産主義も亜流の理論として、内部に取り込める。これが、経営学とマルクス主義の学問としての差だ。

 マルクス主義は、労働者のあり方に特化された経営の一分野の古典的な邪論である。経営学と同等なものでも、経営学と対峙するような特別なものではない。経営学の一分野で、しょうもない理論なのだ。経営学は、はるかに共産主義を上回り、巨大な体系になった。社会学の一分野として確立した。それを学ぶ者には、共産主義などはガキのたわごとのようである。

 よって、アルバイトしか知らないような経営にも無知な若者は、マルクス主義に触れると新鮮で、そこから会社を見る目を見出すかもしれない。が、経営学を学んだ者は、そんな使えない理論を今更・・と、蔑視することになる。これが現実だ。私はだから、経営学を小学生にも学ばせたいと思う。人間関係を作るのが下手になった。友達つくり程度のことしか言えない子供が多い。もっと人間をグループ化して、どう扱うとよいか、広く学ぶべきなのだ。それには経営学がうってつけだ。

 経営学ではなく、株の売買を学ばせるという試みはある。これはお金の扱いなど学ぶので、数学で足りる。社会の勢いがある産業や起業は知ることができても、人間を知ることができない。株ごっこは子供にはふさわしくない。が、経営はそうではない。組織作りは、社会秩序である。それを守る方法や維持する方法を学べる。効果もある。会社に就職して、会社の基礎知識があるから、会社の人間関係などにすぐになじめるだろう。実学でもある。

 

 

 共産主義は、「共産(共有)」の本質から社会停滞をもたらす 2020-05-04

 

「共産」が社会停滞の元凶

 金持ち、資本家、貴族などが独り占めすると、庶民は誰も使えない。それを人々に分け与え、共有することが、よいことだと共産信者は、思い込んでいます。が、この「共産」、「共有」こそが、社会停滞の元凶だということが真実です。ここでは「共有」の本質に迫りましょう。

 共有とは共同所有のことです。勘違いしている人は、「共産は素晴らしい。誰もが所有者なので、誰でも使える。」と思い込んでいます。それが嘘です。共有すると約束事がないなら、誰も使えない、というのが真相でした。

 共有化というのは、国有化です。全員が所有するというのは、所有権の放棄です。自分の所有物(私物)を社会に取り上げられることと同じです。これは、けっして歓迎できることではありません。そのあと、国民がそれを使用するという規定がないならば、それは国が所有して、国民は2度と使えません。共産国ではそうなりました。国家=共産党の所有物となり、2度と国民が奪われたものを利用することはありませんでした。

 実は、「共産とは、誰もがそれが平等に使用できること」この単純な思い込みこそが、大きな間違いでした。具体的な例をあげます。広い土地を兄弟3人が相続しました。その土地は3人の共同所有です。この場合は、確かに3人に権利があります。3つに分割できます。なぜなら、法律で財産分与というものが決まっているからです。

 共産国では、国民から奪い、国家の所有物になったものに対して、使用権も分割して、与えるということもないので、国民は奪われた土地を二度と取り戻すことはできません。共産になると、無条件に、各自がそれを使えるということは、嘘っぱちなのです。

 さらに、共有することの問題点もあります。兄弟3人が相続した土地を売る時には揉め事になります。誰かが売りたくなくて反対すると、売れなくなります。所有者があまりに多くて、売るにも売れないのです。共有する土地は、全員の同意がないと売れないのです。実にやっかいです。分割もできないで放置されたどうにもならない土地が、日本にはありふれています。共有は、このように面倒なのです。共同所有は、全員の合意がないと売れない。その売買をする時には、とても困るのです。社会停滞の理由となります。沖縄の土地で反戦地主の土地などは、権利関係が入り組んで何も動かせません。その土地を売ることもできません。共同所有というのは、社会が不活性化する原因となります。

 次に、家の建物を3人が相続する場合。もっとたいへんな事態に陥ります。家を3つ切りにする訳にもいきません。兄弟3人、それぞれの3家族が住むのは無理でしょう。家を売ると、現金にして、3分割できます。家を売らないとしましょう。誰か1人がその家に住むとします。長男が他の兄弟から権利分を買い上げるならば、うまくまとまります。が、それができないならば、共同所有のままとなります。

 長男が管理者になったとします。なぜか? 力があるからです。共同所有の場合は、力がある者の所有になりがちです。法などの取り決めがないと、たいていそうなります。争って、力が強い者が所有します。結局、弱い者は、共有すると、権利がなくなるのです。ここも共産の嘘として大事な点です。共有にすると、弱者、弱い者にも使用する権利ができて、よい。まったくの嘘デタラメです。

 現実問題、共産党だけが力が圧倒的にあります。そういう悪党みたいなのが、独占します。国民に貸し出すことはほとんどありません。党の思惑で、貸し出すのみです。共産にすると、共有にすると、誰でも権利があって、それが使えるようになるというのは、まやかしなのです。その社会で力をもつ者、権力のどちらかが強い者が独り占めします。

 そして、その権力者が、使用する権利を取り決めます。その社会では弱者である者など、考慮されません。それは、彼ら支配者の自由になるのです。こういうのを共産国の腐敗とか、呼ぶ人たちもいます。

 理想的な共有では、分割する、という考えの持ち主です。これも実は誤りです。財産分与のように、1/4など持てるというのはお金ならば、分割できます。が、分割できないものが多々あります。基準はもっと複雑です。人数で分けるとか単純なものはうまくゆきません。より働いた者に与えるほうがよいのです。また利用するのでも、才能がある者にバイオリンを貸し出して、ない者にも権利があると、年に1日貸すとかはよくないのです。

 最も平等な配分として、最も初歩的に人数で分けるとして、失敗したのがソ連でした。働かなくても、もらえるので、だんだんと労働者は働かなくなって、社会の生産性は低下しました。理想的な配分ではなかったのです。

 ビールを飲まない人にも分け与えるのは、ムダなのです。他にも生産物を作りすぎた時に、与えすぎるのも問題です。人には、必要量があります。それ以上与えると、その人の所有物になりまして、他人にあげたりして、勝手に流通します。全員に、平等に配分するのは、たいていよくないのです。理想というよりも、ムダだらけです。

 国家の富を分割して所有するとどうなるか?

 もう1つ、国家の権利を国民で等分する、という考えは、国家株式会社です。国民は株主=資本家です。国家の収益物を、等分してもらえるというのは、共産主義者が最も忌み嫌う、資本主義の株主の制度と同じです。この国家資本の1株主に、国民がなれる。それが共産主義の本質です。

 純粋な共産国では、国民は働かなくても、国民はその利益を享受できます。労働なんて、不要です。なにしろ、個人はその収益をもらえるのですから。働いて、収入を得る必要などないのです。

 おわかり頂けたでしょうか。純粋な共産体制の国家では、国民は株主然として、悠々とその収益を届くのを待てばよい一級市民です。そこでは、労働者は一級市民のために働く奴隷であり、それによって、対価を得ます。労働者は、共産国では二級市民です。この体制は、共産党員だけが国民であり、国家から大きな富の配分を受ける。その他が、働くことを強制され、取り分が少ない虐げられた者たちであること。そういうことで、現実の共産国と一致します。

 共産国では、労働者の天国というのは嘘っぱちです。国家の正当な所有者である者が、富の分配を受け取れます。彼らは働かなくても特権が得られる一級国民です。彼らは労働者たりえないのです。労働者は、その国家の利益(一級国民の)のために働く者たちであり、いわば、二級市民です。そういう、2階層の社会となります。

 家の共同所有に話を戻します。管理者が基本的に、自由に使えます。家族を住まわせることはできます。ここは大事です。一度、長男が家族を住まわせると、たとえ兄弟が自分にも権利があるからと勝手に入ることはできなくなります。長男が自由に使うのです。他の兄弟に使用権はありません。共同所有というのは建前となり、家を売る時にその権利を行使するくらいとなります。管理者である長男だけが使えるのです。

 国家の統治でも同じです。共産国では、全員が統治をする公務員にはなれません。選挙というのは、他人に任せることです。権力をもつ共産党が任されることになります。共産党だけが自由に国家運営ができます。他は、統治を共産党に委託したのですが、共産国では国民の参政権は極めて限られます。国家を共同で所有するのに、国民は何ももてなくなります。統治者だけが、統治権をもてるのです。

 共同所有では、管理者が全権を握ります。権利を個人に分割する決め事がないと、国民に富は分割されません。

 つまり、結局は、共産で大事なのは、配分の取り決めです。民法では、財産相続では兄弟では等分するなど決められています。それがないと、共有財産は、誰かが独り占めしてしまいます。なお、共産党はそれを自由に決められるために、国民に資産を分け与えようとはしないのです。それをすると、資本主義に戻るからです。

 ここまで、共同所有には、配分の取り決めが不可欠だとおかわりできたでしょうか? 権利関係の取り決めがないと、管理者(政府)に独占されてしまいます。共産主義は、つまり、それ自体に配分が記されてないから、独裁的な体制となるのです。対する資本主義は、それ自体が配分(私有制)の制度なのです。配分がない共産主義、配分そのものである資本主義。資産の配分において、資本主義のほうが優れるのは、言葉の定義からの決まり事です。

 共同所有の罠
 共同所有すると持ちかけ、配分の取り決めが極めて不公平にする。すると、片方だけが、その使用でき、他方はまったくといってよいほどそれを使用できません。

 資本主義は、分配の制度です。各自に所有させるというという分配です。対する共産とは、分配ではないのです。分配はまだ決めていません。私物を共有する、つまり、まずは社会が一人ひとり、企業などの持ち物を奪いとりあげる、という制度です。よって、資本主義の私有制と共産主義の社会の所有というものは、分配において対立するものではないのです。共産主義だけでは、分配は何も書かれてないからです。それは国家=党の所有となります。

 共産主義で、分配が議論になるのは、それは資産の集約のみの制度で、分配がないからです。資本主義では、分配をどうするかは、さほど語らなくてよいのです。それ自体が分配の制度だからです。共産主義では、共産党が社会を独裁的に所有する。そこから、国民に分配する取り決めを、共産党の都合ですることになります。

 そこに恐ろしい結果が待ち構えています。共産主義は、純粋に共有して、全員が所有権を持つ、という制度と考える人もいます。そんな集団もありました。彼らは全員に参政権を与え、多数決で決めようとしました。しかし、私有物はないのです。それで、何もかも、私有物はその組織社会にすぐに取り上げられ、自分で決済できないのです。

 共有化することによる効率の悪さ

 これは、それで不便です。なぜなら、自分で収穫したものを、一度国家に取り上げられてから、配給されて、ようやく各自が食べられる。これは一度、国の倉庫に収穫物を入れて、流通網を通して、配られる。そういう手続を必要とします。が、個人が畑で作り、収穫して、それを自宅で食う。これだと、そんな一度、国庫に入れるというムダな流通を省くことができます。つまり、何でも共有化するのは、ムダなのです。なんでも共産にするのは、ムダな行いなのです。社会効率が悪いのです。

 個人が決められることでも、全員で決めないといけない。これは意思決定をいちいち全員でしなくてはならないので、ムダなのです。それで、かわりに共産党がすべてやろう、というのが独裁です。共産主義は、所有の移転をムダに多くする制度なのです。個人→社会→個人と。個人で収穫したものが、国家に取り上げられるから、本人は食えないという悲劇もあります。これは流通におけるムダです。

 また共有して、社会が決めるとなると、全員で決めるというのはいちいち全員を集めなくてはならないし、ムダが多い。共同で所有する土地は、売買するのも動かすのもたいへんです。というわけで、長々と共産(共有)の社会的損失というは、不効率、不合理性を細かく、説明しました。おわかりいただけたでしょうか?

 

 

 共産にすると労働者の天国というのは嘘 2020-05-08

 

 共産主義というのは、嘘やデタラメが多い社会理論です。前回、共産国家とは国民が国家の権利を等分に持ち、収益を平等に分配される社会という考えを示しました。国民は、国家株式会社の一員なのです。1人の株主として、国家に対して権利を主張していたら、国はその生産物(食料や衣服、住居)を分けてくれます。国民は一株主然として、ふんぞり返っていればよいのです。国民の奴隷として、国がなんでもやってくれますから。

 国の下には政治家、大臣、官僚がいて、企業もあり、労働者がいます。彼らが、権利をもつ国民のために働き、生産します。それを、国民は待っていれば、受け取れます。純粋の共産国家では労働者よりも、国民のほうがえらいのです。労働者は、国民のために働いています。労働者と国民とどちらが上か? 上下関係がわかるでしょう? 純粋な共産国家では、労働者は最下層にしかなれないことを、付け足しておきます。労働者が支配者になれるのは、マルクスが考えた共産主義という共産のようで、実は共産ではない社会です。それは、純粋な共産の理論が示す社会とは、異なります。

 今回も共産主義の嘘を1つを暴きます。『共産国家にすると、労働者の天国になる。』とアカは信じてます。真っ赤な嘘です。共産と共産主義は違います。共産主義はマルクスが考えた一連の思想体系です。その中には、共産社会と矛盾するものもいくつかみられます。その1つを説明します。

 共産というのは、すべてのものを共有することで、各自が平等に権利を持てる社会です。共産社会では、収穫物はほぼ等分に分け与えられます。アカは共産主義の国をこのように理論的に理解します。誰もが社会の一員としての分前を受け取れる国家。素晴らしい、理想だと考えます。ここまで、アカが考える共産国家についての大きな間違いがあるのですが、それは目をつぶりましょう。

 アカは、共産社会では労働者が主役だと、当然のように考えます。これはマルクスの共産主義ではそうです。が、純粋な共産社会では誤りです。労働者が他をさしおいて、特権的な地位になることはありません。共産社会では、労働者の天国ということもないのです。

 なぜかわかりますか? 私には、簡単すぎて、涙が出てきそうです。こんなことも答えられないのでは、泣けてきます。実際に建国したソ連は、労働者にとって地獄だったからですか? ここでは理論的に答えましょう。答えは簡単です。共産社会では、誰もが平等です。虐げられる者はいません。より権利を持てる者もいません。労働者が他をさしおいて、支配者になれることはありません。

 共産社会とは、誰もが平等に権利を享受できます。国王や資本家、はたまた大領主、宗教団体が広大な土地を独占できません。土地・生産物が共有です。1人1人に等しく、それを使う権利、生産物を受け取る権利があります。(厳密には権利がないかもしれません。なにしろそれは私有なので、共有に反します。が、こう考えている人は多いです。)

 共産社会では、一部の人間が社会のものを所有することはまったく許されません。国民が等しくその分前を受け取れます。独裁者、独占する者などいないのです。(分配という考えは、共有のものを私有物に分けることなので、矛盾といえば矛盾なのですが、そんな細かいことは気にしないでください。)

 あーなんて素晴らしいのでしょう。これは嘘です。というわけで、当然、労働者が主役であるはずがありません。まだわかりませんか? 労働者は国家の政治や、生産、その他もろもろを独占できないのです。純粋な共産社会は誰もが平等です。誰か職業者だけが優越的な地位にはイられません。独占できる者は1人もいません。簡単でした。涙が乾きました。

 共産社会には労働者以外に、経営者、王侯貴族、爺さん婆さん、子供、信徒たちなどいます。共産社会の所有物は平等に全員が持ちます。主役は国民全員です。労働者が主役をとってしまったら、他は脇役ですか? 奴隷ですか? そんなのは共産の理論に反します。共産社会では、労働者だけが天国ではないのです。労働者は、あまたの職業のうちの1人なのです。国民全員が、主役です。主役といっても、自由がないので、ほんと窮屈ですが。

 共産社会では、労働者は威張れない。権力を占有できない。誰も特権階級になれません。おわかり頂けたでしょうか? 共産国家では、労働者が他を退けて、主役になってはけいないのです。共産に反するからです。王侯貴族も資本家も、経営者も、信徒も皆主役です。(実際には親や貴族という地位にはなれないし、資本家は国民全員で、特定の人がなれないのですが)

 ここからが大事です。マルクスの共産主義は、共産の理論的本質からすると、間違いなのです。マルクスは、共産の根本から、その考えが間違っていました。なぜなら、労働者が独占できるかのように書いているからです。 資本家や宗教家、伝統を教える教師、社会の思想や道徳を教える者が排除されなくてはいけないのでしょうか? 真実の共産社会では、彼らにも平等に権利が与えられるはずです。それを虐げて、労働者が独占的に社会を管理することなど理論上できないのです。

 具体的には、マルクスの共産主義国家は、共産社会を目指すものではないのです。マルクスは何かを間違えたのです。その彼の誤りの1つは、労働者とその他と二階級に分けており、労働者にのみ特権を与えたことです。それは共産の原理である全員の平等とは矛盾します。共産社会では、労働者が他より優位になり、特権を得ることは永遠にない。それが共産社会の法則でした。

マルクスのデタラメ、そのニでした。実に面白い話です。今日は、これを覚えていってください。

 

 

 

 共産の嘘 - 平等な分配は最悪だった 2020-05-14

 

 共産の嘘 共産=平等な配分ではない。 実は理想的な分配とは、資本主義に近いのです。共産主義国は、進化するほどに分配が資本主義に近づきます。そんなバナナと思っている方は、分配はどのように進化するかを考えましょう。共産主義になって一人一人に、国家資産や生産物が分配されるのが理想と思い込み、夢見るのは幼稚園児並みの頭脳です。

 共産体制になると、軍事力によって、国中の企業、個人資産がとりあげられます。それに逆らうと、命まで取り上げられます。国民は抵抗できません。まず自然に各自が財産をもつ状態から、国民の誰も所有することができないという不自然な人工国家にします。それを実現するのが権力というが、実際は国家の軍事力です。暴力から始まるのが、共産主義です。

 共産国なると、あっという間に私有地は1つもなくなります。わずかな生活を営むだけの個人の財産くらいは残すでしょう。共産党員は、すべては国有となったが、個人は平等にそれを自由に使えると思っています。それは嘘です。それをしたら、私有物と同等とみなされます。共産国は私有物を認めません。国はけっして、一度奪ったものを個人に配分しません。

 かわりに、わずかな配給品をくれます。ここで騙された、理想と違うと目が覚めるのが大半です。共産主義の嘘を見抜けなくて、現実に国を作ってはじめてわかる。後の祭りです。強欲で人権を知らない共産党員達に奪われたものは、取り戻せません。国家がつぶれるまで、二度と幸福な暮らしを取り戻せません。

 社会のものが共有ということ
 そもそも、社会的な共有物が、個人で利用できるかもしれませんが、一時的です。永続的にできません。公園を一人で貸し切りなどできません。大きなビルを一人の住まいにできません。小さな小さなアパートだけ、家族や夫婦で住むように、割り当てられます。せいぜいそのくらいです。

 資本家がもっていた工場、会社、広い土地、畑。それは共同利用するしかありません。それはすなわち国有地です。国は誰にも個人には貸し出しません。それはせいぜいアパートくらいです。こんなの少し考えたら、わかることです。共産信者はこれが当たり前と思っています。共産体制の配分を知らないから、現実離れした「イメージ」にとらわれるのです。そもそも、それは理想ではありません。

 共産体制ではじめにするのは、すべての所有権を取り上げることです。命令系統を一本化します。共産とは、一人が支配することです。多数の支配とは、資本主義体制です。共産国では、企業が勝手に、企業内のことを決めてはいけないのです。企業も共産党の指示に従わなくてはならないのです。いや、共産党でなければならないのです。共産体制では、あらゆる権力を一本化します。それが完了するまで、これは続きます。二人・多数の統治者がいてはならないのです。それをしたら、抹殺されます。それはマクロからミクロのレベルまで。

 そのように独裁体制まで突き進むのが、第一段階です。それが共産ということです。共産にして、誰が意思決定をするのか。それはみんなで決めるというのも嘘でした。左翼の日本人は勘違いしています。みんなで決めません。

 意見は1つにまとまりません。すると社会が何も決められなくなります。それでは社会が破綻してしまいます。その状況となると、その社会で最も力がある者が、支配権をとります。力とは言論力ではなく、武力・軍事力です。よって共産社会は、すぐに軍事独裁に至ります。これは政治における第2ステージです。

 今回は、所有権の流れを見ます。それで、分配がみえてきます。
 共産体制の第一段階は、集権化です。国有化です。それが完了すると、次のステップにうつります。また分配はありません。

 次の段階とは、権力の分配です。
 共産体制で、最初に分配するのは「権力」です。一党独裁でも、地方の県や州に、一定の権力を分散しないと、それら地域は統治できません。大学にも、一定の権限を与えます。全共闘が「大学に自治をくれ」と過激な闘争をしていました。自治も権力の一種です。全共闘の運動は、共産体制で第2段階に起きることをしていたわけです。

 自治など自由、地域分権を要求していた時点で、すでに彼らは共産主義に反する「自由」を求める活動をしていました。共産主義的な運動をしていたならば、彼らは自由な大学自治を求めるのではなく、国の方針に委ねますと言うべきでした。国家社会主義とはそういうことです。こういう社会と一体化することが共産だと思う連中は、その後、ヤマギシや共産党など、共産的なものに縛られることを好み、そんな統制的な組織に入ります。

 大学の自治を求めつつ、共産化を目指す? それは革命を起こすための方便のつもりでした。が、それは大きな理論的矛盾でした。共産化というのは権力の集約です。自由な組織をたくさん作れば、自由主義です。このあたり、方法論と名が付けば、理論的矛盾にまったく気づかないのが、全共闘の頭の悪さです。
 全共闘は自由を求めたために、結果的な幸運な人生を歩むことになりました。就職しても、自由をよしとしました。組織的な統制を嫌ったために、彼らが高い地位についてからも、日本は国家による企業の接収などは起きませんでした。

 全共闘の政党が、今、リベラルを自称する。彼らは共産信者でありながら、実は自由の価値をより強く信じたのです。彼らは根本的に、国有化というものを嫌うのです。それが骨のずいまで染み込んでいます。なにしろ、大学時代に求めたのは、自由ですから。

 全共闘の左派は独裁体制の共産党と根本的に相容れません。共産党は、なんでも国有化するタイプ。左派は自由を希求するタイプです。目指すものが正反対です。左派リベラルと共産党は対立します。これは、いずれ表面化するでしょう。話を戻して、最初の分配は全員平等に分ける、ということです。社会に地位の上下がすぐに発生してしまいました。すると、高い地位にあるものが多くとる、という分配が加わりました。両者が併存したのが実情でしょう。

 政権内部では、地位が高いほど多くのものを受け取れます。が、国民など末端では、平等に配分されました。中国はこのあたりはわかりやすいです。地位による分配が終わると、次に何をしたか? 共産国家では全員に平等に与えると、働かないでももらえると、働きません。農業では生産性が落ちました。それで、工夫して、より多く働いて成果をあげた者に、より多く与えました。そうすると、生産力が上がりました。

 労働者には能力ごとに、分配が行いました。たくさん生産した者には多く。あまり働かない者には少なく配給しました。能力ごとに分配をはじめました。ここまで共産体制で分配が進みました。しかし、ここで共産体制は限界に達しました。共産体制の分配は1, 人の頭数で、平等な分配です。2, 権力(地位)に応じた分配です。3,能力に応じた分配でした。ここまで分配を発達させました。大きくこの3つです。

 この分配は、資本主義と変わりません。企業も、最低賃金の給与は出します。これは、社員に全員に平等に与えるものです。次に、高い地位にいる者は、より多くの給与をもらえます。役職手当というのでしょうか。そして、それだけではインセンティブが足りないので、より多くの成果をあげた者、より多くの時間働いた者には、より多くの給与を与えます。残業手当やボーナスや賞与です。

 平等に分配するのが理想というのは、全くの嘘っぱちでした。すぐにそれで失敗しました。平等に分配するのは最悪だったのです。共産国は早く気づいて、時給や能力給みたいに働いた分量に応じて配給しました。このあたりは、資本主義とまったく同じです。

 今回は、共産主義国の分配は、しだいに資本主義のそれに近づいたという話です。なぜ、そこまで共産国は資本主義のマネをして、よりましになったのに、ソ連のように崩壊したのか。それはまた別の機会にします。

 

 

 共産主義では誰でも平等な分配を受け取れる←共産の勧誘文句は嘘。なぜか? 2020-05-28

 

 アカネットを読み、それをもとに物事を語る人間はアングラの住民である。共産主義を真によく知るというのは、宇野や西部邁とか共産主義に見切りをつけた者だ。早めに、共産主義の危険性を見抜いたのは、一度ひっかかった者よりもなお知性的である。共産主義を極めた者は共産主義にとどまらない。それは共産主義を何も知らない者だ。

私は共産主義のこともわからずに盲信する者たちに教えている。さて、今日はアカのよくする過ちを簡単に説明する。アカは「共産主義にすると、誰でも平等に分配を受け取れる。素晴らしい社会だ。」と、平等な分配こそが、理想の社会といわんばかりだ。

 が、「子供にはパンは少なくてよい。大人の分量を赤ん坊にあげるのはムダになるのでは? 子供には子供の分量をあげる。大人には大人の。そうしないと、余るだろ?」と反論するとアカは「もっともだ。分配は、神のように一人一人に必要な分量を調べて、配給するのが、理想なんだよな。それが社会主義の分配の理想だ。」とさっきまで共産主義の宣伝文句「平等な分配」は、ムダの極みかのように前言を翻して、あっさり否定する。この軽薄さ。知性の低さ。笑うしかない。

『共産主義は、平等な分配をするのがよい』というのは真っ赤な嘘が誤りと知りつつ、共産の宣伝文句として言い続ける愚かさ。なんとか直してほしいものだ。

 

 

 共産の嘘をあばく - 共産にすることがムダ 2020-05-10

 

 共産主義は誤りが明確になったので、今更信じる若者はいません。騙されるひとはいないからです。20世紀の社会実験で、ソ連の失敗、中国の横暴化、カンボジアの大虐殺などで、平和の敵の思想だと世界中が理解しました。具体的に何を学んだか? それを理論的に明らかにしています。

 共産の嘘 共産にすることがムダ

 共産にすると、平等に配分され、不平等がなくなるというのは嘘でした。共産にしても、平等に配分しなければ、私物が取り上げただけです。こういう嘘をついて、悪いやつらがずるいことをします。それが共産主義で、それは詐欺みたいなことです。悪いやつらとは、共産党員のことです。中国は土地、資産が国有化されたあと、ろくなものがまったく配給されませんでした。共産にして、配分されるとは限りません。

 共産にすると、平等に配分される。これは違います。共産にすることと、平等に配分することは別のものでした。共産=平等な配分ではありません。騙されてはいけません。それに平等に配分することが、よいことのように考えている人もいますすが、それが間違いの元です。それは非常に悪いことです。それは今度、説明します。

 今日は次。共産にすることがムダという話です。共産とは、所有を移転させて、私有物を国(社会)の所有に変えることです。ふわふわ企業がふわふわラーメンを生産します。そのふわふわラーメンを共有にします。国がお買い上げです。すると、ふわふわラーメンは国の持ち物です。これが共産です。

 ふわふわラーメンを食べたいのは、キラキラさんです。国はふわふわラーメンをスーパー白石に卸して、白石はスーパーで売りました。キラキラさんはスーパー白石に入り、憂鬱な顔をして、買いました。家で、ふわふわラーメンをこっそり食べました。

 ラーメンの製品の流れです。

 ふわふわ工業(食品会社) → 国有化(共産化) → 国 → 配給(私有化) → スーパー白石 → キラキラさん

 ラーメンは生産者から、国を通り、消費者にゆきました。この流れは、ムダが1つあります。わざわざ国有化する子必要はありません。それがないほうが、効率的です。

 ふわふわ工業 → スーパー白石 → キラキラさん

 生産者→国→商店→消費者。いちいち、国を通すのは、ムダなのです。生産者→商店→消費者。3箇所の流通で足りるものが、4箇所も製品を流通させなくてはいけません。所有の移転をみてみましょう。共産とは所有権を国にうつしかえることです。自由主義(資本主義)ではそれを民間や個人に与えることです。

 ふわふわ工業 → 国 → スーパー白石 → キラキラさん

 所有権の移転は、そのまま流通となります。製品の移動です。

 ふわふわ工業→卸→国の倉庫→卸→スーパー白石→キラキラさん

 わざと国の倉庫を経由しなくてもよいです。最近では、スーパーや商店を通すことすら、ムダとされます。より効率的で、最近の正しいのはこちらで、理想に近いです。消費者が生産者から直接、購入できるほどよいのです。

 ふわふわ工業→ネット販売の物流倉庫→キラキラさん

 消費者はネットで商品を選び、店も通さずに、生産者から送られてきます。店もいりません。スーパー白石は共産の物流ネットワークから、外されました。倒産です。不要です。卸(おろし)は中間搾取です。それがないほうが、生産者→消費者までの経路で、すっきりしています。値段も低くなります。国も卸と位置づけることができます。

 国を通すのは、ムダです。製品を一度、国有化することが、流通におけるムダです。そして、国有化したものを、商店に卸す。ここもムダです。国を通すと、2つもムダが生じます。あまり深く考えません。そんなに難しく考えなくても、わかります。要は、国有化はムダなのです。

 ここまでわかった方は、8割ほど理解したと言っても過言ではありません。あとは、ふつうの言葉で言い直すだけだからです。国有化とは共産化です。一度、製品を社会の共有物にすることは、ムダなのです。それを国が買い上げて、また国が配分するなどはムダなのです。共産化することは、社会におけるムダなのです。また配分して、私物に戻すのですから。それなら、はじめから私物の状態で、市場で交換したらすむことです。この説明を、流通の図で表しました。

 企業→国有化(共産化)→配給(私有化)→消費者 = 企業→消費者

 です。「国有化(共産化)→配給(私有化)」はないほうがよいのです。あると手間がかかります。なくても同じなのですから、ないほうがよいのです。要は共産化することはムダなのです。流通の観点からみると、一目瞭然です。共産主義を実現することは、ただ国家を複雑にして、中間搾取者を作ることなのです。共産党はどの国も焼け太りしました。そして、共産党は中間搾取者として、国家の富を占有しました。その結果、生産者と消費者が弱体化しました。

 ムダなものを抱える社会は、その負担を強いられます。共産党だけが大きくなって、社会に寄生したために、共産国はがん細胞に栄養を吸い取られた人間のように、虚弱になりました。中間搾取はなくして、生産者と消費者が豊かになるようにすることが、よいのです。国民と生産力があがる。それが、無共産社会です。自由社会で起きることです。

 共産主義(共有化)が、ムダだとおわかり頂けたでしょうか。全共闘は若い学生時代をムダなことに、いや、むしろ反社会活動で有害なことに費やしてましいました。それが真実です。

 

 

 労働は生活分の報酬をもらうべき? 身勝手なマルクスの給与論への反論--会社も存続していける分しか払わなくていいんじゃない? 2018-01-08

 

 たまには反共講座。労働は生活分の報酬をもらうべき? 会社も存続していける分しか払わなくていいんじゃない?

 共産主義には、労働者はその仕事で、暮らしていける分をもらわないといけない、という身勝手な論理がある。人がお金をもらうのは、働いた時しかない。なら、会社の仕事で、暮らしていける分の全部をもらわないと、生きていけない。そういう考えだ。で、仕事はろくにしないでも、一人前の給料を要求する根拠となっている。

 これに納得したら、会社では生きてゆけない。少し考えたらわかることだ。これではほとんど働かなくても、5分ほど働いても、十分な給料をもらえることになる。共産主義は、生産がなによりも好きだ。が、生産量に応じた給与はしないようなのだ。給料は一律なのだ。少し働いても、多く働いても、暮らしていける分をもらう必要があり、それが労働者の権利だという。それは間違いなのだ。

 この給与方式だと、少なめに1年働いても、1年分の給料がもらえる。これは得だ、と思う人が多い。が、逆にいうと、多く働いても、余分にもらえず、1年分の給与きっかりしかもらえない。

 この給料方式では、労働者は努力しても報われない。働かなくても給料はもらえる。だから、さぼり続けるようになった。この理論を究極にまで進めると、誰もがさぼる国ができあがる。仕事はあっても何もしない。この身勝手労働者の理論の理想とは、労働と名がつくことをすると、一年分の給料がもらえるのだから、ほとんど何も働かないで給料を得ることだ。ソ連の生産性が建国後にどんどん落ちた理由である。これは共産理論の欠陥の一つである。

 ソ連はこの問題を解決するため、成果に応じた報酬にするのは、1970年以後だ。ソ連でさえ、この身勝手な給与論は廃棄した。それをいまだに信じるのはどうかと思う。給料は世間の相場できまるものだ。生産量でも決まる。たくさんコメを作って売ると、たくさんもらえる。それでよい。

 さて、今日の反論はそれではない。この共産主義の理論を会社に適用することだ。労働者にとって、真であるならば、労働者の集まりである会社にとっても、真である。つまり、「労働者は仕事をして、暮らしていける分をもらう」ことが正しいなら、「会社は会社の存続に必要な給料分のみを労働者に与える」のも正しいのだ。これを会社の生存のための給料といおう。

 拙いマルクスの労働者の給与論を会社にあてはめた。報酬は労働主体の生存が何よりも大事である。その条件を満たさなくてはならない。労働者を会社を置き換えて考える。すると、会社が生きて存続することが条件となる。報酬はその上で必要な分、労働者に払うことになる。そういう法則が導き出される。会社が自らの手持ちの分で自社の存続と発展のために出してもよい分だけ給与を支払うのだ。

 会社のふところ具合で、給料が決まる。それ以上でもそれ以下にも、給料はもらえない。これが、共産主義の応用理論である。会社は、自らの存続を危うくするような額の給与を与えてはいけないのである。労働者が、会社に無理をさせてまでも、給料をよこせと要求するのは、共産の応用原理では間違いなのだ。なぜなら、会社が倒産すると、職場もなくなる。

くれぐれも共産かぶれは、会社をつぶしても、給料を過大にもらおうとは考えないようにしたい。そんなことをすると、職場がなくなり、労働者でいられなくなる。

 労働の報酬は自分が生きてゆける分が必要だという身勝手な考え方は、やめよう。足りなければ、さらに働こう。もしくは他からお金を得よう。いや、生活資金すべてを働いてもらうのが正しい、というのは、貯金がためられないということで、もらえる額が少ないのだ。一年分しか生活できない。これでは、働けなくなった時には、死んでしまう。

 社会主義において、働いて、生きていける分だけ稼ぐというのは、最低限の生活しかできないことを意味する。共産国では労働以外の文化・教育活動などは、資本主義の欲望の産物であり、不要なのだ。が、それでは人間らしく生活できない。共産理論が示す「十分な生活資金」だけでは、自由社会では足りないのだ。もっと余分に働いて、貯蓄できるほどに稼ぐ。そして、共産の理論を破り、越えて、さらなる生活の高みを目指さなくてはいけない。

その貯金を投資にまわして、株などで稼ぐのもよいかもしれない。余った金で会社を作るのもよい。そのように労働者は金持ちになったら、資本家の仲間入りしてもかまわない。資本主義のより豊かな生活を目指すべきである。へんな理論を信じ込んで、おかしな原理主義にとらわれないようにしたい。

 

 

 困っている人を助けない共産主義 共産主義には理想の転落がある 2016-03-29

 

 共産主義信者が理想主義者?  昨日、本でそんなことが書かれてあった。それは違う。共産信者は、本質的に、間違っているのだ。困っている人を助ける。誰もが行おうとすることだ。共産主義信者が特別ではない。自由主義者のほうが、より多くそんな施しの心をもつ。心優しい持ち主だ。ブッダも、苦しみを取り除こうとした。自分の苦しみを解決したら、今度は衆民の苦しみを救おうと、説いた。ここまで共産主義のかけらもない布施の話だ。共産主義は、この時、全員を助けようと考える人である。

  共産主義は全員を平等に助ける。それまでは、困っている人だけを助ける。彼らは困っていない人をも助ける。困ってない人は何も助けがいらないのに。ここが、共産信者と伝統的な社会奉仕者との違いだ。貧乏な人を助けるのは、伝統的かつ最良の態度だ。助けのいらない人は、助けることなどできないのである。

  なお社会が困っている時は、社会全体を助けるのは、誰でももつ考えだ。それは保守でも、左翼でも、共産信者でも変わらない。ここにおいて、共産信者は区別されない。が、共産主義では全員を助けるのだから、金持ちも助ける。助ける人数が多いほうが偉大だと思うことがバカである。全員平等に助けるとは、金持ちも貧乏人も差別なく助けるということだ。が、金持ちは困ってない。得たいの知れない人間たちに助けてほしくもない。そもそも助けを必要としない人物を助けようとすることが、間違いの元である。

   全員を平等に助けるのはムダが多い。全員を助けると大金がいる。あなたの持ち金では足りない。途方もないお金がいる。実現もできない。それには湯水のようにお金を使わなくてはならない。そんなお金はない。共産主義=全員を対象にすることから、間違っている。これで、全員を平等に助けることは、頭がいかれた人達と理解しただろうか。

   そこで少し賢い人は、誰もでもそうだが、困っている人だけを助ける。金持ちは助ける必要がない。経済的な話だ。精神の話ではない。ブッダも、貧民救済、社会福祉も、困っている人を対象にする。裕福で健康で困ってないは助ける対象ではない。

   だから、できる範囲で助ける。困っている人から優先的に。これが賢明な社会福祉という考えである。社会福祉は、現役サラリーマンやスポーツマンが頑張ってる時に、でしゃばることはできない。大抵の人は、全員を助けることは、意味がないと、幼少時に気づく。大人になったら、それはする必要がないと悟る。

 が、共産信者は全員助けるという考えに固執する。それで、突っ走る。助ける必要がない者達まで助けようとする。満腹な人に、食い物をあげてどうする? しかし、全員助けること、全員に平等に分配することに執拗にこだわってしまったのである。頭が悪いのである。そこで、手っ取り早く、金持ちから強奪しよう、と考える。これが共産主義が、悪党になる瞬間である。

 全員救済の理想が、人助けするお金がたりないという現実に直面した時に、様変わりする。金持ちからお金を分捕れ、と強盗の思想に変わる。これを理想の転落という。 こうなってしまうと、もう理想もへったくれもない。強盗・犯罪者の世界である。理想を実現するために、強盗になる。どういうことだろうか。全員救済のために、金持ちの家を襲う。悪党の親分の理屈である。こういうのは理想主義ではない。

 詐欺師がはじめの頃、まっとうな姿で大義名分を長々と語る。そして、最後に、そのためには、ブルジョワジーをこの世から抹殺なくてはまりません、と過激思想で締めくくる。なんだ。社会正義をうたった強盗だったんだ、と聴衆は気づく。共産主義とは本来、富裕層の支配を終わらせようとする新興勢力の過激派の論理である。

 彼らは、お金をもぎとるしか眼中にない。分捕り合戦である。弱肉強食もすさまじい社会となる。金持ちをみつけては攻撃して、蔵や家を襲い、お金をもぎとろうとするからだ。ソ連では行われた。 理由は後付されたものだが、金持ちが貧乏人から不当にお金を奪ったからだ、という。搾取と言う。お金を金持ちから奪うことは、奪われたお金を取り戻すことだと正当化する。この時点で、もはや狂っている。泥棒にも一分の理があるというが、汚い世界の論理である。

 この段階で、もう共産主義の理想は破綻している。貧民を助け、金持ちは困らせようとするからだ。困っている人は助け、困ってない人を困らせるのである。無茶苦茶である。社会を、貧民と金持ちに分けて、貧民を優遇して、富民を抹殺する。これを階級対立という。国家を二つにわけて、幸福と不幸の階層を作ろうとする運動に変わる。

 もし、共産信者がこれに成功して、国を乗っ取るとひどいことになる。全てを共産党が独り占めする。して、金根持ちはどんどんつぶして牢獄に送る。貧民にはそれで得られたお金で最低の食い物を与える。もう地獄である。これは共産国内で毎日のように行われていることだ。

 いったいどこで間違えてしまったか? 全員を救済しようとしたからだ。それをすると、無理なので、過激にならざるを得なかった。数人助けるくらいなら、数万円ですむが、全員を助けるとなると、数億もの大金がいる。お金のない者が、どうやってそんなお金を手に入れたらよいか? マルクスの答えは、『お金持ちから奪え。』だったのである。盗人猛々しいのである。なんとも悪党の心である。これが共産主義の本質、日本共産党の考えである。

 

 

 共産主義にしなくてもベーシックインカムで暮らしが保障 2014-12-20

 

ベーシックインカムを誰も主張しなくなった
 民主党の政権末期、渡辺喜美や維新の会は、ベーシックインカムを公約に盛り込んでいた。それが、自民政権になってから、社会福祉の充実とともにこの理想的な社会制度の話は一切きかれなくなった。

ベーシックインカムとは何か?
 国が、国民給付金を赤ん坊から女性、子供、老人まで全ての国民に支給する社会保障制度だ。これによって、飢えたり、住宅を失って路頭に迷ったり、教育を受けられなかったり、介護を受けられなくなったりしなくなる。誰でも最低以上の生活ができる、という究極の福祉政策だ。

 これが実現したら、社会主義だと勘違いする人もいるがそれは間違い。対象が貧乏人のみ。給料を得ている人や、最低賃金以上の収入がある人に与えない。財源は、模索中だ。税で支払うので、どこからとるかなどはどうでもよい。また仕事をもっている人も、この給付を受け取る人も、本人の努力しだいで、いくらでも稼ぐことはできる。よって資本主義経済はかわりない。

 現在、このベーシックインカムはどれほど達成されているか?
 これは現在まったく実現できていない未来の福祉ではない。今でも、年金暮らしをする高齢者、生活保護を受ける貧乏人などは、国や社会保障制度から給付を受ける。それはベーシックインカムという理念によって、老人と貧乏人はすでに給付を受けている、と考えることができる。他に、子供は給付金が少ないし、シングルマザーもたいへんだから、それらの給付をすると、ベーシックインカムと同じ程度になる。

 その後、既存の社会保障を統合して、支給額の算出方式を変えると、日本でも世界初のベーシックインカムの制度が実現する。ベーシックインカムの利点としては、人と年齢、収入だけで、支給額を決定できる。そのため、年金みたいに過去にいくら支払ったからといった複雑な計算をしなくてよくなる。また年金や社会保障も一本化できる。そのため、行政の無駄が省ける。

 私は福祉政策が高度になると、やがてはベーシックインカムが採用されるとみている。実際、日本は生活弱者への保護は年々、充実してきた。日本はその方向に向かっている。やがては、乞食や失業者の治安悪化という社会問題もなくなる。ベーシックインカムと同様の状態になるのは遠い日のことではない。そしたら、福祉給付の諸制度を一本化するとベーシックインカムにすんなりと変わる。あまり難しくない工程だ。

 財源は難しいのではないか?
 現在、日本この制度になってないが、極度に飢えている人はごく少数で、生活保護と年金でおそらく9割以上の国民は最低以上の暮らしができている。それで大きな不満が起きていない。つまり、現在の日本は、ほぼベーシックインカムで国民を養うのと同じことができている。

 9割がたできて、なんらかの形で、最低保障給付がなされている。現在の財源で9割以上、国民は貧乏人にも子供にも、なんらかお金が回っているということだ。つまり、現在の財源でも可能だ。金の回り具合をうまく変えたら、ベーシックインカムに近づくのである。経済の発展を犠牲にせずに。

 ほぼできているのになぜ、ベーシックインカムに急いで切り替える必要はあるのか? という問題はある。これによって、手続きに簡単になるし、誰でも、飢えることなく、失業しても安心して暮らせる社会がやってくる。だから、制度が大きく切り替わるから、抵抗が大きいとしても、これはやり遂げなくてはいけない。

 福祉は、ゆりかごから墓場まで面倒を見る。これは、赤ん坊から子供、老人、乞食、貧乏人、シングルマザー、被災者に、家と食べ物と衣服を、という政策である。必ず、日本でも実現させよう。そのために、行動しよう。こんなにすばらしい政策、ベーシックインカムが選挙で話題にされなくなったのはなぜか?

 日本では渡辺美喜氏がこの政策の推進者だった。が、彼は追われていた。『アベノミクスに足りない理念を俺は主張する。(保守は反対せずに補完するか、一部修正する)』 『共産主義にしなくても、ベーシックインカムがあれば、生活弱者も暮らしが保障されます。(共産票を奪う文句は必ず入れる、特に福祉政策では共産との差別化が重要)』、『ベーシックインカムでは誰でも十分な暮らしができます。格差なんか気にならない時代が来ます。』とか言えばよかった。急な選挙でごたごたでみなマニュフェスト作りが遅れてしまった。それで取り上げられなかった。先の選挙はベーシックインカムを国民に記憶させる好機だったが、残念だった。そんなところだろう。しかし、話題にされなかったからといって、ベーシックインカムの価値は、失せていない。

 

 

 シェァリングビジネスは中国で全滅。共産・共有なので、失敗するのはわかっていた。 2018-04-13


『「新四大発明の一つ」と持ち上げられるも、中国シェアリング企業「ほぼ全滅」』(大紀元4/12)

 中国のシェアリングビジネスは大苦境に陥った。自転車を貸し出す会社がほぼ4つ倒産。日本でももてはやされたが、あっけなかった。日本にいくつかさ参入しているので、日本のパートナーは撤退したら? 他にもカーシャアリングは経営危機。携帯電話充電器のシェアリングは破産。雨傘、パソコン、昼寝カプセルホテル、携帯、洋服なども活気がないそうだ。

 中国の失敗は、事業を急速に拡大しすぎたことらしい。そもそも、シェアリングとは、共有、いわゆる共産である。中国は共産国家。当局の理解も強くあり、共有ビジネスはもてはやされた。しかし、使い物にならなかったというのが現実だろう。

 共産主義が、すぐに倒産寸前に追い込まれ、国家として破綻しつつも、生きながらえたたという歴史的教訓がある。ソ連や中国は文化や伝統、特に革命後、共産化すると経済がすぐにどん底に落ちた。冷戦が終わり、共産は資本主義に敗北して疲弊するという法則が確固たるものになった。が、それがビジネスとして成立すると、考えたのはあまりにも愚かだった。

 結論、共産(シェアリング)ビジネスは破綻する。シェアリングエコノミーは、未来有望だとNHKの特集で期待させたのは、視聴者を騙したことになる。当然、この結果は予想されたことだ。共産(シェァリング)と名がつくものに、ろくなものはない。せいぜい、欧米でやっているように休暇中の空き家を貸す(シェア)くらいで、伝統的に商売として成り立つものしかビジネスとして成立しない。それが関の山。

 

 

 共産の理想社会を真に打ち砕くのは人工知能とロボット 2017-07-16

 

 人工知能が共産社会の基盤を消す。安価に量産された人工知能があらゆる労働をより安く請け負う。人工知能が労働の価値をとことん低下させる。

 人工知能は、共産主義を滅ぼす。なぜなら、共産社会では、労働の価値が、貨幣とみなされ、それによって社会は動く。が、人工知能は、その労働の価値をどん底まで引き下げ、労働価値がほとんどない社会を作り出すからだ。人工知能は労働者を無用にして、共産主義が必要がない社会をもたらす。

 共産主義者は考えた。理想の配分を実現するのは、神のように的確に配分することだ。が、唯物論者は神に期待しない。あらゆるニーズを人間から読み取る高度なコンピュータがそれを実現するだろう。

 が、共産社会の理想を手助けするはずのコンピューターが皮肉なことに、共産主義の基本である労働を、すべて労働者から奪う。労働者不要の社会の実現しつつある。共産主義にとって、コンピュータは労働の手助けをする道具ではなく、自らの価値を貶める敵なのだ。

 コンピューターが労働を奪う結果、人間の労働が極端になくなる。労働価値にもとづく給料という理論が、破綻する。人間の生活費は、労働対価ではなくなる。人権にもとづき、最低限度の生活費として、無条件に支給されることになる。マルクスの労働価値説は、そこではもはやゴミなのだ。もともとそれは、商品価格は市場の相場で決まる、という本来のあり方から逸脱するものではあったが。

 人権は、存在する一個の人間の生活を保証するという考えだ。それは、労働者だけに給料が与えられる、という狭い発想ではない。人権では誰もが平等に、必要な生活費を得られるのだ。人権主義よりも、共産主義が劣る理由はここにある。働く人だけがお金を受け取れる。では、働けない人は死ぬしかないのか? それが共産主義だ。多くの非労働者階級は、そのような理屈で、監獄に収容され、人権が虐待された。

 が、人権では、働けない人も保護され、生きてゆける。人権社会は、労働者特権を否定するのである。共産主義は言う。共産社会は平等で、なおかつ、働いた者だけが特別に優遇される。こういう共産主義の矛盾に気づかない愚かな人物は、過去に大勢いた。が、そういう嘘はもはや通じない。

 そして、労働対価というマルクスの考えに固執していたら、ロボット社会では、大勢が給料を十分に受け取れなくなる。マルクス主義では、大勢が貧困に陥り、社会は破綻するのだ。つまり、ロボット化社会は、共産主義を打ち破る第二勢力である。共産主義は、ロボット社会によって、2度目の死を迎え、人権主義は生き残るのである。

 なぜこうなったか? コンピュータは、共産主義者の言う労働を代替できるからだ。 コンピューター社会になった今は、人間に求められる才能は創造性だ。共産主義社会の多くが否定した学術や知識、さらには芸術、社会経営なのだ。共産主義が壊した多くの人間の価値そのものをより発揮することが、求められている。

 自由主義社会においては、資本家は経営をして、労働者をこき使う。コンピューターのいまだ監督者で有り続けられる。が、共産社会では、ロボットはライバルであり、敵となるのだ。だからこ、共産主義は、労働にしか価値を見いだせないために、ロボットに打ち負かされる。

 働かなくても、人工知能・ロボットが生産してくれる。こんなありがたい社会はない。が、共産社会の労働者にとっては想像だにしない地獄となる。なぜなら、自分の仕事が奪われるからだ。労働者の価値を貶めるからだ。人工知能は無限の生産力を持ち、そこでは労働価値が無に等しくなるからだ。労働者は何の対価も得られない。

 自由主義も、共産主義を打ち負かした。さらに、21世紀は、新しく登場する人工知能も、労働者だけに価値があるかのように錯覚した共産主義社会を木っ端微塵に、うちくだく。自由の台頭によって、暗黒の共産社会がどんどん消えてゆく。ロボット社会も、労働者が工場で働くことで成立する共産社会をどんどん荒廃へと追い込む。実に、人工知能・ロボットの未来は、希望に満ちている。

 

 

 詐欺師、共産主義者、手品師は人に話す時に細心の注意を払う  2016-01-28

 

 共産主義者の冷静さというのは、詐欺師が人を騙す時のそれによく似る。相手の顔色を伺い、よく練った手順通りに、裏がばれないかヒヤヒヤした顔を隠して、何やら怪しげな論法を話す。手品のように、悪を善と言いくるめるその手口は、やたら凝る。

 

 この手の人間が人を騙す時は、演技して、理路整然と非のうちどころのように振る舞う。それは騙しのテクニックがばれたら、信用失墜して、終わるからだ。彼らは常に、それを恐れる。が、騙しの作業を終えて、普段の生活に戻ると、途端に彼らはどうしようもない人間となる。手品師は例外で、なんでも凝るのが好きで、生活・生き方全体がデザインされていて、楽しい。悪い人間ではない。

 詐欺師や共産主義者は正味欲望のままに生きている。人を騙して得た利を欲望に使うからだ。目的はそちらにあるのだ。彼らにとって手段などどうでもよいのである。共産は裏が、見えてしまうと、あまりにもその乱雑さ、性格の醜態さがひどい。表だけ取り繕っているタイプである。内ゲバが盛んな党は、世間にのみ言い顔をするDV夫のようである。彼らは裏表が激しい。

 

 

共産主義がいない平和な世界を想像してみよう 2016-01-04

 

  まず中国に自由で活発な経済活動と民主的な政府がある。中国で軍人は町の中を歩かない。尖閣を侵攻してはこない。南沙諸島で軍基地を作りもしない。 チベットは自由な国がそこにある。ウィグルにも国がある。台湾も中国の脅威に対抗する必要もない。ブータン北部に人民軍の戦車が走ることもない。中国は日本と協力して、楽しく商売をする。中国は反日でなく、親日。元が絶たれると、アサヒも反日を煽らない。

 ロシアも日本と交流があり、四島も返還する。ロシアはシリアを混乱させず、イランの革命政権を維持させず、中東の混乱もなく、シリア難民もいない。 北朝鮮の下部団体のような慰安婦の揉め事はない。アジアに反日国家はなく、韓国と日本はライバルで、 キューバはカストロが死に、民主主義が戻る。南米の左翼政権も次々と倒れ、自由な政権がそこにある。 アサヒ新聞は、アカヒからアオヒになる。アオとは自由の色である。労働団体は、革命闘争をやめ、リベラルを捨て、保守となる。

 

  共産犯罪が地下闘争を続けて、電波を人々に浴びせることもない。ネットの中傷暴言もなくなった。 どの国も民主的で発展する。アジアが世界の繁栄の拠点となる。実に、平和だ。実に愉快だ。実に、幸福だ。目に見える世界の混乱。その2/3以上は共産主義が元凶なのだから、共産主義がないだけで、こんなに世界の戦争が消え、平和になる。

 では

 

 

 共産主義がない平和な未来 2015-12-08

 

  一言。世界に共産主義がなくても、人権はよくなり、世界は平和になる。ソ連がいなかったら、さぞかし戦後、世界が平和だったと思えるからだ。共産主義こそが、大戦後の混乱である。朝鮮戦争、チェコの弾圧、アフガン侵攻、ベトナム戦争、キューバ危機。南米左翼ゲリラ。大きな戦争の芽は、すべて共産主義からくる。それら戦争がなかったら、なんとしずかで平穏な時期だっただろうか。

 共産主義は拡大して、すべてが共産体制になるという偽りの歴史観に騙されてはいけない。共産主義は、現在のようにしだいに縮小、消えてゆく。そして、共産主義が消えた時こそ、自由が残る。資本主義国が全世界を覆い、世界は豊かさと自由の輝きに満ち満ちるのが歴史の必然である。

 国民すべてが資本家(総合技能者)となることで、社会性を追求することを完結させる。社会性の段階を終える。労働者=単独技能者に、とどまって進歩が止まってはいけないのである。共産主義のない未来を考えよう。どれほど、そこはイデオロギー地下闘争がなく、自由に満ちて、独裁者がなく、物資にあふれ、穏やかで平和なのか、と。

 

 

home

inserted by FC2 system