社会 

 

中野剛志氏の『資本主義の〜』感想

 
2015-3-12

 昨日、中野剛志氏の『資本主義の預言者たち ニュー・ノーマルの時代へ』(角川マガジンズ)を立ち読みする。「資本主義の終焉」を論じていた。彼は社会主義(共産主義)をもっけから信じてない。ただ古くさい経済学者を出して、今後の行方を示そうとしている。全共闘が古典を経典にして、それを読まなければ何もわからない、という。それと似たような口調だった。彼は経済学の主流派とは違った見解だ。

 ただ私は「資本主義の終焉」という論理は狩る。どう書いてあったかは忘れた。立ち読みだから。社会主義幻想をいだかせないためだ。共産に利用され、また間違いでもあるため。

 水野氏は、ゼロ成長だから破綻、というたわいない論理だった。破綻するのは経済学の成長神話であって、資本主義ではないのだが。中野氏のほうがタフなようだ。今度、しっかりと調べて、きっちり反論してみよう。だが、彼は、資本主義が組織形態をさす言葉と、わかってないところが痛い。そのあたりから、資本主義が終焉しないことを説明しよう。

リスク分散の観点でみると、社会主義は破綻確実な国家制度
 

組織形態でみると、資本主義と社会主義の違いは、明確だ。
 社会主義は企業がなく、国家組織一つがすべてを運営する。つまり、単一組織だ。
 資本主義は国家が一つですべて行うわけでない。多数の企業が活動する。それは大きな組織の中に、多数の組織がいる形態だ。
 その違いの根本は、数だ。国家に一つの組織しかない制度を社会主義という。二つ以上(寡占を禁じるから少ないより多いほうがよい)の組織があると、資本主義となる。そう区別できる。これが正しい定義なのだ。その他の経済主体うんたらは、附属的なものでしかない。

 この優劣を考える。
 巨大な一つの国家組織がすべてやってしまうと、どうなるか?
 トップが一つ間違えたら、この社会は全体が危機に陥る。食料分野を一つ間違えると、もう数割は飢える。北朝鮮のように。
 それを複数の組織がやると、どうなるか?
 一つの組織が間違えても、他がうまくやれば、なんとか、最悪の事態は免れる。
 無数の組織がそれをすると、どうなるか?
 誰かが多少間違えても、食料の問題はうまく行われる。食料は不足しない。
 つまり、一つの組織に任せてしまうよりは、多くの組織にやらせたほうが、その国家は生き残る、繁栄する可能性が高い。

 これはリスク管理の観点だ。一社に生産を委託するよりは、10社に依頼する。すると、リスクが分散される。これが、資本主義が絶対的に社会主義より優位なところだ。このリスク分散の体制は、人類は放棄しない。よって、社会主義の制度は致命的な欠陥があるから、人類は採用しない。よって、資本主義の体制は未来永劫つづく。

 生物学では、このリスクの分散をよく研究している。種の多様性という話だ。
 たとえはこんな話。箕面の滝の側に食い物がたくさんあり、猿の群れがそこだけに集まる。ある日、そこの食べ物がなくなったら、その猿の群れは全滅する。
 そこ以外の場所で、食物をとる猿の群れが別にいるとしよう。万が一、箕面の滝の食い物がなくなって、箕面の滝の猿は全滅しても、他の猿は生き残る。このように、組織が多様性をもっていると、生存する率が高くなる。

 社会主義は、国に一つしか組織がなく、独裁的だ。一つの方向性に全体が進む。そのため、環境がある日変わったら、それで全滅するリスクが高い。
 資本主義は、多数の組織が別々のことをしている。そのため、リスク分散している。いろんな可能性がある。それで、環境の変化にも強い。資本主義では、社会が生き残れる。

 社会主義はあまりに一色になりすぎて、環境変化に弱い。柔軟性がある資本主義のほうがよい。

 創造性の観点からは、この二つの組織にはどういう差があるか?
 資本主義と社会主義の差が最も大きいのは、この創造性だ。一つの巨大組織が、政府中央ですべて決定する体制が、社会主義だ。国だけでなく、市場や企業・個人が自由に決定できる体制が資本主義だ。この二つの体制では、その社会が採り入れる創造性の量に大きな差が出る。

 まずは社会主義。官僚やトップは、日々国中のことを調べ、それを計画する。彼らと政府お抱え学者がアイデアを出す。だが、一般個人や企業は、計画を実行するのみ。創造性は使わない。わずか、政治家や官僚など数千人の知恵で、一国が動く。

 そこでは民間の創造性は、まったく無視される。それを社会で活用することは禁止される。それが社会主義の原則で、企業や個人で商売などしてはいけないためだ。この社会ではトップや政府が進歩の原動力となる。
 しかし、創造性の量は少ないため、わずかしか進歩しない。政府は豪華になっても、末端(庶民に近いところ)はいつまでも停滞する。そのため、町は進歩がなく、何十年も変わらない。だんだんとさびれて、町は時代錯誤のような過去の空間になる。北朝鮮がまさにそうだ。あの国は社会主義体制の必然だ。

 資本主義は、政府や官僚は国をよくするために考える。彼らは計画主義の国家のように隅々まで采配しない。しかし、膨大な企業や個人が創造性を発揮する。カイゼン、工夫。労働人口分の創造性が、国家全体で活用される。町でも、地域でも、企業も、どこでも毎日のようにそれで進歩、発展する。使用される創造性は、計画主義の何十倍、いや何千、何万倍に達するだろう。それで国家のあらゆる領域で、産業は発展して、豊かに文化を開花させる余裕するある。

 社会主義は、政府しか頭を使わないために、何もかも遅々と進む。現在の人類の成長スピードについてこれない。だが、資本主義では、人類の発展に必要な創造性の量は確保できる。両体制が必要とする創造性の差は、とてつもなく大きい。この差が、資本主義と社会主義の絶対的な差となる。人類はもはや、社会主義体制に後退すると、破滅してしまう。社会は発展しなくてはならず、そんなことにはならない。よって、資本主義の体制は、何が起きても、維持される。

 これでも、まだ社会主義に後退して、成長を放棄することが、今後、資本主義がゆきづまったようにみえた時に起きる、と言うのか? 

 

 資料 格差大国・アメリカの後を追う日本 (日経サイトより)

 

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