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道徳教育の方法10 日本的精神論の弊害

 

 2015-2-4  校正 3/18

 
 

日本的な"精神論"の弊害

 昨日は、理想の人格をもつことの大切さを述べた。今日は、道徳教育で、危険な思想を一つ記す。それは、日本人を日本的にしているものだが、それがあるために、日本人を愚かにもしているものだ。

 よく、学校のスポーツクラブで、「根性があればできる。」、「気合があれば、技術などなくても、なんとかなる。気合だ。気合だ。」とはっぱをかける。「気合が足りないんだ。」とすぐに安直な精神論に走る。

 これは、強く念ずれば物事を成し遂げられる、というむちゃくちゃな思想、日本的な精神論である。技術がなければ、相手に勝てない。それはわかりきったことだ。気合や根性という言う人ほど、技術を教えないで、要領の悪い練習を強要する。そして、生徒はいつまでも実力が上がらないで、低迷する。

 そして、試合の時に、根性を出すようなすごい形相で臨ませる。生徒は気は張り詰めても、実力がなく、あっさりと負ける。要は、思いだけでは何もなしとげられないのに、そんなど根性さえあれば、なんとかなる、という精神論が日本では幅を利かせる。

 これは大問題だ。この精神論は、無能の勧めなのだから。日本人はこの精神論をよく行なう。そのたびごとに、非能率的なことをして、満足している。つまり、無駄かつ愚かなことをしている。これは、道徳教育では改めたい。

 私は、その日本的精神論を支える考えはどこから来るのか。ずっとわからなかった。

 なぜ日本人は、能力も才能もないのに、「気合があればできる。」、「根性があればできる。」、「強く思えば、それを成し遂げられる。」という精神論に走りやすいのか。

 この精神論は実に、多くの弊害を生み出している。一に、無理な事をやらせる時に、使われる。勝てる訳がない相手に、試合で勝つ時に、「根性」や「気合」、「やる気」があればできる、というが、大負けする。精神的に強くもてば、技術を覚えることもなしに、なんの工夫もしないで、何かか成し遂げらる、という風潮に戦中は至った。

 二、これは戦前、戦中にひどい使われ方をした。「根性や気合」を出すために、上官が殴ることは平気で行なわれた。それはスポーツ界に残るおかしな風習である。これらは、改めなくてはいけない。この精神論はいらない。

 これはどこからくるかよくわからなかった。「祈願」という風習からくるのか。しかし、最近、新しいルーツをみつけた。

 孟子の思想である。「誠意があれば、人に伝わる。」、という。誠意を示せば、なんでも相手に通じる。それが拡大解釈され、誠意が強ければ、最後にはそれを成し遂げられる。気合や根性があれば、なんでも成し遂げられる、というふうになったのではないか、と思う。これは、現在は"熱意"というのが普通である。欧米では、たぶん、熱意と理解されているものだ。

 この精神論の弊害は、子供にはよく教えたい。大人になってから、ど根性のスポコン無能指導者。根性と気合、やる気しかいえない社会人にさせないために。

 

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