教育論 道徳教育

 

 道徳教育論

 

 

道徳教育5  戦前の「修身」と平成の「道徳教育」はかけ離れている

 

2015-1-14 校正3/17

 

-- 道徳教育の再開は「修身」の復活という批判はあたらない--

 戦前の教育を調べるため、川西能勢口の書店で昨日、「国家神道と日本人」 (岩波新書、島薗進)と 「国民の修身」 (高学年用、産経新聞出版)進を立ち読みする。私は宗教が専門。修身を読むと、何が宗教教育か、がみえてきた。

 修身は主に3つ、1,天皇の話 2,国家の仕組み(国家論) 3,道徳がある。それぞれ説明しよう。

 

 天皇や神社、神話

 修身には、天皇の言動、歴史上の天皇の話、天皇に尽くした者達の話、神社の話がちりばめられていた。道徳の話にも、天皇の言葉が入り込んでいた。天皇は神であるから、天皇にみられても、恥じない生き方をせよ、とある。日本は天皇に守られている、という信仰もある。これは昭和の極端な神道である。明治は、攘夷運動という排外主義的な暴力態度が、神道に入り込んだ。神社参拝や、天皇に向かって礼をする習慣が学校にあり、天皇崇拝を強制していた。これら神社の教育のようなものが国家神道だ。

 北朝鮮の主体思想が修身に似る。それは、天皇崇拝を金日成崇拝におきかえたような代物だ。金を「建国の父様」と心から慕い、その写真を額にいれ、教室に飾る。行事ごとに、金将軍の統治や、彼の人民への思いやりに感謝する。そして、金から贈り物を受け取ると涙を流して恩を感じ、報いる。金の廟や訪問先を神聖に扱う。国家神道がどういうものかわからない若者にとっては、北朝鮮の金崇拝が、わかりやすい例となる。共産主義という悪質な思想と、規律を重視した国家神道とは大差だが。

 

 国王は国家論の一部

 天皇を教えることは、許容される。天皇は国王でもある。帝国憲法から、天皇は国王だった。国家論では、国王の役割は欠かせない。イギリス、デンマークなどなど。国王に敬意をもつようにするための内容は許される。が、神道的なものは、近代国家では不可となる。この線引きが必要である。

 具体的には、イギリスは女王をどう教えているのか。デンマークやオランダはどうか。海外の王国と比較して、国王を子供に適切に教える方法を確立する。それは採用してもよい。ただ国王の役割を拡大解釈することは、正当ではない。

 修身では税を払うことが強調されていた。またお国のために、というのは江戸時代のお国(領主)のためにが、国に変わったものだろう。このあたり民は藩のことしか頭になく、国家観をもたなかった明治や大正の人々には、許容される。「お国のために」を天皇のため、と強調して、そういう教育がなされるから反対、という者達はそのルーツを知らない者である。

 道徳は儒教的、世界的

 修身は事あるごとに天皇の行動を教材にする。が、天皇を外さないと、現代には使えないだろう。なぜなら、徳は二宮金次郎、孔子、釈迦、それぞれ固有の徳を身に着け、行った人が模範だからだ。倹約と正直に努め、事業に成功した話では、そんな事業家を登場させるべきで、そこに天皇を参考にするのは変だろう。歴史的に語りつがれる天皇の徳は教材になりうる。それは数少ない。が、天皇を全ての徳の模範とするのは、不適切である。

 天皇は王家であり、精神の卓越者として有名な人物ではないからだ。現代の道徳論では、天皇に精神の理想をあまり見出さない。もっとよい偉人を参考にする。そのため、天皇崇拝は起こらない。道徳が天皇崇拝と結びつくと考えるのは、間違いだ。精神の理想は、ほとんど天皇以外の人物が模範となるからだ。

 修身はほぼ江戸時代に高められた儒教的な道徳である。それは本来、神道とは相容れない。修身に世界の偉人の訓戒もあった。道徳は、一部を修正すると、まだ通用するものもある。具体例は、江戸時代に活躍した人が多く、現代人にはわかりにくい。しかし、道徳的な生き方は、古くてもよい。仏陀やイエス、孔子の生き方は、現在なお模範であるから。

 あまりに現代人を参考事例とするのが、最近の教科書だ。が、それを学ぶと精神がギスギスしてしまう。古い時代の人はおおらかなので、その面は、習得させるほうがよい。特に、ストレスが多い日本人にあっては。

 まとめ
 修身の高学年は、前半、確かに天皇の活躍や神社の話が多かった。そこは明らかに宗教教育だ。神社のパンフレットや神道の教科書、国学のようだ。

 しかし、その次の章では国家論があり、公民の教科書のようだった。が、折にふれて天皇の言葉が引用されるのはよくない。国家制度についてしっかりと説明すべきである。国家論(税や国の仕事)は子供の考えそうなことに答え、わかりやすい。その点は現代の社会教科書は参考にすべきである。制度の理念を小難しく説明しても、子供にはわからないから。

 修身の最後は道徳的な話が続く。それは、江戸時代の人徳やたまに世界の偉人伝がある。道徳教科書としては、よく出来ているという印象だ。が、事例が古いから、今の子供にはわからない。これは、戦中のものではなくて、軍人の話はあまりなかった。

 修身について、保守系と左翼は議論がすれちがうのは、保守は、軍部の介入が進んでない第二次大戦前の修身を話題にするが、左翼は、戦中の軍人精神を叩き込む内容に切り替わった修身のみをあげつらうからだ、と気づいた。

 

 結論

 この修身を読んだだけで、当時の天皇崇拝の雰囲気は感じとれなかった。しかし、現在、科目にしようとする道徳は、これら修身が行なった国家神道のような道徳とはかけ離れていることは、はっきりとわかった。なにしろ、現代の道徳には、歴代天皇の行動や神社の歴史、参拝の話は、ほとんどないからだ。そんなことをとくとくと語れるのは、神社ガールや古墳ガールくらいではないか? 道徳が国家神道という誤解を解くためには、神社のパンフレットや神道の教科書を右手にもって、こんなことは道徳で教えません、と言えばよい、と思った。

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