教育論 道徳教育

 

 道徳教育論

 

 

道徳教育3  2015-1-9 校正 3/17 (修正必要)

 

人権教育は道徳の代替にならない 


 人権は、そもそも社会制度だ。精神理論ではない。日本人は、なんにでも「精神」とつける。憲法の精神、柔道の精神、平和の精神、囲碁の精神。人権にも同じように"精神"をつけ、"人権の精神"と、した。が、それを精神論と勘違いしてはいけない。人権は「精神論」ではない。フランス革命ではじめて国家に認められた社会制度である。

 人権の精神といっても、それは社会制度の意義や理念のことをさす。憲法で考えてみよう。"日本国憲法の精神"では、三権分立、民主主義、人権、政府、裁判、警察などが説明される。ほとんどは、国家の制度である。よって、"憲法の精神"は、精神論ではない。

 人権は、信教・思想、表現、集会結社の自由などある。それらは、精神論ではない。違いがわからない? 道徳は明らかに精神論だ。指導要領では、「親切」、「友情」、「善悪の基準」、「正直」、「勇気」、「節制」、「真理追究」などがある。こういう徳目が精神論であって、人権の理念にそういうことは書かれていない。

  人権は精神論ではない。それは内容を比較すると、一目瞭然だ。つまり、人権を教えても、国家制度の一種、人権制度についてよく知るだけが、人格がよくならない。これは自明である。

 人権は、国が国民に保障するものだ。国が、国民に人権を保護するように働きかけている。外的なものだ。精神論は、内的な規律だ。愛、信頼、尊敬、信仰など、心理的なものだ。心の法則なのだ。社会の法則は、社会慣習や法律、権利であるが、それは心の法則ではない。つまり、人権は、分類上、心の法則たりえない。

 よって、人権には内的な規律がほとんどないから、道徳の代替になりえない。つまり、人権教育をしても、心が美しく、勇気があり、正義感が強く、友情あつき、思いやりがある子供は育たない。

 人権を教えても、精神の優れた子供が育たない。それには他の理由もある。人権では、思想・信条、信仰の自由とあり、国が特定の思想を強要することは、認められていない。義務教育のように、バランスのよい知識を教育することはよいのだが、特定の知識は教えない。つまり、人権だけでは、それら精神の実質は教えられない。だから、人権を道徳教育の代替にすると、精神性は希薄になる。それはつまり人格の中身そのものが薄くなる。薄っぺらい人間になる。

 戦後、日教組が道徳教育を教えなくなった1980年頃から、しだいに学校が荒れだして、校内暴力が盛んになった。いまやいじめが陰湿化する。それは、子供の精神性の低下だ。

 

 それらいじめの増加は、管理教育が原因ではなく、道徳教育をなくしたことによって、引き起こされた。その間、人権教育はたくさん時間をかけたが、子供の精神は一向に改善しなかった。

 最近の左派は、思想・信条の自由を曲解して、道徳教育の反対論に使っている。国は道徳だけは何も教えてはいけない、と。が、算数、国語、社会は日本人の精神・思想基盤だ。日本人は誰でも、科学的な心をもち、日本人の伝統や歴史をよく知り、それが自身のアイデンテティーになっている。これらは国が教育している。つまり、国が思想を教えていることになる。日本人を日本人たらめしている多くは、歴史教育だが、それはよい。が、道徳だけはいけない、という。

 思想信条の自由では、学校で道徳も教えてよい。実は、現在教えられる道徳は、日本が長年の培った精神文化の一般的なものだ。特に、戦後に形成されたもので、天皇崇拝は排除している。国家や社会が許容するバランスのよい精神規律である。特定の思想や宗教に偏るものではない。左派はそういうことを知らないから、道徳を特定の思想のように、扱い、間違った主張をする。

 道徳は、人間を人間たらしめるもので、人間として生きられるようにするための教育である。人権では国は国民を一人一人を人間らしく生きさせる義務がある。そのために、生活保障もして、義務教育を受けさせる。ならば、道徳教育も、人間らしく生きるための自己を律する知識を教えることとして、人権の一つとして、国が国民各自に与えなくてはならない。

 道徳なき者は野獣で、感情に支配され、すぐに暴力をふるい、他人をいためつける。彼らは悪心に満ち、己のことだけをする。国民の規律の低い国は、すぐに暴徒が生じ、内紛が絶えない。国の法律も守らない。他人の人権も守らない。国は、こんな人間を大量に生産すると、社会が無法化して、秩序がなくなり、国が滅ぶ。よって、精神のあり方を子供に教えるのは、国が乱れないようにするためで、国のつとめだ。

 道徳教育は国家にとって必須、不可欠である。遵法精神の有無は、犯罪などに直結するからだ。人権が教えてはいけないとする偏った思想教育とは、あまりに極端なイデオロギーである唯物史観や反政府運動のほうである。道徳ではない。

 人権教育では中身がなく、精神性の薄い人間が育つことが、みえてきただろうか? 人権教育で育った子供達は、いじめばかりしている。それが人間同士のコミュニケーションだと思い違いをする。人権には、人間愛や正義、信頼、友情、節制、責任、勇気、希望といった精神の基本が一つもない。人権を学んでも、人権を守ることしかできなくて、心からよき人間になれない。人権教育は、道徳のかわりにならない。

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