発達心理 developmental psychology

 

 社会思想統合理論

 

社会思想の終焉2  次の思想は? 2015-2-3 、3/11、2017-7-22

 

次の思想は?

 

20世紀は社会思想の時代

20世紀を導いたのは社会イデオロギーである。一方に自由主義陣営がいた。人権と民主主義をもち、経済と文化は発展して、繁栄を謳歌した。他方には共産主義グループがいた。彼らは1914年にロシア王朝を乗っ取って悪名高き独裁国家ソ連を建国した。そして、東欧を傘下におさめ、恐怖で世界を支配した。共産主義は社会主義で、個人の自由と創造性を否定する制度だった。共産主義が統治した時から退潮が始まり、1992年に経済が破綻して、国が崩壊して、終わった。20世紀は、西と東の対立で、お互いが争った。そして、自由を認める社会制度の優秀さが示された。

 

 20世紀は社会イデオロギーの闘いに世界中があけくれていた。政治家も国家も、そして国民もが、自由を認める社会か、それを否定して国家が社会を管理する共産主義独裁か、どちらの社会論が正しいか。どう社会改革すればよいか? と論争した。これが、20世紀の人々の最大の関心だった。20世紀の合言葉は"自由"だった。それを求め続けた"社会思想の時代"だった。

 

社会思想が登場する以前は、人々は何に熱狂していたのだろうか?

  思想史では、人々が"自由"目覚めたのは19世紀だ。悪のマルクス、J.S.ミルが登場する前に、ヘーゲルが活躍していた。ヘーゲルは18世紀にドイツで"理性"を完成させた思想家だ。ヘーゲルの前の有名な哲学者はイマヌエル・カントだ。カントは純粋理性を明らかにした。

 社会改革に興味をもつ前、人々は「理性」を探求した。いかに、人間は理性を発達させて、万能なる理想の人格になれるか、神に近づくことができるのか。19世紀は、理性の時代である。

 理性の時代はルネ・デカルトに始まり、カントが理性論を高め、ヘーゲルで終わった。

 

現代までの思想の流れ

 

思想区分は大雑把にこうだ。

    「理性」    →        「社会」     →     ?
15-17世紀〜19世紀初頭      19世紀半ば〜21世紀初め   21世紀半ば〜

 デカルトからカント、ヘーゲル    社会思想の時代          


21世紀のはじめに社会イデオロギーの時代が終焉しつつある。人々が社会に関心をもったのは、19世紀からだ。が、社会改革を実践した期間は100年と少しで、他の思想より短かった。そして、21世紀に入り、社会改革をそろそろ完成させる。

 

 次の思想は?

 まずは、「次の思想」の条件をおさらいしたい。1,世界中の人々がそれに熱中する。20世紀は社会イデオロギーに経営者、哲学者、労働者、社会学者、大学生など世界中が熱く議論したように。2, それが世界を導く主導原理となる。世界を民主化する動きは、大きな力となった。

 

条件

1,世界中の人々がそれに熱中する。

2, それが世界を導く主導原理である。

 

この条件にあう思想とは何だろうか?

 人類は、社会の改革の次に、何を改良したくなるのだろうか? 人類は社会をよくすることを成就させたら、何に問題意識をもつだろう。何が不完全だろう。次に何をよくしようとするのか? 社会思想に飽きたら、次は何に関心を人々はもつのだろうか?

 わかった人はいるだろうか。これは宿題にしておこう。あまり難しく考えなくてよい。

 

マズローの欲求段階説から、次の思想を予想する

 

 人間は、知的欲求が満たされたら、何を求めるか? それは社会的な欲求を満たすことだ。もし、社会的な欲求を満足させたら何を求めるか? おそらくそれが次の思想テーマだ。マズローの欲求段階説を思い出す。答えは「自己実現」だ。しかし、まだ正解ではない。自己実現とは具体的には何か? それが答えである。

 

 共産主義の発展段階説は間違い

 共産の偽りを見抜けない人は、資本主義が終わったら、社会主義になる、と思っている。それは間違いだ。社会主義はとっくに終わっている。社会主義が終わると、資本主義が始まる。中国が資本主義を導入した、ソ連(社会主義)がロシア(資本主義)に変わった。それが真理だ。社会主義の次が、資本主義。それこそが社会発展の必然だ。

 

 ここは正確に理解しておこう。社会主義が終わると資本主義の時代になる。これは歴史法則であり、一般法則でもある。

 

 なぜ、社会主義のあとに、自由主義が始まるのか?

 こんな簡単なこともわからないのは頭が弱い人物だが、それを解説する。社会主義はどのように発展するか? 物事を一面的にみない人は、それは「統制」の発展だと考える。

 

 最初の段階では、国は政治組織のみしか統制できない。が、しだいに、その統制範囲を広げて、社会の隅々まで国家が統制する。ソ連は最初は、敵対する大地主や富豪を抹殺して、やがては文化人や知識人を殺し、しだいに、市民の反逆を監視して、人々の生活のまで管理したように。こう考えて、これこそが社会主義の発展。国家管理の浸透だと思う人は、社会主義者に多い。が、これは自由をだんだんきつく奪ってゆく様である。自由の減少ことが、社会主義の完成。これが、社会主義国の発展だと思うのは、大きな間違いである。この理論でゆくと、自由が完全に失せた時に、社会主義は完成する。最悪の社会が実現するわけだ。これが社会主義の理想となる。しかし、これは間近いなのだ。ソ連の共産主義者などは夢見た世界だが、間違いは間違い。

 

 国家組織としての発展は、また別である。中央の政権が整うと、今度は地方が十分に管理できてないことを知る。そして、中央が地方を直接、統治しようとする。しかし、それは無理だ。権力闘争で粛清と虐殺にあけくれるレーニンやスターリンが、地方など運営できない。彼らは、中央の権限を一部、委譲して、地方政府に任せる。簡単にいうと、地方自治体に自由を与える。社会主義の発展その一とは、地方政府に自由を与えることだ。

 

 次に、配給や経済、財政運営、軍事など、最初はレーニンなどが全部していた。が、1人の権力者がすべてできない。しだいに官僚組織に任せられる。それぞれの専門組織が生じてくる。官僚制度のことだ。統治は、しだいに分業化され、それぞれの専門家に任せられる。社会主義の第二の発展は、専門家に自由を与えることなのだ。これを行うことで、巨大な官僚機構が構築され、ソ連帝国を統治することができた。

 

 3番目の発展は、ソ連では起きなかった。官僚機構は、やがて硬直して、行き詰まった。人々の問題は何も解決されなくなり、配給は滞り、経済もしだいに悪化した。密告ばかりが行われ、暗黒社会になった。しかも、警察機構もまた官僚なので、それぞれ様々な許可など手続きが必要で、官僚組織はしだいに機能不全に陥った。

 

 そのまま硬直したのがソ連だ。その不自由さ、窮屈さを感じて、東欧から国外に大量に人々が逃げ出して、それをきっかけにソ連は崩壊した。第三の発展は官僚制度の比率を下げて、小さな組織に自由を与えることだった。それができたのは、中国である。中国は資本主義を導入した。それによって、中国は例外的に、社会主義においても発展できた。

 

 これら社会主義国家の発展をみたらわかるが、自由を委譲することこそが、成長である。順番に、地方、専門家、集団(企業)に。つまり、一度、個人から奪って国家が独占した「自由」。それを分配することが、社会主義の成長なのだ。社会主義は、自由化することで、発展する。社会主義は、自由主義を採り入れ、その度合を高めることで、自らの体制を変革することこそが、社会主義の発展だったのである。

 

 社会主義の最終局面とは、つまり、完全な自由主義体制に移行することである。すべての人に最大の自由がある。そんな体制でこそ人々は自由に活動する中で、創造性を発揮して、それが社会に採り入れられ、社会は技術や理論を高め、最大に社会が成長することができる。

 

 人々が完全に自由になった後に、突然、それら自由を再び奪って、独裁者が自由を独り占めしまうのは、起きない。それは、逆行であり、20世紀初頭にソ連がやったことで、その過ちの繰り返しなのだ。

 

 これでわかったろう。社会主義は、自由主義になって終わる。ソ連はそうだった。中国もやがてはそうなるだろう。社会主義は最終局面ではないのだ。自由主義の完全な達成こそが、最終段階である。それは、個人の自由が実現する社会のことだ。それは社会主義の対極なのだ。

 

 まだ理解できない人に一言。

 社会主義とはその本来の定義とは、「国有化」である。民間や個人の活動を禁止して、国家がそれらをとりあげて、運営する。社会主義とは、究極の不自由なのだ。そんな社会では人々は、機械の一部という奴隷労働者でしかない。そんな奴隷労働者の社会は発展できない。

 

 配給の完全な達成こそが、社会主義と考えるのは、それは定義の上からも間違いである。具体的に考えよう。大家族と核家族の違いは何か? 大家族はおじいちゃんが子供にこづかいをあげる(配給のこと)。核家族は母親が子供にこづかいをあげる(配給)。とそんなことは言わないだろう。大家族は、2世帯以上が住むという家族だ。社会主義は、国有化しているかどうかで決まるのだ。配給しているかどうかで決まるのではない。

 

 

 自由主義の最終局面が、個人の完全な自由の実現だ。これは、思想信条の自由、個人が自由に企業する自由、などだ。つまり、資本主義制度だ。資本主義とは、個人に自由に活動させる制度だからだ。お金の面で社会を論じるのは経済学であって、社会制度論ではない。資本主義とは、社会制度で論じる時は、自由が誰に与えられるかを問わなくてはいけない。というわけで、自由主義の一つが資本主義であり、両者はほぼ同じだ。

 

 社会主義のあとに、資本主義になる、という言い方もできる。それはまた人権制度の完成ともいえる。

 

 どちらも社会思想である。『社会思想』が終焉したら、どうなるか? という問題だ。社会思想そのものに魅力が失われている。その社会思想を探求する時代が終わりつつある。そうなったら、次は何があるか? そういう問題である。

 社会主義が終わったあとに、何があるか? 自由(資本)主義だが、それが全世界で実現した後に、次に何が始まるか? それを考えてみよう。

 私は、当然知っている。これは20年前に私の大学卒業論文に書いたことだから。

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