私の被害体験談


私の被害体験談

 私の体験談は、すべて私が体験した事実です。私は7年間、晴れた日も雨の日も、冷たい風の日も、母がなくなった日も、家族が結婚した日も、私が風邪で寝込んだ日も、電波を浴びせられ、つらい毎日をすごしてきました。それは誰も否定することはできません。もしこれが現実ではなかったらよいかと何度思ったことか。偏見と差別なく、読んでいただけたら幸いです。

はじまり

 はじめは94年7月から干渉低周波電波による被害が始まった。それから、ずっと、現在まで私は、心臓痛、頭痛で苦しんできた。犯人は、どうしようもない共産系犯罪者。私は当初、犯人が人間の心のない専門の共産系活動家だと思っていた。

突然、原因不明の心臓痛

  94年7月15日土曜の夕方、自宅にいた私は、突然、原因不明の心臓痛に襲われた。今まで心臓が長時間痛むことはなかった。おかしい、スカラー波だと思った。私は、92年に「有害電磁波の恐怖」という新書で、トーマスベアデンによるスカラー波兵器の報告書を読んでいた。(だが実際は、電波を干渉して、低周波を発生させる類だった。2005/5/12)そして、某雑誌を購読していて、とうとう来たか。そして左翼系の犯人がどこからか隠れて、私を電波で狙っていると、思った。不安と恐怖を感じた。当時、電波兵器はスカラー波兵器しか知らなかったから、そうみなしたが、現在では、干渉低周波電波を用いた兵器と考えている。電波による犯罪被害がその日から始まった。

おかしな心臓痛

 それから毎日24時間、心臓が痛んだ。南の方角に出かけると、痛みが大きくなった。遠くに外出すると痛みはかなり治まった。自分のいる位置によって、心臓の痛みが変わる。そんな心臓病は常識では考えられない。だから、絶対持病の類ではない。電波によるものだと確信を深めた。そして、犯人は南の方角にいると思った。一週間は、痛みはそれほど強くなく、耐えられると余裕をかましていたが、三週間もすると、心臓がひりひりしてきた。このままでは三ヶ月くらいで、心臓が弱り、発作で殺されると本気で心配した。殺人電波だと思った。

 

容疑者の家を見つけた日に、無言電話が

被害から2週間後、昼夜、心臓痛を我慢する毎日だったが、犯人は必ず見つけ出すと決意した。もっとも心臓が痛む電波が強い場所に犯人がいるだろうと自転車で探しにでかけた。そして、私の住む台地から降りて、南に一キロにある小さな住宅密集地にたどりついた。強くなる心臓が痛みを我慢して、おそるおそるその付近を自転車からおりて探した。ようやく一番心臓が痛くなる家の前についた。そこに××党のポスターを張っている掲示板があった。庭の洗濯物を見ると、若者の服と赤ん坊の服がほされていた。どうやら、専門の活動家ではないようだった。とうとうみつけたと思った。ばれると怖いから急いでそこを後にした。屋根に大きなアンテナをみつけることはできなかった。二度目にその付近を調べに行った時に、赤子を連れた若者をみかけた。すると、その日に、無言電話が三回かかってきた。ようやく犯人をみつけたと確信した。警察にはまだ届けなかった。警察には電波犯罪と言っても、相手にされないと思っていた。

心臓痛が突然やんで、今度は頭痛が始まった。

 被害から一ヶ月経った96年の1月に、心臓痛はぱたっとやみ、頭痛が始まった。やっぱりそれで、電波犯罪によるものだと思った。一ヶ月続いた心臓痛がある日に突然止まり、頭痛に変わるなんてことは病気では、ありえないからだ。強烈な頭痛だった。私は頭が痛くて、ぼぉっとして何もすることができなくなった。命の心配はなくなり、少しほっとしたが、頭痛で毎日ぼんやりした。親に電波を浴びせられているといっても、電波犯罪など知らない親からは何の心配もされず、逆に、変人扱いされ、差別と偏見の目で見られた。

電波を出す家がどんどん周辺住宅地に増える恐怖

96年3月頃から、頭痛は徐々に強くなった。電波を出す家が増えた。私は、毎日、頭が頭痛でがんがんしたが、必死に耐えた。あまりに痛くて、一日中寝ているだけで、食事時に、力をふりしぼって起きる。そんな日もあった。家の中にいると、一番きついから、ふらふらになりながらも外出して、頭痛を和らげる。そんな毎日だった。だんだんと意識もぼんやりするようになった。ひどいことに、南のほうばかりではなく、東のほうに行っても、頭痛が強くなった。どの方角に出かけても、頭痛は強くなった。この当時のことは、ただ苦しかった以外には、あまり覚えていない。わたしは大学卒業後、体調を崩して、難病にかかり、ずっと実家で療養していた。さらに、この頭痛が私の体調悪化に拍車をかけた。が、家にこもるのは精神的によくないから、毎日散歩していたが、足元はいつもふらふらだった。しかし、頭痛は一向におさまる気配はなかった。だんだんと東西南北どの方角に出かけても頭痛はおさまらなくなった。犯人の電波を中継し、増幅する犯罪機器が、増えているようだった。犯罪者がどんどん近隣に増えてゆくことに、たまらなく不安になった。

警察に相手にされず

97年に、勇気をもって、警察に被害届けを出しに行ったが、電波犯罪被害と犯人とおぼしき場所の地図まで提出したのに、「マスコミを動かしたら、警察も動ける。」と、あしらわれた。警察は犯人から狙われ動機を聞いたが、そこの会員でもなかった私に思い当たるのは、某雑誌をとっていることくらいしかなかった。ただそれだけの理由で狙われたのである。後で教えられたが、雑誌購読者のリストが何者かによって盗まれたそうである。つまり、私は雑誌に共感することによって狙われた。つまり、思想信条で差別され、電波を浴びせられた。こんなことがあってよいのだろうか。

尾行の恐怖

 ある日、公園に散歩にゆくと、バンの車がのりつけ、電柱の影からカメラを手にした中年男をみかけた。当時、写真からターゲットの周波数を取り出すようだった。とても怖かった。

 電車に乗ると、いつも誰かがついてきて、怖かった。私は電波が出て入る場所がわかったから、よけいに怖かった。

怪奇光

 私は97年の夏頃、夜九時頃、また強い頭痛が始まったから、その発信場所をつきとめようと東のほうに外出した。ばれないようにおそるおそる迂回して近づいた。すると、もっとも痛みがある場所の近くから大きな建物が見えたが、その中階のある部屋では、カーテンが閉められていて、中は見えないが、カーテンには七色の光が錯乱して映っていた。電波機器から七色のビームが発せられる。それを始めて知った。その日から、そこからの強い電波で一週間,苦しめられた。私は初めて、電波機器から発せられる光をカーテンの裏側に見た。

突然、頭痛が弱くなったが、

97年8月ほどになると、突然、楽になった。今まで、近隣一帯で、私一人を集中的に狙っていたが、ほとんど狙ってこなくなったからだ。どうやら電波機器が、電波を増幅するだけではなく、狙う対象を自由に選ぶ機能がついたらしかった。私を狙う者はほとんどいなくなり、はじめから狙っていた連中と近所だけとなりかなり減った。それでも、かなりの数はあったと思う。頭痛が和らいで、ほっと一安心だった。

眠らされた日々

 近所に子どもがいた。が、まさか子どもは犯罪しないと思っていた。が、期待は外れた。近くから電波を浴びせられた。そのせいで、毎日、ぼおっとして、眠くなった。何もできず、寝てばかりいた。今でも、東南から電波が届き、とあるソファに座るといつもすぐに眠くなる。催眠電波を出す家が近くにある。

日本発の電波犯罪告発サイト

98年6月頃に、私は知人の若者を誘い、日本で初めて、インターネットのサイト上で電波犯罪を告発した。彼が書いた文面は科学理論のところのみである。ほとんど私が、書いた。ほとんど私の被害体験を通して得たことを発表した。が、三ヶ月で閉鎖した。

盗聴が始まった

98年9月から盗聴が始まった。頭骨が振動するから、何か音を読み取っていると思った。そして、私が犯人とめぼしをつけていた近所の苗字をしゃべったら、なぜかすぐに心臓が痛くなった。当時、めったに心臓痛になることはなかった。しかし、それをするほどびびったのは、ばれたからだろう。それで盗聴されていることを確認した。犯人に情報を盗まれないように、私はしゃべる言葉を慎重に選ばなくてはならなくなった。その日以来、私のプライバシーはなくなった。

思考も盗聴された

98年10月、思考の盗聴が始まった。私が、犯人の名を意識しただけで、またもや心臓が痛んだからだ。会話だけでなく、思考まで盗聴された。だから、犯人を刺激することは考えないようにしなくてはならなくなった。実に、迷惑だった。

引っ越ししても逃げられなかった。

2000年頃に近くに引っ越しした。それでも前から百メートルしか離れていない場所だったために、被害は変わらなかった。逆に、位置的に電波が当たりやすい場所だったために、被害は増えた。

電波防御グッズをサイトで発表

2000年頃に、私のような電波被害に苦しんでいる者が、少しでも楽な生活をできるようにと、「スカラー波防御グッズ」という電波犯罪から身を守る方法をインターネットで、公開した。一ヶ月ほどで閉鎖した。

電波機器を間近でみた。

 ダイエーで買い物をしていた。耳の前あたりに電波を感じた。盗聴の電波だ。犯人をおびき出そうと思った。そいつを『電波君』と呼んで、お前電波やりすぎだよとか、心の中で考えていたら、電波がだんだんと強くなってきた。どうやら、私に関心をもったらしく、隣のマンションから電波は出ていたが、近づいてきたようだった。怖いのを我慢して、いろいろ挑発することを考えていたら、とうとうそいつが近くに現れた。メガネをかけたやつだった。戸棚の後ろに隠れて、私を見ていた。何度かそういうふうに、つけ狙われたが、ある日、そいつが近くに隠れて私を観察しているとき、相手が油断しているタイミングを見計らって、陳列棚を回りこんで、そいつの手にしているものを見た。警備員がよくもっているタイプの長細い大型無線機だった。そこから強い苦痛となる電波が出ていた。私は、初めて電波機器を見た。この頃ではポケットに入るくらいにコンパクトだと思っていたのに、意外と大きかった。

救急車で運ばれる

 この頃だと思うが、突然、激しい腹痛が襲って、倒れこみ、やっと電話して救急車を呼んだ。そして救急車に乗り込んだ時には、額からたらたら汗が出ていたが、五分ほどで腹痛は急にまた止まった。救急隊員は、すぐに治ったので不思議がった。電波による腹痛だった。医者にも腹痛の原因は不明だった。私が電波のせいと言っても、医者は理解してくれなかった。

マスコミに訴えても

 2001年3月からニュース23に、投稿を開始した。毎日、番組の感想と提案をメールで送った。そして、四月頃に、私の被害と電波犯罪を始めて訴えた。返事はこなかった。

 2001年5月頃から、ニュース23への電子メール投稿をやめて、告発サイトのアドレスを伝え、そこで電波犯罪を訴えた。多くの人々に電波犯罪被害の苦悩をわかってもらおうと、自らの体験をベースに、電波犯罪をテーマにした小説「レッドパージ2000シリーズ」も書いた。

テレビから電波が

2002年5月10日、某公共放送のニュース番組を見ていたら、突然、ぼんやりした。テレビ画面から私を狙う電波を感じた。三度目だが、驚いた。そのテレビ局には、抗議した。

 それから、今も、まだ電波は私に浴びせられ、私の頭痛は小さくなったものの電波で私の私生活がのぞかれる毎日だ。

私の訴えが届いたところもあった

 私は95年末から、電波犯罪被害にあって、インターネットでサイトを作ったり、マスコミに訴えた。一般の電波犯罪者よりも詳しく、被害パターン、犯罪者の実像、をできるだけ正確に伝えた。そして、その犯罪と思しきものに遭遇した時に、勧誘を拒絶するように、訴え、その犯罪をもししていたらすくにやめるように呼びかけた。それはある方面ではかなりの効果をあげ、人目につく職業の人は、大方やたし、犯罪に関わらないようになった。それが電波犯罪を訴えた唯一の成果である。

私の7年間の悲痛

  私は、今も電波を浴びせられ、盗聴される。95年12月から、もうそんな苦しく、悲しみを一人耐えたつらい生活は、七年近く続く。その間、精神は深く傷ついた。が、電波は一度も止まることはなかった。そして、私は、怖くて行けない場所がたくさんできた。絶えず、誰かから盗聴されているという不安が頭から離れない。七年間、誰も私の被害を理解してくれる者はいなかった。同情すらされたことがない。ただ、電波犯罪のことを言うと、おかしなことを言うと蔑まされ、変人か精神病扱いされ、差別を受けた。私は体調がよくならず、働くこともできなかった。今なお、私には電波が浴びせられる。東西南北の四方八方から電波が届く。家のどこにも電波を避けて休める所はない。助けてほしい。

私の闘い

私は、一人闘ってきた。インターネットで最初に、電波犯罪を訴えたのは、私だった。誰もその訴えに耳を傾けてくれたものはいなかったけれども。電波から身を守るグッズ、全部、私が自分で考えたものだった。マスコミ向けの告発サイトを1年も運営したけど、マスコミから連絡が来ることは一度もなかった。それでも、あきらめず毎日毎日、訴え続けた。日本のマスコミだけではなく、外国のマスコミにも訴えたことがあった。ここ数年は、私は、一人で電波犯罪者と闘ってきた。

私の願い

私は7年間、共産イデオロギーの悪意ある電波によって、人権を侵害され続けた。見知らぬ誰かから届く電波の暴力によって、私は、苦しめられ、身体だけではなく、精神も深く傷ついた。電波犯罪者は、気軽にゲーム感覚で、電波を人に浴びせるが、被害者の苦痛やつらさ、悲しみを少しは考えてほしい。犯罪者は遊び半分で、電波機器のスイッチをひねり、飽きたら、すぐに電波のことは忘れてしまうが、被害者は地獄の苦しみが続く。私の7年間はつらい苦しく悲しいだけの毎日だった。犯人は、今すぐ電波機器の電源を切ってほしい。そして、名乗り出て、謝罪してほしい。そして償ってほしい。それでも、私の失われた7年は戻らないが、そうしてほしい。

私は、電波のない静かな日常に戻りたい。私の7年間を返してほしい。

03-1-21作成,04/4/13編集 校正 2015/4/19

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